F-4 (戦闘機)

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F-4 ファントム II

アメリカ空軍のF-4D

アメリカ空軍のF-4D

F-4は、アメリカ合衆国マクドネル社が開発した艦上戦闘機である。アメリカ海軍をはじめ、多くの国の軍隊で採用された。愛称はファントム IIPhantom II

概要[編集]

空中給油を待つF-4F

アメリカ海軍初の全天候型双発艦上戦闘機として開発され、大型の翼と高出力のジェットエンジンを双発で装備し大きな搭載量を特徴としている。当初の機種番号は海軍ではF4H、アメリカ空軍ではF-110だったが1962年アメリカ軍軍用機の命名規則統一によりF-4となった。

ベトナム戦争での活躍から多くの西側諸国に採用され、各国の要求に応じて様々な派生型が数多く作られたことより冷戦期の代表的な機体となった。数々の実戦戦績や各国へのセールスの成功も含めて傑作戦闘機と評価され、マクドネル社の発展の原動力としてその名を世界に広めた戦闘機とされる。

マクドネル社とダグラス社の合併によりマクドネル・ダグラス社となってからも生産が続き、総計5,195機の生産数となった。超音速戦闘機の歴史で5,000機以上製造されたのは、このF-4とMiG-19MiG-21MiG-23の4機種しかない。うち3機種は東側ソビエト連邦製であり、西側ではF-4が唯一例となる。現在のベストセラーF-162012年現在で4,500機程度の生産数であることを見ても特筆すべき生産数であるといえる。

初飛行から50年以上経過して開発国のアメリカでは全機退役しているが、現在でも多くの機体が現役のまま2010年以降も運用され続ける見通しである。

また、本機に乗るパイロットを「ファントムライダー」と呼ぶこともある。

開発経緯[編集]

開発の背景[編集]

空対空ミサイルや超音速機の実用化の進められた1950年代1960年代に、超音速飛翔体同士の交差時間はごく僅かであるため航空機関砲による撃破は困難であり、将来の航空機同士の戦闘はミサイルが主役となり、戦闘機はミサイルを運ぶだけのものになるというミサイル万能論が主流となった時期があった。

このため、アメリカ空軍では、旋回性よりも速度や航続力を重視した護衛戦闘機F-101戦闘爆撃機F-105、空対空ミサイルを遠距離から発射する迎撃戦闘機F-102F-106等の開発が重視されることとなった。

F-4自体も当初は機関砲は不要として装備されずに空対空ミサイルの搭載量が重視された。

開発前史[編集]

F3H-Gのモックアップ(1954年)

1952年7月アメリカ海軍はグラマン社にF9F-9(後のF11F-1)を発注し、また、9月にアメリカ海軍は超音速昼間戦闘機の提案依頼(RFP)を発表し、応募8社からチャンス・ヴォート社の「F8Uクルセイダー」を選択した。

この結果、マクドネル社はF1HファントムF2HバンシーF3Hデーモンと続いてきた艦載戦闘機の受注を失うこととなった。これに対してマクドネル社はF3HのエンジンをライトJ67に換装しM1.69を狙う「F3H-Cスーパーデーモン」、さらに三車輪式降着装置や後退角45度面積450平方ftの翼を与えたF3H-E、F-101ブードゥーのレイアウトを織り込み双発のライトJ65に低翼配置の面積530平方ftの主翼と全浮動の尾翼を持つF3H-Gと社内検討を行っていた。

マクドネル社は1953年9月19日にF3H-Gをアメリカ海軍航空局に提出した。F8U契約直後の海軍は数週間の後に却下したものの作業自体の継続は奨励したため、1954年前半にモックアップは完成し、海軍の上級職員に公開されるに至った。

原型機発注[編集]

F4H-1F
胴体にPhantom IIの文字が読み取れる
(1960年)
カタパルトに接続されたXF4H-1(1959年)

1954年中頃にアメリカ海軍航空局は全天候戦闘機の提案要求を出した[2][3]。これに対してマクドネル社からは単発のF3H-Eと双発のF3H-G、他にグラマン社とノースアメリカン社から提案が提出された結果、1954年10月18日にマクドネル社はF3H-G案を基にしたYAH-1プロトタイプ2機建造の同意書を受け取った。しかし、海軍側で要求を明確にすることができずにいたため、実用化を約束されたものではなかった。とはいえ、数ヶ月のうちに要件として半径250海里で2時間以上の戦闘航空哨戒を実施できる艦隊防空戦闘機とすることが明確になり、F4H-1と改称されることとなった。

マクドネル社のモックアップは4門の20mm機関砲を装備することとしていたものの、アメリカ海軍は4発のスパローミサイルの装備のみを要求した。しかしながら、前述されたこの楽観論は、後にアメリカ海軍をはじめとする使用者を悩ませる問題を引き起こすこととなった。F3H-Gは新基軸となるスパローの胴体下半埋め込み式装備に変更され、また、M1.5を想定していたライト J65から当時最新鋭のゼネラル・エレクトリック J79-GE-2に変更してM2級とすることとなった。

要求仕様では火器管制装置の技術的信頼性の問題から搭乗員数の指定はなく、マクドネル社は単座と複座の両案を提示していた。これに対してアメリカ海軍は早々に複座案を採択した。また、胴体中心線上の600ガロン入り落下タンク用を除きパイロンは廃止されるものとされた。

1955年6月25日に2機の「XF4H-1」テスト機と5機の「YF4H-1」試作機の正式契約が締結された。

初飛行[編集]

1958年5月27日、原型機であり第一号機でもあったマクドネル社の「XF4H-1」が初飛行を行い、油圧系統の不具合で降着装置の格納はできなかったものの飛行自体の不具合なく終わっている。同時期に試作されていたチャンス・ヴォート社のF8U-3は、この6日後に初飛行を行っている。

それぞれの初飛行成功後、エドワーズ空軍基地にて両機の比較審査が行われた。1958年12月、単発単座のXF8-Uに対する複座型・双発エンジンの優位性と搭載力が評価され「F4H-1」が選択された。当時、それまでの超音速戦闘機にみられない太い胴体と直線で構成された大型の主翼を持ち、白鳥になるかどうかも分からない「みにくいアヒルの子」と関係者の間で囁かれたこの戦闘機には、幻影や亡霊という意味を持つ「ファントム II:Phantom II(ファントム・ザ・セカンド)」の愛称が与えられた。IIとなったのは太平洋戦争末期にマクドネル社がFH ファントムを開発したことによる。しかし先代(FH)は少ない生産数と運用期間の短さから知名度は低く、ファントムといえば本機を指すようになっていった。

飛行テスト[編集]

アメリカ海軍はマクドネル社に対し、既に完成していた原型機「XF4H-1」2機に加え、21機の量産原型機(F4H-1)を発注した。この計23機でより実戦的な評価作業と原型機の洗い直しが行われた。この研究・開発用の21機はそれぞれメーカーであるマクドネル社や、エンジンを担当したゼネラル・エレクトリック社、ミサイルを担当したレイセオン社などに各種研究開発のために引き渡され使用されたため、ひとつとして同じ機体はなかったと言われている。この時期にレーダーを換装したことによるレドームの大型化やキャノピーの改善も行われている。

これらに続き生産された24機は訓練用としてアメリカ海軍や海兵隊に引き渡され、パイロットや整備員の訓練に使用された。

重重量の機体に、多用途性を盛り込んだ結果、飛行性能がある程度犠牲になっており、とくに低速での旋回時にアドバースヨーと呼ばれる操縦方向と逆方向に旋回する飛行特性がある。

特徴[編集]

基本構成[編集]

前席コックピット
計器盤上に各種メーターや機器が並ぶ

F-4の大きな特徴に、無給油で4,260kmを飛行できる航続距離が挙げられる。二基のエンジンを持つものの、燃料搭載量は、胴体内に6個と主翼内に2個のタンクに加え、胴体下の600ガロンの増槽と主翼下の370ガロンの増槽の総計は3,370ガロン(12,460L)と、当時の群を抜くものだった。空中給油能力も合わせるとパイロットの耐久力の許す限りの航続時間を持つこととなった。

また、アメリカ海軍初の複座型艦上戦闘機であることも特徴となっている[4]。F-4では前席にパイロット、後席にレーダー・航法担当のレーダー迎撃士官が搭乗する。

コックピット前席の前面計器盤は、円形のレーダースコープを中心として、中央部にコンパスや水平儀等の操縦関係の計器、左には操作系、右には警告灯、下側には油圧系統のメーターやゲージが備わり、サイドコンソールに各制御スイッチが配置される。

後席の前方視界は殆どなく、レーダー迎撃士官はパイロット用の射出座席、つまりパイロットの背中部分に備わったレーダースコープや各種計器を使用し、機内の通信装置を用いてパイロットに現在の位置や周囲の状況を伝える。後席右パネルの操縦桿状の物はレーダー操作用のスティックである。原型である海軍型には後席に操縦装置は無いが、空軍向けの派生型においては、後席にも操縦系統を設けている。前後席ともに空戦時の後方確認用にキャノピー枠内側に凹面鏡のリアビューミラーを備えている。

エンジン[編集]

F-4に搭載されるターボジェットエンジン
写真はゼネラル・エレクトリック(GE)製J79-GE-17Aを石川島播磨重工業(現IHI)にてライセンス生産したJ79-IHI-17A
スプリッターベーン
F-4F(2007年)

エンジンは当時最新鋭のゼネラル・エレクトリック J79とされた。F-104Aにも採用されたJ79-GE-3A型エンジンはアフターバーナー時の推力が6,715kgと当時としては群を抜く推力を発揮し、これを二基搭載することは充分な搭載力や機動性という恩恵をもたらした。

開発中、地上でのアイドリング状態からアフターバーナー点火時のマッハ2.2まで、同一のエアインテーク形状では対応できないという問題が判明している[5]

この問題はエアインテーク周辺に発生する衝撃波が空気吸入を妨げることが原因と判明しており、その対策としてエアインテーク直前のスプリッターベーン(境界層分離板)の先端をマッハ2に対応した位置に調整して衝撃波面をコントロールして空気流を確保している。

スプリッターベーンには表面で成長する境界層を吸い取るために各12,500個の小穴を空けてあるり、この排気はスプリッターベーンの上下に出っ張ったアウトレットから排出される。それより後方のエアインテーク内の境界層は別に吸い取られエンジン周囲を冷却して後方に排出される。そのためスプリッターベーンとエアインテークに構造の隙間が見て取れる。また、スプリッターベーンはインテークへの境界層の進入防止と境界層の吸入による振動(バズ)を防ぐため胴体の間に50mm程の隙間が設けられている。

以上により必要な性能は確保できたものの、「可変ランプ英語版」は採用されていない。

主翼・尾翼[編集]

F-4Eの下面
胴体下にAIM-4、主翼下にAIM-7を搭載している
下反角がついた水平尾翼(F-4EJ)

主翼はアスペクト比2.8テーパー比1/7で、翼弦25%で45度、前縁で52度、後縁にも若干の後退角がついており、クリップドデルタ翼デルタ翼の変形で、翼端を切り欠いたもの)と後退翼の中間的なものである[6]

開発初期の風洞試験の結果、主翼全体に5度の上反角を与える必要があると判明したが、機体主要部のチタニウム構造材の再設計は困難だったため、主翼幅70%辺りで折り畳まれる外翼部のみに12度の上反角を与えることで同等の効果を得るものとした。また、同じ外翼部の翼弦を10%程度延長してドッグトゥース[7]としている。

また、主翼は低翼配置であり、水平尾翼のほうが高い位置にある。この配置は迎え角を大きく取ると主翼の後流が水平尾翼の効果をなくし急激な機体の頭上げ(ピッチアップ)を生じることとなる[8]。そのためF-4では風洞試験の結果を受けて水平尾翼に23度と大きな下反角をつけることで対処している。なお、尾翼(スタビレーター)は左右が一体となったオールフライングテールで作動角を大きくとっている。

その後の研究で、主翼を尾翼より上に配置すれば、ピッチアップは防止できる事が判明した[9]。また、低翼配置は、爆弾・ミサイル等を翼下に吊下するためには降着装置を長大化する必要があり、これもまた、問題となった。そのためこれ以降の超音速戦闘機においては、高翼配置が主流となっていった[10]

基本的に尾翼周りの設計は超音速機の発展途上の形態であり、遷音速域において操縦安定性を悪化させる要因になっている。当時のマクドネル社の基本設計は短いジェットインテーク-ノズル系で機体の軽量化を図り、その上に胴体尾部を延長しているため、ジェット推力の変化による水平尾翼との近接作用で有害な上下力が発生する。高い尾部の上にさらに垂直尾翼を設置している一方で、艦載機のため上端は制限されてしまうためアスペクト比の小さい形となり方向舵の効きが悪く、旋回時に過大なアドバースヨーを発生する。

初期型の主翼前縁フラップはエンジンの17段目コンプレッサーで抽出した空気を吐き出すBLC(境界層制御)装置を採用していたが、F-4Eから前縁スラットに改良されている。フラップ類は着艦時など低速での揚力を確保するだけでなく、空戦フラップとして使用され、改善された。

