因果性

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因果性(いんがせい、: causality)とは、何かある物事が他の物事を引き起こしたり生み出している、とされる/する、結びつきのことである。

概要[編集]

因果性とは、2つの出来事が原因と結果という関係で結びついていることや、あるいは結びついているかどうかを問題にした概念である。英語ではcausalityと言う。日本語では類語で「因果関係」という表現も用いられる。

「Cが起きた原因はB1とB2である」「Aの結果、Zが起きた」「AのせいでBが起きた」などが因果性があると表現した文章である。

ひとつの出来事に骨状・ツリー状に原因の連鎖を挙げ、それらを分析することで改善を図る特性要因図の一例。(純粋科学的なレベルではなく、日常・実用・工学的なレベルで 原因を分析する)

ある出来事の原因、について考察する時、しばしばたったひとつのことを原因として挙げる人がいる。例えば、「今朝遅刻した原因は、昨日飲み過ぎたのが原因だ」といったような考え方をする人である。だが、「昨日飲み過ぎたことが、今朝の遅刻の原因」と言うことが適切なのかは実は怪しい。例えば、昨日飲み過ぎたとしても、昨晩目覚まし時計をかけるのを忘れなければ、起きられたかもしれない。夜中に近所で騒音がして睡眠が妨害されることが無かったら起きられたかも知れない。カーテンを閉めて朝日が入らなかったことも原因かも知れない。他にも書ききれない無数の条件が揃っていたからその出来事は起きたのである。「遅刻した」というひとつの出来事には、実際には無数の原因が存在しているのである。

人々が因果関係だと信じているものの中には、実は誤解・錯覚にすぎず、因果関係ではないものが多数含まれている。因果性に関する誤謬のひとつに、同時に発生している2つの出来事のあいだに因果性を認めてしまう誤謬もある。アイスクリームの消費が増える時期と水死者が増える時期はおおむね一致するが、だからといって「人々がアイスクリームを食べたから、水死者が増えた」とするのは短絡的で、実際には相関関係にすぎない。「暑い→アイスクリーム消費量が増える」「暑い→水遊びをする人が増え水死者が増える」という共通原因があるに過ぎない。

西洋哲学では古来、因果性についてさまざまな考察が行われてきた。アリストテレスは原因を4つに分類して考察してみせた。これは現在でも有用性が認められることがある。ヒュームは哲学的に、因果性の存在自体について疑問視した。

もともとギリシアでは自然はそれ自体に変化する能力がある、と理解されており、自然は動的なもの、それ自体で変化するもの、としてとらえられていた[1]。自然自体、そして個々の存在自体の中にも原因・動因がある、という理解である。それは一般的な理解であった(東洋人でも、一般的な自然理解としては、昔も今も、自然自体に変化する能力を認めている)。西欧でデカルトが世界論を最初に構想・執筆した時、(ギリシアの自然観同様)自然自体に発展する能力を認めた説を構築しその原稿を書いた[1][2]のだが、原稿を書き終えた後でガリレオ裁判の判決の結果を聞いたデカルトは、自身がブルジョア階級者で体制側の人間そのものでもあったこともあり、体制である教会を敵にまわすことを避けるため、その説の出版は止め[1]、説の内容を改変し[1]、キリスト教的な神が必要とされるように、”自然は死んでいて、常に神が働きかけることによって動いている”、とする世界観の説へと変えてしまい、それを出版した(『世界論』)[1]。もともと世の中では一般的に、(要因・原因)には、内的な力と外的な力があるとされていたのが、デカルトの政治的な意図によって改変されたその論では内的な力がすっかりそぎ落とされてしまったわけである。こうして改変された説が、同時代・後世へと大きな影響(悪影響)を及ぼしてゆき、死んだものとしての自然観、個々の存在の内的な力(動因)の記述が欠落した説明方法が登場し、世に広まってゆくことになった。自然哲学アイザック・ニュートンも、自身の信仰によってを考慮しつつ説を組み立てており万有引力と関係させ、空間は神の感覚中枢、と述べた[3]。デカルトの書物の影響も大いに受けつつ、またニュートンの説の中の含まれている粒子論などの影響も受けつつ(しかもデカルトの意図ともニュートンの意図とも異なった形で)、18世紀の西欧では機械論という、世界を独特の単純な図式、外的な動因だけで説明する方法が広まったが、そこでは原因と結果についてもきわめて単純な考え方をしていた。19世紀ごろに数が増えていった科学者たちは、(ニュートンの意図とは異なり)自分たちの単純な機械論的世界観に合う部分だけを恣意的に抽出して古典力学を構築して、ついにはラプラスのように神は不要と主張しつつ決定論的な世界観を強く主張するものが出た。ある状態が決まれば結果は一意に決まるはずだ、といった主張である。だが一時期強固にも見えたこうした世界観は20世紀になり崩れてゆくことになった。

