北の富士勝昭

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北の富士 勝昭 相撲力士
基礎情報
四股名 竹沢 勝昭 → 竹美山 勝明 → 北の冨士 勝明 → 北の富士 勝明 → 北の富士 洋行 → 北の富士 勝昭 → 北の富士 勝晃 →北の富士 勝昭
本名 竹澤 勝昭
愛称 現代っ子横綱・香車・槍烏賊
若手三羽烏・名門の二男坊
イレブン横綱・プレイボーイ横綱
夜の帝王
生年月日 1942年3月28日(72歳)
出身 北海道旭川市
身長 185cm
体重 135kg
BMI 39.44
所属部屋 出羽海部屋九重部屋
得意技 突っ張り、左四つ、寄り、上手投げ外掛け
成績
現在の番付 引退
最高位 第52代横綱
生涯戦歴 786勝427敗69休(105場所)
幕内戦歴 592勝294敗62休(64場所)
優勝 幕内最高優勝10回
十両優勝1回
殊勲賞2回
敢闘賞1回
技能賞3回
データ
初土俵 1957年1月場所
入幕 1964年1月場所
引退 1974年7月場所
引退後 井筒部屋九重部屋師匠
他の活動 NHK大相撲解説者
備考
金星1個(大鵬1個)
2014年3月22日現在

北の富士勝昭(きたのふじ かつあき、1942年3月28日 - )は、北海道旭川市(出生は網走郡美幌町)出身の元大相撲力士。本名は竹澤 勝昭(たけざわ かつあき)得意技は突っ張り、左四つ、寄り、上手投げ、外掛け。

来歴[編集]

誕生~入門[編集]

1942年3月28日に北海道網走郡美幌町で生まれる。6歳の時に留萌市へ転居して留萌市立留萌小学校へ入学すると、当時北海道で最強であった軟式野球チーム「萌友会」に入団し、主力投手として活躍する。留萌市立港南中学校に進学後も軟式野球の投手で4番を務めるなど、チームの最主力選手として活躍するが、後に父親の食堂経営が行き詰まったために旭川市へ移り住み、旭川市立光陽中学校に転校した。

1954年のある日、故郷・留萌で大相撲の北海道巡業が行われていたので家族で見に行ったところ、恵まれた体格をした少年を見つけた横綱・千代の山から直々に声をかけられ、これがきっかけで相撲に興味を持つようになった。その後も軟式野球を続けていたが、現役横綱から直接声をかけられたことが忘れられず、北海高等学校北海道旭川南高等学校北海道留萌高等学校の各野球部と、北海道増毛高等学校(当時の全国優勝校)・北海道天塩高等学校の各レスリング部(当時の全道準優勝校)から熱心に勧誘されていたが、全てを断って中学校卒業と同時に出羽海部屋へ入門した。[1]

初土俵~十両で全勝[編集]

1957年1月場所、竹美山という四股名で出羽海部屋から初土俵を踏む。入門のために上京した際に船酔いしてしまい、これが原因で体重が激減してしまった。新弟子検査では体重不足として不合格だったが、前場所から施行された「自費養成力士制度」によって前相撲に進むことができた(この制度は1年で廃止)。3月場所は計量直前に大量の水を飮んで体重基準を通過した。

あまりにも痩せていたことから期待に反して出世は遅れ、当時制定されていた「30場所で幕下へ昇進できなければ廃業」の規約をもう少しで適用され、廃業を余儀なくされるところだったが、当人もそれを知って奮起したという。入門当初は先輩力士や親方ではなく、部屋付きの式守鬼一郎の付き人も務めていた。

1960年には三段目まで昇進していたが、同年の夏巡業で北海道に滞在中、先輩力士からリンチに近い猛稽古の制裁を受け、急性虫垂炎と腹膜炎を併発した。それでも巡業に同行したものの、実家のある旭川市に到着したところで体調が限界に達したため入院、50日間に及ぶ入院生活を送った[2]。このため、後援者から「験直しのために四股名を変えたらどうか」との勧めを受け、同年9月場所から「北の冨士」と改名している。[3]

1963年3月場所で、ようやく十両に昇進した。そして、1963年11月場所では十両で史上3人目の15戦全勝優勝を達成した。[4]

入幕~大関昇進[編集]

1964年1月場所で新入幕を果たすと、この場所では13勝2敗という新入幕力士最多勝の新記録[5]樹立という好成績で敢闘賞を受賞した。この場所、北の冨士と同じように好成績を挙げた清國勝雄若見山幸平とともに「若手三羽烏」と呼ばれた。同年3月場所に小結へ昇進すると同年7月場所には関脇に昇進、その取り口は「スピード相撲」と称された。

1965年5月、柏戸剛大鵬幸喜と共に拳銃をハワイから密輸入し、その証拠隠滅を図ろうと廃棄していたことが発覚して書類送検されたが、日本相撲協会からの処分はなかった。

1966年7月場所後に大関に昇進するが、昇進直前3場所の成績は8勝7敗・10勝5敗・10勝5敗の合計28勝17敗で、15日制が定着した1949年5月場所以後では北葉山と並ぶ最低の数字である。北の冨士の大関昇進場所当時、豊山(初代)の一人大関という番付の事情があったとはいえ、昇進基準が現在より甘かった当時でも意外と言われた大関昇進だった[6]

それ故か北の冨士自身、新大関が決まった時も、まさか自分が大関に昇進するとは思っていなかったため何も用意しておらず、大関昇進の決定伝達を行う日本相撲協会からの使者を迎える際に必要な紋付や足袋も全く持っていなかった。そのため、紋付は当時兄弟子であった佐田の山から、足袋は足の大きさが同じだった柏戸から借りて、出羽海部屋での昇進伝達式に間に合わせたという。

悲願の横綱へ[編集]

大関時代に九重が出羽海部屋からの分家独立を申し出て破門された際には、九重に付いていくか出羽海に留まるか大いに悩んだという。そして出した決断は、九重に付いて行き、所属も九重部屋に変えることだった。それまでは佐田の山がいたために2番目の気楽な立場に甘んじていたが、独立後は部屋頭となった。独立後最初の場所となる1967年3月場所では、佐田の山を倒して14勝1敗で初優勝を決め、一緒に移籍した松前山武士も十両優勝した。