当時の戦闘機は超音速飛行時の抗力低下を重視し、主翼面積の小さな高翼面荷重の機体が多かったが、F-4は離着艦性能の維持のため大面積の主翼を採用し、翼面荷重は低くなっている。元来は大型のミサイルキャリアーとして設計されて空中戦・格闘戦を念頭に置いていなかったものの、低翼面荷重と高推力重量比により格闘戦もこなせる機動性を得ることができた。その空戦性能は、当時のアメリカ空軍センチュリーシリーズなどを凌駕しており、(軽快なMiG機相手に苦戦を強いられる局面もあったものの)ベトナム戦争など数々の実戦でも証明された。

レーダー[編集]

写真は発展型のAPQ-100レーダー

機首部分にウェスティングハウス社製APQ-72を搭載し目標の捕捉とスパローミサイルの誘導に使用している。原型機18号機までは直径が約60cm(24in)のAPQ-50パラボラアンテナだったが、19号機以降では約81cm(32in)へと大型化するのに合わせてレドームも「ドルーピーの鼻」と呼ばれた大型のものに変更された。これによって前方下方向の視界が損なわれたとして後部座席からの後方視界不良の問題も合わせてキャノピーの改良も行われ、機体の背部に沿わせたラインからより膨らませた外形に変更され相応の改善を得ることとなった。

降着装置[編集]

ホイールベース7.01mトレッドベース5.46mと幅広の三車輪式降着装置は着艦時の衝撃に耐えられるように着艦重量17,250kgで7.2m/sの沈下速度[11]に耐えるべく太く頑丈に設計されている。海軍型は前脚を51cm(イギリス海軍向けK型は102cm)伸ばして離艦時の迎え角を稼ぐことができる。

着艦時に使用するアレスターフックは尾部に収められ4.8Gの荷重に耐える。アレスターフックは空軍型にも残されている。

機尾に装備されるドラグシュートは直径4.8mで着陸時だけではなく空中でのスピン回復にも使用可能とされている。

改良[編集]

1963年にF-4Bが艦隊配備を開始されて実戦配備下にあった10年間に度重なる改良が施され、その間、前縁スラットの追加や受信アンテナの整備、ベトナム戦争中の機関砲の搭載や搭載兵器の追加などが行われた。 ※それぞれの型の詳細については、下記の形式一覧を参照のこと

初めての大規模改修が1973年の近代化改修と寿命延長である。ベトナム戦争を経たF-4Bの残存649機の中の飛行時間が短く、また、激しい空中戦に参加していない148機に対して「F-4J」に準じた能力[12]とする改修を行い「F-4N」と改称した。海兵隊のF-4BもF-4Nに改修されている。

アメリカ空軍のF-4Dの一部もLORAN航法装置(自機の位置を把握するための装置)の受信アンテナを追加された。また、固定武装として機関砲を搭載したF-4Eも海軍のF-4に装備していた前縁フラップや電子光学望遠鏡、TISEO兼用レーダースコープを追加された。

1967年より生産された522機のF-4Jの内260機も1978年から1987年までに一機当たり180から190万ドルの費用を投じて行われた J79-GE-10B 無煙型エンジンへの換装と前縁スラットの追加による延命改修により「F-4S」となった。

フライ・バイ・ワイヤを装備する62-12200号機
飛行中の62-12200号機
カナード翼を装備しているのが分かる
62-12200号機
5,000機近く生産されたF-4の中でも特にその姿を幾度も変えたのが62-12200号機だった。元々はアメリカ海軍向けF-4Bの一機として生産された機体だが後にアメリカ空軍からの発注を受けてF-4C型にして納入された後、機首部分に偵察カメラや機材が積まれて戦術偵察型RF-4Cの原型機となった。
RF-4C原型機は試験終了後に今度はF-4Eの原型機として使用された。この改修ではカメラ搭載スペースに機関砲を搭載しレーダーを小型のものに変更している。F-4Eの原型機テストの終了時には62-12200号機をF-4Cに戻して実働部隊へ復帰させることは不可能となったため、「ボロン」「ベリリウム」などの新素材の検証や耐性強度テストなどに転用された。
更に同機は「アジル・イーグル計画」にも使用され、戦闘機の空戦時の運動能力向上のための前縁スラットを取り付けられた。アジル・イーグル計画の終了後は当時実験段階だった「フライ・バイ・ワイヤ」のテスト機として改修を受けている。この時エアインテーク部分にカナード翼が取り付けられた。
62-12200号機は1979年1月に退役しオハイオ州のアメリカ空軍博物館に展示されることとなった。度重なる改良で得られたデータはその後の様々な新型機の開発に役立てられている。


スーパーファントム・プロジェクト
1983年ボーイング社は比較的酷使されていないF-4に、当時の最新技術を投入し改修する「F-4改修計画」(別名:スーパーファントム計画)を発表した。
当時、2,700機近くが運用されていたF-4は21世紀目前の2000年においても2,000機近くが飛行可能な状態であるとの予測が立てられていた。また、21世紀の航空機の戦闘は早期警戒管制機とのデータリンク撃ちっ放し能力を有する空対空ミサイルの実戦化[13]など、F-4の開発された時代では想定されていない技術が前提となるとされた。この予測を基に計画されたのがこの「F-4改修計画」であり、主にレーダーなどのアビオニクス及びエンジンの換装、コンフォーマル・フューエル・タンクの追加が計画された。
レーダー類はウエスチングハウス社製「AN/APG-66」へ換装してルックダウン能力(低高度目標の補足能力)とシュートダウン能力(低高度目標の撃墜能力)向上を図った。それに合わせコックピットの計器類もスペリー社製多機能ディスプレイ(MFD)や、GEC製HUDF-16のものに換装され、慣性航法装置(INS)にはF-20用に開発されたハニウェル社製の423(リングレーザージャイロ方式)が搭載される予定であった(このように既存の機材を流用することでコストの削減を図っている)。
エンジンはF-15やF-16が搭載するプラット・アンド・ホイットニー F100を改良したPW1120英語版(アフターバーナー推力 9.5t)へ換装するとした。このエンジンはJ79に比べ25%近く軽量で推力は20%増し、燃料消費率も5%から15%低いとされた。胴体下面に搭載するコンフォーマル・フューエル・タンクは4,164Lの燃料を追加搭載でき、後端部のフェアリングにはAN/ALE-40チャフフレアディスペンサーが装備されていた。さらにCFTに4箇所のハードポイントが設けられ、うち2箇所にAIM-7を装着することも可能となっていた。
この計画には当時200機近いF-4を保有していたイスラエルや約260機を保有していた西ドイツが興味を示したとされている。ただし、両国ともこのボーイング社案をそのまま使用してはいない。イスラエルはエンジンこそPW1120を搭載するもののHUDを含むアビオニクス類は国産品を搭載する独自の計画(F-4Eクルナス2000 後述)を立案した。西ドイツは本計画に対抗する形で後述のマクドネル社が発表した計画を基にした「ICE(Improved Combat Efficiency:戦闘効率改善)計画」を立案した。
空軍の航空システム部門は1986年2月にボーイング社の改修計画の続行を承認したが、これらの機能をF-4ファントムIIに付加するには多大なコストを必要としたことから海外のカストマーからの発注はなかった。また、1991年にソ連邦の崩壊とワルシャワ条約機構軍が消滅にした事が計画に追い討ちをかけ、そのまま計画は立ち消えとなった。
一方、製造元のマクドネル社からは別の改修案が提案されていた。マクドネル案は、エンジンをJ79型エンジンの改良型である「J79-GE-17H-119」に換装、HUDとCRTディスプレイの装備、レーダーをF/A-18の「AN/APG-65パルス・ドップラー・レーダー」へ換装、コンフォーマル・フューエル・タンクの装備。(ただし、胴体下面ではなく、胴体中央部側面に張り付けるような形をとる)、前面風防(キャノピー)を一体整形(ワンピース)にし、良好な視界を確保する案が計画されていた。こちらも、受注はなくそのまま計画は立ち消えとなっている。
標的機としての運用
アメリカ海軍は初期に生産され老朽化したF-4Bを標的機へ改造する計画を立案しペンシルベニア州ウォーミンスターにあるNADC(海軍航空開発センター)で標的機への改造研究と設計を実施した。同センターは空対空地対空ミサイルの試験や濃密な対空防御を有する地域への電波妨害による模擬侵入を可能とするRPV(遠隔操作機)の研究を行っていた。
NADCは老朽化したF-4B一機を入手し、操縦系統をすべて無線を経由して操作するように改造した。完成した無人標的機は「QF-4B」と名付けられ、視認性を良くするために真っ赤に塗装されたが機首にアンテナが二本増えている他は外見的な違いはなかった。コックピット内の操縦装置は人間による操作を可能としたままで全操縦系統を無線操作で作動させるためのトグル・スイッチを多数追加している。これは駐機場と滑走路間の往復と滑走路と空中の往復間の操縦という別種の操作を地上のパイロットと空中の誘導母機「DF-4J」(別名フォックス:F-4Bの改造機)から遠隔操作を行うパイロットで分担することで改造内容や遠隔操作手順を単純なものとすることを意図したものである。
QF-4Bの操作は機上コマンドコントロール受信機で受信する406MHz~550MHzの帯域中の20チャンネルの信号を使用する。20チャンネルの信号はブレーキのオン・オフ、降着装置の上下、上昇降下、推力の上昇下降、フラップ・方向舵・エアブレーキの作動、搭載物の投棄、アフターバーナーの点火と停止、拘束フックの上下、ドラッグシュートの作動、記録カメラの作動など、飛行に必要な役割にそれぞれ割り付けられる。
アメリカ海軍は原型機を含めた44機のF-4BをQF-4Bに改造し標的機としてミサイル実験部隊で運用した。以降、老朽化・余剰となったF-4E/N/S/Gも無人標的機に改修され、それぞれ「QF-4E」「QF-4N」「QF-4S」「QF-4G」としてミサイルの実標的として撃墜・消耗している。

記録への挑戦[編集]

F-4が初飛行した1950年代はアメリカとソビエトの最新鋭機を使用した熾烈な世界記録更新競争の時代でもあった。また、アメリカ空軍海軍も記録の更新競争を行う形となっていた。

トップ・フライト
1959年7月14日にソビエトはSu-15の原型と言われる当時最新鋭の実験機Tu-431により28,852mの上昇記録を記録した。これに対してアメリカ海軍は「トップ・フライト計画」として原型機の「XF4H-1」による高度記録更新を行った。同年12月6日、エドワーズ空軍基地を離陸したローレンス・E・フリント中佐操縦のXF4H-1は高度30,040mまで上昇記録を更新した。
なお、その一週間後の12月14日にはアメリカ空軍のF-104CがJ・B・ジョーダン空軍大尉の操縦により高度31,513m(103,389ft)の高度記録を更新した。これは、初めて10万フィートを突破した記録ともなった。
LANA[14]計画
空中給油を受けるLANA計画参加機
アメリカ海軍航空50周年に当たる1961年を記念してアメリカ大陸横断飛行の速度記録に挑戦した。
アメリカ海軍は当時最新の「F4H-1」つまりF-4の原型機を5機(予備機2機)用意した。横断計画はカリフォルニア州ロサンゼルスのオンタリオ・フィールド飛行場からニューヨーク州ロングアイランドのフロイド・ベネット飛行場まで無着陸飛行を行うものとされた。
飛行士として後にジェミニ11号宇宙飛行を経験し、アポロ12号に乗り込み、司令船パイロットを務めたリチャード・F・ゴードンJr中尉 (当時) を含む計6名のパイロットが抜擢された。1番機には指揮をとるJ・S・ラモール中佐とT・J・ジャクソン大尉の二名、3番機にゴートン中尉とB・R・ヤング中尉が搭乗した。
5月24日、5機のF-4がオンタリオ・フィールド飛行場を時間を隔てて飛び立った。1番機・2番機・3番機にトラブルがないことを確認した予備の2機はすぐに引き返している。3機はそれぞれ単独飛行を行いニューメキシコ州ミズーリ州オハイオ州の上空で空中給油を受けニューヨークを目指した。
最初にフロイド・ベネット飛行場の上空を通過したのは1番機で離陸より3時間と5分が経過していた。続いて到着したのは2番機で所要時間は2時間50分だった。最後に到着した3番機は2時間47分を記録し、最短記録を残したゴートン・ヤング両中尉がベンデックス・トロフィーを受賞した。
セージバーナー
1961年8月28日、3マイル(4.82km)の区間内で125ft(40m)以下の高度を維持してマッハ1を超える平均 902.769mph(1,452.826km/h)の速度記録を樹立した。しかし、これに先立つ5月18日の最初の試行でピッチダンパーの故障による空中分解でパイロットのJ.L.フェルトマン海軍中佐が殉職している。
スカイバーナー
1961年12月22日、水噴射装置を追加したF-4により1,606.342mph(2,585.086km/h)の絶対世界記録速度を記録している。その直前の12月5日には同計画の別の機体が 66,443.8ft(20,252.1m)での水平飛行高度を記録している。
ハイジャンプ
1962年アメリカ海軍はF-4の上昇性能を誇示する目的で「ハイジャンプ計画」に着手する。これは指定された高度までの上昇時間を競うもので「トップ・フライト」と異なり、到達時間を競うものである。基地にはメーン州ブランズウィックとカリフォルニア州ポイント・マグーが選ばれた。
本計画では、後にジェミニ3号ジェミニ10号アポロ10号宇宙飛行を経験後、アポロ16号月面の「デカルト高地」に着陸し、1981年スペースシャトルの第1回目と9回目の飛行の船長に選ばれることになるジョン・W・ヤング中佐(当時)、D・M・ロントン少佐、D・W・ノードバーグ少佐、F・T・ブラウン少佐、海兵隊のW・C・マクグロー中佐の5名がそれぞれの高度の記録を更新した。
詳細は以下の通りである。
パイロット 到達高度 時間 記録日
ジョン・W・ヤング中佐 3,000m 43.52秒 2月21日
25,000m 230.4秒 3月31日
D・M・ロントン少佐 6,000m 48.79秒 2月21日
D・W・ノードバーグ少佐 15,000m 114.54秒 3月1日
30,000m 371.34秒
F・T・ブラウン少佐 20,000m 178.5秒 3月31日
W・C・マクグロー中佐 9,000m 61.62秒 3月1日
この時、ヤング中佐はマニュアルを無視してフラップを上げたまま推力100%で離陸し、車輪が滑走路を離れると同時に車輪を引き上げ、そのまま加速し十分な速度に達してから機首を引き揚げるという操縦を行った。教本にはない手順だったが、後の上昇記録更新でも踏襲されるようになった。これによりヤング中佐は腕のいいテストパイロットとして知られるようにもなり、同年9月に第二次宇宙飛行士選抜に名を挙げられている。
なお、本計画の記録は1973年にソ連(当時)のMiG-25の特殊改造機「E266」が20,000mから30,000mまでの記録を更新することになるが、アメリカ空軍のストリーク・イーグル計画によってF-15が破るまで、その記録を更新されることはなかった。

