チェ・ゲバラ

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エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ
Ernesto Rafael Guevara de la Serna
CheHigh.jpg
1960年3月5日(31歳)「英雄的ゲリラ」より
通称: チェ・ゲバラ
生年: 1928年6月14日
生地: アルゼンチンの旗 アルゼンチン ロサリオ
没年: 1967年10月9日(満39歳没)
没地: ボリビアの旗 ボリビア バジェグランデ地方イゲラ
思想: マルクス主義アメリカ主義ホセ・マルティによるもの)
活動: キューバ革命
所属: 7月26日運動
廟: チェ・ゲバラ霊廟
チェ・ゲバラのサイン

エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナErnesto Rafael Guevara de la Serna1928年6月14日 - 1967年10月9日)は、アルゼンチン生まれの政治家革命家で、キューバゲリラ指導者。

チェ・ゲバラ」の呼び名で知られるが、「チェ」は主にアルゼンチンやウルグアイ、パラグアイで使われているスペイン語リオプラテンセ・スペイン語をはじめとする諸方言)で「やぁ」、「おい」、「お前(親しみを込めた)」、「ダチ」といった砕けた呼び掛けである。ゲバラが初対面の相手にしばしば「チェ。エルネスト・ゲバラだ」と挨拶していた事から、キューバ人達が「チェ」の発音を面白がり付けたあだ名である。ラテンアメリカではキューバ革命以降「チェ」もしくは「エル・チェ (El Che)」(「el」男性定冠詞単数形)といえば彼の事を指す。

年譜[編集]

  • 1928年6月14日、アルゼンチン第二の都市ロサリオで裕福な家庭に生まれる。
  • 1930年 ブエノスアイレスに住んでいたとき、最初の喘息発作を起こす(2歳)。
  • 1932年 重い喘息のため、一家はコルドバ避暑地アルタ・グラシアに転居する。
  • 1941年 コルドバの高等学校に入学。喘息にもかかわらず、ラグビーサッカーなどの激しいスポーツを愛好した。
  • 1948年 ブエノスアイレス大学医学部に入学、アレルギーの研究を志す。
  • 1950年 北部アルゼンチンをモペッドで単独走破。
  • 1951年 アルベルト・グラナードとともに、オートバイで南アメリカをまわる旅に出てラテンアメリカをつぶさに見聞。(第一のラテンアメリカ放浪)
  • 1952年 南米旅行の最終地点ベネズエラカラカスで、アルベルトと別れ帰国して医学部を卒業することを決意。
  • 1953年 通常6年の課程を3年で終え、医師免許を取得。フアン・ペロン支配下で軍医になることを避け、カリーカことカルロス・フェレールとともにアルゼンチンを起つ(第二のラテンアメリカ放浪)。ボリビアで農地改革の現実を目撃。アルベンス社会主義政権下のグアテマラで出会ったペルー人社会主義者イルダ・ガデアの紹介で亡命キューバ人と知り合う。
  • 1954年 グアテマラのハコボ・アルベンス・グスマンによる政権がカスティージョ・アルマス大佐率いる軍部(アルマスはこの功績でグアテマラ大統領に祭り上げられる)にクーデターで倒され、怒りとともにメキシコに亡命。
  • 1955年 イルダ・ガデアと結婚
  • 1956年 長女イルディタ誕生。メキシコ亡命中のフィデル・カストロ、弟のラウル・カストロと出会い意気投合、従軍医として反独裁闘争に参加することを承諾。グランマ号(10人乗りのヨットに82人)でキューバに上陸(12月2日)、以後25ヶ月間におよぶゲリラ戦に従軍。
  • 1957年 反乱軍第2軍(75名)の指揮官少佐)、少佐の階級章(一つ星)をつけた黒のベレー帽は後年チェのシンボルマークとなる。ベレーには上下を逆にした騎兵章(交差したサーベル)を付ける事もあった。
  • 1959年 バティスタが国外逃亡しキューバ革命成立。キューバの国立銀行総裁に就任。イルダ・ガデアと正式に離婚し、志願して来たのを迎え入れて以来副官同然だった同志、アレイダ・マルチ・デ・ラ・トーレと結婚し4児をもうける。アジアアフリカの親善大使として来日、12日間滞在した。このとき、広島市原爆資料館を訪問し、「アメリカにこんな目に遭わされておきながら、あなたたちはなおアメリカの言いなり(対米従属)になるのか」と案内人に語った。
  • 1960年 著書『ゲリラ戦争』出版。ソ連を初訪問。
  • 1961年 工業大臣に就任。故郷アルゼンチンへ8年ぶり(最後)の帰国をするが、滞在時間はわずか4時間だった。
  • 1963年 アルジェリア独立一周年記念式典に出席。
  • 1964年 ベン・ベラ大統領の招きでアルジェリア訪問。12月11日国際連合総会でキューバ主席として演説[1]7月26日運動の合言葉『祖国か、死か!』を紹介する。
  • 1965年 国際的な革命闘争に参加するためキューバを離れる。アフリカ各地を歴訪し、コンゴでは一時的に闘争(コンゴ動乱)に参加。キューバ共産党中央委員会でカストロはゲバラから自分宛に遺された「別れの手紙」を発表。
  • 1966年 コンゴ動乱から引き揚げ、チェコスロバキアのラードビー(プラハの南東25キロにある町)に3月から7月まで、チェコ情報機関に匿われ滞在。「一つ、二つ……数多くのベトナムをつくるために」(1967年に公表されたメッセージの言葉)ラテンアメリカに戻り、変装してボリビアへ。ボリビアでの様子を記した日記は『ゲバラ日記』として死後刊行。
  • 1967年10月8日 バジェグランデ近郊のイゲラ村の近くで捕えられ、大統領レネ・バリエントス・オルトゥーニョの命令で10月9日に処刑(銃殺刑)された。39歳だった。
  • 1997年 死後30年目、ボリビアで遺骨が発掘され、ハバナに移送された。
  • 2004年1月25日 米国俳優ロバート・レッドフォードが、ゲバラの著作『モーターサイクル南米旅行日記』(邦訳・現代企画室)と、ゲバラの友人アルベルト・グラナードの著作『トラベリング・ウィズ・ゲバラ』(邦訳・Gakken)を下敷きにプロデュースした新作映画『モーターサイクル・ダイアリーズ』を携え、ハバナを訪問。遺族やハバナ市民が映画を鑑賞した。
  • 2007年10月8日 没後40周年式典や追悼式典がキューバのサンタクララなどで行われる。
  • 2008年2009年 死の二日前まで記された日記『Reminiscences of the Cuban Revolutionary(革命戦争の経過)』(邦題:『革命戦争回顧録』)を基にした映画『チェ 28歳の革命』『チェ 39歳 別れの手紙』が世界中で公開される。
  • 2010年5月22日、ゲバラを逮捕したボリビア陸軍のガリー・プラド (Gary Prado) 元将軍が、ボリビア東部の分離独立を画策するために右派の民兵組織を結成した容疑で、自宅軟禁措置を受けた。プラドは容疑を否認している。
  • 2011年6月14日、生誕83年にあたるこの日、永らく発表されていなかったキューバの革命戦争の時の日記がオーストラリアのオーシャン・プレス社から出版された[2][3]

