ペトロの手紙二

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第二ペトロ書を含む最古の写本「パピルス72」

ペトロの手紙二』(ペトロのてがみに)は新約聖書正典中の公同書簡に分類されている一書で、伝承上は使徒ペトロ(ペテロ)に帰せられている手紙の一つである。記事名の『ペトロの手紙二』は新共同訳聖書での呼称で、ほかに『ペテロの後の書』(文語訳聖書)、『ペテロの第二の手紙』(口語訳聖書)、『ペトロの第二の手紙』(バルバロ訳聖書フランシスコ会訳聖書岩波委員会訳聖書)、『ペテロの手紙 第二』(新改訳聖書)、『ペトルの後書』(日本正教会訳聖書)などとも呼ばれる。以下、便宜上、「第二ペトロ書」と表記する。

概要[編集]

イエス・キリスト使徒であったペトロが、死を目前にした状況で書いたという体裁になっている書簡で、全3章で構成される。偽教師たちが説く偽りの教えを攻撃しつつ、最後の審判がいつになったら来るのかと揶揄する不信心者たちの誤りを指摘し、正しい信仰を堅持するように説いている。

実際の著者がペトロかどうかには議論があり、むしろペトロの名を借りて別人が執筆したとする説の方が有力である。その見地に立つ場合、成立は2世紀前半であろうとしばしば見なされている。

著者[編集]

冒頭で著者は自らのことを「シメオン・ペトロ」と名乗っているが、新約聖書正典の中で使徒ペトロがシメオン(ヘブライ語表現のシモン)と呼ばれるのは『使徒言行録』15章14節のみで、本人の自称としての使用例はない[1]。この「シメオン」という表記について、本書をペトロの真正書簡と見る『新実用聖書注解』(担当倉沢正則)は、「本書の信憑性の証拠」「ユダヤ人と異邦人の両方の読者のため」「著者のキリストによる変化を表したもの」という3つの説を例示し、「いずれにしても公的色合いが強い」と結論付けている[2]。他方、ペトロの名を借りた偽名書簡とする立場の『新共同訳新約聖書略解』(担当辻学)は、ペトロ自身が書いたかのように見せかけるためと見なしている[1]

そもそも文体が『第一ペトロ書』(これ自体、偽名書簡とする説が有力である)とも異なり、ペトロ自身に本書のような流麗なギリシア語書簡は書けなかったはずだという指摘がある[3]。『バークレー聖書辞典』は、本書の文体を「派手で華々しい」ものであるという。それに対して福音派からは、シルワノに口述させた第一ペトロ書と異なり、この第二ペトロ書は自身で直接書いたか、別の筆記者を間に挟んだことで文体の違いが生じたのだろうといった反論がある[4]

とはいえ、現在において、ペトロの真正書簡と見る側が少数派であること自体は、『新実用聖書注解』でも認められている[5]。同様の認識は、やはり真正書簡説を採る福音派の『エッセンシャル聖書辞典』でも示されている[4]

成立年代[編集]

本書自身の記述では、死を目前にしたペトロによって書かれたという(1章14節)。真正書簡と見る場合、これを踏まえて、執筆年代はペトロの殉教直前に置かれる。カトリックフェデリコ・バルバロは66年末もしくは67年初頭のローマと推測し[6]福音派からは66年頃のローマ[4]、68年頃[7]などの説が出されている。

偽名書簡と見る場合、執筆時期の根拠とされる記述はいくつかある。その一つが、3章15節および16節でパウロの手紙が広く読まれているとされている箇所である。この箇所から本書が成立した時期には、すでにパウロの手紙がまとめられ、旧約聖書のような権威を獲得していたことがわかる[8]。これがパウロの生前に起こっていたとは考えづらいのである[9][10]福音派からは、現在のようなパウロ書簡集ではなく、あくまでも部分的な結集であれば、パウロの生前にもありえたとか[4]、ペトロがパウロ(あるいはその同道者のシルワノなど)との個人的に接点を持っていたことで、パウロ書簡を知りえた可能性などの反論が示されている[5]

二つ目の点が、3章3・4節のくだり(後掲)で、ここで語られる「先祖」は、イエスを直接知る第一世代のキリスト者を指していると理解される。ゆえに、その人々がすでに死んでかなり経ったものとして語られている以上、ペトロ自身が書いたものとは考えられず、より後の時代の人が書いたと考えられる[11][12][10]。福音派からは、あくまでもこの場合の「先祖」は旧約聖書で語られている族長たちと見るべきであって、ペトロの真筆性を否定するものではないなどの反論がある[13]

正確な成立時期は不明だが、リベラル派聖書学者たちからは、2世紀前半[14][3]から半ば頃[15][16]とされ、しばしば新約聖書におさめられた諸書の中では本書がもっとも遅い時期に成立したと言われている[17][15][18]