だが初の綱獲りが期待された1967年5月場所は、過度の緊張と稽古不足から5勝10敗、次の1967年7月場所も7勝8敗と、大関の地位で2場所連続で負け越しを喫してしまう[7]。初の大関角番となった1967年9月場所は、四股名の「冨」に点を付けて「」と改めて臨み、10勝5敗で角番を脱した。しかし、その後もしばらくは10勝前後の成績に留まり、その間に清國・玉乃島らの綱獲り挑戦(失敗)も発生した。

1969年9月場所は大関・玉乃島と最後まで優勝を争い12勝3敗の好成績を挙げ、11月場所は13勝2敗で16場所ぶり2回目の幕内優勝を果たす。場所後に協会は、北の富士の横綱昇進を横綱審議委員会に諮問したが、全委員の反対によって却下された[8]。それでも1970年1月場所を再び13勝2敗で連覇を達成し、場所後に行われた横綱審議委員会でも文句無しの評価を受け、同場所の優勝決定戦で北の富士に敗れ優勝同点だった玉乃島と共に横綱へ昇進した。大関21場所での横綱昇進は、当時の最長記録だった。[9]

横綱昇進・玉の海との対戦[編集]

同時昇進した玉の海(玉乃島が横綱昇進と同時に改名)とは最大のライバルだったが、「島ちゃん」「北さん」と呼びあう親友でもあった。歴代横綱の親睦会である「横綱会」に玉の海と並んで初出席した際、新横綱のしきたりとして一芸を披露することになり、玉の海のギターに合わせて北の富士が歌を歌い、栃錦清隆に「びっくりした。時代が変わったものだねぇ」と言われた。

北の富士の横綱土俵入りは雲龍型で行っていたが、1971年8月の巡業で例外がある。この時の巡業は北海道を中心に巡回したA班(北の富士が参加)と、東北地方から信越へ向かったB班(玉の海が参加)に別れて行われていたが、B班が秋田県八郎潟町での巡業中、玉の海が急性虫垂炎を起こして入院した。この一報を聞いたA班は北海道岩見沢市での巡業を終えて帰京しようとした矢先だったため、北の富士がB班に加入して土俵入りを行うこととなった。しかし、現地にある玉の海用の綱は北の富士と異なる不知火型だったうえ、玉の海の付き人の力士が雲龍型の綱締めを知らなかったため、北の富士は玉の海の土俵入り用具一式を借りて不知火型の土俵入りを行った。巡業とはいえ、横綱として雲龍型・不知火型両方の土俵入りを行ったことは史上初だった[10]

両者の対戦は、1964年5月場所 - 1971年9月場所の45場所間に43回実現し、千秋楽結びの一番の対戦は8回、千秋楽両者優勝圏内の対戦が2回あった。千秋楽(太字)は、千秋楽結びの一番を示す。

場所 対戦日 北の富士勝敗
(通算成績)
玉の海勝敗
(通算成績)
優勝力士 備考
1964年5月場所 千秋楽 ●(0) ○(1) 栃ノ海 初対戦
1964年7月場所 - - - 富士錦 対戦なし。
1964年9月場所 7日目 ●(0) ○(2) 大鵬
1964年11月場所 4日目 ○(1) ●(2) 大鵬
1965年1月場所 14日目 ○(2) ●(2) 佐田の山
1965年3月場所 13日目 ●(2) ○(3) 大鵬
1965年5月場所 8日目 ○(3) ●(3) 佐田の山
1965年7月場所 11日目 ○(4) ●(3) 大鵬
1965年9月場所 3日目 ●(4) ○(4) 柏戸
1965年11月場所 9日目 ●(4) ○(5) 大鵬
1966年1月場所 - - - 柏戸 対戦なし。
1966年3月場所 2日目 ●(4) ○(6) 大鵬
1966年5月場所 14日目 ●(4) ○(7) 大鵬
1966年7月場所 千秋楽 ○(5) ●(7) 大鵬
1966年9月場所 千秋楽 ●(5) ○(8) 大鵬 北の富士、大関昇進
1966年11月場所 11日目 ●(5) ○(9) 大鵬 玉乃島、大関昇進
1967年1月場所 11日目 ○(6) ●(9) 大鵬
1967年3月場所 10日目 ○(7) ●(9) 北の富士(1)
1967年5月場所 12日目 ○(8) ●(9) 大鵬
1967年7月場所 千秋楽 ○(9) ●(9) 柏戸
1967年9月場所 千秋楽 ○(10) ●(9) 大鵬
1967年11月場所 11日目 ●(10) ○(10) 佐田の山
1968年1月場所 11日目 ●(10) ○(11) 佐田の山
1968年3月場所 13日目 ●(10) ○(12) 若浪
1968年5月場所 13日目 ●(10) ○(13) 玉乃島(1)
1968年7月場所 12日目 ○(11) ●(13) 琴桜
1968年9月場所 10日目 ●(11) ○(14) 大鵬
1968年11月場所 千秋楽 ○(12) ●(14) 大鵬
1969年1月場所 千秋楽 ○(13) ●(14) 大鵬
1969年3月場所 12日目 ●(13) ○(15) 琴桜
1969年5月場所 10日目 ○(14) ●(15) 大鵬
1969年7月場所 10日目 ○(15) ●(15) 清国
1969年9月場所 11日目 ●(15) ○(16) 玉乃島(2)
1969年11月場所 千秋楽 ○(16) ●(16) 北の富士(2)
1970年1月場所 千秋楽 ●(16) ○(17) 北の富士(3) 千秋楽北の富士1敗、玉乃島2敗で対戦 優勝決定戦は北の富士勝利。
1970年3月場所 千秋楽 ○(17) ●(17) 大鵬 北の富士、玉乃島とも横綱に昇進
1970年5月場所 13日目 ○(18) ●(17) 北の富士(4)
1970年7月場所 千秋楽 ○(19) ●(17) 北の富士(5)
1970年9月場所 千秋楽 ○(20) ●(17) 玉の海(3)
1970年11月場所 13日目 ●(20) ○(18) 玉の海(4)
1971年1月場所 13日目 ●(20) ○(19) 大鵬
1971年3月場所 13日目 ●(20) ○(20) 玉の海(5)
1971年5月場所 千秋楽 ○(21) ●(20) 北の富士(6) 千秋楽北の富士全勝、玉の海1敗で対戦
1971年7月場所 千秋楽 ●(21) ○(21) 玉の海(6)
1971年9月場所 千秋楽 ○(22) ●(21) 北の富士(7) 最後の対戦
  • 両者横綱昇進以前の対戦成績(1970年1月場所まで)は、玉の海の17勝16敗
  • 両者横綱同士の対戦成績(1970年3月場所以降)は、北の富士の6勝4敗

