美空ひばり

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美空 ひばり
1950年のブロマイド}
基本情報
出生名 加藤 和枝(かとう かずえ)
出生 1937年5月29日
出身地 日本の旗 日本 神奈川県横浜市磯子区滝頭
死没 1989年6月24日(満52歳没)
学歴 精華学園高等部卒業
ジャンル 歌謡曲演歌ジャズ
職業 歌手女優
担当楽器
活動期間 1949年 - 1989年
レーベル 日本コロムビア
事務所 ひばりプロダクション
公式サイト http://www.misorahibari.com/ 美空ひばり公式ウェブサイト

美空 ひばり(みそら ひばり、1937年昭和12年)5月29日 - 1989年平成元年)6月24日)は、日本歌手女優。昭和の歌謡界を代表する歌手・女優の1人。横浜市磯子区滝頭出身。横浜市立滝頭小学校、精華学園高等部卒業。女性として初の国民栄誉賞を受賞した。本名は加藤 和枝(かとう かずえ)。愛称は御嬢(おじょう)。身長147cm。

略歴[編集]

幼少期[編集]

神奈川県横浜市磯子区滝頭の魚屋「魚増」を営む父・加藤増吉、母・喜美枝の長女として生まれた。増吉は栃木県河内郡豊岡村(現:日光市)、喜美枝は東京山谷の出身[1]。妹は佐藤勢津子、弟はかとう哲也香山武彦。家にはレコードがあり、幼い頃より歌の好きな両親の影響を受け、ひばりは歌謡曲や流行歌を歌うことの楽しさを知ることとなった。

1943年6月、第二次世界大戦に父・増吉が出征となり壮行会が開かれ、ひばりは父のために『九段の母』を歌った。壮行会に集まった者達がひばりの歌に感銘し、涙する姿を目の当たりとした母・喜美枝はひばりの歌唱力に人を引き付ける可能性を見出して、地元の横浜近郊からひばりの歌による慰問活動を始めるようになった。

デビュー[編集]

デビュー当時の美空ひばり

終戦間もない1945年、私財を投じて自前の「青空楽団」を設立。近所の公民館・銭湯に舞台を作り、ひばり8歳のときに「美空」和枝(母の提案)の名で初舞台を踏む。

1946年、NHK『素人のど自慢』に出場し、予選で『リンゴの唄』を歌いひばり母子は合格を確信したが鐘が鳴らない。審査員は「うまいが子供らしくない」「非教育的だ」「真っ赤なドレスもよくない」という理由で悩んだ挙句、合格にできないと告げた。横浜市磯子区の杉田劇場で初舞台を踏む。翌年の春、横浜で行われたのど自慢大会終了後、審査員古賀政男のもとにひばり母子は駆けつけ、「どうか娘の歌を聴いてください!」と懇願する。ひばりはアカペラで古賀の「悲しき竹笛」を歌った。古賀はその子供とは思えない才能、度胸、理解力に感心し「きみはもうのど自慢の段階じゃない。もう立派にできあがっている」、「歌手になるなら頑張りなさい」とエールを送った。

1947年、横浜の杉田劇場[2]漫談井口静波俗曲音丸の前座歌手として出演。以来、この一行と地方巡業するようになる。高知県に巡業した際、現在の大豊町でひばり母子が乗っていたバスが前方からのトラックを避けようとした際に崖に転落。そのまま落ちれば穴内川で全員死亡だったが、運よくバンパーが一本の桜の木に引っかかりとまった。ひばりは左手首を切り、鼻血を流し気絶し、瞳孔も開き仮死状態だったが、たまたま村に居合わせた医師に救命措置をしてもらい、その夜に意識を取り戻した。家に戻った後、父は母に「もう歌はやめさせろ!」と怒鳴ったが、ひばりは「歌をやめるなら死ぬ!」と言い切った。

師・川田晴久との出会い[編集]

1948年2月、神戸松竹劇場への出演に際して、神戸での興行に影響力を持っていた暴力団・三代目山口組組長の田岡一雄に挨拶に出向き、気に入られた[3][4]。同年5月、まだ無名の存在であった11歳の少女・ひばりの才能を見込んだ当時人気絶頂のボードビリアン川田義雄(のちの川田晴久)に横浜国際劇場[5]公演に抜擢された。川田はひばりをそばに置いてかわいがり、また、ひばりも川田を「アニキ」と呼びよく懐いていた。川田に大きな影響を受けたひばりは、節回しを川田節から学んでいる。専門家による声紋鑑定でも二人の節回し、歌い方が一致する結果が出ている。ひばりは「師匠といえるのは父親と川田先生だけ」と後に語っている。