マクドネル社の躍進[編集]

マクドネル社は1964年会計年度の総売り上げは8億6,500万ドルの7割を国防省関係からの受注で占めていた。前年度比で3億ドル増を記録しており、アメリカの経済雑誌「フォーチュン」は1964年11月号で当時のマクドネル社の活況振りを6ページに渡り紹介した。

軍用機生産に限れば売り上げの2億4,500万ドルの大部分がF-4によるものだった。翌年の1965年にはF-4の年間生産数は500機を突破することが既に決まっていた。マクドネル社の敷地面積は50万m²を超え従業員数は3万5千人となった。また、10社を超すアメリカ国内の有力航空宇宙メーカーをおさえてマーキュリー計画の宇宙カプセル開発と生産をNASAから受注している。1939年に15人の従業員とビル2階の間借りでの創設当初から見ると空前の成長だったことが分かる。

だが、創設者であるジェームス・スミス・マクドネルJrはA3HとA4Hの空白期の経験などから浮き沈みの激しい国防省からの受注に頼っていては心細いと考え、軍事専門の航空機メーカーからの脱却と規模拡大を図り、ベトナム戦争により軍事物資生産に優先された資材の入手難と旅客機受注の伸び悩みにより経営難にあったダグラス社の吸収合併を1968年に行った。以降マクドネル・ダグラス社となり、ダグラス社の旅客機の製造と共にA-4 スカイホークの生産を引き継ぐこととなった。

マクドネル・ダグラス社は軍民両部門の航空機メーカーとして成長を続け1985年にはヒューズ・ヘリコプター社をも傘下に入れるに至った。

部隊配備[編集]

アメリカ海軍・海兵隊への配備[編集]

艦上のF-4B(1972年)

1959年に始まり1960年2月15日に空母「インディペンデンス」における初の離着艦全通試験など一連の航空母艦適合テストで十分な結果を得たアメリカ海軍1961年に正式にF-4Bの艦隊配備を開始した。

アメリカ大西洋艦隊初のF-4飛行隊となったのは空母「フォレスタル」搭載となる第74戦闘飛行隊だった。太平洋艦隊1962年に空母「キティホーク」搭載の第114戦闘飛行隊がF-4Bの引き渡しを受けている。

配備開始2年後の1963年時点でF-4保有飛行隊は6個となっていた。この時点でも旧世代のF3HデーモンF4Dスカイレイを運用中でありF8UもF-4と並ぶ主力戦闘機だった。それに対してアメリカ海軍は1965年の時点でF-4を搭載可能なミッドウェイ級以上の空母11隻の全飛行隊へのF-4を配備しようと計画した。1隻当たり二個飛行隊分を配備しようとすると単純計算で244機を必要とし、同時期にアメリカ軍が北ベトナムへの爆撃を開始したこともあり、F-4飛行隊の増強が続いた。

アメリカ海兵隊は海軍への配備開始から一年後の1962年から配備を始めた。F-4Bを初めて受領したのは第531戦闘攻撃飛行隊で、翌1963年には第314戦闘攻撃飛行隊が受領し、同年10月に日本厚木基地に派遣されている。日本への配備は東南アジアから最短距離にあるためベトナム情勢を鑑みてのことだった。戦争中期頃からは施設の整備の進んだフィリピンの基地を使用するようになった。

アメリカ空軍での採用[編集]

F-110A(F-4C)

当初、F-4は艦上機として開発されたが、空海両軍での戦闘機の共用化によるコスト削減を目論むロバート・マクナマラ国防長官の方針もあって、空軍規格に改められた機体をF-110「スペクター(Spector)」として採用した。1962年に3軍統一の機体命名法が施行されるとF-4に改めている。

F-4が当時のアメリカ空軍戦闘機に勝っていたのは、J-79エンジン双発の大パワーと、それに伴う機体規模の余裕であった。ただし全面的に優れていた訳ではなく、低空での速度性能や安定性では高翼面荷重の機体であるF-105に、レーダーや電子装備では全天候要撃機のF-106には劣っていた。しかしながら総合性能においては空軍機を凌駕する事を空軍側でも認めざるを得ず、採用に至った。ベトナム戦争が本格化する直前の1964年、F-4Cを受領した第555戦術戦闘飛行隊が那覇空軍基地の第51戦闘迎撃航空団に配備された。

後の視点から見ればF-4の最大の長所は、低空侵攻任務では欠点となった低翼面荷重であった。ミサイルキャリアーとして開発された機体であり、空戦性能向上を意図したものでなく、艦上戦闘機としての離着陸(艦)能力を確保するためのものであったが、副産物としてまずまずの格闘空戦性能を発揮した。当時の空軍機は要撃機および戦闘爆撃機が主体で、当時のミサイル万能論の影響もあり、空戦性能を軽視していた。結果としてF-4はベトナム戦争において、その空戦性能で活躍する事になる。

また、アメリカ空軍は当初海軍に提案されていたF-4の偵察型をF-4Cの機首を改造した戦術偵察機RF-4Cとして導入した。アメリカ海兵隊でもF-4B/Jを戦術偵察機に改造したRF-4Bを導入した。これに対してアメリカ海軍はRF-4を採用せず、RF-8やRA-5やその後継としての偵察ポッド装備のF-14でより偵察を行なった。

ブルーエンジェルス[編集]

ブルーエンジェルスのF-4Jは青く塗装された

1969年にF-4Jを導入し全米やヨーロッパでアクロバット飛行を披露した。アジアでは日本や韓国にも飛来している。日本に飛来した際にはその騒音から住民から苦情が寄せられた。その為「もう日本には来ない」とブルーエンジェルスのメンバーは激怒したという。これが原因なのかは不明だが以降ブルーエンジェルスは来日していない。

サンダーバーズ[編集]

ブルーエンジェルスと同じく1969年にF-4Eを導入した。

ベトナム戦争[編集]

F-4Cのインテーク ベトナム戦争で北ベトナム空軍機を4機撃墜した戦果マークが入れられている

F-4は最大8発搭載の空対空ミサイルのうち4発のAIM-7ミサイルと当時としては際立って有力なアビオニクスによりレーダー捕捉段階で視界外から敵機を撃ち落すことを可能としたミサイルキャリアーだった。

しかし、F-4初の実戦となったベトナム戦争ではレーダーでは敵味方判別をできないことから生じた同士討ちの結果として、視認前のミサイル発射を禁止されたり、ミサイル装着時の部品の破損などの人的ミス等によるミサイルの信頼性の低下、当時の技術的限界によるミサイルの性能不足[15]等により、F-4の特質を十分に生かすことができず、また、開発時に想定していない空対空格闘戦という状況に対して訓練不足[16]と兵装の制限(機関砲を内蔵しない)、さらには爆撃機護衛・制空権確保という任務上、戦闘空域に留まる事が求められたため、苦戦を強いられることになった。

北ベトナム空軍の運用するMiG-17MiG-19MiG-21等は旧型ながら優れた機動性と制約の少ない機関銃を持ち、地上管制の元で限定された戦術目標を達成すれば充分という有利さ、さらには迎撃が任務である事からミサイルを撃った後は戦闘空域から離脱する事もできた事から、F-4をはじめとするアメリカ軍の戦闘機部隊を苦しめたのである。

とはいえ、当時のアメリカ戦闘機としては運動性は優れており、MiG戦闘機には運動性に遅れを取ったとしても、他に代えるべき機体は存在しなかった[17]。空軍においては、機関砲を固定装備とし、運動性を向上させたE型を就役させ、格闘戦への対処とした。また、結果的には空戦での撃墜成績については、MiG戦闘機に勝っていた。しかしながら乗員が2名なので、戦死者の数は敵より多かったともされている。

アメリカ海軍
爆弾を投下するアメリカ海軍のF-4とA-7
アメリカ海軍のF-4が初めて実戦参加を果たしたのは、1965年3月「ローリング・サンダー作戦」だった。それ以前にもF-4飛行隊が乗艦する空母が北ベトナム沿岸に展開していたが、北ベトナムの航空戦力はほぼゼロに等しいので最新鋭のF-4の実戦投入は不要として見送られていた。
3月29日には第151戦闘飛行隊のF-4B、2機が北ベトナム上空で撃墜され初損失となっている。4月29日には中華人民共和国領空を侵犯した第96戦闘飛行隊のF-4Bが中国人民解放軍空軍戦闘機に撃墜されている。
同年6月17日、空母「ミッドウェイ」の第21戦闘飛行隊のF-4B二機がハノイの南方80kmで遭遇したMiG-17の4機中2機をすれ違いざまにAIM-7で撃墜し、はじめてF-4の火器管制能力を発揮するに至った。これは全アメリカ軍を通じてベトナム戦争初の撃墜記録となった。以降、アメリカ海軍のF-4BとF-4Jは北ベトナム軍戦闘機を36機撃墜しているものの、ほとんどがサイドワインダーによるものだった。


アメリカ海兵隊
南ベトナムに駐留するアメリカ海兵隊のF-4B(1966年1月
ベトナム戦争開始後、在日アメリカ海兵隊にも前線への出撃命令が下され、F-4飛行隊も南ベトナムのダナン基地やチュライ基地に進出した。後に激戦期と呼ばれることになる1968年末における任務は南ベトナム国内で活動する共産軍の制圧のための通常爆弾やナパーム弾ロケット弾ガンポッドによる対地攻撃であり、空中戦とは無縁の日々が続いたという。それでも、展開するF-4飛行隊は五個に増強されていた。当時2機のF-4を失ったものの乗員は全員救助されている。
1972年以降、攻撃目標が南ベトナムから北ベトナム、特にラオスを経由し南ベトナムに伸びる大補給ルート「ホーチミン・ルート」に移ると損害は増加した。北ベトナム軍正規軍の装備する対空砲対空ミサイルにより、3機のF-4の損失と2名のパイロットの行方不明という損失を蒙っている。


アメリカ空軍
アメリカ空軍F-105F-111などの戦闘爆撃機を次々と投入した。だが爆弾を満載し機動性の低下したF-105などにとっては、北ベトナムの主力戦闘機MiG-17は旧式機と言えども侮り難い敵だった。格闘戦に巻き込まれ爆装を投棄した時点で、「爆撃の阻止」という相手の戦術目標は達成しており、熱帯雨林という精密機械には適さない環境によりミサイルを武器とする戦闘機はその能力を著しく落としていた。
1965年4月3日、2機のF-105がMiG-17に撃墜されたことを受け、空軍はミグ戦闘機の掃討任務の為にF-4C飛行隊七個を南ベトナムに、三個飛行隊をタイ王国にあるアメリカ軍の基地に駐留させた。
しかしながら、1965年から1966年までのわずか一年の間に撃墜や事故など様々な原因で54機のF-4Cを損失している。初期トラブルの顕現と対応が不十分なままで実戦投入されたため戦場で燃料漏れや主翼への亀裂が生じたこと、ミサイルの使用に様々な制限や問題があったこと、機関砲を装備していなかったことが挙げられる。
D型・E型の登場
展示されるM61A1「バルカン」
画像は航空自衛隊のF-4EJの為にライセンス生産された「JM61A1」
1966年2月からマクドネル社の生産ラインはF-4CからF-4Dに移行した。また、1968年11月からはF-4として初めて固定武装として機首にM61A1機関砲を搭載し、主翼前縁へのスラットの付加によって運動性を高め、より格闘戦に優れたF-4Eの部隊配備を開始している。


