人身御供

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人身御供(ひとみごくう)とは、人間への生贄とすること。人身供犠(じんしんくぎ[3]/じんしんきょうぎ[4])とも。

転じて比喩的表現として、権力者など強者に対して通常の方法ではやってもらえないようなことを依頼するため、もしくは何らかの大きな見返りを得るために、理不尽にもかかわらずその犠牲になることに対しても使われている。

概要[編集]

人身御供の行為は、特にアニミズム文化を持つ地域の歴史に広く見られる。人間にとって、最も重要と考えられる人身を供物として捧げる事は、神などへの最上級の奉仕だという考え方もある。

今日でこそ人権等の考え方から個人が尊重されているが、古代社会では人命は災害飢饉によって簡単に失われる物だった。このため、気紛れな自然に対する畏怖のため、人身を捧げる風習が発生したと考えられる。特に災害に於いては、自然が飢えて生贄を求め猛威を振るっているという考えから、大規模な災害が起こる前に、適当な人身御供を捧げる事で、災害の発生防止を祈願した。

特に日本では、河川が度々洪水を起こしたが、これは河川を管理している水神(の形で表される)が生贄を求めるのだと考えられた。今日に伝わるヤマタノオロチ等の龍神伝承では、直接的に龍に人身を差し出したと伝えられるが、実際には洪水などの自然災害で死亡する、またはそれを防止するために河川に投げ込まれる、人柱として川の傍に埋められる等したのが伝承の過程で変化して描写されたのだと考えられている。

これらは後に人身を殺害して捧げる行為が忌避されるにつれ、人の首(切り落とされた頭)に見立てて作られた饅頭や粘土で作った焼き物(埴輪兵馬俑)等の代用品が使用されたり、または生涯を神に捧げる奉仕活動を行うという方向に改められるなどして、社会の近代化とともに終息していった。

その一方で、近代から現代に掛けても悪魔崇拝集団自殺等により、人身を捧げる儀式も発生し、社会問題化する事がある。前者の悪魔崇拝では、中世ヨーロッパ魔女狩りで流布されたサバトの描写中で、赤ん坊悪魔に捧げたとする伝承(これは「反キリスト教的な行為」と考えられている・後述参照)が、「悪魔を崇拝するのに必要な儀式」として解釈されたのだと考えられ、実際に悪魔崇拝をする過程で幼児などを殺害した異常者の事例も存在し[要出典]、例えばウエスト・メンフィス3事件はこのような事例の一つと考えられている。後者の宗教に絡んだ集団自殺行為では、供物として神に捧げられるというよりも、死ぬ事で理想化された死後世界に到達するのだ(人民寺院の集団自殺事例など)という極めて利己本位の姿勢が見られる。

東アジア[編集]

中国[編集]

中国では代の帝辛(紂王)以前には、さかんに生贄が捧げられた。この際には神の意思を確認したらしく、捕らえた異民族の処遇を占ったと見られる甲骨文字も出土している。また、殷代の墓から45人分の殉葬者の人骨が出土した例もある。更に異民族に限らず、殷墟の宮殿の基壇の跡から850人分の武装した軍隊の人骨が戦車(馬車)ごと出土しており、中には高い身分と思われる人物まで含まれていた為、殷の国民も人身御供の対象にされていたと推測されている[5]

戦国時代では、西門豹が人身御供の儀式をやめさせ国を発展させた。

始皇帝陵の副葬品である陶製の兵馬俑は、それが形を変えた名残りと推定される。

日本[編集]

日本では、犠牲となった人間を人柱とも言い、転じて同様の行為を行うこともそう呼ばれる。「白羽の矢が立つ」とは、元々このことをいった。白羽の矢はいわゆる匿名による指名行為であった訳だが、これらは霊的な存在が目印としてを送ったのだとされ、この矢が家屋に刺さった家では、所定の年齢にある家族を人身御供に差し出さなければならないとされた。