2世紀には『ペトロの黙示録』、『ペトロの説教』、『ペトロによる福音書』、『ペトロ言行録』(ペトロ行伝)などのペトロの名を借りた外典が多く執筆された時期であり、この第二ペトロ書も本来それらと同じグループに属する文書と見る速水敏彦のような立場もある[19]

他の文書との関連[編集]

この書簡では、旧約聖書の『創世記』に登場するノアロト、『民数記』に登場するバラムなどへの言及が見られるほか、終末の描写に『イザヤ書』『ゼファニヤ書』『マラキ書』などとの関連が指摘されている[20]

3章15・16節で言及されているパウロ書簡については、『ローマ書』2章4節と関連している可能性を指摘する意見がある一方[21][22]、より広く『ローマ書』、『第一コリント書』、『第二コリント書』、『第一テサロニケ書』などとの関連を推測する意見もある[23]

また、この手紙は『第一ペトロ書』の続編として書かれたことになっており(3章1節)[24]、実際、1章2・3・11・14節および2章5節などは第一ペトロ書との関連性が指摘されているが[25]、むしろ内容的には『ユダ書』との共通箇所が多く見られる。特に第2章はユダ書3節から16節と非常によく似通っている[26][27]。また、3章2・3節と『ユダ書』17・18節が並行している[28]

こうした一致から、ユダ書との関連が確実視されるが、どのような関連性を見るかは論者によって異なる。有力なのはユダ書を元に第二ペトロ書が書かれたとする見解で、その根拠としてはユダ書が偽典であるエノク書などからも引用しているのに対し、第二ペテロではそのような箇所がないことから、正典性を厳格に考えた第二ペテロがあえてその箇所は転用しなかったと考えるほうが逆の可能性を考えるよりも自然であることなどが挙げられている[28][29]

他方、ペトロの真正書簡と見る立場では、ユダ書の成立はペトロの殉教よりも後と推測されるために、第二ペトロ書を元にユダ書が書かれたと考えられている[4][5]

このほか、共通の伝承などに基づいて書かれたものであって、一方が他方を元にしたという関係ではないという説もあり、中でも田川建三は、そっくりといわれる第二ペテロ書2章1節から3章3節までとユダ書の並行箇所が、単語・表現レベルで見た場合には13.4%しか一致していないことなどを根拠に、一方が他方を引き写したと見ることを強く批判している[30]

正典化への流れ[編集]

第二ペトロ書を正典とするかどうかは、古くから多くの議論があり、正典に組み込まれたのは最も遅かった[31]ローマのクレメンスポリュカルポスといった使徒教父の文献には第二ペトロ書への言及は見られない[32]。また、エイレナイオステルトゥリアヌスが正典と認めた文書の中に第二ペトロ書は挙げられていなかった[33]。さらに、いわゆる『ムラトリ正典目録』(2世紀末から3世紀初頭)でも挙げられていない[34]

現存する最古の写本は3世紀初頭のパピルス72英語版である[31][35]。第二ペトロ書に最初に言及したのはオリゲネス(253年歿)とされるが、「疑わしいもの」として扱う立場であった[36][31][35][注釈 1]

363年ラオディキア会議では正典として認められた。この判断はアレクサンドリアのアタナシオスの『第三十九復活祭書簡』(367年)、ヒッポ会議(393年)、カルタゴ会議(397年)などでも堅持された[37]ヒエロニムス(420年歿)の場合、疑う学者の多さに言及しつつも、正典性は認めていた[38]。シリア地方の教会で受け入れられたのは6世紀初頭以降のことであったが[35]、東方でもトゥルルス会議(692年)で正典であることが認められている[37]。その後、カトリック教会では、16世紀のトリエント公会議で正典であることが確定した[38]。同時代のマルティン・ルターは正典に含まれる一部の文書に否定的評価を下したが、その中に第二ペトロ書は含まれていなかった[39]。他方で、デジデリウス・エラスムスジャン・カルヴァンは真正性を疑問視した[35][注釈 2]

終末の遅延の問題[編集]

第3章ではいわゆる「終末の遅延」の問題が扱われている。

3まず次のことを知るべきである。終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、4「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」と言うであろう。5すなわち、彼らはこのことを認めようとはしない。古い昔に天が存在し、地は神の言によって、水がもとになり、また、水によって成ったのであるが、6その時の世界は、御言により水でおおわれて滅んでしまった。7しかし、今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである。8愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。9ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。10しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。11このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、12極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。13しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。14愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい。

日本聖書協会、口語訳聖書 ペテロの第二の手紙3章3 - 14節

第二ペトロ書の執筆意図は、ここで言われているように、キリストの再臨を嘲笑する人々を批判し、信仰を堅く守り、正しく生きるように勧めるものであったとされる[40][41][42][43]

訳語の問題[編集]

