今西和男

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

今西 和男
名前
カタカナ イマニシ カズオ
ラテン文字 IMANISHI Kazuo
基本情報
国籍 日本
生年月日 1941年1月12日(68歳)
出身地 広島市中区平塚
選手情報
ポジション DF
クラブチーム1
クラブ App (G)
1963-1969 東洋工業 0? (?)
代表歴2
1966 日本 03 (0)
監督歴
1982-1992
1992-1993
1994
1995-1999
2000-2002
2003-2007
1994-1997
1997-1999
1999-2002
2005-現在
2005-2007
2007-現在
マツダSC副部長・総監督
広島総監督
広島総監督・強化部長
広島総監督・取締役強化部長
広島総監督・取締役専務
広島顧問
JFA強化委員
JFA強化副委員長
JFA技術副委員長/強化本部委員
吉備国際大学総監督
岐阜顧問
岐阜社長兼GM
1. 国内リーグ戦に限る。2007年10月15日現在。
2. 2007年10月15日現在。
Template(ノート 解説)サッカー選手pj

今西 和男(いまにし かずお、1941年1月12日 - )は広島県広島市中区平塚出身の元サッカー日本代表選手(DF)・指導者(JFA 公認S級コーチ)。

FC岐阜代表取締役社長ゼネラルマネージャー吉備国際大学教授

目次

[編集] 来歴

[編集] 幼少/学生時代

広島市中心部の遊廓近く、平塚の生まれ育ち。父親は中国電力サラリーマンだった。4歳の時被爆、全身の左半分に閃光が襲い左手足に今もケロイドが残る。国泰寺中学の先輩に野村六彦、同級生に宮本輝紀、森兄弟(森健兒森孝慈)は同中学の先輩・後輩となる。中学のころはサッカー部の人数が多くて入部できなかった[1]舟入高等学校へ入学すると柔道部へ入部するも、2年生の時に先輩の野村六彦に誘われサッカー部へ入部[2]。デビュー戦となった広大付属高校戦では左フルバックで出場、鬼武健二をマークして勝利を収めた。1958年の高校選手権にも出場。その後、舟入高校の臨時コーチをつとめた東洋工業(現マツダ)・小沢通宏との出会いから東京教育大学へ進学すると1年生からレギュラーとして活躍した。当時は広島サッカーの黄金時代で、前述の選手ら数多くの広島出身者が関東の大学に進学。 東教大サッカー部も広島出身者が多数を占め「広島出身でなければサッカーマンに非ず」的ムードさえあり、部員の会話は広島弁になるほどだった[3]

[編集] 東洋工業/マツダ時代

1963年、地元東洋工業へ入社、東洋工業蹴球部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)入り。下村幸男監督のもとでで小沢・丹羽洋介桑原弘之らと強靭なフルバック(ディフェンダー)として活躍、小城得達桑原楽之松本育夫石井義信船本幸路らとともに1965年から創設された日本サッカーリーグ(JSL)の初年度から1968年までの不滅の四連覇に大きく貢献した。1966年には日本代表(当時の名称は全日本)に選出されアジア競技大会(バンコク)出場。1967年、膝の靭帯を痛めたが当時のスポーツ医学では分からず、分かったのは1969年の引退後だった。その後は1971年までDF専門のコーチをしていた。

1972年、一切サッカーから離れ社業に専念、営業の現場でも優秀な成績を収めた。1982年から再びサッカー部に携わり副部長・総監督に就任。低迷が続くチームの浮上策として、新しい血の導入に外国人指導者招聘のため世界中を駆け廻り、選手育成に長けていたオランダ・アヤックスフェイエノールトに着目した。1984年、マツダSC監督につきハンス・オフトをコーチに招聘、1986年から日本リーグ1部にチームを復帰させるが、1988年再び2部に転落。1991年1部復帰の成果を得る。

[編集] Jリーグ初期

Jリーグ開幕に向け準備を進める中、親会社であるマツダが業務不振からJ参入に消極的な姿勢を取っていた。そこでチーム名に企業名が入らないことを逆手に取り、広島県内の企業にチームへ出資して貰うために走り回った[4]。1992年Jリーグ創設でサンフレッチェ広島が発足すると取締役強化部長兼・総監督に就任。この間、後に日本代表となる森保一ら若手の育成、ドイツ・ブンデスリーガでプレーしていた風間八宏をチームリーダーとして熱心に口説き入団させ、盧廷潤イワン・ハシェックらの外国人選手やスチュワート・バクスター監督らの招聘、フジタ工業(現・湘南ベルマーレ)にいた高木琢也の獲得などで、Jリーグ創設2年目のファーストステージを制覇した。