川田一座では当時のスター歌手笠置シズ子物真似(歌真似)が非常にうまく“ベビー笠置”と言われ拍手を浴びる。純粋に「かわいい」と見る層がいた反面、「子供が大人の恋愛の歌を歌うなんて」という違和感を持つ層も存在した。詩人作詞家サトウハチローは当時のひばりに対し「近頃、大人の真似をするゲテモノの少女歌手がいるようだ」と、批判的な論調の記事を書いている[6]

同年9月、喜劇役者・伴淳三郎の劇団・新風ショウに参加し、同一座が舞台興行を行っていた横浜国際劇場と準専属契約を結ぶ。この時、演出していた宝塚岡田恵吉に母親が芸名をつけてくれるように頼み、美空ひばりと命名してもらう。横浜国際劇場の支配人だった福島通人がその才能を認め、マネージャーとなって舞台の仕事を取り、次々と“ひばり映画”を企画することに成功した。

全国的人気を獲得[編集]

1949年1月、日劇のレビュー『ラブ・パレード』(主役・灰田勝彦)で笠置の『セコハン娘』、『東京ブギウギ』を歌い踊る子供が面白がられ、同年3月には東横映画のど自慢狂時代』(大映配給)でブギウギを歌う少女として映画初出演。8月には松竹『踊る竜宮城』に出演し、主題歌『河童ブギウギ』でコロムビアから歌手としてB面であるが11歳で正式にレコードデビュー(7月30日)を果たした。続いて12歳で映画主演を果たした『悲しき口笛』(松竹)が大ヒット、同主題歌も45万枚売れ(当時の史上最高記録)国民的認知度を得た。この時の「シルクハットに燕尾服」で歌う映像は小さいときのひばりを代表するものとしてよく取り上げられる。

1950年、川田晴久とともに第100歩兵大隊二世部隊記念碑建立基金募集公演のため渡米。帰国してすぐに2人の主演で『東京キッド』に出演。映画とともに同名の主題歌も前作同様の大ヒットとなった。

1951年、松竹『あの丘越えて』で人気絶頂の鶴田浩二が扮する大学生を慕う役を演じたが、実生活でも鶴田を慕い、ひばりは鶴田を“お兄ちゃん”と呼ぶようになった。同年5月新芸術プロダクション新芸プロ)を設立。代表取締役社長が福島通人、役員にひばり、川田晴久、斎藤寅次郎がなる。同年、嵐寛寿郎主演の松竹『鞍馬天狗・角兵衛獅子』に杉作少年役で出演。以後これを持ち役とした。

1952年、女性として初めて歌舞伎座の舞台に立った。同年、映画『リンゴ園の少女』の主題歌『リンゴ追分』が当時の史上最高記録となる70万枚を売り上げる大ヒットとなった。

1953年、『お嬢さん社長』に主演。喜美枝は、ひばりを「お嬢」と呼ぶようになり、その後、周りもそう呼ぶようになった。初代中村錦之助を歌舞伎界からスカウトして映画「ひよどり草紙」で共演。錦之助は翌年、東映時代劇の大スターとなった。この後、新人男優はひばりの相手役となることで世間に認知され、大スターとなる、というジンクスが生まれた。

三人娘の時代[編集]

1954年、『ひばりのマドロスさん』で第5回NHK紅白歌合戦に初出場[7]1955年には江利チエミ雪村いづみとともに東宝映画『ジャンケン娘』に出演したことを契機に、「三人娘」として人気を博した。また、松竹東映製作映画を中心に映画にも多数出演し、歌手であると同時に映画界の銀幕のスターとしての人気を得た。

1956年、ジャズバンド小野満とスイング・ビーバーズ小野満と婚約。その後、この婚約は破棄した。初の那覇[8]公演を沖縄東宝で行い、1週間で5万人を動員。離島からのファンで那覇港は大混雑した。

