出羽海部屋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索
Dewanoumi Beya.JPG

出羽海部屋(でわのうみべや)は、日本相撲協会所属の相撲部屋。現存する部屋では最多の9人の横綱を育てたほか、3人が協会理事長を務めるなど相撲界随一の名門とされている。12の相撲部屋からなる出羽海一門の本家。

目次

[編集] 沿革

初代出羽ノ海寛政前頭筆頭・出羽海運右エ門である。出羽ノ海部屋を開き大関市野上浅右エ門らを育てた。1808年文化5年)に鹿間津滝右エ門年寄名跡を継承したが部屋は閉じられた。桂川立吉が出羽ノ海となったのは1862年文久2年)のこと。現出羽海部屋は桂川を現部屋の創設者としている。4代出羽ノ海の常陸山虎吉横綱常陸山らを育て、常陸山谷右エ門が後継者(5代)となると出羽ノ海部屋は栄華を極めた。

常陸山は大錦栃木山常ノ花の3横綱に對馬洋九州山大ノ里常陸岩の4大関を育てるなど、多くの力士を幕内まで仕立て上げた。1917年大正6年)1月場所から1921年(大正10年)5月場所までは、出羽ノ海部屋所属の力士で10場所連続優勝を占め(栃木山5回、大錦4回、常ノ花1回)、これは現在でも大相撲記録である(ほかに九重部屋1985年昭和60年)9月場所から1987年(昭和62年)3月場所まで記録)。

常陸山が1922年(大正11年)に死去すると弟子の両國(6代出羽海)が継いだ。両國は年寄名跡の「ノ」を取り出羽海と改称した。これは先代に畏敬を込めてのことらしい。両國の代でも部屋の勢いが消えることはなく、1931年(昭和6年)1月場所・3月場所では番付の西方片側の20名を全て出羽海部屋の幕内力士で占めるほどだった。

その後7代(常ノ花)、8代(出羽ノ花)と継承される間にも多くの横綱・大関らを輩出した。常陸山が1900年明治33年)1月場所に関脇に昇進してから横綱千代の山が引退する1959年(昭和34年)1月場所まで60年間138場所にわたり、常に三役力士を輩出してきたことも大きな伝統のひとつと言える。1968年(昭和43年)、横綱佐田の山は30歳の若さで引退すると出羽ノ花は部屋を譲った。佐田の山(9代)は部屋経営の傍ら協会の仕事にも従事していたが、協会の運営に専念するため1996年平成8年)に鷲羽山(10代)に継承させた。

歴代の出羽海は協会運営の重要職を司り、5代・6代は筆頭取締、7代・8代・9代は協会理事長を務めた。

長年「分家独立を許さず」という不文律があったが、1981年(昭和56年)に元横綱三重ノ海武蔵川部屋を創設して以降、中立部屋(現在は境川部屋に改称)と田子ノ浦部屋が独立している。1999年平成11年)7月場所には101年ぶりに所属幕内力士が消えたものの、その後鳥羽の山普天王といった幕内力士を輩出した。しかし2010年(平成22年)5月場所には部屋唯一の十両普天王負け越し幕下に陥落。それにより1898年(明治31年)5月場所、元横綱常陸山が十両に昇進以来112年ぶりに関取が番付から消えた[1][2]

[編集] 所在地

[編集] 師匠

[編集] 力士

[編集] 現役の関取経験力士

[編集] 横綱・大関

[編集] 横綱

[編集] 大関

[編集] 幕内

[編集] 関脇

[編集] 小結

[編集] 平幕

[編集] 十両

[編集] 所属年寄

  • 出来山双一(できやま そういち、関脇・出羽ノ花、青森)
  • 山科盛夫(やましな もりお、小結・大錦、新潟)
  • 高崎昭和(たかさき あきかず、前2・小城ノ花、千葉)
  • 中立康照(なかだち やすてる、小結・小城錦、千葉)
  • 稲川有樹(いながわ ゆうき、小結・普天王、熊本)
  • 千田川龍水(せんだがわ りゅうすい、前6・金開山、長崎)

[編集] 行司

[編集] 脚注

  1. ^ 出羽海部屋112年ぶり関取消滅か”. デイリースポーツ (2010年5月23日). 2011年1月26日閲覧。
  2. ^ 日本人大関は魁皇だけに 琴光喜の解雇処分で”. デイリースポーツ (2010年7月5日). 2011年1月26日閲覧。
個人用ツール
名前空間

変種
操作
案内
ヘルプ
ツールボックス
他の言語