20世紀に発展した量子力学では、subatomicレベル(原子より小さいレベル)での状態は、直前の状態によって決定されるのではなく、純粋に確率的に起きている、とされるようになった[4]。そこでは、機械論的な因果観はもはや通用しない。現代科学では、厳密に言って、もはや決定論は時代遅れとなった。状態が決まっても結果は一意には決まらない、とする論などを非決定論と言う。

ただし、日常的には、原因や結果という概念は(古典力学的にでもなく、量子力学的にでもなく)従来からの人々の習慣どおりに用いられている。

アリストテレスの説[編集]

アリストテレスは、ものごとが存在する原因を以下の四種類に分類した(これを「四原因説」と言う)。

  • 素材因(質料因)
  • 形相因
  • 作用因(始動因)
  • 目的因

この考え方が良く理解できるひとつの例を挙げると、例えば、目前にひとつの木彫りの彫刻が存在する場合、これが存在するのは、誰かが、木材という「素材」を用いて、何らかの表現をする「目的」で、彫るという「作用」を加え、なんらかの「形」を作り出したからである。このようにアリストテレスは、原因というものを四つに分類してみせた。

また、アリストテレスは、世界の様々なできごとの原因を、原因の原因、またさらにその原因…と遡ってゆくと、最終的に第一原因にたどりつく、とした。この第一原因を、別の文脈では「不動の動者」と呼んでおり、とほぼ同じ意味で用いられた。

ヒュームの因果説[編集]

西洋近代ではデイヴィッド・ヒュームが、因果性とは、空間的に隣接し時間的に連続で、2種類の出来事が伴って起きるとき、この2種類の出来事の間に人間が想像する(人間の心、精神の側に生まれる)必然的な結合関係のことである、とした。つまり、物事はたまたま一緒に起きているだけでも、人間が精神活動によって勝手に結びつきの設定をしている、という指摘を含んでいる。

因果規則性説[編集]

隣接し、連続して起きる二つの出来事は、それを述べる普遍言明の文に組み込まれるとき、因果的に結びついている、とする。ヒュームの心理的要素を除き、そのかわりstatement記述の生成という点に着目している説。科学の場で記述を作りだしてゆく方法やその問題点についての示唆も与えてくれる説である。

単称因果言明、因果律[編集]

人間というものは、あるいは人間の頭脳というものは、規則性の記述が現前になくても、いくつかの出来事を知覚・認知しただけで、それらが因果的に結びついていると考える強い傾向を持っている。

例えば、「この医者がお産にたずさわったことが、この妊婦の産褥熱を引き起こした」というstatement言明がある。この言明は、たとえ「お産への従事が、全て産褥熱を引き起こす」という普遍言明(全称命題)が偽であるにしても、それとは独立に真でありうる(可能性がある)。個々の出来事は、この言明が記述する順序で起きているためである。

個々の出来事の間に因果性の関係を設定するのは、人間の精神というものが、「全ての出来事には原因がある」という考え方、いわゆる「因果律」の考え方、を前提にしているからである。