1957年1月13日、浅草国際劇場にて、ショーを観に来ていた少女から塩酸を顔にかけられ浅草寺病院に緊急搬送されて入院した。その後、歌舞伎座公演に復帰(奇跡的に顔に傷は残らなかった)。塩酸をかけた少女はひばりの熱烈なファンだったという。現場に居合わせたブロマイド業者らによって犯人の少女は取り押さえられ警察に突き出された。また、紅白の裏番組として放送されていたラジオ東京テレビ(現:TBSテレビ)の『オールスター大行進』に出演していたため出場していなかった紅白歌合戦に3年ぶりに出場し、出場2回目にして渡辺はま子二葉あき子らベテラン歌手を抑えて初めて紅組トリ(大トリ)を務めあげ、当時のひばりは既に芸能界における黄金期を迎えていた。

1958年4月1日、山口組三代目田岡一雄が正式に神戸芸能社の看板を掲げた。同年4月、美空ひばりは神戸芸能社の専属となり、同年6月にはひばりプロダクションを設立して副社長に田岡一雄が就任した。同年7月、東映と映画出演の専属契約を結んだ。『ひばり捕物帳』シリーズや『べらんめえ芸者』シリーズ、『ひばりの佐渡情話』(1962年)など続々ヒット映画にも恵まれた。

1960年、『哀愁波止場』で第2回日本レコード大賞歌唱賞を受賞、「歌謡界の女王」の異名をとるようになった。

小林旭との短い結婚・離婚後[編集]

1962年、日活の人気スターであった俳優・小林旭と結婚。出会いは雑誌が企画した対談の場だった[9]。交際を始めるが、小林は結婚をまだ考えていなかったにも関わらず、ひばりが入れあげ、父親代わりでもあった田岡一雄に、自分の意志を小林へ伝えるよう頼んだ[9]。ひばりの意を汲んだ田岡は小林に結婚を強引に迫ってきたので、小林は断れず1962年(昭和37年)に結婚した[9][10]。小林は「結婚生活でのひばりは懸命によき妻を演じようとし、女としては最高だった」と『徹子の部屋』で述懐している。小林は入籍を希望していたが、ひばりの母に不動産処分の問題があるからと断られ続け、入籍しておらず、戸籍上ではひばりは生涯独身であった[10]。ひばりは一時的に仕事をセーブするようになるが、実母にしてマネージャーである喜美枝や周辺関係者が二人の間に絶え間なく介入し、結婚生活はままならなかった。また、ひばり自身も歌に対する未練を残したままだったため、仕事を少しずつ再開し小林が求めた家庭の妻として傍にいてほしい願いも叶わなかった。また結婚した翌1963年には、ひばりの実父・増吉が肺結核により50歳で亡くなっている。

別居後の1964年、わずか2年あまりで小林と離婚。会見の2日前にひばり親子から頼まれた田岡が小林に「おまえと一緒にいることが、ひばりにとって解放されていないことになるんだから、別れてやれや」と引導を渡され、逆らうことは出来なかったと小林は自著で述べている[10][11]。記者会見は別々に開かれ、小林の会見には田岡と菱和プロ社長・嘉山登一郎が同席した[11]。小林は「本人同士が話し合わないで別れるのは心残りだが、和枝(ひばりの本名)が僕と結婚しているより、芸術と結婚したほうが幸せになれるのなら、と思って、理解離婚に踏み切った」と説明[11]。この「理解離婚」という言葉は当時流行語となった。「未練はいっぱいある。皆さんの前で泣きたいくらいだ」と離婚は小林の本意でなかったとも語っている。

その1時間半後にひばりも田岡に同席してもらい、記者会見を行った[11]。ひばりは田岡に口添えされながら、「理由をお話したいのですが、それを言ってはお互いに傷つける」「自分が幸せになる道を選んだ」と答えた[11]。また「私が芸を捨てきれないことに対する無理解です」「芸を捨て、母を捨てることはできなかった」とも語り、今後は舞台を主に頑張ると語った。

離婚直後に発表した『』は東京オリンピックともあいまって翌1965年にかけて大ヒット。180万枚というひばりとしては全シングルの中で最大のヒット曲となった。この曲で1965年、第7回日本レコード大賞を受賞。1966年には『悲しい酒』が145万枚を売り上げ[12]、1967年には『芸道一代』、ポップス調の楽曲でグループサウンズジャッキー吉川とブルーコメッツとの共演やミニスカートの衣装が大きな話題となり、140万枚を売り上げた『真赤な太陽』と、ひばりの代表作となる作品が次々と発表され、健在ぶりを示した。