北の富士と玉の海の対戦は、両者が交互に優勝を重ねて「北玉時代」とも言われたが、長くは続かなかった。巡業中に入院した玉の海が、1971年9月場所後に虫垂炎が悪化したために緊急入院する。早急に手術して経過は順調だったが、退院前日だった同年10月11日、併発した右肺動脈幹血栓症による急性冠症候群で急逝した。玉の海の早過ぎる死に、巡業先の滋賀県米原町(現:米原市)で訃報を聞いた北の富士は、人目をはばからず号泣した。同年11月場所に13勝2敗で8回目の優勝を連覇で遂げた千秋楽の11月28日は、玉の海の四十九日の法要が行われたため、北の富士は優勝パレードを後回しにして駆けつけた。

不振・物言いが付く貴ノ花戦[編集]

玉の海との突然の別れから間もない1971年11月場所中、暴力団関係者からの祝儀を受けたことが発覚したため、協会から戒告処分を受ける。事件そのものについても文部省(当時)が警告文書を出すなど、土俵外のトラブルが発生した。土俵でも一人横綱の最初の場所こそ優勝を果たしたが、その後は不振が続いてしまう。

3連覇の期待がかかり、優勝争いの本命とみられていた1972年1月場所では、初日にいきなり大関・琴櫻との取組が組まれて敗れると、8日目の関脇・貴ノ花戦では、北の富士のつき手かばい手か、貴ノ花が生き体か死に体なのかで大きな話題となった。木村庄之助は北の富士の付いた手が「つき手」と見て貴ノ花に軍配を上げたが、物言いによって北の富士の勝ちとなった(決まり手は浴びせ倒し)。しかし、2005年に貴ノ花が亡くなった際、この取組が思い出として多く取り上げられるようになると、北の富士は「あの大相撲は、本当は俺の負け。俺の手は『かばい手』では無く『つき手』で、しかも貴ノ花は完全な『生き体』だった。当時は認めたくなかったが今は認める。生涯に残る相撲」と涙ながらに振り返っている。[11]

その後、10日目まで6勝4敗、さらに12・13日目と連敗する乱調ぶりで、14日目より胃炎・高血圧などの体調不良で途中休場となった(7勝7敗1休)。これにより、1967年9月場所 - 1971年11月場所まで続いた通算(幕内)連続勝ち越しは26場所で止まった[12]。北の富士の不振によって、この場所は千秋楽まで4敗が3人、それを5敗の力士5人が追う大混戦となった。[13]

3月場所も序盤から取り零しが続いて早々に優勝争いから脱落し、勝ち越したものの9勝6敗に終わる。その同年3月場所7日目、貴ノ花との結びの一番では、北の富士が左足で外掛けをかけながら貴ノ花を土俵外へ追い詰めたが、土俵際で両者がほぼ同時に倒れ込み、またも物言いが付く大相撲となった。式守伊之助の軍配は北の富士に挙がったが、協議によって北の富士の左足が僅かに先に出ていたと判定され、北の富士の勇み足・行司差し違えで貴ノ花の勝利となる。この一番は先場所も北の富士のつき手・かばい手を巡って揉めており、二場所連続同じ顔合わせで立行司が軍配を差し違えてしまう珍事となった。

加速する不振~現役引退[編集]

次の5月場所、北の富士は8日目まで3勝5敗の絶不調、9日目には横綱として前代未聞の「不眠症」で途中休場した。休場するには医師の診断書が必要であるが、極度の不振とはいえ、身体に悪いところはどこにも見当たらない。困った医師はそこで「夜は眠れるか?」と問い、北の富士は調子が上がらない悩みから「最近寝付きが悪い」と否定したので、「ならば不眠症だな」と医師がようやく診断書を書いた、というエピソードが本人の口から語られている。続く7月場所を右手中指の脱臼で全休したが、休場中にハワイへ旅行をしていたことが明るみに出て協会から注意を受けた。北の富士は直ちに帰国して詫び、場所後の夏巡業に参加した。

同年9月場所は3回目の全勝優勝を果たして完全復活をアピールするが、一人横綱の8場所中で輪島大士(同5月場所)と高見山大五郎(同7月場所)が初優勝を果たし、貴ノ花と輪島が同時に大関昇進(同9月場所後)するなど、角界の世代交代が進む結果となった。1973年1月場所後に琴櫻が横綱へ昇進して2人横綱となると、3月場所には14勝1敗で10回目の優勝を果たし、7月場所にも14勝1敗で琴櫻と決定戦を行うなど、健在ぶりを印象づけた。だが、それ以後の1年間は皆勤が1場所だけと急速に衰えていき、3場所連続休場後に迎えた1974年7月場所で初日に旭國斗雄、2日目に大受久晃と連敗して体力の限界を感じ、現役を引退した。

引退後[編集]

年寄・井筒(12代)を襲名し、引退相撲は翌1975年2月2日に行われ、太刀持ち・北の湖、露払い・輪島を従えて横綱土俵入りを執り行っている。断髪式の後に白のタキシード姿で登場し、自らの持ち歌を披露して会場・関係者を驚かせた。また、短期間に40kg近いダイエットを敢行し、ダイエット後のスリムな容姿で周囲を驚かせた。現在でも元力士とは思えぬ体型を維持している。