生涯[編集]

幼年期[編集]

5才。伝統的なガウチョの服装で馬に乗る(1933年)
17才の時(1945年)

1928年にアルゼンチン第二の都市ロサリオバスク系アルゼンチン人アイルランド系アルゼンチン人の両親のもとに誕生する。父はアルゼンチン人のエドゥアルド・ラファエル・エルネスト・ゲバラ・リンチ、母はセリア・デ・ラ・セルナ・イ・ジョサ。

1824年シモン・ボリーバルアントニオ・ホセ・デ・スクレらのラテンアメリカ解放軍とアヤクーチョで戦ったペルー副王、ホセ・デ・ラ・セルナの末裔であり、経済的には恵まれた家庭であった。両親はカトリック国であるアルゼンチンの保守的な慣習にとらわれない比較的リベラルな思想の持ち主であった(母のセリアは無神論者でもあった)。

未熟児として生まれ肺炎を患い、2歳のとき重度の喘息と診断された。両親は息子の健康を第一とし、喘息の治療に良い環境を求めて数回転居している。幼い頃は痙攣を伴う喘息の発作で生命の危機に陥ることがあり、その度に酸素吸入器を使用して回復するという状態であった。しかしラグビーなど激しいスポーツを愛好し、プレイ中に発作を起こしては酸素吸入器を使用し、また試合にもどっていた。重度の喘息は彼を生涯苦しめた。医学生時代には友人と「タックル」というラグビー雑誌を発行し、自ら編集もつとめた。

青年期[編集]

ブエノスアイレス大学医学を学ぶ。在学中の1951年に年上の友人のアルベルト・グラナードとともにオートバイ南アメリカをまわる放浪旅行を経験した。旅の過程で、チリの最下層の鉱山労働者やペルーハンセン病患者らとの出会いなど、当時比較的裕福であったアルゼンチン以外の南米各地の状況を見聞するほか、ホセ・カルロス・マリアテギの著書に影響を受けマルクス主義に共感を示すようになった(このことは著作『モーターサイクル南米旅行日記』に記され、後にこれを原作として映画『モーターサイクル・ダイアリーズ』も制作された)。

1953年、大学卒業の25日後、友人のカルロス・フェレルとともに再び南米放浪の旅に出る。J.D.ペロン独裁政権下のアルゼンチンを離れ、当初はベネズエラのグラナードを訪れる予定だったが、ボリビア革命の進むボリビアを旅した際に、それまで虐げられてきたインディオが解放され、かつてないほど自由な雰囲気が漂っているのに大きな衝撃を受けた。その後ペルー、エクアドルパナマコスタリカニカラグアホンジュラスエルサルバドルを旅行し、ハコボ・アルベンス・グスマン時代のポプリスモ社会主義とする見方もある)政権下のグアテマラに行き着いた。グアテマラで医師を続ける最中、祖国であるペルーを追われ、グアテマラに亡命していた女性活動家イルダ・ガデアと出会い、共鳴し、社会主義に目覚め、急速にのめりこんで行くとともに、彼女と結婚する。

1950年10月の選挙によって成立したグアテマラのアルベンス政権は、スペイン植民地時代から続く構造化された収奪や、長きに渡る腐敗した独裁政権による社会の荒廃の改革を進めていた。アメリカ企業(ユナイテッド・フルーツ社)による搾取からの経済的独立や、グアテマラにおける農業資本主義経済確立のため、マヤインディオの復権のために、それまで半農奴的な扱いを受けていた土地無し農民への農地分与など、グアテマラ革命と呼ばれるほどの急進的な改革を進めていた。しかし、アルベンス政権がユナイテッド・フルーツ社の社有地に手をつけると、アメリカ合衆国内で猛烈なグアテマラへの非難が巻き起こった。アルベンス政権が軍部の裏切りによりCIAに後押しされた反抗勢力のカスティージョ・アルマスに倒されると(PBSUCCESS作戦)、民主的な選挙によって選出され、ゲバラが「ラテンアメリカで最も自由で民主的な国」と評したグアテマラの革命政権は崩壊した。この出来事が直接のきっかけとなり、ゲバラは武力によるラテンアメリカ革命を本気で志すようになった。

その後、アルマス新政権によってゲバラの暗殺指令が出されたため、妻のガデアとともに、失意と怒りを抱いてメキシコに移る。1955年7月、この地に亡命中の反体制派キューバ人のリーダーである、フィデル・カストロと出会う。7月26日運動を率いてキューバのフルヘンシオ・バティスタ独裁政権打倒を目指すカストロに共感したゲバラは、このとき、一夜にして反バティスタ武装ゲリラ闘争への参加を決意したとされている。こうしてスペイン内戦共和派の生き残りだったアルベルト・バーヨ中佐による本格的な軍事訓練を受けて、キューバ上陸への準備が進んでいった。

革命家ゲバラ[編集]

