グレゴリオ暦

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グレゴリオ暦(グレゴリオれき、: Calendario gregoriano)は、1582年ローマ教皇グレゴリウス13世ユリウス暦を改良して制定した暦法である。現行の太陽暦として世界各国で用いられている。単に新暦ラテン語: Ornatus)と呼ばれる場合もある。現在使われている紀年法としての西暦もグレゴリオ暦と呼んでいる。

平年には1年を365日とするが、400年間に(100回ではなく)97回の閏年を置いてその年を366日とすることにより、400年間における1年の平均日数を、365日+97/400 = 365.2425日、とすることがグレゴリオ暦の本質である。この平均日数365.2425日は、実際に観測で求められる平均太陽年(回帰年)の 365.242 189 572日(2013年年央値)に比べて26.821秒だけ長い。

日本では明治5年(1872年)に採用され、明治5年12月2日の翌日を明治6年1月1日(グレゴリオ暦の1873年1月1日)とした。

制定の概要[編集]

キリスト教においては、重要な祭日である復活祭の日付は毎年の春分日を起点として定義されるが、第1ニカイア公会議(325年)において春分日はユリウス暦上で毎年3月21日とすることが決められていた[1]ユリウス・カエサルによって紀元前45年に制定されて以降、キリスト教文化圏を中心に使用されてきたユリウス暦は、暦年の平均日数を365.25日とする近似法である。しかし、実際の太陽年は、約365.2422日であるので、毎年少しずつ暦が、そして春分日がずれていくことになる。

16世紀後半には、ユリウス暦上の春分日である3月21日に対して、実際の春分日(天文現象としての太陽の春分点通過日)は平均してユリウス暦上の3月11日となり、10日ものずれが生じていた。このため、ローマ・カトリック教会は、改暦委員会に暦法改正を委託した。委員会の作業の末に完成した新しい暦は1582年2月24日に発布され、1582年10月4日木曜日)の翌日を、曜日を連続させながらも10日間を省いて、1582年10月15日金曜日)とすることを定めた。

ユリウス暦によるずれ[編集]

ユリウス暦の1年は、実際の1太陽年に比べて、365.25日 - 約365.2422日 = 約0.0078日(約11分15秒)長い。このため、黄道上で太陽が特定の点(春分点秋分点夏至点冬至点など)を通過するという天文現象の発生日時は、暦上は4年毎に約0.0312日(0.0078日×4)ずつ早まって行き、約128年で1日分だけ早まることになる。この近似はユリウス暦の制定当時の技術水準を考えれば非常に高精度であったと言えるが、さすがに千数百年も暦の運用が続くと天文現象の発生日時の暦上の変動は無視できないものとなっていった。 1582年まで用いられていたユリウス暦では、通常の年(平年)は1年を365日とし、4年ごとに置く閏年を366日とし、これによって平均年を365.25日としていた。

365日+1/4 = 365.25(日)……1年間の平均日数(平均年)= 正確に31 557 600秒 = 365日6時間

しかし、平均太陽年(実際に地球が太陽の周りを1周する平均日数)は、365日5時間48分45.179秒 = 31 556 925.179秒 = 約365.242 189 572日(2013年年央)[2]である。このため、ユリウス暦では1年で11分14.821秒のずれが生じ、約128年で1日のずれとなる。前述の通り、16世紀末に10日ものずれが生じていたのはこのためである。

31 557 600秒/年 - 31 556 925.179秒/年 = 674.821秒/年 = 11分14.821秒/年 …… 1年ごとのずれ
86 400秒/日( = 1日)÷ 674.821秒/年 = 128.03 年…… 1日のずれが生じる年数

グレゴリオ暦の暦法[編集]

グレゴリオ改暦が議論され始めていた1560年頃には、平均太陽年は、365.2422日であることが知られていた。 (365.25日 - 365.2422日)×400年 = 3.12日/400年 であるから、ユリウス暦における置閏法(400年間で100回の閏年)に比べて400年間に3回の閏年を省けばよいことが分かる。このため、グレゴリオ暦では、400年間に、97回( = 100 - 3)の閏年を設けることにより、平均年を365.2425日 = 365日5時間49分12秒 = 正確に 31 556 952秒 とした。

