双葉山定次
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双葉山 定次(1940年頃)
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| 基礎情報 | ||||
| 四股名 | 双葉山 定次 | |||
| 本名 | 龝吉 定次 | |||
| 愛称 | 不世出の横綱・相撲の神様 昭和の角聖・立浪三羽烏・古今十傑 打っ棄り双葉・無敵・協会の知恵袋 大鉄傘下の花形力士二人 |
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| 生年月日 | 1912年2月9日 | |||
| 没年月日 | 1968年12月16日(満56歳没) | |||
| 出身 | 大分県宇佐郡天津村布津部 | |||
| 身長 | 179cm | |||
| 体重 | 128kg | |||
| BMI | 39.9 | |||
| 所属部屋 | 立浪部屋→双葉山相撲道場 | |||
| 得意技 | 右四つ、寄り、上手投げ | |||
| 成績 | ||||
| 現在の番付 | 引退 | |||
| 最高位 | 第35代横綱 | |||
| 生涯戦歴 | 348勝116敗1分33休(51場所) | |||
| 幕内戦歴 | 276勝68敗1分33休(31場所) | |||
| 優勝 | 幕内最高優勝12回 | |||
| データ | ||||
| 初土俵 | 1927年3月場所 | |||
| 入幕 | 1932年2月場所 | |||
| 引退 | 1945年11月場所 | |||
| 引退後 | 第3代日本相撲協会理事長 | |||
| 備考 | ||||
| 金星1個(武藏山1個) 紫綬褒章・従四位勲三等旭日中綬章 |
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| 2013年4月12日現在 | ||||
双葉山 定次[1](ふたばやま さだじ、1912年2月9日 - 1968年12月16日)は、大分県宇佐郡天津村布津部(現・宇佐市下庄)出身の元大相撲力士。本名は龝吉 定次(あきよし さだじ)。
目次 |
来歴 [編集]
入門前 [編集]
5歳の時、吹き矢が自身の右目に直撃して負傷し、これが元で右目が半失明状態になったが、少年時代は成績優秀で普通に出世を目指していた。そのため、相撲は元々はそれほど気持ちを入れていたわけではなかったが、父親が営む海運業が失敗したり、次男だが兄は早世、妹と母親も早くに亡くしている事情から、父の手伝いをしながらたくましく育つ。浪曲研究家の芝清之が作成した『双葉山物語』では、この海運業の手伝いをしているときに錨の巻上げ作業で右手の小指に重傷を負ったとしている。
1927年、才能を見出した大分県警の双川喜一(のちに明治大学専務理事となる)の世話で立浪部屋に入門する。同年3月場所に初土俵。四股名の双葉山は「栴檀は双葉より芳し」から命名し、入門時に世話になった双川部長の1字も含まれる。
順調に昇進 [編集]
入幕以前は目立った力士ではなかったが、成績は4勝2敗が多く(当時幕下以下は1場所6番)大きく勝ち越すことがない一方で負け越しもなく(3勝3敗は何度かあった)、春日野から「誰とやってもちょっとだけ強い」と評されたという。1931年5月場所には19歳3ヶ月で新十両に昇進した。
1932年2月場所、この直前に勃発した春秋園事件での関取大量脱退によって繰り上げ入幕となるが、相撲が正攻法すぎて上位を脅かすまでには至らなかった。ただ足腰は非常に強い(舟に乗っているうちに自然と鍛えられたらしい)ため、攻め込まれても簡単には土俵を割らずに土俵際で逆転することが多く「うっちゃり双葉」と皮肉られていた[2]。この時期の双葉山を、玉錦三右エ門だけが「双葉の相撲はあれで良いのだ。今に力がついてくれば欠点が欠点でなくなる」と評価したという。
1935年1月場所には小結に昇進するが、4勝6敗1分と負け越して前頭筆頭に転落。5月場所も4勝7敗と負け越し、この頃までは苦労の連続だった。
69連勝の始まり [編集]
