森山佳郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
森山 佳郎 Football pictogram.svg
名前
愛称 ゴリ[注 1]
カタカナ モリヤマ ヨシロウ
ラテン文字 MORIYAMA Yoshiro
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 1967年11月9日(46歳)
出身地 熊本県熊本市東区
身長 175cm
選手情報
ポジション DF/MF
利き足 右足
ユース
熊本市立東町小学校
1980-1982 熊本市立錦ヶ丘中学校
1983-1985 熊本県立第二高等学校
1987-1990 筑波大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1991-1992 マツダSC 2 (0)
1992-1995 サンフレッチェ広島 95 (4)
1996-1997 横浜フリューゲルス 53 (1)
1998 ジュビロ磐田 0 (0)
1999 ベルマーレ平塚 18 (0)
代表歴2
1994 日本の旗 日本 7 (0)
監督歴
2000-2002 広島ユースコーチ
2002-2012 広島ユース監督
2013- 広島強化部コーチ
2013- U-15日本代表コーチ
1. 国内リーグ戦に限る。2007年10月17日現在。
2. 2007年10月17日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

森山 佳郎(もりやま よしろう、1967年11月9日 - )は、日本の元サッカー選手DF)、指導者。熊本県熊本市東区出身。元サッカー日本代表

Jリーグサンフレッチェ広島強化部育成コーチ 兼 U-15日本代表アシスタントコーチ。

人物[編集]

現役時代は豊富な運動量とガッツ溢れるプレーで活躍した右サイドバック。親近感が持たれる性格でチームのムードメーカー的な面も持ち合わせた。

熱心な指導をするサッカー指導者であり[注 2]、広島ユースを高円宮杯3度優勝に導くなど強豪チームに成長させ、トップチームで活躍し日本代表に選ばれる選手を育て上げるなど、高校年代の指導者として高い評価を得ている[1][4]

来歴[編集]

熊本市立東町小学校時代からサッカーを始めるも一時サッカーが嫌いになり、熊本市立錦ヶ丘中学校入学と同時にバスケットボール部へ入部したが、中学2年の時にサッカー部へ編入している[1]

熊本県立第二高等学校からサッカーの強豪校へ進学しようとするも入学願書の期日を間違えてしまい、結局一浪してしまう。

その後、大学サッカーの名門筑波大学へ一般入試で進学する[5]。そのため井原正巳中山雅史は同じ歳であるが、彼らは森山の一年先輩である。大学時代のほとんどをCチーム(3軍)に所属し公式戦には出られず、4年生になってようやくトップチームで試合に出られるようになる[5]

卒業後は大学の先輩・今西和男のスカウトもあり、マツダに入社しマツダサッカークラブ(現サンフレッチェ広島)に入団する[5]。同期は森秀昭柳本啓成笛真人路木健松山大輔小倉一浩。入団1年からJリーグプレ開幕戦として開催されたナビスコ杯に出場するなど順風満帆なスタートを切った。が、右SBは柳本啓成がレギュラーとなり途中出場が続いた。

1993年8月柳本が怪我による負傷欠場、翌1994年CBに怪我人が続出したため柳本がCBにコンバート、それに伴い右SBのレギュラーを獲得した。サントリーシリーズでは、広島のステージ優勝に貢献する[注 3]などの活躍が認められ日本代表に選出される[5] までになった。翌1995年、この年より監督に就任したビム・ヤンセンの評価を得ることができず出場機会も減少。この年限りで広島を退団。

その後横浜フリューゲルスジュビロ磐田ベルマーレ平塚でプレーする。平塚時代ではキャプテンを務めたが、古傷の左足変形性膝関節症が悪化し、1999年のシーズンをもって現役引退する[5]

気持ちには引力がある

—森山佳郎[6]

引退後は、イングランドへコーチ留学を行おうとしていたが、今西に誘われ、サンフレッチェ広島ユースのコーチに就任する[5]。2002年8月に当時ユース監督であった中村重和アビスパ福岡監督就任[7] に伴い、同ユースの監督に昇格した。

2013年にユース監督を退任し、広島強化部の育成コーチ兼ナショナルトレセン中国地区担当コーチに就任し、JFA 公認S級コーチライセンス取得を目指す[8]。また兼任する形で2015 FIFA U-17ワールドカップ出場を目指す、吉武博文率いるU-15日本代表アシスタントコーチに就任した。

個人成績[編集]

国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
日本 リーグ戦 JSL杯/ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
1991-92 マツダ 15 JSL1部 2 0 2 1
1992 広島 - J - 6 0 0 0 6 0
1993 29 2 6 0 4 0 39 2
1994 42 0 1 0 3 0 46 0
1995 24 2 - 3 0 27 2
1996 横浜F 26 1 10 1 1 0 37 2
1997 2 27 0 6 0 0 0 33 0
1998 磐田 17 0 0 1 0 0 0 1 0
1999 平塚 2 J1 18 0 1 0 0 0 19 0
通算 日本 J1 166 5 31 1 11 0 208 6
日本 JSL1部 2 0 2 1
総通算 168 5 33 2 11 0 208 6

その他の公式戦

経歴・タイトル[編集]

選手時代
指導者時代

クラブユース選手権(U-18)、高円宮杯 (U-18)、Jユースカップのユース3大大会で数多く優勝に導いている。

代表歴[編集]

試合数[編集]

  • 国際Aマッチ 7試合 0得点(1994)


日本代表 国際Aマッチ
出場 得点
1994 7 0
通算 7 0

脚注[編集]

[ヘルプ]
注釈
  1. ^ 現役時代から。「『監督』と呼ばれるのが照れくさい」こともあり、サンフレッチェ広島ユース監督時代も選手に「ゴリさん」と呼ばせていた[1][2]
  2. ^ 2003年、高円宮杯でその年の高校総体準優勝チームである帝京高校と対戦することとなった。そのとき、朝日新聞が企画で双方の監督にインタビューし、その中で古沼貞雄監督がクラブユース勢に対して辛らつな意見を語った[3]。これを見た森山は発奮、同年9月28日対戦前にこのインタビュー記事を選手達に見せ奮起させ、6-0で勝利を収めた。
  3. ^ 1994年サントリーシリーズで優勝が決まった際にチェアマン杯破損事件が起こったが、この時にチェアマン杯を割ったと勘違いされた[1]
  4. ^ 決勝点(1-0)。その際、喜びのあまりユニフォームを脱いで喜びを表現したが、これが非紳士的行為ならびに遅延行為とみなされイエローカードを貰ってしまった。この時、脱いだユニフォームを拾って持っていたのが松田浩。「やったね!ラモズくん」ではパロディ化された。
出典
  1. ^ a b c d 広島市医師会
  2. ^ 『何を言われても、悔しくても、まず受け入れるビッグハート』槙野智章”. サカイク (2011年10月8日). 2011年12月25日閲覧。
  3. ^ 高校とクラブ 何が違う?”. 朝日新聞. 2011年12月25日閲覧。
  4. ^ サッカーセミナー第4回”. SportsClick. 2011年12月25日閲覧。
  5. ^ a b c d e f キャリアサポートセンター
  6. ^ 広島ユースが体現した「気持ちには引力がある」”. スポーツナビ (2010年10月9日). 2011年12月25日閲覧。
  7. ^ 管理強化部長 中村重和の挑戦”. スポーツナビ (2005年6月12日). 2011年12月25日閲覧。
  8. ^ 次期監督には望月氏就任へ”. 中国新聞 (2012年12月17日). 2012年12月29日閲覧。

参考資料[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]