損害
F-4Eが格闘戦に何とか対応できる機体として配備されたといっても状況は厳しかった。1971年末までに361機のF-4C/D/Eが対空砲地対空ミサイル、ミグ戦闘機により撃墜されており、停戦が発効する1973年までも損害は拡大している。


湾岸戦争[編集]

1991年に勃発した湾岸戦争にもF-4が投入された。この時は制空任務等を後継機であるF-15などに譲り、作戦運用上最後の派生型となったF-4Gがワイルド・ウィーゼルの任に就いた。

アメリカ軍からの退役[編集]

空母「アメリカ」に着艦するF-4S
米空母に配備されたF-4が最後の作戦を終え着艦した瞬間でもあり、奥に新たに配備されはじめたF/A-18が写る

アメリカ海軍では1973年よりF-14の配備に伴い徐々に数を減らし、1986年空母「ミッドウェイ」搭載のF-4とA-7F/A-18へ機種転換したことで全機が空母上から退役した。予備役飛行隊に配備された機体も翌年には姿を消している。

アメリカ海兵隊ではF/A-18への更新により1992年に全機退役した。

アメリカ空軍ではF-15F-16の配備が進むにつれて戦闘機としては一線から徐々に退いていたが、SEAD専用機材であるF-4Gは湾岸戦争に投入された。しかし、老朽化と陳腐化は否めず、無人標的機(QF-4Bなど)に改造されたものを除き、1991年湾岸戦争を最後として実戦配備からすべて引退している。一部空軍州兵での使用は続いていたが、1996年のアイダホ州軍F-4Gを最後に米空軍予備役からの引退も完了した。

現在の運用状況[編集]

デビスモンサン空軍基地にてモスボールされているF-4

初飛行から50年以上を経た、2012年時点でも日本航空自衛隊をはじめとして、イスラエル空軍トルコ空軍ドイツ空軍ギリシャ空軍エジプト空軍韓国空軍スペイン空軍イラン空軍の9ヵ国で配備・運用中である。

また、改良・近代化改修の計画が各国で進められており、2010年以降も使用し続けられる見込みである。 この他、アメリカ国内にて非営利団体が1機のF-4Dを飛行可能状態で保存しており、また、アメリカ空軍デビスモンサン空軍基地においてモスボール状態で保存されているものも存在する。

※各国の詳細については、下記の海外の採用国と派生型一覧を参照のこと。

アメリカ軍の採用と形式一覧[編集]

アメリカ海軍・海兵隊航空団[編集]

空母艦上で駐機中のF-4J
編隊飛行を行うF-4S
XF4H-1
原型機。2機製造された。
YF4H-1
試作機。5機製造。
F4H-1
命名規則変更によりF-4Aに名称を改めた。45機製造された。前述の通り、R&D作業のために製造された最初の21機の内、16機目(18号機)以前と17機目(19号機)以降とでレドームと風防(キャノピー)の形状が異なる。これ以降の形式は17機目(19号機)のものを基としている。
F4H-1F
命名規則変更によりF-4Bに名称変更。F-4初の量産型で合計684機が製造された。
F-4G
生産中のF-4Bに自動迎撃データリンクと自動着艦用の機材を搭載した機体。12機が改修されて実戦投入され、同時期に行われた新型迷彩塗装の実験が原因(新型迷彩塗装を施した機体の被害増大)と言われる被弾により1機を失っている。改修機は短期間でF-4Bに仕様変更されたが同機で開発されたシステムはF-4Jに反映されている。また、G形式名は短期間で消滅したので空軍がF-4Eを改修したSEAD(防空網制圧)機で再利用した。
F-4J
F-4Bの改良型として522機製造された。レーダーFCSにAWG-10を搭載し、戦闘機として初めてルックダウン能力を獲得した。また、F-4C用のメインギア回りと主翼、海軍型F-4Gで開発した機材に加えてエンジンを従来のJ79-GE-8から出力を強化したJ79-GE-10に変更した。アメリカ海軍のベトナム戦争中唯一のエースカニンガム/ドリスコル組が使用したが、5機目の撃墜後の帰還中に北ベトナム軍の地対空ミサイルが被弾、海上で脱出したため実機は現存していない。
F-4N
F-4Bの搭載電子機器をF-4J相当にアップグレードした機体。F-4B自体が実戦で酷使されていたため生産機数に対して改修実施機は少なく、改修機数は227機と言われている[18]
F-4S
F-4Jの寿命延長型。空戦時の運動能力向上を意図してF-4E同様に前縁フラップをスラットに変更したが、離着陸時の安定性が従来の機体より悪化している。スラットの形状はF-4Eに比べ若干分厚く先端部が角張っている他、主翼折りたたみ部のフェンスの背が若干高くなっている。後継機たるF/A-18の就役までの中継ぎの機体として、248機が改修された。

アメリカ空軍[編集]

ワイルド・ウィーゼルに使用されていたF-105の後継であるF-4G
F-110A
海軍機であるF4Hを空軍に採用する際に付与された機体名称。命名規則変更により空海軍統一名称を用いる事となり、F-4Cに名称変更。F-110時代の愛称は「スペクター」
F-4C
F-4Bを空軍の要求に合わせて改修。変更点としてはAIM-4 ファルコン、AGM-12 ブルパップ、核爆弾の運用、ブーム式空中給油装置、低圧タイヤの搭載が挙げられる。特に海軍型との大きな違いとしては複操縦装置の搭載があり後席にもパイロット資格を持つ要員が乗り込む。以降の空軍型も同様である。
EF-4C
F-105Gの後継機としてF-4Cを改修したSEAD(敵防空網制圧)機(ワイルド・ウィーゼル)だが、SEAD機として限定的な能力しか持たず兵器搭載能力や運用面でも制約があった。
F-4D
F-4Cの改良型。C型の搭載していた AAA-4 赤外線探知スキャナを省略した。サイドワインダーの搭載機能を削除しファルコンのみ搭載としたがファルコンの成績不良からサイドワインダー搭載機能を追加している。レーダーをAN/APQ-109Aに換装して低空目標の探知能力を向上している。AN/ASQ-91爆撃計算機をAN/AJB-7全高度核爆撃制御システムに組み合わせることで誘導爆弾の誘導機能を追加した。ASQ-91自体も対地攻撃を簡略にし、かつ精度を著しく向上させている。
EF-4D
F-4Dを改修したSEAD(防空網制圧)機のテストベッド機、EF-4Dとしては採用されなかったもののこの機体で開発された機材がF-4Gの信頼性向上に繋がった。
美しく塗装されたサンダーバーズのF-4E
F-4E
F-4Dの改良型。対地攻撃能力強化のためのC型からD型への改良に比べて変更内容はかなり大きい。接近戦能力の向上のために偵察型に倣い延長した機首にM61A1 20mmバルカン砲を固定装備し、前縁スロット付きスタビレーターと空戦時の運動能力向上を図り前縁フラップを可動式スラットに変更した(サンダーバーズ所属機除く)また、エンジンをJ79-GE-17に換装している。機関砲搭載のために従来より小型のAN/APQ-120レーダーに換装しているがAPQ-120開発の遅れから初期の30機はレーダーなしでの配備後に追加搭載している。
F-4G
F-105Gの本格的な後継機としてF-4Eをアメリカ空軍の要求に合わせ改修したSEAD(敵防空網制圧)機(ワイルド・ウィーゼル)で対レーダーミサイルを主武装とする。センサー類を搭載する為に機首のM61A1 20mmバルカン砲は撤去している。

偵察型[編集]

イギリスに向かうアメリカ空軍のRF-4C
F-4E(EJ、F)系列(左)とRF-4(右)の機首部分を正面から比較した写真
QF-4B
RF-4B
F-4Bの機首を延長し、拡張した空間に偵察装備を施した機体。開発当初からF-4の原型機をベースとした偵察型が海軍に提案されていたものの、RF-8を保有し、後継機としてA-5を改修した偵察型(RA-5C)の採用を決定していた海軍からは関心を得られなかったが、海兵隊が保有するRF-8の更新機として採用した。生産末期にF-4B規格の機体からF-4J規格の機体に変更されている。
RF-4C
RF-4Bと同時期に空軍へ提案されていた偵察型。F-4自体の採用は海軍や海兵隊が先行していたがF-4の偵察型は空軍の方が先に発注していたため、「RF-4BはRF-4Cを海兵隊向けに改修した」と言う説が一般化している。RF-4Bが兵器運用能力を持たなかったのに対して配備当初から核兵器の運用能力を持っており、さらにベトナム戦争後に自衛用のAIM-9搭載能力を追加された。
RF-4E
RF-4Cの機体をF-4E規格の機体に変更した偵察型。アメリカ空軍では採用されず生産機のすべてが輸出にまわされた。

標的機[編集]

QF-4B
老朽化し余剰となったF-4Bを改造した標的機。44機のF-4Bが改造を受けた。
QF-4E
老朽化し余剰となったF-4Eを改造した標的機。
QF-4G
老朽化し余剰となったF-4Gを改造した標的機。
QF-4N
老朽化し余剰となったF-4Nを改造した標的機。
QF-4S
老朽化し余剰となったF-4Sを改造した標的機。

計画機その他[編集]

F-4H
原形機のF4Hとの混同を避ける目的で欠番となったため、存在しない。
F-4VG
主翼を可変翼に改修したF-4。計画のみ。
F-4T
1970年代後半に立案・計画された制空戦闘機型F-4E。デジタル化した火器管制装置を持ち、すべての対地攻撃能力を省略してM61A1 20mmバルカン砲と胴体下にAIM-7を主翼下にAIM-9を各4発搭載する純粋な戦闘機任務(制空戦闘および要撃)に特化させた機体だった。しかし、F-15F-16などの登場で機体自体が旧式化していたために採用する国もなく中止となった。
F-4X/RF-4X
イスラエル空軍の要望に応えた、シリアが運用していたMiG-25に対抗するための発展型。イスラエルはRB-47Fに搭載されていたHIAC-1 LOROPカメラのF-4への搭載を、アラブ諸国偵察のために要求していたが、都度却下されていた。しかし1971年にアメリカは態度を変え、F-4の胴体下パイロンに搭載可能な同カメラ収納ポッド(G-139)の開発を許可した。このポッドは22ft以上の長さと4,000lb以上の重量を持つためアメリカ空軍とイスラエル政府出資によりピースジャック計画としてF-4の性能向上を図ることとなった。水メタノール噴射装置により150%に推力されることを想定して機体各部を修正し、最大速度M3.2、巡航速度M2.7を発揮するものとされ非公式にF-4Xとして知られるようになった。
しかし当時アメリカ自身が保有していないマッハ3級戦闘機をイスラエルが保有する可能性から、関連技術のイスラエルへの禁輸を決定した。これに対して、ポッドの空気抵抗も考えてカメラを機首搭載として無武装化した(戦闘機としては使用できない)RF-4Xとすることで一旦は計画が再開したものの、F-4の高性能化が可能であるという事実がF-15に与える影響と水噴射の安全性と信頼性を憂慮したアメリカ空軍が計画から離脱。結果、イスラエルだけで計画を継続できずに自然消滅することとなった。

海外の採用国と派生型一覧[編集]

青は現運用国、赤は旧運用国

F-4は多数輸出されており、その運用国も多岐にわたる。 F-4C/Dの供与・売却が少なかったのはベトナム戦争で多くの機体が損傷し、また、機体も疲労が蓄積しているため長期の運用に不向きとされたことによる。このためベトナム戦争末期から戦争終結後に生産されたF-4E以降の機体が供与・売却の大半を占めた。

F-4を運用したのは開発国のアメリカの他に、政治的に親密だったイスラエル、イスラエルとの和平に合意したエジプトオイルマネーを持つ重要顧客だったイラン北大西洋条約機構(NATO)加盟国であるトルコギリシャ、アメリカへの基地提供の見返りを孕んでいたスペイン、同盟国のイギリスオーストラリア、地理的に重要な位置にあったドイツ旧西ドイツ)、極東防衛の一翼としての日本大韓民国の11ヵ国に上り、冷戦下で同盟国の防空能力向上を図ったアメリカの戦略が見て取れる。

運用国によって異なる使用・運用目的に合わせた派生型や近代化計画が多数存在する。

イスラエル[編集]

イスラエル国防軍のF-4E
展示されるF-4
空中給油のためのパイプ(プローブ)が備わる

第三次中東戦争後にイスラエルに兵器の供給を行っていたフランスの中東政策が、対立するアラブ連合共和国エジプトシリア)やヨルダンなどアラブ諸国寄りとなり、50機のミラージュ5の対イスラエル禁輸処置を始めとしてイスラエルへの兵器供給が全面的に停止された。戦闘機50機の損失に10機がスクラップとなっていたイスラエル空軍は、第三次中東戦争による消耗からの回復と戦力補強が死活問題となっていた。また、ソビエト連邦が第三次中東戦争で消耗していたアラブ諸国に960機、シリアに430機の戦闘機の引き渡しを行っていたこともこの問題に拍車をかけた。

イスラエルは兵器供給をアメリカに頼ることとして1968年に当時のレヴィ・エシュコル首相が自ら訪米、20機のA-4と50機のF-4Eの有償援助を求めた。アメリカ政府と議会は傍受した無線などからソビエトのアラブ諸国への軍事援助が本格化しており中東の軍事バランスがアラブ側に大きく傾いていると判断し、イスラエル政府の要求を受けることとした。