1935年に蓄膿症の手術を機に体重が増え、それまでの取り口が一変した。立合い、「後の先をとる」を地で行き相手より一瞬遅れて立つように見えながら先手を取り、右四つに組みとめた後、吊り寄り、乃至必殺の左上手投げで相手を下すようになった。1936年1月場所6日目には玉錦に敗れるが、7日目に瓊ノ浦を下すと、これから双葉山の69連勝がスタートする。双葉山は残りの取組も全勝して、この場所を9勝2敗で終えた[3]。
新関脇で迎えた同年5月場所では、9日目に玉錦を初めて破って11戦全勝で初優勝、場所後に大関へ昇進した。これ以降、双葉山は本場所で玉錦に負けることがなかった[4]。玉錦は前々場所(1935年1月場所)4日目から双葉山に敗れるまで27連勝しており[5]、その連勝の1勝目が他ならぬ双葉山だった。玉錦の最後の優勝と双葉山の初優勝をまたいで二度以上優勝した力士は一人もなく、明確な覇者交代の一番として現在まで語り継がれている。
1937年1月場所を11戦全勝、5月場所を13戦全勝で連続全勝優勝し、横綱に推挙される[6]。この推挙後に父親が死去。横綱昇進後、1938年1月場所と5月場所はいずれも13戦全勝で5場所連続全勝優勝を果たす。5月場所で双葉山の前の記録保持者である谷風梶之助の63連勝(分・預・休を挟んだ記録)を、約150年ぶりに塗り替えている。
70連勝ならずの一番 [編集]
1939年1月場所、前年の満州・大連の巡業でアメーバ赤痢に感染して体重が激減、体調も最悪だったので、双葉山は当初休場を考えていた。しかし、力士会長の玉錦が1938年に虫垂炎を悪化させて現役のまま急死した(双葉山が2代会長に就任)ため、責任感の強い性格の双葉山は強行出場。双葉山は調子が悪いながらも初日から3日目まで連勝を重ね、70連勝をかけて1939年1月15日(1月場所4日目)を迎える。
1939年1月15日、初日から4日目まで実況中継を担当した和田信賢は、「不世出の名力士双葉、今日(15日)まで69連勝。果たして70連勝なるか?70は古希、古来稀なり!」とのアナウンスで放送を開始した。対戦相手は前頭4枚目の安藝ノ海節男。この取り組み前、双葉山が連勝記録を更新し続ける中で、出羽一門では「打倒双葉」を合言葉に、笠置山勝一(のち・秀の山)を参謀に日々双葉山に対する戦略・戦術を練った。笠置山は当時としては珍しい大学(早稲田大学)出身の関取で、自身が記した「横綱双葉山論」では、双葉山の右目が半失明状態であることを知っていたことから対策の結論として「双葉の右足を狙え」とした。この右足対策を十分に身に付けたまま、安藝ノ海は本番を迎えた。
安藝ノ海は立会いから双葉山を寄せ付けようとしなかったが、双葉山の右掬い投げに対して左外掛けを掛けた。両者の身体が大きく傾いたが一度堪えた後、双葉山が安藝ノ海の身体を担ぎあげるようにして外掛けを外し、再度右から掬い投げにいったので、安藝ノ海の身体は右側に傾きながら双葉山と共に倒れた[7]。双葉山の身体が先に土俵に付いていたため、双葉山の連勝は69で止まり、安藝ノ海は金星を挙げた。実況を担当していた和田は、当然4日目に連勝が途切れるなどとは予想しておらず、双葉山が倒れた時に、控えのアナウンサーに対して「双葉負けたね!?確かに負けたね!?」と確認してから「双葉山敗れる!」と叫んだ。しかし、万一双葉山が敗れた場合に備えて用意していた言葉は霧散し、ただマイクに向かって何度も「双葉山敗れる!」を繰り返したと自著に記している。
双葉山は約3年ぶりとなる黒星を喫し、連勝を69で止められたにも関わらず、悔しさや絶望感などを表情に見せることなく普段通り一礼し、東の花道を引き揚げて行った。同じ東方の支度部屋を使っていて、この一番の後の取組のために土俵下で控えていた男女ノ川登三は、取組後に「あの男(双葉山)は勝っても負けても全く変わらないな」と語っている。しかし、支度部屋では「あー、クソッ!」と叫んだと新聞記事に書かれている。この69連勝は2011年現在で歴代最高記録[8]で、恐らく永久に破られることはない不滅の記録であろうとも言われている。双葉山が三役に上がった頃、一場所の取組日数は11日だったが、双葉山人気が凄まじく、1月場所でも徹夜で入場券を求めるファンが急増したため、日数が13日となり(1937年5月場所から)、さらに現在と同じ15日(1939年5月場所から)となった。