人間は日常生活を送る上では、そのような考え方、つまり「全ての出来事には原因がある」とする考え方をして、特に問題は生じはしない。だが、いざそれが本当にそうなのか、正しく論証しよう、科学的に究明しようとすると、実は非常に困難である。それが困難であることは、歴史的には、カントによる論証の試みにも現れている。

因果律という考え方の反事実条件法への置き換え[編集]

「全ての出来事には原因がある」と「因果律」という考え方を採用するということは、宇宙全体の性質に関して、検証も無しに、形而上学的に非常に強い主張をしてしまうことになる[5]。このような主張を含んでしまうと、結局、証明も反証もできない言明をしてしまっているのと同じことになるので、(広く認められている反証主義の方法論を採用すると)これはもはや科学的言明ではない、ということになってしまうのである。

一般に、科学の世界では、もし途方もなく強い主張をする時は、途方もない主張を支えるに足るだけの非常に確たる証拠を示さなければならない、とされている。したがって、(科学的な方法を守り、科学的な記述を構築してゆくためには)このような主張(因果律)を含めずに済むならば、そのほうが良いのである[6]

また、「出来事xが、別の出来事yを引き起こした」という単称因果言明は、「この状況においては、出来事xがなければ、出来事yは起きなかったはずだ」という、条件法命題に置き換えると、「因果律」という、途方もない前提は含んでいない。

「この状況においては」という箇所の明示的な記述が必要となってくる。実は、これを厳密に行おうとすると、大きな困難が生じる。というのは、その状況というのは、つきつめると厳密には全宇宙の状態を記述しなければならないということになるからである。このように結局、因果性という概念は、本質的に形而上学的概念である[7]

因果律[編集]

物理学における因果律[編集]

古典物理学での因果律とは、「現在の状態を完全に指定すればそれ以後の状態はすべて一義的に決まる」と主張するものであったり、「現在の状態が分かれば過去の状態も分かる」と主張するものである[8]

また相対性理論の枠内においては、情報は光速を超えて伝播することは無く、光速×時間の分以上離れた距離にある二つの物理系には、時間をさかのぼって情報が飛ぶ事無しに、上記の時間内に情報のやり取りは起こらない。物理学の範疇ではこの「光速を超える情報の伝播は存在しない」という原理を同じく因果律という。[8]

日常に比べて極めて小さいスケールでは物理を論じるに当たって量子力学が必要となるが、 量子論が必要な極小の世界では古典的な意味での因果律は完全には成り立っていない[9]。 量子論では不確定性原理の許す範囲でならば運動量エネルギーが運動方程式に従わない値を取ることが可能である。運動方程式の解である状態関数は全ての実現可能な状態の中から運動方程式が示す状態が実現している確率振幅しか与えず、運動方程式によって全ての運動が一義的に決まることは無い[10]

古典的定義から離れ因果律の定義を「時間軸上のある一点において状態関数が決まれば以降の状態関数は自然に決まる」と解釈すれば「量子論的領域でも因果律は保たれる」と言える。[11]「一見因果律が破れているように見える思考実験であるEPR相関においても、実際光速を超えているのは状態関数の波束の収束速度であり、状態関数そのものが演算子によって書き換えられる(つまり情報を受け取る)わけではなく、因果律は保たれている」と言える。[12]

歴史[編集]

因果律の概念を正確に理解しようとすると、人間が素朴に抱いている「時間」という概念(あるいはそう捉える人間の認知システム)の本質についての考察と切り離して考える事はできないのだが、「そもそも時間とは何か」という点についてすらも確かなことは分からず、西洋科学の時間論も結局はキリスト教的時間観を先入観として構築したものにすぎず(時間の項も参照のこと)、人類が素朴に抱く因果律という観念の基盤は実は危うい。