365日+97/400 = 365.2425(日/年)……グレゴリオ暦の400年間における平均日数

なお、400年間の日数は、365.2425 × 400 = 146 097日であり、これは7で割り切れる(146 097÷7 = 20 871 )ので、グレゴリオ暦は、曜日も含めて400年周期である。

400年間に3回の閏年を省くには様々な方法があり得る。3回分の平年がなるべく均等に分布すること、分かりやすく記憶しやすいことを考慮して、「西暦紀元(西暦)の年数が100で割り切れ、かつ400では割り切れない年は平年とする。これ以外の年では西暦年数が4で割り切れる年は閏年とする。」というルールが採用された。

100で割り切れる年は400年間につき4回あるが、400で割り切れる年は400年間につき1回だけである。4回 - 1回 = 3回、なので、以上のルールによって、ユリウス暦では閏年になる3回分の年をグレゴリオ暦では平年とすることができるのである。

例えば西暦1700年1800年1900年2100年2200年2300年2500年は100で割り切れる(もちろん4で割り切れる。)が400では割り切れないので、これらの年は平年である。これに対して、西暦1600年2000年2400年は100で割り切れ、かつ400で割り切れるので、これらの年は閏年である。

西暦年の平年・閏年
平年・閏年の区分
1600年 閏年
1700年  平年
1800年  平年
1900年  平年
2000年  閏年
2100年  平年
2200年  平年
2300年  平年
2400年  閏年
2500年  平年
2600年  平年
2700年  平年
2800年  閏年

平年および閏年のそれぞれにおける各月の日数は、グレゴリオ暦においてもユリウス暦と同じである。すなわち、1月、3月、5月、7月、8月、10月、12月は31日、4月、6月、9月、11月は30日で、2月は平年が28日、閏年は29日である。

通日数の計算はユリウス通日を参照のこと。

改暦委員会と改暦案の提案[編集]

ユリウス暦による春分日のずれを、ローマ・カトリック教会としても無視できなくなり[3]、実際の春分日を第1ニカイア公会議の頃の3月21日に戻すため、トリエント公会議1545年 - 1563年)において教皇に暦法改正を委託した。

時の教皇グレゴリウス13世は、これを受けて1579年にシルレト枢機卿を中心とする委員会を発足させ、暦法の研究を始めさせた。この委員会のメンバーには、最初の改暦案を考案した天文学者のアロイシウス・リリウスAloysius Lilius)の弟であるアントニウス・リリウスや数学者クリストファー・クラヴィウスらが含まれていた。 委員会が1577年に刊行したCompendium novae rationis restituendi kalendarium(Compendium of the New Plan for Restoring the Calendar: 暦改正の新しい原理の大要)という24ページの冊子[4]によると、アロイシウスは1252年に書かれたアルフォンソ天文表en:Alfonsine Tables)における365日5時間49分16秒 = 365.242 5463日を採用し[5]、改暦案を考案したのである。しかし、アロイシウスは1576年に死亡しており、その年に実際に案を委員会に提出したのは弟のアントニウスである[6][7]

なお、この365.2425日という値を算出したのはコペルニクスであるとの説がある[要出典]が、コペルニクスは改暦案の提案には関わっていない[8]ので、この説は成立しない。

グレゴリオ暦の精度[編集]

前項で述べたように、本来は400年間で3.12日の閏年の省略とすべきところを、整数値である3日の閏年の省略としたのであるから、1年間では、(3.12日 - 3.00日)/400年 ×86 400秒/日 = 約26秒/年の誤差が生じることは、当時から計算されていた。

これを最近値で計算し直すと、下記のようにグレゴリオ暦における平均の1年は、実際に観測される平均太陽年(2013年年央)に比べて26.821秒(= 約0.000 310 428日)だけ長い。このずれは約3221年で1日に達する。

365.2425日/年 × 86 400秒/日 = 31 556 952秒/年 
31 556 952秒/年 - 31 556 925.179秒/年[9] = 26.821秒/年……1年ごとのずれ
86 400秒/日( = 1日)÷26.821秒/年 = 3221.36(年)……1日のずれが生じる年数

以上のように、ユリウス暦では1日のずれが生じるまでに約128年しかかからなかったのに対して、グレゴリオ暦では同じく1日のずれが生じるまでに約3221年を要するまでに精度を高めたものとなった。

