達磨

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達磨
382年? - 532年

月岡芳年画『達磨図』(木版画 1887年
生地 南天竺国
宗派 楞伽宗(禅宗
般若多羅
弟子 慧可曇林
Dharma wheel
仏教
基本教義
縁起 四諦 八正道
三法印 四法印
諸行無常 諸法無我
涅槃寂静 一切皆苦
人物
釈迦 十大弟子 龍樹
如来・菩薩
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達磨(だるま、ボーディダルマ 382年? - 532年)。達磨禅宗の開祖とされ、菩提達磨(ぼだいだるま、梵語: बोधिधमृ、ピンイン: Pútídámó)、達磨祖師、達磨大師ともいう。「ダルマ」というのは、サンスクリット語で「」を表す言葉。達摩との表記もあるが、いわゆる中国禅の典籍には達磨、古い写本は達摩と表記する。「達(ダチ)」を「ダル」と読むのは、中古漢語の入声[t]が朝鮮語漢字音で流音[l]に変化したため、達[dat]は朝鮮半島で[dal]に変わり、その音が日本に伝わったためとされる。画像では、眼光鋭く髭を生やし耳輪を付けた姿で描かれるているものが多い。

インドの王国の第三王子として生まれ、中国で活躍した仏教僧侶5世紀後半から6世紀前半の人。中国の開祖。『景德傳燈』によれば釈迦から数えて28代目とされている。インドから中国南方へ渡海し、洛陽郊外の嵩山少林寺にて面壁を行う。確認されているだけで曇林慧可弟子がいる。彼の宗派は当初楞伽宗と呼ばれた。彼の事績、言行を記録した語録とされるものに『二入四行論』などがある。

[編集] 生涯

菩提達磨についての伝説は多いが、その歴史的真実性には多く疑いを持たれている。南天竺香至王の第三王子として生まれ、般若多羅の法を得て仏教の第二十八祖菩提達磨(ボーディダルマ)になった、ということになっているが、最も古い菩提達磨への言及は魏撫軍府司馬楊衒之撰『洛陽伽藍記』(547)にあり、全ての達磨伝説はここに始まるともいわれている。

時に西域の沙門で菩提達摩という者有り、波斯(ペルシア)国の胡人也。起ちて荒裔(はるか)なる自(よ)り中土に来遊す
このころ西域の僧で菩提達摩という者がいた。ペルシア生まれの胡人であった。彼は遥かな夷狄の地を出て、わが中国へ来遊した。
永寧寺塔の〉金盤日に炫(かがや)き、光は雲表に照り、宝鐸の風を含みて天外に響出するを見て、歌を詠じて実に是れ神功なりと讚歎す。自ら年一百五十歳なりとて諸国を歴渉し、遍く周らざる靡(な)く、而して此の寺精麗にして閻浮所(諸仏の国)にも無い也、極物・境界にも亦(ま)た未だ有らざると云えり。此の口に南無と唱え、連日合掌す。
永寧寺の塔の金盤が太陽に輝き、その光が雲表を照らしているのを見て、また金の鈴が風を受けて鳴り、その響きが中天にも届くさまを見、思わず讃文を唱えて、まことに神業だと讃嘆した。その自ら言うところでは、齢は150歳で、もろもろの国を歴遊して、足の及ばない所はないが、この永寧寺の素晴らしさは閻浮にはまたと無いもの、たとえ仏国土を隅なく求めても見当たらないと言い、口に「南無」と唱えつつ、幾日も合掌し続けていた。  洛陽城内伽藍記巻第一(永寧寺の条)

