アルゼンチン連合

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アルゼンチン連合
Confederación Argentina
リオ・デ・ラ・プラタ諸州連合 1835年 - 1860年 アルゼンチン
ブエノスアイレス国
アルゼンチンの国旗 アルゼンチンの国章
国旗 国章
国歌: アルゼンチン国歌
アルゼンチンの位置
公用語 カスティーシャ語
首都 パラナ(1852年-1860年)
大統領
1835年 - 1852年 フアン・マヌエル・デ・ロサス
1852年 - 1852年 ビセンテ・ロペス・イ・プラネス
1852年 - 1860年 フスト・ホセ・デ・ウルキーサ英語版
1860年 - 1860年 サンティアゴ・デルキ
副大統領
1854年 - 1860年 サルバドール・マリア・デル・カリル
1860年 - 1860年 フアン・エステバン・ペデルネラ
変遷
成立 1835年3月7日
憲法改正によりアルゼンチン国と改称 1860年7月25日
通貨 ペソ・モネダ・コリエンテ

アルゼンチン連合スペイン語:Confederación Argentina)は、アルゼンチン共和国リオ・デ・ラ・プラタ連合州英語版と共にアルゼンチン憲法英語版第35条で定められたアルゼンチン共和国の正式名称の内の一つである。

1835年から1852年までの歴史[編集]

アルゼンチン諸州は1835年から1852年までの間、国際関係においてこの用語を使っていた。リオ・デ・ラ・プラタ連合州英語版スペイン語: Provincias Unidas de Sudamérica、南アメリカ連合州)の領域は1835年以降、フアン・マヌエル・デ・ロサスがブエノスアイレスと国外での権威を掌握していた時、一つの連合であるかのように事実上行動し、アルゼンチン連合の名前は1835年から1852年までの国家憲法が存在しないまま、諸州間の条約に連邦国家の基礎を置いたかのように理解される時期を言及するために使われた。

不安定な政治[編集]

連合の全時期において、連合州は事実上内戦状態にあり、現在のアルゼンチン領域内にて、東方国に追放された統一党の政治亡命者、チリボリビアと、統一派が権力を回復するための恒久的な戦争が発生した。

戦争[編集]

この時代は、東方共和国にて両国の統一派と連邦派の間で戦われたいわゆる「大戦争」と、北から統一派軍を支援されることを妨げるための小規模な戦争、いわゆる「対ペルー・ボリビア連合戦争スペイン語版英語版」を行った。

構造[編集]

アルゼンチン連合はサンタフェ州エントレ・リオス州コリエンテス州トゥクマン州サルタ州フフイ州サンティアゴ・デル・エステロ州カタマルカ州コルドバ州ラ・リオハ州サン・フアン州サン・ルイス州メンドーサ州からなる諸州の自治により合致した。

1852年以降の歴史[編集]

1852年から1861年までのアルゼンチン連合ブエノスアイレス国の領域

カセーロスの戦い英語版の後、1853年から1861年までアルゼンチン連合の名前は、その時代の間には分離国、いわゆるブエノスアイレス国英語版となっていたブエノスアイレスを除いた、アルゼンチン諸州の形式的な国家の名前として採用された。

憲法[編集]

オリジナルのアルゼンチン憲法 (1853年)英語版の序文と条文にてアルゼンチン連合(Confederación Argentina)の表現が使用された。しかし、ブエノスアイレス州が連合に再統合され、1860年に憲法改正が実現されると、それらの記載はアルゼンチン国(Nación Argentina)に変更された。

関連項目[編集]