人間の因果に関する認識について問題提起を行った哲学者イギリスディヴィッド・ヒュームがいる。彼は普段人間がある物事と物事を結びつけて考える際、先に起こった事が後の事の原因になっていると観察する暗黙の経験則に導かれているに過ぎないのではないかと疑った。つまり蓋然性は必ずしも必然性を意味しないという事であり、連続して起こった偶然錯覚している可能性があるとする。

近世になると西欧で機械論的な世界観が強く主張され、単純な因果律が主張された。そして、20世紀初期にはアルベルト・アインシュタインによって相対性理論が発表されたが、そこには時空連続体という概念が含まれており、因果律についても新たな観点が与えられる事となった。

20世紀も半ばになると、確率論統計学量子力学も大きな発展をとげ、特に量子力学は、全ての事象は(先行する物理的状態と結びつけることは困難なしかたで)確率的に起きている、ということを実証し、因果律という考え方は後退することになった。ニールス・ボーア(1885- 1962)も、"因果律"というのは、あくまで人間的なスケールにおいて限定的に、あたかも成り立っているように見えているにすぎない、近似として成り立っているにすぎない、微視的なスケールでは成り立っていない、と釘をさした。[13]

SFなどにおける因果律[編集]

因果律は、サイエンス・フィクション(SF)の分野ではしばしば扱われるテーマである。例えばタイムマシンについて、その存在により因果律が破綻することによるパラドックス(タイムパラドックス)がエッセンスとして用いられたり、または、そのようなパラドックスの「発生を防ぐ」という事が物語の主要テーマとして用いられるような例がある。

また、タイムマシンの可能性を否定する根拠として"因果律"が用いられている場合がある。タイムパラドックスの存在がその根拠とされる。しかし、因果律自体が科学的客観的に証明された事実ではない以上、タイムマシンの存在を否定する根拠として用いるのは不適当である。「ただし、因果律について考察を行う場合には、仮にタイムマシンの存在を仮定してみることが必要不可欠である」という。

脚注[編集]

出典[編集]

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  1. ^ a b c d e 大沼正則 『科学の歴史』 青木書店、1978年
  2. ^ つまり、現代の創発の概念にもつながるような発想の原稿。
  3. ^ 『光学』、空間は sensorium dei神の感覚中枢 と記述している
  4. ^ 平凡社『西洋思想大事典』1990 【因果性】
  5. ^ 『哲学・思想 事典』
  6. ^ 『哲学・思想 事典』
  7. ^ 『哲学・思想 事典』
  8. ^ a b 平凡社『世界大百科事典』vol.7 p.7【因果律】
  9. ^ 平凡社『西洋思想大事典』【因果性】p.595
  10. ^ Peskin, Schroeder A Introduction to Quantum Field Theory 2章 他
  11. ^ 上田正仁 現代量子物理学 他
  12. ^ 上田正仁 現代量子物理学 他
  13. ^ ニールス・ボーア 『ニールス・ボーア論文集〈1〉因果性と相補性』岩波文庫


参考文献[編集]

  • 江夏弘「場の量子論における相対論的Hamilton形式と微視的非因果律」『立命舘大学理工学研究所紀要』 11 pp.65-66 1964
  • 関根松夫「高エネルギーで因果律の破れている可能性」『素粒子論研究』、36(3) pp.231-242 1967.11
  • 関根松夫「因果律の破れと高エネルギーπ-N全断面積」『素粒子論研究』、40(5) pp.200-202 1970/01
  • 稲垣久和「微視的因果律の破れと共鳴準位」『素粒子論研究』、49(1) pp.22-34 1974.03
  • 藤沢令夫「Aitia-Causa-Cause--「因果律」とは基本的に何だったのか」『理想』、1987, (634) pp.100-103、1987/04
  • 相澤洋二「複雑系と多対多の因果律」(研究会「複雑系」,研究会報告)、『物性研究』、59(3) pp.343-347 1992.12

関連項目[編集]