池田彌三郎

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池田 彌三郎
人物情報
生誕 (1914-12-21) 1914年12月21日
日本の旗 日本 東京市京橋区
死没 1982年7月5日(1982-07-05)(67歳)
出身校 慶應義塾大学文学部国文科卒業
学問
研究分野 国文学民俗学
研究機関 慶應義塾大学文学部
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池田 彌三郎(いけだ やさぶろう、1914年12月21日 - 1982年7月5日[1])は、日本国文学者民俗学者随筆家

経歴・人物[編集]

東京市京橋区(現・東京都中央区銀座天麩羅屋"天金"の次男として誕生[2]。叔父は、劇作家演出家池田大伍

京橋区立泰明小学校から東京市立第一中学校(現在の東京都立九段高等学校)を経て、1931年4月、慶應義塾大学経済学部予科に入学。同級に井筒俊彦加藤守雄がいた。1934年4月、文学部国文科に転じ、折口信夫に師事。戸板康二たちと共に、折口主宰の短歌結社「鳥船社」に参加。1937年慶應義塾大学文学部国文科卒業[3]

慶應義塾大学文学部教授時代、1957年から1963年にかけて、NHKのクイズバラエティ番組「私だけが知っている」などに出演し、タレント教授の走りとしても知られた。この間、1962年、『婦人公論』に「大学女禍論」と題する一文を発表し、早稲田大学教授の暉峻康隆と共に、女子学生亡国論を唱えて物議をかもした[4]

慶應義塾を定年退職した後、洗足学園魚津短期大学教授に就任。1977年紫綬褒章受章。1982年、肝硬変が悪化し67歳で死去。墓所は鎌倉霊園。

エピソード[編集]

  • 洗足学園魚津短期大学国文科新設の際、慶應義塾大学工学部長の森為可から主任教授就任の打診を受けたが、「手を貸してくれ、ああ、やりますよ」という簡単なやりとりで決めてしまった[5]
  • 晩年は、自分で工夫し特注で、短冊状の「縦20文字、横5文字」の原稿用紙を作らせ、「このほうが早くめくれるから、気のはずみになる」と称していた[6]
  • 慶應義塾大学文学部を受験する学生に対して国語の試験をするなどとは失礼であるとして、入試教科からいち早く国語を廃止して、小論文を導入させた。一方で、国文科で国語の作問をするのは面倒臭いし、負担が大きいとも述べた。英語の試験で国語力はわかるという考え方から、慶應義塾大学文系では国語の試験がない。 

出演番組[編集]

著書[編集]

作品集[編集]

  • 池田彌三郎著作集』(全10巻、角川書店、1979-1980年)
1.古代および古代学、2.芸能伝承論、3.芸能民俗誌
4.文学伝承論、5.身辺の民俗と文学、6.伝承の人物像
7.折口信夫研究、8.ことばの民俗学、9.暮しの民俗誌、10.随筆随想
  • 『世俗の詩・民衆の歌 池田彌三郎エッセイ選』 講談社文芸文庫、2007年
  • 『折口信夫芸能史講義 戦後篇 上・下 池田彌三郎ノート』(伊藤好英・藤原茂樹・池田光編)、慶應義塾大学出版会、2015-2016年

編著・共著[編集]

論文[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 池田弥三郎』 - コトバンク
  2. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 87頁。
  3. ^ 慶応義塾編『塾員名簿〔昭和17年版〕』慶應義塾、1942年12月、p.44
  4. ^ もっともその際も、ライバル校への対抗意識からか、池田は暉峻に対し、"早稲田の女子学生は冴えないだろうが、慶應はそうではない"と言ったとされる。
  5. ^ 池田弥三郎『魚津だより』毎日新聞社、1982年4月、19-21頁。 
  6. ^ 村松友視『夢の始末書』より