玉ノ富士茂

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玉ノ富士 茂(たまのふじ しげる、1949年11月24日 - )は、栃木県那須郡小川町出身で片男波部屋所属の元大相撲力士。本名は大野茂(旧姓は阿久津)。身長185cm、体重127kg。得意手は右四つ、寄り、上手投げ割り出し。最高位は東関脇1978年3月場所 - 7月場所、1979年1月場所 - 3月場所)。

2010年2月までは年寄片男波 大造(かたおなみ だいぞう)として片男波部屋二所ノ関一門)の師匠だったが同月に弟子(後の部屋付き親方)の楯山良二(元関脇・玉春日)と名跡を交換し、現在は年寄・楯山 大造(たてやま だいぞう)。

来歴[編集]

関東高校バスケットボールの選手として活躍するも、「バスケでは食えない」と感じてバスケ部を退部する。その影響で高校も3年途中で中退する。中退後、知人の勧めるがままに片男波部屋に入門し、1967年5月場所に初土俵を踏む。序ノ口に付いてすぐに6勝1敗と好成績を残したものの、この成績に不満を感じて相撲に見切りを付けた玉ノ富士は場所直後に部屋を脱走し、翌1968年に志願して陸上自衛隊に入隊。一等陸士まで昇進し満期除隊した。以降、味噌工場、トンネル工事、ビル建設など幾つかのアルバイトを経験した後に師匠・12代片男波(元関脇・玉乃海)の許しを得て片男波部屋に再入門。1970年9月場所に再び番付外から取り直した。本来なら脱走した時点で親方が廃業届を出すところであるが、部屋に帰ってくることを信じた親方は廃業届を出さなかった。[1]結果、2年以上番付外の力士として相撲協会に籍を置いたことになる。これによって再入門が可能となった。師匠・玉乃海も一旦角界を離れ(こちらは除名)、軍隊経験の後に再入門した異色の経歴の持ち主だった。

その後は順調に番付を上げて行き、1973年11月場所に十両に昇進。1974年9月場所には新入幕を果たした。一時は平幕に甘んじていたが、1977年後半から三役に定着し、1978年3月場所からの7場所間に、小結を1場所挟んで関脇を計6場所勤めた。右四つ相撲で前褌を取ると力を発揮し、大関も期待されたが立合いが遅く糖尿病も患ったため昇進出来なかった。この糖尿病は引退後に重篤な段階まで悪化し、2000年7月場所を休場して片足の切断手術を受けた。次第に引く相撲が多くなり幕内下位に低迷。1981年5月場所を最後に十両に陥落し、同年11月場所を最後に現役を引退した。 年寄・湊川を襲名し、部屋付きの親方として後進の指導に当たったが、1987年に12代片男波が死去したため片男波部屋を継承し、関脇玉春日玉乃島前頭玉海力玉力道らを育てている。

2012年の改選で理事に当選し、九州場所担当部長に就任。

エピソード[編集]

  • 貴ノ花に対しては強く12勝11敗と勝ち越している。昭和53年1月場所から7月場所にかけては4連勝もした。同じ大関の旭國には6勝11敗で、昭和52年11月場所まで1勝8敗(1勝は不戦勝で、実質の勝利は無し)と全く勝てなかったが、上位に定着し出した昭和53年1月場所から昭和54年9月場所まで5勝3敗と勝ち越している。大関には互角以上に渡り合ったが横綱には分が悪く特に北の湖には初顔から19連敗、4年近く勝てなかったが昭和54年9月場所でようやく初勝利を挙げた。最終的な対戦成績は2勝23敗。また2代若乃花にも分が悪く、最終的な対戦成績は3勝23敗で、横綱昇進後の若乃花には1度も勝つことが出来なかった。
  • 浮世絵から抜き出てきたような風貌や掴みどころのない性格を由来として「関取退屈男」の異名を冠していた。ある時大関取りの話題を記者に言及された際、「大関候補なんか他にも強い人がたくさんいるから駄目だよ」と話していた。掴みどころのない人物ではあるが「歯触りにつかみどころがない」という理由で鰻が嫌いであるという。

主な成績[編集]

