大鵬幸喜

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大鵬 幸喜 Sumo pictogram.svg
Taihokoki.jpg
大鵬幸喜像(川湯相撲記念館前)
基礎情報
四股名 大鵬 幸喜
本名 納谷 幸喜
生年月日 1940年5月29日(71歳)
出身 樺太敷香町
身長 187cm(現役時)
体重 153kg(現役時)
所属部屋 二所ノ関部屋
成績
現在の番付 引退
最高位 第48代横綱
生涯戦歴 872勝182敗136休
幕内戦歴 746勝144敗136休(69場所)
優勝 幕内最高優勝32回(歴代1位)
十両優勝1回
三段目優勝1回
敢闘賞2回
技能賞1回
データ
初土俵 昭和31年9月場所
入幕 昭和35年1月場所
引退 昭和46年5月場所
引退後 大鵬部屋師匠
備考
金星1個(朝汐
2008年6月2日現在

大鵬 幸喜(たいほう こうき、本名:納谷 幸喜(なや こうき)、1940年(昭和15年)5月29日 - )は、元大相撲力士。第48代横綱である。身長187cm。血液型はB型。樺太敷香郡敷香町出身で、北海道川上郡弟子屈町川湯温泉で育った。

目次

[編集] 人物

ウクライナ人の父マルキャン・ボリシコ、日本人の母キヨとの間に生まれる。納谷は母の姓であり、幸喜の名は皇紀2600年にちなんでつけられた。また、イヴァーンというウクライナ語名があったという。1960年代に活躍し、ライバルといわれた柏戸とともに「柏鵬(はくほう)時代」と呼ばれる大相撲の黄金期を築いた。優勝32回、6連覇2回、45連勝などを記録し、昭和の大横綱と称され、戦後最強の横綱と呼ばれる[1]

同じくハーフ(日本ウクライナ)である野球太田幸司同様、大変な美男子だった。当時の子供の好きなものを並べた「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉からも、当時の大鵬の人気と知名度がわかる。大鵬本人は「巨人と一緒にされては困る」と語ったこともある[2]。理由は、自身がアンチ巨人だったことと、団体競技の野球と個人競技の相撲を一緒にしてほしくないという気持ち、それから何よりも「大鵬の相撲には型がない」と盛んに批判された時期に「大人のファンは柏戸と大洋ホエールズ」などと評論家から言われたことがあるためである。引退後に、「生まれ変わったら、今度は柏戸さんのような相撲取りになりたい」とこぼしたこともあった。ただし後に出した自らの著書には「巨人 大鵬 卵焼き」というタイトルをつけている。

入幕から横綱になるまでは柏戸に3勝7敗と合口が悪く、特に1961年昭和36年)3月場所、1月場所に優勝してヨーロッパ招待旅行に行っていた柏戸に敗れた時は『こんなに稽古しても、ヨーロッパに行ってろくに稽古もしてない柏戸関に勝てないのか』と泣いて悔しがったという。ただし、横綱昇進後は両者の力関係が逆転して大鵬が18勝9敗とリードし、通算でも大鵬の21勝16敗となる。

色白の美男であったためか、特に若い頃の人気は非常に高かった。男性相撲ファンに絶大な支持を誇った柏戸と比べて、大鵬は女性・子供からの絶大な支持を誇った。大鵬の取組の時だけは銭湯の女湯ががら空きになったという有名なエピソードがある[3]。全盛期には彼にあやかって「幸喜」と命名された男児がたくさんいた[4]。俳優・劇作家・脚本家の三谷幸喜はそのうちの一人である。

日刊スポーツの相撲担当評論家であり、本場所開催中(奇数日目)は同誌に解説「土評」を連載している(偶数日目は高砂浦五郎=元大関朝潮の「大ちゃん 大分析」)。

[編集] 来歴

[編集] 少年期から横綱昇進まで

ウクライナ系として樺太に生まれ(当時樺太は日本領だったため、外国出身横綱には数えない)、太平洋戦争末期のソ連軍の侵攻に伴い、母と北海道に引き揚げることになり、船で稚内に降り立つ。乗っていた船(小笠原丸)はその後小樽に向かった(納谷母子も小樽に向かう予定だったが母親が船酔いや疲労を理由に途中下船した)が、留萌沖で国籍不明の魚雷の攻撃(ソ連潜水艦から発射されたとの説がある)を受けて沈没した。

尚、樺太から小笠原丸で北海道に引き上げる際、小樽まで向かう予定を稚内での途中下船に変更したのは、大鵬自身(日本経済新聞社「私の履歴書」による)によると、母親の事情ではなく、当時子供だった大鵬が「降りたい、降りたい。」とぐずったため、仕方なく稚内で下船し、北海道内の鉄道で目的地に向かったと述べている。「もし、このまま小樽まで乗船していたら今の自分はなかった。」と大鵬自身語っている。

北海道では、母子家庭だったため家は貧しく、また母の再婚後も相手が教師で毎年転任していたこともあり、しばらくは北海道各地を転々とした。大鵬少年が納豆を売り歩きながら家計を助けた話はよく知られている。再婚相手は、大鵬が小学5年生のときに母と離婚している。

