青函連絡船
| 駅名・桟橋名 | 営業キロ(航路距離) |
|---|---|
| 青森駅・青森桟橋(地図) | 113.0km |
| 函館駅・函館桟橋(地図) |
青函連絡船(せいかんれんらくせん)は、1908年(明治41年)から1988年(昭和63年)までの間、青森県の青森駅と北海道の函館駅との間を結んでいた日本国有鉄道(国鉄)・北海道旅客鉄道(JR北海道)の鉄道連絡船である。航路の名称は青函航路、営業キロ上の距離は113.0km[1] (擬制キロ)で、津軽海峡という特定海域(国際海峡)を横断するため、他の国鉄連絡船とは異なり沿海航路扱いとされていた。
旅客と鉄道車両の他に自動車航送(指定駅のみどりの窓口で予約が可能)も行っていた。
津軽海峡フェリー、青函フェリーの国鉄・JR以外の会社による運航、および鉄道院による連絡船就航以前の沿革については青函航路を参照。
目次 |
[編集] 概要
青函連絡船は旅客に加え、船尾より船腹に鉄道車両をそのまま積み込んで津軽海峡を越える鉄道連絡船であり、言うなれば「海の上の鉄路」であった。
運航区間は基本的には青森と函館(含む有川桟橋)の間であったが、小湊や室蘭発着という変則的な航路も一時ではあるが存在した。
[編集] 桟橋
青函航路の名のとおり、岸壁は青森駅に3岸壁・函館駅に2岸壁があった。また、1944年(昭和19年)1月から1984年(昭和59年)2月1日までは、五稜郭駅の貨車操車場(通称有川操車場、五稜郭貨物駅)に直結していた貨物専用の有川桟橋があった。有川には2岸壁があり、それぞれを函館3岸・4岸と呼んでいた。
- 室蘭港の臨時桟橋
- 1967年(昭和42年)9月、室蘭本線の豊浦 - 洞爺間が集中豪雨で不通となったため、室蘭港に未使用の橋梁を運び込んで臨時の簡易可動橋を設置し、青森との間で代行輸送が行われた。使用船舶は檜山丸(初代)・空知丸(初代)[2]。
- 小湊桟橋
- 1943年(昭和18年)、軍需工場への石炭輸送のため建設が始まるが敗戦で中断していたものを、GHQの命令で再開し、1946年(昭和21年)2月に完成した木造桟橋。平内町大字東滝字浅所にあり、現在は漁港となっている[3]。
- 西の小湊駅と、東の貨物駅への支線も造られ、1946年(昭和21年)3月1日からGHQより貸与された戦車揚陸艦(3,590t、20両積載)を使用し函館との間に就航していたが、8時間もかかる上に横須賀まで給油に戻らなければならないなど問題が多く、翌年2月で運行休止した。1948年(昭和23年)10月には連絡船岸壁も完成したが使用されないまま、1965年(昭和40年)3月廃止された[4]。
[編集] 運賃・料金
運賃・料金はすべて廃止時のものである。また、普通運賃はこども半額であったがそれ以外の料金は大人子供同額。
なお、国鉄(JR)の鉄道・バス路線と航路とを乗り継ぐ場合には、それぞれ別々に運賃・料金を計算したが、航路を間に挟んで国鉄(JR)の鉄道路線を利用する場合、前後の鉄道路線の営業キロは通算し、そこに青函航路の運賃を加算する方法がとられていた(通過連絡運輸に準じた取扱い)。例えば東京から東北本線・青函航路・函館本線経由で札幌に行く場合、運賃は東北本線と函館本線の営業キロ数を通算した運賃と、青函航路の運賃の合計となった。
乗用車の航送は、車の長さが3mまでが9,700円、4mまでが12,900円、5mまでが16,200円、5mをこえ5.3mまでが21,100円であった。自転車は700円で、オートバイ・スクーターは125cc以下のものが1,100円、125ccをこえるものは2,200円であった。
[編集] 旅客輸送と利用状況
[編集] 最盛期