母・喜美枝との二人三脚時代[編集]

1964年、新宿コマ劇場で初の座長公演を行い、演技者としての活動の場を次第に映画から舞台に移し(初の座長公演は『ひばりのすべて』、『女の花道』)、同劇場のほか、名古屋の御園座、大阪の梅田コマ劇場にて長年にわたり座長を張り続けた。離婚後のひばりを常に影となり支え続けたのが、最大の理解者であり、ひばりを誰よりも巧みにプロデュースする存在となっていた母・喜美枝だった。ひばりは傍らに喜美枝を従えて日本全国のコンサート会場・テレビ出演なども精力的に活動した。当時のマスコミからはステージママの域を越えた存在として、「一卵性親子」なるニックネームを付けられた。

1970年8月日系ブラジル人の求めに応じてサンパウロブラジル公演。[13]

1970年、第21回NHK紅白歌合戦で紅組司会・大トリを担当。紅白史上初且つ唯一の組司会と大トリの兼任である(その後、1985年第36回森昌子1987年第38回和田アキ子が紅組司会と紅組トリを兼任したケースはある)。この時の歌唱曲は弟・かとう哲也作曲の「人生将棋」。歌手兼司会の前例はあったが、組司会がトリを務めるということはまだなかったため、ひばりが紅組司会に決まった時点で、紅組トリは青江三奈(当時女性歌手のヒットNo.1)との構想が固まっていた。ところがひばりは司会発表会見で「お話を頂いた時は司会だけで歌手としては出場できないのでは…と思いました。来年は歌手生活25周年にもあたります。やはり歌手としてはトリを歌いたい」と発言、結局ひばりの紅組司会兼大トリが半ば強引に決定した。

この時期も田岡一雄は父親代わりの存在としてひばりを庇護し、ひばりは1981年の田岡の葬儀にも出席している。この暴力団との関係が後の「ひばり・スキャンダル」に繋がることになった。

兄弟とひばりのトラブル・相次ぐ肉親の死[編集]

1973年、実弟のかとう哲也が起こした不祥事により[14]、ひばり一家と暴力団山口組および田岡との関係も問題とされ、全国の公会堂や市民ホールから「暴力団組員の弟を出演させるなら出させない」と使用拒否されるなど、バッシングが起こりマスコミも大きく取り上げた。しかし、ひばり母子は家族の絆は大事だとし、哲也をはずさなかった。この結果、1973年末、17回出場し1963年から10年連続で紅組トリを務めていた紅白歌合戦への出場を辞退した[15]。そのためこの年から数年間、大晦日は日本教育テレビ(現:テレビ朝日)の取り計らいで、同局『美空ひばりショー』に出演。以後、NHKからオファーが来ても断り続けた。1977年、当時の同局の人気番組であった『ビッグ・ショー』で4年ぶりにNHK番組に出演し、関係を修復。しかし紅白に正式な出場歌手として復帰することはなかった[16]

1970年代以降、ヒット曲には恵まれなかったが、この時代に入ると演歌歌謡曲のほかにも軽快なポップスやリズム歌謡、ジャズのスタンダードやオペラのアリアに至るまで幅広いジャンルの楽曲を自らのスタイルで数多くのテレビ番組やレコードなどで発表し、歌手としての再評価を受けることとなる。岡林信康(「月の夜汽車」〈1975年〉)、来生たかお(「笑ってよムーンライト」〈1983年〉)、小椋佳(「愛燦燦」〈1986年〉)、イルカ(「夢ひとり」〈1984年〉)など、時代の話題のアーティスト / クリエイターなどとのコラボレートもしばしば行われた。また、新曲のキャンペーン活動にもこの時代には活発に参加するようになり、1980年に誰もが唄える歌として発表した『おまえに惚れた』はこのキャンペーン活動が功を奏す形で久々のヒットとなった。