中学卒業後は林野庁関係の仕事をしていたが、スカウトの目に留まり、角界に入る事を決意した。角界に入る際は母の反対にあったが、相撲部屋を見学しそこの人達の礼儀正しさを見た叔父が母を説得したという。

大鵬という彼の四股名は、中国の古典「荘子」にある、翼を広げると三千里、ひと飛びで九万里の天空へ飛翔すると言われる伝説上の巨大な鳥に由来する。この四股名は、師匠二所ノ関が最も有望な弟子に付けるべく温存していたものであり、その点では師匠の期待以上によく育ったと言える。新十両昇進が決まり、四股名をもらえることが決まった時には故郷にちなんだものをつけるのかと思っていたら「もっといい名前がある、『タイホウ』だ」と言われ、「どんな字を書くんですか?撃つ大砲ですか?」と師匠に質問すると、「それは『おおづつ』と読む」と言われ、横綱大砲の話をされたという[5]。そしてこの際に大鵬の字とその意味も教えている。

1960年(昭和35年)1月場所新入幕で初日から11連勝で12勝3敗の好成績を挙げた。幕内で初めて敗れた相手が柏戸である。翌場所は7勝に終わり唯一皆勤での負け越しとなった(それ以外は引退まで皆勤した場所はすべて2桁の勝ち星である)。11月場所では、新入幕の年で初優勝し、場所後には史上最年少の20歳6ヶ月で大関へと昇進(関脇昇進の20歳3ヶ月も当時の最年少記録だった)[6]。小結と関脇は36勝9敗の合計三場所で通過となった。入幕した年に大関昇進を果たした力士はその後も現れておらず(入幕から6場所での大関昇進も年6場所制後最短)、同じく入幕した1960年に年間最多賞獲得という、賞の発足後史上唯一の記録を立てる。また新入幕から6場所目での初優勝は年6場所制以降では当時の最速記録(後に佐田の山が3場所目で初優勝を記録し現在も単独で保持、ただし対戦内容等から問題になった、詳細は本人の項目を参照)であった。

1961年7月場所で2度目の優勝、9月場所で二場所連続優勝を果たし、場所後に柏戸と共に横綱昇進(同時昇進は史上4例目)。このとき21歳3ヶ月。それまでの照國の年少昇進記録を大幅に更新した(後に北の湖に破られる)。新入幕の翌年に横綱に昇進した力士はそれまでになく、その後も出ていない。彼の三賞受賞数が少ないのは、早くに大関・横綱に昇進したためである。しかし、横綱は他の力士と違って降格を許されない地位であり、体力が衰えて横綱の地位に見合った好成績を出せなくなれば引退以外に道はない。このことを大鵬自身はよく認識していて、横綱昇進が決まった時にも喜びの気持ちは全くなく、むしろ引退する時のことを意識せずにはいられなかったという。

[編集] 横綱時代

横綱昇進後も2場所連続優勝。1962年(昭和37年)7月場所から1963年(昭和38年)5月場所にかけ最初の6連覇を成し遂げた。ところが、昇進している時はアイドル的に人気があったが、1963年前半は「型のある相撲」を取っていた柏戸が不調で休場を繰り返しており、「型がない相撲」の大鵬一人勝ちのような状況で、観客が減少気味となり、大鵬の全盛期は大相撲の人気低迷時期と一致してしまった。このため、この連覇直後あたりから、神風正一など一部の評論家からは「大鵬の相撲には型がない」と盛んに批判されたりもした。この批判に対しては、大鵬の師匠二所ノ関が「型がないのが大鵬の型」と反論していた。

その柏戸が再起をかけた1963年9月場所千秋楽で、14戦全勝同士の相星決戦で柏戸に敗北。この事について、石原慎太郎八百長疑惑をかけられた(後に石原は謝罪)。翌年1964年3月場所は、再び柏鵬両者による14戦全勝同士の相星決戦が実現し、今度は大鵬が勝利した。

下記に、柏鵬両雄の主な千秋楽対戦を記す。

場所 柏戸成績 大鵬成績 優勝力士 備考
1962年(昭和37年)11月場所 12勝3敗 13勝2敗 大鵬 千秋楽柏戸3敗、大鵬1敗で対戦 柏戸勝利。
1963年(昭和38年)9月場所 15勝0敗 14勝1敗 柏戸 千秋楽全勝同士相星決戦で、柏戸勝利。
1964年(昭和39年)3月場所 14勝1敗 15勝0敗 大鵬 千秋楽全勝同士相星決戦で、大鵬勝利。
1966年(昭和41年)5月場所 12勝3敗 14勝1敗 大鵬 千秋楽柏戸2敗、大鵬1敗で対戦 大鵬勝利。
1966年(昭和41年)7月場所 12勝3敗 14勝1敗 大鵬 千秋楽柏戸2敗、大鵬1敗で対戦 大鵬勝利。
1966年(昭和41年)9月場所 13勝2敗 13勝2敗 大鵬 千秋楽柏戸2敗、大鵬1敗で対戦 柏戸勝利。優勝決定戦では、大鵬勝利。
1967年(昭和42年)5月場所 13勝2敗 14勝1敗 大鵬 千秋楽柏戸2敗、大鵬全勝で対戦 柏戸勝利。
  • 柏鵬両雄の千秋楽優勝圏内の対戦は、5度実現した。(そのうち、相星決戦は2度で全勝対決である。)