青函航路は、本州・北海道間の一般的な移動手段が鉄道であった時代には、メインルートの一部を担っていた。青森発着の特別急行列車(「はつかり」「みちのく」「白鳥」など)や夜行列車(特急「はくつる」、「ゆうづる」、急行「八甲田」、「十和田など)、函館発着の優等列車(特急「おおぞら」、「北斗」、「北海」、「おおとり」、急行「宗谷」、「ニセコ」、すずらん」など)や夜行普通列車は、青函連絡船との接続を重視したダイヤを組み、函館では深夜・早朝に発着する例も見られたが、札幌での時間を有効に使えることから、利用率はかなり高かった。
なお、上野駅 - 青森駅を結ぶ寝台特急「ゆうづる」は、最盛期には7往復が設定され、青森県内での有効時間帯を重視したダイヤ以外に、青函連絡船接続を意図したダイヤも組まれていた。また、各列車の列車番号と、接続する青函連絡船の便名は揃えられていた[5]。
列車が青森駅や函館駅に到着した際、あるいは連絡船がそれぞれの桟橋に着岸した際には、目指す船や列車の席(自由席)を確保しようとする乗客でプラットホームや跨線橋がごった返す様子もみられ、荷物を抱えた乗客が競って駆け出すことから「桟橋マラソン」と呼ばれる光景を見せていた。ときには「積み残し」(接続する連絡船が定員を超えて乗船できないこと)が起こることもあった[6]。
多数の乗客を安定的に輸送するため、本航路では、青森駅・函館駅での接続列車の指定券を持つ乗客を最優先に乗船させる施策をとった。航路廃止時(1988年(昭和63年)3月13日)には、函館と札幌方面を結ぶ函館本線の特急「北斗」には、全車指定席の便が1往復設定されていたが、これは、青函航路連絡の乗客の乗車を確実なものとするためであった。次に優先されたのは優等列車の乗客で、青森、函館発着の特急列車・急行列車の車内では、優等列車からの乗継を区別するため、「特」の文字や赤い線が印刷された乗船名簿を配布する方法が用いられた。
[編集] 末期の状況
本州・北海道を結ぶ動脈の役割を担った青函連絡船は、貨物が1971年(昭和46年)に855万3033トン、旅客が1973年(昭和48年)に利用者498万5695人を数え、それぞれピークを迎えたが、航空機とフェリーの利用の増加、国鉄の鉄道利用客(旅客と荷主)の減少などの要因により、1974年(昭和49年)以後は利用が減少傾向に転じ、「国鉄離れ」の加速で歯止めが効かずに末期には閑散とした状況を呈した[7]。
利用客数は最末期で年間に約200万人であった。しかし廃止が決定されてからの1年間は260万人に利用客が増えた。その多くが青函連絡船に別れを惜しんでやってきた者たちであり、それまで一度も連絡船に乗ったことのない者までが、「お別れ乗船」のために全国から訪れた。普段であれば冬季間は閑散とした状況であったのだが、1988年(昭和63年)1月から3月の土日には、臨時便(臨時客扱便)が出されるほどの活況を呈した[8]。
[編集] 廃止とその後
1988年(昭和63年)3月13日の青函トンネルの開通に伴い、同日をもって青函航路は廃止され、本州と北海道との連絡は青函トンネルを走る快速「海峡」や、新たに設定された寝台特急「北斗星」などにゆだねられた。
その後、青函トンネル開通記念博覧会に合わせて同年6月3日から9月18日まで1日2往復の復活運航がなされた。これが終了した翌9月19日で青函連絡船は廃止となり、津軽海峡から完全に姿を消した。なお、この期間は通常営業時は入ることができなかった操舵室や車両甲板が公開され、荒天でない時は後部の積み下ろし口を航海中に開くサービスもあった。
廃止後20年以上が経過した現在でも、青森駅には連絡船の案内表示や桟橋の可動橋へ向かう線路など、青函連絡船の痕跡が数多く残っており、函館駅や有川桟橋周辺にも着岸の際に目標として用いていた標識などが今でも僅かに残っている。