事例をみると、中国の歴史書『三国志』の魏志倭人伝に、「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人」邪馬台国の女王卑弥呼が死去し塚を築いた際に100余人の奴婢が殉葬されたとあり、『日本書紀』垂仁紀には、野見宿禰日葉酢媛命の陵墓へ殉死者を埋める代わりに土で作った人馬を立てることを提案したという(埴輪の起源説話であるが考古学的には否定されている)記載が残っている。 他にも、儺追祭(なおいまつり)の起源にまつわる話や、『日本書紀』に登場する茨田堤大阪府)の人柱に関する記載、諏訪大社長野県)の御柱にまつわる伝説、倭文神社奈良県)の大蛇伝説など、人身御供にまつわる話は数多く残されている。

近江国伊香郡には、水神に対して美しい娘の生贄を奉ったが、当地では生贄となる娘が片目であったとされる[6]柳田國男の『一つ目小僧その他』において、人身御供と隻眼の関係が説かれている。

柳田國男の「日本の伝説」[7]では、神が二つ目を待った者より一つ目を好み、一つ目の方が神と一段親しくなれると書いている。これと、神の贄となる魚を通常の魚と区別するために片目にすることが紹介されている。

静岡には、人身御供人柱の伝説が多い。例として、富士吉原市の三股淵(みつまたふち)あるいは三俣淵(と表記される)、浮島沼の人身御供や磐田市の見附天神の人身御供がある。これらの生贄伝説は非常に有名で、民俗学者の中山太郎や神話学者の高木敏雄といった著名な学者らの著書[8][9]でよく紹介されている。 ただし、本の中で語られる伝説はところどころ異なっている。 1967年5月15日に発行された「広報ふじ 010号」[10]3頁では、三股淵の人身御供について触れている。三股淵の付近では毎年6月28日に祭りを行うが、人身御供を伴う祭りは12年毎に行う。これは大蛇の怒りを鎮め大難を防ぐために行うと書かれている。なお、人身御供となる者の条件、人身御供の儀式について、その詳細は書かれていないが、「東海道の伝説」関西通信社1964年、「史話と伝説」松尾書店1958年、「伝説富士物語」木内印刷合資会社1952年には、その詳細が書かれている。まず生贄となる者の条件は、15~16の少女で処女、「東海道の伝説」にのみ美女という条件が付加されている。また人身御供の儀式は、生贄に選ばれた少女が、生きたまま淵に投げ込まれるか、生贄自らの入水(じゅすい)の形を取ると書かれている。なお、中山太郎の日本巫女史大岡山書店1930年においても吉原の人身御供について語られている。内容は既述の三冊に書かれている内容とほぼ同じである。 また、相違点については、広報ふじ「ふじ 010号」3頁では人身御供を伴う祭が12年毎行われていると書かれているが、他の四誌については人身御供を伴う祭が年毎(毎年)行われていると書かれている点、「伝説富士物語」以外の四誌は、巫女が人身御供になるという点、人身御供を捧げる相手の名前が単なる大蛇ではなく、竜神である点、などである。 「東海道の伝説」においては竜神という名称以外に、生贄を捧げる相手がであると明記されている [11][12][13]

中山太郎の「日本巫女史」大岡山書店1930年3月20日発行247頁―250頁の「第二節 人身御供となった巫女」では巫女が人身御供となったと考えられる事例をあげている。中村太郎は、巫女が人身御供になる理由として、250頁「而して斯く巫女が人身御供となったのは、それが神を和める聖職に居った為であることは言うまでもない」と述べている。なお、同書250頁では「旅人を人身御供とした神事は、尾張國府宮の直會祭を始めとして、各地に夥しきまでに存していた。此の理由は祭日に人身御供となることを土地の者が知るようになり、これを免かれんがために、外出せぬようになったので、かく旅人を捕へることになったのであるが、それを國府宮の如く有名になると、同じく旅人が相警めて通行せぬようになるので、尾張藩では藩命を以てこれを制止したことさえある。旅行者も最初の者か第三番目の者か、女子か男子か、その神社のしきたりで、種々なるものが存していた」と記している。神に近い存在であるから巫女を生贄にする点と旅人を生贄とする点は甚だ近い。なぜなら折口信夫の論じた「まれびと信仰」では、外界から来た客人を神もしくは神の使者として扱うからである。