1968年末にF-4E型48機を約2億8千万ドルの有償での最優先供与が認められ、翌年からイスラエル空軍のパイロット・整備員120名がカリフォルニア州ジョージ空軍基地でF-4を使用した訓練を開始している。

1969年9月7日に第一陣6機がイスラエルに到着して以降、順調に引き渡しが行われ、同年末にはハッツァー基地にF-4飛行隊が編成された。イスラエル向けF-4の改修点として空中給油システムが当時のイスラエル空軍が保有していた他の軍用機と同様のプローブアンドドローグ方式に変更されている点が挙げられる。また、この機体の導入と共に入手したJ79はミラージュIIIの独自改良型であるIAI クフィルにも装備された。

飛行隊編成から間もない1969年11月頃からF-4は実戦に参加し、スエズ運河を挟んだアラブ諸国側の地上目標への積極的な攻撃を行なった。この際、イギリス製Z級駆逐艦を撃沈し、ソビエト製コマール級ミサイル艇を炎上させたりもした。だが、翌年の6月30日に2機、7月5日に1機と、地対空ミサイルによる損害も発生している[19]。それでも双方の政治的判断から直接的な空中戦は避けられていた。

1970年7月30日にスエズ運河上空において、イスラエルのF-4編隊とアラブ諸国のソビエト軍パイロットの搭乗する16機の MiG-21J編隊がヘッド・オンから大規模空中戦に突入した。後に低空から接近したイスラエル空軍のミラージュIII編隊も加わった結果はMiG-21の5機撃墜に対してイスラエル側の被害はゼロという一方的な結果となった。

1969年末から1972年8月までのF-4Eのキル・レシオ(撃墜・被撃墜の率)は、25:1と圧倒的に優勢だった。

第四次中東戦争
1973年10月6日というイスラエルにとって大祭日を狙った奇襲攻撃から第四次中東戦争が勃発した。アラブ側との緊張の高まりからF-4には通例通り爆装が施されていたが、エジプト空軍の奇襲を受けたF-4飛行隊は爆弾を抱えたまま離陸し地中海に爆弾を全発投棄したのちにスエズ運河へ向かっている。その日の戦闘でイスラエル空軍は1機のF-4を含む6機を損失しながらも、MiG-21などのエジプト空軍機16機を撃墜した。
10月7日、イスラエルはF-4を中心とした攻撃隊によりエジプト領内の7つの空軍基地への空爆を実施したが、エジプト側の空爆を予測しての対空ミサイルの増強などもあり、イスラエル空軍は3機のF-4Eを失った。
10月8日は攻撃目標をシリアの空軍基地5つに絞り、F-4を中心とした攻撃隊がシリア空軍機を空中戦で21機と地上に待機中の11機を破壊したが、F-4を4機損失した。
10月22日の停戦までに両軍は117回の空中戦[20]を行った。総参加機数450機のうちアラブ側は277機墜落、イスラエルは6機墜落、キル・レシオに換算すると46.1:1となった。実際には両者とも空中戦よりも地対空ミサイルによる被害が大きくイスラエルのF-4Eは27機が地対空ミサイルで撃墜されている。イスラエルがアメリカにパイロットを派遣していた時期の情報がベトナム戦争におけるSA-2などレーダーに頼る地対空ミサイルに対する内容に終わっていたのに対して、第四次中東戦争で本格的に使用されたソ連製地対空ミサイルはSA-3SA-6SA-7など光学照準や赤外線追尾方式を併用した改良型であったため、戦訓が通じずに苦戦させられたことによる。
現在の運用状況
現在ではF-16F-15F-15Iの導入で実戦配備されているF-4の数は半分程度とされている。イスラエルではF-4を2010年代以降も使用するために「F-4Eクルナス2000」を計画した。2004年に退役。[21]
F-4Eクルナス2000
機体寿命延長と能力向上を目的としてF-4Eを近代化計画。当初はエンジンの PW1120英語版(推力A/B時 9.5t)への換装やレーダーのA-6F用に開発されていたAN/APG-76英語版への換装を始めとし、カイザー製広角HUDやHOTASの導入、パイソンシャフリルといた国産ミサイルの運用能力の付加、AGM-142運用能力の付加、ミッションコンピュータの換装(エルビット製ACE-3)などが計画されていた。試作機は1986年初飛行し1987年のパリ航空ショーにも展示された。しかしエンジン換装は出力増加に伴う発熱の機体への影響の技術的解決の失敗と予算面の都合により、また、レーダーは開発自体をアメリカ海軍が中止してしまったことにより実現できず、アビオニクスとコクピットの近代化のみの小規模なF-4近代化計画になっている[22]

エジプト[編集]

エジプト空軍のF-4E(1980年
Exercise BRIGHT STAR'85に参加するF-4E(1985年)

第四次中東戦争終了後にイスラエルとの和平合意(エジプト・イスラエル平和条約)を行い、アメリカの仲介によりキャンプデービットで合意がなされた。この結果エジプトとイスラエルの国交が樹立し、それまでエジプト国内に多数送り込まれていたソビエトからの軍事顧問団は姿を消した。ソ連軍機一辺倒だったエジプト空軍は1979年に「ピース・ファラオ」計画の名称[23]で、アメリカの支援により5億9400万USドルでAIM-7AIM-9およびAGM-65 マーベリックと共に35機のF-4Eを購入・配備した。

エジプト空軍は単純構造のミグ戦闘機の整備には慣れていたが、ファントムが必要とする高度な整備には対応し切れず、1980年代初頭には9機だけ[24][23]が飛行できる状態であるだけだったものの、アメリカ空軍の徹底した訓練プログラムの結果、1985年には稼働率は飛躍的に向上する。パイロットの育成についても、アメリカ空軍ホームステッド空軍基地の第31戦術戦闘航空団で訓練が行われた[23]

その後1988年に事故で失われた機体分の3機と、さらにアメリカ空軍の余剰となった8機を購入した。一方で1982年からはF-16A/B、1986年からはF-16C/Dの導入が開始されたため、これ以上の追加発注は行われなかった[23]

配備基地
2007年現在では28機のF-4Eを保有しており、2個飛行隊が編成されている[23]
  • カイロ・ウエスト基地:第222戦闘機連隊 - 第76飛行隊 - 第78飛行隊[23]

イラン[編集]

F-4D(2009年撮影)
タンカーボーイング707-3J9C)より空中給油を受けるF-4E(手前)とRF-4E

1968年に親アメリカのパーレビー王朝下で導入した。当時は莫大な石油がもたらすオイルマネーで西側を中心とした先進兵器を次々と買いあさっていた時代であった。1966年にはイラン空軍が32機のF-4Dを発注しており、ベトナム戦争真っ只中でF-4の生産に余裕がなかったアメリカだったが、イラン向けF-4の生産には熱心だったと言われている。その後、1970年代初めから中期にかけて総計208機のF-4Eを発注し[23]1971年3月からイラン革命直前の1979年までに177機が引き渡された[25][23]

ただし、現場要員達の質は低かった。当時、カリフォルニア州ジョージ空軍基地での訓練の際にイラン空軍と航空自衛隊のパイロットや整備員たちが机を並べたが、空自パイロットの一人は「たとえ一時限の講義を理解するのにも大きな隔たりがあった」との感想を述べている。そんな彼らでも大部隊を編成・維持できたのは、アメリカの航空機産業を丸抱えできるほどのオイルマネーの恩恵だった。F-4に限らず、1960年代から1970年代のパーレビー王朝時代は、F-5を皮切りにF-14など多種の軍用機を輸入・導入契約を行っている。結果、イラン革命直前には225機のF-4を保有するに至り、286機を受領したイスラエルに次ぐ大規模保有国となった。

しかしながら、1979年2月28日に発生した反アメリカ派のルーホッラー・ホメイニー率いるイラン革命の際、親国王派が中枢を占めたイラン空軍では親国王派パイロットたちが政治犯として次々と投獄された。F-4もアメリカの武器輸出禁止の影響を受けて、発注済みの機体の引き渡し拒否や支援等が一切受けられなくなった為、稼働率が著しく低下した。それでも、新政権がオイルマネーで潤っている間は、闇市場などからの部品調達により何とか飛ばせる機体を維持していた。

1980年9月イラン・イラク戦争では、人員不足を補うために投獄されていたパイロットたちを釈放し戦闘に参加させたものの、その多くが失われた。F-4の稼働率も約40%とされ[26]、戦闘終結の時点で飛行可能な機体は10機前後であった[26]。戦後のオイルマネーの枯渇により補給が途絶し、稼働率は更なる低下とパイロットの喪失によりF-4を満足に扱える人員は大変少なくなったと言われる。

一方で、依然として闇ルート(いわゆる「イラン・ゲート」)による部品輸入が行われているとも、国内企業及び友好国である中華人民共和国の軍需企業の協力のより中華人民共和国製兵器を用いた「近代化」を施されていると言われるなど近況は不明となっている[27]

イラン・コントラ事件でアメリカは「ニカラグアの反政府組織であるコントラ支援のための資金の調達目的」で、20機前後のF-4Eをパラグアイ経由で輸出し、その後アメリカ国内で政治的問題となった。

配備基地
正確な現有機数は不明であるが、F-4D/Eを50機から60機、RF-4Eを6機程度、使用可能な状態にして部隊の編成を行っているとみられる[26]
  • ハマダン-シャーロキ基地(第3戦術航空基地):第31偵察飛行隊(RF-4E)- 第32戦闘飛行隊(F-4E/D)- 第33戦闘飛行隊(F-4E/D)[23]
  • ブシェール基地(第6戦術航空基地): 第61戦闘飛行隊(F-4E)- 第62戦闘飛行隊(F-4D/E)[23]
  • バンダル・アッバス基地(第9戦術航空基地): 第91戦闘飛行隊(F-4E)- 第92戦闘飛行隊(F-4E)[23]
  • チャーバール基地(第10戦術航空基地): 第101戦闘飛行隊(F-4D)[23]

トルコ[編集]

トルコ空軍所属のF-4E
イスタンブール航空博物館に展示されるF-4E

1974年に「ピース・ダイアモンドIII」計画の一環として、40機の新造F-4Eの配備を開始した[28]1977年にはF-4E 32機とRF-4E 8機を追加発注し、1981年6月1984年にアメリカ空軍のF-4Eを15機ずつの計30機を受領している[28]1987年からは「ピース・ダイアモンドIV」が開始され、アメリカ空軍で余剰となった40機のF-4Eを受領した[28]。さらに1991年3月には湾岸戦争への支援の見返りとして、やはりアメリカ空軍で余剰となったF-4E 40機の受け渡しが行われた[28]。長期に渡るアメリカ空軍機受領によって、前縁スラット装備機・非装備機の両種を保有するに至る。

偵察型については1992年から1994年にかけて、ドイツ空軍で退役した32機のRF-4Eを受領する[28]

トルコ空軍はF-4Eを182機、RF-4Eを55機受領し、総受領数は237機となる[28]。現在でも合計で200機近いF-4を保有しており、各国でF-4が数を減らしている事から現時点ではトルコが最大のF-4保有国となっている。予算等の問題からトーネードIDSなどの新型機の導入が難しいため、トルコ空軍ではF-4を2020年頃まで運用する予定である[23]。これに対応した機体の延命・改修により54機のF-4が「F-4E 2020」となった。

F-4E 2020
トルコ空軍がIAIに開発を依頼し、自国で改修したトルコ版クルナス2000と言える機体である。「ターミネーター(Terminator)」の名を持つ。計画はF-4 ICEの改修を行ったドイツのDASA社案とイスラエルのIAI社案との比較で、1995年8月に決定した。クルナス2000で見送られたレーダーの変更(エルタEL/M-2032)、トルコがライセンス生産しているF-16に準ずるアビオニクスへ変更に加え、機材間の電気配線をMIL-STD-1553Bデジタルデータバスに交換する等の大規模な改修が行われている。この改修によってクラスター爆弾の搭載能力を獲得するなど電子機器類の性能が大幅に向上した。また、エンジンの換装や燃料タンクの増設など、機体自体の改修箇所も非常に多い。
配備基地
2007年現在、52機のF-4E 2020に加え、未改修のF-4Eを110機とRF-4E 38機を保有する。
  • エセキセヒール基地(第1主ジェット基地): 第111飛行隊(F-4E 2020)- 第112飛行隊(F-4E)- 第113飛行隊(RF-4E)
  • エルハク基地(第7主ジェット基地): 第171飛行隊(F-4E 2020)- 第172飛行隊(F-4E)- 第173飛行隊(F-4E)
  • コンヤ基地(第3主ジェット訓練基地): 第132飛行隊(F-4E)

スペイン[編集]

スペイン空軍のF-4C

1971年に国内に駐留していたアメリカ空軍の中古のF-4Cを譲り受ける形で導入した。当時、アメリカ空軍の第一線を退き始めていたとはいっても、高級機でもあったF-4Cの供与が決定したのは、スペイン国内の基地提供の見返りという思惑が絡んでいた。当時のスペイン空軍はF-104Gを保有してはいたが18機(複座訓練型のTF-104Gを含めても21機)と少なく、数の上でも主力機は旧式機のF-86だった。