しかし1980年代に入り、1981年には実母・喜美枝が転移性脳腫瘍により68歳で死去。また、父親の代わりを担っていた田岡一雄も相次いで亡くなった。1982年に「三人娘」以来の良きライバルで有り、大の親友だった江利チエミが45歳で急死した。1984年は「銭形平次」を18年間主役を演じ、同番組の最終回にひばりが特別出演するなど親交のあった大川橋蔵も55歳で死去した。さらには、ひばりの2人の実弟だった、かとう哲也(1983年)と香山武彦(1986年)まで、共に42歳の若さで次々と肉親を亡くすという悲運が続く。ひばりはかとうの実子である加藤和也を1977年に養子として迎えていたが、悲しみ・寂しさを癒やすために嗜んでいたタバコの量は日に日に増し、徐々にひばりの体を蝕んでいった。

晩年・病魔との闘い[編集]

1985年5月、ひばりの誕生日記念ゴルフコンペでプレー中に腰をひねり、両足内側にひきつるような痛みが走ったという。その頃からひばりは原因不明の腰痛を訴えるが、徐々に腰の痛みが悪化していく中でも、ひばりは微塵も感じさせない熱唱を見せていた。だが2年後の1987年(昭和62年)、全国ツアーを四国を皮切りに各地で展開していたものの、ひばりの足腰の激痛はついに耐えられない状態に陥った。そして同年4月22日、公演先の福岡市で極度の体調不良を訴え、同市中央区福岡県済生会福岡総合病院に緊急入院。重度の慢性肝炎および両側特発性大腿骨頭壊死症診断され、約3か月半にわたり同病院にて療養に専念となった(入院当時実際の病名は「肝硬変」であったが、マスコミには一切発表しなかった。ひばりの病状は深刻だったが隠し通して、公表する病名の程度を低くした)。また、それに伴い同年5月に予定された、明治座の公演中止を発表。入院して約1か月後の同年5月29日、ひばりは丁度50歳の誕生日を迎えていた。

入院中の1987年6月16日に鶴田浩二、7月17日には石原裕次郎と、ひばり自身とも親交が深かった昭和の大スターが相次いで亡くなる中、ひばりは入院から3か月経過後の同年8月3日に無事退院を果たし、病院の外で待っていた沢山のひばりファン達に笑いながら投げキッスを見せた。退院後の記者会見では「『もう一度歌いたい』という信念が、私の中にいつも消えないでおりました。ひばりは生きております」と感極まって涙を見せる場面もあったが、最後は「お酒は止めますが、歌は辞めません」と笑顔で締めくくった。退院後の約2か月間は自宅療養に努め、同年10月9日に行われた新曲『みだれ髪』のレコーディング(シングルレコード発売は12月10日)より芸能活動の復活を果たす。

しかし、病気は決して完治した訳ではなく、肝機能の数値は通常の6割程度しか回復しておらず、大腿骨頭壊死の治癒も難しいとされた。ある日、里見浩太朗が退院後のひばりを訪ねた際、階段の手すりに掴まりながら一歩一歩と下りてきたと後に語った。それが里見自身ひばりとの最後の対面だったという。

伝説のステージ「東京ドーム」公演[編集]

1988年(昭和63年)初頭はハワイで静養、2月下旬に帰国。同年4月に開催予定の東京ドーム公演に向けて下見や衣装、また当日の演出など準備段階は止められない処まで来ていたが、足腰の痛みは殆ど回復する事はなく、体調が思わしくないまま公演本番の日を迎える。

1988年4月11日、東京ドームのこけら落し[17][18]となる「不死鳥コンサート」を実施。ひばり自身フィナーレの「人生一路」を歌い終えた際、思い通りに歌えなかったのか首を傾げたという。この頃のひばりは既に体重が明らかに減り、痩せ始めていた。前年の退院会見の頃と比べると一目瞭然であったが、脚の激痛に耐えながら合計39曲を熱唱した。

その東京ドーム公演当日は会場に一番近い部屋を楽屋とし、簡易ベッドと共に医師も控えていた。また、万一の事態に備えて裏手に救急車も控えていた。公演の際に楽屋を訪れた親友の浅丘ルリ子は、まるで病室のような楽屋とひばりの様子に衝撃を受けたと語る。楽屋でひばりはベッドに横たわっており、浅丘が「大丈夫?」と問いかけると、ひばりは「大丈夫じゃないけど頑張るわ」と答えたという。ドーム公演のエンディングで、約100mもの花道をゆっくりと歩いたひばりの顔は、まるで苦痛で歪んでいるかのようであった。とても歩ける状態では無いにも拘らず、沢山のひばりファンに手を振り続けながら全快をアピール。そのゴール地点には息子・和也が控え、ひばりは倒れこむように和也の元へ辿り着き、そのまま救急車に乗せられて東京ドームを後にしたという。当時マスコミ各社はひばりの「完全復活」を報道したが、ひばり自身にとっては命を削って臨んだ、伝説のステージとなった。