28代木村庄之助は世紀の一番について、付け人の仕事の最中で直接には見ることは出来なかったが、後年に出演したNHKの特別番組で「津波が押し寄せてくるような、地鳴りのような轟音がした」「庄之助親方も伊之助親方も厳しい表情で黙ったまま支度部屋に戻ってきた。それで『あ、双葉関が負けたんだ』と思った」と回想している。
取り組み後 [編集]
その日の夜、双葉山は師と仰ぐ安岡正篤に「イマダモッケイタリエズ(未だ木鶏たりえず)」と打電した。これには双葉山の言葉を友人が取り次いだものという説もある。同夜、双葉山は以前から約束されていた大分県人会主催の激励会に出席しており、後者の説を採るなら、同会で発せられた言葉であったことになる。70連勝ならずのその夜のことになったため、急遽敗戦を慰める会の雰囲気になったが、いつもと変わらず現れた双葉山の態度に列席者は感銘を受けたという。なお、双葉山自身は著書の中で、友人に宛てて打電したもので、友人が共通の師である安岡に取り次いだものと見える、と述べている。
双葉山の70連勝を阻止した安藝ノ海は、部屋に戻ってから出羽海に報告した際、出羽海は「勝って褒められる力士になるより、負けて騒がれる力士になれ」と諭したという。これには、安藝ノ海の入門を世話した藤島の言葉だとの説もある。28代木村庄之助は当時出羽海部屋の豆行司で、出羽海の付け人をしながらこの時の言葉を聞いたと証言しており、後者の藤島発言説を否定している。
翌日以降 [編集]
連勝が69で止まった双葉山だが、これ以降はすぐ気持ちを入れ替えてまた新しい連勝記録が始まるものだろうと誰もが思っていた。しかし、5日目に両國、6日目に鹿嶌洋起市と3連敗し、9日目には玉錦の跡を継いだ玉ノ海梅吉に敗れて4敗を喫した。続く1939年(昭和14年)5月場所も危ぶまれたが、初めて15日制で行われた本場所で全勝と見事に復活。しかし、その後の1940年5月場所では11日目までに4敗を喫し、「信念の歯車が狂った」といって突如引退を表明し、世間を騒がせた。協会や周囲の必死の説得によって双葉山は引退を翻意し、途中休場扱いとされた。その間に福岡県筑紫郡那珂川町にある妙音の滝に27日間(24日間とも)打たれるような求道者的態度で相撲道に励み、戦前を代表する大横綱の地位を守った。
一方で、関取は師匠を初めとした一門の親方の縁者や、花柳界の者を妻にするのが一般的だった時代[9]に師匠から直接「お前に部屋を継承させたい」と自らの娘を紹介されるも全て断って(その娘は羽黒山政司と結婚)一般人女性と結婚したり、立浪部屋を離れて自ら道場(引退後を参照)を開くなど、立浪との関係は必ずしも良好ではなかった。大派閥である出羽海一門に激しい対抗心を燃やす師匠と、力士会会長としての立場との間で多くの葛藤があったとされている。
1942年から1944年にかけても4連覇、36連勝を記録している。69連勝序盤の頃はまだ双葉山も体が出来上がっておらず、うっちゃりに頼る相撲も何番かは見受けられた。しかしこの頃には右四つ寄り、上手投げの型の安定性は正に磐石であったという事から、むしろこの時代こそが双葉山の全盛期と見る向きも多い。
横綱免許を獲得した頃、双葉山は「双葉山と言うのは若い力士の四股名だから横綱昇進を契機として、“3代目梅ヶ谷”を襲名しないか」と話を持ちかけられたが、本人はこれを断わって最後まで「双葉山」で通した。現在では双葉山の四股名は止め名になっている。
引退 [編集]
1944年11月場所6日目、幕下の頃から目をかけ、今場所は関脇となっていた東富士欽壹に敗れ、引退を決意した。翌日は増位山大志郎に不戦勝を与えて休場したが、協会や関係者に慰留されてこの時は撤回した。1945年6月場所初日、戦時下の両国国技館で非公開となった中、新鋭小結の相模川佶延を下したもののその後を全休。この時は休場届を提出した後に割が組まれたために不戦敗は付かず、成績は1勝6休で、結果的に相模川との取組が最後となった。
引退の直接の動機としては、16尺土俵の問題があったといわれている。相撲協会はGHQに取り入るため、相撲をより面白くしようとそれまでの15尺土俵から16尺へ広げようとしていたが、双葉山はこれに反対だったといわれている。
1945年、相撲協会は土俵を4.84m(16尺)と決定し、同年11月場所から採用された。番付には名を残してはいたが出場せず、結果的に最終場所となった。その引退は太平洋戦争での敗戦と重なり、東冨士との対戦が結果として最後の黒星である。自ら引退を発表した時の映像(ニュース映画)は、現在も残っている。