1964年(昭和39年)からは本態性高血圧に苦しみだす事になる。1965年(昭和40年)5月には、柏戸や北の富士らと共に拳銃を巡業先のアメリカ合衆国から密輸入していた事が発覚し書類送検されたが、相撲協会からの処分は譴責処分にとどまった[7][8]。この直後の1965年5月場所は絶不調で9勝6敗に終わる(なお、千秋楽は休場して不戦敗だった)。

それでも、1966年(昭和41年)3月場所からは再び6連覇。1967年にはを負傷し(本人は「これ以降肘が「く」の字に曲がったままの状態になってしまい相撲に工夫が必要になった」と語っている)、その分を取り戻そうと稽古で無茶をし左靭帯断裂1968年(昭和43年)3月場所から3場所連続全休し(途中休場を含めると1967年11月場所から5場所連続休場)、同9月場所初日に栃東に敗れた時はもう限界かとも思われたが、慎重に勝ちに行った結果、叩きを多用するなど相撲内容は冴えないが、同2日目から1969年(昭和44年)3月場所初日の間に、双葉山(69連勝、最多連勝記録)には及ばなかったものの45連勝を記録(取り直し制度導入後では当時2位。後に千代の富士白鵬が抜き4位)。この記録は、同場所2日目に平幕の戸田(後の羽黒岩)に押し出しで敗れたため途切れたが、ビデオ画像や写真では戸田の足が先に土俵を割っていた(明らかに土俵の外に足を踏み出していた)ため、誤審であるとして問題となり、翌場所から相撲の勝負判定にビデオ画像が導入されるきっかけとなった。ただ、大鵬自身は誤審の判定を下された件について不満を述べることはせず、むしろ誤審を招くような相撲をとった自分の方に責任があるとして、「ああいう相撲をとった自分が悪いんです」と語っていた。なお、大鵬はこの場所の5日目から肺炎で休場。肺炎をこじらせた影響で、これ以降は肺機能が低下して、すぐ息が上がるようになってしまい、激しい稽古ができなくなったという。

それでも続く1969年5月場所には30回目の優勝を飾り、この功績を讃えて1969年9月場所初日には一代年寄「大鵬」が日本相撲協会より授与された。

現役晩年に至っても、北の富士と玉の海の両横綱に対しては、最後まで壁として君臨し続けた(北の富士・玉の海が横綱に昇進して以降の対戦成績は共に大鵬4勝2敗でリード)。引退2場所前の1971年(昭和46年)1月場所に玉の海を本割りと優勝決定戦の2番連続で降し32回目の優勝、同年3月場所ですら12勝と健在ぶりを示したが、翌5月場所栃富士に敗れ尻から落ちたことで引き時を感じ、5日目に当時上り坂の貴ノ花寄り倒しで同じく尻から落ちる敗戦を喫すると引退を表明した。

大鵬の引退相撲は、1971年9月場所後の10月2日蔵前国技館で行われ、太刀持ちに玉の海、露払いに北の富士と、両横綱を従えて横綱最後の土俵入りが披露された。なお、玉の海はそれからわずか9日後の10月11日急死、大鵬自身も相当なショックを受けたという。

[編集] 柏鵬 全対戦一覧

柏鵬両雄の対戦は、1960年1月場所~1969年5月場所の間に37回実現し、千秋楽結びの一番の対戦は史上3位の21回、千秋楽両者優勝圏内の対戦が5回(うち、相星決戦が2回)あった。 千秋楽(太字)は、千秋楽結びの一番を示す。