ただし、上記の年数は平均太陽年が不変としたときの計算であって、実際には平均太陽年は100年(正確には1ユリウス世紀)ごとに0.532秒ずつ短くなっている(太陽年の項を参照)。このため、3221年後には、約17秒ほど平均太陽年が短くなっていることを考慮すると、グレゴリオ暦との1日のずれはもっと早い時点で起こることになる(太陽年#太陽年の変化平均太陽年の計算式(英語版))。

なお、春分日時の間隔に着目した誤差は歳差などの影響により上記の計算とは異なり、西暦2000年時点で 7700年に1日[10]、明治改暦(1873年)時点で7200年に1日[11]となる。

グレゴリオ暦の各国・各地域における導入[編集]

ユリウス暦と太陽年(実際の季節)とのずれは、13世紀の哲学者ロジャー・ベーコンが指摘してから300年もの間顧みられず、16世紀になって宗教上の問題が顕著になるまで放置された。このずれを修正し新たにグレゴリオ暦を制定した後も、それがローマ教皇による発令だったためか、その導入時期は国・地域によってまちまちであった。ヨーロッパ圏内であっても、カトリックの国は比較的早く導入したが、一方でそうでない国では導入までに少なくとも100年以上かかった。

プロテスタント[編集]

プロテスタント諸国については、グレゴリオ暦への改暦に消極的だった理由の一つとして、復活祭の日付の決定がある。自らの祭事の日付をカトリックが定めた暦によって決められることを嫌ったわけである。しかし、ユリウス暦の日付がずれており、ずれた日付を基に祭日を決めることに問題があることは、プロテスタントの宗教家も認識はしていた。このためグレゴリオ暦は非カトリック国にも徐々にだが浸透した。ドイツのプロテスタント諸国は、日付の決定のみグレゴリオ暦を使用するが、復活祭の日付の計算にはプロテスタントのドイツ人天文学者ヨハネス・ケプラーが作成したルドルフ星表を使うということで妥協した。この暦は改良暦と呼ばれた。しかしケプラーはグレゴリオ暦の方が優れていることを知っていたため、日付計算はすべてグレゴリオ暦で行っていた。このため、実質的には改良暦はグレゴリオ暦で計算するのとほぼ同じだった。この妥協はうまくいき、周辺プロテスタント諸国もこれに追随した。

正教会[編集]

正教会が優勢な東欧では、より長い時間がかかった。16世紀、コンスタンディヌーポリ全地総主教イェレミアス2世はグレゴリオ暦を否認し、他の正教会でもグレゴリオ暦を承認する教会はなかった。このことはブレスト合同が不完全なものに終わる結果にも影響があった。

現在でも正教会は、フィンランド正教会を除いてグレゴリオ暦を使用していない[12]コンスタンディヌーポリ教会1923年に採用した暦は修正ユリウス暦英語: Revised Julian calendar)と呼ばれるものであり、厳密にはグレゴリオ暦ではないが、グレゴリオ暦とユリウス暦の月日の修正が行われ、2800年までは二つの暦の間にずれが出ないようになっている(2800年以降は再びずれが生じる)。

今でもエルサレム総主教庁グルジア正教会ロシア正教会セルビア正教会日本正教会はユリウス暦を使用している。ただし、ロシアでも教会以外の一般社会ではグレゴリオ暦を採用している。従って、ユリウス暦12月25日の降誕祭はロシアのカレンダーでは「1月7日」と表示されている。

他方、復活大祭の算出には全正教会がユリウス暦を使用する[13]ため、復活祭およびそれに伴う祭日斎日は全正教会(フィンランド正教会を除く)が一致して祝っている。

日本におけるグレゴリオ暦導入[編集]

日本では、明治5年(1872年)に、従来の太陰太陽暦を廃して翌年から太陽暦を採用することが布告された。この「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」(明治5年太政官布告第337号、改暦ノ布告)では、「來ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事」として、グレゴリオ暦1873年1月1日に当たる明治5年12月3日を明治6年1月1日とすることなどを定めた。そのため明治5年12月2日まで使用されていた天保暦旧暦となった(明治改暦明治の改暦)。