なお、16尺の土俵は結局1945年11月の1場所だけで、力士会の反対で元の15尺に戻された。
引退後 [編集]
現役中からその実績を評価され、二枚鑑札同様の形で現役力士のまま弟子の育成を許されたため、1941年に立浪部屋から独立して福岡県太宰府市に「双葉山相撲道場」を開いたが、引退後に年寄・時津風を襲名して道場名を時津風部屋に改称する[10]。
先代の時津風は小九紋竜梅吉であったが、小九紋竜は現役時代から悪評が高い人物であったため、周囲から「そんな悪い名跡を継承することはない」「“雷”の名跡こそ大横綱の双葉山にふさわしい」と進言したが、本人は「(年寄名跡は)どれも同じだ」「悪い名跡なら私が良くします」としてそのまま時津風を襲名した。
1946年11月6日からメモリアルホール(両国国技館)で行なわれた本場所は不入りだったが、千秋楽の翌日に双葉山の引退相撲が行われると、この日だけは超満員だった。現在では断髪式の時に力士は土俵上に用意した椅子に座るが、双葉山断髪式の写真を見ると土俵上で正座していることが判る。
璽光尊事件 [編集]
1947年1月21日、石川県警察部が金沢市で新宗教「璽宇」に対して食糧管理法違反の容疑で取り締まりを行った。この時、双葉山は璽宇本拠地で警察隊相手に大暴れを繰り広げ、璽宇の教祖だった長岡良子と共に逮捕される騒動を起こす(璽光尊事件)。双葉山は蓄膿症の手術をしたころから熱心な日蓮宗の信者だったが、なぜこの時だけ璽宇に帰依していたのかについては謎も多く、「日本の敗戦による虚脱感で悩んでいた」「部屋と協会の指導者の立場で悩んでいた」「璽宇の関係者だった呉清源に誘われた」「璽光尊の奸計にはまった」などの諸説があるが、いずれにせよ双葉山の悩みと求道的な性格に対して、巧みに璽宇関係者が付け込んでマインドコントロールを行い、双葉山を利用したものと言われている。
逮捕後、若き日からの友人だった藤井恒雄によって説得されて我を取り戻すと、その後は璽光尊に双葉山奪回を命じられ、訪ねてきた呉清源の言葉は一切無視して璽宇を離脱した。いずれにしても大捕物になったにも関わらず、璽光尊事件自体は双葉山も含めて厳罰にならなかった[11]が、これは有名人の双葉山や呉清源を、終末思想を広め信者や物資を集めようとする「邪教」から救出する意図があったからとも言われている。
当時の新聞は双葉山の得意が右四つだったのにかけて、事件を「悲劇の左四つ」の見出しで報じたという。双葉山は釈放後、自身の道場に戻る。
日本相撲協会理事長として [編集]
1957年に出羽海が自殺未遂を図ったことで、出羽海の後任として相撲協会理事長に就任した。理事長として、
などの改革に尽力した。協会内では秀ノ山(元・笠置山)・武蔵川を腹心として重用し、外部有識者としては若き時代からの盟友である玉ノ海の意見によく耳を傾けた。
年寄・時津風としては鏡里喜代治を横綱に育て上げ、大内山平吉・北葉山英俊・豊山勝男を大関に育てるなど、自身も経験してきた猛稽古によって多くの名力士を育成した。青ノ里盛の話では、引退からかなり経過した1953年にも、自ら廻しを締めて弟子に稽古をつけていたという。
1960年に相撲協会が財団法人化35周年となるのを記念した式典が行なわれた際、理事長として挨拶状を読み上げることになった。しかし、当日挨拶状を渡す役だった秀ノ山が挨拶状を忘れてしまい、慌てて取りに戻った。時津風は秀ノ山が戻るまでの間を土俵上で直立不動で待ち続け、当初は失笑が洩れていた館内はやがて静まり、挨拶状を受け取る頃には拍手の渦となった。
晩年 [編集]
最末期は肝炎によって体調を崩す日々が続き、1968年10月下旬に死に装束を模した白のスーツで東京大学医学部附属病院へ向かった。そして同年12月16日に、劇症肝炎のため死去。56歳没。戒名は霊山院殿法篤日定大居士。
取り口、強さなど [編集]
右手と右目にハンデがあった事もあるが、左上手投げの強さは常識を超えており、相手を軽々と放り投げた。引退から5年経って若瀬川泰二と花相撲で対戦したときも上手投げで勝った。全盛期の形は右四つから左上手を取るという完成された形であった。斉藤茂太が随筆に記しているところでは、双葉山の場合は左上手からの引きつけが凄まじく強烈なため、大半の相手力士は利き手である右下手の力を、その上から被さる左上手に完全に殺され、何も出来ない状態のまま強烈な上手投げを食らったという。