井筒部屋(現在の部屋と別系統)を興したが、1977年に千代の山が没すると、自らの井筒部屋と合同させる形で九重部屋を継承した。その後、先代から引き継いだ千代の富士を第58代横綱に育て上げ、昭和の大横綱として大成させた。1987年には北勝海を第61代横綱に育成、さらに孝乃富士巴富士を小結まで昇進させた。特に千代の富士とのやりとりは漫才の掛け合いのように軽妙で、しきたりの多い角界には珍しく映ったこともあり、千代の富士が一気に横綱まで駆け上がった際には記事の題材によく取り上げられていた。一方で、前妻と離婚して不惑を超えてから元ホステスと再婚したり、交友関係や部屋の力士養成員(北天佑勝彦の弟だった)の素行不良に対する制裁を指揮していた疑惑をかけられるなど、スキャンダルで紙面を賑わすことも多かった。なお、千代の富士の大関昇進時の伝達式では独身だったため、亡き千代の山の夫人に同席をお願いしている。

1981年7月場所後、千代の富士が横綱に昇進した時には、「ウルフ(千代の富士のあだ名)、辞める時はスパッと潔く・綺麗に辞めような。チンタラチンタラと横綱を務めるんじゃねえぞ」と、千代の富士に引き際の美学を説いた[14][15]。当時の千代の富士は面食らいながらも、1991年5月場所限りで引退した時は正にこの言葉通り、潔いものだった。1992年には引退したばかりの千代の富士に九重部屋を譲って、年寄・18代陣幕に名跡交換[16] 、自身は北勝海の興した八角部屋に移籍した。1992年5月場所直前には、まともに相撲が取れる状態ではないにもかかわらず出場した北勝海に対して、既に部屋を千代の富士に譲っていたにも関わらず、北の富士は北勝海を諭し、北勝海に引退を決意させたといわれている。

審判部副部長(役員待遇)時代に不祥事(知人の暴力団員を横綱千代の富士の結婚式に出席させていた)を起こし、一度委員(無任所)に降格されながらも審判部副部長に返り咲き、理事昇格後は長らく審判部長を務めた。その後は新設された広報部長を務めた。

相撲協会を退職・ホテルで還暦土俵入り[編集]

1998年に相撲協会理事選の候補から外された[17]ことで日本相撲協会を退職し、その後はNHK専属で相撲解説を務めている。大関以上の経験者がNHK専属相撲解説者になるケースは、テレビ放送開始以来初めてである。解説者としては歯に衣着せぬ切れ味鋭く、かつわかりやすい解説が好評を博しており、同相撲解説者の舞の海秀平らと共に、現在大相撲中継の名物ともなっている。

2002年2月には満60歳を祝い太刀持ち・千代の富士(九重親方)、露払い・北勝海(八角親方)と共に横綱昇進を果たした、かつての弟子二人を従えての還暦土俵入りが行われた。だが相撲協会から退職していたために両国国技館が使えず、都内のホテルを借りての土俵入り披露となった。

解説者として[編集]

取り組み前後にNHKアナウンサーと北の富士の会話において、様々な語録が披露されている。

自身が「黄金の引き足」と言われたほど、引き技の切れが鋭かったことから、千代大海龍二千代天山大八郎北勝力英樹の引き技による自滅など、ふがいない相撲に対しては容赦ない叱責が飛ぶこともあった。千代天山が引き技で敗北した際、「げんこつをあげたくなるくらい悪い相撲」と酷評した。この時は、取組前まで千代天山の素質などを大いに褒めていたが、九重部屋及び八角部屋の(自身の孫弟子となる)力士に対するコメントは引き技に関するもの以外でも辛いことが多い。その一方で、解説者(それも優勝10回を誇る横綱経験者)であるにも関わらず、特定の力士(松鳳山、舛ノ山等)についてファンだと発言するなど、一方的な解説者目線に限定されない角度からの相撲の見方も好評を得ている。2010年より東京中日スポーツにて自伝「はやわざ御免」を連載している。