磐田市の裸祭りは台風大雨洪水となっても決行される。これは人身御供の儀式が決まった日時に遅延なく行わなければならなかった名残である、と「遠江の伝説」に書かれている[14]。なお、人身御供の風習を止めた勲功をたてた犬の悉平太郎は、多くの場合「早太郎」と呼ばれ、これは悉平太郎の故郷である駒ヶ根市も同様である。

人身御供は、神が人を食うために行われるとも考えられているが、神隠しと神が人を食う事との関連を柳田國男は自身の著書「山の人生」にて書いている。柳田國男によれば、日本では山神として考えられており、インドでは狼が小児を食うという実例が毎年あり、日本には狼が子供を取ったという話が多く伝わっているという。これが山にて小児が失踪する神隠しの一つの所以であるとも考えられる[15]

青木純二の「アイヌの伝説」では、神話学者高木敏雄が早太郎童話論考にて分類した人身御供伝説の形式以外に特異な展開を見せる伝説が書かれている。即ち33頁―36頁「娘を奪う山の神」、52頁―56頁「火の神の使い」、80頁―81頁「雪の中に咲く百合の花」、82頁―84頁「白神岬の祟」などである[16]。これがその他凡百の人身御供伝説と異なるのは、勇者や僧侶が人身御供となる犠牲人を助ける展開がなく、人身御供の儀式が決行され、しかもその後に後味の悪い結末が用意されている点である。例えば、「火の神の使い」では神の怒りを鎮めるための人身御供が行われたにも関わらず、神の怒りが鎮まらず、村人が全員死んでしまう。それに反して「娘を奪う山の神」は、人身御供の儀式が行われ一応成功に終わるものの、人身御供となった女性の恋人が自殺する。「白神岬の祟」は、ある権力者が恩恵を得たいがために人身御供の儀式を行い、呪いの起因をつくることになる。

松村武雄は「日本神話の研究」の126頁にて、穀物の豊かな収穫を確保するための呪術として犠牲人を殺す民俗が行われていたと書いている。なお、同頁にて中島悦次の「穀物神と祭祀と風習」を紹介し、その中で柳田國男の「郷土誌論」を参考にした「オナリ女が田植えの日に死んだというのは、オナリ女の死ぬことが儀式の完成のために必要であったことを意味する」との文章を引用している。また、197頁にて人身御供伝説の分類を行っている。そこでは、八岐大蛇退治神話における奇稲田姫を含めた八人の犠牲者は、司霊者―巫女であったと述べている。その他の人身御供伝説については、毎年一人という条件があるだけで、生贄となる者の合計などは定まっていないと記している。また、207頁にて、水の神、田の神に実際に女性を生贄としてささげた習俗があると記している[17]。松村武雄は、人身御供伝説の分析について「日本神話の実相」[18]においても記述している。

ちなみ、高木敏雄の「日本神話伝説の研究」には、487頁―531頁に「人身御供論」、532頁―538頁に「早太郎童話論考」が書かれており、「早太郎童話論考」では人身御供伝説の形式と分類を明らかにしている。高木敏雄自身は、日本国内で多くの人身御供伝説があると認識した上で国内での人身御供の存在そのものには懐疑的であるが、490頁にあるように「人身御供そのものが過去の事実として信ぜられている。すべての民間伝説はその伝承地の民間においては、必ず事実として信ぜられるものであるから」と、磐田市の見付天神の人身御供を例にとって述べている。また、493頁にて天野信景塩尻の一部を訳し、次のように記述している。「…和州長谷修正の終に鬼を追う事あり頃年我熱田の神宮寺にても正月此事をはじめ侍る是は路人を執促するに非ず夫路行の旅人を捉え侍るは湖南九江の淫祠に似たり追儺は人を以て神を祭るにあらざれども世俗人は人を牲(ニエ)とする様にかたる…」。これにより、当時の俗世間の人々が追儺に人身御供を用いていたと勘違いしていたことがうかがえる。