双葉山は立合いに相手を良く見るが、攻撃はほとんど相手に先行する。武道のやり方としては「後の先」と言われる作法で、「うっちゃり双葉」と呼ばれていた頃も右四つからの上手投げなどの正攻法の相撲を仕掛けていたが、当時は通用せずに結果的にそのようになってしまった。稽古場での強さも群を抜いており、大関以下を相次いで相手にして相当の番数をこなしても、息が上がることが無かったという。
非力と称されることもあったが、蔵間竜也によると亡くなる直前まで、座ったまま軽々と銅の火鉢を持ち上げたという。
NHK歴史番組『歴史秘話ヒストリア』では締め込みが緩い力士であったことが明かされた。[12]
また、戦時中の国家主義的な雰囲気を背景に敢闘精神が強調された風潮のなか、不敗を続ける双葉山は神国日本の象徴として絶賛を受け続け、双葉山の活躍により春秋園事件で落ちた相撲人気が再び盛り返した。
どんな相手に対しても同じような態度で臨んだ。力水は一回しかつけず、自ら待ったをかけることはなく、相手力士がかけ声を発すれば制限時間前であっても、1回目の仕切でさえ受けて立った(1度目で立った相撲でも見事に勝っている)。後述のように双葉山自身が無駄な動作を嫌い土俵上の短時間に極限まで集中を高めたためであるが、こうした土俵態度も今日まで力士の模範とされている。
相撲態度に関しては文句が無かった一方で、土俵入りに関しては男女ノ川同様に腕を廻して柏手を行ったため、酷評されたことがある。後年にはそういうことは無くなったが、当初は土俵入りの際の力みも目立った。
幕内成績は、31場所で276勝68敗1分33休で勝率8割2厘。繰上げ入幕のため、通算での勝率では他の大横綱に一歩譲ることになったが、横綱昇進後は17場所・180勝24敗22休で勝率8割8分2厘(取り直し制度導入以降の最高[13])、優勝12回(年2場所制での最多)、全勝8回(当時最多、年6場所制となってから大鵬と並び歴代2位タイ、白鵬が9回の最多記録を樹立)、5場所連続全勝(年2場所制で最多)、関脇1場所、大関2場所は全て全勝で通過(明治以降唯一)、69連勝(記録に残っている1757年以降最高)など、不滅の足跡を残した。
エピソード [編集]
- 明治が大正に改元する前に生まれており、明治生まれで最後の横綱である。
- 年2場所制であった戦前の大相撲では、大阪や名古屋で「準場所」と呼ばれる場所を開催していた。準場所での成績を含めた場合、1937年6月の大阪関目国技館場所の5日目から、1938年6月に西宮球場で行われた準場所3日目に九州山義雄に敗れるまで、87連勝を記録している。勿論、公式記録ではないものの、双葉山の強さを物語る記録である。
- 「二葉山」を名乗った時期があるように書かれることもあるが、これは下位力士だった時代に番付上に誤記されたものである[14]。
- 現在の大相撲で、力士は力水を最初に一度しかつけないが、これは双葉山から始まっている。彼以前の時代には、仕切りなおしのたびに力水をつける者も珍しくなかった。新弟子の頃、「力水は武士にとっての水盃だ」と兄弟子から教えられ、死を覚悟しての水盃なら、一度つければ十分だと考えたという話が広く流布しているが、双葉山自身はこれを否定、「ただ土俵上であまり無駄なことはするまいと思っただけ」と語っている。
- 右目の状態は、入門から入幕の頃にかけては、かすんだり物が二重に見えたりしていたが、やがてほとんど見えなくなったという。なまじ見えるよりその方が都合が良かったと、当人は後に語っている。対戦力士の側にも、「あの人は目の前の相手と違うものを見て相撲を取っている」といった証言が多く残る。実際双葉山の右目はやや白濁しており、右目に白い星があった。そのことから相手は神眼だといって恐れたという。ちなみに、横綱昇進後に喫した24敗(うち不戦敗が1つ)は、安藝ノ海に69連勝を止められた一番を含め、大半が右側から攻められてのものである。右目が見えないことは公表されていなかったが、櫻錦利一に敗戦したとき、飛び違いという決まり手であったことから、双葉山は目が悪いのではないかという噂が広がった。なお、小坂秀二の著書に引かれた笠置山の談話によると「我々は皆双葉山の右目のことを知っており、当然そこを狙って作戦を立てていた」という。
