奥野史子

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おくの ふみこ
奥野 史子
生誕 1972年4月14日(42歳)
日本の旗 日本 京都市
出身校 同志社大学大学院
職業 シンクロナイズドスイミング選手
配偶者 朝原宣治
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奥野 史子(おくの ふみこ、1972年4月14日 - 本名・朝原 史子(あさはら ふみこ))は、日本スポーツコメンテータータレント。元・シンクロナイズドスイミング日本代表選手(1992年バルセロナオリンピック銅メダリスト)。現在の所属事務所はパシフィックボイス

2002年(平成14年)に朝原宣治陸上競技指導者・解説者、元・陸上競技選手、2008年北京オリンピック男子4x100mリレー銅メダリスト)と結婚。シンクロナイズドスイミングからの引退後は、日本人初のシルク・ドゥ・ソレイユパフォーマーとして活躍したほか、京都市教育委員や文部科学省中央教育審議会委員などの公職に就いている。

人物[編集]

獲得メダル
シンクロナイズドスイミング
オリンピック
1992 ソロ
1992 デュエット

京都府京都市出身で、現在も同市内に在住。京都市立龍池小学校京都市立城巽中学校四天王寺高校同志社大学商学部を卒業した後、同志社大学大学院を修了した。

夫の朝原宣治は、同志社大学時代のゼミの同窓生でも有り、在学時から奥野と交際していたという[1]。一時は同大学の大学院にも在籍していた。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

京都市中京区にある呉服店に、三姉妹の末っ子として生まれた[2]。4歳のときに、京都市の水泳教室、「京都踏水会」で水泳を始め、さらに6歳(小学校1年生)からシンクロナイズドスイミングを始めた[2]

中学生のときには、井村雅代が代表を務める「井村シンクロクラブ」での指導を受けた。高校は、大阪の四天王寺高校に推薦入学した。高校時代には、シンクロナイズドスイミングが初めて正式種目となった国民体育大会(国体)に出場して優勝した。さらに日本代表としても活躍し、1989年平成元年)W杯パリ大会ではチームで銅メダルを獲得した。

シンクロナイズドスイミング選手としての活躍[編集]

大学は、同志社大学へ進学。1991年(平成3年)世界選手権パース大会でチーム銅メダル、W杯ボン大会でソロ銅メダル・デュエット銀メダルを獲得。1992年(平成4年)、大学2年の時にバルセロナオリンピックに出場しソロで3位、高山亜樹と組んだデュエットでも3位と2つの銅メダルを獲得。

1993年(平成5年)W杯ローザンヌ大会ではチームで銅メダルを獲得。しかしロシアの台頭で、ソロとデュエットでメダルを逃し、失意のどん底に落ちるが一念発起する。

1994年(平成6年)世界選手権ローマ大会のソロ種目で、それまでのシンクロの常識を覆す女の情念や怒りを表現した「笑わないシンクロ」、「夜叉の舞」をフリールーティンにて披露する。世界選手権ソロ史上初の芸術点オール満点を記録し、日本人初の銀メダルを獲得。現在でも日本シンクロ界で語り継がれる伝説の演技となった。デュエットでも銀メダル、チームでも銅メダルを獲得。同年の広島アジア大会ではソロ・デュエットで共に金メダルを獲得。しかし、1995年(平成7年)1月に、腰痛の悪化などを理由に現役を引退した。

スポーツコメンテーターとしての活動[編集]

現役引退後はスポーツコメンテーターとして、各種メディアに出演した。1995年4月からは、自身初のレギュラー番組として、『週刊田尾スポ!』(関西テレビ)に出演。「フーちゃん」の愛称とともに、関西圏で人気を得る。

その後は、活動の拠点を東京へ移転。1998年(平成10年)3月30日から2000年(平成12年)4月1日までは、『やじうまワイド』(テレビ朝日)月~金曜日のスポーツコーナーに、レギュラーコメンテーターとして出演していた。

日本人初の「シルク・ドゥ・ソレイユ」パフォーマー[編集]

1998年の夏期休暇中にラスベガスを訪問。現地で鑑賞したシルク・ドゥ・ソレイユの水中ショー「O(オー)」の公演に感銘を受けたことから、1999年(平成11年)に同集団のトライアウトへ参加した。