場所 対戦日 柏戸勝敗
(通算成績)
大鵬勝敗
(通算成績)
優勝力士 備考
1960年1月場所 12日目 ○(1) ●(0) 栃錦 初対戦
1960年3月場所 - - - 若乃花 対戦なし。
1960年5月場所 12日目 ●(1) ○(1) 若三杉
1960年7月場所 8日目 ○(2) ●(1) 若乃花
1960年9月場所 9日目 ○(3) ●(1) 若乃花 柏戸新大関
1960年11月場所 14日目 ●(3) ○(2) 大鵬(1)
1961年1月場所 11日目 ○(4) ●(2) 柏戸(1) 大鵬新大関
1961年3月場所 11日目 ○(5) ●(2) 朝潮
1961年5月場所 14日目 ○(6) ●(2) 佐田の山
1961年7月場所 14日目 ●(6) ○(3) 大鵬(2)
1961年9月場所 14日目 ○(7) ●(3) 大鵬(3)
1961年11月場所 14日目 ●(7) ○(4) 大鵬(4) 柏鵬両者新横綱
1962年1月場所 千秋楽 ●(7) ○(5) 大鵬(5)
1962年3月場所 千秋楽 ○(8) ●(5) 栃ノ海
1962年5月場所 千秋楽 ●(8) ○(6) 佐田の山
1962年7月場所 千秋楽 ●(8) ○(7) 大鵬(6)
1962年9月場所 千秋楽 ●(8) ○(8) 大鵬(7)
1962年11月場所 千秋楽 ○(9) ●(8) 大鵬(8)
1963年1月場所 - - - 大鵬(9) 柏戸休場により対戦なし。
1963年3月場所 - - - 大鵬(10) 柏戸休場により対戦なし。
1963年5月場所 - - - 大鵬(11) 柏戸休場により対戦なし。
1963年7月場所 - - - 富士錦 柏戸休場により対戦なし。
1963年9月場所 千秋楽 ○(10) ●(8) 柏戸(2) 千秋楽全勝同士相星決戦
1963年11月場所 千秋楽 ●(10) ○(9) 栃ノ海
1964年1月場所 千秋楽 ●(10) ○(10) 大鵬(12)
1964年3月場所 千秋楽 ●(10) ○(11) 大鵬(13) 千秋楽全勝同士相星決戦
1964年5月場所 - - - 栃ノ海 柏戸休場により対戦なし。
1964年7月場所 - - - 富士錦 柏戸休場により対戦なし。
1964年9月場所 - - - 大鵬(14) 柏戸休場により対戦なし。
1964年11月場所 - - - 大鵬(15) 柏戸休場により対戦なし。
1965年1月場所 - - - 佐田の山 柏戸休場により対戦なし。
1965年3月場所 - - - 大鵬(16) 柏戸休場により対戦なし。
1965年5月場所 13日目 ○(11) ●(11) 佐田の山
1965年7月場所 11日目 ○(12) ●(11) 大鵬(17)
1965年9月場所 12日目 ○(13) ●(11) 柏戸(3)
1965年11月場所 - - - 大鵬(18) 柏戸休場により対戦なし。
1966年1月場所 - - - 柏戸(4) 大鵬休場により対戦なし。
1966年3月場所 千秋楽 ●(13) ○(12) 大鵬(19)
1966年5月場所 千秋楽 ●(13) ○(13) 大鵬(20) 千秋楽柏戸2敗、大鵬1敗で対戦
1966年7月場所 千秋楽 ●(13) ○(14) 大鵬(21) 千秋楽柏戸2敗、大鵬1敗で対戦
1966年9月場所 千秋楽 ○(14) ●(14) 大鵬(22) 千秋楽柏戸2敗、大鵬1敗で対戦 優勝決定戦は、大鵬勝利。
1966年11月場所 千秋楽 ●(14) ○(15) 大鵬(23)
1967年1月場所 千秋楽 ●(14) ○(16) 大鵬(24)
1967年3月場所 14日目 ○(15) ●(16) 北の富士
1967年5月場所 千秋楽 ○(16) ●(16) 大鵬(25)
1967年7月場所 - - - 柏戸(5) 大鵬休場により対戦なし。
1967年9月場所 14日目 ●(16) ○(17) 大鵬(26)
1967年11月場所 - - - 佐田の山 大鵬休場により対戦なし。
1968年1月場所 - - - 佐田の山 大鵬休場により対戦なし。
1968年3月場所 - - - 若浪 大鵬休場により対戦なし。
1968年5月場所 - - - 玉の海(当時玉乃島) 両者休場により対戦なし。
1968年7月場所 - - - 琴桜 大鵬休場により対戦なし。
1968年9月場所 千秋楽 ●(16) ○(18) 大鵬(27)
1968年11月場所 千秋楽 ●(16) ○(19) 大鵬(28)
1969年1月場所 千秋楽 ●(16) ○(20) 大鵬(29)
1969年3月場所 - - - 琴桜 大鵬休場により対戦なし。
1969年5月場所 千秋楽 ●(16) ○(21) 大鵬(30)
  • 両者横綱昇進以前の対戦成績(1961年9月場所まで)は、柏戸の7勝3敗。
  • 両者横綱同士の対戦成績(1961年11月場所以降)は、大鵬の18勝9敗であった(優勝回数も、1961年11月場所以降、柏戸4回、大鵬29回)。

[編集] 引退後

引退後は大鵬部屋を興し、関脇巨砲前頭嗣子鵬らを育てた。その後、部屋を娘婿の大嶽親方(貴闘力)に譲っている(2010年7月4日に解雇)。2000年平成12年)に北の湖・千代の富士の一代年寄2横綱を率いて還暦土俵入りを披露した。ただし、後述の脳梗塞の後遺症もあって四股が踏めないため土俵入りそのものは披露せず、赤い綱を締めて土俵に上がったのみであった。

元々大鵬が入幕する前は角界の最大派閥は出羽海一門であり、非主流派とみなされる二所ノ関一門所属の大鵬は、親方としての出世は遅いと見られていたが、1976年(昭和51年)に35歳の若さで役員待遇、審判部副部長に就任した。ところが、1977年(昭和52年)に脳梗塞で倒れてしまい、後遺症が残ったことで理事長などの重要職に就ける見込みが無くなってしまった(たとえば、車椅子移動が基本となったため勝負審判が務められず、また挨拶等で土俵上に上がるのにも支障が生じる。大鵬の同世代では佐田の山と豊山が理事長を務めている)。引退後、年寄名を大鵬 翔己(-しょうき)としていたが、この病気を患って以降現役時代の大鵬 幸喜に戻している。