- 国民的人気を集めた双葉山だったが花柳界においても例外ではなく、新橋や柳橋の芸者連は“双葉関の貞操を守ろう”と「さわらぬ連盟」なるものを作り互いに牽制し合っていたといわれる。横綱昇進時まだ独身であったことや、その童顔もあって、「童貞横綱」などとも呼ばれたが、栃錦清隆が新弟子の頃、春日野の用事で料亭に双葉山を訪ねたところ、「この世にこんなきれいな人がいるのかと思った」ほどの美女をはべらせていたと証言している。
- 1958年に初代若乃花が横綱に昇進した際、当時弱小の一門であった二所ノ関一門としては玉錦以来の新横綱誕生であり、かつ二所ノ関一門関係者には玉錦の現役当時のことを詳しく知っている者がいなかった為、双葉山の時津風自らが若乃花に横綱土俵入りの指導を行った。また明治神宮での初代若乃花の横綱推挙式に附随して行う奉納土俵入りに際しても三つ揃いの化粧回しが用意できず、双葉山が自ら現役時代に使用して唯一手元に残っていた三つ揃いの化粧回しを花籠部屋に貸し出して間に合わせたという。
- 妻の澄子(2005年没)は双葉山について自分に対するインタビューを拒否し続けた。そのため双葉山に関する本や番組で澄子の証言は一切ない。
- 子は息子と娘がいたが、娘は10代半ばで病死。息子は成人し日蓮宗の住職になったが、44歳の若さで死去した。
- 孫娘に元宝塚歌劇団77期生・双葉美樹(2001年退団)や舞台女優の穐吉美羽がいる。
- 「大相撲この一番~“通”が選ぶ思い出の名勝負集」によれば、双葉山の70連勝が阻止された際、国技館には座布団だけではなく、火鉢まで宙を舞ったと伝えられている。この作の中で宮脇俊三(父の宮脇長吉と見ていた)は、宙を舞った火鉢のことを「火の粉をまき散らしながら飛ぶ」という様な表現で事を書き記し、舞った火鉢を「焼夷弾」とまで表現している。
双葉山の名言 [編集]
- 「稽古は本場所のごとく、本場所は稽古のごとく」
- 「相撲ぐらい怪我をしないスポーツはない」
- 「相撲は体で覚えて心で悟れ」
- 「われ未だ木鶏たりえず」
- 「勝負師は寡黙であれ」
- 「一日に十分間だけ精神を集中させることは誰にでも出来るはずだ」
主な成績 [編集]
通算成績 [編集]
- 通算成績:348勝116敗33休1分 勝率.750
- 幕内成績:276勝68敗33休1分 勝率.802
- 横綱成績:180勝24敗22休 勝率.882
- 現役在位:51場所
- 幕内在位:31場所
- 横綱在位:17場所
- 大関在位:2場所
- 三役在位:2場所(関脇1場所、小結1場所)
連勝記録 [編集]
双葉山の最多連勝記録は、史上最多の69連勝である(1936年1月場所7日目~1939年1月場所3日目)。
下記に、双葉山のその他の連勝記録を記す(20連勝以上対象)。
| 回数 | 連勝数 | 期間 | 止めた力士 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 1 | 69 | 1936年1月場所7日目~1939年1月場所3日目 | 安芸ノ海 | 1936年5月場所~1938年5月場所5場所連続全勝優勝[16] |
| 2 | 29 | 1939年1月場所10日目[17]~1940年1月場所10日目 | 五ツ島 | 1939年5月場所全勝優勝 |
| 3 | 21 | 1942年1月場所6日目~1942年5月場所11日目 | 清美川 | |
| 4 | 36 | 1942年5月場所千秋楽~1944年1月場所5日目 | 松ノ里 | 1943年1月場所~5月場所2場所連続全勝優勝 |
- 上記の通り、20連勝以上4回、30連勝以上2回記録している。
各段優勝 [編集]
- 幕内最高優勝:12回(1936年5月場所、1937年1月場所、1937年5月場所、1938年1月場所、1938年5月場所、1939年5月場所、1940年1月場所、1941年1月場所、1942年1月場所、1942年5月場所、1943年1月場所、1943年5月場所)
- 全勝優勝8回(大鵬と並んで歴代2位)
- 連覇:5連覇(1936年5月場所~1938年5月場所 全て全勝優勝)※当時年2場所制
場所別成績 [編集]
| 春場所 | 三月場所 | 夏場所 | 秋場所 | |||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1927年 (昭和2年) |