ノーマークの西端のチームの優勝は、驚きを持って迎えられ、当時はまだ爆発的サッカー人気が持続していたため、総監督としてチーム作りに尽力した今西がゼネラルマネージャー(GM)と称されTV雑誌に大いに取り上げられた。「サンフレッチェ一家のおおらかな親分」のような存在で、大きなガタイはいかにもエネルギッシュ、また面倒見のよさでまわりや選手達にも信頼された。

[編集] 日本サッカー協会での活躍

1994年、新設された強化委員会の副委員長に就任して陣頭指揮にあたり、ユース年代の強化育成、指導者養成システムの拡充、五輪チーム、トップチームのサポートなどに腕を振るった。1997年には、フランスW杯アジア地区最終予選途中での加茂周監督更迭、岡田武史コーチの昇格を強行に進言した[5]。その後も日本サッカー協会技術副委員長[6]などの要職を務めた。

[編集] 広島総監督/顧問時代

一方広島では、1996年ごろからJリーグバブルがはじけ、チームは経営不振となった。チーム存続のため、主力の減俸や高木琢也や森保一などの主力放出を断行し、他チームの戦力外選手を安く雇うなどをしながらも、若手を育て経営安定に努めた。 また、Jリーグ新規参入クラブとして活動しだした、大分トリニータ愛媛FCの創設にアドバイザーとして参加し、自身の持つノウハウを伝授した。

2002年に監督・外国人選手・主力の怪我人を埋める補強がすべてうまくいかずチームはJ2降格、シーズン後に責任を取るかたちで総監督を辞任した。翌2003年から広島顧問[7]に就任。 同時期に広島都市圏でのサッカー専用スタジアム建設を目指す「スタジアム推進プロジェクト」の事務局長し、広島市民球場跡地など候補を絞りプロジェクトを進めていたが、結果として結びつかなかった。 2007年1月31日をもって広島顧問を退任。

[編集] 現在

2005年から吉備国際大学(岡山県)スポーツ社会学科教授、サッカー部総監督に就任し、現在も在籍している。

同2005年、当時東海2部にいたFC岐阜の顧問に就任し、アドバイザーとして東海1部・JFL昇格を影から支えた。2007年2月1日からはFC岐阜のゼネラルマネージャーに就任、経営の改善努力などが実り、同年J2参入にこぎつけた。

[編集] 功績

  1. 日本におけるゼネラルマネージャーの地位確立。
  2. 大分トリニータ愛媛FCFC岐阜のJリーグ新規参入クラブへアドバイザーとして参加。
  3. 河内勝幸中村重和小林伸二望月一頼高橋真一郎松田浩らの指導者の育成[8]
  4. 信藤克義前川和也森保一柳本啓成上村健一下田崇久保竜彦駒野友一らの発掘・育成。

[編集] エピソード・語録

  • 人望も厚く、日本サッカー界の重鎮にも関わらず、講演や取材を快く引き受けるなど好感度は高い[9]
  • 若手選手に対して一人前の社会人であることを厳しく求めた。
    • 「一流のサッカー選手である前に、一流の社会人であれ」
    • 「サッカーバカにはなるな」
    • 「現役を引退してからのほうが人生は長い。そのために、現役時から社会の一般常識を身につけることが大切だ」
  • サポーターを大事にする姿勢も有名で、スタジアムや練習場で気軽に話をするだけでなく、サポーターの小さな飲み会にまで出かけて行ってざっくばらんな話をしていた。
  • 「日本人はな、日本で結婚するのにもウェディング・ドレスを着る。韓国人はニューヨークで結婚してもチマチョゴリを着る。これはもう善し悪しの問題じゃない。国民性というしかないもんじゃな」[10]
  • 駒野を例えるならカタツムリ。コツコツと目の前にある課題に取り組み、1歩1歩成長。ついに日本代表、そしてW杯メンバーになった」[11]
  • サンフレッチェ広島マスコットである「サンチェ君」は当初、今西をモデルにしていた[12]
  • 現在FC岐阜のGMを務めているが、そのきっかけは1999年に広島に一時在籍していた森山泰行から「将来は地元に帰って小さなクラブを作り、大きく育てたい」というビジョンを聞かされ、それに賛同する形[13]で参加している。

