アルゼンチンの歴史

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アルゼンチンの歴史(アルゼンチンのれきし)では、アルゼンチン共和国歴史について述べる。

先コロンブス期(先史時代-1516年[編集]

先インカ期(先史時代-15世紀[編集]

アルゼンチンの最初の住民は、紀元前11000年にアジアからベーリング海峡を渡ってやってきた人々だった。彼等はパタゴニアに「手の洞窟」を残している[1]

先インカ時代の15世紀以前からも、山岳地帯には、ケチュア系、アイマラ系の先住民(インディオ)が、ケチュア語パンパと呼ばれた草原地帯や、同じくケチュア語でチャコと呼ばれた北部のサバンナ地帯にはチャルーア族や、グアラニー族といった狩猟民族や、原始的な農耕を行う部族が居住していた。

インカ帝国による征服(15世紀-16世紀[編集]

アイマラ族が15世紀に築いた、アルゼンチン北西部ティルカラにあるティルカラのプカラ(石壁)。フフイ州

アルゼンチン領域は、インカ皇帝トゥパク・インカ・ユパンキワイナ・カパックの遠征によって征服され、タワンティンスーユ(インカ帝国)の一州であるコジャスーユに組み込まれたものの、北西部のアンデス山脈地方においてさえもインカ帝国の権威は強くなかった。インカ時代においてもアルゼンチンは辺境の地であったといえる。アルゼンチンにおけるインカ帝国の領域は現在のフフイ州サルタ州トゥクマン州カタマルカ州ラ・リオハ州サン・フアン州サンティアゴ・デル・エステロ州メンドーサ州北西部にまで及んでいた。

16世紀のスペイン人による発見直前の現在のアルゼンチンの地域には、草原地帯、山岳地帯共に約12の部族、合計24の部族を併せておよそ340,000人のインディオがいたと推計されている[2]。インカ帝国の一部であった北西部のアンデス地域が最も発展しており人口が多く、パンパには30,000人、パタゴニアには10,000人ほどのインディオがいたとされている。パタゴニアの名はフェルディナンド・マゼランが遭遇したインディオの足の大きいことに驚いたことから来ているが、パンパはケチュア語からであり、この草原地域にまでインカ帝国の影響があったことが窺える。アルゼンチンにおけるインカ文明の影響は、現在もアンデスのフォルクローレの代表的な曲『ウマウアカの男』に歌われるフフイ州ウマウアカ村のカルナバルなどに見てとれる。

スペイン植民地時代(1516年-1810年[編集]

創設期のブエノスアイレス
Argentinaの語の初出とされる、1602年のマルティン・デ・バルコ・センテネラによる叙事詩『アルゼンチンとラ・プラタ河の征服』。

1492年にスペイン王室に雇われたジェノヴァ人の航海家クリストーバル・コロンアメリカ大陸を「発見」すると、以後南北アメリカはスペインポルトガルイギリスフランスを主とするヨーロッパ諸国によって植民地化されることになった。

現在のアルゼンチンに相当する地域はトルデシリャス条約に基づき、スペインの優先権が認められていたために、アルゼンチンは1516年のスペイン人征服者フアン・ディアス・デ・ソリスの到来によって「発見」され、植民地化が始まった。1522年エステバン・ゴメスによるマルビーナス諸島の「発見」、1526年のセバスチャン・カボットの航海などを経て、1536年にバスク人の貴族ペドロ・デ・メンドーサによってラプラタ川河口にヌエストラ・セニョーラ・サンタ・マリア・デ・ラ・ブエン・アイレが建設されたことにより、スペインの定住植民地となった。ヨーロッパ人の到達以降、この地に居住していた人々は、自らがインドに到達したと思いながら死んでいったコロンに因み、「インディオ」(インド人)と呼ばれるようになった。

1536年に建設されたブエン・アイレは食糧不足とインディオの襲撃のため短期間で放棄され、ラ・プラタ川の中心は植民団の生き残りによって1541年に建設された現パラグアイのアスンシオンに移った。1553年現存するアルゼンチン最古の都市、サンティアゴ・デル・エステロが建設され、1580年にブエノスアイレスも再建された後、スペイン人は大西洋側、ペルー側双方から各地に都市を築き、都市ではヨーロッパ的な生活が行われ、アフリカアンゴラコンゴからバントゥー系の黒人奴隷が家内奴隷として導入された。一方農村部ではスペイン人と先住民の通婚が進み、メスティーソ(混血者)が生まれた。

全般的にこの地域にはポトシのような豊かな鉱物資源を擁する鉱山や、中米やペルーのように奴隷労働力として使用された多数のインディオを用意した先住民の古代文明、アフリカから黒人奴隷を導入しても採算の取れるような商品作物(砂糖カカオ)の生産に適した熱帯の土壌は存在しなかったことに加え、スペインとの直接の交易が認められず、ペルー副王領時代の交易はペルーのリマや、パナマを介して行われたため、スペイン人がこの地を開発する動きは余り大きくならなかった。また、1588年からイエズス会を初めとするカトリック教会が主に先住民にカトリックの布教を行い、現在のパラグアイやアルゼンチン北部、ウルグアイブラジル南部、ボリビア東部ではグアラニー族に対するイエズス会の布教村落が築かれた。アシエンダ制からなるラティフンディオ(大規模農園。アルゼンチン、ウルグアイではエスタンシアと呼ばれる)はこの時期に生まれることになる。

こうした中で、16世紀中にパンパに放牧されたをはじめとする家畜が自然に任せて大繁殖すると、以降この家畜から取れる皮革や肉、さらには農耕や軍事に使われる家畜そのものがラ・プラタ地域最大の商品となり、ブエノスアイレスを支えた。このような放牧を主産業にした産業構造は、現在までアルゼンチン、ウルグアイ、ブラジル南部の経済構造のみならず、ガウチョフォルクローレなどのような民衆文化にも大きな影響を残している。大西洋側でこのような牧畜経済が進展する一方で、内陸部にはアルト・ペルーポトシの消費市場を軸にしたワインや消費財の生産が行われた。

18世紀のモンテビデオ

1680年にポルトガルがブエノスアイレスの対岸にコロニア・ド・サクラメントを建設すると、現在のウルグアイに相当する地域(バンダ・オリエンタル)はアメリカ大陸においてスペインとポルトガルの勢力が衝突する最前線となり、1750年のマドリード条約のように帰属を巡る各種の条約が結ばれ、この地域はスペイン領とポルトガル領に帰属を幾度となく変更することになる。この構図は最終的に植民地時代を通して独立後まで続いた。

1759年にスペイン王カルロス3世が即位し、ボルボン改革を実施すると、改革の一環としてイエズス会を弾圧する政策を採ると1754年にグアラニー戦争が勃発した。イエズス会士とグアラニー族の敗北により、スペイン領ではイエズス会伝道所が築かれた地域から1767年にイエズス会が追放され(ポルトガル領ブラジルでは1759年)、この地に存在したイエズス会による宗教国家の様相を呈していた布教村落は滅亡し、スペインとポルトガル王権に組み込まれていった。

植民地時代を通してアルゼンチンの手工業(マニュファクチュア)の中心は、インカ文明の影響が残っていたサン・ミゲル・デ・トゥクマンサルタなどの北西部や、内陸部のコルドバであったが、カルロス3世によるボルボン改革の一環としてペルー副王領からこの地域は切り離され、1776年にリオ・デ・ラ・プラタ副王領として再編成された。こうして新たに副王領の首都となったブエノスアイレスでは、従来のようにペルーを経由しないヨーロッパとの直接貿易が進み、急速に成長した。ブエノスアイレスの成長が進むと、畜産品を輸出し、ヨーロッパの製品を輸入するために自由貿易を望むブエノスアイレスと、ラテンアメリカ市場における国産製品の流通を重視する内陸部諸都市の対立が生まれ、この対立を如何に解消するかが独立後の大きな課題となった。

18世紀後半の啓蒙思想や、その政治的表現となったアメリカ独立革命フランス革命は、ペニンスラール(スペイン出身者)に比べて低い地位に置かれていたラ・プラタ地域のクリオーリョにも大きな影響を与えていたが、ナポレオン戦争が勃発し、戦争による本国との貿易量の減少によって、アルゼンチンにおいてもヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国との間になし崩し的な自由貿易が実現された。イギリスはスペインが混乱に陥っている間にラ・プラタ地域を占領しようと1806年にブエノスアイレスに侵攻したが、この侵攻軍をクリオーリョ民兵隊が副王政府の力によらない独自の軍事力で打ち破ったことにより、クリオーリョ達により徹底した自由貿易への欲望からなる自治拡大の意識が芽生えた。1808年に勃発したスペイン独立戦争により、スペイン・ボルボン朝が崩壊するとこの自治の動きは大陸的な規模で拡大し、最終的にはラテンアメリカ諸国の独立に繋がった。

教育面では、1613年に内陸部のコルドバコルドバ大学が設立され、コルドバ大学は以降植民地時代を通して南米南部の教育の中心となった。

解放戦争と内戦(1810年-1829年[編集]

ブエノスアイレスの代表者 マヌエル・ベルグラーノ。ブエノスアイレスを中心とした中央集権主義を推し進める一方で、アルト・ペルーの解放に力を注ぎ、インカ帝国の復興をも実現しようとした。アルゼンチンの国旗の制定者でもある。
連邦同盟の代表者 ホセ・ヘルバシオ・アルティーガス。ブエノスアイレスの中央集権主義に対抗し、連邦同盟の諸州の先頭に立って戦い続けた。アルゼンチンの国旗に連邦主義の赤を加え、アルティーガスの旗を制定した。
1816年におけるリオ・デ・ラ・プラタ連合州 の勢力範囲。赤が連邦同盟。青が トゥクマン議会

1806年、1807年のイギリス軍のブエノスアイレス、モンテビデオ侵攻後、アメリカ独立革命などの影響を受けていたクリオーリョ達は、ナポレオンによるフェルナンド7世の退位とそれを契機に勃発したスペイン独立戦争によって生じた政治的空白を埋めるために、カビルド・アビエルト(開かれた市会)を開いて表面的にはフェルナンド7世への支持を標榜しながらも、5月25日に副王の退位と自治委員会(プリメラ・フンタ)の設立を決議し、実質的にペニンスラール(スペイン本国出身者)から植民地行政権を奪取した。この五月革命は、しかし、すぐに矛盾を明らかにした。つまり、植民地時代から続く都市のスペイン=ヨーロッパ的な文明生活と、地方のアメリカ=土着的伝統生活の差異は、ブエノスアイレスと内陸諸都市の対立となって新たな国家を形成する際に相互の対立をもたらし、「本質的に異なる二つの国家プロジェクトを持つアルゼンチンの共存」(アルゼンチンの文学者 アルトゥーロ・ソネーゴによる表現[3])は、独立時に国家形成のあり方を巡って大きな波乱を引き起こしたのである。1810年5月25日の五月革命から、1829年のフアン・マヌエル・デ・ロサスの登場による小康を挟んで1853年の自由主義者による憲法制定と、1862年の国家統一まで、特にブエノスアイレスを中心とするヨーロッパ的なアルゼンチンと、モンテビデオ、及び内陸部諸州を中心とする土着的なアルゼンチンの対立が続き、最終的に1880年の首都令により、ブエノスアイレスが正式に連邦の首都に定められるまでこの対立は続くこととなった。

五月革命は革命を指導した各指導者の展望も全くの不統一であり、早急に独立を目指したジャコバン的なマリアーノ・モレーノから、自治の拡大のみに意識を絞ったコルネリオ・サーベドラまで幅広い路線を抱えていたため、すぐに内部対立が生じた。独立派の勢力にも、君主制または立憲君主制の導入を試みた君主派、共和制による統一を試みた共和派があり、君主派の中でもスペイン王室から国王を迎えるべきだと主張するホセ・デ・サン・マルティンから、ベネズエラの独立指導者フランシスコ・デ・ミランダのように、インカ皇帝を復活させてインカ皇帝を元首とした立憲君主制の導入を試みようとしたマヌエル・ベルグラーノのような勢力まで千差万別だった。1816年7月9日トゥクマン議会で公布された南アメリカ連合州リオ・デ・ラ・プラタ連合州)の独立宣言にはベルグラーノが大きな役割を果していたが、アルゼンチンの独立宣言はスペイン語ケチュア語で発表され、インカ皇帝の復活が決議されたのである。そして、国家の公用語はスペイン語、ケチュア語、アイマラ語となる予定だった[4]

さらに、ブエノスアイレス主導の中央集権主義、つまり植民地時代から続く海外貿易のブエノスアイレス港による独占と自由貿易を認めることを軸に進んだ独立運動は、まもなく地方諸州に大きな困窮をもたらすことが明らかになった。五月革命はアルゼンチンとの自由貿易を望むイギリスによって祝福され、他方で自らもブエノスアイレスの大商人や大土地所有者だった独立指導者(サーベドラ、モレノ、プエイレドン、ベルグラーノら)もヨーロッパやイギリスとの自由貿易を望み、1810年から1816年の間に貿易の自由化が制度化されていった。これにより、植民地時代に発展していた内陸部の軽工業は、産業革命を進めていた安価なイギリス製品に自由競争で破れ(この時にイギリスのヨークシャー製のポンチョは3ペソ、国産のポンチョは7ペソだった[5])、地方諸州で失業と貧窮が広がることになる一方で、アルゼンチンの皮革や塩漬け肉の輸出と引き換えに、高価なヨーロッパ製の嗜好品がブエノスアイレスの上流階級にもたらされた。

ラ・プラタ副王領の中でもパラグアイアルト・ペルーバンダ・オリエンタル、コルドバは革命当初からブエノスアイレスの主導権を拒否していたが、ブエノスアイレスが制圧に成功したのはコルドバのみに限られ、パラグアイではマヌエル・ベルグラーノの遠征軍が1811年に敗れ、バンダ・オリエンタルは王党派の支配が続き、アルト・ペルーの解放も一向に進まなかった。このような経過の中で、自由貿易により困窮する地方勢力は1814年にバンダ・オリエンタル出身のホセ・ヘルバシオ・アルティーガス連邦同盟の下に結集することになった。アルティーガスはブエノスアイレス主導の独立運動を打破するために、共和派として各州が対等の立場でアメリカ合衆国のような連邦国家を形成することを望んでおり、さらにラテンアメリカの産業を保護するための保護関税や、雇用と国内市場創出のための支配地における農地改革の実践などの優れて反寡頭支配的な功績を残したが[6]、ブエノスアイレスとリオデジャネイロの寡頭支配層の挟み撃ちにあって1820年にポルトガルにより東方州が完全占領されると、アルティーガスは失脚した。これ以降、連邦主義はロサスやリトラル三州のカウディージョを代表とする、寡頭支配を望む大土地所有者による既得権益保護のための制度となった。なお、1820年の中央政府崩壊後のブエノスアイレス州でも1821年に州内務大臣になったベルナルディーノ・リバダビアの政策(永代借地法)により、土地の寡占化が進行することになった。

サン・マルティン将軍率いるアンデス軍チャカブコの戦い

このような情勢の中でアルト・ペルー遠征が最終的に失敗し、ベルグラーノが北部軍司令官を辞任すると、アンデス軍司令官となったサン・マルティンによりスペインとの戦いが継続された。サン・マルティンは1817年にチリへの遠征を行い、チャカブコの戦いマイプーの戦いチリとアルゼンチンの独立を保障した後、チリ軍の客将となって南スペインの南米支配の最大の拠点だったペルーを解放した。一方でアルゼンチン本国では、それぞれがガウチョカウディーリョの軍事力を頼みにしていたアルティーガスの連邦同盟と、プエイレドンのトゥクマン議会の内戦が激化していた。プエイレドンは1819年5月中央集権憲法を制定したため、地方諸州の蜂起を招き、失脚した。しかし、アルティーガスも1820年1月にタクアレンボーの戦いでポルトガル軍に敗れ、パラグアイに亡命した。このような情勢の中で1820年2月にセペーダの戦いでリトラルのカウディーリョは政府軍を破り、中央政府は崩壊した。

33人の東方人の誓い。

しかし、中央政府の崩壊の不利と、ポルトガル・ブラジル連合王国に支配され、シスプラチナ県改名されたバンダ・オリエンタルの奪回は地方諸州とブエノスアイレスを団結させるには十分であった。リトラル三州を中心とする旧連邦同盟諸州から東方州の奪還を求める声が強くなり、1825年1月にはブエノスアイレス州に外交権を認める基本法が制定され、4月にはフアン・アントニオ・ラバジェハ将軍率いる33人の東方人のバンダ・オリエンタルに潜入し、12月にはバンダ・オリエンタルを巡ってブラジル戦争に発展した。この戦争の中で一旦は統一派、連邦派の立場の違いを乗り越えた中央政府が再建され、連合州はリオ・デ・ラ・プラタからアルヘンティーナに国名を改名するが、初代大統領に選出されたベルナルディーノ・リバダビアの現実を省みない近代化諸政策は完全に裏目に出てしまい、政策の失敗はリバダビアの失脚、中央政府の崩壊、中央集権憲法の失効を招いた。失脚したリバダビアに代わってブエノスアイレス州知事のマヌエル・ドレーゴが戦争を継続したが、戦争そのものもイツサンゴの戦いの勝利などで有利に進んでいた戦局を生かせずに、1828年にイギリスの干渉によりウルグアイの独立を認める形で終結することになった。

教育面では、1821年にブエノスアイレス内務大臣となったリバダビアによって教育改革が進み、ブエノスアイレス大学(1821)が設立された。

ロサス時代(1829年-1852年[編集]

ブエノスアイレス州知事にして「独裁王」フアン・マヌエル・デ・ロサス。批判されることが多いが、パンパを代表とするアルゼンチンのもう一つの精神を体現していた人物である。1835年から1852年まで鉄の統治を敷いた。
ラ・リオハのカウディージョフアン・ファクンド・キロガ。後にサルミエントの著書『ファクンド』(1845)の中で野蛮(土着)の象徴として激しく攻撃された。

1828年にブラジル戦争の集結と引き換えにアルゼンチンの一部だった東方州ウルグアイ東方共和国として独立したが、国内の多くの勢力は未だにこれを認めず、そのためにドレーゴは銃殺された。ドレーゴを殺害した帰還将校のフアン・ラバージェは自らブエノスアイレス州知事となったが、統一派のラバージェが連邦派のドレーゴを殺害したことから両者の対立は一層深まった。両派の対立の中で翌1829年12月にラバージェを打倒して政権に就いた連邦派のロサスは、中央政府を築かずにブエノスアイレス州知事としてリトラル三州の連邦派カウディージョと同盟して連邦協約を結び、中央集権同盟を破ることにより連邦派の主導権を確立した。ロサスは1832年にサンタフェのロペスやラ・リオハのキロガらの地方諸州の連邦派カウディージョと同盟することによって全アルゼンチンを事実上統一した。アルゼンチン史ではこの1829年から1852年までをロサス時代と呼ぶ[7]

こうして確立された平和を背景に1832年にロサスは州知事を辞したが、自らも牧場主の大土地所有者であったロサスが権力を握ったことにより、この時期にアルゼンチンの大土地所有制は拡大することになる。州知事を辞したロサスは1833年に現ブエノスアイレス州南部の敵対的インディオに対して、ガウチョ、黒人、友好的インディオ、クリオージョからなる私兵を率いて討伐作戦を行った。この作戦により実に約6,000人のインディオが犠牲になり、このようにしてブエノスアイレス州は領土を拡大し、征服した土地はロサスの腹心達に分配された。

しかし、1835年に内陸部の連邦派の指導者、フアン・ファクンド・キロガが暗殺されると再び全土に内戦が訪れたために、ロサスは州議会の要請によって再びブエノスアイレス州知事に就任し、独裁権を握った。内陸部の連邦派との関係によりロサスは同年に保護関税制度を創設し、崩壊が進むアルゼンチン内陸部の諸産業(マニュファクチュア)を保護したが、これは国内産業の生産力の限界(国内市場を満たすことができなかった)により、1841年以降は徐々に国内市場を充足できない産業への保護政策は緩和されることになり、さらに1845年の自由貿易を求めるイギリス=フランス艦隊の攻撃によってロサスは保護貿易政策の放棄を迫られることにもなった。

多くの当時のアルゼンチン人と同様に、ロサスもまたブラジルイギリスの干渉が進むウルグアイ、パラグアイをアルゼンチンの領土であると考えていたが、1839年にアルゼンチン統一派と結びついたウルグアイのコロラド党政権によるアルゼンチンへの宣戦布告からはじまった大戦争をきっかけにして特にウルグアイに対して干渉を行うことになる。ラ・プラタ地域を勢力圏に入れることと、ロサスによるアルゼンチン市場の保護貿易政策の撤回を目論んだイギリス、フランス、及びロサスに敵対する国内勢力を敵に回しこの戦争は行われた。ロサスは国内の土着勢力との同盟、具体的にはアフリカ系アルゼンチン人ムラート秘密警察ラ・マソルカとして組織し、密告によって国家のヨーロッパ化、白人化を目論んでいた自由主義知識人や、農村からの収奪によってヨーロッパの文物の奢侈に溺れる不在地主を粛清し、ロサスに対する個人崇拝を徹底した恐怖政治による全体主義体制に近い独裁体制を確立することによって戦争を遂行し、1850年には両国を撤退に追いやることになった。

1850年の連邦協約の旗。

しかし、1833年にアルゼンチン領だったマルビーナス諸島は抵抗むなしくイギリスに占領され、さらに英仏撤退後、ファラーポス戦争(ブラジル最南部のリオ・グランデ・ド・スル州の分離主義抗争)を収めたブラジル帝国が再びウルグアイ、パラグアイへの干渉を進めるために干渉に乗り出した。ブラジルはブエノスアイレスの利益を中心に政治を行うようになっていたロサスと利害を分かち、袂を断っていたリトラル三州のカウディージョの代表だった フスト・ホセ・デ・ウルキーサと密約を結んだ。連邦派によるモンテビデオの攻略が迫り、ウルグアイのアルゼンチンへの併合も時間の問題かと思われた1851年にウルキーサはロサスに反旗を翻し、ブラジル=ウルグアイ=アルゼンチン統一派の同盟軍が1852年2月3日にロサスをカセーロスの戦いで破ることによりロサス時代は終わりを迎えた。土着文化との同盟によって独裁を行っていたロサスが失脚すると、以降のアルゼンチンでは自由主義者の手によって急速に近代化が進むことになるが、ヨーロッパ移民の導入と土着文化の弾圧によって上から押し付けられた近代化は、後の国民統合に大きな禍根を残すこととなった[3]

土着主義の敗北と国家統一(1853年-1880年[編集]

エントレ・リオスのカウディージョ フスト・ホセ・デ・ウルキーサ。連邦派でありながらもブラジルと同盟してロサスを裏切り、カウディージョでありながらも自らカウディージョ時代を終わらせた。
自由主義者 バルトロメ・ミトレ。1862年から1868年まで大統領を務めた。以降は連邦派の勝利の度に中央政府に反乱を起こすことになる。
最も代表的な自由主義(欧化主義)者 ドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエント。1868年から1874年まで大統領を務め、任期中に初等学校、師範学校の整備や識字率の劇的な改善が行われ、「教育の父」と呼ばれた一方で、ガウチョを「根性曲がりの二本足の動物」と呼び、土着文化を猛攻撃した。

1852年2月3日のカセーロスの戦いによってロサスが失脚したことは、アルゼンチンでは建国以来続いていた争いにおける近代化=西欧化の潮流の勝利を確定した。この流れに沿ってアルゼンチンは国家統一を達成し、19世紀後半から20世紀半ばまで南米随一の近代国家としてラテンアメリカ最強国としての立場を築くことになったが、この時代の大きな特徴としては、外交路線がロサス時代の国粋主義から、先進国との国際協調主義に移行したことが特に挙げられる。このことは1857年に制定されたある法律で、国粋主義を貫いて英仏との戦争を戦い抜いたロサスが「傷ついた祖国の罪人」と規定されたことによって象徴され[8]、以降マルビーナス戦争の敗戦によるロサスの公式な再評価までこの枠組みは継続した。

また、ウルキーサの時代に「統治とは植民なり」を信条にしていたフアン・バウティスタ・アルベルディによって事実上起草された1853年憲法は、第25条で「連邦政府はヨーロッパ移民を誘致すること」を定めた、世界でも稀に見る条項を持つことになった[9]。アルベルディは自国の経済政策において「豊かなパンパを抱えるアルゼンチンで工業化を目指すのはドン・キホーテ的な愚行」と述べ、後に大統領になるサルミエントも『ファクンド、文明と野蛮』の中で、アルゼンチンはパンパの農牧品を輸出してヨーロッパから工業製品を買うべきであると述べている。このような方針のためにアルゼンチンにおいて自主的工業化はそもそも果たされるべき目標にもならなかった[10]

カセーロスの戦いでロサスが失脚し、ウルキーサがアルゼンチンの実権を握ると、「1837年の世代」が亡命先から帰国し、以降自由主義者だった彼らによってアルゼンチンの近代化=西欧化が推進された。しかし、ウルキーサが連邦派の立場を捨てずにロサス以来のアルゼンチン連合を制度化する道を選ぶと、自由主義者はウルキーサを見限り、ブエノスアイレス州の実権を握ってブエノスアイレス州はアルゼンチン連合から離脱した。このため、ロサス失脚後もアルゼンチン連合とブエノスアイレス国が対立することになるが、1861年の9月にブエノスイアレスの指導者バルトロメ・ミトレパボンの戦いでウルキーサを破ると、双方は態度を軟化し、翌年ブエノスアイレスが自らの指導権を認めることを条件にアルゼンチン連合に加入することになった。