ラバに乗って 1958年11月、ラスビラスにて

妻と娘のイルディーダをメキシコに残し、単身キューバへ向かう。1956年11月25日、フィデル・カストロをリーダーとした反乱軍総勢82名はプレジャーボートグランマ号」に乗り込んだ。しかしこの「グランマ号」は8人乗りで、その10倍も詰め込んだ収容過多によって衛生環境などが劣悪となったことに加え、目立たぬよう、嵐の中出航したことなどもあり、7日後にキューバに上陸した時にはすでに体力を消耗し、それに伴い士気も下がっていた。さらに反乱軍の上陸をカストロが事前に発表し、計画の内容もキューバ政府に漏洩していたため、反乱軍は上陸直後に政府軍の襲撃を受けて壊滅状態となった。結局生きて上陸できたのは82人中、ゲバラ、フィデル・カストロ、ラウル・カストロカミーロ・シエンフエゴスなどを含む12人のみだった(生き残った人数が17人という説もある)。オルトドクソ急進行動の指導者で部隊の副官格のマヌエル・マルケスやバヤモ兵営襲撃の生き残りニコ・ロペス(ゲバラとカストロの仲立ちをした)ら多くの人間が拷問のすえ虐殺された。

上陸後、反乱軍はシエラ・マエストラ山脈に潜伏し、山中の村などを転々としながら軍の立て直しを図った。その後キューバ国内の反政府勢力との合流に成功し、反乱軍は徐々に増強されていった。当初、ゲバラの部隊での役割は軍医であったが、革命軍の政治放送をするラジオ局(ラジオ・レベルデ)を設立するなど、政府軍との戦闘の中でその忍耐強さと誠実さ、状況を分析する冷静な判断力、人の気持ちをつかむ才を遺憾なく発揮し、次第に反乱軍のリーダーのひとりとして認められるようになっていった。上陸から1年後の兵員増加に伴う部隊の再編成に際して、カミーロやラウルらを差し置き、カストロから第2軍(名前の上でだけは第4軍)のコマンダンテ(司令官。司令官の下に分隊がある。分隊指揮者は「隊長」)に任命され、指揮権と少佐の階級を与えられ、名実ともにカストロに次ぐ反乱軍ナンバー2となった。

革命成就[編集]

1959年1月2日、革命成就直後に

1958年12月29日にはこの第2軍300人を率いて政府軍6000人が迎え撃つキューバ第2の都市サンタ・クララに突入する。そこで、政府軍の武器と兵士を乗せた装甲列車を転覆させ政府軍を混乱させる。反乱軍を支援する多数の市民の加勢もあり、激戦の末にこれを制圧し、首都ハバナへの道筋を開いた。

1959年1月1日午前2時10分に、フルヘンシオ・バティスタがドミニカ共和国へ亡命し、1月8日カストロがハバナに入城、「キューバ革命」が達成された。闘争中の功績と献身的な働きによりキューバの市民権を与えられ、キューバ新政府の国立銀行総裁に就任するに至った。

日本来訪[編集]

1959年7月15日、31歳のゲバラはキューバの通商使節団を引き連れて日本を訪れた。当時の日本での知名度は低く、『朝日新聞』が「カストロ・ヒゲ[4]」と揶揄同然に報じたのみで、他社には無視された。7月23日には午前中に愛知県トヨタ自動車工場のトラックやジープ型4輪駆動車の製造ラインを見学、午後には新三菱重工の飛行機製作現場を訪れた。24日には久保田鉄工堺工場で農業機械の製作を見学し実際に農業機械を動かして試した後、丸紅鐘紡と回って夕方に大阪商工会議所主催のパーティーに出席した。この他にもゲバラは通商のために東京都内の帝国ホテル池田勇人通産相に15分間の会談を行い、ソニーのトランジスタ研究所や映画撮影所、肥料工場などを回った。

7月24日の大阪に泊まった際、広島が大阪から遠くない事を知り、翌日、神戸の川崎造船所を視察した後に、予定を変更してオマール・フェルナンデス大尉とマリオ・アルスガライ駐日大使を伴って全日空機で岩国空港に飛んだ。広島県職員案内の下、広島平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑に献花し、原爆資料館原爆病院を訪れたほか、広島県庁を来訪し、当時の広島県知事だった大原博夫と会談している[5]。娘のアレイダ・ゲバラも2008年5月に原爆死没者慰霊碑に訪れている[6]

なお、このゲバラの広島行に関しては、「市内のホテルで繊維業者と会う予定だったが、宿を密かに抜け出して夜行列車で広島に向かった」という説もある。しかし、この説を裏付ける証拠はオマール・フェルナンデスの主張以外にはなく、当時の通訳であった広島県外事課の見口健蔵が、飛行機での公式の来訪を語っているほか、1972年の段階で広島県総務課には当時の記録も残っている。日本語の全く分からない3人がこっそり抜け出して夜行列車に乗ることの不自然さ、無断で抜け出した場合の日本側の反応についての言及がないこと、カストロが一時的に首相を辞職するといったキューバ本国の政治的混乱の中で、使節団代表であるゲバラが、受け入れ国である日本政府や商工団体に対してそのような配慮に欠ける行動をとるとは思えない点、また、夜行列車で抜け出したにもかかわらず広島で県庁職員が待っているのは不自然でもあり、フェルナンデスの記憶違いもしくは脚色である可能性が高いと考えられている[7]

このとき、『中国新聞』の記者であった林立雄が単独取材した。その際ゲバラは「なぜ日本人はアメリカに対して原爆投下の責任を問わないのか」と問うたという。ゲバラが広島の状況をキューバに伝えて以来、同国では現在でも初等教育で広島と長崎への原爆投下をとりあげている。

日本各地を視察した後、27日に日本を発ってインドネシアパキスタンスーダンユーゴスラビアガーナモロッコを歴訪して9月8日にハバナへ戻った。翌年には日本とキューバの通商協定が締結され、現在も継続中である。

政治家ゲバラ[編集]

キューバを訪問したジャン=ポール・サルトルシモーヌ・ド・ボーヴォワール夫妻(左側の男女)と(1960年)