病気自体は不屈の精神でリハビリを重ねかなり回復し、1980年(昭和55年)に理事就任。8期理事を務め、地方場所部長、教習所所長などを歴任した。 かつて「巨人、大鵬~」と並び称された時代の一方の雄である長嶋茂雄が、同じ脳梗塞に倒れた時には、やはり特別な感情がわいたと語っている。

かつては酒量は一に達していたという。同い年の親友(誕生日が9日違い)でもある王貞治と若い頃に夜通し飲み明かしたこともあった。しかし飲酒量の多さが健康を害した原因と言われている。

2001年(平成13年)にサハリン州(樺太)で父マルキャン・ボリシコの生涯が明らかになり、サハリン州の日本研究家の働きかけでウクライナのハリキフ市に大鵬記念館が建設されることになっている。大鵬自身もハリキフで相撲大会を企画しており、ロシアをはさんで日本とウクライナの国際交流の主役として脚光を浴びている。

2002年にはロシア連邦・北オセチア共和国出身のボラーゾフ兄弟を日本に招き、兄のソスランを露鵬幸生として自分の部屋に入門させた(弟のバトラズは白露山佑太として二十山部屋入り、後に北の湖部屋へ)。大鵬はソスランの四股名に自分の「鵬」、名前にも本名の「幸」の字を入れ、期待に応えた露鵬は大鵬の停年後の2006年3月場所で小結まで昇進して部屋頭となったが、2008年9月にドーピング検査大麻の陽性反応が出たことを理由として弟と共に日本相撲協会を解雇された。

また慈善活動にも熱心で、「大鵬慈善ゆかた」などを販売し、その収益を元にして、1967年(昭和42年)から1968年(昭和43年)までは、老人ホームや養護施設にテレビを贈り、1969年(昭和44年)から2009年(平成21年)までは、日本赤十字社に血液運搬車「大鵬号」を贈った。

血液運搬車の寄贈台数は、1969年(昭和44年)から1976年(昭和51年)までと1979年(昭和54年)から2001(平成13年)まで毎年2台ずつ、2002年(平成14年)から2009年(平成21年)まで毎年1台ずつで、2009年(平成21年)9月の70台目の贈呈を区切りにこの活動を終えた。

2005年(平成17年)に日本相撲協会を65歳の停年(定年)退職し、9年近く空席だった相撲博物館館長に就任した。協会在籍中に理事長や執行部在任経験がなく(1期のみ審判部副部長を務めたが、脳梗塞をわずらったためにその後は退任し、地方場所部長の職が長かった)、先に停年退職していた理事長経験者の佐田の山豊山が健在にも拘わらず館長職に就いたのは異例の抜擢と言われている。

かつては第68代横綱・朝青龍のよき相談役としても知られ、相手次第で取り口を変える、自身のような万能型の大横綱の道を歩みつつある朝青龍を厳しく、かつ温かく見守っていた。また、朝青龍のサッカー問題など色々な意味で批判されがちの角界で、OBとして発言力を持つ一人でもあった。しかしその後の朝青龍は、2005年に7場所連続優勝・年6場所完全制覇・年間最多勝の更新(84勝)等の新記録を達成した辺りから、大鵬の所へ相談に来る事が無くなったという。[9]結局朝青龍は度重なるトラブルに責任を取る形で、2010年(平成22年)1月場所後に突如現役引退となった。

さらに、露鵬の大麻問題では同じく渦中に巻き込まれた北の湖理事長と対応を協議する事態となっていた。最終的には、自分の後継者で娘婿でもある大嶽親方が責任を問われて相撲協会の委員から平年寄への2階級降格処分を受け、北の湖親方も理事長辞任となった。

なお、少年時代を過ごした北海道弟子屈町の川湯温泉温泉街には、1984年に開館した弟子屈町川湯相撲記念館があり、化粧廻しや優勝トロフィーなどのゆかりの資料が展示されている他、名勝負・名場面などの栄光の記録と生い立ちから現在に至るまでの歩みとを綴ったドキュメンタリー映像を上映するコーナーもある。また、記念館の前には、彼の銅像も建っている。

2008年11月16日、11月場所中に開かれた相撲協会理事会で、体調不良のために2008年限りで相撲博物館館長を辞任することが承認された[10]

2008年12月26日、日本相撲協会の仕事納めの日に相撲博物館館長職を退いたが、「たまには国技館に足を運んで相撲をゆっくり見たい」と相撲への思いは変わらないと語った[11]

2009年10月27日、相撲界から初となる2009年(平成21年)度文化功労者に選出された。これを受けた大鵬は記者会見で「私一人だけの力でなく、皆さんが力添えしてくれたからこそ。大きな賞を戴けて本当に有難いことです」と喜びを語った[12]