トライアウトでは、「難関」とされるオーディションを重ねた末に、自身と同じシンクロナイズド・スイミング元日本代表選手の河辺美穂1996年アトランタオリンピック・シンクロナイズドスイミングチーム銅メダリスト)と共に日本人として初めて合格。2001年(平成13年)10月には、「O」のラスベガス公演で、河辺と共にパフォーマーデビューを果たした[3]。以降も、2002年(平成14年)に朝原と結婚するまで、パフォーマーとして「O」に出演していた。

私生活[編集]

大学時代から長らく交際していた朝原と2002年に結婚。朝原は当時、陸上競技(短距離)の選手として、奥野が暮らすアメリカに留学していた。

奥野は、結婚の直後に第一子の懐妊が判明したことから、2002年10月にシルク・ドゥ・ソレイユを退団。朝原と共に、活動の拠点を再び地元・関西へ移した。2003年(平成15年)4月には第一子となる女児を、2006年(平成18年)7月には第二子となる男児を出産している。

2008年(平成20年)の北京オリンピック男子陸上400mリレー走決勝には、朝原が日本代表チームのアンカーとして出場。3位でゴールに到達したため、夫婦揃ってオリンピックのメダリストになった。奥野は、長女やオリンピック取材中の上泉雄一毎日放送アナウンサー)などともに、会場の北京国家体育場で決勝のレースを観戦。朝原にとって長年の悲願だったメダルの獲得が確定した瞬間には、人目をはばからず涙を流した。

北京オリンピック閉幕後の2008年11月22日の「いい夫婦の日」には、関西地方出身者同士のオリンピック・メダリスト夫婦として、朝原と共に「パートナー・オブ・ザ・イヤー2008」の表彰を受けた。奥野がシンクロナイズド・スイミング選手を引退してから、地元・関西地方を中心に多数のレギュラー番組や連載を受け持っていたこともあって、現在でも関西では朝原と共にカップルとしての好感度が高い。

2011年には、レギュラー番組の『かんさい情報ネットten!』(読売テレビ)で3月7日に、『上泉雄一のええなぁ!』(MBSラジオ)で翌8日に第三子の妊娠を報告。同年6月末から両番組のレギュラーを一時的に降板した後に、7月に第三子となる女児を出産した。なお、同年12月の第2週からは両番組に復帰。現在も、育児や社会活動(後述)と並行させながら、レギュラー出演を続けている。

社会活動・トライアスロンへの挑戦[編集]

結婚・出産後は、家事・育児・レギュラー番組への出演などと並行しながら、京都市教育委員や文部科学省中央教育審議会委員などの公職を歴任。小児がんと闘う子供・家族の支援団体「チャイルド・ケモ・ハウス」に協力したり、スポーツ・育児・教育関連のシンポジウムでたびたびパネリストを務めたりするなど、社会活動にも積極的に取り組んでいる。

2013年2月には、「楽しむスポーツ」と「チャイルド・ケモ・ハウスへの支援」の両立を目標に、トライアスロンへの挑戦を表明[4]。同年4月14日開催の「石垣島トライアスロン2013」で「エイジの部」に出場すると、総合記録3時間16分58秒(総合順位668位)で完走した[5]

メディア活動[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 「パートナー・オブ・ザ・イヤー2008」授賞式を参照。
  2. ^ a b 奥野史子さんの基礎データ 財団法人大阪市スポーツ緑振興協会 平成12年、平成22年8月28日閲覧
  3. ^ 直撃インタビュー、シンクロのスター "O" にデビュー(「週刊ラスベガスニュース」2001年11月5日付記事)などを参照。
  4. ^ 子供たちに笑顔を! 奥野史子 石垣島トライアスロンに挑戦!(パシフィック・ボイス2013年2月28日付ニュースリリース)を参照。
  5. ^ 石垣島トライアスロン2013総合記録 エイジの部を参照。最初のスイム(10km)では、27分2秒のタイムで79位に入っていた。
  6. ^ 同番組のディレクター→プロデューサーである川中恵一(毎日放送ラジオ局制作部)は、奥野の大学時代の同窓生で元・競泳選手。奥野も出場したバルセロナ五輪では、競泳の日本代表として、男子200mバタフライ決勝で5位入賞を果たした。

外部リンク[編集]