ベトナム戦争にも参加した36機のF-4Cの引き渡しは、スペイン国内のトレホン空軍基地に駐留していた米空軍の機体を、同基地に新設されたスペイン空軍の飛行隊に横滑りで移管する、という簡単な形で行われた。その後1978年に同じエンジンを使用するRF-4Cを追加導入した。

F-4Cは1989年F/A-18と入れ替わる形で退役した。RF-4Cは1990年中期に、レーダーのAN/APQ-172への換装、リング・レーザー・ジャイロ式の慣性航法装置、AN/ALR-44レーダー警報受信機、ハヴ・クイック無線機の装備、機首部へのイスラエル製空中給油プローブの装備などの近代化改修を施され運用されている[29]

イギリス[編集]

F-4M(1980年)

当時のイギリスの国防政策による予算削減のため国産の次期主力機の候補だったホーカー・シドレー P.1154BAC TSR-2をキャンセルし、1962年2月空母に搭載する次期戦闘機にF-4を選定した。当初は正式にどのタイプを導入するかは決定していなかったが、選定から3ヶ月後にF-4Bの改良型であるF-4Jの開発が開始されたことを受け、J型をイギリス向けに改修(エンジンをイギリス・ロールス・ロイス社製の物に換装)した「F-4K」を導入することとなった[30]

機体

イギリスは現在までに、3種類のF-4を運用している。 エンジン以外にも原型に比べて変更点が多く、非公式に『ブリティッシュ・ファントム』と呼ばれることもある。1992年のF-4Mの引退により全機が正式に退役となった。

F-4K(ファントム FG.1)
F-4K(1968年
F-4Jをイギリス海軍向けに改修した型。「F-4K」とはマクドネル社内での呼び名でイギリス海軍では「ファントム FG.1」と呼んだ。エンジンをロールス・ロイスRB-168-25RスペイMk.202(後にMk.203)ターボファンエンジンに変更し、それに伴いインテークを横方向へ15センチ大型化、レーダーをAN/AWG-11に変更した。発艦を容易にするために前脚が原型のF-4Bより40インチも伸ばせるようになり迎え角が大きくしている。米空母に比べて小型の英空母のエレベーターのサイズに合わせるために機首のレドームを折り畳み式にしている。エンジン換装により加速性能と航続距離は向上したが高空での速度は少し遅くなった。この種の超音速機では最高速度性能は大した意味がなく、概ね性能向上したとみてよいと思われる。ただし、スペイ・エンジンは原型のJ79より重く、テイル・ヘビーの傾向があったため、スパロー・ミサイルなどを装備しない場合でも、機体前部の兵装ステーション(No.4/6)に死重を搭載する必要があった。
一方、空母の廃止により生産数を削減されたことでイギリス製部品のシェアも40%強にとどまり当初計画されていた50%は達成できなかった。新規部品の開発コストもかさんだため『世界で最も高価なファントム』になってしまったと言われている。
F-4Kは1966年に初飛行し1968年4月に初号機が引き渡された。当初の計画では140機を導入する予定だったが当時の労働党政権は1966年に空母戦力の大幅削減(最終的に通常空母は全廃)を決定。F-4Kの搭載工事も「アーク・ロイヤル」1隻のみに施されることになった。F-4Kの調達数も削減された結果、1969年の最終号機引き渡しまでに52機(試作機2機を含む)の生産にとどまった。
「アーク・ロイヤル」の改装中(1967年3月~1970年2月)に空母「イーグル」で行われたF-4Kのテストの結果はアーク・ロイヤルの改装にフィードバックされた。1972年の「イーグル」の退役によりF-4が搭載される空母は「アーク・ロイヤル」のみとなり、飛行隊も2個から1個へと削減され、52機のF-4K中28機が空軍へと移管された(19機は当初から空軍に配備された)1979年12月の「アーク・ロイヤル」退役後のイギリス海軍ではスキージャンプ装備の軽空母BAe シーハリアーの組み合わせだけとなり、全機が空軍に移管された。
移管後、F-4Kは防空戦闘機として北海上空の防衛の任に就いた。
F-4M(ファントム FGR.2)
F-4M(2007年)
海軍と同様にイギリス空軍向けに改修した型。「F-4M」はマクドネル社、「ファントム FGR.2」がイギリス空軍での呼び名である。多くの部分がF-4Kに準じているが、エンジンをロールス・ロイスRB-168-25RスペイMk.202(後にMk.204)、レーダーをAN/AWG-12に変更されている。
F-4Kと比べて戦術(対地)攻撃能力が強化され偵察ポッドの運用能力も追加されている[31]。また、SUU-23/Aガンポッド用の配線も当初から用意されている[32]。他にも、電源車など地上設備がなくとも、内蔵バッテリーでエンジンスタートできるなど、他のF-4にはないユニークな特徴もあった。
F-4Mは合計118機が発注され、五個飛行隊が編成された。その内の4個飛行隊が西ドイツ駐留NATO軍部隊の任に就いた。
F-4J(UK)
フォークランド紛争後の1984年に、第23飛行隊がフォークランド諸島に派遣されたことで生じた防空網の穴埋めのために、アメリカ海軍で余剰となったF-4Jの中古機を導入した。アメリカ海軍が保有していたF-4Jから改修は最小限で、『女王陛下のF-4』としてはもっとも改修点が少ない。
性能面ではF-4K/Mと遜色なかったがスペイを搭載したF-4に慣れ親しんだ整備兵達からは不評で結局F-4Mより一足先に1991年退役している(F-4Mの退役は1992年

ドイツ (旧西ドイツ)[編集]

西ドイツ空軍のF-4F
旧西ドイツ時代のRF-4E(1984年)

1968年にRF-104Gの後継戦術偵察機として、RF-4CをF-4E規格に合わせたRF-4Eを88機発注した[33] 。RF-4Eは1971年に大西洋を横断し西ドイツに到着後、第51偵察航空団ドイツ語版第52偵察航空団ドイツ語版の2個航空団において、RF-104Gを更新した。

また、同時期にF-104Gの後継機としてトーネードIDSを導入し、防空及び攻撃任務を担わせようと計画した[33]。だが、F-104Gの退役開始時期に間に合わないとして、1970年に防空戦闘機の導入を決定する[33]

当時、アメリカ国内にて輸出用戦闘機として単座化・簡素化したF-4Eが計画されていたが、最終的にはF-5Eが選定される[33]。しかし、この機体案は西ドイツ空軍が求めていた要求に合致し、1971年に西ドイツ向けF-4Eが提案された[33]。案では単座化のほか、AIM-7の運用能力が外されていたが、設計変更に伴う価格上昇も見込まれた[33]。西ドイツ空軍は方針を変更し、複座型のまま、AIM-7の運用能力削除のみを施したF-4Fが採用された[33]

1976年4月より引き渡しが開始され、175機が製造された[33]。この内の12機はアメリカでパイロット訓練用に用いられたことから、非公式にTF-4Fと呼ばれている[33]。訓練部隊の第20戦闘飛行隊英語版は、当初はカリフォルニア州ヴィクターヴィルジョージ空軍基地英語版、1993年からF-4Fのパイロット養成が終了する2004年まではニューメキシコ州オテロ郡ホロマン空軍基地英語版を拠点としていた。F-4Fは西ドイツ国内では第71戦闘航空団ドイツ語版第74戦闘航空団ドイツ語版第35戦闘爆撃航空団ドイツ語版第36戦闘爆撃航空団ドイツ語版の4個航空団に配備された。最終的に西ドイツが保有したF-4はRF-4E、F-4E、F-4F合わせて273機にも達した。

冷戦終結と東ドイツとの統一に伴う軍縮で1993年にRF-4Eが全機退役し、代わりに保有数は減少するが稼働率の向上を見込みトーネードIDS/ECRを導入した。この時退役したRF-4Eは後にトルコギリシャに引き渡されている。そしてF-4Fも2013年7月末をもって全機退役した。ドイツでF-4に付けられたニックネームには、黒い排煙を吐き出しながら飛ぶために「空飛ぶディーゼル(Luftdiesel)」「石油ストーブ(Öloffen)」や、当時の戦闘機としては大柄な機体から「鉄の豚(Eisenschwein)」があった。

F-4F
F-4Eを西ドイツ空軍(当時) の要求に合わせ改修。F-104Gの後継機(戦術攻撃機)として導入した為に主翼が可動式スラット、スタビレーターが在来型の組み合わせとなり、スパローの運用能力の割愛といった改修が加えられている。
F-4F ICE
F-4Fに、西ドイツ空軍(当時)の要求に合わせた「ICE(Improved Combat Efficiency,戦闘効率改善)」と称する改修プランを施した能力向上型。レーダーを従来のAN/APQ-120からF/A-18で使用されていたAN/APG-65に変更し、AIM-120の運用能力を付与した。また、MIL-STD-1553Bデータバス、新型エアデータコンピュータの装備、IFFの更新などの改修が行われた[29]1983年より研究が開始され1992年より配備が開始された。

オーストラリア[編集]

キャンベラの後継機として導入したF-111Cに設計上のトラブルが発生し戦力化に遅れが生じた。オーストラリア空軍はこの穴埋めとしてアメリカ空軍から24機のF-4Eをリースすることを決定し1970年から1973年までの3年間運用した。この時、1機が事故で失われている。

ギリシャ[編集]

ギリシャ空軍のF-4
デンマークSkrydstrup空軍基地にて(2006年)
初飛行から50年を記念し、特殊塗装が施されたギリシャ空軍所属のRF-4E(2008年)

1974年3月よりアメリカからF-4Eの引き渡しを受ける。この引き渡し計画は「ピース・イカロス」と呼ばれた[28]。まず36機のF-4Eを受領し、1976年6月には消耗分の2機が追加で引き渡されている[28]

引き渡しはその後も継続され、1978年6月から1979年4月にかけてF-4E 18機とRF-4E 8機が引き渡された[28]。これに加え、1978年8月から12月までの期間に数機のF-4Eを追加受領する。同年にはF-4EとRF-4Eの追加発注が行われ、同時に西ドイツ空軍で余剰となった29機のRF-4Eを取得する[28]

1987年にはアメリカ空軍がギリシャ国内の空軍基地使用期限を8年延長する見返りとして、アメリカ空軍のF-4E 50機とF-4G 19機を引き渡す提案が示されたが、結局28機のF-4E受領に留まる[28]

現在は老朽化したF-4Eの退役に伴い、F-16の配備が進んでいる。その一方で、39機のF-4Eには能力向上を目指して改良が施された。この改良はドイツ空軍のF-4改修計画「ICE(Improved Combat Efficiency:戦闘効率改善)」を行ったESDA社が担当し全機が「F-4F ICE」と同様の改修を受け「F-4E PI2000」となった。

2007年現在、ギリシャ空軍はF-4 PI2000(F-4E AUP)を36機、RF-4Eを23機保有しており、これに加えて10機程度が補充用に保管されている[28]

F-4E PI2000(F-4E AUP)
ギリシャ空軍EADSに開発を依頼し自国で改修した、ギリシャ版F-4ICEと言える機体。「F-4E AUP」との名称でも呼ばれる。計画は「ピース・イカロス2000」と呼ばれる[28]AIM-120に加えAGM-130やレーザー誘導爆弾の運用の運用能力の追加等、大規模な改修が行われている。
配備基地
  • ラリッサ基地:第110戦闘航空団 - 第110戦闘航空団転換訓練飛行班(F-4E AUP)- 第348戦術偵察飛行隊(RF-4E)[28]
  • アンドラビダ基地:第117戦闘航空団第338爆撃追撃飛行隊(F-4E AUP)- 第339全天候戦闘飛行隊(F-4E AUP)- 第117戦闘航空団転換訓練飛行班(F-4E AUP)[28]
  • サントリニ基地:第134戦闘航空群 - 第117戦闘航空団分遣隊(F-4E AUP)[28]

韓国[編集]

韓国空軍所属のF-4D(1979年)

1968年にF-4D 18機の発注が行われ、1969年8月にアメリカ空軍の中古機4機を受領する[26]。 以降、順次引き渡しが行われた。 その後韓国側はF-4D 18機の追加供与を希望し、アメリカ政府はこれを了承。1972年には、韓国軍向けにアメリカで製造されていたF-5A/B 36機を南ベトナムへの駆け込み供与する見返りに、国内に駐留するアメリカ空軍部隊の機材を譲渡される形でF-4Dの引き渡しが行われた[26]。 引渡し対象となったのは、韓国国内に駐留していたアメリカ空軍第3戦術戦闘航空団所属機である[26]。その後もアメリカ空軍の保有していたF-4Dの引き渡しが行われ、1988年4月までに92機のF-4Dを取得した[26]
1978年には「ピース・ピーザントII」の計画名で、アメリカ空軍で余剰となったF-4Eを総計103機(新造機は37機)導入する[26]1990年には第460戦術偵察航空群の閉隊を受けて、同隊が保有していた12機のRF-4Cを取得[26]。以後、アメリカ空軍で退役したRF-4Cの引き渡しを受けている[26]