[編集] 取り口、強さ

取り口は非常に手堅く、若い頃はもろ差しを得意にしていた。胸を合わせず、前かがみになって腰を引く「逆くの字」の体勢で相手の攻めを防ぎ、横へ回りながら自分有利の体勢に持ち込み、投げで崩すか寄り切るのが勝ちパターン。体勢、懐の深さに加え、真綿やスポンジに例えられるほど身体が柔らかく、どんな当たりをも受け止め、崩れない相撲を可能にした。立合いもうまく、最晩年の1971年3月場所で初挑戦の平幕大雪が一度目の仕切りで立った際は難なく捕まえ勝利している。

大兵にも関わらず、前捌きや回りこみが巧みで冷静・緻密な相撲を取った。投げ技の中では上手投げも強かったが、特に左差し手を十分に返してから放たれる掬い投げのうまさが際立っており、伝家の宝刀と称された。前傾姿勢で腰を引く構えによって、相手に廻しを取りにくくさせたが、自分も廻しが遠くなるため、掬い投げを多用したのである。1970年5月場所の千秋楽、北の富士の上手投げを掬い投げで打ち返して彼の全勝を阻止したが、北の富士は「柔らかさ負けしたよ」と嘆いた。通常、廻しを取らずに下手から投げる掬い投げは上手投げより効果が薄いとされるが、大鵬の場合、懐の深さに加えて柔軟な長身で上体の大きなひねりが可能だったことが、掬い投げを非常に有効にさせていた。突っ張りも強く、突っ張ってからの叩き込みも懐の深さ故によく決まった。だが、左膝を痛めた1968年以後は叩き込みなどの引き技に頼ることが多くなって批判を浴びている。

一方で大鵬には反り腰がなく、上体が反ると残すことができなかった。この腰の脆さが弱点で、普段は「逆くの字」の体勢、身体の柔らかさ、懐の深さで弱点を補っていたが、胸を合わせてがっぷり四つになるとなかなか勝負に出られず、立合いから上体を起されて押されると一方的に攻められることもしばしばあった。そのような弱点を露呈させることが多かったのは、対戦経験の少ない平幕や押し相撲が相手のとき、彼らとの取り組みが多い序盤戦であり、「序盤・平幕・押し相撲」が大鵬の鬼門と言われた。

基本的には左四つに組みとめての寄りと投げが主体のスタイルだが、押し相撲や右四つでも相撲が取れた。つまり良く言えばオールラウンダーであり、悪く言えば絶対的な型がなかった。この点は、右四つの完成された型を持った双葉山とは対照的であり、大鵬以前はこういった相撲は小兵のやることで横綱大関にはふさわしくないとみられていた。また「逆くの字」の体勢を「へっぴり腰」と揶揄されることもあり、双葉山のように腰の力で相手の攻めを受け止めて取る相撲を本格的とする立場の評論家(小坂秀二など)から「小さな相撲」と批判されたこともある。ただ、相手次第で取り口を変える柔軟性を持っていたという点では今でも非常に評価が高く、師匠である二所ノ関は「型のないのが大鵬の型」「名人に型なし」と批判に反駁した。大鵬が勝ち続け、昭和の大横綱へと成長すると、「型のない」大鵬の相撲は、状況に応じて相撲を変える「自然体」とも評価されるようになった。

その強さと出世の早さ故か、相撲の天才と呼ばれることも多かったが、本人は「人より努力をしたから強くなった」としてこれを嫌った。大鵬の素質に惚れ込んだ師匠・二所ノ関の徹底的指導によって鍛え上げられたが、その指導内容は四股500回鉄砲2000回、兄弟子の瀧見山による激しいぶつかり稽古というスパルタぶりであった。本人は弟弟子の麒麟児の方が天才と呼ぶにふさわしいと発言している。

幕内最高優勝32回は2010年(平成22年)現在、最多優勝記録である。様々な金字塔を打ち立てたが、特に入幕(1960年)から引退(1971年)までの12年間、毎年必ず最低1回は優勝した記録は「一番破られにくい記録」と言われる。

[編集] 略歴

  • 1956年9月場所 - 本名である納谷の四股名で初土俵前相撲では三番出世だった。
  • 1959年5月場所 - 新十両。納谷改め大鵬
  • 1960年1月場所 - 新入幕
  • 1960年11月場所 - 初の幕内最高優勝
  • 1961年1月場所 - 大関昇進
  • 1961年11月場所 - 横綱昇進
  • 1969年9月14日 - 同年5月場所で30回目の優勝を達成したことから、その功績を称え協会より一代年寄を授与される。現役中の一代年寄授与は大鵬と千代の富士(辞退)のみ。
  • 1969年10月25日 - 紺綬褒章受章(以後7回飾版を追受)
  • 1971年1月場所 - 32回目の優勝
  • 1971年5月場所 - 現役引退、一代年寄「大鵬」を襲名
  • 1972年1月 - 大鵬部屋がこの場所から独立。
  • 1976年2月 - 役員改選に伴い、役員待遇に抜擢され、審判部副部長を務める。   
  • 1977年2月 - 脳梗塞を患う。
  • 1980年2月 - 役員改選に伴い、理事に昇格し、地方場所部長(名古屋)を務める。
  • 1984年 - 少年時代を過ごした北海道弟子屈町川湯温泉地区に川湯相撲記念館が開館。
  • 1996年2月 - 役員改選に伴い、理事8期を務め退任する。(その後停年まで役員待遇) 
  • 2000年6月 - 還暦土俵入り(ただし、四股をふむことができないので立ち姿のみ)を行う。
  • 2004年1月1日 - 娘婿である大嶽元関脇貴闘力が部屋を引き継ぎ、大鵬部屋の歴史に幕を閉じる。部屋の看板は縦書きの「大嶽部屋」と横書きの「大鵬道場」の2枚となる。
  • 2004年11月3日 - 紫綬褒章受章
  • 2005年5月28日 - 日本相撲協会を停年退職
  • 2005年5月29日 - 相撲博物館第5代館長に就任
  • 2008年12月26日 - 相撲博物館第5代館長を勇退。
  • 2009年10月 - 文化功労者