  • 通算在位:73場所
  • 通算成績:431勝420敗35休[2] 勝率.506
  • 幕内在位:41場所
  • 幕内成績:289勝326敗 勝率.470
  • 三役在位:12場所 (関脇6場所、小結6場所)
  • 三賞:3回
    • 殊勲賞:1回(1979年9月場所)
    • 敢闘賞:2回(1978年1月場所、1979年11月場所)
  • 金星:2個(北の湖1個、三重ノ海1個)
  • 各段優勝
    • 序二段優勝:1回(1971年1月場所)
    • 序ノ口優勝:1回(1970年11月場所)
  • 対横綱戦:7勝58敗(輪島4勝、北の湖2勝、三重ノ海1勝)*輪島の1勝は不戦勝
  • 対大関戦:28勝42敗(貴ノ花12勝、三重ノ海・旭國6勝、魁傑2勝、若三杉増位山1勝)


場所別成績[編集]

玉ノ富士茂
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1967年
(昭和42年)
x x (前相撲) 西 序ノ口 #18
6–1
 
西 序二段 #74
休場
0–0–7
西 序二段 #119
休場
0–0–7
1968年
(昭和43年)
東 序ノ口 #16
休場
0–0–7
x x x x x
1969年
(昭和44年)
x x x x x x
1970年
(昭和45年)
x x x x (前相撲) 東 序ノ口 #1
優勝
7–0
1971年
(昭和46年)
東 序二段 #10
優勝
7–0
東 三段目 #4
5–2
 
西 幕下 #45
4–3
 
東 幕下 #40
4–3
 
西 幕下 #36
3–4
 
東 幕下 #43
3–4
 
1972年
(昭和47年)
西 幕下 #50
5–2
 
西 幕下 #30
2–5
 
東 幕下 #52
6–1
 
東 幕下 #26
5–2
 
西 幕下 #16
5–2
 
東 幕下 #9
4–3
 
1973年
(昭和48年)
東 幕下 #8
3–4
 
東 幕下 #15
4–3
 
西 幕下 #10
5–2
 
西 幕下 #4
5–2
 
西 幕下 #2
6–1
 
東 十両 #12
8–7
 
1974年
(昭和49年)
西 十両 #10
8–7
 
西 十両 #8
6–7–2
 
東 十両 #11
9–6
 
東 十両 #3
8–7
 
東 前頭 #13
8–7
 
西 前頭 #11
8–7
 
1975年
(昭和50年)
東 前頭 #8
7–8
 
西 前頭 #10
9–6
 
東 前頭 #5
9–6
 
東 前頭 #1
5–10
 
西 前頭 #5
6–9
 
西 前頭 #8
6–9
 
1976年
(昭和51年)
西 前頭 #11
9–6
 
西 前頭 #5
5–10
 
西 前頭 #10
10–5
 
西 前頭 #3
9–6
 
西 小結
5–10
 
西 前頭 #5
8–7
 
1977年
(昭和52年)
西 前頭 #1
6–9
 
西 前頭 #2
5–10
 
東 前頭 #8
11–4
 
東 前頭 #1
8–7
 
西 小結
5–10
 
西 前頭 #2
8–7
 
1978年
(昭和53年)
西 小結
11–4
東 関脇
8–7
 
東 関脇
9–6
 
東 関脇
7–8
 
東 小結
8–7
 
西 関脇
8–7
 
1979年
(昭和54年)
東 関脇
8–7
 
東 関脇
4–11
 
西 前頭 #4
6–9
 
西 前頭 #7
9–6
 
西 前頭 #1
8–7
東 小結
8–7
1980年
(昭和55年)
東 小結
3–12
 
東 前頭 #7
9–6
 
東 前頭 #2
5–10
 
東 前頭 #5
4–11
 
西 前頭 #11
8–7
 
東 前頭 #4
6–9
1981年
(昭和56年)
東 前頭 #10
9–6
 
西 前頭 #4
1–14
 
西 前頭 #12
3–12
 
西 十両 #6
8–7
 
西 十両 #4
6–9
 
西 十両 #8
引退
0–0–12
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 十両・幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

改名歴[編集]

  • 阿久津 茂(あくつ しげる)1967年5月場所
  • 玉ノ冨士 茂(たまのふじ -)1967年7月場所-1975年9月場所
  • 玉ノ富士 茂(たまのふじ- )1975年11月場所-1981年11月場所

年寄変遷[編集]

  • 湊川 佳英(みなとがわ よしひで)1981年11月-1987年9月
  • 片男波 大造(かたおなみ たいぞう)1987年9月-2010年2月
  • 楯山 大造(たてやま たいぞう)2010年2月-

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 大位山も同様の経緯で脱走後の再入門を経験した持ち主。
  2. ^ 日本相撲協会公式サイトでは、再入門以前の成績を含まず、425勝419敗14休となっている