「アンデスのエル・キホーテ」こと、最後のモントネーロ(馬上の人) フェリペ・バレーラスペイン語版英語版
『我が子の遺体を看取るパラグアイ兵』ホセ・イグナシオ・ガルメンディアスペイン語版画。
ロカによる征服作戦が始まる前後のアルゼンチンの政治的領域区分。

こうして1862年にブエノスアイレスが指導的な立場を確保したままアルゼンチン連合に加盟することによってアルゼンチン共和国が成立し、アルゼンチン初の制度的な国家統一が実現された。自由主義者のバルトロメ・ミトレが共和国大統領になると、先進国との協調的な政治的姿勢が確定され、農牧業の労働力確保と人口の白人化のためのヨーロッパ移民の導入が本格的に始まることにとなった。その一方で国内では五月革命以来衰退が進んでいたアルゼンチン内陸部の国内産業はいよいよ崩壊し、自立的な工業化の発展への道は閉ざされることになる。つまり、アルゼンチンはこの時期に、世界経済の中枢であるイギリスに、穀物や牛肉を供給する代わりに工業製品を購入するための周辺国として世界市場に組み込まれることが確定したのである。このため、失業が広まる内陸部のラ・リオハ州からアンヘル・ペニャローサがブエノスアイレスの中央集権主義とミトレ政権に対して反乱を起こすが、すぐに連邦軍に鎮圧された。

1864年にブラジル、アルゼンチンによるウルグアイへの内政干渉を理由にパラグアイのフランシスコ・ソラノ・ロペス大統領がブラジルに宣戦布告すると、翌年ミトレ大統領にパラグアイ軍の領土通過を断られたロペスがアルゼンチンに宣戦布告したことによって三国同盟戦争への参戦がなされた。ミトレ政権は前述の先進国との国際協調的な立場からこの戦争を積極的に推進し、イギリスの仲介によってブラジル、ウルグアイと三国同盟を結んだ後に戦争のために連邦軍の制度化、軍備強化が進むが、一方で窮乏した内陸部から「地方人であることは、祖国も自由も権利も持たない奴隷である」ことを掲げたフェリペ・バレーラスペイン語版英語版がブエノスアイレスによる中央集権主義に対して、「三国同盟戦争への反対とラテンアメリカ諸国の連合」を旗印に反乱を起こした。しかし、困窮した地方諸州のカウディージョやガウチョによる反乱軍は整備された連邦軍により鎮圧され、1876年にリカルド・ロペス・ホルダンが敗れたのを最後にカウディージョの乱は終わりを告げた。

1868年に大統領に就任したドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエントはより一層この政策を推進し、「ガウチョをいくら教育してもイギリスの工員にすらなれない」、「ガウチョの血を一滴たりとも節約してはならない」と日頃から述べていたように近代化と土着文化への弾圧が進められた。三国同盟戦争は1870年に同盟側の勝利で終わり、パラグアイの滅亡と引き換えにブラジルとアルゼンチンはフォルモサ州ミシオネス州を併合した。サルミエントの政策は必ずしも民衆から支持を得ていた訳ではなく、現在でも「アルゼンチンの聖書」と呼ばれて国民的な人気を保っているホセ・エルナンデスのガウチョ叙事詩『マルティン・フィエロ』が完成したのはこの頃である。

1874年に就任したトゥクマン州出身のニコラス・アベジャネーダは、敵対していた土着的要素の中でも特にインディオを重視し、1860年にフランス人のオルリ・アントワーヌ・ド・トゥナンによってアラウカニア・パタゴニア王国が建国されるなど、パタゴニアにアルゼンチンの主権が及ばないことが他国(特にイギリス、フランス、同時期にアラウカニア制圧作戦を進めていたチリ)によるパタゴニアの植民地化に繋がるのではないかと懸念もあり、1877年に陸軍大臣のフリオ・アルヘンティーノ・ロカ将軍によって、「砂漠の征服作戦」が開始された。この征服作戦により、マプーチェ族を初めとするパンパのインディオ諸部族はアルゼンチン軍に敗れ、征服が終わった後は20万人のパンパ・パタゴニアのインディオ人口が2万人にまで減少した。この広大なパンパとパタゴニアの可耕地は、征服に参加したごく一部の人間によって分配され、リバダビア、ロサスと連綿と進められてきたアルゼンチンの従属資本主義的大土地所有制、一群の粗放な土地利用による生産性の低いエスタンシア群はここに完成することになった。

1880年4月の大統領選挙で対インディオ作戦の成功により人気を集めたトゥクマン州のフリオ・アルヘンティーノ・ロカが勝利するが、このことを不満に思った対立候補のブエノスアイレス州知事カルロス・テヘドールが6月1日に州軍、警察を総動員して反乱を起こした。

教育面では、「統治とは教育なり」を信条にしていたサルミエントは6年の任期中に小学校を1,082校から1,816校にまで増設、[11]女性教員の養成、師範学校の増設、陸軍士官学校、海軍将校学校の創設、各種博物館や研究所の創設に努めた。この措置により、1869年のアルゼンチン初の国勢調査の時点で80%を越えていた文盲率は急速に改善し、これによりサルミエントは「教育の父」とも呼ばれることになった[12]

急速な近代化と「移民の洪水」(1880年-1916年[編集]

フリオ・アルヘンティーノ・ロカ砂漠の征服作戦でパタゴニアを征服し、インディオ文化をほぼ消滅に追いやった。

テヘドール率いる反乱軍はアベジャネーダの指揮する連邦軍に追い詰められ、6月30日にテヘドールはブエノスアイレス州知事を辞任した。この勝利により、アベジャネーダは連邦議会の承認を得て9月21日に首都令を発し、ブエノスアイレス州からブエノスアイレス市を取り上げ、連邦直轄の首都に定めた。こうしてようやく建国以来長年の懸念だった首都問題が解決した。

こうして政治が安定すると、「1880年の世代」と呼ばれる一群のテクノクラートは国政に携わる中で、アルゼンチンを第二のヨーロッパに作り変えようとし、この時期に西欧化の主導権は彼等によって握られ、様々な分野でアルゼンチンの西欧化がそれまで以上に急速に進むことになる。首都令により、ブエノスアイレスが正式に連邦の首都に定められると、政治の安定によりそれまでの1853年憲法や移民法(1876年)、土地法(1878年)といった移民に便宜を与える諸法律が効果を発揮し、ヨーロッパ人移民の流入の速度が急速に上昇した。1880年から1929年にかけて、イギリス資本とヨーロッパ人移民が流入し、国内の未開のパンパが開発され、また冷凍船の導入により、ヨーロッパやアメリカ大陸諸国との牛肉小麦などの畜産物の貿易が盛んに行われるようになると、アルゼンチンの経済は著しく成長した。1900年にアルゼンチンの外国投資の内約81%がイギリス資本であり、この時期にイギリスの対ラテンアメリカ投資の約38%がアルゼンチンに振り向けられた[13]。このイギリス資本により全土に鉄道が建設され、1910年には線路の総延長は27,794kmに達した。

政治面ではこの頃に移民により無政府主義運動をはじめとする各種の社会主義思想がもたらされた。さらにはそれまでの全国自治党(PAN)による寡頭支配に抵抗して、急進市民同盟による民主主義の実践に向けた運動が、時には暴力を伴いながらも進展した。これにより、アルゼンチン連邦民主主義を強調するようになった。

このような外国資本と移民による経済の拡大は、確かに繁栄をもたらしたものの、一方で鉄道や農牧業といった基幹産業が外国資本の手中にあることはアルゼンチンの経済的対外従属を深め、また、輸出経済のこのような形での成立は少数の大地主を基盤とする寡頭支配層の確立をもたらした。以降のアルゼンチンの歴史はこのような諸問題を如何にして解決するかが大きな焦点となる。

アルゼンチンも独立後しばらくは他のラテンアメリカ諸国と同様に、今日のアルゼンチンよりも遥かにメスティーソの比率は高かったが、以下に挙げるような様々な要因、特に1871年から1913年までに定着した317万人ものヨーロッパ人の導入により、19世紀の内にアルゼンチンは都市を中心に人種構成までもが変わってしまった[14]。アルゼンチンのように移民を受け入れてきたアメリカ合衆国の外国人比率が15%を越えた年は一度もなかったが、1914年にアルゼンチンの全人口に対する外国人比率は29.9%にまで達していた。[15]現在「南米のパリ」と呼ばれるブエノスアイレスのヨーロッパ的な景観はこの頃に完成したものである。

