岡本綾子
| 岡本 綾子 Ayako Okamoto |
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|---|---|
| 基本情報 | |
| 出生国 | |
| 生年月日 | 1951年4月2日(60歳) |
| 出身地 | 広島県東広島市安芸津町 (旧豊田郡安芸津町) |
| 身長 | 165cm |
| 体重 | 65kg |
| 血液型 | B型 |
| 利き手 | 左(右打ち) |
| 経歴 | 今治明徳高等学校 |
| プロ転向 | 1974年 |
| 成績 | |
| 優勝回数 | 62回(日本女子:44回、 全米女子:17回、欧州女子:1回) |
| 初優勝 | 日本女子:美津濃ゴルフトーナメント (1975) 全米女子:アリゾナ・コパー・クラシック (1982) 欧州女子:ドイツ女子オープン (1990) |
| 賞金王 | 日本女子:1981年 全米女子:1987年 |
| 2011年5月9日現在 | |
岡本 綾子(おかもと あやこ、1951年4月2日 - )は、広島県豊田郡安芸津町(現:東広島市)出身の女子プロゴルファー。樋口久子らと共に日本女子ゴルフの基盤を築いた名選手である。日本の女子選手で初めて本格的にアメリカLPGAツアーに参戦した選手としても知られる。
日本女子ゴルフツアーで44勝、アメリカLPGAツアーで17勝。日本ツアーの永久シード権を獲得しているほか、1987年には、アメリカ人以外で史上初のLPGAツアー賞金女王になった。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 生い立ち
瀬戸内海を望む安芸津町木谷の生まれ。木谷は赤土土壌で地元では赤崎と呼ばれる美しい丘陵地[† 1]。この地で収穫されるジャガイモは料亭などに流通する高級品で知られ、岡本の実家もジャガイモやタバコなどを作る農家のため、家の手伝いをすることで強靭な足腰が鍛えられた。お転婆な子供で男の子と野球で遊ぶことが多く、中学で野球部を希望したが女子は入れてもらえず、ソフトボール部へ入部した[1]。
[編集] ソフトボール
ソフトボールの強豪・愛媛県今治明徳高校に特待生として進学。同高校卒業後、ソフトボール部を創部した大和紡績福井工場(1995年9月閉鎖)に就職。サウスポーの剛球エース兼4番として1971年、和歌山国体で優勝[2]。国体優勝の褒美で、祝勝ハワイ旅行で初めて子供の頃から憧れたアメリカの土を踏む[3]。ここでゴルフ場を見学したのがきっかけでゴルフと出合う。
[編集] ゴルフ
1972年に大和紡を退職後、1973年1月に池田CCに入社し、1974年10月に2度目の受験でプロテスト合格。この時すでに「将来の夢は、アメリカに行ってプレーすることです」と答えた。大和紡時代から、その時のための準備に毎月3万円の給料の中から、爪に火を灯すように貯金をしていた[4][5]。アメリカで成功するまで実家にもほとんど帰らなかったといわれる[† 2]。
1975年、美津濃トーナメントで初優勝。杉原輝雄が「オレより30ヤードは飛ぶね。いやになる」と言う程で、ソフトボールで鍛えた強いリストと強靭な腰のバネで、男子プロ並みの飛距離、豪打で鳴らした[6]。1979年、日本女子プロゴルフ選手権優勝。1981年、樋口久子を抜いて初の賞金女王。
1981年、日本の女子選手では初めて本格的にアメリカLPGAツアーに参戦し[† 3][† 4][† 5]、1982年から1992年の間、計17大会で優勝した。1985年には腰痛で引退の危機に直面したが、1986年に復帰2戦目で優勝。1987年には、アメリカ人以外で史上初のLPGAツアー賞金女王になった。同年、年間最優秀選手(プレーヤー・オブ・ザ・イヤー)も獲得[7]。メジャー大会での優勝はならなかったが、単独2位を4度、2位タイを2度経験している。中にはプレーオフで敗れた大会もあり、ローラ・デービースやパット・ブラッドリーなどに道を阻まれた[8]。特に1987年の女子メジャー最高峰・「全米女子オープン」で、再三に渡る豪雨順延で6日間に及んだローラ・デービース、ジョアン・カーナーらとの名勝負は有名[2][9][10]。日米英3か国のトッププレイヤーが大激戦を演じたこの1987年大会は、全米女子オープンが真の世界一決定戦となった象徴的な出来事としてUSGAの公式HPに紹介され、岡本の名前が刻みこまれている[10][11]。