[編集] 成績

[編集] 通算成績

  • 通算成績:872勝182敗136休 勝率.827
  • 幕内成績:746勝144敗136休 勝率.838(勝率では取り直し制度導入以降1位)
  • 横綱成績:622勝103敗136休 勝率.858(同3位)
  • 幕内在位:69場所
  • 横綱在位:58場所(歴代3位)
  • 大関在位:5場所
  • 三役在位:3場所(関脇2場所、小結1場所)
  • 年間最多勝:6回(当時最多受賞回数・現在は北の湖の7回に次いで歴代2位。又1960年~1964年の5年連続最多勝も当時最多、現在北の湖朝青龍白鵬と並び歴代最多タイ)
    • 1960年(66勝24敗)、1961年(71勝19敗)、1962年(77勝13敗)、1963年(81勝9敗)、1964年(69勝11敗10休)、1967年(70勝6敗14休・柏戸と同数)
  • 連続6場所勝利:84勝(1966年3月場所~1967年1月場所、1966年5月場所~1967年3月場所、1966年7月場所~1967年5月場所)
  • 通算(幕内)連続勝ち越し記録:25場所(当時玉錦に次いで2位、現在歴代10位タイ・1960年5月場所~1964年5月場所)
  • 幕内連続2桁勝利記録:25場所(当時歴代1位、現在北の湖37場所・白鵬30場所に次いで歴代3位・1960年5月場所~1964年5月場所)
  • 幕内連続12勝以上勝利:11場所(当時1位、現在歴代4位・1962年7月場所~1964年3月場所)

[編集] 連勝記録

大鵬の最多連勝記録は、45連勝である。(1968年9月場所2日目~1969年3月場所初日。1926年の東西相撲合併以降、歴代4位)
下記に、大鵬のその他の連勝記録を記す。(20連勝以上対象)

回数 連勝数 期間 止めた力士 備考
1 25 1962年7月場所3日目~1962年9月場所12日目 北葉山
2 30 1963年3月場所5日目~1963年7月場所4日目 青ノ里 1963年5月場所全勝優勝
3 34 1963年11月場所千秋楽~1964年5月場所3日目 前田川 1964年1月場所~3月場所2場所連続全勝優勝
4 20 1964年9月場所5日目~1964年11月場所9日目 明武谷
5 26 1966年5月場所2日目~1966年7月場所12日目 豊山
6 34 1966年11月場所初日~1967年3月場所4日目 浅瀬川 1966年11月場所~1967年1月場所2場所連続全勝優勝
7 25 1967年9月場所初日~1967年11月場所10日目 海乃山 1967年9月場所全勝優勝
8 45 1968年9月場所2日目~1969年3月場所初日 戸田 1968年11月場所~1969年1月場所2場所連続全勝優勝
9 20 1970年11月場所6日目~1971年1月場所10日目 琴桜
  • 上記の通り、20連勝以上9回、30連勝以上4回記録している。

[編集] 各段優勝

  • 幕内最高優勝:32回(歴代1位)
全勝:8回(歴代1位タイ)
連覇:6連覇(1962年7月場所~1963年5月場所、1966年3月場所~1967年1月場所 2度達成)
同点:2回
  • 十両優勝:1回(1959年11月場所)
  • 三段目優勝:1回(1958年3月場所)

[編集] 三賞・金星

  • 三賞:3回
    • 敢闘賞:2回(1960年1月場所、1960年5月場所)
    • 技能賞:1回(1960年9月場所)
  • 金星:1個(朝汐

[編集] 幕内での場所別成績

大鵬幸喜
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1956年
(昭和31年)
x x x x (前相撲) x
1957年
(昭和32年)
西 序ノ口 #23
7–1
 
東 序二段 #83
6–2
 
西 序二段 #29
7–1
 
x 西 三段目 #71
7–1
 
東 三段目 #37
6–2
 
1958年
(昭和33年)
西 三段目 #20
6–2
 
東 三段目 #1
8–0
 
西 幕下 #31
7–1
 
東 幕下 #9
7–1
 
西 幕下 #2
3–5
 
東 幕下 #7
6–2
 
1959年
(昭和34年)
東 幕下 #4
6–2
 
東 幕下 #1
6–2
 
西 十両 #20
9–6
 
東 十両 #16
9–6
 
東 十両 #10
13–2
 
東 十両 #3
13–2
 
1960年
(昭和35年)
西 前頭 #13
12–3
東 前頭 #4
7–8
 
東 前頭 #6
11–4
西 小結
11–4
 
西 関脇
12–3
東 関脇
13–2
 
1961年
(昭和36年)
東 張出大関
10–5
 
西 張出大関
12–3
 
西 大関
11–4
 
東 大関
13–2
 
東 大関
12–3[13]
 