2004年
  • 9月場所千秋楽で、北勝力が土佐ノ海敏生に四つ相撲で敗れた。この場所、北勝力は終盤の5連敗で5勝10敗。「土佐ノ海は四つ相撲でもそれなりに取れるけど、北勝力は四つに組んだら何にもならない。自分から四つに組んでいるようにも見える。どうしようもないねぇ、こんなんじゃあ」と酷評。この日実況担当の刈屋富士雄も「そうですか」としか言えなかった。北勝力が勝っても「まあ、今日は良かったんじゃないですか」程度で、負ければ北勝力の相撲を切り捨てている。2010年初場所で北勝力が琴光喜啓司を倒した時には絶賛していた。
2006年
  • 魁皇には何度も横綱昇進の期待を裏切られたためか、7月場所では好調にも関わらず「期待してませんから」と酷評していた。その予感通り、魁皇は終盤に失速し9勝6敗に終わった。ところがその後北の富士は、長期間大関の地位を務め続けていることに敬意を評しており、他大関陣が優勝争いに絡まないことに関しても魁皇に限っては非難しなくなった。ある日北の富士は魁皇に対して「一代年寄をあげてもいい」とも発言したが、後日その話題を振られると「そんなこと言いましたっけ?」と発言した。
2007年
  • 9月場所千秋楽では白鵬 - 千代大海の結びの一番で、「まぁ、白鵬が負けるとは思えないですけどねぇ。何ならあれですか、坊主にでもしましょうか?」といった発言をしたことがある。[18]
2008年
  • 7月場所のある取組で、舞の海秀平が真面目に解説していると、北の富士は自分の出番では無いからと大欠伸をこれ見よがしにする。それを向正面から見た舞の海は「北の富士さんに聞いたほうが良いんじゃないですか?」と突然話を振って慌てさせたが、中継終了後に「急に話しかけるんじゃないよ!」と叱られたという。しかし、数日後の中継では突然「それは僕(北の富士)よりも舞の海さんの方が知ってるでしょ」と同じ手口の仕返しをして喜んでいた。
  • 9月場所のある取組の終了後、その相撲についてアナウンサーから質問されたが、「ご、ごめん。ちょっ、ちょっとよく見てなかった」と、解説者としてあるまじき発言。それを聞いたアナウンサーは「(大相撲力士大麻問題が大きく世間を騒がしていたのを利用して)角界の将来のことを考えていたのでしょうか…」と上手にフォローしていた。
  • 11月場所、角番ではなかった千代大海に対して取組直前に「(千代大海は)どうせ今場所(も)角番でしょ?」と言い放つ。その大きな勘違いにアナウンサーは絶句し、「さすがにそれは(千代大海に)失礼だと思いますが…」と言われていた。
2009年
  • 1月場所8日目、正面ゲストにかつて土俵上で激しくしのぎを削った輪島大士が登場した際に、ラジオ中継の解説をしている姿が映されたが、帽子にジャンパーという極めてラフな格好だった。輪島に関しては「岩みたいだった」という表現で当時の強さを語った。
  • 3月場所12日目、把瑠都が栃煌山雄一郎を吊り出しで破った相撲の後に、「栃煌山は吊られっ放しじゃなくてもっと抵抗しないと!『シャケ』じゃないんだから…」「お歳暮の鮭でも、もうちょっと恰好よく釣られてるよ」と発言した。さらに同日、高見盛精彦安美錦竜児に勝利した際に安美錦が膝を痛めたことに、高見盛がいつも通りに意気揚々と引き上げず、安美錦を心配そうにしながら引き上げたことに「相手に気遣うこともできて、見ていて清清しいね」と絶賛した。毒舌だけじゃなく、素直に褒めることもあるところが解説者として人気の要因として考えられる。
  • 3月場所千秋楽、248kgの山本山龍太が登場した際、13日目の豊ノ島大樹戦で機敏な動きに付いて行って勝利したことに対して「あれはただのデブじゃないと思いましたね」と発言した。
  • 9月場所初日、日馬富士公平の取り組みの際、体重についてもう少し増えれば強くなるだろうという話になった直後、「日馬富士はいま25歳? この間会った時、『27・8歳になったらもう少し体重が増えてくるよ』と言っておきましたよ。まぁ、何の根拠もないんですけどね」と言っていた。ところが日馬富士は28歳の年齢で横綱昇進を果たしている。
  • 9月場所千秋楽、把瑠都が5大関全員から白星を挙げる快挙を成し遂げたにもかかわらず殊勲賞の該当者がいなかったことに対し、「まぁ、いまの大関達にはそれだけの価値がないってことですよね、弱いから」と言い放った。それに対しアナウンサーは「確かに元気のない大関もいましたが、元気のある大関もいましたので…」とフォローしていた。さらに、この場所で朝青龍が優勝することが奇跡だと予想していたことから朝青龍が優勝したことで、向正面解説の舞の海へ「まんまとして、またやられたな、舞の海さん。明日は二人で床屋行くか?」と発言した。
  • 11月場所10日目、横綱・朝青龍との取組が組まれた大関・千代大海に対して、この時点で千代大海は大関角番で2勝7敗だったが、まだ取組前にも関わらず「まぁ、こうして引導渡してくれるのが横綱でよかったんじゃないですか?」と言い放った。これは潔さを美学とする北の富士ならではの発言。結果北の富士の予想通りに、千代大海は朝青龍に吊り出しで敗れ2場所連続負け越し、65場所の間連続維持した大関陥落が決定した。
2010年
  • 7月場所前に発覚した大相撲野球賭博問題により、史上初の大相撲生中継の中止が決まった。その余波を受け、北の富士は名古屋へ一度も足を運ぶことなく、ずっと東京に滞在していたという(同じく舞の海も解説せず)。9月場所は中継を再開することが決まったが、その件について「職を失わないでよかったよ」「(名古屋場所中は)中継がないから、夕方4時頃から酒を飲んで酔っぱらってたよ」と苦笑いしながらコメントしていた。[19]
2012年
  • 5月場所千秋楽に琴欧洲勝紀が休場して栃煌山雄一郎に不戦勝を与えたことについて、八角(北勝海)が「優勝に関わる相撲で大関が休場してこんな形になっては観客に申し訳ない。昨晩のうちに(休場が)判っていれば割り返しで対応出来たのに、今日になってからでは遅過ぎる。こんなことでは本人も師匠も『自覚が足りない』と言われても仕方が無い。協会の危機管理能力も問われかねない事態」と苦言を呈した。これを聞いた北の富士は琴欧洲の休場について「あってはいけないこと。這ってでも出て欲しい。勝ち名乗りの前なら間に合うから休場届を取り消して土俵に来てくれないか」と言っていた。この日、向正面で解説していた舞の海秀平も「逆の立場で琴欧洲が優勝争いの先頭だったら土俵に上がっていたと思う」と全く同じ意見で、最後に2人は口を揃えて「『不戦勝での優勝決定』という最悪の事態にならないためにも、(琴欧洲は)休むべきではない」と発言していた。
  • この場所は旭天鵬勝と栃煌山雄一郎の史上初となる平幕力士同士の優勝決定戦となり、旭天鵬が制して初優勝した。優勝パレードではアナウンサーから「白鵬が『(優勝)旗を持ちたい』と言っているそうです」と聞き、「オープンカーにもう1人乗れるでしょ? 先代大島親方(旭國)で決まりだよ」と発言[20]。実際に、パレードカーには先代大島親方も同乗していた。
2014年
  • 3月場所千秋楽、大坂敏久アナウンサーから話を振られたがそれに気付かなかった。「あさっての方向を向いていた北の富士さんですが」と中継中によそ見をしていたことを指摘された際「いや、知り合いがいたもんだからね」と弁解。北の富士の奔放な性格を物語る発言である。

「北の富士賞」[編集]

北の富士自身が1963年11月場所で達成して以来、十両の地位での15戦全勝優勝は長らく出てなかった[21][4]。このため、十両で終盤まで全勝の力士がいると「もし全勝優勝したら僕からも何かやりたいね」と言っていた。

