安岡正篤

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

安岡 正篤(やすおか まさひろ、1898年明治31年)2月13日-1983年昭和58年)12月13日)は陽明学者・思想家。

経歴[編集]

現在の大阪市中央区旧順慶町において、父・堀田喜一、母・悦子の四男として誕生。1904年明治37年)大阪市道仁小学校入学。四書の「大学」から素読を始める。 1910年明治43年)大阪府四条畷中学校入学。卒業までの五年間、歩きながら書を読んで電柱にぶつかったり、牛に突き当たったりしたという伝説が生まれる。中学校では剣道部に所属。一方で、近所の春日神社神官浅見晏斎に見出され、漢詩に親しみ、さらに柳生藩大参事であった陽明学者岡村達より感化を受ける。 第一高等学校に首席で入学し[1]東京帝国大学上杉慎吉に師事[2]1922年(大正11年)に東京帝国大学の卒業記念として執筆され出版された『王陽明研究』が反響を呼ぶ。

大学卒業後に文部省に入省するも半年で辞し、「東洋思想研究所」を設立、当時の大正デモクラシーに対して伝統的日本主義を主張した。拓殖大学東洋思想講座講師をする傍ら『日本精神の研究』『天子論及官吏論』などの著作を発表し、一部華族軍人などに心酔者を出した。1927年に酒井忠正の援助により「金鶏学院」を設立し、1931年には三井や住友などの財閥の出資により埼玉県に「日本農士学校」創設し、教化運動に乗り出した。

金鶏学院は軍部や官界・財界に支持者を広げて行き、1932年には「日本主義に基づいた国政改革を目指す」として、酒井や後藤文夫近衛文麿らとともに「国維会」を設立し、新官僚の本山となった。同団体から、斎藤岡田両内閣に、後藤や吉田茂(後の首相とは別人で同姓同名の厚相・軍需相)、廣田弘毅ら会員が入閣したことで、世間の注目も集まったが、一方で政界の黒幕的な見方も強まったため、2年後には解散に追い込まれる。

その間も金鶏学院などを通じた教化活動は続けられ、「二・二六事件の首謀者西田税らに影響を与えた一人」とも言われる。北一輝大川周明猶存社のメンバーでもあった。年上である八代六郎(元海軍大将)、山本五十六、更には中華民国総統の蒋介石などとも親交があり、第二次世界大戦中には大東亜省顧問として外交政策などに関わった。

敗戦後に、かつて安岡が創設した各団体や学校は連合国軍最高司令官総司令部により解散を命じられ財産は没収、安岡自身も大東亜省奉職を理由に公職追放される。1949年に「師友会」(後の全国師友協会)を結成、機関紙『師と友』の発行による次代の指導者の育成や、全国各地を巡っての講演、更にはラジオによる講話などを通じた東洋古典思想の普及活動を行った。

一方で政財界とのパイプは保ち続け、自民党政治家のアドバイザーとして主に東洋宰相学、帝王学を説き、彼らの「精神的指導者」「陰の御意見番」「首相指南役」の位置にあった他、1958年には岸信介安倍源基木村篤太郎らとともに「新日本協議会」を結成、安保改定運動や改憲運動などに関わった。東洋古典の研究と人材育成に尽力する一方で、「体制派右翼」の長老としても政財官界に影響力を持ち続けた。また、「平成」の元号の発案者と言われている(1990年に竹下登が記者会見で示唆)。「全国師友協会」は遺言もあって解散したが、各地域の支部がそれぞれ独立した団体として活動を続け、その思想を継承している。

安岡には政界だけでなく、財界にも多くの心酔者がおり、三菱グループ・近鉄グループ・住友グループ・東京電力など多くの財界人をも指南していたとされる。

終戦時、昭和天皇自身によるラジオ放送の終戦の詔書発表(玉音放送)に加筆し原稿を完成させたことから皇室からも厚い信頼を受けていた。

数々の伝説を残し、政界・財界・皇室までもが安岡を頼りにしていたことから「昭和最大の黒幕」と評される。

主な事績・逸話等[編集]

戦前にあっては血盟団事件に「金鶏学院」の関係者が多く連座したため安岡も一時関与を疑われた。井上日召は、「血盟団事件の検挙の発端は、金鶏学院への波及を恐れた安岡が当局に密告したため」と、戦後に証言している。また安岡が、五・一五事件二・二六事件の首謀者の一員とされる大川周明北一輝と東京帝国大学時代に親交があったことからこれらの事件への関与を指摘する向きもあるが、安岡自身はこのことについて何も語っておらず、現在ではこれらへの関与を否定する見方が一般的である。一方で特に海軍関係者との親交や大東亜省顧問としての活動が挙げられるが、具体的に何に何処まで関与したかはほとんど明らかにされていない。

