玉垣部屋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

玉垣部屋(たまがきべや)は、大日本相撲協会(現・日本相撲協会)に所属していた相撲部屋

明治時代[編集]

江戸時代から雷部屋伊勢ノ海部屋と並んで隆盛しており、明治期には8代目(前歴未詳・原庭玉垣)の門下で横綱初代梅ヶ谷大関大鳴門関脇鞆ノ平等が育ち、玉垣も筆脇から筆頭(現在の相撲協会理事長)を務めるなど全盛期であった。1881年の死去後は十両長山が継承するも早逝し、その後幕内緋縅が継承するも現役死亡、幕下の浦ノ海が継承するも徐々に衰退し、1905年死去により閉鎖。尾車部屋大戸平)に弟子は移籍した。その後玉垣の名跡は玉垣部屋所属だった平ノ石が継承し部屋再興の意思があったが1925年に44歳で死去し、系統は絶えた。

江戸時代には雷部屋伊勢ノ海部屋と並んで隆盛していた玉垣部屋も、明治になって閉鎖され、後継者が出なかった。

玉垣一門[編集]

幕末から明治10年代までの玉垣部屋からは初代梅ヶ谷をはじめ多くの力士が誕生した。梅ヶ谷は弟子育成でも能力を発揮し、明治20年代から玉垣部屋が急速に衰退する一方で雷部屋、友綱部屋が隆盛し雷一門、友綱一門を形成していった。

大正中期頃までの玉垣部屋とその系統の部屋。