革命達成の1ヶ月後、旧バティスタ派の人々に対する裁判が行われ、およそ600人が処刑された。ゲバラは処刑の責任者を務め、さらに政治犯収容所の建設を指揮した。この時迅速に処刑を決断したのは、「グアテマラ革命の失敗は、軍内部にアルベンスへの裏切りがあったため」と後に語っている。6月には通商大使として独立したばかりのアジア、アフリカ、東欧などを歴訪し、各地で熱狂的に迎えられた。帰国後、農業改革機構工業部長および国立銀行総裁に就任。農地改革と企業の国有化を進めた。

1960年8月6日、カストロがアメリカの資本から成る石油関連産業を接収、国有化すると、これに対してアイゼンハワー大統領はキューバへの経済封鎖を行った。翌1961年4月にはジョン・F・ケネディ大統領がキューバ侵攻作戦を認可したため、プラヤ・ヒロン侵攻事件が勃発し、アメリカに支援された傭兵軍がPBSUCCESS作戦後軍事独裁政権が続いていたグアテマラからキューバに侵攻したが、ゲバラはカストロと共に侵攻軍を破った。この事件の後、5月1日にカストロはキューバ革命の社会主義革命化を宣言した。

ゲバラは各国に外遊を行い、8月にウルグアイプンタ・デル・エステで開催された米州機構の総会では、ブラジルジャニオ・クアドロス大統領から南十字星勲章を授与された。帰国後同年10月に、工業相に就任した。経済封鎖による資源不足、さらに社会福祉事業の無料化により経済が徐々に逼迫していく中、「生産効率の低下は人々の献身的労働によって補える」とし、自らも休日はサトウキビの刈り入れや工場でのライン作業の労働、道路を作るための土運び、建物のレンガ積み等、積極的にボランティアに参加した。しかしこうした行動も経済を好転させるには至らず、理想主義的なゲバラは徐々にキューバ首脳陣の中で孤立を深めていった。

1964年12月11日、国連総会にキューバ主席として出席。演説の中でこう述べた。

我らの人民は声を上げた、“もう十分だ”と。
この偉大な人民の行進は、真の独立を勝ち取るまで続く。
あまりにも多くの血が流されたからだ。
代表の皆さん、これは、アメリカ大陸における新たな姿勢だ。
我らの人民が日々上げている、叫び声に凝縮されている。
また全世界の民衆に支持を呼びかける叫びだ。特にソ連が率いる社会主義陣営の支持を。
その叫びとは、こうだ――“祖国か、死か!”

1964年12月11日、国連総会にて

1965年1月、各国との通商交渉のために外遊を行う。2月27日に独立の過程によりキューバの盟友だったアルジェリアアルジェで行われた「第二回アジア・アフリカ経済会議」において、ベン・ベラ大統領と共に起草した[8]演説を行い、当時、キューバの最も主要な貿易相手国だったソビエト連邦の外交姿勢を「帝国主義的搾取の共犯者」と非難し、論争を巻き起こした。3月に帰国後、キューバ政府は「ゲバラをキューバ首脳陣から外さなければ物資の援助を削減する」旨の通告をソ連から受ける。これを受けてカストロにキューバの政治の一線から退く事を伝え、カストロ、父母、子供達の三者に宛てた手紙を残してキューバを離れた。この事はしばらくカストロの側近以外には知らされず、半年後の10月3日キューバ共産党大会においてカストロが手紙を読み上げたことで、初めて世人に知られる事となった。

再び革命の戦いへ、そして死[編集]

ゲバラは1965年中にコンゴ民主共和国に渡り、コンゴ動乱後混乱が続く現地で革命の指導を試みたが、コンゴの兵士達の士気の低さに失望する。

コンゴでは喘息を再発、発作に苦しめられるようになり、1966年3月から7月までチェコスロバキアプラハ近郊の町ラードビーにて、情報当局に匿われながら潜伏していた[9][10][11]。偽名を使ったほか、髭を剃り落とし、髪を短く切るなどして別人になりすまし、ドイツ人らと滞在した。そこでチェコスロバキアの現状を目の当たりにし「これは社会主義ではなく、その失敗作だ」と述べたと伝えられている。7月19日にウルグアイのパスポートでチェコスロバキアを出国し、モスクワを経由して秘密裏にキューバに帰国した。

カストロとの会談の後、新たな革命の場として、かつてボリビア革命が起きたものの、その後はレネ・バリエントス軍事政権を敷いており、南米大陸の中心部にあって大陸革命の拠点になるとみなしたボリビアを選んだ。ボリビアと国境を接するアルゼンチン、パラグアイブラジルペルーチリに連絡組織が作られ、チリ社会党の指導者サルバドール・アジェンデはこれを支援した。1966年11月、ウルグアイ人ビジネスマンに変装して現地に渡る。

ボリビアでの最後の戦いにて
ゲバラが収容されたイゲラの小学校

独自の革命理論に固執したため、親ソ的なマリオ・モンヘ率いるボリビア共産党からの協力が得られず、カストロからの援助も滞り、また革命によって土地を手に入れた農民は新たな革命には興味を持たなかった。さらに、元親衛隊中尉クラウス・バルビーを顧問としたボリビア政府軍が、冷戦下において反共軍事政権を支持していたCIAと米軍特殊部隊「グリーンベレー」から武器の供与と兵士の訓練を受けてゲリラ対策を練ったため、ここでも苦戦を強いられる事となる。農民とは異なり、6月24日にカタビ鉱山では鉱山労働者がゲバラを支持する動きを見せるも、先手を打った政府軍がシグロ・ベインテ鉱区でサン・フアンの虐殺を行って労働者を制圧すると、ボリビア国内勢力からのゲバラへの支援は事実上失われた。

1967年10月8日、20名前後のゲリラ部隊とともに行動、アンデス山脈にあるチューロ渓谷の戦闘で、ガリー・プラド大尉率いる政府軍のレンジャー大隊の襲撃を受けて捕えられる[12]。部隊を指揮していた“ウィリー”シメオン・クバ・サラビアとともに、渓谷から7キロほど南にある村イゲラに連行され、小学校に収容された。翌朝、60キロ北のバジェグランデからヘリコプターで現地に到着したCIAのフェリックス・ロドリゲスがイゲラで午前10時に「ゲバラを殺せ」を意味する暗号「パピ600」の電報を受信[13]。午後0時40分にウィリーがベルナルディーノ・ワンカ軍曹[14]M1で銃殺された後、午後0時45分、政府軍兵士のマリオ・テラン軍曹[15]に右脚の付け根と左胸、首の根元部分を計3発撃たれたが絶命せず、最終的には別の兵士に心臓を撃たれて死亡した。死亡の証拠として両手首を切り落とされ、遺体は無名のまま埋められた[16]