この布告は年も押し詰まった同年11月9日(1872年12月9日)に公布されたため、社会的な混乱を来した。暦の販売権をもつ弘暦者(明治5年には頒暦商社が結成された)は、例年10月1日に翌年の暦の販売を始めることとしており、この年もすでに翌年の暦が発売されていた。急な改暦により従来の暦は返本され、また急遽新しい暦を作ることになり、弘暦者は甚大な損害を蒙ることになった。一方、福澤諭吉は、太陽暦改暦の決定を聞くと直ちに『改暦弁』を著して改暦の正当性を論じた。太陽暦施行と同時の1873年(明治6年)1月1日付けで慶應義塾蔵版で刊行されたこの書は大いに売れて、内務官僚の松田道之に宛てた福澤の書簡(1879年(明治12年)3月4日付)には、この出来事を回想して「忽ち10万部が売れた」と記している[14][15]

これほど急な新暦導入は、当時参議であった大隈重信の回顧録『大隈伯昔日譚』によれば、政府の財政状況が逼迫していたことによる。すなわち、旧暦のままでは明治6年は閏月があるため13か月となる。すると、月給制に移行したばかりの官吏への報酬を1年間に13回支給しなければならない。これに対して、新暦を導入してしまえば閏月はなくなり12か月分の支給ですむ。また、明治5年も12月が2日しかないので、11か月分しか給料を支給せずに済ますことができる。さらに、当時は1、6のつく日を休業とする習わしがあり、これに節句などの休業を加えると年間の約4割は休業日となる計算である。新暦導入を機に週休制にあらためることで、休業日を年間50日余に減らすことができる[16]

しかし、施行まで1か月に満たない期間の中で慌てて布告されたためか、この布告には置閏法に不備があった。その不備とは、グレゴリオ暦の重要な要素である、「西暦の年数が100で割り切れ、400で割り切れない年を閏年としない」旨の規定が欠落していたことである。このままでは解釈次第では、導入された新しい太陽暦はグレゴリオ暦ではなく、「ユリウス暦と同じ閏年の置き方を採用した日本独自の暦[17]」ともされてしまう。また、同布告の前文にある文面もおかしく、グレゴリオ暦で実際に1日の誤差が蓄積されるのに要する年数は約3200年であるにもかかわらず、「七千年ノ後僅ニ一日ノ差ヲ生スルニ過キス」としていた。これは、起草者が参考にした天文書『遠西観象図説』の誤りと考えられている。

そこで1898年(明治31年)5月11日に、改めて勅令「閏年ニ關スル件」(明治31年勅令第90号)を出して、グレゴリオ暦に合わせた閏年に関する調整を定めた。

閏年ニ關スル件(明治31年勅令第90号)
神武天皇即位紀元年數ノ四ヲ以テ整除シ得ヘキ年ヲ閏年トス但シ紀元年數ヨリ六百六十ヲ減シテ百ヲ以テ整除シ得ヘキモノノ中更ニ四ヲ以テ商ヲ整除シ得サル年ハ平年トス

この勅令では、神武天皇即位紀元(皇紀)を用いて閏年と平年とを求めているが、西暦を用いたグレゴリオ暦の採用と事実上違いはない(260を減算すればよいところを660としている点で、グレゴリオ暦そのものを参照していると解釈できる)。この置閏法の誤りを修正する勅令が公布されたときには、日本で太陽暦を導入してから初めての「紀元年數ヨリ六百六十ヲ減シテ百ヲ以テ整除シ得ヘキモノノ中更ニ四ヲ以テ商ヲ整除シ得サル年」である皇紀2560年すなわち1900年(明治33年)は、1年半後に迫っていた。

グレゴリオ暦導入の経緯[編集]