最終的にF-4D、F-4E、RF-4C合計で203機のF-4を購入した。

1980年代後半にはF-4E/Fに対して近代化改修が行われ、AN/AVQ-26ペイブタック照準ポッド英語版、AGM-142ラプター/ポップアイ空対地ミサイルの運用能力が付加されている[29]。さらに、韓国空軍では、100機前後のF-4をF-4 ICE相当へ近代化改修する計画を立案したが、韓国戦闘機計画(KFP)でF-16C/Dライセンス生産する事が決定し、合わせて当時の経済事情などから1993年に計画は放棄された。

現在では140機程度が実戦配備されており、大邱基地所属の第11戦闘飛行団に F-4D 2個大隊、清州基地所属の第17戦闘飛行団に F-4E 3個大隊、水原基地所属の第10戦闘飛行団にRF-4C 1個大隊が編成されている。大邱基地に配備されているF-4DはF-15Kで更新されているが、F-4EとRF-4Cについては今後も運用していく予定で一部の機体には寿命延長処置が施された。

通算5,000機目(5057号機)に製造されたF-4は韓国が発注したものだった。同機は記念塗装が施され完成セレモニーに参加した。その後、通常迷彩に戻され1978年5月24日に引き渡しが行われた。

配備基地
  • テグ基地:第11戦闘航空団 - 第110戦闘飛行隊(F-4D)- 第151戦闘飛行隊(F-4D)[26]
  • ソンナム基地:第39戦術偵察航空群 - 第131戦術偵察飛行隊(RF-4C)[26]
  • チョンジュ基地:第17戦闘航空団 - 第152戦闘飛行隊(F-4E)- 第153戦闘飛行隊(F-4E)- 第156戦闘飛行隊(F-4E)[26]

日本[編集]

航空自衛隊のF-4EJ改(2005年5月撮影)
百里基地所属のRF-4EJ(2007年9月撮影)
概要
1966年(昭和41年)に第2次F-XによりF-86Fの後継機種としてF-4Eを日本向けに改修したF-4EJを選定した。導入時の際の2機はマクドネル社セントルイス工場製の輸入、続く8機分は部品で輸入し三菱重工業でのノックダウン生産、それ以降を同社によるライセンス生産と決定した。加えて、1974年(昭和49年)よりRF-4Eを14機輸入しており、1981年(昭和56年)の生産終了までに日本が調達したF-4の総数は154機となる。また、F-4のライセンス生産が許可されたのは日本が唯一となる。
F-15Jが導入されるまで主力戦闘機として防空任務を担当した。出自が艦上機であるために陸上機としては大きな構造重量(着艦の衝撃に耐えるため、足周りが頑丈であった)への批判や、採用後も1976年(昭和51年)のベレンコ中尉亡命事件で低空目標の探知能力(ルックダウン能力)不足が明らかになるなど、課題も抱えた[34]
F-104J/DJが実戦部隊から退いた1986年(昭和61年)からは数の上でもF-15Jが主力戦闘機となるが、1989年(平成元年)より延命・能力向上目的の改修を受けた90機が「F-4EJ改」となり防空任務に就いた。また、RF-4E偵察機2機の事故減に対して、1990年(平成2年)より15機の近代化改修対象外の初期型F-4EJを偵察型「RF-4EJ」に改修した。三沢基地第3航空団第8飛行隊はF-2の配備遅延のために1997年(平成9年)から繋ぎとしてF-1の代わりにF-4EJ改を支援戦闘機として運用していた。
現在、F-4はF-15Jへの更新や部隊の改編、老朽化により徐々にその数を減らしている。2011年現在、日本でF-4を戦闘機部隊で運用しているのは宮崎県新田原基地第5航空団の第301飛行隊、茨城県百里基地第7航空団第302飛行隊の二個飛行隊となっている。
また、RF-4E/EJ改を運用している百里基地偵察航空隊第501飛行隊を偵察型に改修したF-15Jで更新する計画がある。
第2次F-X選定
航空自衛隊では最初の主力機F-86Fの老朽退役が始まることから、1966年(昭和41年)より後継機選定を開始した。だが、前回のF-Xでの汚職事件を受け、今回の選定作業は極秘裏に行われることとなった。
1967年(昭和42年)10月よりの選定で以下の9機種の名が挙げられた[35]
F-111 ゼネラル・ダイナミックス社
F-4E マクドネル・ダグラス社
P-530(F-18の原型:計画案) ノースロップ
F-5 ノースロップ社
CL-1010-2F-104の発展型) ロッキード
ジャギュア イギリスフランスの共同開発
サーブ37 SAAB
ミラージュF1 ダッソー
ライトニング イングリッシュ・エレクトリック
更なる選定により1968年(昭和43年)7月の第二次調査結果までにF-4E、CL-1010-2、ミラージュF1の三機種までに絞られた。CL-1010-2は実機が存在しないこと、ミラージュF1は導入経験のない欧州機だったことから、F-4Eの導入が最有力とされ、航空自衛隊の現場からも「F-4しかない」との声も挙がっていたという。同年11月、F-4E導入を決定し、翌年の1969年(昭和44年)1月10日の国防会議でF-4E(104機)の導入を正式決定し閣議了承を受けた。この時点でのF-4EJ一機当たりの価格は、20億円だった。
導入計画
当初の第3次防衛力整備計画ではF-4EJ四個飛行隊分(104機)の編成を予定した。しかし、1967年(昭和42年)の国会日本社会党日本共産党などの野党の追及を受けた防衛庁長官の「周辺国の脅威になる爆撃機能(対地攻撃能力)を持たせない」との答弁を受けて、核兵器制御装置(DCU-9/A)、爆撃コンピュータ(ASQ-91)、空対地ミサイル・ブルパップ制御装置(ARW-77)、空中給油装置を省略した機体をF-4EJとして採用した。後に対地攻撃能力はF-4EJ改への改修の際に追加されている。なお、AN/APR-36/-37についてはライセンス生産が認められなかったため、国産のJ/APR-2が開発されて装備されている。
これに加え、沖縄返還による戦闘機部隊増強のために24機、さらに第三次FXの選定の1年延長による12機の追加をうけて、最終的に140機を導入した。また、1974年(昭和49年)にはRF-4Eを14機輸入し、追加配備している(後述)
最初の2機が完成品輸入、続いて10機がノックダウン生産、残りの128機が三菱重工業でのライセンス生産で調達された[36]
当初、大蔵省(当時)は米軍調達価格とライセンス生産の価格差に難色を示していたが、全機完成品輸入であった西ドイツなどと比較して、機体あたり2億円程度の差であることから、保守運用の利便性や貴重な外貨の流出を抑える効果を認めてライセンス生産に同意した。結果として、F-4のライセンス生産(自国生産)が行われたのは日本のみであるが、日本は研究開発費分担金として機体単価17億円の0.8パーセント、約1400万円の104機分、計18億円をアメリカ政府に支払っている。
機体の旧式化による性能向上が必要となったため90機をF-4EJ改に改修し一部の機体を支援戦闘機として運用した。また、偵察機としてRF-4EとF-15配備で余剰となったF-4EJを偵察機に改造したRF-4EJも運用している。全世界通算での最終号機は第5航空団第301飛行隊所属の「17-8440」である。
航空自衛隊の他に海上自衛隊第4次防衛力整備計画(4次防)に於いて「高速哨戒機」の名目で米海軍からの提供が可能とされたF-4Jの導入を計画していたが、オイルショックによる4次防縮小の影響を受けて見送られた。
機体

航空自衛隊では、現在までに4種類のF-4を運用している。2013年3月末時点のF-4EJとF-4EJ改の合計保有数は62機、RF-4E/EJは13機である[37]

F-4EJ
第302飛行隊所属のF-4EJ(1978年)
F-4Eから対地攻撃能力や空中給油能力を除去し、スクランブル発進時の加速力を重視して他国のF-4Eの持つ空戦用スラットを省略した機体。1971年(昭和46年)7月25日に2機(1・2号機)を完成輸入し、続く11機(3~13号機)を三菱重工業ノックダウン生産、127機(14~140号機)をライセンス生産により国産とした。1981年(昭和56年)5月20日に最終140号機 (#440) を納入している。
1972年(昭和47年)8月1日臨時第301飛行隊を編成。4号機墜落事故(1973年(昭和48年)5月1日)による2ヵ月半の飛行停止措置を経て1973年(昭和48年)10月16日に同隊は臨時が取れ正式発足。その後1981年(昭和56年)までに302から306SQまでの計6個飛行隊が編成された。1975年(昭和50年)11月1日より302SQに対領空侵犯措置任務が付与されアラート待機を開始した。
国産機中90機を戦力向上と寿命延長を目的としてF-4EJ改に改装し、F-15導入で余剰となった初期導入の15機は偵察機RF-4EJに改装している。改修対象外の機体は各飛行隊で標的曳航などの訓練支援や運用試験に用いられてきたが次第に運用の幅は狭まり、1999年(平成11年)に12機を小牧基地の簡易格納庫に保管することとなった。RF-4EJを含めて退役が進んでおり2012年現在、可動状況にあるF-4EJは飛行開発実験団の数機のみとなっている。
F-4EJ改
三沢基地から離陸するF-4EJ改(2002年)
F-4EJ国産機の機体寿命延長と能力向上を目的とした改修を行った機体。1980年(昭和55年)からF-4EJの延命・能力向上研究を開始し1981年(昭和56年)度に改修設計作業を開始した。1982年(昭和57年)2月20日に航空機構造保全プログラム(ASIP)によって改修が可能であると判断し、昭和57年度に07-8431号機を三菱重工へ引き渡し改装、1984年(昭和59年)7月17日に初飛行、12月13日に航空自衛隊へ引き渡された。
改修は下記の通り、アビオニクス類を中心としている。
  • セントラルコンピュータとしてJ/AYK-1搭載による、兵装システムの統合とASM-1/ASM-2空対艦ミサイル運用能力の獲得。無誘導爆弾による対地攻撃能力の付与
  • APQ-120レーダーをAPG-66JF-16A/Bで使用のAPG-66改造型)に換装し、目標探知距離を80nmまで延伸した上、ルックダウン・シュートダウン能力(下方低空の目標を探知・攻撃する能力)を改善
  • F-15J用の誘導指令装置を追加し、APG-66J搭載のみでは失うAIM-7空対空ミサイルの運用能力を維持
  • レーダー警戒装置(RWR)をJ/APR-6に更新
  • AN/ASR-63 アナログ式慣性航法装置をデジタル式のJ/ASN-4に更新。誤差を1/3に改善
  • IFF質問装置AN/APX-76Aを搭載
  • AN/ASC-26 光学照準機をカイザー社製HUD に変更
  • レーダーディスプレイはJ/AVQ-3
  • AN/ALQ-131 電子戦装置搭載能力の追加
  • HOTAS概念の導入
なお、改修時に放置した配線が原因となりM61A1 20mmバルカン砲を誤射する事故(不時発射事故・後述)が発生したため後に対策が施された。
F-4EJとの外見的な差異は胴体の上に付いているアンテナがVHF/UHF無線機用に大型化され、両主翼端や垂直尾翼上端に新型RWRのアンテナが付き、コクピットの照準装置がHUDに変わった等が挙げられる。
1987年(昭和62年)度予算で量産改修が認められ、1989年(平成元年)に量産改修1号機が小松基地第306飛行隊に配備、1993年(平成5年)までに第301・302飛行隊がF-4EJ改に改編と続き国産機のうち90機が改修配備された。なお1997年(平成9年)のF-1支援戦闘機の減数を受け、小松基地の第306飛行隊をF-15J/DJに改編して捻出した機体を支援戦闘機(F-2配備までの繋ぎ)として三沢基地第3航空団第8飛行隊に配備した[38]
RF-4E
千歳基地航空祭で展示されたRF-4E
機首部分にシャークマウスが施されている
左奥には洋上迷彩が施された第8飛行隊所属のF-4EJ改の姿も確認できる(2006年)
アメリカの開発した輸出用の偵察機。RF-86Fの後継機導入計画の立案段階では三菱製のF-4EJにマクドネル・ダグラス製の偵察型機首を取り付けることが検討されていたが全機完成機を輸入することになり1974年(昭和49年)12月3日から1975年(昭和50年)6月8日にかけて14機を導入した。全機が百里基地偵察航空隊第501飛行隊に配備。2機が事故で失われ、2機が退役、2010年現在10機を保有。
一部搭載機器をF-4EJ改と同じ物に替えたために非公式には「RF-4E改」とも呼ばれている。


