アステカ

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アステカとは1325年から1521年まで中米メキシコ中央部に栄えたメソアメリカ文明王国。自らをメシカと称した。言語はナワトル語

アステカの版図
アステカの版図

目次

[編集] 建国と繁栄

Tenochtitlán -- テノチティトラン、現在メキシコシティになった
Tenochtitlán -- テノチティトラン、現在メキシコシティになった

伝説によればアステカ族はアストランの地を出発してメキシコ中央高原をさまよい、1325年ウィツィロポチトリ神に啓示され、蛇をむさぼる鷲が石の上に生えたサボテンにとどまる地、テスココ湖の湿地地帯に都市(テノチティトラン)を築いて定住した。

アステカは都市国家がひしめく中で強力なアスカポツァルコ王国に朝貢してその庇護を受けていたが、1375年アカマピチトリがアスカポツァルコ王国にゆるされて国王に即位した。第4代イツコアトル国王はアスカポツァルコ王国の王位継承問題に介入して勝利するや、テスココトラコパンと同盟して力を蓄え次々と周辺都市国家を従えていった。最盛期のアステカの領土メキシコ湾から太平洋沿岸にまでおよび500万人以上の人々を支配した。テノチティトランの人口は数十万人に達し神殿宮殿が立ち並んで大いに繁栄した。

[編集] 社会構造

  • 『階級社会』

アステカでは多神教に基づいた神権政治が行われ、最高位の神官である国王を神官や貴族さらに軍人がこれを補佐した。支配者階級の下位に農民職人さらに商人があって最下級に戦争捕虜負債などのために身売りした奴隷が存在した。奴隷は自由身分に解放されることもあったが主人の所有物で相続の対象とされた。

  • 『軍国主義』

アステカは軍国主義国家で戦争功労者ジャガーの戦士鷲の戦士の称号や土地・屋敷を与え年金を給付して報いた。ジャガーの戦士や鷲の戦士を中核とする強力な軍隊が征服戦争をくり返し諸国民に恐れられ、服属する国家から朝貢を受ける見返りに自治を与えて人民を間接統治した。諸国を旅する商人はスパイとして重宝され、敵情視察や反乱情報の収集に従事した。

  • 『道路網整備と経済の発達』
アステカのカレンダー
アステカのカレンダー

アステカは軍隊の迅速な移動を可能にするため道路網を整備し、一定区間に駅所を設けて管理したのでその周辺の治安が維持され、婦女子でさえ単独で国内を旅行することが可能であった。新来のスペイン人はこの整備された道路網と治安の良さに感心したという。

この道路網を通じて諸地域の産物がアステカに集まりその繁栄を支えた。テノチティトランの中心部では毎日市場が開かれたという。基本的に物々交換であったがカカオ豆が貨幣として流通し、カカオ豆3粒で七面鳥の卵1個、カカオ豆30粒で小型のウサギ1匹、カカオ豆500~700粒で奴隷1人と交換できた。

高い生産性を誇るチナンパ農業から得られるとうもろこしや芋類・豆類などの農産物リュウゼツランから醸造されるプルケ酒やタバコなどの嗜好品、専門の職人によって製作された質の高い陶製品やさまざまな日用品が、市場で売買されていた。

アステカ文明は、先に興ったオルメカテオティワカンマヤトルテカ文明を継承し、土木建築製陶工芸に優れていた。精密な天体観測によって現代に引けを取らない精巧な暦を持っていた。同時期に隆盛を極めたインカ帝国とは間接的な交流があったのではないかと考えられているが、直接交流の実態は分かっていない。

[編集] 人身御供

アステカの社会を語る上で特筆すべきことは人身御供神事である。メソアメリカでは、人間の新鮮な心臓に奉げなければ太陽が消滅するという終末信仰が広く信じられていて、アステカの神殿においても日常的に人身御供が行われていた。

生贄は雨乞いや豊穣を祈願して神々に捧げられた。生贄は祭壇の前に据えられた石のテーブルの上に生きたまま仰向けにされ、神官達がその四肢を抑えて黒曜石ナイフで胸を切り裂き心臓を摘出した。

通常戦争捕虜や買い取られた奴隷が生贄に選ばれた。アステカは生贄を確保する目的のために戦争することもあった。人身御供の神事は目的に応じて様々な形態でとり行われ、神官が生贄から剥いだ生皮を着て踊り狂ったり、火の中に生贄を放り込むなど現代人から見れば残酷極まりないものもあったが、生贄にされることは本人にとって名誉なことであった。生贄に選ばれた者は丁重に取り扱われ、神事の目的によって貴人や清められた若い男女さらに純真無垢な小児が生贄にされることもあった。