[編集] 貨物・荷物・郵便輸送の状況
1986年(昭和61年)には、国鉄が荷物・郵便輸送から撤退したのに伴い、青函連絡船での郵便輸送が廃止され、貨物輸送も廃止前日の1988年(昭和63年)3月12日に終了した。
[編集] 自動車航送(二輪車等含む)の状況
1967年(昭和42年)6月1日より乗用車の航送を開始。当初は2往復のみの取り扱いであった。自動車航送は1便あたりの搭載台数こそ少ないものの(積載台数は12台-最大13台搭載[9])、積み下ろしの待ち時間が少ないこと、発着場所がそれぞれの都市の中心駅であることなどから、ターミナルが郊外に位置する東日本フェリーとの棲み分けが成立しており、固定需要があった。
津軽丸型で行われていた自動車航送は、露天の遊歩甲板後部に乗用車を搭載していたため、荒天時や海象の良くない場合の航送の際には、波しぶきが航送車両にかかることもあった。1982年(昭和57年)に石狩丸と檜山丸が貨客船に改造され、自動車航送も取り扱うようになると、石狩・檜山の両船では船体内部に自動車を収容して航送を行うようになった。
自動車の航送は青森1岸、函館2岸に着岸する甲便、丙便で行われていたため、通常、客扱いをしていない便でも行われていた。そのため日本交通公社などから発売されていた日本国有鉄道監修時刻表の、国鉄の営業案内ページの連絡船に関する部分には航送船の時刻表が掲載されており、欄外には「時刻表本文に載っていない便は、乗用車・自転車・オートバイ・スクーター航送の運転者・同乗者以外はご利用になれません」と書かれていた。乗用車は、青森1岸ではスロープによる乗降、函館2岸ではエレベーターによる乗降であった。
[編集] その他
船内の廃棄物は海峡の途中で投棄していたが、下北半島の国定公園等に漂着して美観を損ねたり、陸奥湾内の沿岸に漂着するなどして漁業被害も出るようになったため、1971年(昭和46年)12月1日より船内の廃棄物は函館に陸揚げし陸上で処理するようになった[10]。
[編集] 歴史
- 1908年(明治41年)3月7日 - 帝国鉄道庁(国鉄)が運航を開始[1]。最新鋭の蒸気タービン船比羅夫丸(ひらふまる)が就航し、青森 - 函館間を4時間で結んだ。鉄道直営の津軽海峡連絡船自体は日本鉄道によって計画され、連絡船自体も同社によって発注されていたが、就航は同社の国有化後になった。
- 1910年(明治43年)12月15日 - 函館側で艀(はしけ)による乗客の乗降を岸壁からの直接乗降に。青森側は地盤が悪く工事が難航したため、1923年(大正12年) より。
- 1914年(大正3年)12月10日 - 初の鉄道車両艀車運丸」が就航。限定的に貨車航送を開始[11]。
- 1924年(大正13年)5月21日 - 初の自航形鉄道車両渡船「翔鳳丸」が就航。
- 1925年(大正14年)8月1日 - 青森・函館間で本格貨車航送開始。車両渡船に貨車を直接車載できることから、従前のはしけによる貨物輸送に比して輸送効率が著しく改善された。
- 1934年(昭和9年)3月21日 - 低気圧による荒天で浸水・座礁など相次ぎ被害多数。飛鸞丸は浸水による操舵困難に加え、アンテナ線が切れたため通信不能となって一時遭難が疑われる事態となった。なお、この日は函館大火が発生している。
- 1944年(昭和19年)11月17日 - 従来の函館桟橋に加え有川桟橋が竣工。貨物専用で供用開始。
- 1945年(昭和20年)
- 1946年(昭和21年)
- 1947年(昭和22年)12月12日 - 吹雪・大シケで出航見合わせ中にRTOタイラー顧問が進駐軍専用船の石狩丸に函館出航を命令。難航の末丸一日がかりで青森に到着する事態に。この事態を受けてRTOの船舶管理部への対応が見直される事になった。