x | (前相撲) | 番付外 3–3 |
東 序ノ口 #27 4–2 |
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| 1928年 (昭和3年) |
東 序ノ口 #9 5–1 |
西 序二段 #34 3–3 |
東 序二段 #16 3–3 |
東 序二段 #16 4–2 |
||
| 1929年 (昭和4年) |
東 三段目 #33 3–3 |
東 三段目 #33 5–1 |
西 三段目 #7 4–2 |
西 三段目 #7 3–3 |
||
| 1930年 (昭和5年) |
西 幕下 #24 4–2 |
西 幕下 #24 3–3 |
東 幕下 #4 4–2 |
東 幕下 #4 3–3 |
||
| 1931年 (昭和6年) |
西 幕下 #3 6–1 |
西 幕下 #3 5–2 |
西 十両 #5 3–8 |
西 十両 #5 7–4 |
||
| 1932年 (昭和7年) |
西 前頭 #4 5–3 |
西 前頭 #4 8–2 |
東 前頭 #2 6–5 |
東 前頭 #2 0–0–11[18] |
||
| 1933年 (昭和8年) |
東 前頭 #5 9–2 |
x | 東 前頭 #2 4–7 |
x | ||
| 1934年 (昭和9年) |
西 前頭 #4 6–5 |
x | 西 前頭 #1 6–5 |
x | ||
| 1935年 (昭和10年) |
東 小結 4–6[19] |
x | 東 前頭 #1 4–7 |
x | ||
| 1936年 (昭和11年) |
東 前頭 #3 9–2 ★ |
x | 西 関脇 11–0 |
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| 1937年 (昭和12年) |
東 大関 11–0 |
x | 東 大関 13–0 |
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| 1938年 (昭和13年) |
西 横綱 13–0 |
x | 東 横綱 13–0 |
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| 1939年 (昭和14年) |
東 横綱 9–4 |
x | 東 横綱 15–0 |
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| 1940年 (昭和15年) |
東 横綱 14–1 |
x | 東 横綱 7–5–3[20] |
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| 1941年 (昭和16年) |
西 横綱 14–1 |
x | 西 横綱 13–2 |
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| 1942年 (昭和17年) |
東 横綱 14–1 |
x | 東 横綱 13–2 |
x | ||
| 1943年 (昭和18年) |
西 横綱 15–0 |
x | 東 横綱 15–0 |
x | ||
| 1944年 (昭和19年) |
西 横綱 11–4 |
x | 東 張出横綱 9–1 |
東 張出横綱 4–3–3[21] |
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| 1945年 (昭和20年) |
x | x | 西 張出横綱 1–0–6[22] |
西 横綱 引退 0–0–10 |
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| 各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 十両・幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
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- 1932年1月番付(春秋園事件で興行中止)では十両東6枚目。
主な力士との幕内対戦成績 [編集]