何故人身御供が起こったのか、その謎について、高木敏雄は「日本神話伝説の研究」501頁―502頁にて、考えを述べている。「凡ての水界と空中界と、まだ人類の勢力範囲に成っていない陸界の一部分とは、神の領分である。人類社會(會=会)の發(發=発)展はこの神の領分の縮小壓(壓=圧)迫である。領分の縮小圧迫は神に対する侵害である。この侵害に對(対)して、神は相當(当)の防禦(禦=御)手段を取ることもあれば、相當(當=当)の犠牲を人類から得て満足することもある。この場合に人の生命又は身体が犠牲にされると、其處(處=処)に人身供犠という現象が生ずるのである。併しこの如きは、人類史上現象として餘(余)りに一般的で」

そして、早太郎童話論考で扱っている邪神夜叉に女子や男子の生贄を與(与)える神話と異なる人身御供の話を同書502頁より述べている。「此種の犠牲は、人類社会と利害を異にする、あるいは反対にする、廣(広)い意味でいえば、人類社会の外にある邪神に対する犠牲であって、内にある神、即ちある種族または部落の守護神、小にしては所謂鎮守の社に鎮りまし鎮りまして、その部落と親密なる親子主従のような関係を持っている神に対する犠牲とは全然その性質が異なっている。後者の祭祀は、年々定まった季節又は月日に行なわれる。慣例により神聖となった、厳重な、時として面倒臭い儀式の下に行なわれる祭祀である。この祭祀の一個の必須条件として人身供犠が行なわれるが、最も狭い意味においての人身御供で、人類の宗教史上の現象として甚だ重要なるものの一つである」 この形式で行われた恐れのある祭祀が、坂戸明神の人身御供の儀式であると同書(高木敏雄「日本神話伝説の研究」岡書院1925年5月20日発行525頁―527頁)の中で高木敏雄は述べている。

「坂戸明神の話に移る。久しい間の伝承で神聖にされた、馬鹿にできぬ儀式がある。祭祀の儀式としての人身御供の存在説を主張する者の提供した、或は寧ろ提供し得る證據物件の中で最も有力なるものである。 爼(マナイタ)と庖丁(ホウチョウ)、それから生きた實(実)物の人間、考えたばかりでも身の毛が立つ。爼と庖丁とが、果たして人間を神に供えた風習の痕跡だとしたらどうだ。犠牲を享ける神は、鎮守の社に祀られる神である。捧げるものは氏子の部落である。捧げられる犠牲は、氏子の仲間から取らなければならぬ。人身御供という風習の言葉の中には、久しい間の慣例と云うことの意味が含まれているではないか。鎮守の社の祭祀は、年毎に行われる儀式である。人身御供と云うことが此祭祀の恒例となっている以上は、春秋二度とまで行かずとも毎年一度か少なくとも二三年に一度位は行わなければなるまい。凡ての伝説は、毎年のこととしているではないか」

※「広報ふじ1967 ふるさとのでんせつ」1967年5月15日発行3頁で語られる「生贄の淵」の人身御供を伴う祭りは12年毎に行われると書かれており、諏訪神社で行われていたとされる人身御供の儀式は3年毎であったと考えられているため、人身御供を伴う祭りが、必ずしも毎年あったとされているわけではない。

528頁では、人身御供伝説が史実とした場合の問題点をあげている。 528頁「普通の場合に神前へ供える物は、生贄でも果穀でも調理したものでもすべて、再び神前から下げられて、信者の口に入るとか、河へ流されるとか火に焼かれるとかする。若し肉体を具えぬ神の祭壇に人を供えるとしたら、この人を殺す役目に当たる者のことも考えねばならぬ。殺す儀式のことも考えて見ねばならぬ、殺した後の死骸の始末は、更に重要な問題として考えても貰わねばならぬ」 また、530頁では人々が人身御供と人柱を混同していたことが述べられている。ただし、高木敏雄の行った人身御供と人柱の定義が通説であるかは不明である。高木敏雄によれば、人柱は神に捧げるものではないため、神に捧げるという意味で差し出される生贄は、人身御供ということになる。530頁「時々人柱として河の神に人身御供に捧げられる」

なお、南方熊楠の「南方閑話」[19] では神に捧げられる生贄が人柱として紹介されている。

「日本伝説の研究」では、自然現象の脅威に対する人々の崇拝の念と想像により、猛獣が人を捕ることを「神が人身御供を要求するもの」と考えられた、と書かれている[20]