- 1950年(昭和25年)10月1日:日本人用の列車でも、一等寝台車に限り客車の航送を開始。
- 1951年(昭和26年)5月9日:津軽海峡への浮流機雷流入によって連絡船の夜間運航中止。約5年間に渡って断続的に旅客便の夜間運航の中止(乗船客は船内待機、夜明けを待って出港)、接続列車の不接続など運航ダイヤの混乱が続いた。
- 1954年(昭和29年)9月26日:台風15号(洞爺丸台風)に伴う暴風雨が原因で、航行中の洞爺丸が函館郊外の七重浜に座礁し転覆。他に僚船4隻(第十一青函丸・北見丸・十勝丸・日高丸)が沈没。あわせて1430人の犠牲者を出した。いわゆる国鉄戦後五大事故の一つに数えられる洞爺丸事故である。これを機に客車航送は中止。この事故を契機に青函トンネル計画が具体化されることになった。
- 1955年(昭和30年)7月5日:航路を所管する函館船舶管理部と函館地区の国鉄線を所管する青函鉄道管理局を統合し青函船舶鉄道管理局が発足。
- 1956年(昭和31年)6月1日:1等船室を2等A寝台船室に格下げし、3等級制(1等・2等・3等)から2等級制(2等・3等)に改正。
- 1961年(昭和36年)7月:1等指定席を新設。自在腰掛(リクライニングシート)で座席確保が確実なため好評となる。
- 1964年(昭和39年)
- 1965年(昭和40年)10月:旅客便の運航時間を3時間50分に統一。
- 1967年(昭和42年)6月1日:同日青森発の「十和田丸」より自動車航送開始。当初は「津軽丸」形7隻の遊歩甲板後部に建造当初から施工されていた自動車積載準備工事部分の使用による普通乗用車(及びそれに準ずる寸法・重量の貨物自動車)6台積みだったが、最終的には12台積みとされた。ただ、甲板上の露天状態であったため、後年国鉄では洗車のサービスを行った。
- 1968年(昭和43年)5月16日:十勝沖地震により岸壁・可動橋に被害が発生して客扱い・自動車航送が一時停止。
- 1970年代前半には1日30往復もの運航が行われることもあったが、その後は旅客需要の航空移転や民間フェリー航路の整備に伴い、客貨ともに輸送量が急激に減少した(最盛期は1973年(昭和48年)の約498万人)。
- 1975年(昭和50年)8月27日 - 8月31日:函館本線、室蘭本線土砂崩れで不通のため、函館港 - 室蘭港間で連絡船による列車代行を実施。摩周丸、十和田丸が就航し上下あわせて約15000人を輸送。
- 1977年(昭和52年)3月7日:青函航路開設70周年を記念し各連絡船の「シンボルマーク」を発表。後に船体に掲示。
- 1980年(昭和55年)
- 7月21日:「マリーンガール」登場。以降夏の観光シーズンに観光案内等乗客のサービスにあたる。
- 10月:「船長のサインカード」配布開始。
- 1984年(昭和59年)
- 1986年(昭和61年)10月6日:70万キロ航海達成(羊蹄丸)。
- 1987年(昭和62年)
- 1988年(昭和63年)
[編集] 就航船(就航順)
- 比羅夫丸 : 1907年3月就航、1924年10月終航。大阪商船に賃貸後、1929年大阪商船に売却。
- 田村丸 : 1907年4月就航、1924年12月終航。一時復航後、1929年大阪商船に売却。
- 車運丸 : 艀型(無動力)貨車航送船。1914年12月就航、1927年6月終航。
- 白神丸(木造貨物船) : 1918年6月就航。1925年9月係船。
- 竜飛丸(木造貨物船) : 1918年10月就航。1926年4月係船。
- 第一快運丸(経理局保有の石炭輸送船) : 1919年4月就航。1925年9月係船。
- 第二快運丸(経理局保有の石炭輸送船) : 1919年4月就航。1925年9月係船。