また、二入四行論が達磨に関する最も古い語録で、達磨伝説の原型であるとともに達磨の思想をも伝えている。

520年ごろ、達磨は海を渡って中国へ布教に来る。9月21日、広州に上陸。当時中国は南北朝に分かれていて、南朝はが治めていた。

  • 景德傳燈第三巻
    • この書では梁の武帝仏教を厚く信仰しており、天竺から来た高僧を喜んで迎えた。武帝は達磨に質問をする。
帝問うて曰く「朕即位して已来、寺を造り、経を写し、僧(僧伽、教団)を度すこと、勝(あげ)て紀す可からず(数え切れないほどである)。何の功徳有りや」
師曰く「並びに功徳無し」
帝曰く「何を以て功徳無しや」
師曰く「此れ但だ人天(人間界・天上界)の小果にして有漏の因なり(煩悩の因を作っているだけだ)。影の形に随うが如く有と雖も実には非ず」
帝曰く「如何が是れ真の功徳なるや」
答曰く「浄智は妙円にして、体自ずから空寂なり。是の如き功徳は世を以て(この世界では)求まらず」
帝又問う「如何が是れ聖諦の第一義なるや」
師曰く「廓然(がらんとして)無聖なり」
帝曰く「朕に対する者は誰ぞ」
師曰く「識らず(認識できぬ・・・空だから)」
帝、領悟せず。師、機の契(かな)はぬを知り・・・  
帝問曰 朕即位已來 造寺寫經度僧不可勝紀 有何功德
師曰 並無功德
帝曰 何以無功德
師曰 此但人天小果有漏之因 如影隨形雖有非實
帝曰 如何是真功德
答曰 淨智妙圓體自空寂 如是功德不以世求
帝又問 如何是聖諦第一義
師曰 廓然無聖
帝曰 對朕者誰
師曰 不識
帝不領悟
師知機不契

武帝は達磨の答を喜ばなかった。達磨はがなかったと思い、北魏に向かった。後に武帝は後悔し、人を使わして達磨を呼び戻そうとしたができなかった。

達磨は嵩山少林寺において、壁に向かって9年坐禅を続けたとされているが、これは彼の壁観を誤解してできた伝説であると言う説もある。壁観は達磨の宗旨の特徴をなしており、『壁となって観ること』即ち『壁のように動ぜぬ境地で真理を観ずる禅』のことである。これは後の確立した中国禅において、六祖慧能(638年 - 713年)の言葉とされる坐禅の定義などに継承されている。

太和10年12月9日、神光という僧侶が、自分の臂を切り取って決意を示し、入門を求めた。達磨は彼の入門を認め、名を慧可と改めた。この慧可が禅宗の第二祖である。以後、中国に禅宗が広まったとされる。

太和19年10月5日に150歳で遷化したとされるが、他宗派の僧侶に毒殺されたというのが真相のようである。

その没後には、道教の尸解に類した後日譚が伝わが、中国の高僧伝にはしばしば見られる事柄である。それは、当時、北魏の使者として西域からの帰途にあった宋雲が、パミール高原で達磨に出会ったというものである。その時、達磨は一隻履、つまり草履を片方だけを手にしていたという。宋雲が「どこへ行かれるのか」と問うた所、「西天へと行く」と答え、また「あなたの主君はすでにみまかっている」と伝えたというのである。帰朝した宋雲は、孝明帝の崩御を知る。孝荘帝が達磨の墓を掘らせると、棺の中には一隻履のみが残されていたという。

[編集] 影響

白隠慧鶴筆『達磨図』
白隠慧鶴筆『達磨図』

達磨により中国に禅宗が伝えられ、それは六祖慧能にまで伝わったことになっている。さらに臨済宗曹洞宗などの禅宗五家に分かれる。日本の宗教にも大きな影響を及ぼした。

禅宗では達磨を重要視し、「祖師」の言葉で達磨を表すこともある。禅宗で「祖師西来意」(そしせいらいい:達磨大師が西から来た理由)と言えば、「仏法の根本の意味」ということである。

達磨が面壁九年の座禅によって、手足が腐ってしまったという伝説が起こり、玩具としてのだるまができた。これは縁起物として現在も親しまれている。

[編集] 関連項目