2006年3月場所、把瑠都凱斗が十両で北の富士以来43年ぶりに15戦全勝を達成すると、実況のアナウンサーによって全勝を祝い「北の富士賞」として紹介された。把瑠都の十両優勝インタビューの際に、アナウンサーが「北の富士関は横綱まで行きましたが、把瑠都関はどこまで行きたいですか?」と言った時、北の富士は「横綱、横綱」と発言するなど横綱昇進を期待していた。その後の把瑠都は2010年5月場所で大関昇進を果たし、2012年1月場所には14勝1敗で幕内初優勝。しかし翌3月場所に綱獲りに挑んだが失敗、さらに度重なるケガに泣き2013年1月場所で関脇陥落、それから十両まで陥落し2013年9月場所前に現役引退となった。

人物[編集]

立合いの搗ち上げから左四つ右上手を引いての速攻、前へ出ながらの投げあり外掛けありと躍動感ある取り口だった。引き技も早かった。また左脇が固く、右四つの型をもつ玉の海に右差しを許すことがほとんどなく、これは千代の山譲りといわれる。外掛けも自信があり「俺の外掛けを内掛けに返したのは玉の海くらいだ」と言っていた。勢いに乗ると手がつけられないが、反面守勢にまわると脆く、無謀な首投げ二丁投げをみせてかえって体勢が悪くなることもあった。

現役当時から栃王山とキャバレー「月世界」を共同経営し、札幌市名古屋市で相撲料理店「ちゃんこ 北の富士」を経営するなど、熱心に副業を手がけていた。さらに、低音を生かした歌声が評価されてレコード吹き込みを勧められ、1967年に発売した「ネオン無情/チャンコ花唄」は50万枚を売り上げた[22][23]。その後も何枚かレコードを出して、1969年には当時の人気歌番組「夜のヒットスタジオ」にも「歌手」として出演している(曲は「君を慕いて」)。しかし、大関で成績が停滞していた時期と重なったために、相撲解説者の天竜三郎から「本職は歌手で相撲は内職だろう」と批判されたこともあり、横綱昇進後は歌手との兼業を控えるようになった(2007年に三保ヶ関が28年振りにリリースした新曲「水玉のスカーフ」のカップリング曲、「女房に捧ぐ」では三保ヶ関とのデュエットで久々に歌声を披露している[24])。

エピソード[編集]

  • サインを求められる際に「何か言葉を入れてください」と頼まれても、「忍耐」「努力」とは書かなかったという。本人曰く「『努力』と書いて努力しなかったらみっともない」「琴櫻関ならピッタリくるけどワシが書いても似合わない」。これらの行動から、稽古嫌い・ルーズな横綱と誤解されがちだが、実際には四股股割りなどの基本は念入りに行っていたなど、相撲の基礎は疎かにしておらず、決して稽古嫌いではなかった。
  • 元大関・清國とは幕内の取組で52回も対戦したが、これは当時の歴代最多記録だった(現在は史上3位[25])。
  • 2014年1月場所終了時点で、十両と幕内の双方で15戦全勝優勝を達成した唯一の力士である。
  • 現役当時、様々なニックネームがあった。前述の通りレコードを発売し、当時では珍しかったボウリングやゴルフ、サーフィンを嗜み、「根性という言葉は嫌い」と宣言していたことから現代っ子横綱、1970年9月場所 - 1971年3月場所まで4場所続けて11勝4敗という結果を揶揄され、当時の人気深夜番組「11PM」に例えてイレブン横綱(横綱での勝率も11勝4敗に近い数字である)、派手な遊びっぷりから新聞記者に付けられたプレイボーイ横綱夜の帝王などが有名である。北の富士も「俺ほど色んな呼ばれ方をされた横綱はいなかったんじゃないかな」と振り返っている。
  • 『大相撲ジャーナル』2013年10月号のコラムでは同年3月場所の優勝インタビューで観客に対して大鵬に対する黙祷を求める、7月場所の優勝インタビューでこの場所を最後に引退する龍皇について話す、雑誌『相撲』の表紙写真として部屋の序ノ口(当時)と2人で映るなどの白鵬の行為を「どれも私事じゃないかな」と指摘し、公私混同であるとして批判した。

改名歴[編集]

四股名[編集]

  • 竹沢 勝昭(たけざわ かつあき):1957年1月場所 - 1959年3月場所
  • 竹美山 勝明(たけみやま かつあき):1959年5月場所 - 1960年7月場所
  • 北の冨士 勝明(きたのふじ かつあき):1960年9月場所 - 1967年7月場所
  • 北の富士 勝明(きたのふじ - ):1967年9月場所 - 1968年1月場所
  • 北の富士 洋行( - ひろゆき):1968年3月場所[26]
  • 北の富士 勝昭( - かつあき):1968年5月場所 - 1971年1月場所
  • 北の富士 勝晃( - かつあき):1971年3月場所 - 1972年5月場所
  • 北の富士 勝昭( - かつあき):1972年7月場所 - 1974年7月場所(現役引退)

年寄名[編集]

  • 井筒 勝昭(いづつ かつあき):1974年7月9日 - 1977年11月4日
  • 九重 勝昭(ここのえ - ):1977年11月4日 - 1992年4月1日
  • 陣幕 純樹(じんまく じゅんき):1992年4月1日 - 1994年11月6日
  • 陣幕 克昭( - かつあき):1994年11月6日 - 1998年1月31日(退職)

主な成績[編集]

  • 通算成績:786勝427敗69休 勝率.648
  • 幕内成績:592勝294敗62休 勝率.668
  • 大関成績:208勝107敗 勝率.660
  • 横綱成績:247勝84敗62休 勝率.746
  • 現役在位:105場所
  • 幕内在位:64場所
  • 横綱在位:27場所
  • 大関在位:21場所
  • 三役在位:11場所(関脇9場所、小結2場所)
  • 連勝記録(幕内):21(1971年9月場所初日 - 1971年11月場所6日目)
  • 年間最多勝:3回(1969年:63勝27敗、1970年:75勝15敗(玉の海と同数)、1971年:73勝17敗)
  • 連続6場所勝利:78勝(1969年9月場所 - 1970年7月場所)
  • 通算(幕内)連続勝ち越し記録:26場所(現在歴代7位タイ、玉錦と並んで歴代2位タイ・1967年9月場所 - 1971年11月場所)
  • 幕内連続2桁勝利記録:11場所(1969年9月場所 - 1971年5月場所)
  • 幕内連続12勝以上勝利:6場所(1969年9月場所 - 1970年7月場所)