プレーオフが行われた同年の7月28日は、全米のゴルフ史にも大きな意味を持ち続けている[10]。全米女子プロでは1984年から8年連続1ケタ順位(1989年と1991年は2位)[12]、デュモーリエは2位3度(1984年、1986年、1987年)。1983年から1991年までの間に、LPGAツアーの賞金獲得順位トップ10に8回入った。ヨーロッパ女子ツアーでも1984年、メジャー昇格前の「全英女子オープン」で2位に11打差のぶっちぎり優勝[9]、1990年にも「ドイツ女子オープン」でも優勝した。 1980年代の岡本の活躍は、当時のマスメディア、スポーツ新聞も大きく報道し、夜中や明け方にテレビで衛星中継もされた[5]。特に当時「世界一速いゴルフ速報」にシフトした東京スポーツは、"世界のアヤコ"をダントツトップで一面に登場させた[9]。東京スポーツは、「世界のアヤコ」活躍の歴史=「東スポゴルフ面の歴史」と言っても過言でないと論じている[9]。
1989年、東京都が運営する若洲ゴルフリンクスの監修を行い、以後、国内外の多くのコースの設計アドバイスを手がける[13]。
2006年暮れに最愛の母を亡くしたが、それをバネに、10キロ減量が前提ながら、2007年から再び女子ツアー参戦に意欲を見せていた。しかし、ヒザの故障が自身が思う以上に悪くブランクが長引いて「現在の女子ツアーのレベルを考えると、本格復帰は事実上しんどいと思う」と述べた[14]。また2009年には父も亡くしている[9]。
2008年郷里・安芸津町に近い東広島駅近くに居を構え、広島と東京の半々くらいの生活を始めた。家庭菜園や近所に住む長兄夫婦の畑などで好きな土いじりをしながら、愛犬と暮らしている。今後は広島に生活の基盤を置く予定と話していたが[14]、服部真夕をプロデビュー後から指導して以降、定期的に女子プロゴルファーへの指導を行う。門下生に服部真夕、表純子、青山加織、森田理香子らと増えてきて、門下生が口にする「師匠・綾子の教え」が誌面やスポーツニュースに登場する機会も増え、岡本の指導者としての実力も注目を集めるようになった[9][15]。また「全米女子オープン」などのテレビ解説者としても出演している。このため2010年現在「半農・半ゴルフ生活」という[9][10]。
[編集] 受賞・表彰
各種スポーツ賞の受賞歴も多く、1987年に日本プロスポーツ大賞を受賞している(女性では2011年12月19日まで唯一の受賞者であった。)。2005年に世界ゴルフ殿堂入りも果たした。日本人ゴルファーの世界ゴルフ殿堂入りは、2003年の樋口久子、2004年の青木功に続いて史上3人目。日米のツアーでの活躍など、世界的な活躍から「国際投票部門」で選出された初の女子選手である。2006年7月より東京スポーツで「祝! 殿堂入り記念 岡本綾子ゴルフのすべて」が連載された。
2005年12月20日、文部科学省からスポーツ振興に功績があった「スポーツ功労者」に選出された。郷土からは1993年に広島県民栄誉賞を受賞し、2005年には安芸津町名誉町民になっている。
[編集] 評価
女子ゴルフのみならず、戦後の女子スポーツ界に多大な足跡を残した人物[16][17]。また、ジャンルは違えど、野茂英雄をはじめイチローや松井秀喜に代表される現在の日本人スポーツ選手のアメリカにおける成功の礎を築いた第一人者といっても過言ではない[要出典][2]。文藝春秋編集部は、1988年に刊行した『「文藝春秋」にみるスポーツ昭和史』全三巻のあとがきに於いて "昭和のスーパー・スポーツマン十人" に織田幹雄、人見絹枝、双葉山、川上哲治、古橋廣之進、白井義男、力道山、長嶋茂雄、植村直己と共に岡本綾子を選んでいる。
[編集] 影響
イチローのバッティングのベースは岡本のスイングを参考にしたものという。イチローの父・鈴木宣之が岡本の美しいフォームから男子選手顔負けの飛距離を出すその打ち方を見て、か細いイチローに参考にならないかと研究。"イチロー打法"の大きな特徴であるインパクトの瞬間に、体重を軸足から前側の足にスムーズに移すことと上半身の大きな捻りによって、より強い力をボールに与え、速くて強い打球を打つ。こういったアドバイスをイチローに与えた。その後、中学、高校、プロを通じて、間の取り方を除いて、イチローのバッティングの基本は、小学校時代から変わっていないという[18]。
[編集] 人物
野菜ではピーマンが大の苦手。自宅の家庭菜園でもピーマンだけは絶対に作らないことに決めているという[9]。
[編集] 出演