| 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 安藝ノ海節男 | 9 | 1 | 東富士欽壹 | 0 | 1 | 五ツ嶋奈良男 | 5 | 2 |
| 鏡岩善四郎 | 10 | 1 | 汐ノ海運右エ門 | 1 | 1 | 清水川元吉 | 5 | 4 |
| 玉錦三右エ門 | 4 | 6 | 照國万藏 | 2 | 3 | 能代潟錦作 | 3 | 2 |
| 前田山英五郎 | 7 | 1 | 増位山大志郎 | 5 | 2 | 男女ノ川登三 | 10 | 5 |
| 武藏山武 | 2 | 4 | ||||||
安藝ノ海とは前述の69連勝で止められた一番の後は全勝。「同じ相手に二度は続けて負けない」という双葉山の信念を物語る対戦成績である。
玉錦とは6連敗の後4連勝、武藏山とは4連敗の後2連勝、男女ノ川とは5連敗の後10連勝、清水川とは5連敗の後4連勝。先に大関・横綱に上がっていた力士も双葉山が横綱となって力をつけてからは双葉山に全く歯が立たなくなった。
著書 [編集]
- 『相撲求道録』 日本図書センター ISBN 4-8205-4341-5
- 『横綱の品格』 ベースボール・マガジン社新書006 ベースボール・マガジン社 ISBN 978-4-583-10075-3
関連書籍 [編集]
- 『一人さみしき双葉山』 工藤美代子著 ちくま文庫 ISBN 978-4-480-02516-6
関連楽曲 [編集]
脚注 [編集]
- ^ 「双」は「雙」の略字だが、番付では初土俵のときの誤記とおぼしき「二葉山」以外は全て「双葉山」と表記されていた。
- ^ 1933年5月場所などは4勝のうち3勝がうっちゃりによるものだった。
- ^ この場所中に祖母が死去したこともあり、悲しみを乗り越えるために猛稽古に取り組んだ成果とも取れる。
- ^ ただし、直後の大日本相撲選士権大会や10月の大阪大場所では玉錦に敗れている。
- ^ 不戦勝1回を含む。
- ^ 歴代大関一覧によると、昭和以降に大関になった力士で大関在位期間が全勝なのは双葉山ただ1人である。大正時代には栃木山守也が2場所・19勝1預0敗で横綱に昇進している。
- ^ これが遠目には安藝ノ海が右外掛けを掛けたかのように見えたため、翌日の各新聞は「安藝ノ海の右外掛け」と誤って報じた。当時ベテラン記者の彦山光三が「カメラとて正確とは限らん」と言ったとも伝わる。
- ^ 双葉山以降の横綱は、全員この記録を超えることは出来ていない。2010年に白鵬翔が63連勝を挙げたが、あと一歩及ばなかった。
- ^ 現在でも年寄名跡継承等の点から親方の娘との結婚が見られる。
- ^ ちなみに現在でも時津風部屋は、「双葉山相撲道場」の看板を正式な部屋名とともに掲げている。後年北葉山が入門した時、「時津風部屋はどこですか?」と聞いても誰も知らず、「“道場”ならそこだよ」と教えられたという。
- ^ 璽光尊こと長岡良子も、逮捕後に精神鑑定が行われた結果、「誇大妄想性痴呆症」と診断されて食糧管理法違反も「違法性なし」と判断され、不起訴となった。
- ^ 『歴史秘話ヒストリア』2012年5月30日放送
- ^ ただし、白鵬翔は2007年7月場所から2013年3月場所現在までの横綱在位34場所で456勝54敗(勝率8割9分4厘)で、双葉山の勝率を現在のところ上回っている。
- ^ なお双葉山生家付近に「二葉山神社(ふたばやまじんじゃ)」という神社があるが、これは地元に江戸時代以前から存在していた神社である。
- ^ 大相撲コラム 番狂わせに至ったある伏線(昭和14年春場所4日目 双葉山VS安藝ノ海)
- ^ 1936年5月場所~1937年1月場所は11戦全勝、1937年5月場所~1938年5月場所は13戦全勝。
- ^ 1939年1月場所は13日制。
- ^ 蓄膿症により全休
- ^ 1分
- ^ 脇腹疼痛により12日目から途中休場
- ^ アメーバ赤痢により7日目から途中休場
- ^ 面疔により2日目から途中休場
関連項目 [編集]
- 横綱一覧
- 古今十傑
- 時津風部屋
- スポーツ無敗記録一覧
- 垣添徹 - テレビドラマで少年時代の双葉山を演じた経験のある力士
外部リンク [編集]
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