1880年以降から急速に増加したスペイン、イタリアを主とする白人移民の「洪水」のような流入と元いた住人との通婚、戦争その他による黒人人口の減少、及び19世紀半ばのロサスとロカによるインディオ掃討作戦、特に後者の行った「砂漠の開拓作戦」の影響は大きく、この頃から急速に国内人口の白人化が進んだ。「砂漠の開拓作戦」により、それまで決して友好的とは言えなくとも、通婚を含む交流は日常的に続けられていたパンパのインディオは1/10にまで減少し、生き残りはネグロ川以南のパタゴニアの不毛の地に追いやられた。また、内陸部の山岳地帯や、チャコ、パタゴニアといった地方に住むインディオや、ガウチョカウディージョメスティーソアフリカ系アルゼンチン人、そしてヨーロッパ的生活に馴染まない農民や労働者といった大衆らはブエノスアイレスのブルジョワジーを中心とした国造りの中で、内陸部やブエノスアイレス周縁部の発展が犠牲にされ、土着文化が弾圧されるとやはり厳しい立場に立たされた。このように先住民をはじめとする土着文化への弾圧と同化政策には激しいものがあるものの、全体としてはアルゼンチンでは白人とインディオの混血が進むよりも虐殺の方が上回ったとは必ずしも言えず、近年の研究によるとアルゼンチン人の56%には先住民の血が流れていることが明らかになっている[16]。そしてこのような相対立する二つのアルゼンチンの成立は、一方でアルゼンチン人の外国人嫌いの感情や、土着的なものへの再評価をもたらした。

急進党の時代(1916年-1930年[編集]

伝説的なタンゴの歌手カルロス・ガルデル。ヨーロッパ公園で大成功し、タンゴを国際的な音楽にした。

1916年に大統領選挙によって急進党からイポリト・イリゴージェン大統領に就任したが、しかし政治の民主化を唯一の綱領としていた急進党にとっては政権に就いた時点でその当初の目標のほとんどを達成してしまったのであり、イリゴージェン政権には具体的な社会、経済に関する計画が欠如していた。

1916年から1922年までの第一次イリゴージェン政権では労使協調を基礎とする労働者保護政策が進められたが、その一方で体制に非妥協的な労働争議はそれまでのように弾圧を以て望み、パタゴニアの農民反乱では軍隊が出動し、「パタゴニアの悲劇」と呼ばれる虐殺が行われた。他方で経済的には国民主義を基調とし、「国家石油公社」が1922年に設立されたが、鉄道の国有化等は行われず、全体的に不徹底なものに留まった。イリゴージェン政権において特筆されるのは、1918年にコルドバ大学学生運動から始まった大学改革であり、学生側の発案により、イリゴージェンによって大学側が古いカリキュラムを改めることを認められ、この事件がきっかけになってペルーのサン・マルコス大学などをはじめとするラテンアメリカ諸国の大学改革運動が始まることになった。外交においてイリゴージェンは、第一次世界大戦にて、イギリスや国内保守派からの再三の協商国側での参戦要請にもかかわらず、ブラジルやアメリカ合衆国とは異なる独自外交実践のために国民主義的な政策を採って中立を維持した。

イリゴージェンの後は1922年に急進党からマルセーロ・アルベアールが大統領に就任した。アルベアールは保守的で、1924年の急進党のイリゴージェン派と反イリゴージェン派の分裂にも一定の理解を示したものの、イリゴージェン政権において漸進的に進められていた労働者保護が、婦女子労働法、相続税の導入により一層進められることにもなる。

急進党が分裂し、敗北必至とみられた1928年の大統領選挙でイリゴージェンが勝利すると、第一次イリゴージェン政権とは比べ物にならない速さで改革が実施されることになる。具体的には北部地域の鉄道を国家主導で進め、製鉄業を保護し、石油の国有化が行われた。また、教育面でも大衆教育拡充のために1,700校近い学校が増設された。しかし、1928年に既に76歳を迎えていたイリゴージェンにかつてのような体力はなく、指導力の低下により政権では腐敗が横行し、さらには翌1929年の世界恐慌に全くの無策だと判断されたため、1930年9月6日に保守派と結びついた軍事クーデターにより、イリゴージェンは失脚した。

生活面では第一次世界大戦後もヨーロッパからの移民は続き、1920年代を通して約80万人がヨーロッパから流入した。この頃には国家の富裕化を反映して1922年には非識字率が南米で最低水準の14%にまで減少し[17]、次第に人口に対する中産階級の比率が増加するなどの要素もあったが、この恩恵に与ったのは豊かになったブエノスアイレスとロサリオの住民だけであり、1930年代に困窮する内陸部からの国内移民が進む要因は既に出来上がっていた。

文化面におけるこの時期の特徴としては、それまでブエノスアイレスのラ・ボカサンテルモで育ったアルゼンチン・タンゴが、カルロス・ガルデルフランシスコ・カナロらの活躍により、パリニューヨークなどで世界的に大成功し、アルゼンチンの名を轟かせた。

スポーツでは、1930年にウルグアイで開催された第一回ワールドカップにて、アルゼンチン代表は惜しくも決勝戦でウルグアイに敗れてしまった。このことがきっかけとなって暴徒化したブエノスイアレスのアルゼンチンサポーターによりウルグアイ領事館が投石される事件が起き、両国の間で外交問題になった。1931年にはそれまでのプリメーラ・ディビシオンがプロ化し、ボカ・ジュニオルスが初代優勝クラブとなった。

「忌まわしき十年間」(década infame)(1930年-1943年[編集]

急進党のイリゴージェン政権に反発する軍部の保守派は寡頭支配層と結びつき、政権転覆の機会を窺っていたが、大恐慌にイリゴージェンが対処できないことが判明すると、1930年9月6日にクーデターが行われ、イリゴージェンは失脚した。

新たに政権についたホセ・フェリクス・ウリブル将軍はアルゼンチンにファシズム体制を築こうとしたが、1931年の選挙で敗北したことによりこの試みは頓挫し、代わって1932年に不正選挙で勝利したアグスティン・ペドロ・フスト将軍が大統領に就任した。

フストの政策は伝統的な大地主の利害を反映して対英追従を旨とし、1933年にイギリスとの間で締結されたロカ=ランシマン協定により、どうにかアルゼンチン牛肉の販路をイギリス市場(スターリング・ブロック)に確保したが、見返りにアルゼンチン資本の冷凍肉の対英輸出量が15%に定められるなどの多大な譲歩を強いられ、さらにはイギリスの権益を擁護するためのアルゼンチン中央銀行の設立(1935年)、イギリス系鉄道を競争から保護するためのブエノスアイレス交通市局法(1936年)、全国交通調整委員会法(1937年)の制定、さらには石油の独自精製を認められない形での石油産業への外資導入など、数々の譲歩が行われた。

このように選挙不正とイギリスへの譲歩により特徴付けられた1930年代は「忌まわしき十年間」(década infame)と呼ばれた。しかし、一方で従属するアルゼンチンを克服するための国民主義が主要な思想潮流となり、リサンドロ・デ・ラ・トーレやイラススタ兄弟、レオポルド・ルゴネス、オメロ・マンシらにより、国民の民族的覚醒と経済的独立への期待、反帝国主義思想が生まれた。しかし、これらの思想潮流は不正選挙により国政には反映されず、最終的にペロン主義に行き着くことになる。

また、1930年代を通して内陸部から国内移民がブエノスアイレスに移住し、ブエノスアイレスと困窮する地方の格差が拡大した。

1938年にはロベルト・オルティスが大統領に就任する。1939年に第二次世界大戦が始まると、アルゼンチンではロベルト・オルティスをはじめとする親連合国派の積極参戦派と、ラモン・カスティージョをはじめとする親枢軸国派の絶対中立派が対立していたが、1940年にカスティージョが政権を掌握すると、枢軸国に中立的な政策が行われた。しかし、アメリカ合衆国によるブラジル、チリへの兵器供与は、軍備の近代化の遅れを焦る青年将校に大きな影響を与え、1943年には親枢軸派の青年将校により統一将校団(GOU)が結成された。

ペロニスモの時代(1943年-1955年[編集]

GOU時代のフアン・ペロン(1945年)。
アルゼンチン現代史における重要人物 フアン・ドミンゴ・ペロン
エバ・ペロン(エビータ)。

1943年9月に行われる予定の大統領選挙にて、またも不正選挙が行われることを憂慮した統一将校団(GOU)が、親枢軸中立を掲げて6月4日に決起し、枢軸国に宣戦布告しようとしていたアルトゥーロ・ラウソン大統領を追放してペドロ・パブロ・ラミレス将軍が大統領に就任した。文民の支持なしに軍部内の主導権のみによって行われたこのクーデターは、1943年にアルゼンチン史上初めて工業生産が農業生産を上回っていたように、当時自発的に進んでいた工業化の要求に応えることとなった。このため、このクーデターは単なる軍事クーデターに留まらず、社会や経済の変革をも包括することになった。