- 岡本綾子のNECスーパーゴルフ(1979年10月 - 2001年3月、テレビ東京) - レギュラー出演
- 徹子の部屋(1985年11月7日、テレビ朝日) - ゲスト出演
[編集] 注
- ^ 岡本は著書『AYAKO―A LIFE STORY』の中で、ソフトボールを辞めた後、ボウリングやバスケットボールも勧められたが、ゴルフを選んだ理由の一つに「ゴルフ場は空に囲まれたまさに"カントリー"で、田舎者のわたしにはピッタリ。わたしが一番安心できる環境だった」と話している(『AYAKO―A LIFE STORY』、太田出版、1986年10月、p58、59)。
- ^ しかし、親族への連絡は常に怠らない。横浜在住の兄の長男による私設ファンクラブサイトは一部で愛されている。
- ^ 当時の日本の女子ゴルフ界はまだまだ発展途上で、トーナメントは年間20試合ほど。樋口や佐々木マサ子など、極く少数のトッププロだけが、日本で春先の試合の行われていない時期を利用して、アメリカのツアーに遠征した(『岡本綾子のメモリアル・グリーン』、p11)。
- ^ 岡本のLPGAツアー、フル参戦の表明は当時、日本女子プロゴルフ協会と揉めてマスメディアも大きく取り上げた。ほとんどのマスメディアは岡本のフル参戦を後押しする報道を行ったが、ある週刊誌が岡本のインタビューを歪曲して『岡本綾子激白、さよなら日本!女子プロゴルフにもう愛想がつきました』という記事を掲載し大きな問題となった(『AYAKO―A LIFE STORY』、p166―180)。
- ^ LPGAツアーテストは二度目の挑戦で合格。
[編集] 出典
- ^ 『AYAKO―A LIFE STORY』、p16、17
- ^ a b c 次世代に伝えるスポーツ物語 ゴルフ・岡本綾子
- ^ 『岡本綾子のメモリアル・グリーン』、日本放送出版協会、1994年、p9、10
- ^ 『AYAKO―A LIFE STORY』、p47
- ^ a b 小倉千加子『アイドル時代の神話 PARTII』、朝日新聞社、1991年、p9―31
- ^ 週刊新潮、1981年7月23日号23頁
- ^ “綾子も藍祝福「すごい。もっと勝てる」”. 日刊スポーツ. (2010年8月24日)
- ^ 名門ゴルフ一家出身 ブラドリー、メジャー初出場V
- ^ a b c d e f g h 東京スポーツ・2010年7月30日付 22面
- ^ a b c d 岡本綾子プロの秘蔵写真!:ゴルフの楽園:東スポWEB-東京スポーツ新聞社
- ^ U.S. Women's Open History
- ^ 本田靖春『戦後の巨星 二十四の物語』、講談社、2006年、208頁
- ^ 第44回 日本女子プロゴルフ選手権大会 コニカミノルタ杯、打倒岡本綾子! さくらが最終調整(日刊スポーツ)、岡本綾子プロフィール - Okamoto Ayako Official Homepage、若洲ゴルフリンクス|HOME
コース案内|富士OGMエクセレントクラブ 伊勢二見コース(公式サイト)、コース | ロイヤルフォレストゴルフ倶楽部、コース設計アドバイザー 岡本綾子 プロ | 花吉野カンツリー倶楽部、岡本綾子さんからのコメント、新武蔵丘ゴルフコース[営業内容] 、ゴルフ場ガイド - 竹原カントリークラブ(ゴルフ場詳細) - Yahoo!スポーツ、GUAMGOLF.NET::グアム ゴルフ最新情報::グアムインターナショナルカントリークラブ - ^ a b 「ゴルフダイジェストチョイス」2008年3月号、ゴルフダイジェスト社、p98-105
- ^ “綾子チルドレン”、女子ゴルフ界で羽ばたく :日本経済新聞
- ^ 讀賣新聞、2009年9月26日p27
- ^ 日米交流150周年記念外務大臣表彰状授与式について
- ^ 「溺愛 我が子イチロー」1997年6月、鈴木宣之著、週刊ベースボール、p75-78
[編集] 参考文献
- 「文藝春秋」にみるスポーツ昭和史 第三巻、文藝春秋、1988年8月
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 岡本綾子 公式ウェブサイト
- 岡本綾子(日本女子プロゴルフ協会のプロフィール)
- 岡本綾子 (全米女子プロゴルフ協会のプロフィール)(英語)
- 世界ゴルフ殿堂(英語)
- 次世代に伝えるスポーツ物語 ゴルフ・岡本綾子
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