[編集] 一の葦

かつてテスカトリポカ神に追われた白い肌を持つケツァルコアトル神が戻って来る『一の葦』の年(1519年にあたる)が迫っていた。アステカでは帰還したケツァルコアトルが古い世界を破壊して新しい世界を建設すると信じられていた。アステカ人が漠然と将来に不安を感じ始めていたころ、テノチティトランの上空に突然大きな火玉が現れ神殿の一部が焼け落ちてしまった。その後も次々と不吉な出来事が起こった。

さらに『一の葦』の年の2年前(1517年)から東方の沿岸に白い異邦人が現れるようになり、その情報が逐次アステカ国王モクテスマ2世に伝わった。人々は白い異邦人が帰還したケツァルコアトル一行ではないかと噂しあったが、実はスペインキューバ総督府からメキシコ周辺の情報収集を命じられたスペイン人の一団であった。彼らはキューバに戻ってアステカの繁栄をキューバ総督ディエゴ・ベラスケスに報告した。

ベラスケス総督の配下であったコンキスタドールエルナン・コルテスは大変な野心家で、1519年2月、総督の命令を無視してアステカ征服を目指して16頭の馬と大砲や小銃で武装した500人の部下を率いてユカタン半島に上陸した。コルテスはタバスコ地方の勢力との戦いに勝利すると戦利品として贈られた女奴隷の中からマリンチェという没落貴族の娘を選んで現地妻にした。彼女は通訳としてまた現地の案内役として有能でコルテスにも献身的に仕えた。

さらに軍を進めたコルテスは有力なトラスカラ王国と戦いこれを屈服させた。トラスカラは長年アステカの圧政に苦しんでいたためこれを機にコルテスと同盟を結んだ。コルテスは数万の同盟軍を得て自信を深めトラスカラ残留部隊を除いた400人の部下と千人のトラスカラ軍を率いてアステカ深部へと進軍していった。

『一の葦』の年に現れたコルテスはケツァルコアトル神の化身と信じられテノチティトランへと順調に進軍し、1519年11月18日、モクテスマ2世に迎えられてテノチティトランに入城した。テノチティトランの名所を案内されその豊かさと繁栄振りに目を見張ったコルテスは、入城6日目にしてモクテスマ2世を捕らえると宮殿に幽閉して人々に人身御供の禁止を布告した。

[編集] 滅亡

ベラスケス総督がベラクルスにコルテス追討軍を派遣したため、コルテスは僅かの守備隊をペドロ・デ・アルバラードに託して一時的にテノチティトランをあとにした。引き返したコルテスは同盟軍と協力してナルバエスに率いられた1000人の追討軍に勝利すると、投降者を編入して本格的なアステカ征服に専念した。

コルテスがテノチティトランに戻ると大規模な反乱が起こり、仲裁をかって出たモクテスマ2世はアステカ人の憎しみを受けて殺されてしまう。1520年6月30日アステカ人が諸悪の根源であるコルテス軍を激しく攻撃したので、コルテスは命からがらテノチティトランから脱出した。アステカはクィトラワク新国王を擁立して国の再建を目指し、コルテス軍捕虜を生贄にして気勢を上げた。

トラスカラで軍を立て直し用意周到に抵抗勢力を駆逐してテテスコ湖々畔に立ったコルテスは、1521年4月28日、13隻の帆船を築いてテテスコ湖に浮かべ数万の同盟軍とともにテノチティトランを包囲した。1521年8月13日、コルテスは総攻撃をしかけて病死したクィトラワク国王に代わって即位していたクアウテモック国王を捕らえアステカを滅ぼした。

その後スペインは金銀財宝を略奪し徹底的にテノチティトランを破壊しつくして、遺構の上に植民地ヌエバ・エスパーニャの首都(メキシコシティ)を建設した。アステカ人の多くが奴隷にされスペインのメキシコ経営に酷使され倒れ、あるいは旧大陸から伝わった疫病に感染し、そのため地域の人口が激減した。

[編集] アステカ歴代君主

  1. 1375年: アカマピチトリ
  2. 1395年: ウィツィリウィトル
  3. 1417年: チマルポポカ
  4. 1427年: イツコアトル
  5. 1440年: モクテスマ1世
  6. 1469年: アシャヤカトル
  7. 1481年: ティソック
  8. 1486年: アウィツォトル
  9. 1502年: モクテスマ2世
  10. 1520年: クィトラワク
  11. 1521年: クアウテモック

[編集] 関連項目

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