[編集] 略歴

  • 広島市立国泰寺中学校
  • 広島市立舟入高等学校
  • 東京教育大学
  • 1963年 - 1994年 : 東洋工業/マツダ
    • 1963年 - 1969年 : 東洋工業蹴球部選手
    • 1970年 - 1971年 : 東洋工業蹴球部コーチ
    • 1982年 - 1992年 : マツダSC副部長・総監督
      • 1984年 - 1987年 : マツダスポーツクラブ監督
      • 1988年 - 1992年 : マツダサッカー部監督
  • 1992年 - 2002年 : サンフレッチェ広島総監督
    • 1994年 : サンフレッチェ広島強化部長
    • 1995年 - 1999年 : サンフレッチェ広島取締役強化部長
    • 2000年 - 2002年 : サンフレッチェ広島取締役専務
  • 1994年 - 1997年 : 日本サッカー協会強化委員
  • 1997年 - 1999年 : 日本サッカー協会強化副委員長
  • 1999年 - 2002年9月 : 日本サッカー協会技術副委員長/強化本部委員
  • 2003年 - 2007年1月 : サンフレッチェ広島顧問
    • 2005年 : Jリーグマッチコミッショナー
    • 2003年 - 2007年1月 スタジアム推進プロジェクト事務局長
  • 2005年 - 現在 : 吉備国際大学教授
    • 2005年 - 現在 : 吉備国際大学サッカー部総監督
  • 2005年 - 2007年1月 : FC岐阜顧問
  • 2007年2月 - 現在 : FC岐阜ゼネラルマネージャー

[編集] 個人成績

国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
日本 リーグ戦 JSL杯 天皇杯 期間通算
1965 東洋 JSL
1966 東洋 JSL
1967 東洋 JSL
1968 東洋 JSL
1969 東洋 JSL
通算 日本 JSL 42 0
総通算

[編集] タイトル

  • 年間優秀11人賞(ベスト11) : 1966年

[編集] 代表歴

[編集] 出場大会など

[編集] 試合数

  • 国際Aマッチ 3試合 0得点(1966)


日本代表 国際Aマッチ その他 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点
1966 3 0 7 0 10 0
1967 0 0 1 0 1 0
通算 3 0 8 0 11 0

[編集] 注釈

[ヘルプ]
  1. ^ ちなみに森孝慈も入部できなかった。
  2. ^ 不自由な左足を克服するため、ゴールポストに藁を巻いて蹴っていた。
  3. ^ 勝沢要『イレブンよ 熱き大地を駆けろ』、テレハウス、1986年1月、102頁
  4. ^ 現在では普通だが、当時は親会社がほとんど出資するものだと考えられていた。
  5. ^ このため日本のワールドカップ初出場の最大の功労者、と評価されることもある。
  6. ^ 技術委員会はその後2002年9月、大仁邦彌小野剛らとともに、ジーコを日本代表次期監督として川淵三郎新会長に推薦しなかったことに端を発し、事実上の解散となった。
  7. ^ 名刺ではゼネラルアドバイザーと記してあった。
  8. ^ 1987年頃から指導者同士による4・5人のグループ討論会を年に数回開き、コミュニケーションスキル向上を目指した。専門講師を招く等、本格的取り組みであった。また定期的に1泊2日の研修旅行も設け、リポート提出を義務づけた。日刊スポーツ・横田和幸コラム 2005年05月29日分より
  9. ^ 講演会で久保竜彦のネタで笑いをとることが多いが、脚色ではなくすべて事実であり、それだけ久保が才能も個性も豊かな選手であったことを物語っている。例: 「日本代表で、久保が笑いながら誰かとしゃべってる!! とビックリしていたら相手は下田だった」。
  10. ^ 金子達仁『決戦前夜』より
  11. ^ 06W杯前の日刊スポーツインタビューより
  12. ^ ちなみに、初代は似ていたが、そのあと数度モデルチェンジを行ったため、まったく似ても似つかなくなってはいる。
  13. ^ 森山はFC岐阜加入直後、今西に顧問就任を要請しこれを快諾した。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク