宣明暦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

宣明暦(せんみょうれき)とは中国暦の一つで、かつて中国・日本などで使われていた太陰太陽暦暦法である。正式には長慶宣明暦(ちょうけいせんみょうれき)と言う。

目次


和暦の日付は、旧暦表示。西暦の日付は、1582年10月4日[1]まではユリウス暦表示、1582年10月15日[2]以降はグレゴリオ暦表示。

[編集] 使用期間

[編集] 中国

唐の長慶2年(822年)から景福元年(892年)までの71年間使用された。

[編集] 日本

[編集] 概要

[編集] 中国

の徐昴が編纂したもので、当時としては優れた暦法であり、特に日食月食の予報に進歩が見られた。

[編集] 日本

天安3年(859年)に渤海使がもたらし、それまでの大衍暦・五紀暦[3]に代わり用いられる。暦博士大春日真野麻呂の強い推挙によるものとされている。

その後、朝廷の衰退や暦学の停滞などにより改暦が行われず、長期にわたり使用されたために誤差が蓄積することになる。

また、暦の編纂は本来は朝廷が独占して行うものであり、暦の算出法に関する書物は陰陽寮以外には秘書とされていたが、宣明暦があまりにも長く使用されていたために、次第に民間に流布するようになり、さらには出版されるようになった。さらに、鎌倉時代以降は朝廷の力が弱まり、京で作られた暦が地方へ伝達しにくくなったことから、各地で独自に宣明暦の暦法によった暦(民間暦)が作られるようになった。

ところが、戦国時代に朝廷において暦道を担当していた勘解由小路家が断絶した影響などで京における暦の編纂に混乱が生じると、京と地方の民間暦との間で置閏法などに違いが生じるなどの混乱が発生した。例えば、天正11年(1583年)1月に京暦で行われる予定の閏月が、民間の三島暦を採用していた北条氏上杉氏里見氏などの領内では前年の天正10年12月に閏月が行われ、特に信濃国では同じ国内であるにも関わらず、真田氏蘆田氏は三島暦、諏訪氏小笠原氏は京暦に従って閏月を実施するなどの混乱が生じた。

更に江戸時代初期には、二十四節気などが実際よりも2日早く記載されるようになっていた(もっとも、9世紀に作成された暦が800年で2日間しかずれなかったと見ることも可能である)。このために渋川春海によって貞享暦が編纂され改暦が行われる。

[編集] 脚註

  1. ^ ユリウス暦1582年10月4日は、グレゴリオ暦で換算すると1582年10月14日
  2. ^ 1582年10月15日…グレゴリオ暦実施日。
  3. ^ a b 五紀暦は、天安 2年(858年)から貞観3年(861年)までの間、大衍暦と併用される。
  4. ^ 貞享元年12月30日(宣明暦)は、グレゴリオ暦では年が明けて「1685年」となる。

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献


先代:
観象暦
中国暦
長慶2年(822年) -
景福元年(892年
次代:
崇玄暦
先代:
大衍暦
五紀暦
(併用)
和暦
貞観4年1月1日 -
貞享元年12月30日
862年2月3日 -
1685年2月3日
次代:
貞享暦