ヨハネによる福音書

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ヨハネによる福音書(ヨハネによるふくいんしょ、古希: Κατά Ιωάννην Ευαγγέλιον Kata Iōannēn Euangelion、: Evangelium Secundum Iohannem)は新約聖書中の一書。

マタイによる福音書』、『マルコによる福音書』、『ルカによる福音書』に次ぐ4つの福音書イエス・キリストの言行録)の一つである。ルターは本福音書とパウロ書簡を極めて高く評価しており[1]、その影響は現在のプロテスタント各派に及んでいる。

第四福音書」に位置づけられる『ヨハネによる福音書』は「共観福音書」と呼ばれる他の3つとは内容的に一線を画した内容となっている。この福音書が4つの中で最後に書かれたということに関して研究者たちの意見は一致している。初代教会以来、伝統的にはこの『ヨハネによる福音書』の筆者は、カトリック教会正教会等で伝承されてきた聖伝においては、文書中にみえる「イエスの愛しておられた弟子」すなわち使徒ヨハネであると伝えられてきたが、近代以降の高等批評をとなえる聖書研究家の間ではこの考え方を支持するものはいない。田川建三はこの書は作者ヨハネが自分のかなり特殊な宗教思想を展開した書物であり、イエスを知るための直接の資料にならないとする[2]。成立時期については、最古の写本断片が120年頃のものとの鑑定から一世紀末という見解が多数であったが、特に近年、この鑑定に対する疑問がタイセンらによって提示され彼らの間で再検討がなされている[3]

構成[編集]

『ヨハネによる福音書』は(1:1:-5をプロローグと考えると)本文が1:6から始まっており、最初の部分(1:6-12章)は洗礼者ヨハネの洗礼に始まるイエスの公生活を描き、後半部分(13章-21章)は弟子たちに個人的に語った言葉(告別演説)とイエスの処刑にいたる経緯、イエスの復活までが描かれている。

共観福音書と呼ばれる他の3つの福音書は、イエスの生涯について多く記され、重複記述が多く見られるが、『ヨハネによる福音書』は重複記述が少なく、イエスの言葉がより多く記述されている。

ヨハネはイエスの父なる神とのかかわりについて重点的に説明している。ヨハネは他の3つの福音書よりも鮮明に神の子たるイエスの姿をうかびあがらせている。ヨハネの書くイエスの姿は父の愛する一人子であり、神の子そのものである。また、キリストをあがない主として書く、あるいは神の霊である聖霊を助け主(ギリシア語:パラクレートス)として書く、キリスト教の特徴として愛を前面に押し出すなどの諸点によってキリスト教に大きな影響を与えることになる。

記者[編集]

11世紀のビザンチンの写本。挿絵は福音書を弟子プロクロス(左)に口述筆記させる福音記者ヨハネ(右)。

ヨハネによる福音書と呼ばれている通り、正統的なキリスト教会の伝統・伝承ではこの弟子はゼベダイの子使徒ヨハネであるとされてきた。詳細化された伝承においては、使徒ヨハネが最晩年エフェソスにおいて弟子プロクロスに口述筆記させたとする。しかし、19世紀以来の学術的な研究の結果、使徒ヨハネが第四福音書の著者であるという伝承に由来する意見は高等批評の立場に立つ学者たちの間では支持されなくなった。高等批評の解釈によれば、テキストから読み取れるのは、『ヨハネ福音書』が「イエスの愛しておられた弟子」である無名の著者によって執筆されたということだけである。

非神話化による執筆に用いられた資料[編集]

非神話化を唱えたドイツの聖書学者ルドルフ・ブルトマン1941年に自著『ヨハネ福音書について』で提示した説によれば、『ヨハネ福音書』の著者はイエスの行った奇跡に関して共観福音書とは異なる資料、口述資料を用いているという。また批評学者は「イエスの愛しておられた弟子」の死について言及された21章は、聖書への補遺、付加部分であるとする。

独自性[編集]

  • 他の福音書では名前しか出てこない使徒トマスの批判的な記述があり、「不信のトマス」として植え付けられることに繋がった。宗教史学者のエレーヌ ペイゲルスは、キリスト教トマス派を嘲い蹴落とすために行われたものだったと指摘している。
  • イエスは七度「私である」と自分自身に言及する。
  • 二つの「しるし」が数えられている。(2:11、4:54)
  • サタン悪魔、悪魔つきにまつわる話、終わりのときの予言、山上の説教、倫理的な訓話などが一切ない。
  • 1:39で「第10の時刻」として細かく時間が記されている。
  • ベトサイダの池の水を天使が動かす」ということが5:3に記されている。
  • 7:8-10でイエスは祭りに行くつもりはないといっているが、兄弟たちが行った後でひそかに行く。
  • 13:3-16でイエスは弟子たちの足を洗う。
  • 20:1でマグダラのマリアは一人で墓へ向かう。
  • マグダラのマリアは空の墓を二度訪れるが、そこで彼女はイエスの遺体が盗まれたと思い込む。二度目には天使を見ているが、天使たちもイエスの復活は告げない。天使たちはただ「なぜ泣いているのか」とたずねるだけである。さらにマリアは近づいてきたイエスを園丁だと思い込んでいる。そのとき、イエスは「わたしに触れてはならない」という有名な言葉を残す(20:1-18)。その一方で、トマスに対しては自分のわき腹に指をいれて幽霊ではないことを確かめるよううながしている。トマスはイエスを目の当たりにしてその復活を信じたため、実際にはイエスに触れることはなかったが、マリアに対する態度と比べると差がみられる。
  • 初期のキリスト教徒たちのあるものは「イエスの愛しておられた弟子」が不死であると信じていたようである。『ヨハネ福音書』の補遺箇所(21章20節以降)はその弟子の死を説明するものとして書かれたと考えられる。
  • 伝統的にはヨハネであるとされている「イエスの愛しておられた弟子」の名前は本文中では決して明らかにされない。

脚注[編集]

  1. ^ M.ルター『新約聖書への序言』「新約聖書の正しい且つ最も貴重な書はどれであるか」(1522年)、石原謙訳『キリスト者の自由、聖書への序言』岩波文庫、1955年 ISBN 4003380819 所収
  2. ^ 田川建三イエスという男』第二版 p.27
  3. ^ 例えば、G.タイセン『新約聖書―歴史・文学・宗教』教文館、2003年 ISBN 4764266369

関連項目[編集]