豊錦喜一郎

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十両時代?の豊錦

豊錦 喜一郎(とよにしき きいちろう、1920年2月3日 - 1998年9月26日)は、昭和初期の大相撲力士出羽海部屋所属、最高位は東前頭20枚目。後年に太平洋戦争の影響で日本に帰化したが、アメリカ合衆国籍を持つ者として初の関取として記録されている。

経歴[編集]

本名はハーリー尾崎喜一郎[1]、農業移民の子としてアメリカ合衆国コロラド州に生まれる[1]横綱にあこがれを抱いていた父親の意向で1937年に来日、出羽海部屋へ入門[1]。翌1938年1月場所に初土俵を踏む。187センチもの長身を生かしての左四つからの吊りや寄りを得意とした[1]。順調に番付を上げたが、1941年、太平洋戦争により日本は母国と戦うはめになった。本人曰く「米国の外交官は、もしワシが米国側に徴兵された場合補給部隊に配属するつもり、と説明していた。」とのことであり、玉乃海太三郎は帰参後「ワシの場合は砲台の運搬を始めとして補給作業が大半だった。力士は徴兵されても運搬作業ばかり任されるのが関の山。決して直接戦闘する機会なぞやってこない。」と豊錦を擁護したという。

1943年1月新十両。アメリカ合衆国籍初の関取であり、「ワシントン場所を開くまでにはもっと強くならねば・・・・・・」と意気盛んであった[1]。しかし、意気とは裏腹に戦争中は「アメリカのスパイ」とにらまれて肩身の狭い思いをし、特別高等警察の厳しい監視を受けた[1]。地方への移動では警察に報告しなければならなかった。この間にアメリカ国籍では巡業が難しくなっていたこともあって周囲の説得により日本国籍を取得[1]、出身地を「福岡県」に変更した。十両で3場所連続勝ち越しののち、1944年5月に新入幕[1]。勝ち越したがまもなく兵隊に取られた[1]。終戦後復員したが、そのまま土俵に上がることもなく廃業した。廃業後は進駐軍通訳をしていた[1]。しばらくしてから江東区で旅館の経営を始める。アメリカ国籍は「再取得」あるいは「再取得しなかった」[1]の2説あるが、1960年に日本国籍者として渡米した[1]。境川理事長(元横綱・佐田の山)の年寄株改革によって日本相撲協会が大揺れした1996年以降体調が悪化し、1998年に死去。兄弟のうち末弟は、前頭にいたころはヨーロッパ戦線に出征し、妹は2014年8月現在サンディエゴに健在である[1]

主な成績[編集]

  • 幕内成績 6勝4敗10休(在位2場所)
  • 最高位 西前頭20枚目

脚注[編集]

参考文献[編集]