RF-4EJ
航空自衛隊のRF-4EJ
事故で12機となったRF-4偵察戦力の増強のため、近代化改修の行われない初期型F-4EJを偵察ポッドが運用できるように改修した機体。1990年(平成2年)に改造が始まり、試改修1号機(87-6406)は1992年(平成4年)2月4日に初飛行した。量産改修は1991年(平成3年)から1993年(平成5年)にかけて行い、計15機を百里基地第501偵察航空隊が運用している。当初17機を改修する計画だったが15機時点での予算計上中断のまま実質終了となった。RF-4EJでは偵察機器をセンターラインポッドに搭載して運用するため、機首のM61A1 20mmバルカン砲をそのまま維持している点がRF-4Eとの顕著な差となっている。
RF-4EJは有事の場合、上記の理由により、戦闘機として運用することが可能である。
15機のうち、2号機から8号機は長距離斜め写真(LOROP)撮影用ポッド運用能力しか持たない限定改修型、1号機と9~15号機はLOROPに加えて戦術偵察(TAC)ポッド及び戦術電子偵察(TACER)の運用能力とF-4EJ改規格のレーダー警戒装置(J/APR-6A)を追加したため量産改修型と呼ばれたが、後に限定改修型も3種類のポッドが運用できるように再改修された。
最近になって一部の機体が寿命を迎えたことから退役が始まった。
配備部隊
F-4EJ
  • 第7航空団 - 第301飛行隊(後に第5航空団に移駐し、EJ改に更新)・第305飛行隊(F-15Jに機種更新)
  • 第2航空団 - 第302飛行隊(後に第83航空隊に移駐し、EJ改に更新)
  • 第6航空団 - 第303飛行隊(F-15Jに機種更新)・第306飛行隊
  • 第8航空団 - 第304飛行隊(F-15Jに機種更新)
  • 実験航空隊(航空実験団を経て現在の飛行開発実験団。2008年現在、唯一稼動するF-4EJを運用)
  • 第1術科学校
展示されるF-4EJ改(2008年)
F-4EJ改
RF-4E/EJ
誤射事故(不時発射事故)
2001年(平成13年)6月25日北海道島松射撃場上空で、対地攻撃訓練中の第83航空隊(当時)第302飛行隊所属のF-4EJ改が、ロケット弾を用いた実弾射撃訓練後に右旋回したところM61A1 20mmバルカン砲を不意に発砲した。約2秒間に渡って弾倉内の訓練弾(インターネットなどで「発射されたのだから訓練弾ではなく実弾ではないか」という意見が散見されるが、訓練弾は実弾と同様に火薬により発射されるが着弾時に炸裂しない砲弾で、訓練でのみ使用される専用弾である。)188発が発射され[39]、弾丸は射撃場外に飛翔して演習地北方に位置する北広島市冨ヶ岡の北広島リハビリセンターの敷地内に着弾、施設や駐車車両に損害を与えた。
その後の調査で、EJからEJ改への改修の際に撤去されずにいた不要配線が外装板の取り付け作業のドリルによる穿孔で損傷、それがロケット弾用の配線と接触して通電したのが原因と判明した。
後継機
F-4EJ改の後継となる次期主力戦闘機(F-X) の選定が防衛省にて行われ、2008年(平成20年)度に機種決定の予定だった。しかし、防衛省が最有力候補としていたF-22が技術流出を懸念したアメリカ議会から禁輸措置を受けたため、平成23年(2011年)度からの中期防衛力整備計画での決定に延期された。候補はユーロファイター タイフーンF/A-18E/FF-35の三機種に絞られ、2011年12月20日にF-35が次期主力戦闘機として正式に選定された。しかし、F-35の配備は開発の遅延等から2017年以降とされているため、F-4EJ改の運用スケジュールを耐用年数見直しの上で変更する可能性もあるとされる。
支援戦闘機型はF-2の配備を受けて2008年度末に退役した。偵察機RF-4は偵察部隊の縮小を受けて、F-X配備後に余剰となったF-15の改修機によりRF-4EJのみ代替する。

運用者[編集]

アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
イギリスの旗 イギリス
イスラエルの旗 イスラエル
イランの旗 イラン
韓国の旗 韓国
オーストラリアの旗 オーストラリア
日本の旗 日本
西ドイツの旗 西ドイツ
スペインの旗 スペイン
ギリシャの旗 ギリシャ
トルコの旗 トルコ
エジプトの旗 エジプト

仕様(F-4E)[編集]

出典: The Great Book of Fighters[40], Quest for Performance[41], Encyclopedia of USAF Aircraft[1].

McDONNELL DOUGLAS F-4 PHANTOM II.png

諸元

  • 乗員: 2名
  • 全長: 19.20m (63ft0in)
  • 全高: 5.02m (16ft6in)
  • 翼幅: 11.71m(38ft4.5in)
  • 翼面積: 49.2m2 (530.0ft2
  • 翼型: NACA エアフォイル 0006.4-64 ルーフ, NACA 0003-64 チップ
  • 空虚重量: 13,757kg (30,328lb)
  • 運用時重量: 18,825kg (41,500lb)
  • 動力: GE J79-GE-17A 軸式圧縮機 ターボジェット
  • 最大着陸重量:16,706kg(36,831lb)
  • 零揚抗力係数(Zero-lift drag coefficient):0.0224
  • 抗力面積:1.10m2(11.87ft2
  • アスペクト比:2.77(翼面)
  • 燃料容量
    • 内部:1,994USガロン(7,549L
    • 外部タンク(最大3個):3,335USガロン(12,627L)

性能

  • 最大速度: マッハ2.23 (2,370km/h,1,472mph) 高度 12,190m(40,000ft)時
  • 巡航速度: 585mph,940km/h (506 knots)
  • 戦闘行動半径: 422mi,680km (367nm)
  • フェリー飛行時航続距離: 1,615mi,2,600km (1,403海里) 外部タンク搭載時
  • 実用上昇限度: 62,253ft (18,975m)
  • 上昇率: 210m/s (41,300ft/min)
  • 翼面荷重: 383kg/m2 (78lb/ft2
  • 推力重量比: 0.86
  • 揚抗比: 8.58
  • 離陸滑走距離:1,370m(4,490ft),24,410kg(53,814lb)時
  • 着陸滑走距離:1,120m(3,680ft),16,706kg(36,831lb)時
  • 兵装類機外最大搭載量:7,258kg

武装

アップグレード機
ドイツのF-4F ICEはAIM-120、ギリシャのF-4Eはそれに加えてIRIS-T、日本のF-4EJ改はAAM-3ASM-1ASM-2、イランのF-4はロシア中国製のミサイルを搭載可能。
お知らせ。 使用されている単位の解説はウィキプロジェクト 航空/物理単位をご覧ください。

参考・脚注[編集]

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  1. ^ a b Knaack, M.S. (1978). Encyclopedia of US Air Force aircraft and missile systems. Office of Air Force History. 
  2. ^ http://www.boeing.com/defense-space/military/f4/bluebook/milestn.htm
  3. ^ http://www.boeing.com/defense-space/military/f4/index.htm
  4. ^ 複座型の全天候型艦載機としてF3Dスカイナイトが採用された前例があるが、結局艦載機としては使用されず、陸上基地からの出撃に留まっている
  5. ^ マクドネル社の前作のF-101戦闘機もJ57エンジン双発の大推力ながら同様な問題で最高速度はマッハ1.7に留まっている
  6. ^ F-3HF-101、本機F-4、そして次代のF-15と、歴代のマクドネル(ダグラス)社の戦闘機を見比べると、後退翼から徐々にクリップト・デルタ翼へと翼平面形が変化していくことを見て取れる
  7. ^ 高迎角時に渦流を発生させることで翼端失速を押さえる効果がある
  8. ^ マクドネルの前作・F-101戦闘機の場合は、ピッチ・コントロール・システムが付加され、機体の運動を制限しており、大きな欠点となっている
  9. ^ F-4より先行して開発・配備されているF-100戦闘機は主翼位置が尾翼より高く、前後に開発された多くの機体が悩まされたピッチアップの問題とは無縁であった
  10. ^ 中国が90年代以降に配備しているJH-7戦闘爆撃機は、ブリティッシュ・ファントムと同じエンジンを搭載し、主翼面積や機体重量が近似しており、しばしばF-4と比較されるが、主翼は高翼配置である
  11. ^ 高さ5.28mから自由落下させた際の接地速度に相当
  12. ^ ただしエンジンは排気煙軽減装置の追加のみ
  13. ^ 当時はAIM-120 AMRAAMはまだ開発段階だった
  14. ^ L(=ローマ数字の50) Anniversary of Naval Aviation
  15. ^ 当時のレーダー誘導ミサイルは、運用する機体からレーダー波を照射し続ける必要があり、戦闘機どうしの格闘戦には不向きであった。また、赤外線誘導ミサイルは、エンジンの廃熱を追うために敵機の背後から撃つ必要があり、運動性に劣る機体では不利となった
  16. ^ ミサイルには最低射程があるため、敵機と急接近した際には使用できなかった
  17. ^ 実はF-106戦闘機が、低翼面荷重、高推力重量比で、運動性や加速性に優れた機体だったが、アメリカ本土防空が目的で、高度な電子機器を搭載する高価な機体だったため、ベトナム戦争において制空任務に用いる事はできなかった。ただし仮想敵機としてF-4パイロットの訓練に用いられ、大いに手こずらせ、技量向上に貢献した。
  18. ^ 横須賀を母港とした空母「ミッドウェイ」に艦載されていた
  19. ^ この時無事脱出した計5名のパイロットは全員捕虜となった
  20. ^ シリア対イスラエル65件エジプト対イスラエル52件
  21. ^ "Directory: World Air Forces: Israel." Flight International, 16–22 November 2004. Retrieved: 14 February 2008.
  22. ^ http://www.israeli-weapons.com/weapons/aircraft/f-4/F-4.html
  23. ^ a b c d e f g h i j k l m 『JWings』2007年9月号p61
  24. ^ 1982年の時点で80%の機体が飛行可能な状態になかったとされる
  25. ^ これらに加え、偵察型であるRF-4Eを27機発注するが、第1陣の16機が引き渡された時点でイラン革命が起こり、第2陣以降は未引き渡しとなった
  26. ^ a b c d e f g h i j k l m 『JWings』2007年9月号p62
  27. ^ 一説では、YJ-8対艦ミサイルの運用能力が付加されているとされる
  28. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『JWings』2007年9月号p60
  29. ^ a b c 航空ファン 2014年2月号
  30. ^ 輸入した航空機の一部を国産品に交換することは、航空機製造技術を持つ国が他国機を導入した際に、自国航空産業の育成などを目的として、あるいは販売元が技術供与を拒否した場合の対処などで、普通に行われている事である。ただし本機のケースにおいては、著しくコストが増大し、部品の国産化は失敗だったとの評があった事から、「F-4Jをそのまま導入しなかったのは、イギリス帝国のある種のメンツがそれを許さなかった」という民族性ジョークに近い俗説が語られた。
  31. ^ イギリス側呼称FGR.2の「R」は「偵察」を意味する
  32. ^ F-4Kも空軍への移管時に追加された
  33. ^ a b c d e f g h i 『JWings』2007年9月号p59
  34. ^ ちなみにF-4は、J型において戦闘機として世界ではじめてルックダウン能力を備えた機体であり、第2次FXの選定時の1966年にはこれよりルックダウン能力に優れた機体は存在しなかった。この亡命事件で地上のレーダーとF-4EJの双方が領空侵犯機を見失うという事態が発生したことで、航空自衛隊への早期警戒機E-2C」の導入が決定する
  35. ^ http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/058/1410/05804031410008a.html
  36. ^ 完成品輸入の2機のほか、ノックダウン生産の10機にもアメリカ空軍によるブロックナンバー「F-4EJ-45/-47」が与えられている
  37. ^ 平成25年度防衛白書 資料13 主要航空機の保有数・性能諸元
  38. ^ 当初の計画では第304飛行隊のF-4EJ時代の施設が残されており、施設流用可能でF-4運用実績のある築城基地第8航空団第6飛行隊へ配備する計画だったが西方への「政治的配慮」で三沢基地第3航空団第8飛行隊になった
  39. ^ なお、その後の捜索では弾丸は18発しか発見されておらず、発射されたもののうち約9割が行方不明となった
  40. ^ Green, W; Swanborough, G (2001). The Great Book of Fighters. MBI Publishing. ISBN 0-7603-1194-3. 
  41. ^ Loftin, LK, Jr.. “Quest for Performance: The Evolution of Modern Aircraft. NASA SP-468”. 2006年4月22日閲覧。

参考文献[編集]

  • Bowers, PM; Angellucci, E (1987). The American Fighter. Orion Books. ISBN 0-517-56588-9. 
  • Donald, D; Lake, J (1996). Encyclopedia of World Military Aircraft. AIRtime Publishing. ISBN 1-880588-24-2. 
  • Swanborough, G; Bowers, PM (1989). United States Military Aircraft Since 1909. Smithsonian. ISBN 0-87474-880-1. 
  • Taylor, MJH (1991). Jane's American Fighting Aircraft of the 20th Century. Mallard Press. ISBN 0-7924-5627-0. 
  • Wagner, R (1982). American Combat Planes, Third Enlarged Edition. Doubleday. ISBN 0-385-13120-8. 
  • 月刊航空ファン』 2003年5月号
  • 『月刊航空情報』 1993年10月号
  • 『戦闘機年鑑 2005-2006年度版』、ISBN 4-87149-632-5
  • 『世界の傑作機 No.74 F-4ファントムII 海軍型』、ISBN 4-89319-071-7
  • 『世界の傑作機 No.82 F-4ファントムII 輸出型』、ISBN 4-89319-079-2
  • 『世界の傑作機 No.86 F-4ファントムII 米空軍型』、ISBN 4-89319-084-9
  • 『ミリタリー・イラストレイテッド18「F-4ファントム物語」』ワールドフォトプレス編 ISBN 4-334-70355-0
  • 月刊『JWings』2007年9月号「世界で飛び続けるファントムたち」p59~p62 イカロス出版

登場作品[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]