各段優勝[編集]

  • 幕内最高優勝:10回(全勝3回)(1967年3月場所、1969年11月場所、1970年1月場所、1970年5月場所、1970年7月場所、1971年5月場所、1971年9月場所、1971年11月場所、1972年9月場所、1973年3月場所)
同点:1回
次点:3回
  • 十両優勝:1回(1963年11月場所)

三賞・金星[編集]

  • 三賞:6回
    • 殊勲賞:2回 (1966年1月場所、1966年3月場所)
    • 敢闘賞:1回 (1964年1月場所)
    • 技能賞:3回 (1964年5月場所、1964年11月場所、1966年5月場所)
  • 金星:1個(大鵬1個)

場所別成績[編集]

北の富士勝昭
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1957年
(昭和32年)
(前相撲) 新序
2–1
 
東 序二段 #131
3–5
 
x 東 序二段 #123
4–4
 
西 序二段 #104
4–4
 
1958年
(昭和33年)
東 序二段 #91
6–2
 
西 序二段 #58
1–7
 
西 序二段 #76
6–2
 
東 序二段 #39
3–5
 
西 序二段 #46
2–6
 
西 序二段 #61
5–3
 
1959年
(昭和34年)
東 序二段 #48
6–2
 
東 序二段 #16
6–2
 
東 三段目 #93
6–2
 
東 三段目 #65
2–6
 
西 三段目 #78
3–5
 
西 三段目 #83
3–5
 
1960年
(昭和35年)
西 三段目 #94
7–1
 
西 三段目 #51
4–4
 
西 三段目 #48
4–4
 
東 三段目 #47
2–5
 
西 三段目 #67
休場
0–0–7
西 三段目 #102
6–1
 
1961年
(昭和36年)
東 三段目 #62
5–2
 
東 三段目 #27
4–3
 
西 三段目 #14
5–2
 
西 幕下 #81
6–1
 
西 幕下 #54
2–5
 
東 幕下 #70
5–2
 
1962年
(昭和37年)
西 幕下 #45
5–2
 
西 幕下 #32
4–3
 
西 幕下 #29
6–1
 
東 幕下 #11
3–4
 
西 幕下 #12
3–4
 
西 幕下 #15
6–1
 
1963年
(昭和38年)
西 幕下 #4
6–1
 
西 十両 #18
9–6
 
東 十両 #11
10–5
 
東 十両 #6
4–11
 
東 十両 #17
11–4
 
西 十両 #5
優勝
15–0
1964年
(昭和39年)
東 前頭 #10
13–2
東 小結
4–11
 
東 前頭 #5
9–6
西 関脇
9–6
 
東 関脇
6–9
 
東 前頭 #1
10–5
1965年
(昭和40年)
西 関脇
8–7
 
西 関脇
5–10
 
東 前頭 #3
8–7
東 前頭 #2
8–7
 
東 小結
10–5
 
東 関脇
9–6
 
1966年
(昭和41年)
東 関脇
10–5
東 関脇
8–7
東 関脇
10–5
東 関脇
10–5
 
西 大関
10–5
 
東 大関
10–5
 
1967年
(昭和42年)
東 大関
10–5
 
東 大関
14–1
 
東 大関
5–10
 
西 大関
7–8
 
西 張出大関
10–5[27]
 
東 大関
8–7
 
1968年
(昭和43年)
東 張出大関
10–5
 
西 大関
9–6
 
西 張出大関
10–5
 
東 張出大関
10–5
 
東 張出大関
8–7
 
西 大関
11–4
 
1969年
(昭和44年)
西 大関
11–4
 
西 大関
9–6
 
東 張出大関
9–6
 
西 大関
9–6
 
東 張出大関
12–3
 
西 大関
13–2
 
1970年
(昭和45年)
東 大関
13–2[28]
 
東 横綱
13–2
 
西 横綱
14–1
 
東 横綱
13–2[29]
 
東 横綱
11–4
 
東 張出横綱
11–4
 
1971年
(昭和46年)
東 張出横綱
11–4
 
東 張出横綱
11–4
 
東 張出横綱
15–0
 
東 横綱
8–7
 
西 横綱
15–0
 
東 横綱
13–2
 
1972年
(昭和47年)
東 横綱
7–7–1[30]
 
東 横綱
9–6
 
東 横綱
3–6–6[31]
 
東 横綱
休場[32]
0–0–15
東 横綱
15–0
 
東 横綱
10–5
 
1973年
(昭和48年)
東 横綱
10–5
 
西 横綱
14–1
 
東 横綱
9–6
 
東 張出横綱
14–1[33]
 
西 横綱
8–3–4[34]
 
東 張出横綱
10–5
 
1974年
(昭和49年)
東 張出横綱
3–6–6[35]
 
東 張出横綱
休場[36]
0–0–15
東 張出横綱
休場[37]
0–0–15
東 張出横綱
引退
0–3–0
x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 十両・幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

関連項目[編集]

大相撲[編集]

出身地[編集]

人物[編集]

作品[編集]

著書[編集]

  • 九重勝昭『爆笑大相撲 角界ウラばなし』日之出出版 1983
  • 九重勝昭『速攻管理学 "勝ち"をつかむ人材は、こうして育てろ!』(日之出出版、1988年)
  • 九重勝昭『土俵で燃えろ 北の富士一代』(東京新聞出版局、1991年)
  • 北の富士勝昭『土俵愛 国技・大相撲復興のための四十八手 緊褌一番』(日之出出版、2009年)ISBN 4-89198-131-0 C0075

レコード[編集]

  • 『ネオン無情』(1967年テイチクレコード、SN-586) - シングル盤
  • 『北の富士“艶歌”をうたう』(1967年、テイチクレコード) - LPレコード盤

脚注[編集]