銃撃を躊躇する兵士に向けて放った「落ち着け、そしてよく狙え。お前はこれから一人の人間を殺すのだ」が最期の言葉であった[17]

ゲバラのゲリラ戦術は、キューバでの実戦経験に裏付けられて完成されたものだった。少人数のゲリラで山岳に潜伏し、つねに前衛本隊後衛とわけて組織的に警戒し、必要があれば少人数で奇襲的な襲撃を仕掛けるというものだった。

死後の影響と「帰国」[編集]

コロンビア国立大学のチェ広場(サンタンデル広場)

ゲバラの生涯と思想は、反米的思想を持つ西側の若者や、冷戦下における南アメリカ諸国の軍事政権下で革命を目指す者たちに熱狂的にもてはやされ、その写真は1960年代の後半頃からTシャツポスターに印刷されるシンボルとなった。南アメリカ諸国の大学では、現在でもゲリラ時代のゲバラの顔を描いた大きな垂れ幕を掲げているところがある。

1997年、キューバとボリビアの合同捜索隊により、死後30年にして遺骨がボリビアで発見され、遺族らが居るキューバへ送られた。キューバではゲバラの「帰国」を迎える週間が設けられ、遺体を霊廟へ送る列には多くのキューバ国民が集まった。フィデル・カストロは長時間のスピーチで有名であるが、この時のスピーチは珍しく簡潔であった。遺体は霊廟に葬られた。

思想的にはラテンアメリカ解放の英雄シモン・ボリーバルホセ・デ・サン・マルティンホセ・アルティーガス英語版ホセ・マルティアウグスト・サンディーノらのアメリカ主義の系譜を引き継ぎ、同時代に同じ南米で生きたチリの革命家サルバドール・アジェンデとは、お互いを敬愛し続けたといわれた。また、ボリビアの山中で活動していた際にはトロツキーの全集を読んでいた。

冷戦体制が崩壊し、アメリカの後ろ盾を失った独裁者が南アメリカ諸国の多くから去った今日でも、ゲバラは南アメリカ諸国を始めとした第三世界では絶大な人気を誇るカリスマである。特にボリビアでは「イゲラの聖エルネスト」と呼ばれ聖人同然の扱いである。ゲバラが最期を迎えた小学校は現在記念館として開放されている。

日本でもゲバラの肖像写真などがプリントされたTシャツが売られている他、サッカースタジアムのゴール裏のファンがゲートフラッグにゲバラの顔を描いたものを掲げていることがある。日本では浦和レッズのサポーターなどである。またロック・ミュージックにおいても影響を与え、一部アーティストは公認グッズでゲバラの顔写真を使用している。レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンのTシャツ、ステッカーなどである。

元プロレスラーディック東郷はゲバラを崇拝し、最後の地ボリビアにて引退している。

プロフェッショナルレスラーの矢野啓太率いるプロフェッショナルレスリング・ワラビーが、2012年にワラビー革命を達成した“世紀の聖戦”、7.1「ワラビー×DDT」のDVDには、矢野のゲバラへの多大なる尊敬心から、ジャケットにはゲバラの肖像画と共に、「ワラビー革命 第一章完結」と記されている。

人物[編集]

アメリカの爆撃で沈没した貨物船「ラ・クブル号」の犠牲者追悼行進に参加するカストロ(左端)とゲバラ(右から2人目、背広の人物の左隣)

誰よりもよく行動し、革命達成後も喘息を抱える身でありながら寝食を忘れて公務と勉学に励んだという。しかし、自己に課す厳格な規律を周囲の者にも求めたため、閣僚だった当時の部下からは「冷徹、尊大で、まるで我々の教師であるかのように振る舞う」と囁かれ、必ずしも好意は持たれていなかったとされる。ゲリラ軍に志願して来た農民にも、資格として読み書きが出来る成年者である事を最低限要求し、条件を満たさない者はどんなに熱意があろうと容赦なく切った。一方で民衆からはその勤勉ぶりを褒め称えられ、絶大な人気を得ていた。

フランスの作家レジス・ドブレは、革命軍に帯同した際のゲバラの印象を「好感は持てないが、驚嘆に値する人物」と評した。他にもジャン=ポール・サルトルから「20世紀で最も完璧な人間」、ジョン・レノンには「世界で一番格好良い男」、カストロには「道徳の巨人」「堅固な意志と不断の実行力を備えた真の革命家」と評された。逆に(当然ながら)親米反共主義の諸国・人々の間では評価されていない。ボリビアではエボ・モラレスになるまで評価されていなかった。

「2つ、3つ、もっと多くのベトナム(反帝国主義人民戦争)を作れ」という彼の言葉に象徴されるように、武力闘争を圧政から逃れる唯一の道と断じ、アウグスト・サンディーノらの過去のゲリラ戦争をよく研究してゲリラ戦の手引き書である『ゲリラ戦争 (La Guerra de Guerrillas)』(1960年)を著した(しかし、その『ゲリラ戦争』においてすら「平和革命と選挙による変革の道は可能性があるのなら望ましいし追求するべきだ。しかし、現在の条件のもとではラテン・アメリカのどの国においてもそのような希望は実現されることはありそうもないと思われる」と情勢規定している)。また理想主義者でもあり、工業相時代にキューバ国民の労働意欲の低さを目の当たりにし、「共同体のために尽くし、労働を喜びと感じる『新しい人間』」の育成を目指し、その出現を国家展望の下敷きとした(狭義でのゲバラ主義はこれにあたる)。しかしキューバに招聘されたソ連・ヨーロッパの左翼学者達からは「理想論に過ぎる」と反発を招くとともに、現実的な政治路線を目指すキューバ新体制の中で、徐々に彼を孤立させる遠因となった。彼の直接行動主義と理想主義は、前者は一面として「戦禍を撒き散らす男」のイメージとなって各国に広まり、後年彼自身のゲリラ闘争の障害となった。一方で後者は彼の自己犠牲的な行動力と相俟って、「清廉で理想に燃えた革命家」としての肯定的なイメージを作り出す要因ともなった。

