マヤ文明

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ティカル2号神殿
ウシュマル遺跡の「尼僧院」
チチェン=イッツア遺跡の「尼僧院」の一部。フレデリック=キャザウッドの石版画

マヤ文明(マヤぶんめい)とは、メキシコ南東部、グアテマラベリーズなどいわゆるマヤ地域を中心として栄えた文明である。メソアメリカ文明に数えられる。

目次

[編集] 歴史

大規模な都市遺跡が築かれ始めたのは、形成期後期 (先古典期後期)からで、いわゆる「中部地域」で、現ベリーズラマナイ(Lamanai)、グアテマラのペテン低地に、ティカル、ワシャクトゥン、エル・ミラドール(El Mirador)、ナクベ(Nakbe)などの大都市遺跡が建設され、人口の集中が起こり繁栄した。エル・ミラドール、ナクベ、カラクムなど大都市では、古典期を凌ぐ大建造物が、紀元前400年以降に建てられたことが分かってきた。

開花期の古典期(A.D.300-900)にはティカル(Tikal)、カラクムル(Calakmul)などの大都市国家の君主が「優越王」として群小都市国家を従えて覇権を争った。「優越王」であるティカルとカラクムルの王は、群小都市国家の王の即位を後見したり、後継争いに介入することで勢力を維持した。各都市では、巨大な階段式基壇を伴うピラミッド神殿が築かれ、王朝の歴史を表す石碑(stelae)が盛んに刻まれた。

古典期後期(A.D.600-900)の終わり頃の人骨に栄養失調の傾向があったことが判明しているため、焼畑(ミルパ)農法や建造物に使用する漆喰を造るために、森林伐採を行い続けたため、地力の減少によって食糧不足や疫病の流行が起こり、それによる支配階層の権威の失墜と、数少ない資源の奪い合いによって戦争が激化したことが共倒れを招き、衰退に拍車をかけたと考えられている。この時期にはテオティワカンの影響が消えたことやティカルにかわって多くの小都市国家が発展した。特に8世紀はマヤ文化の絶頂期であるといえる。この期の壮麗な建築物、石彫、石細工、土器などの作品にマヤ文化の豊かな芸術性が窺える。また、天体観測に基づく暦の計算や文字記録も発達し、鹿皮樹皮を材料とした絵文書がつくられた。碑文に刻まれた王たちの事績や碑文の年号表記などから歴史には高い関心を持っていたことが推測できる。都市は祭事の場であるだけでなく市の立つ通商の場でもあった。通商はメキシコ中央部の各地や沿岸地方とも交渉をもちいくつかの商業都市も生まれた。

なお、古典期マヤ文明は金属を持たず、基本的には新石器時代に入っていたといえる。しかし、9世紀頃から中部地域のマヤの諸都市国家は次々と連鎖的に衰退していった。原因は、遺跡の石碑の図像や土器から、メキシコからの侵入者があった(外敵侵入説)、北部地域に交易の利権が移って経済的に干上がった(通商網崩壊説)、農民反乱説、内紛説、疫病説、気候変動説、農業生産性低下説など有力な説だけでも多数ある。しかし、原因は1つでなくいくつもの要因が複合したと考えられている[1]

一方、古典期後期からユカタン半島北部などを含む「北部地域」でウシュマル(Uxmal)、チチェン=イッツァ(Chichien Itza)などにプウク式(Puuc Style)の壁面装飾が美しい建物が多く築かれた。

標式遺跡は、グアテマラペテン低地に所在するティカルの北方のワシャクトゥン遺跡である。下記のような先古典期中期から古典期後期までの時期区分名が用いられる。

先古典期中期後半(マモム期)、先古典期後期(チカネル期)、古典期前期(ツァコル期)、古典期後期(テペウ期)

他の遺跡にも独自の時期区分がありつつも比較検討のためにワシャクトゥンの時期区分名が使用される。ただし、ユカタン半島北部やグアテマラ高地の遺跡には適用されない。

後古典期(A.D.900-1524)には、マヤパン(Mayapan)やコスメル島(Cozmel Island)が、カカオ豆やユカタン半島の塩などの交易で繁栄した。

統一国家を樹立することなく、各地の都市国家が合従連衡と興亡を繰り返し、16世紀、スペイン人の侵入を迎えた。1697年最も遅くまで自立を保っていたタヤサルが陥落、マヤ圏全域がスペイン領に併合された。

[編集] マヤ文明の特徴

チチェン=イッツア遺跡から出土したチャック・モール石像

マヤ文明の特徴として、以下のような点が挙げられる。

  • 青銅器鉄器などの金属器を持たなかった
  • 生贄の儀式が盛んであった
  • 車輪の原理は、土偶などの遺物に出てくるにもかかわらず、実用化しようと考えていなかった
  • 牛や馬などの家畜を飼育しなかった
  • とうもろこしの栽培のほかにラモンの木の実などが主食だった
  • 焼畑(ミルパ)農法や段々畑・湿地で農業を行った
  • 数学を発達させた(二十進法を用い、の概念を発明した)
  • 文字種が4万種に及ぶマヤ文字を使用していた
  • 持ち送り式アーチ工法など高度な建築技術を持っていた
  • 極めて正確な暦を持っていた(火星金星の軌道も計算していた)
  • 多くの文明は河川の水の恵みにより発展してきたが、マヤ文明はセノーテとよばれる天然の泉により発展した