クーデター後フアン・ドミンゴ・ペロン大佐が陸軍次官と国家労働局長に就任し、「上から」の積極的な労働者保護政策を打ち出した。翌1944年1月にラミレス政権が枢軸国と断交すると、このことがペロン大佐を中心とするGOUの非難を呼び、2月にラミレスは失脚し、3月にペロンの友人で副大統領だったエデルミロ・ファーレルによる政権が成立した。このことはアルゼンチンの中立を放棄させようとするアメリカ合衆国の怒りを招き、合衆国によるファーレル政権不承認と経済制裁が発動されたが、この露骨な内政干渉がかえって国民を団結させ、積極中立を擁護するペロン大佐の人気を高めることになった。枢軸国の最終的な敗北がもはや明らかとなった1945年3月27日に、ファーレル政権はナチス・ドイツ大日本帝国に宣戦布告したが、この頃にはペロンは自らをアルゼンチンの主権と、労働者の権利を擁護する存在としてイメージ形成し、ペロンの思想はペロニスモ、ペロンの支持者はペロニスタと呼ばれるようになっていた。

1945年8月に戒厳令が解除されると、ペロンの政策をファシズムだとみなした急進党、社会党共産党や、アメリカ合衆国大使スプルーレ・プレイドンらは積極的にペロン批判をはじめ、10月9日にエドゥアルド・アバロス将軍の率いる軍内の反ペロン派がクーデターを起こし、ペロンを幽閉した。しかし、このクーデターはペロン派のCGTや労働者の行った「10月17日の集会」により失敗し、ペロンは釈放された。この時点でペロニスモは、ペロニスタによる「下から」の大衆運動となった。

1946年2月の大統領選挙で、労働党から出馬したペロンは保守党、急進党、社会党からなる民主連合を破って勝利し、6月4日に大統領に就任した。1947年に労働党は正義党(ペロン党)に改組された。

ペロン政権は「社会正義、経済的自由、政治的主権」を掲げ、権威主義的に米州機構からの脱退に代表される独自外交路線や、国防の強化のための重工業育成を図り、1947年から1951年までに第一次五ヵ年計画が行われた。この頃ペロンが「金の延べ棒がごろごろしていて中央銀行の通路は歩けない」と豪語したように、大戦中に蓄えられたアルゼンチンの外貨保有量は終戦直後は世界一であり、この莫大な外貨を梃子にして工業化と福祉政策が進められることになる。このような経済的国民主義により1946年には電話会社と中央銀行が、1948年にイギリス資本の鉄道が接収された。しかし、第一次五ヵ年計画は設備投資や技術導入の不足により重工業化に失敗し、繊維産業などの軽工業を発展させたに留まり、工業偏重政策のために農牧業の生産も落ちてしまった。更には戦闘的労働組合の経営介入や、無計画な福祉による労働者のモラルの低下は国庫支出の増大と共に投資の減少を引き起こし、1930年代に見られたアルゼンチンの産業の自主的な民族的発展は停止してしまった。また、外貨も1949年には使い果たしてしまうことになる。

このように1949年から1950年にかけての経済危機により、ペロニスモの危機は明らかになっていたが、1952年にペロンは憲法改正により連続再選した。しかし、大衆のペロンへの支持は次第に失われてゆき、同年労働者から聖母のように慕われていた妻のエバ・ペロンが急死したこともペロン政権への大きな痛手となった。1953年に開始された第二次五ヵ年計画では農牧業を重視した方向転換が図られ、また、アメリカ合衆国資本の流入を認めることになった。しかし、この措置はそれまでの反米的な姿勢と矛盾するものであり、ペロニスタ内部の批判が募ることになる。内外からペロン政権への攻撃が強まる中で1954年に離婚法を制定したことは、ペロン政権にとって命取りとなり、カトリック教会と敵対して1955年6月にペロン自身がローマ教皇に破門されると国民に大きな動揺が広がり、最終的に9月16日にエドゥアルド・ロナルディ将軍のクーデターによってペロンは追放された。

このようにペロン政権は寡頭支配層と労働者の対立を強調したものの、その一方で農地改革などの寡頭支配の基盤を切り崩す政策は行われず、また、行き過ぎた労働者保護により労働者の被害者意識と階級対立を強めてしまい、後の国民統合に大きな禍根を残すことになった。

暴力と衝突の時代(1955年-1982年[編集]

アルゼンチン、及びラテンアメリカを代表する革命家 エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナキューバ革命に携わった後、ラテンアメリカ革命のためにボリビアに潜入したが、1967年10月に戦死した。

1955年のクーデターによりフアン・ペロンが追放された後、エドゥアルド・ロナルディ将軍はペロン主義との和解を訴えたが、この路線は反ペロン派の反対にあって実現せず、同年就任したペドロ・エウヘニオ・アランブル大統領により、ペロン主義と軍部、寡頭支配層の間の亀裂は決定的なものとなった。以降アルゼンチン史は数十年に渡り、この巨大な亀裂によって規定され、暴力と混乱が社会の至るところに表出した。

また、軍部、寡頭支配層による弾圧が進むに連れ、ペロニスタ内部での変質が生じ、ペロン時代にペロンが農地改革を唱えたことはなかったのにもかかわらず、1962年にはその綱領に農地改革が盛り込まれるなど、次第にペロニスタ内部での左傾化と中産階級化が進んだ。[18]このことは、ペロンが1967年10月にアルゼンチン人の革命家チェ・ゲバラボリビアイゲラで戦死した際に、ゲバラを「ラテンアメリカ革命の生んだ最も優れた英雄」と呼んだことに象徴される。こうして左傾化したペロニスタは次第に闘争戦術を激化させ、工場占拠や、暴力革命を目指すゲリラ組織設立にまでエスカレートし、軍部とペロニスタ双方のテロにより多くの犠牲者が出た。

このように、ペロンの残した社会、経済制度の不備もあって、南米最富裕国だったアルゼンチンは、1960年代頃から徐々にアジアの新興国だった日本大韓民国台湾などのNIES諸国、そしてブラジルチリといったラテンアメリカ内での競争相手に追い抜かれることになる。

暴力と衝突の時代(1955年-1966年[編集]

ペロン追放後1955年9月23日にエドゥアルド・ロナルディ将軍は臨時大統領に就任し、ペロン体制で実現された労働者の既得権を認めることを含めて、国民的合意を訴えた。しかし、反ペロン派の軍人、政治家、知識人はこのような穏健策には納得せず、同年11月13日に彼等の主導権によって強硬な反ペロン派のペドロ・エウヘニオ・アランブル大統領が就任し、ペロニスタへの大弾圧が行われた。こうしてペロニスタ指導部は次々と逮捕され、賃上げは抑制され、経済拡大のための外国資本導入が図られ、1956年にはペロンが制定した1949年憲法が破棄されて1853年憲法が復活した。これは、アルゼンチンの社会経済体制をペロン登場以前の状態に戻そうとするための試みだったが、「寡頭支配層の復讐」とも呼ばれるこのような政策は、ペロンの政策により明確になった労働者大衆と富裕層との間の亀裂を、より大きなものにしてしまい、以降アルゼンチンは数十年に渡りこの対立が巨大な政治的不安定要因となる。

1958年に急進党非妥協派から就任したアルトゥーロ・フロンディシ大統領は、当初ナショナリズム路線を標榜して、ペロニスタの支持を取り付けることによって当選したものの、石油産業開発のために外資導入が不可欠があることを認めると、同年12月に外資法を制定し、外国資本の積極導入による重工業発展のモデルを目指したことがペロニスタに批判された。さらにキューバ革命後のカストロ政権への制裁反対や、1961年にウルグアイのプンタ・デル・エステでの米州機構の総会でキューバの閣僚となっていたチェ・ゲバラと会談したことが反共的な軍部の反感を買い、1962年に軍事クーデターによって追放された。

ホセ・マリア・ギドの暫定政権の後に、1963年7月に急進党人民派から当選したアルトゥーロ・イリア大統領はナショナリズム政策を採ったが、これがインフレ、外資不足を招き、さらに左傾化したペロニスタによる工場占拠などの実力行使は社会不安を招いた。このため、イリアは1966年6月にクーデターで失脚した。

アルゼンチン革命の挫折(1966年-1973年[編集]

コルドバ暴動(コルドバソ)。

1966年6月にクーデターで大統領に就任したフアン・カルロス・オンガニーア将軍は、「アルゼンチン革命」を掲げて外国資本を導入し、緊縮政策でインフレを抑制した。アルゼンチンでもブラジル型の官僚主義的権威主義体制が成立したのである。この経済政策は当初は成功し、ブラジル同様に外国資本の大流入による著しい工業成長が1970年まで続いた。