ゲバラは喘息持ちでありながらも葉巻の愛好家として知られている。葉巻は革命家の象徴であり、ゲリラ戦での虫除けにも用いられた。また、キューバの特産品でもあるため、これを世界に向けてアピールする狙いもあったとされている。酒は飲まず、マテ茶(アルゼンチンの国民的飲料)が好物。父親がマテ茶をプランテーション事業で手がけていたこともあり、幼い頃から親しんでいた。

趣味は写真撮影で「司令官になる前、僕は写真家だった」と彼自身が語っている。カメラは1954年に発売されたニコン S2(レンズはNikkor-N 5cm f1.1)を愛用していたが、革命戦争中に同じ部隊にいた軍医オスカル・フェルナンデス・メルに譲った。代わりに旧ソ連製のキエフを貰った。上記のS2は現在もハバナのカバーニャ要塞に保管されている。

逸話[編集]

  • 国立銀行総裁に就任した際、それまでフルネームで行うことが慣例だった紙幣へのサインに「チェ」とだけ記した。貨幣に否定的な考えから行われたものだとされる。また、金融に関して素人であるゲバラの総裁就任を訝った人々が、以下のようなジョークを囁いていた。
    「新政府の閣僚を決めるに際し、カストロが「誰かエコノミスタ(経済通)はいないか?」と尋ねた。連日の激務で疲労し、居眠りをしていたゲバラがこれを「コムニスタ(共産主義者)」と聞き間違えてとっさに手を挙げ、彼の国立銀行総裁就任が決まった」
    実際にはこのような事実はなかったが、正式な就任発表の際には小規模ながら預金の取り付け騒ぎが起きるなど金融不安が広がった。
  • 現在のキューバ3ペソ紙幣にその肖像を見ることができる。
  • 常人離れした大胆な発想と行動力で知られるが、キューバ上陸直後に仲間の半数以上が死亡、捕縛されたにもかかわらず「俺たちは『17人も』生き残った。これでバティスタの野郎の命運は尽きたも同然だ!」と自信満々にいってはばからないカストロを見て、悲嘆のあまり発狂してしまったのかと本気で心配してしまった。しかしその後に、情報の重要性に注目したカストロの戦略眼や、ゲバラの「捕虜は殺さない」という方針が功を奏し革命に成功した。
  • ボリビアのゲリラ基地に入る際、トヨタ製のジープ型4輪駆動車に乗っていた。
  • 1956年12月、グランマ号がキューバに上陸して直後、アルグリア・デ・ピオの地で、政府軍から突然の集中砲火を受けたためゲリラ部隊の仲間達がサトウキビ畑の中に逃げ込もうとしている時、仲間の一人がゲバラの足元に、中身の詰まった弾薬箱を置き去りにして行ってしまった。もうひとつ彼の目の前には、医薬品の詰まった背嚢があったが、弾薬箱と医薬品の両方を背負うのは重すぎると思われた。
    彼自身もまたサトウキビ畑に逃げ込もうとする際、「医者としての天職と革命戦士としての義務のどちらかを選ぶかのジレンマに直面させられた一瞬であった」[18]が、弾薬箱だけを手に取り、走り出した。
  • ゲバラを処刑した元兵士は後年、目の治療のために第三世界で最も高度な医療を無料で受けられるキューバを訪れたが、同国政府は特に問題にせず、彼は無事に治療を受けることができた。

語録[編集]

  • バカらしいと思うかもしれないが、真の革命家は偉大なるによって導かれる。人間への愛、正義への愛、真実への愛。愛の無い真の革命家を想像することは不可能だ。(国連総会出席のためにニューヨーク滞在中、インタビューでの質問“革命家にとって重要なことは?”に応えて)
  • 祖国か、死か!(これは7月26日運動スローガンでもある)
  • 酒は飲まない。タバコを吸う。女を好きにならない位なら、男を辞める。だからと言って、あるいはどんな理由であっても、革命家としての任務を全う出来ないのなら、僕は革命家を辞める。
  • 世界のどこかで誰かが被っている不正を、心の底から深く悲しむ事の出来る人間になりなさい。それこそが革命家としての、一番美しい資質なのだから。(5人の子供達に遺した手紙の一部 キューバを去ってボリビアに向かうに当たり自分の死を予感して)
  • もし私達が空想家のようだと言われるならば、救い難い理想主義者だと言われるならば、出来もしない事を考えていると言われるならば、何千回でも答えよう、「そのとおりだ」。

日本語訳著作[編集]