上記引用箇所のうち、12節について別の訳がある(口語訳聖書では11節とまたがって訳されているので、便宜上11・12節をまとめて扱う)。

かく此等のものはみな崩るべければ、汝等いかに潔き行状と敬虔とをもて、神の日の來るを待ち之を速かにせんことを勉むべきにあらずや、その日には天燃え崩れ、もろもろの天體燒け溶けん。

日本聖書協会、文語訳聖書 ペテロの後の書3章11・12節

つまり「熱心に望む」のか「早める」(速やかにせん)のか、という違いがある。これは写本の違いとして説明されることもあるが[44]、むしろ原語に2通りの意味があることから説明される[45][46]。ただし、本来的な意味は「早める」の方である[45][46]

通俗的な紹介と批判[編集]

ベストセラーノストラダムスの大予言』シリーズの著者である五島勉は、シリーズ最終巻で第二ペテロ書の第3章3節から12節を引用し、これが聖書に描かれた「世界破滅へのリアルな警告」の「恐怖の頂点」であると紹介した[47]

これに対して聖書学者の浅見定雄は聖書の曲解であると批判した。まず、浅見が指摘したのは、五島の不適切な引用の仕方である。五島はあたかも忠実な引用であるかのように、省略を示すしるしを一切記載せずに3節から12節を引用しているが、実際には12節の「極力、きよく信心深い行いをしていなければならない」(口語訳)にあたる箇所を省いている。しかも、13節以下も略すことで、信心深い生活への勧めという本来のニュアンスが読み取れないようになっているのである[48]。また、五島はこれを聖書の約3分の1にわたる世界破滅への警告の例として紹介したが、浅見は、五島が引用した第二ペテロ書のくだりは、同文書の約4000字のうちの100字余りに過ぎず、他の文書の登場箇所とあわせても3分の1などということはないと、その歪曲の仕方を批判した[48]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ フランシスコ会聖書研究所の注解では、議論のある書物であることを認めつつも、正典性を認めるものであったとされている(フランシスコ会聖書研究所 1970, pp. 76-77)。
  2. ^ カルヴァンが否定したのはペトロ自身によって書かれたという点であって、正典性までは否定していない(ジャン・カルヴァン 1963, pp. 145-147)。

出典[編集]

  1. ^ a b 辻 2000, p. 699
  2. ^ 倉沢 2008, p. 1815
  3. ^ a b 辻 2000, p. 698
  4. ^ a b c d e 山口 1998, p. 536
  5. ^ a b c 倉沢 2008, pp. 1813
  6. ^ フェデリコ・バルバロ 1975, p. 622
  7. ^ 尾山 1964, p. 288
  8. ^ 小林 1996, p. 350
  9. ^ フランシスコ会聖書研究所 1970, pp. 75-76
  10. ^ a b 日本聖書協会 2004, p. 25
  11. ^ 小林 1996, p. 351
  12. ^ 辻 2000, pp. 698, 703-704
  13. ^ 倉沢 2008, pp. 1820-1821
  14. ^ 小林 1996, p. 351
  15. ^ a b W・マルクスセン 1984, p. 427
  16. ^ 秋山 2005, p. 402
  17. ^ フランシスコ会聖書研究所 1970, p. 75
  18. ^ 宮本 1992, p. 738
  19. ^ 速水 1991, p. 433
  20. ^ 日本聖書協会 2004, pp. 436-439(新)
  21. ^ 辻 2000, p. 705
  22. ^ フランシスコ会聖書研究所 1970, p. 94
  23. ^ 速水 1991, p. 443
  24. ^ フランシスコ会聖書研究所 1970, pp. 90-91
  25. ^ 速水 1991, pp. 440
  26. ^ 川村 1980, p. 422
  27. ^ 速水 1991, p. 437
  28. ^ a b 速水 1991, p. 475
  29. ^ フランシスコ会聖書研究所 1970, pp. 78-79
  30. ^ 田川 2015, pp. 349-352
  31. ^ a b c 倉沢 2008, p. 1812
  32. ^ 加藤 1999, pp. 221-222
  33. ^ 加藤 1999, pp. 250-251
  34. ^ 加藤 1999, p. 252
  35. ^ a b c d 速水 1991, p. 432
  36. ^ 加藤 1999, p. 253
  37. ^ a b 加藤 1999, p. 273
  38. ^ a b フランシスコ会聖書研究所 1970, pp. 76-77
  39. ^ 加藤 1999, p. 274
  40. ^ 倉沢 2008, p. 1814
  41. ^ 川村 1980, pp. 423-424
  42. ^ 小林 1996, pp. 353-354
  43. ^ ヨハネス・シュナイダー 1975, pp. 225, 262
  44. ^ 日本聖書協会 2004, p. 440(新)
  45. ^ a b 小林 1996, p. 177
  46. ^ a b 速水 1991, p. 442
  47. ^ 五島勉『ノストラダムスの大予言 最終解答編』祥伝社、1998年、pp.157-159
  48. ^ a b 浅見 1999, pp. 60-61

参考文献[編集]

関連項目[編集]