西 横綱
13–2
 
1962年
(昭和37年)
東 横綱
13–2
 
東 横綱
13–2[14]
 
東 横綱
11–4
 
東 横綱
14–1
 
東 横綱
13–2[14]
 
東 横綱
13–2
 
1963年
(昭和38年)
東 横綱
14–1
 
東 横綱
14–1
 
東 横綱
15–0
 
東 横綱
12–3
 
東 横綱
14–1
 
西 横綱
12–3
 
1964年
(昭和39年)
東 横綱
15–0
 
東 横綱
15–0
 
東 横綱
10–5
 
東 張出横綱
1–4–10[15]
 
西 横綱
14–1
 
東 横綱
14–1
 
1965年
(昭和40年)
東 横綱
11–4
 
東 横綱
14–1
 
東 横綱
9–6[16]
 
西 横綱
13–2
 
東 横綱
11–4
 
東 張出横綱
13–2
 
1966年
(昭和41年)
東 横綱
休場
0–0–15
東 張出横綱
13–2
 
東 横綱
14–1
 
東 横綱
14–1
 
東 横綱
13–2[17]
 
東 横綱
15–0
 
1967年
(昭和42年)
東 横綱
15–0
 
東 横綱
13–2
 
東 横綱
14–1
 
東 横綱
2–1–12[15]
 
東 張出横綱
15–0
 
東 横綱
11–2–2[15]
 
1968年
(昭和43年)
東 横綱
1–3–11[15]
 
東 張出横綱
休場
0–0–15
西 横綱
休場
0–0–15
西 横綱
休場
0–0–15
西 横綱
14–1
 
東 横綱
15–0
 
1969年
(昭和44年)
東 横綱
15–0
 
東 横綱
3–2–10[15]
 
西 横綱
13–2
 
東 横綱
11–4
 
東 横綱
11–4
 
東 横綱
6–4–5[15]
 
1970年
(昭和45年)
東 横綱
休場
0–0–15
東 張出横綱
14–1
 
東 横綱
12–3
 
西 横綱
2–2–11[15]
 
東 張出横綱
12–3
 
西 横綱
14–1[18]
 
1971年
(昭和46年)
西 横綱
14–1[18]
 
西 横綱
12–3
 
西 横綱
引退
3–3–0
x x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 十両・幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

[編集] 脚注

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  1. ^ これには異論もあるが、ジャパンタイムズの記事"Whether crisis or not, sumo's show must go on"でも「恐らく近代以降の(そして戦後に限れば間違いなく)最も偉大な力士」と紹介されている。
  2. ^ 『巨人、大鵬、卵焼き―私の履歴書』(発行・発売:日本経済新聞社・2001年2月刊)を参照。
  3. ^ 同様のエピソードに、ラジオドラマ『君の名は』がある。
  4. ^ その世代の有名人の名を子供につけるという例は多い。夏の甲子園で人気を博した荒木大輔にちなんで名づけられた松坂大輔などの例がある。
  5. ^ のちに「おおづつ」と読ませる弟子、巨砲丈士を育てることになる。
  6. ^ 現在の最年少昇進記録は関脇・大関とも貴乃花が保持。
  7. ^ 2007年8月2日、毎日新聞東京朝刊
  8. ^ 情報ライブ ミヤネ屋、2008年9月10日放送
  9. ^ 「大鵬さん「会見で謝罪なく腹立たしい」」日刊スポーツ2010年2月5日9時6分紙面から
  10. ^ ベースボールマガジン社発行、月刊「相撲」2008年12月号71ページ閲覧
  11. ^ 元横綱大鵬が最後の喝 スポーツ報知 2008年12月26日付
  12. ^ 元横綱大鵬の納谷幸喜さん-文化功労者 時事通信 2009年10月27日閲覧
  13. ^ 柏戸明武谷と優勝決定戦
  14. ^ a b 佐田の山と優勝決定戦
  15. ^ a b c d e f g 途中休場
  16. ^ 千秋楽不戦敗・休場
  17. ^ 柏戸と優勝決定戦
  18. ^ a b 玉の海と優勝決定戦

[編集] 関連書籍

  • 大鵬幸喜『大鵬自伝』(ベースボールマガジン社、1972年)
    • 『大鵬自伝 (ほるぷ自伝選集―スポーツに生きる〈17〉)』(主婦と生活社、1981年)で再刊。
  • 大鵬幸喜『巨人、大鵬、卵焼き 私の履歴書』(日本経済新聞社、2001年2月) - ISBN 4-532-16377-3
  • 大鵬『一流とは何か』(KKロングセラーズ、2008年)
  • 大鵬監修『相撲道とは何か』(ロング新書・KKロングセラーズ 2007年)

[編集] 外部リンク

[編集] 関連項目

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