- 桜島丸(艀曳船) : 1920年就航。1927年終航。
- 壱岐丸・三菱長崎 : 元関釜・稚泊連絡船。1922 - 1924年青函航路就航。1932年大阪商船に売却(樺太丸)。1945 - 47年青函航路復帰。
- 翔鳳丸・浦賀 : 1924年5月就航、1945年7月14日、空襲沈没。青函航路初の車両渡船。
- 津軽丸 : 1924年10月就航、1945年7月14日、空襲沈没。
- 松前丸 : 1924年11月就航、1945年7月14日、空襲炎上座礁。
- 飛鸞丸 : 1924年12月就航、1945年7月14日、空襲沈没。
- 第一青函丸(貨車航送船第一船) : 1926年12月就航、1945年7月15日、空襲沈没。
- 第二青函丸(貨車航送船) : 1930年9月就航、1945年7月14日、空襲沈没。
- 第三青函丸(貨車航送船)・浦賀 : 1939年11月就航、1945年7月14日、空襲沈没。
- 新羅丸 : 元・関釜連絡船 1942 - 1945年就航、1945年5月、触雷沈没
- 第四青函丸(貨車航送船)・浦賀 : 1943年3月就航、W型戦時標準船の原型、1945年7月14日、空襲沈没。
- 第五青函丸(貨車航送船)・浦賀 : 1943年12月竣工
- 第六青函丸(貨車航送船)・浦賀 : 1944年3月竣工、1945年7月14日、空襲沈没。浮揚復航後1964年5月終航。
- 第七青函丸(貨車航送船)・浦賀 : 1944年7月就航、1964年12月終航。
- 第八青函丸(貨車航送船)・浦賀 : 1944年11月就航、1964年11月終航。
- 第九青函丸(貨車航送船)・浦賀 : 1945年2月15日竣工、2月27日函館へ回航中勝浦沖で米潜水艦を警戒して座礁、沈没。一度も営業就航することなく沈没した。
- 第十青函丸(貨車航送船)・浦賀 : 1945年6月就航、1945年7月14日、空襲沈没。
- 亜庭丸 : 元・稚泊連絡船。1945年7月転属就航、1945年8月10日、空襲沈没。
- 景福丸 : 元・関釜連絡船。1945 - 1948年青函航路就航。1950 - 1956年函館桟橋脇で海上ホテルとして営業(運営は鉄道弘済会)。1958年10月解体。
- 壱岐丸(第2代目) : 元関釜連絡船。1945 - 1948年青函航路就航。国家賠償として1950年に朝鮮郵船へ譲渡。
- 第十一青函丸(貨車航送船) : 1945年10月就航、1954年9月26日、台風沈没。
- 宗谷丸 : 元・稚泊連絡船。1945年10月 - 1950年10月、1954年10月 - 1954年12月青函航路就航。
- 第十二青函丸(貨車航送船) : 1946年5月就航、1965年7月終航。
- 石狩丸(貨車航送船) : 1946年7月就航、1965年9月終航。
- 昌慶丸 : 元・関釜連絡船、洞爺丸事故後、乗組員訓練船として函館港に繋留。
- 洞爺丸 : 1947年11月就航、1954年9月26日、台風沈没。
- 北見丸(貨車航送船) : 1948年2月就航、1954年9月26日、台風沈没。
- 十勝丸(貨車航送船) : 1948年4月就航、1954年9月26日、台風沈没。1956年浮揚復航、1970年3月終航。青函航路に最後まで残ったタービン船だった。
- 羊蹄丸 : 1948年5月就航、1965年6月終航。
- 渡島丸(貨車航送船) : 1948年7月就航、1965年8月終航。1950年10月洞爺丸と同時に日本の商船初のレーダーを取り付け。
- 摩周丸 : 1948年8月就航、1964年10月終航。
- 日高丸(貨車航送船) : 1948年10月就航、1954年9月26日、台風沈没。1956年浮揚復航、1969年9月終航。