農業技術については、段々畑で作物を作り、湿地では、一定の間隔に幅の広い溝を掘り、掘り上げた土を溝の縁に上げその盛り土の部分にカカオなど農作物を植えた。定期的な溝さらえを行うことにより、肥えた水底の土を上げることによって、自然に肥料分の供給をして、栽培される農作物の収量を伸ばすことができた。この湿地利用によく似た農法としてメキシコ中央部にはチナンパという湿地転用農法があるので、その方法を移入した可能性を指摘する研究者もいる。

数字は、点()を1、横棒()を5として表現したり、独特な象形文字で表現された。

[編集] マヤのカレンダー

マヤの人々は天体観測に優れ、非常に精密な暦を持っていたとみられている。1つは、一周期を260日(13日の20サイクル)とするツォルキンと呼ばれるカレンダーで、宗教的、儀礼的な役割を果たしていた。もう1つは、1年(1トゥン)を360日(20日の18ヶ月)とし、その年の最後に5日[2]のワイエブ月を追加することで365日とする、ハアブと呼ばれる太陽暦カレンダーである。

ワイエブ月を除いたハアブ暦(360日)とツォルキン暦(260日)の組み合わせが約13年(13トゥン)ごとに一巡する。これをベースとして4サイクルの約52年を周期とする 。この他、より大きな周期も存在していた。このようなカレンダーの周期のことをカレンダー・ラウンド(rueda calendárica)という。

また、紀元前3114年に置かれた基準日からの経過日数で表された、長期暦(ロング=カウント;Long Count)と呼ばれるカレンダーも使われていた。石碑、記念碑、王墓の壁画などに描かれていて、年代決定の良い史料となっている。この暦は次のように構成されている。

ハアブ暦のについては、そのずれを調整しなかったが、新月が全く同じ月日に現れるメトン周期(6939.6日)を把握していたことが、ドレスデン・コデックスコパンの石碑に19.5.0.すなわち360×19トゥン+20×5ウィナル=6940キン(日)の間隔を記載することによって実際には季節のずれを認識していた可能性やパレンケの太陽の神殿、十字架の神殿、葉の十字架の神殿の彫刻に長期暦の紀元の記載とハアブ暦と実際の1年の値である365.2422日との差が最大になる1.18.5.0.0.(長期暦の紀元から約755年経過した時点)の記載があり、これもマヤ人が1年を365日とした場合の季節のずれを認識していた証拠とも考えられる[3]

かつては、現在通用しているグレゴリオ暦の365.2425日(400年間に97日の閏日)よりも真値に近い、365.2420日がその答えとされていた。これは、化学工学技術者のジョン・E・ティープルが1930年代に唱えた決定値理論と呼ばれる説で、アメリカのマヤ学の権威とされたエリック・トンプソンが認めたため、現在でも流布している説である[4]がその誤りが判明している。カラクムル遺跡にある15回目のカトゥン(9.15.0.0.0.,731年)を祝う石碑が7本[5]あるが、その1年前に修正がなされており、太陽年を意識して201日分を加えている。これを太陽年を最初から想定していたとすると1年を365.2421日(3845年間に931日の閏日)としていたことになる。また、キリグアの785年を刻んだ石彫[6]で、212日を追加する修正が見られる。グレゴリオ暦では、215日であり、太陽年で正確に計算すると214日の誤差となる[7]。これを太陽年を想定した1年の日数とすると365.2417日(3898年間に942日の閏日)になる。単純に考えれば肉眼のみの観測で非常に精度が高い値で修正を行っていること自体は驚くべきであるが、実際にはグレゴリオ暦のように暦の1年を意識して計算しているものではないため、精度の高い暦を使っていたということはできない[8]

[編集] マヤ暦の終わり

ニューエイジ関連の書物ではマヤの長期暦は2012年冬至付近(12月21日~23日)で終わるとされ、その日を終末論と絡めた形でホピ族預言も成就する、フォトンベルトに突入する時期としているものが多い(2012年人類滅亡説)。しかし、フォトンベルトの存在は皆無に等しく、フォトンベルト関係の予言は非常に信憑性にかけた予言であり、さらにマヤの暦は現サイクルが終了しても新しいサイクルに入るだけで永遠に終わらないという見方もあり、多くのマヤ文明の研究家たちも終末説を否定している。

この他、カール・コールマンの計算によると「マヤ暦の最終日は2011年10月28日」との説もあった[9]

[編集] 脚注

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  1. ^ 増田義郎「先コロンブス期の文化」(増田義郎・山田睦男編『新版世界歴史25 ラテン・アメリカI』山川出版社 1999年)
  2. ^ 4年に一度、6日とする場合もある。
  3. ^ 青木1984,pp.137-8
  4. ^ 八杉1982,pp.31-2,コウ/増田、武井・徳江訳2003,pp.187-192,p.254
  5. ^ 石碑51号や54号を含む同じカトゥンを祝う儀礼を刻んだ7本ある(S.マーチン他/長谷川他訳2002,pp.164-165)
  6. ^ この時期のキリグア王「空シュル」は石碑(stela)を建てず、「獣形神」と呼ばれる石彫を刻ませていたことからそのいずれかと思われる。cf.S.マーチン他/長谷川他訳2002,pp.322-331
  7. ^ トンプソン/青山訳2008,p.231
  8. ^ 小池1996
  9. ^ 岡田光興 『2012年と日月神示 – 人類はやがてゝ生命体へ多次元神化する!』 徳間書店 2009年

[編集] 参考文献

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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