  • 1967年 『ゲリラ戦争』(『三一新書』)、五十間忠行訳、三一書房
    • 『ゲリラ戦争 キューバ革命軍の戦略・戦術』 中公文庫BIBLIO、2002
  • 1967年 『革命戦争の旅 ゲバーラ回想記』、青木書店
  • 1967年 『革命の回想』筑摩書房
  • 1968年 『ゲバラ日記』(『三一新書』)真木嘉徳訳、三一書房
  • 1968年 『ゲバラ選集』第1、青木書店
    • 1956年 - 1961年4月、フィデルに捧げる歌、他32編
  • 1968年 『革命ゲバラは語る』合同出版
  • 1968年 『国境を越える革命』レボルト社
  • 1969年 『ゲバラ選集』第2、青木書店
    • 1961年4月 - 1962年10月、キューバの工業発展に関する報告、他18編
  • 1969年 『ゲバラ選集』第3、青木書店
    • 1962年12月 - 1964年3月、アントニオ・マセオ、他19編
  • 1969年 『ゲバラ選集』第4、青木書店
    • 1964年3月 - 1967年10月、ジュネーブでの演説国連貿易開発会議、他19編
    • 年譜: p315 - 326
  • 1982年8月 『革命戦争の日日』(訳:三好徹集英社文庫ISBN 4-08-760071-8
  • 1997年10月 『チェ・ゲバラ モーターサイクル南米旅行日記』 (訳:棚橋加奈江、現代企画室)増補新版、2004年9月 ISBN 4773804084
    • 『モーターサイクル・ダイアリーズ』(角川文庫、2004年)ISBN 404-3170025
  • 2001年10月 エルネスト・ゲバラ・リンチ編『チェ・ゲバラ America放浪書簡集 ふるさとへ1953-56』現代企画室、ISBN 4-7738-0102-6
  • 2004年11月『チェ・ゲバラ 第2回AMERICA 放浪日記』(訳:棚橋加奈江訳、現代企画室)ISBN 4-7738-0410-6
  • 2007年11月『ゲバラ日記 新訳』(訳:平岡緑 、中公文庫)ISBN 978-4-12-204940-6
  • 2008年2月 『革命戦争回顧録』(訳:平岡緑、中公文庫)ISBN 978-4-12-204981-9
  • 2008年5月『ゲバラ世界を語る』(訳:甲斐美都里、中公文庫)ISBN 978-4-12-205027-3
  • 2008年7月『ゲリラ戦争 キューバ革命軍の戦略・戦術 新訳』(訳:甲斐美都里、中公文庫)ISBN 978-4-12-205097-6 
  • 2010年6月『マルクス=エンゲルス素描』(訳:太田昌国、現代企画室)ISBN 978-4773810097

参考文献・関連資料[編集]

  • リデル・ハート編『解放の戦略 毛沢東とゲバラ』佐藤亮一訳、番町書房、1965年
  • レジス・ドブレ『革命の中の革命』(『晶文選書』)谷口侑訳、晶文社、1967年11月
  • 小林富雄『革命児ゲバラ』風媒社、1968年
  • 横堀洋一編訳『ゲバラ・革命と死 知られざる青春と闘いの記録』講談社、1968年
  • リカルド・ローホ『わが友ゲバラ』伊東守男訳、(『ハヤカワ・ノンフィクション』)早川書房、1968年10月
  • ジャン・ラルテギー『ゲバラを追って 中南米のゲリラたち』岩瀬孝、根本長兵衛訳、冬樹社、1968年
  • カストロ、ドブレほか『回想のゲバラ』大林文彦編訳、太平出版社、1969年5月
  • 米州機構安全保障に関する特別協議委員会編『ゲバラ日記の分析 米州機構の報告書』ラテン・アメリカ協会訳、ラテン・アメリカ協会、1969年
  • ブエノスの灯編『ゲバラ写真集チェ』現代書館、1969年
  • 山本満喜子『炎の女性たち カストロ、ゲバラを支えて十年』読売新聞社、1969年
  • キューバ国立出版協会編『タニア ゲバラと運命をともにした若き女性ゲリラの闘いと死』桃井健司訳、サイマル出版会、1971年7月
  • アンドリュー・シンクレア『ゲバラ』皆藤幸蔵訳、(『現代の思想家』)、新潮社、1971年9月
    • 原著: Guevara, London: Collins, 1970; Che Guevara, New York: Viking, 1970; Sutton Publishing, 1998 (reprint), ISBN 0-7509-1847-0
  • 三好徹『チェ・ゲバラ伝』文藝春秋、1971年
  • フィリップ・ガヴィ『チェ・ゲバラ』山方達雄訳、福村出版、1975年9月
  • レジス・ドブレ『ゲバラ最後の闘い ボリビア革命の日々』安部住雄訳、新泉社、1977年9月
  • 三好徹『異郷の罠』(『徳間文庫』)、徳間書店、1985年2月
  • エドワルド・リウス『チェ・ゲバラ リウスの現代思想学校』西沢茂子、山崎満喜子訳、晶文社、1986年6月、ISBN 4-7949-2024-5
    • 原著: AbCHE: Biografía simple y sencillamente de un revolucionario de nuestro tiempo, Grijalbo, 1978, ISBN 968-419-052-2
  • フェリス・I.ロドリゲス、ジョン・ワイズマン『秘密工作者 チェ・ゲバラを殺した男の告白』落合信彦光文社、1990年10月、ISBN 4-334-96051-0
    • 原著: Félix I. Rodríguez, John Weisman, Shadow Warrior/the CIA Hero of a Hundred Unknown Battles, Simon & Schuster; (October 1989), ISBN 0-671-66721-1
  • マリア・デル・カルメン・アリエット『チェ・ゲバラの政治思想』丸山永恵訳、IFCC出版会、1992年
    • 原著: Maria del Carmen Ariet, Che pensamiento político
  • フェルナンド・ディエゴ・ガルシア、オスカー・ソラ編『チェ・ゲバラ 情熱の人生』レナーテ・ヘロルド訳スタジオ・ナダ、1997年
  • エドワルド・リウス『チェ・ゲバラ』西沢茂子、山崎満喜子訳(『リウスの現代思想学校』新装版)、晶文社、1997年12月、ISBN 4-7949-1255-2
    • 原著: Rius, Abche: Abche-Political Satire, Era Edicions Sa Published, 1999年、 ISBN 968-419-052-2
  • オズバルド・サラス、ロベルト・サラス『エルネスト・チェ・ゲバラ』星野弥生訳、海風書房、1998年6月、ISBN 4-7684-8859-5
    • 写真集、原著: Osvald Salas, Roberto Salas, Ernesto Che Guevara
  • 三好徹『チェ・ゲバラ伝』原書房、1998年7月ISBN 4-562-03100-X
  • アルベルト・コルダ写真、ハイメ・サルスキー、太田昌国『エルネスト・チェ・ゲバラとその時代』棚橋加奈江訳、現代企画室、1998年10月ISBN 4-7738-9806-2
    • Albert Korda, Jaime Sarusuky, Masakuni Ota, Ernesto Che Guevara y su epoca: Colección de fotografías de Korda
  • パコ・イグナシオ・タイボII、フェリックス・ゲーラ、フロイライン・エスコバル『ゲバラ コンゴ戦記1965』神崎牧子、太田昌国訳、現代企画室、1999年1月、ISBN 4-7738-9807-0
    • 原著: Paco Ignacio Taibo, Félix Guerra, Froilán Escobar, El año que estuvimos en ninguna parte: La guerrilla africana de Ernesto Che Guevara, Txalaparta Argitaletxea, S.L., ISBN 84-8136-019-8
  • 樋口聡『僕とゲバラとラティーノたち ラテンアメリカ放浪記』スリーエーネットワーク、1999年7月、ISBN 4-88319-136-2
  • 戸井十月『ロシナンテの肋 チェ・ゲバラの遙かな旅』集英社、2000年3月、ISBN 4-08-774464-7
  • 戸井十月『ゲバラ最期の時』 集英社、2009年1月5日、ISBN 4087814122
  • 戸井十月『遥かなるゲバラの大地』 新潮社、2006年6月29日、ISBN 4104031054
  • 戸井十月『チェ・ゲバラの遥かな旅』 集英社文庫、2004年10月20日、ISBN 4087477533
  • 恵谷治『1967年10月8日 チェ・ゲバラ死の残照』毎日新聞社、2000年5月、ISBN 4-620-31442-0
  • 太田昌国『ゲバラを脱神話化する』現代企画室、2000年8月、ISBN 4-7738-0005-4
  • パコ・イグナシオ・タイボII『エルネスト・チェ・ゲバラ伝』上・下、後藤政子訳、海風書房、2001年6月、上: ISBN 4-7684-8875-7、下: ISBN 4-7684-8876-5
    • 原著: Paco Ignacio Taibo II, Ernesto Guevara, también conocido como El Che, 2001, Planeta Mexico; (January 2004), ISBN 970-690-981-8
  • イルダ・バリオ、ギャレス・ジェンキンズ『チェ・ゲバラ フォト・バイオグラフィ』鈴木淑美訳、原書房、2003年12月、ISBN 4-562-03679-6
    • Hilda Barrio, Gareth Jenkins, The Che Handbook, St. Martin's Press; (October 1, 2003), ISBN 0-312-32246-1
  • アルベルト・グラナード『トラベリング・ウィズ・ゲバラ』池谷律代訳、Gakken、2004年10月、ISBN 4-05-402609-5
  • ジャン・コルミエ『「知の再発見」双書120 チェ・ゲバラ 革命を生きる』松永りえ訳、太田昌国監修、創元社、2004年12月
  • フィデル・カストロ『チェ・ゲバラの記憶』柳原孝敦監訳、トランスワールドジャパン株式会社、2008年5月、ISBN 978-4-86256-011-7
  • アレイダ・マルチ『わが夫、チェ・ゲバラ 愛と革命の追憶』後藤政子訳、朝日新聞出版、2008年5月、ISBN 4-02-250432-3