  1. ^ 数々の勧誘を全て断り大相撲に進んだ背景には中学の野球部の活動で右肘を故障してしまい、高校入学までに治る見込みがなかったという事情があった。
  2. ^ 東京中日スポーツ・2010年6月24日付 「はやわざ御免 - わが相撲人生」
  3. ^ ただし9月場所はまだ入院中で全休しており、実際には次の11月場所からこの四股名で土俵に上がった。
  4. ^ a b 15日制が定着した1949年5月場所以降、十両での15戦全勝は北の冨士の他に栃光正之豊山勝男把瑠都凱斗がいる。その後、3人全員とも大関に昇進している。
  5. ^ 北の冨士が初優勝した1967年3月場所で陸奥嵐がタイ記録を樹立した。
  6. ^ 近年の報道によれば「三役地位に3場所連続で在位し、かつその合計の勝ち星が33勝以上」が大関昇進の目安と言われているが、協会はその目安を否定している。平成以降では千代大海稀勢の里が合計32勝で新大関となった例外もある
  7. ^ 当時は、「大関の地位で3場所連続負け越した場合は、関脇へ陥落」となっていた。1969年7月場所以降に現在の規定(大関で2場所連続負け越した場合は関脇へ陥落)に変更。
  8. ^ その後、横綱審議委員会で横綱昇進を見送られた力士は、25年経った1994年9月場所後の貴乃花光司がいるが、貴乃花も同年11月場所後に横綱昇進を決めている。
  9. ^ 現在は琴櫻傑將(1967年11月場所 - 1973年1月場所)・武蔵丸光洋1994年3月場所 - 1999年5月場所)の32場所。
  10. ^ この後、不知火型の土俵入りをしている白鵬が、宇佐神宮の奉納土俵入りで雲龍型の土俵入りを行ったことがある。これは、大分県宇佐市は白鵬が崇拝する双葉山の故郷であり、双葉山の土俵入りが雲龍型であった為、これに敬意を表する形で行ったことによるものである。
  11. ^ その後、日本相撲協会には「貴ノ花が勝っていたのではないか?」という抗議が殺到した。この一番を裁いた木村庄之助は進退伺いを協会に提出して出場停止処分を受けたが、3月場所前に廃業した。
  12. ^ 1972年1月場所であと1勝して勝ち越せば、当時の連続勝ち越し記録の第1位だった玉の海の27場所と並んでいた。
  13. ^ 加えて、大麒麟將能前の山太郎の二大関が全休または途中休場、琴櫻・清國の大関同士の取組が14日目にあったため、千秋楽結びの一番に清國と前頭5枚目・栃東知頼が相撲を取る事態となった(千秋楽では琴櫻と関脇・三重ノ海剛司の対戦も組まれたが、番付上は清國が大関上位だったため、琴櫻 - 三重ノ海戦は結び前となった)。栃東が敗れれば10勝5敗の力士8人による優勝決定戦となるところで栃東が勝利・初優勝を果たしたが、11勝4敗の成績は15日制となった1939年5月場所以来で最低だった(1944年5月場所 - 1949年1月場所は15日制ではなかった。15日制に戻って定着した時期は1949年5月場所からで、1996年11月場所に武蔵丸が5人での優勝決定戦の末、11勝4敗で優勝している)。
  14. ^ 春日野栃錦清隆の横綱昇進時にこれと同様の言葉を語っている。北の富士は、栃錦と親しかった師匠の千代の山を通じてこの話を聞かされていたという。
  15. ^ 自著でも部屋の力士たちの士気に与える影響を考えて心が折れたものは早々と次の人生を歩ませる方針を主張している。
  16. ^ あまりに早い名跡交換だったためか、新・九重の千代の富士がその事実を失念してしまい、色紙にサインする際に「陣幕」とサインしそうになったというエピソードが大相撲放送の解説中で語られている。
  17. ^ 一門内で行われた予備選挙で千代の富士が自身を支持しなかったことが原因となって候補から外された。
  18. ^ 1994年の役員改選で新設の広報部長に就任したが、頭部に動脈瘤が発見されて手術を受けている。審判部を離れたことで解説者としてテレビに出ることとなったが、手術の際に剃髪したため、角刈りに近い短髪姿で登場したことがある。
  19. ^ NHK中継再開 白鵬「世界中のファンが喜ぶ」スポニチ
  20. ^ 旭國は同年4月に停年(定年)退職するまで、師匠として旭天鵬の面倒を見ていた。
  21. ^ 十両の好成績力士は幕内と対戦させられるため、優勝は11勝4敗ないし10勝5敗といった水準に留まることが多い。平成期には十両陣が総崩れで、9勝6敗の力士8人によるトーナメントでの十両優勝決定戦が行われたこともある(2001年7月場所。優勝者は武雄山喬義)。この時は優勝者なしにすべきだなどの意見も出たほどであった。好成績の十両優勝をした大善尊太湊富士孝行でも12・13番に留まり、14勝・全勝は極めて珍しいことである。十両で12勝以上勝つということはそれだけで傑出した実力の証といえる。
  22. ^ 相撲人名鑑(北の富士 勝昭)(2008年9月19日閲覧)
  23. ^ 北の富士さん一喝!「高砂が悪い」…朝青龍問題スポーツ報知、2007年8月12日。
  24. ^ どちらも作詞・内館牧子、作曲・船村徹で、二人とも横綱審議委員会メンバーである。
  25. ^ 1位は武蔵丸 - 貴ノ浪の58回、2位は魁皇 - 千代大海の54回。
  26. ^ 姓名判断で勝明の名では交通事故に遭うと言われた際、「ならせめて海外旅行に行きたいなあ」と思って「洋行」に改名したといわれる。
  27. ^ 1969年5月場所以前の「3場所連続負け越しで大関陥落」の制度の下での大関角番
  28. ^ 玉乃島と優勝決定戦
  29. ^ 前乃山と優勝決定戦
  30. ^ 神経性胃炎・高血圧・慢性腸炎により14日目から途中休場
  31. ^ 不眠症により9日目から途中休場
  32. ^ 右手中指第 2関節脱臼及び捻挫により全休
  33. ^ 琴櫻と優勝決定戦
  34. ^ 左第11肋骨骨折により11日目から途中休場
  35. ^ 高血圧により9日目から途中休場
  36. ^ 右膝関節捻挫により全休
  37. ^ 右膝関節捻挫により全休

外部リンク[編集]