しかし、オンガニーアの強権的な弾圧政治でもブラジルの軍事政権がコスタ・エ・シルヴァ将軍の時代に達成したような、国民的な抵抗運動の完全な排除にまでは至らず、1969年5月にコルドバ大学学生運動から始まったコルドバ暴動(コルドバソ)が国内諸都市に波及し、鎮圧のために軍隊が出動するとオンガニーア政権は厳しい立場に立たされた。さらにオンガニーアの就任と時を同じくして、1960年代初頭にキューバ革命の影響を受けて成立したゲリラ組織が隣国ウルグアイのトゥパマロスの影響などを受けて復活し、ペロニスタ武装軍団アルゼンチン解放戦線をはじめとする都市ゲリラが跋扈するようになった。特に、1969年に「青年ペロニスタ」から分離独立したモントネーロスは、1970年5月から6月にかけてペドロ・エウヘニオ・アランブル元大統領を誘拐、暗殺し、この事件が軍の決定的な離反を招いて同年6月8日にオンガニーアは失脚した。

オンガニーアの後を継いで同年6月18日に大統領に就任したロベルト・マルセーロ・レビングストン将軍は、オンガニーア時代の弾圧政治に終止符を打ち、軍部、労働組合、テクノクラートの国民的合意により民族産業を発展させることを目標にしたが、長年の政治的混乱によりこの目標は果たせず、1971年3月の第二次コルドバ暴動により失脚し、同年3月26日にアレハンドロ・ラヌーセ将軍が大統領に就任した。

ラヌーセ大統領はアルゼンチンの政治、経済の大混乱がペロニスタと軍部の泥沼の抗争にあると見て、ペロニスタを議会政治の枠に戻すことにより「国民的大合意」を図り、軍部の抵抗がありながらもマドリードに亡命中のペロンと連絡を取って、ペロンの直接出馬を認めないものの、正義党の出馬を認めた大統領選挙が1973年3月11日に実施された。

ペロンの復権(1973年-1976年[編集]

1973年3月11日の大統領選挙により、正義党からペロンの秘書エクトール・ホセ・カンポラが勝利するとカンポラは同年5月25日に大統領に就任した。18年振りの正義党の勝利後、カンポラはすぐにキューバとの国交回復、東側諸国との国交樹立、外資系銀行7行の国有化などの左翼ナショナリズム政策を採ったが、しかし、カンポラ政権はこのように左傾化したペロニスモを代表していたために、ペロニスタ右派との内部分裂が激しくなってしまった。こうして分裂したペロニスタ統率のために、ペロン自らが大統領に就任することが求められたため、7月13日にカンポラは辞任し、9月23日に実施された大統領選挙で60%以上の支持により、三度フアン・ペロンが大統領に就任した。

就任当時78歳で心臓病を患っていた第三次ペロン政権は、しかし都市ゲリラの活動やインフレに対して効果的な対策を打ち出せず、社会協約体制の再現、新外資法の制定、農地改革なき農業関係諸法の制定などの政策を行った。しかし、これらの政策は効果を上げずに20年前のペロン体制の復活を目指しただけで終わり、1974年7月1日に心臓発作でアルゼンチン史に正負共に多くの遺産を残した生涯に終止符を打った。

ペロンが死去すると妻であり、副大統領だったイサベル・ペロンが大統領に就任し、ここで世界初の女性大統領が誕生するが、イサベル・ペロンは都市ゲリラの跳梁やインフレに対して朝令暮改を繰り返すだけで全く有効な対処が出来ず、さらにイサベル・ペロンの顧問であったロペス・レガ社会福祉相は極右の準軍事組織(実質的な死の部隊)「アルゼンチン反共産主義同盟」(AAA)を結成し、政権にとって目障りな知識人や政治家、ジャーナリストを次々と暗殺することになり、このために左右両派のテロがさらに激化した。

こうした状況の中、1976年3月26日に陸海空三軍の軍事評議会が統治能力を失っていた政権に対してクーデターを起こし、イサベル・ペロンは失脚した。ラヌーセ将軍が提案した軍部とペロニスタの和解のための努力は、双方の無為無策のために水泡に帰すこととなった。

軍事独裁政権(1976年-1982年[編集]

1976年3月26日に軍事評議会がクーデターを起こし、陸海空三軍の推薦によりホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍が大統領に就任すると、アルゼンチンにも再び軍事政権が樹立された。ビデラ政権はこれまでの軍事政権とは異なり、「汚い戦争」を対ゲリラ戦略として採用し、反体制派、及びゲリラとみなされたものを非合法的な手段で徹底的に弾圧した。これにより、主だった都市ゲリラは壊滅し、治安維持に大きな成功を収めたものの、この過程で秘密裏に「行方不明」になった者は9,000人から30,000人にも上り、国民統合に大きな禍根を残した。ビデラ政権では経済面では再び官僚主義的権威主義体制が樹立され、オンガニーア政権で活躍したテクノクラートが再び登用され、テクノクラート主導による工業化を進めるために、ミルトン・フリードマン新自由主義に影響を受けたマルティネス・デ・オス経済相により、外国資本を積極導入し、市場原理を最優先する経済開発が進められたが、この政策は国内産業に甚大な被害を与えた。ビデラ時代には物価上昇と共に三ヵ月毎に賃金も自動的に上昇する賃金スライド制が導入されたが、これは効果に乏しかった。このような状況の中、1978年にアルゼンチンで開催されたワールドカップでアルゼンチンは初優勝し、世界的なサッカー強豪としての存在感を発揮してアルゼンチンにとって久々に明るいニュースとなるが、この時にアルゼンチンにワールドカップを観戦に来た外国人観光客の観察によって軍事政権による人権侵害が国際社会の明るみに出ることにもなった。1978年末にはチリのアウグスト・ピノチェト政権と、アルゼンチンとチリが相互に領有を主張するパタゴニアビーグル水道ピクトン島・レノックス島・ヌエバ島を巡って紛争直前の事態となったが、これはローマ教皇フアン・パブロ2世の仲介によって回避された。

ビデラ政権はインフレの激化や経済の極端な悪化のために、1981年3月に軍内民主派のロベルト・ビオラ将軍が大統領に就任したが、ビオラ政権下では数度に渡るペソ切り下げが行われ、インフレは悪化し、経済的な大失政の責任を追及されて1981年11月22日にビオラは更迭された。

ビオラの後を継いで同年12月11日に軍部強硬派のレオポルド・ガルティエリ工兵中将が大統領に就任したが、ガルティエリは権威主義的な性格が前二者よりも遥かに強く、さらにビデラ時代の賃金スライド制が廃止されたことにより国民の不満も高まった。ここに来てガルティエリは軍政存続のために、大きな賭けに出た。

マルビーナス戦争(1982年[編集]

ガルティエリ政権は、1833年のロサス時代にイギリスに占領され、実効支配され続けていたマルビーナス諸島(英語ではフォークランド諸島)への、1930年代以来国民的悲願となっていた領有権を再び大きく取り上げた。同年4月2日にアルゼンチン陸軍部隊がマルビーナス諸島に上陸すると、イギリス首相のマーガレット・サッチャーはこれに大軍を送って応じ、マルビーナス戦争が勃発した。

この戦争に際しては、帝国主義の残滓への抵抗という側面を重視したラテンアメリカ諸国を初めとする第三世界諸国からアルゼンチンへの支持が集まったが、アルゼンチン人が精神的な祖国として心理的に共感を抱き、頼みにしていたヨーロッパ(EC)と、軍事政権時代に様々な協力関係を構築していたアメリカ合衆国からの支持は得られなかった。それまでの独裁政治で明らかだったように寡頭支配層の利害を代表していた軍上層部が定めた非効率的な組織制度の中でも、徴兵により北西部を中心とする内陸部諸州から集められたアルゼンチン兵は勇戦したが、質に勝るイギリス軍によってプエルト・アルヘンティーノは包囲され、6月14日のアルゼンチン軍の降伏によってこの戦いは幕を閉じた。

敗戦と民政移管から経済崩壊まで(1982年-2003年[編集]

三国同盟戦争以来の本格的な戦争であり、建国以来初の敗戦となったマルビーナス戦争はアルゼンチン人の意識に大きな影響を与えた。特に、多くのアルゼンチン人のルーツであり、アルゼンチン人がアイデンティティを求めたヨーロッパ諸国(EC)がこぞってイギリスを支援し、逆に第三世界、特にラテンアメリカ諸国がアルゼンチンの立場を支持したことは、「南米のヨーロッパ」を自認し、ヨーロッパにアイデンティティを置いていたアルゼンチン人に大きな心理的影響を与えた[3]。また、多大な犠牲者を出した敗戦により建国以来かつてない程に反軍感情が高まることになったのも大きな特徴だった[19]