戦後にあっては、自民党政治の中で東洋宰相学、帝王学に立脚し、「実践的人物学」、「活きた人間学」を元に多くの政治家や財界人の精神的指導者や御意見番の位置にあった。安岡を信奉し、師と仰いだとして知られる政治家には吉田茂池田勇人佐藤栄作福田赳夫大平正芳など多くの首相が挙げられる。また代議士になった弟子に林大幹がおり、回想記を出している。

  • 昭和20年8月15日の終戦の詔書玉音放送)の草案に対して、加筆し原稿を完成させたとされる。
  • 戦時中からすでに政治家や右翼活動家に影響力があったため、GHQより戦犯容疑がかかったが、中華民国の蒋介石が「ヤスオカほどの人物を戦犯にするのは間違いだ」とGHQを説得し逮捕されなかった。
  • 岸信介以降の歴代首相(田中角栄三木武夫を除く)に施政方針演説の推敲を依頼されていたと言われる。
    • 但し安岡の次女の著書によると、三木自身、秘書経由でなく自身で電話をして演説の文章について相談していたという。[3]
  • 池田勇人の創設した自民党の派閥宏池会」の命名者である。
  • 佐藤栄作の首相就任前の訪米時に応対辞令の極意を授け、このときのケネディ大統領との会談がケネディに沖縄返還交渉開始を決断させたと言われる。1960年代末から1970年初頭、自身と総理総裁たる佐藤による勉強会「拓世塾」が自民党若手国会議員を対象に実施(2014年10月開講希望拓志塾の名称の発案者は同会に参加した塩川正十郎志太勤がかねてから私財を投げ打って取り組む国民運動・希望日本と、同会)
  • GHQによる「3S政策」の存在の可能性を著書『運命を創る―人生訓―』(プレジデント社・1985年)中で唱えている。
  • 晩年陽明学に傾倒した三島由紀夫は、自決の2年前の1968年5月26日付けで安岡に長文の手紙を書いている[4]。この手紙では、朱子学に傾倒する江藤淳徂徠学に傾倒する丸山眞男を批判すると共に、当時入手困難だった安岡の著作を安岡本人から贈ってもらったことに対する謝辞が述べられており、三島は安岡の思想に共感を抱いていたと見られる。三島の自決後、安岡は新聞が論評した三島流の「知行合一」を「動機の純粋を尊んで、結果の如何を問わないなんていう、そんなものは学問でもなく真理でもない」と批判している一方、三島個人については「惜しい人物であった。もう少し早く先師(王陽明)に触れていたら・・・」と述べたという。
  • 生前、「いつか昭和が終わったら次は平成というのはどうだろう?平和が成り立つのいう意味だ」と平成の元号を考案したと言われているが、今をもって真偽は不明である。
  • 戦後の歴代総理に「日本の黒幕はだれか?」と聞けばほとんどの首相が安岡正篤の名前を挙げたという。
  • 安岡本人は「自分はただの教育者にすぎない」と考えていたため、「黒幕」と言われるのを嫌がった。しかし、自分自身が直接権力を持たない反面、権力者に対して絶大な発言力を持っていた。名のある大物ほど安岡の教えに心酔し、意見や講演を求め、本人の意思に反して各界に影響力を拡大していったためである。

年譜[編集]

葬儀

葬儀は1984年1月25日青山葬儀所で、葬儀委員長に岸信介、同副委員長に稲山嘉寛大槻文平・田中秀雄、委員に新井正明江戸英雄平岩外四によって執行。政界からは当時の首相・中曽根康弘を始め、田中福田鈴木の各歴代首相が並び中華民国馬樹礼韓国朴泰俊等高官の参列。会葬者は2千有余であった。

再婚

1983年、当時銀座のバーのマダムであった細木数子と再婚の約束を交わした[5]が、当時85歳で、認知症の症状があったと言われ、40歳近く歳の離れた女性との再婚であり、実際の結婚生活がほとんどなかったことから安岡家の親族が猛反対したが、細木が安岡と交わしたとされる「結婚誓約書」なるものを元に、婚姻届を提出し、受理されたことで、安岡家は東京地裁に「細木との婚姻の無効」を求める調停を申し立てた。その翌月安岡は他界。調停は婚姻はなかったこととして、細木が初七日で戸籍を抜く事(結婚生活は、事実上無し)で決着した。

参考図書[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 谷光太郎『東洋式人間学について』
  2. ^ 立花隆『天皇と東大(上)』文藝春秋 2008 p.444
  3. ^ 伊藤節子『父 安岡正篤を語る』致知出版社 1998 p.202 ISBN 4-88474-534-5
  4. ^ 新潮社「三島由紀夫全集」所収
  5. ^ 溝口敦『魔女の履歴書』pp.123-124(講談社2006年)によると、細木は安岡を籠絡した手段について問われた折「お酒よ、お酒。家じゃ飲ましてもらってないようだから、わたしが好きなだけ飲ましてる。お酒で"殺した"のよ」「ドジョウと同じ」と答えたという。