- 大雪丸 : 1948年11月就航、1964年8月終航。1964年に三洋商事を通じてギリシャに売却されカーフェリーに改造、1991年12月6日アドリア海において沈没。
- 徳寿丸 : 元・関釜連絡船1954年 - 1957年洞爺丸の代船として旅客便に限定就航。青函航路撤退後下関に係留。1961年解体。
- 檜山丸(貨車航送船) : 1955年9月就航、1976年7月終航。1954年の台風で失った船の代船として建造された第1船。青函航路初のディーゼル機関。以後建造船はすべてディーゼル機関。
- 空知丸(貨車航送船) : 1955年9月就航、1976年2月終航。台風で失った船の代船。
- 十和田丸・新三菱重工業神戸 : 1957年10月就航、1966年10月終航。洞爺丸の代船として活躍後、貨車航送船に改造。石狩丸(2代目)として1967年5月就航、1977年3月終航。
- 津軽丸(2代目)・浦賀 : 1964年5月10日就航。青函航路初の自動化第1船。客船ながら、これまでの貨車航送船よりも多い48両の貨車を積載する大型船。速力も在来船の4時間30分から3時間50分になり「海の新幹線」といわれた。以後建造船はすべて津軽丸型。1982年3月4日下り5便で運航終了。1983年3月に北朝鮮に売却。その後再び転売されメッカ巡礼船となったが、エジプト政府に差し押さえられた。1998年に係留中に火災が発生し、同年12月14日にスエズで解体された。函館桟橋跡地に津軽丸の錨があるが、売却の際に取り外された本物であるという説と、各船の予備錨のひとつであるという説がある。
- 八甲田丸 : 1964年8月12日就航、1988年3月13日下り7便、青森側最終便として運航終了。現在、青森駅北側の旧桟橋に係留され、「メモリアルシップ八甲田丸」として見学可能。自力航行は不可能で「船舶」ではない。
- 松前丸(2代目) : 1964年12月1日就航。津軽丸と本船は他船と甲板補機などの機器の違いが多かったことが早期に廃船となった理由とされる。1982年11月12日下り21便で運航終了。1983年に落札され、翌年北朝鮮に転売。数年間元山港に係留されていたが解体された。
- 大雪丸(2代目) : 1965年5月16日就航、1988年1月6日検査期限により航路廃止よりやや早く終航した(下り171便函館着6時25分)。札幌五輪の聖火輸送船。売却後長崎港でホテルシップ「VICTORIA」として使用されたが、2005年12月20日営業終了。2008年5月2日中国の船舶会社が買収し、福建省に回航。中国へ行った後は詳細不詳。
- 摩周丸(2代目) : 1965年6月30日就航、1988年3月13日下り5便として運航終了。現在、函館駅近くの「函館市青函連絡船記念館摩周丸」として見学可。
- 羊蹄丸(2代目) : 1965年8月就航、1988年3月13日上り22便、函館側最終便として運航終了(青森到着後、夜半に函館に回航)。同年の復活運航でも使用された。終航後は日本海事科学振興財団(船の科学館)が取得。1992年にジェノヴァ国際博覧会 日本館パビリオンとして使用後、1996年3月から2011年9月まで東京都品川区東八潮(お台場地区)にて船の科学館別館「フローティングパビリオン羊蹄丸」として保存展示された。
- 十和田丸(2代目) : 1966年11月1日就航。1988年3月13日上り20便として運航終了(青森到着後、夜半に函館に回航)。同年の復活運航でも使用された。「津軽丸」型では最も新しく、1981年にドック入りした際横揺れを制御するフィンスタビライザーを装着された。羊蹄丸などとともに、周遊船として夏期などを中心に航路外運航にも活躍していた。売却後、1990年3月にクルーズ客船「ジャパニーズドリーム」となり、6月には函館及び青森に寄港し、里帰りを果たした。その後、フィリピンのマクタン島にホテルシップとして係船されていたが、2008年にバングラデシュで解体された。