東京ドーム公演を境に、ひばりの体調は次第に悪化し、段差を1人で上ることさえ困難になり、リフトを使い舞台上にあがる程の状態だった。ドーム公演後全国13カ所での公演が決まっており、翌1989年2月7日小倉公演までの10か月間、全国公演を含めテレビ番組収録など精力的に仕事を行った。1988年6月7日には極秘で一時入院したが、すぐ仕事を再開。同年7月29日に「広島平和音楽祭」(「一本の鉛筆」を歌唱)に加え、8月21日には「佐久音楽祭」に出演した。ひばりにしては珍しく「佐久音楽祭」では屋外ステージで歌った。映像は残され、現在の特番でも放映されている。

生涯最後のシングル「川の流れのように」[編集]

1988年10月28日には、前日神津はづきからのお友達紹介で、フジテレビの人気番組『笑っていいとも!』のテレホンショッキングコーナーに最初で最後の出演を果たした(ひばりからのお友達紹介は岸本加世子)。またその頃、作詞家秋元康の企画による『不死鳥パートII』との題名で、生前最後となるオリジナルアルバムのレコーディングも行い、秋元や作曲家見岳章といった若い世代のクリエーターとの邂逅により、音楽活動を幅広く展開する意欲も見せた。そのアルバムの中には、生涯最後にレコーディングしたシングル曲『川の流れのように』(作詞・秋元康、作曲・見岳章)が入っていた。同曲はまたひばり自らシングル化を強く迫り、希望通りに形となった。

そのきっかけとなったのが、同年10月11日にオリジナルアルバム製作の報告も兼ね、日本コロムビア本社内で行われたひばり生涯最後の記者会見の時であった。この記者会見前にひばりは、当初はシングル化されるはずだったアルバム内の1曲『ハハハ』を秋元康が立ち合いの下、公開初披露された後で会見が組まれた。ある記者が「ひばりさん、今回のアルバムを楽しみにされているファンの方々が沢山いらっしゃるかと思いますけれども、アルバムに収録されている10曲がどんな曲なのか、紹介していただけますか?」と投げかけた。するとひばりは「えー… もう『川の流れのように』の曲を1曲聴いていただくと、10曲全てが分かるんじゃないでしょうか。だからこれからの私。大海へスーッと流れる川であるか、どこかへそれちゃう川であるかっていうのは誰にも分からないのでね。だから『愛燦燦』とはまた違う意味のね、人生の歌じゃないかなって思いますね…」との全てを覆す回答を残した。ひばりの記者会見後、製作部はバタバタしながら1989年1月のリリース準備に入ったエピソードが残されている。

同年12月中旬、翌1989年(昭和64年)1月4日にTBSテレビで放送の、生涯最後のワンマンショー『春一番! 熱唱美空ひばり』の収録に臨んだ。総合司会は堺正章が担当し、特別ゲストには森光子尾崎将司が出演。収録前に歓迎会が行われ、スタッフからひばりへ花束の手渡しなどがあり、ひばり自身スタッフの熱意を肌で感じていた。ひばりは、演出スタッフに向かって「この番組が最後になるのよ、これ」と話していたという。後に堺がひばりの追悼番組で、当時「どういう意味の最後かは定かではないが…」と話している。かなり窶れ青ざめ透き通り、脚の激痛と息苦しさで歌う時は殆ど動かないままの歌唱であった。立っているだけで限界だったひばりは、歌を歌い終わる度に椅子に腰掛け、息を整えていたという。それでも同番組のフィナーレでは、番組制作に携わったスタッフやゲストらに感謝の言葉を述べ、「これからもひばりは、出来る限り歌い続けてゆくことでしょう。それは、自分が選んだ道だから」という言葉で締め括る。そして新曲『川の流れのように』の歌唱後、芸能界の大先輩でもある森繁久彌からの激励のメッセージを受けると、感極まったひばりは堪えきれずに涙を流し続けた。

