ボストン虐殺事件

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ボストン虐殺事件を描いた版画。地元ボストンの画家ヘンリー・ペラムの原画をもとにポール・リビアが制作した。

ボストン虐殺事件(ボストンぎゃくさつじけん、Boston Massacre)とは、1770年3月5日マサチューセッツ植民地ボストンイギリス軍が民間人5人を射殺した事件のことである。この頃、既に植民地の住民はその3年前、1767年に成立したタウンゼンド諸法に強い不満を持っていた。イギリス軍と植民地の民間人との間の緊張は高まり、暴動を引き起こした。その最中、イギリス軍が民間人暴徒に銃を向け、射殺したのである。のちに独立戦争を引き起こすきっかけともなった事件の1つでもある。

事件概要[編集]

事件はキングストリートで始まった。かつら製造業の若い弟子エドワード・ガーリックが、イギリス軍の士官ジョン・ゴールドフィンチ大尉に散髪代の支払いが遅れていると訴えた。ゴールドフィンチ大尉はその日に支払いを済ませていたのだが、ガーリックに返事をしようとしなかった。ガーリックは1時間後にも苦情を大きな声で訴えていたので、税関の外で歩哨に立っていた兵士ヒュー・ホワイトがガーリックを呼びつけて頭を殴った。ガーリックの仲間が叫びだしたので、イギリス軍の軍曹が彼らを追い払った。弟子達は近くにいた者達を集めて戻ってくると、歩哨に侮蔑の言葉を浴びせ雪玉やくずを投げ始めた。 ホワイトは警衛部隊に応援を頼む知らせを走らせた。その日の当直トーマス・プレストン大尉は第29歩兵連隊から伍長1人と兵士6人を出動させ、自身も直ぐに現場に向かった。暴徒は数が増え、石、棒、氷の塊を投げ続けていた。一団の水夫と造船所の職工が大きな薪を持って現れ群衆の前面に出て兵士達に向き合った。周りの教会の鐘が鳴り、ボストン市民の群衆が更に大きくなり、威嚇的になった。 騒動の最中にヒュー・モントゴメリー兵士が氷の礫を受けて倒れた。彼はマスケット銃を空に向けて威嚇弾を放った。彼が後に弁護士に語ったところでは、その時「撃て!」と叫んだという。1人を除いた兵士が群衆に向けて発砲した。無差別の銃撃で11人が被弾した。即死は3人、数時間後に1人、また2週間後に1人が死亡した。他の6人は命を取り留めた。死者:ロープ製造業サミュエル・グレイ、水夫ジェームズ・コールドウェル、混血の水夫クリスパス・アタックス、17歳のサミュエル・メイブリック(群衆の後ろにいたが跳ね返り弾を受けて翌日死亡)、30歳のアイルランド移民パトリック・カー(2週間後に死亡)。事態の収拾のために翌日イギリス軍当局はすべての軍人を町の中心部からボストン港のキャッスル・アイランド砦に移すことに同意した。

イギリス軍人の裁判[編集]

事件後、プレストンと兵士たちは逮捕され、サフォーク郡地方裁判所で裁判が行われた。ジョン・アダムス、ジョシア・クインシー2世(Josiah Quincy II)、ロバート・オークミュティ(Robert Auchmuty)の3人が弁護側についた。サンプソン・サルター・ブロウワーズ(Sampson Salter Blowers)は陪審員の選定を行った。そしてマサチューセッツ植民地の首席検事、サミュエル・クインシー(Samuel Quincy)と私立弁護士ロバート・トリート・ペインはボストンの町当局に雇われる形で検察側についた。陪審員全員をボストン町外の者から選んだため、裁判は1ヶ月遅れて始まった。

まず、陪審員はこの事件における射殺はプレストンの命令によって行われたものではないと判断し、プレストンを無罪とした。次いで1人の兵士が銃を全く撃たなかったという事実があったため、検察側は兵士各人の罪を証明しなければならなかった。この段階で、陪審員は6人の兵士を無罪とし、モントゴメリーとマシュー・キルロイ(Matthew Killroy)の2人の二等兵を殺人で有罪とした。本来ならば死刑に処せられるはずであったが、「聖職者の特権」(benefit of the clergy)というイギリス法の規定により減刑され、親指への烙印だけで終わった。

歴史的意味[編集]

グラナリー墓地にある、事件の犠牲者の墓碑。碑にはこの事件で死去した5人の名が彫られている。

一方、サミュエル・アダムズら独立派は、この事件を「ボストン虐殺」と呼び、反イギリスのプロパガンダとして用いた。彼らはこの事件によって浮かび上がった問題は犠牲者の数の多少ではなく、イギリス政府が軍隊を常駐させ、イギリス議会によって制定された、植民地の法制度に真っ向から反する法律を軍隊の力によって施行しようとする政策にあると主張した。カーを除く4人の合同葬は、その当時の北アメリカでは最大の群集の集まりとなった。翌1771年から1783年にかけては、ボストン町当局はこの事件を忘れないために毎年この事件が起こった日に式典を行った。アメリカ独立宣言の文中にもボストン虐殺事件に対する不満が述べられている。しかし、この事件の裁判で弁護を勤め、のちに第2代大統領となったジョン・アダムスは、その弁護について、「私の人生の中で、最も勇敢で、寛容で、人間的で、公平無私な行動であり、また国に対して行った最善の行いのひとつであった」と述べた。しかし同時に、アダムスはこの事件の歴史的重要性についても認識しており、「アメリカ独立の礎となった」と述べている。

今日では、この事件が起こった場所は、「ボストン虐殺地跡」としてフリーダムトレイル沿いの名所になっている。ボストン虐殺地跡はデボンシャー通り(Devonshire Street)とステート通り(State Street)の交差点付近、旧州会議事堂の真向かいに位置している。

参考文献[編集]

外部リンク[編集]