- 渡島丸(2代目)(貨車航送船)(貨車55両) : 1969年10月就航、1978年10月終航。1984年函館どっくで解体。在籍したうちの6年半は使用されずに係船されていた。なお解体直前に摩周丸火災事故の現場検証で船橋部分の燃焼実験が行われた。
- 日高丸(2代目)(貨車航送船)(貨車55両) : 1970年4月就航、1984年1月終航。1987年売却され、後に韓国で解体。1980年10月から1982年3月まで係船。
- 十勝丸(2代目)(貨車航送船)(貨車55両) : 1970年7月就航、1984年1月終航。1987年売却、台湾にて解体。
- 空知丸(2代目)(貨車航送船)(貨車55両) : 1976年4月就航。1988年3月12日終航。売却後1991年に石狩丸(3代目)と同じギリシャの海運会社「ポセイドンライン」に転売された。そこで客室新設改造をされ、地中海航路で活躍したが、その後航路休止にともない係船され、韓国の会社へ転売、さらに2006年に係船のまま転売されパナマ船籍となる。
- 檜山丸(2代目)(貨車航送船)(貨車55両) : 1976年8月就航、1982年に「津軽丸」型で、老朽化が進み、かつ他船との仕様の差異が大きかった「津軽丸」と「松前丸」2隻を廃船とし、その代替として客貨船に改造。売却後1989年から青少年研修船として活躍したが、その後シンガポールを経てインドネシアへ転売された。フェリーとして運航されていたが、2009年5月31日、出火炎上し沈没した。
- 石狩丸(3代目)(貨車航送船)(貨車55両) : 1977年5月就航、1982年に「檜山丸」とともに客貨船に改造され同年3月31日から就航。「石狩丸」「檜山丸」はグリーン船室・寝台・食堂がなく、使用便が限定されていた。香港、キプロスを経てギリシャへ転売され、空知丸と同じ地中海航路で活躍した。その後も2005年まで現役で活躍したが、2006年にインドで解体された。
[編集] 補助汽船
青函航路廃止時の補助汽船
[編集] 脚注・出典
- ^ a b 『日本鉄道旅行地図帳 1号 北海道』 今尾恵介、新潮社、2008年、25頁。ISBN 978-4-10-790019-7。
- ^ 1988年4月1日発行 鉄道ファン p.56「青函航路 最後の船長をつとめて・・・・・」摩周丸船長 山内弘
- ^ 1948/05/22の航空写真国土変遷アーカイブ 国土地理院
- ^ 十和田丸館内の展示パネルより引用
- ^ 下りの1便接続を例にとると、本州側がはつかりの「1M」や白鳥の「4001M」など、北海道側がおおぞらの「1D」や北海の「11D」などとなっていた。
- ^ 鉄道の指定券の発売は乗車1か月前からが原則であるが、青函連絡の乗客の座席を最優先に確保するため、本州・北海道の指定券を乗継割引で購入する場合は、指定券は1か月1日前から発売された。国鉄・JRの規則では、航路の乗船券の名称は「乗車券」であった。
- ^ 末期であっても、青森ねぶた、函館港まつりの行われる旧盆、弘前・函館の観桜と時期が一致するゴールデンウィーク、年末年始などの最多客期には超満員となり、臨時便(臨時客扱便)の運航や、乗船名簿に通し番号を振った乗船整理券を配布する措置がとられることがあったが、通常期の利用状況は悪かった。
- ^ 1988年(昭和63年)3月6日放送 NHK総合「さよなら青函連絡船」
- ^ 当初は6台だった。また、車両寸法にも規定があった。
- ^ 1971年11月11日第067回国会 公害対策特別委員会 第2号
- ^ 「青函間水陸連絡」1914年6月21日付神戸又日報(神戸大学附属図書館新聞記事文庫)