国立天文台暦計算室の暦Wikiの「明治以降の編暦」の記事[18]も参照のこと。

  • 明治5年10月1日(1872年11月1日) : 例年どおり、弘暦者(頒暦商社)により翌年の暦(旧暦)が全国で発売される。
    • 11月初旬(12月初旬):太政官権大外史塚本明毅により建議。[19]
    • 11月9日(12月9日) : 「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」(明治5年太政官布告第337号、改暦ノ布告)を公布。突如として明治5年は12月2日で終了すると定められる。
    • 11月23日(12月23日):太政官布告第359号で「来ル十二月朔日二日ノ両日今十一月卅日卅一日ト被定候」(12月1日および2日を11月30日および31日と定めた)とする。翌24日付け太政官達書で取り消す。
    • 11月27日(12月27日): 太政官布達第374号により、「当十二月ノ分ハ朔日二日別段月給ハ不賜」(この12月の分は、1日・2日の2日あるが、別段月給を支給しない。)と、12月分の月給不支給が各省に通告される[20]
    • 12月2日 : 天保暦を廃止。
  • 1873年1月1日に当たる明治5年12月3日(旧暦)を明治6年1月1日(新暦)とする太陽暦への改暦(明治改暦)。
  • 1873年(明治6年)1月12日 : 頒暦商社の損失補填のため、向こう3年間の暦販売権を認める。
  • 1875年(明治8年)1月12日 : 頒暦商社の暦販売権を明治15年まで延長する。
  • 1883年(明治16年) : 本暦と略本暦が伊勢神宮から頒布される。
  • 1898年(明治31年)5月11日 : 明治5年の改暦における置閏法の問題(明治33年(1900年)がグレゴリオ暦と異なり閏年となってしまう)を修正した勅令「閏年ニ關スル件」(明治31年勅令第90号)が公布される。
  • 1910年(明治43年):官暦の旧暦併記が消滅。
  • 2010年(平成22年):(非公式)この年をもって海上保安庁海洋情報部による非公式な新暦旧暦の対照表の公表が終了した(海洋情報部による暦関連の業務は、天測暦他の必要性によるもので、旧海軍水路部の明治以来のものである)。
  • 2033年:旧暦2033年問題により、旧暦を併記しているカレンダー類がこの年で併記を終了する可能性がある。

各国のグレゴリオ暦導入年月日[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 山崎昭・久保良雄 『暦の科学』、講談社〈ブルーバックス〉、1984年、pp96-98。
  2. ^ 天文年鑑2013年版、p190(このページの執筆者:井上圭典)ISBN 9784416212851
  3. ^ デイヴィッド・E・ダンカン 『暦をつくった人々 人類は正確な一年をどう決めてきたか』 松浦俊輔訳、河出書房新社、1998年12月、15頁。ISBN 4-309-22335-4
  4. ^ 1981年に歴史家のゴードン・モイアー(Gordon Moyer)が発見した。
  5. ^ [1] GREGORIAN REFORM OF THE CALENDAR - Proceedings of the Vatican Conference to commemorate its 400th Anniversary 1582-1982, p.182
  6. ^ [2] GREGORIAN REFORM OF THE CALENDAR - Proceedings of the Vatican Conference to commemorate its 400th Anniversary 1582-1982, p.172
  7. ^ デイヴィッド・E・ダンカン 『暦をつくった人々 人類は正確な一年をどう決めてきたか』 松浦俊輔訳、河出書房新社、1998年12月、p.266,p.277。ISBN 4-309-22335-4
  8. ^ 「教会はコペルニクスに改良案を求めましたが、彼は遠慮深く、当時の天文学は不確かで、暦を改良するほど知識が揃っていないとして断っています。」 青木信仰、「時と暦」、東京大学出版会、1982年9月20日、ISBN 4130020269、p.83
  9. ^ 天文年鑑2013年版、p190(このページの執筆者:井上圭典)ISBN 9784416212851
  10. ^ Meeus, J. & Savoie, D. (1992) “The history of the tropical year” Journal of the British Astronomical Association, 102(1) p. 42による。
  11. ^ Meeus, J. “Astronomical Algorithms”(1991) p.166 および 須賀隆“「七千年ノ後僅ニ一日」の謎”日本暦学会 第21号(2014) p.5 表2 による。
  12. ^ ロシアにおいて1917年グレゴリオ暦3月に起きた革命を「2月革命」、同11月に起きた革命を「10月革命」と呼称するのは、当時のロシアで採用されていた暦に従ったためである。ロシアで最も強い影響力をもつロシア正教会は正教会に属する。
  13. ^ ただしこれは、ユダヤ教の祭日が決まった後でキリスト教の祭日を決定するという初期のキリスト教の祭日決定法に従うためで、グレゴリオ暦を導入していないことによるものではない。ユダヤ教では1年の長さがユリウス暦とほぼ同じユダヤ暦を基準にして祭日を決定するため、正教会では完全にグレゴリオ暦に移行できないだけである。
  14. ^ 福澤諭吉 『福澤諭吉書簡集』第2巻、岩波書店、2001年3月23日、173-175頁。ISBN 4-00-092422-2に収録。