ちなみに、多くの人身御供伝説では、生贄の対象が女性である場合が目立つ。しかし、中山太郎の「日本巫女史」251頁、高木敏雄の「日本神話伝説の研究」533頁―534頁によれば、生贄に男子の場合があることがわかる。

西アジア[編集]

聖書に、古代中東にこのような祭礼のあったことを髣髴とさせる箇所が登場する。旧約聖書レビ記(18章21節)に登場するモレクは、アモン人の主神で、神像の内部の空洞に犠牲となる人間の子供を入れ、周囲を火で炙って焼き殺したと伝えられている。ユダヤ教ではイサクの犠牲を神が止めたことによりこの行為が否定されたとされており、ユダヤ教の先進性を示しているとされる。ただキリスト教伝播の過程で、聖絶などの問題にも関連して、異教徒とされた土着宗教を貶めるために流布された中傷の可能性も十分にある。

実際にこのような祭礼が運用されたことは現実問題としてかなり稀なことであったと考えられている。したがって現在の歴史学では、聖書に書かれた虐殺の記述は歴史を正しく伝えたものではなく、後代のバビロン捕囚前後の時代にイスラエル中心主義の影響で書かれたものとされている。

イエスの家系にもモアブ人女性ルツが登場することからも分かるとおり、実際の歴史ではユダヤ人はアマレク人カナン人ミデヤン人ペリシテ人モアブ人アモン人エドム人などの近隣諸民族と共存・通婚しており、ユダヤ人の勢力がカナン・シリアで支配的なものとなってイスラエル王国ユダ王国が建国された際も上記のようなユダヤ人以外の諸民族の共存は許されていた。これらの諸民族はイスラエル王国・ユダ王国の統治の間に徐々にユダヤ人と混血し、吸収されていったものと思われる。

敵対異民族を聖絶の捧げ物とした場合、相手を滅ぼしてもイスラエルの民には物質的には何の利益にもならないため、当然ながら違反者が続出した。また、一民族を全て根絶やしにすることは現実問題としても無理であった。「このように聖絶が不徹底であったため、バアル信仰がイスラエルの中に蔓延り、神の怒りを招いた結果、自分たちは異民族に支配されなければならなかったのだ」という反省及び歴史解釈がイスラエルの中に起こり、バビロン捕囚以後にそのような観点の下に聖書が編纂されたものと考えられているからである。

ヨーロッパ[編集]

ギリシャ[編集]

古代のアテネでは、2人の浮浪者を1年間公費で養い、祭の日に他の市民の罪や穢れを2人になすりつけておいて、最後に街の外の崖の上から突き落として、市民全体の贖罪とするという習慣があった。

ガリア[編集]

ガリア戦記』によれば、ガリアに住むケルト人の間では、木を編んで作った大きな人型(ウィッカーマン)の中に生贄を入れ、中の生贄ごと燃やすという風習があったと伝えられる。

ローマ[編集]

第二次ポエニ戦争カンナエの戦いでは、カルタゴハンニバルにより、ローマ軍は壊滅的な状況となり、ローマは国家存亡の危機にあった。絶望したローマ人はに助けを請い、人身御供として数人の奴隷が殺され、フォルムに埋められた。文献上、確認できる限りでは、これがローマにおける最後の人身御供である。

アメリカ大陸[編集]

アステカの生贄の儀式。胸を裂き、心臓を取り出して神に捧げる。

アステカ人は「太陽の不滅」を祈って、人間の新鮮な心臓神殿に捧げた。ほかに豊穣、雨乞いを祈願して、捧げられることもあった。しかしその一方では、これら生贄に捧げられる事が社会的にも名誉であると考えられていたとされ、球技によって勝ったチームが人身御供に供されるといった風習も在った模様である。

生贄は石の台にのせられ四肢を押さえつけられ、生きたまま黒曜石のナイフで心臓をえぐり取られたとされる。生贄の多くは戦争捕虜で、生贄獲得のための花戦争も行われた。選ばれた者が生贄になることもあり、幼児や少年・少女などが神に捧げられることがあった。ただ、一説によればアステカはこのような儀式を毎月おこなったために生産力が慢性的に低下し、社会が弱体化、衰退したとも言われている。

