増位山太志郎
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| 増位山太志郎 | |
|---|---|
| 四股名 | 増位山 |
| 本名 | 澤田昇 |
| 生年月日 | 1948年9月16日(60歳) |
| 出身 | 兵庫県姫路市 |
| 身長 | 180cm |
| 体重 | 109kg |
| BMI | 33.64 |
| 所属部屋 | 三保ヶ関部屋 |
| 得意技 | 右四つ、上手投げ、内掛け |
| 成績 | |
| 現在の番付 | 引退 |
| 最高位 | 東大関 |
| 生涯戦歴 | 597勝538敗18休 |
| 幕内戦歴 | 422勝435敗18休 |
| 優勝 | 十両優勝1回 |
| 賞 | 技能賞5回 |
| データ | |
| 初土俵 | 1967年1月場所 |
| 入幕 | 1970年3月場所 |
| 引退 | 1981年3月場所 |
| 他の活動 | 歌手 |
| 趣味 | カラオケ・ゴルフ |
| 備考 | |
| 金星4個(北の富士1、輪島3) | |
| 2008年9月8日現在 | |
増位山 太志郎(ますいやま だいしろう、1948年9月16日 - )は、大相撲の力士。本名は澤田昇。最高位は大関。現年寄・三保ヶ関。歌手としてレコードもリリースした。現役時代の体格は180cm、109kg。得意手は右四つ、上手投げ、内掛け。
目次 |
[編集] 来歴
大関増位山大志郎の長男として東京の三保ヶ関部屋で生まれる。生まれも育ちも東京都だが、日本相撲協会発表の出身地は父と同じ兵庫県姫路市となっており、番付の出身地欄も「兵庫」と記載されていた。「増位山」は、先代の出身地である姫路市にある山の名。
小学生の頃から相撲が好きで、中学2年のときに父に入門を志願したが断わられた。どうしても入門したいためここで許されないなら他の部屋に入ると切り出したため父も折れて入門を許し1967年(昭和42年)1月場所、瑞竜の四股名で初土俵。北の湖と同期だった。ちなみに日大一中・一高では水泳をしていた。三段目にいた1968年(昭和43年)5月場所から父の四股名である増位山を継ぎ、1969年(昭和44年)7月場所新十両と2年余りで関取の座を掴む。1970年(昭和45年)3月場所に入幕したが負傷で何度か往復した。その後上位に進んでは大負けして落ちる繰り返しだったが徐々に三役に定着して1979年(昭和54年)9月場所の小結から相撲ぶりが目立って良くなり、翌11月場所関脇で11勝4敗、翌年1月場所、初日に横綱輪島を破るなど12勝3敗をあげ、場所後大関に昇進。本人いわく「最初で最後」のワンチャンスを見事ものにして、年6場所制が定着した1958年(昭和33年)1月場所以降初土俵の力士では旭國の28歳11ヶ月を上回る31歳2ヶ月の当時最年長(現在でも琴光喜の31歳3ヵ月に次ぐ2番目)で、史上初の親子大関が実現した。しかし大関昇進後は、終盤まで優勝を争う大きな活躍は一度もなく最高の成績でも10勝止まりに終わり、その10勝を挙げた翌場所の1981年(昭和56年)3月場所、2連勝の後2連敗したところで左ヒジ痛の悪化により大関在位わずか7場所で引退。年寄・「小野川」を襲名した。
取り口はふわっとした立合いで相手の突進をそらし、右で廻しをつかむと投げや内掛け・外掛け・内無双と多彩な技を繰り出した。中でも相手を引きずるように打つ上手投げ・上手出し投げは増位山独特のものだった。
1984年先代の父停年により三保ヶ関部屋を継承、現在に至る。相撲協会監事・審判部副部長を務める。後述のように美声で通る声であるために審判委員を長期間務め物言いがついた場合場内説明を任されるケースが副部長就任前から多かった。小結濱ノ嶋、前頭肥後ノ海、十両増健らを育てる。2006年7月場所後には元濱ノ嶋の尾上親方が里山らの有望株を連れて独立。
父に似たのか多彩な趣味の持主で絵は二科展入選の常連、レコードも数枚リリースし、ヒット作の「そんな女のひとりごと」は130万枚の売り上げを記録した[1]。1978年の第11回日本有線大賞では同曲でベストヒット賞を獲得した。リリースしたアルバムの中には、師匠でもある実父と共に吹き込んだ相撲甚句のレコードもあった。力士が出場する歌番組では審査員も務めたこともある。当時はテイチクレコードに所属し、増位山のオリジナル曲の他、当時流行のデュエット曲をテイチク所属の女性歌手と組んで多く発表していた。引退・部屋継承後も歌手活動をしばらく継続し、その後徳間ジャパンコミュニケーションズに移籍していた。1985年から日本相撲協会が親方、力士のレコード発売やCM出演等の副業を原則的に禁止したため歌手活動は行っていなかったが、相撲協会は旧譜の再発売については認めていた。その後、CM出演の再解禁などの副業規制の緩和後に、懐メロ番組に出演した事がある。2007年秋、ともに横綱審議委員会の委員を務める内舘牧子作詞、船村徹作曲の「水玉のスカーフ」で歌手再デビューした。ちなみにカップリングは、こちらもかつて力士時代にヒット曲を出した経験がある北の富士勝昭とのデュエットである。しかし時津風部屋力士暴行死事件を受け公開レコーディングが中止となった[1]。さらに2008年2月にはNHK福祉大相撲に出演予定であったが直前に前時津風親方と力士3人が逮捕されたことを受け出演を辞退した。2008年6月、NHKBS2で放送された『シリーズ 昭和の歌人たち「中山大三郎~“人生いろいろ”から“珍島物語”~」』に特別ゲストとして登場。生バンドをバックに「男の背中」をテレビで久々に熱唱した。
2003年頃より通信カラオケシステムDAMの機種改良に伴い、同機種で配信する「そんな夕子にほれました」を初めとする代表曲で背景映像に増位山本人が出演する映像が多く採用されている。「そんな夕子にほれました」では背景画面に駅での出会いと別れをイメージしたドラマ風なアレンジの中を増位山本人が登場する。
2003年7月場所、増健が十両以上では史上初となるつきひざで敗れた際「今日は顔を合わさないように、逃げます。テレビで放送するなら、顔にモザイク入れてください」とコメントを残した[2](モザイクの対象は自身であり、増健ではない)。
趣味はカラオケ、ゴルフ、血液型はO型。
[編集] 成績
- 通算成績:597勝538敗18休 勝率.526
- 幕内在位:59場所(うち大関7場所、関脇4場所、小結6場所)
- 幕内成績:422勝435敗18休 勝率.492
- 大関成績:44勝44敗7休 勝率.500
- 三賞:技能賞5回 (1972年11月場所、1974年5月場所、1979年9月場所・11月場所、1980年1月場所)
- 金星:4個(北の富士1、輪島3)
- 各段優勝:十両1回(1972年1月場所)
[編集] 歌
- そんな夕子にほれました(海老名香葉子作詞)
- そんな女のひとりごと
- 出直さないかもう一度
- 今度逢えたら
- お店ばなし
- そんなナイト・パブ
- いたわりあい
- 新宿慕情
- 男の背中
- 女の横顔
- 大阪恋めぐり(日野美歌とデュエット)
- マイク片手にカラオケ人生(川中美幸とデュエット)
- 夜の恋の物語(長沢薫とデュエット)
など。
ボールド文字は通信カラオケシステムDAMの背景映像に本人出演映像が採用されているものを示す。
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
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