1982年6月17日にガルティエリは失脚し、後を継いだレイナルド・ビニョーネは1984年3月の民政移管を公約するが、それでも国民感情の爆発は抑えがたく、1983年10月30日に民政移管選挙は前倒しされ、12月に急進党から当選したラウル・アルフォンシンが大統領に就任した。

アルフォンシン政権は軍政の負の遺産とでもいうべき莫大な対外債務やハイパー・インフレ、さらには軍政時代に人権侵害を行った軍人の処遇やチリとの領土問題、マルビーナス戦争による国際的孤立など複雑な問題への対処を迫られた。1984年11月にはそれまで何度も一触即発の危機に陥っていたチリのアウグスト・ピノチェト政権と、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の仲介により平和条約を結び、ビーグル水道のピクトン島・レノックス島・ヌエバ島のチリ領有を認める大幅な譲歩を行うことで、平和路線を国外に印象付けた。さらにこのような平和路線を続け、ブラジルが1985年3月に民政移管すると、11月にジョゼ・サルネイ大統領と首脳会談を行い、翌1986年7月にはアルゼンチン・ブラジル統合議定書に調印して両国の長年に渡る敵対関係に終止符が打たれた。1985年5月にはアウストラル計画を実行し、インフレ抑制に務めようとし、一定の成果を挙げた。同年12月にはビデラ将軍をはじめとする軍人5名に有罪判決が下り、ラテンアメリカ史上初の文民による軍人への裁きが実現したが、このことは軍内の反発を呼び、未遂に終わったものの1987年4月と、1988年の1月と11月の三度に渡り軍部の反乱が起きることになった。しかし、全体としてアルフォンシンは軍部を文民の統制下に置き、大規模な軍縮を実現した。1986年にメキシコで開催されたワールドカップではディエゴ・マラドーナの特筆されるべき活躍により、アルゼンチンは二度目の優勝を果たし、軍事政権の負の遺産に苦しむ国民に大きな希望を与えた。順調かと思われたアウストラル計画は徐々に無理が露呈し、1989年になると、再びインフレが加速した。こうした事態に対処できなかったアルフォンシンは任期を5ヶ月残しての異例の退陣を行った。

1989年5月に労働者の支持を得て正義党から当選したカルロス・メネムは、選挙公約とは打って変わってそれまでのペロン主義とは180度異なる新自由主義を導入した。1989年に国家再建法、経済緊急法を制定して電話、航空、電力、石油、水道、ガス、鉄道、鉄鋼、年金などの各種部門を次々と民営化していった。1991年に経済相に就任したドミンゴ・カバーロが1ペソ=1ドル兌換法を導入すると、ハイパーインフレは収束した。これにより国民の支持を得たメネム政権は1994年に憲法を改正し、大統領の任期を6年から4年に短縮する代わりに一度に限って再選を認める制度を構築した。外交面では国際協調と親米政策を基盤とし、1991年の湾岸戦争にも南アメリカ諸国で唯一多国籍軍に軍を派遣した。また、1991年3月にアスンシオン議定書に調印し、ブラジル、ウルグアイ、パラグアイと共にメルコスールを設立することが宣言された。メルコスールは1995年に正式に発足した。1995年にメネムは再選したが、このような政策により任期の後半には赤字と対外債務が増大していった。また、民営化政策の恩恵に与れなかった多くの中間層がこの時期に没落していった。1999年の選挙でメネムは強引な憲法解釈により再び出馬を狙うが、ラ・リオハ銀行倒産の責任を取って出馬を断念し、1999年12月に4年の任期を全うして退陣した。

1999年12月に急進党からフェルナンド・デ・ラ・ルア大統領が就任した。しかし、経済の状況は予断を許さない程に悪化していた。2000年にはドミンゴ・カバーロが再び経済相に就任するが、もはや兌換法に効果はなく、2001年には中産階級の生活にまで影響を及ぼすことになると商店への略奪などが各地で発生し、治安が極端に悪化したため戒厳令が敷かれた。同年五月広場で起きたデモ隊と警官隊の衝突により12月21日にデ・ラ・ルアは失脚した。

経済破綻直後のブエノスアイレスでのデモ。

デ・ラ・ルア失脚の直後ロドリゲス・サアが臨時大統領に就任し、デフォールト債務不履行)を宣言するが、サアは八日間で失脚し、2002年1月に正義党のエドゥアルド・ドゥアルデが2003年12月までを任期に暫定大統領に就任した。ドゥアルデは固定相場制を廃止し、現金の流通そのものを規制したが、失業者は増大し、各地で道路の封鎖やデモが相次ぎ、不法にゴミを回収するカルトネーロスが街中に現れるようになった。このような状況にもはや対処できなくなったドゥアルデは2003年4月27日に選挙を繰り上げた。この選挙でカルロス・メネムが決選投票を辞退したため、正義党からネストル・キルチネルが当選し、5月25日に大統領に就任した。

現在のアルゼンチン(2003年-)[編集]

2003年5月25日に成立したネストル・キルチネル政権の下でアルゼンチンの情勢はようやく落ち着きを取り戻し、経済も安定に向かった。キルチネルはメネムやデ・ラ・ルアとは異なり、外交においては合衆国から距離を取り、メルコスールやベネズエラといった南米諸国を重視する外交路線を取った。また、債務再編も成功し、2006年1月にはIMFからの債務を完済して対外債務問題以外の債務問題は解決した。さらには年率約8%の高GDP成長もこれに追い風となった。

2007年10月の大統領選挙では現職のネストル・キルチネルの妻クリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネルが当選し、12月にアルゼンチン史上初の選挙で選出された女性大統領に就任した。

2008年現在のアルゼンチンは順調に見えるが、1990年代の新自由主義政策と経済崩壊によって没落した多くの中産階級の貧困化が今もなお続き、スペインアメリカ合衆国カナダブラジルなど外国への高学歴者の移住による頭脳流出の問題や、債務が再び増加に転じるなど課題は多い。

年表[編集]

日本との二国間関係[編集]

脚註[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ アルベルト松本 『アルゼンチンを知るための54章』明石書店、2005/09 p.18
  2. ^ アルベルト松本 『アルゼンチンを知るための54章』明石書店、2005/09 p.19
  3. ^ a b c 松下マルタ「アルゼンチン文化の諸相」『ラテンアメリカ人と社会』中川文雄、三田千代子 :編、新評論 1995/10
  4. ^ ワンカール/吉田秀穂:訳『先住民族インカの抵抗五百年史 タワンティンスーユの闘い』新泉社、1993/03
  5. ^ エドゥアルド・ガレアーノ/大久保 光夫:訳『収奪された大地 ラテンアメリカ五百年』新評論、1986/09 p.303
  6. ^ エドゥアルド・ガレアーノ/大久保 光夫:訳『収奪された大地 ラテンアメリカ五百年』新評論、1986/09 pp.212-218
  7. ^ 中川文雄、松下洋、遅野井茂男『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史II』山川出版社、1985/01 p.271
  8. ^ エドゥアルド・ガレアーノ/大久保 光夫:訳『収奪された大地 ラテンアメリカ五百年』新評論、1986/09 p.316
  9. ^ 中川文雄、松下洋、遅野井茂男『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史II』山川出版社 pp.278-281
  10. ^ 松下洋「序章2周辺国化のなかの民衆」『南北アメリカの500年(第3巻)』 歴史学研究会 :編、青木書店、1993
  11. ^ 中川文雄、松下洋、遅野井茂男『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史II』山川出版社 pp.284-285
  12. ^ 中川文雄、松下洋、遅野井茂男『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史II』山川出版社 pp.284-285
  13. ^ 中川文雄、松下洋、遅野井茂男『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史II』山川出版社 pp.291-292
  14. ^ 中川文雄、松下洋、遅野井茂男『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史II』山川出版社 pp.288-290
  15. ^ 増田義郎:編『新版世界各国史26 ラテンアメリカ史II』山川出版社 p.263
  16. ^ Henguy, Silvina. “El 56% de los argentinos tiene antepasados indígenas” (Spanish). Clarin.com. http://www.clarin.com/diario/2005/01/16/sociedad/s-03415.htm 2007年11月7日閲覧。 
  17. ^ アルベルト松本『アルゼンチンを知るための54章』明石書店、2005年 p.61
  18. ^ 中川文雄、松下洋、遅野井茂男『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史II』山川出版社 pp.373-374
  19. ^ 増田義郎:編『新版世界各国史26 ラテンアメリカ史II』山川出版社、2000/07 p.443
  20. ^ 増田義郎:編『新版世界各国史26 ラテンアメリカ史II』山川出版社、2000/07 p.119
  21. ^ 増田義郎:編『新版世界各国史26 ラテンアメリカ史II』山川出版社、2000/07 p.290

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]