ゲバラを題材にした作品[編集]

映画[編集]

音楽[編集]

  • 1965年 アスタ・シエンプレカルロス・プエブラ作詞作曲)。
    • ゲバラがキューバを去ったことが発表されたことを受けて、そのゲバラへの感謝の気持ちを捧げるために作られた曲。その美しさから現在でも幅広く歌われ続けており、ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブもカバーしている。
  • スライ&ロビー
    • スライ&ロビーらが1976年にレヴォリューショナリーズとして発表したアルバム『Revolutionaries Sounds』のジャケットは『英雄的ゲリラ』を模写したものである。

ゲーム[編集]

漫画[編集]

絵画[編集]

  • 『Che Guevara (RED)』 -ロンドン在住のアーティスト、コンラッド・リーチが2008年に発表した新作。帽子を被った写真が有名なゲバラだが、この絵画では葉巻をくゆらす姿が描かれた。

脚注[編集]

  1. ^ Che Guevara at United Nations
  2. ^ チェ・ゲバラ未公開日記 ハバナで出版
  3. ^ チェ・ゲバラの未公開日記、50年を経て出版
  4. ^ 「東京へ来たカストロ・ヒゲ」朝日新聞1959年7月27日付け
  5. ^ 1959年7月26日、中国新聞
  6. ^ Che Guevara's daughter visits bomb memorial in Hiroshima, The Japan Times, Friday, May 16, 2008
  7. ^ 三好徹『チェ・ゲバラ伝』文春文庫ISBN 456203386X
  8. ^ ジャン・コルミエ『知の再発見双書120 チェ・ゲバラ 革命を生きる』松永りえ訳、太田昌国監修、創元社、2004年12月、97頁
  9. ^ “ゲバラ、ひげそって潜伏=チェコに死の1年前-地元紙”. 時事ドットコム (共同通信社). (2010年1月23日). http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2010012300071 2010年1月23日閲覧。 
  10. ^ “チェ・ゲバラ、処刑前年にチェコ潜伏の新事実か”. AFPBB News (フランス通信社). (2010年1月23日). http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2685797/5220900 2010年1月23日閲覧。 
  11. ^ “ゲバラ、死の前年に仲間とチェコ潜伏”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2010年1月23日). http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20100123-OYT1T00853.htm 2010年1月23日閲覧。 
  12. ^ プラドは後に「"Como Capture al Che" 」という回想録を出版し、その中で自分はゲバラを捕えただけで、殺害は命じておらず、関与もしていないとしている。
  13. ^ 処刑は米国CIAのフェリックス・ロドリゲスとともに到着したボリビア国軍情報局のセンテーノ・アナヤ大佐の指示による。ゲバラについては顔や頭は撃たないように指示した。
  14. ^ ワンカ軍曹はその後報復を恐れ、ボリビアから離れてアメリカに亡命している。
  15. ^ テラン軍曹は30年近く基地内で暮らし、顔の整形手術を経て、現在はボリビア東部の農園で暮らしている。
  16. ^ Che Guevara is executedThis Day in History, 2013, Oct 9
  17. ^ Pasajes y personajes de la guerrilla de Ñancahuazú 意訳のうえ、解釈が様々である為これ以外の表現もある。
  18. ^ 『革命戦争回顧録』平岡緑訳、中公文庫、p25

関連項目[編集]

政治思想
関連人物
家族、友人
キューバ人
交友のあった世界の指導者
敵対した世界の指導者
ゲリラ戦士
映像作品
ゲバラを演じた人物
著作
その他

外部リンク[編集]