インカでも、同種の太陽信仰に絡む人身御供を行う風習があったが、これらの生贄は社会制度によって各村々から募集され、国によって保護されて、神への供物として一定年齢に達するまで大切に育てられていたという。なおこれらの人々は旱魃(かんばつ)や飢饉などの際には供物として装飾品に身を包んで泉に投げ込まれるなりして殺された訳だが、そのような問題が無い場合には生き延び、一定年齢に達して一般の社会に戻った人も在ったという。ちなみにマヤ文明遺跡で有名なククルカンの神殿と聖なる泉は、干ばつになった時の生け贄の儀式と関係があった。日照りは雨の神ユムチャクの怒りによるものだと考えられていたため、14歳の美しい処女を選び、少女は美しい花嫁衣裳を身にまとい、儀式の後、聖なる泉に生け贄を護衛するための若者が飛び込み、その後貢物も投げ込まれていた[21]

その一方で、アステカ同様に少年・少女が捧げられる事もあった。この場合には、やはり特別に募集され育てられていた少年・少女は、より神に近いとされる高山にまで連れて行き、コカの葉を与えて眠らせた後に、頭を砕いて山頂に埋められた。特にこれらの生贄では、装飾された衣服に包まれたミイラも発見されている。

脚注[編集]

  1. ^ Niños momia, Sacrificados en Salta, National Geographic Channel(スペイン語)
  2. ^ ヨハン・ラインハルト|ナショジオピープル|番組紹介|ナショナル ジオグラフィックチャンネル
  3. ^ 百科事典マイペディア「人身供犠」 2010年5月
  4. ^ 広辞苑』(第5版) 1998年
  5. ^ 陳舜臣『中国五千年』(上)51頁
  6. ^ 『新編 柳田國男集 第七巻』 筑摩書房 1978年 p.251 - p.252
  7. ^ 柳田國男「日本の伝説」三国書房 昭和15年1940年12月20日95頁―96頁
  8. ^ 中山太郎「日本巫女史」大岡山書店1930年3月20日発行247頁―251頁333頁―338頁347頁
  9. ^ 高木敏雄「日本神話伝説の研究」岡書院 1925年5月20日発行487頁―531頁532頁―538頁
  10. ^ 鈴木富男(駿河郷土史研究会長)「広報ふじ1967 ふるさとのでんせつ」富士市役所 昭和42年1967年5月15日発行3頁
  11. ^ 小笠好恵「東海道の伝説」関西通信社1964年10月1日発行40頁―46頁
  12. ^ 松尾四郎「史話と伝説」松尾書店1958年9月5日発行221頁-224頁
  13. ^ 小長谷宗芳「伝説富士物語」木内印刷合資会社1952年8月発行168頁-179頁
  14. ^ 小川有言「遠江の伝説」安川書店 昭和17年1942年11月1日発行166頁―167頁
  15. ^ 柳田國男「山の人生」実業之日本社 昭和23年1948年5月15日発行148頁―149頁 郷土研究社版 昭和11年1936年1月28日発行「山の人生」が原本
  16. ^ 青木純二「アイヌの伝説」第百書房 大正15年1926年5月14日発行33頁―36頁52頁―56頁80頁―81頁82頁―84頁
  17. ^ 松村武雄「日本神話の研究 第三巻」培風館 昭和30年1955年11月10日発行126頁197頁207頁
  18. ^ 松村武雄「日本神話の実相」培風館 昭和22年1947年6月10日発行155頁―156頁158頁
  19. ^ 南方熊楠「南方閑話」坂本書店出版部1926年3月20日発行61頁―96頁
  20. ^ 藤澤衛彦「日本伝説の研究 第一巻」大鐙閣 大正15年1926年7月5日発行序2頁―3頁
  21. ^ 後藤樹史. “古代の不思議 マヤの聖なる泉”. 不思議館. 2013年6月29日閲覧。

関連項目[編集]