    其後改暦の令あり。此時も同様、唯一片の詔にて更に諭告文を見ず。余り難堪存候に付、生は私に改暦弁と申小冊子を出版して、一時に十万部計り国内に分布し、此出版にては聊か行政の便を助けたること、今日も私に自負の意あり。

    福澤諭吉松田道之宛て書簡(1879年(明治12年)3月4日付)

  15. ^ 福澤は『福澤全集緒言』の中で、『改暦弁』は風邪で寝込んでいるときに6時間で書き上げたもので、発売後ベストセラーになり、2~3箇月で売上額が700円に達したと記している。その後の2~3箇月も同じように売れ続けたので、売上額は合計1000円~1500円に達したようだと記している。

    以上の公文を見れば古来の太陰暦を廃し〔太〕陽暦に改むることにしてはなはだ妙なり。吾々われわれの本願はただ旧をてゝ新にかんとするの一事のみなれば、何はさて置きず大賛成を表したりといえども、も一国の暦日を変するがごときは無上の大事件にして、これを断行するには国民一般にその理由を知らしめて丁寧反覆、新旧両暦の相異あいことなる由縁を説き、双方得失の在る所を示して心の底より合点がてんせしむこそ大切なれ。欧羅巴ヨーロツパ耶蘇ヤソ教陽暦国にて、露国の暦は他にことなることわずかに十二日なれども、古来の慣行にて今日これを改むるを得ず。しかるに日本においては陰陽暦を一時に変化しておよそ一箇月の劇変を断行しながら、政府の布告文を見れば簡単至極しごくにしてそのつまびらかなるを知るによしなし、畢竟ひつきよう官辺かんぺんにその注意なくしてつは筆る人の乏しきがめなりと推察せざるを得ず。れば民間の私に之を説明して余処よそながら新政府の盛事せいじを助けんものをと思付おもいつき、匆々そうそう書綴かきつづりたるは改暦弁なり。その起草は発令の月か翌十二月か、日は忘れたり、少々風邪に犯されとこの上にて筆をり、朝より午後に至るまでおよそ六時間にて脱稿したり。もとより木葉このは同様の小冊子にて何の苦労もなかりしが、さてこれを木版にして発売を試みたるに何千何万の際限あることなし。三版も五版も同時に彫刻して製本を書林しよりんに渡しさえすればただちに売れ行くその有様ありさまは之を見ても面白し。一冊何銭とてたかの知れたる定価なれども、ちりも積れば山とるのことわざれず、発売後二、三箇月にして何かのついでに改暦弁より生じたる純益の金高を調べたるに七百円余にのぼりたることあり。その時、著者はひとり心に笑い、この書を綴りたるはわずかに六時間の労なり、六時間の報酬に七百円とは実に驚き入る、学者の身にかかる利益を収領しゆうりようしてもよろしかるべきやと、あたかも半信半疑にみずから感じたるは、旧藩士族根性のしからしむる所にして今尚これを記憶す。二、三箇月の後も売捌うりさばきは依然としてまず、利益の全額は千円も千五百円も得たることならん。畢竟ひつきよう余が今日に至るまで何に一つの商売もせず、工業もせず、家富みてあまりあるにはあらざれども、大勢の家族と共に心配なく生活してしずかに老余を楽しむは、改暦弁のみならず他の著訳書より得たる利益の多かりしが故なり。

    福澤諭吉福澤諭吉 『福澤全集緒言』 時事新報社、1897年、102-104頁。

  16. ^ 円城寺清 『大隈伯昔日譚』 立憲改進党々報局、1895年、pp. 601ff。
  17. ^ 日付が12日ずれているため、ユリウス暦そのものではない。
  18. ^ http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/CEF2BBCB2FCCC0BCA3B0CAB9DFA4CECAD4CEF1.html
  19. ^ http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994174/131
  20. ^ 『法令全書 明治5年』第7冊、内閣官報局、1912年、pp. 358 f。NDLJP:787952/236漢字は新字体にあらためた。
  21. ^ 同国では1929年10月1日よりソビエト連邦暦が採用されていたが、同日にグレゴリオ暦へ完全に復帰した。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]