1988年12月25日、26日と帝国ホテルにて、生涯最後のクリスマスディナーショーが行われ、石井ふく子王貞治らひばりの友人も足を運んだ。無理を押しての歌中、激しいツイストで観衆を沸かせていた。ディナーショー終了後、石井と王らが会食していた神楽坂の料亭に連絡無しにいきなり現れたひばりが、特別な時にしか人前で披露しなかった浪曲「唄入り観音経」を歌唱。石井は2010年6月にTBS系で放映された特番で「全身が総毛立ったの。素晴らしかったですよ。なんで録っておかなかったんだろうと今でも悔いています」と語った。

昭和から平成へ・再入院[編集]

そして年が明け、1989年1月7日に昭和天皇が崩御。その翌日の同年1月8日、元号が「昭和」から「平成」へ移り変わったその日、ひばりは「平成の我 新海に流れつき 命の歌よ 穏やかに…」という短歌を詠んだ。その3日後の1989年(平成元年)1月11日、『川の流れのように』のシングルレコードが発売される。しかしこの時のひばりの肺は、既に病に侵されていた。

1989年1月15日、テレビ東京「演歌の花道」・フジテレビ「ミュージックフェア」へそれぞれVTRで出演、各番組の最後で『川の流れのように』など数曲を歌ったが、「ミュージックフェア」が放送時間上ひばりにとって、結果的に生前最後のテレビ出演となった。同番組の1989年第1回目の放送は『美空ひばり特集』で、元々は同年1月8日放送予定だったが、昭和天皇の崩御にともない特別編成が組まれ、1週間先送りとなった。この頃のひばりはドーム公演時から見てもさらに痩せ、明らかに体調は悪化していた。なお、1月中のひばりは熱海への家族旅行や両国国技館大相撲見物の他、自宅での静養が多かったとされる。体調が一時期平行線であっても、好転することはなかった。

1989年2月、ひばりにその運命の時が訪れる。コンサートの数日前、早めに現地入りしたひばりは、医師の診療を受けた際に以前より病状が芳しくない状態であることを告げられていた。それでもこの年の全国ツアー「歌は我が命」でスタートさせた初日、2月6日福岡サンパレス公演で、持病の肝硬変の悪化からくるチアノーゼ状態となる。公演中の足のふらつきなど、舞台袖から見ても明らかであったが、ひばりは周囲の大反対を押し切り、翌日の小倉公演までの約束でコンサートを強行した。

1989年2月7日、福岡県北九州市小倉での公演がひばりの生涯最後のステージとなったが、車や新幹線での移動に耐えられない程衰えていたため急遽ヘリコプターの往復移動となり、会場の楽屋入り後すぐひばりは横になった。酸素吸入器と共に医師が控え、肝硬変の悪化からくる食道静脈瘤も抱え、いつ倒れて吐血してもおかしくない状態だったという。当時同行した息子・和也は後に「おふくろはもう気力だけで立っていたんだと思います。お医者さんには、間髪入れずに『倒れて出血したらもう終わりです。喉を切開して血を抜かないと、窒息をしちゃいますよ。いつ倒れてもおかしくないからね』って言われてたんで、袖で陣取っていたんですけど、ここの時ほど心細い時はなかった。本当… 死んだ親父や、ばあちゃんがいたらな、って思いましたよ」と語っている。開演時間になるとひばりは起き上がり、ステージへ向かう。廊下からステージに入る間の、わずか数センチの段差も1人では乗り越えられなかった。またコンサート中大半がいすに座りながらでの歌唱であった。息苦しさをMCでごまかすひばりだが、翌3月に診断される「突発性間質性肺炎」の病状は進行していた。だが1,100人の観衆を前にひばりは、全20曲無事に歌い終わった。

翌日の1989年2月8日、2年前と同じ済生会福岡総合病院に検査入院。一旦は退院し、マスコミから避けて福岡の知人宅に2月下旬まで滞在後、再びヘリコプターで東京へ帰京。その際、新木場ヘリポートから自宅までは車での移動であったが、体力が既に限界を超えていた。

3月上旬に入ってからは自宅静養の日々が続き、ツアーを断念せざるを得ない状況の中でも、同年4月17日に全国ツアーの1か所として予定され、かつ自らの故郷である横浜に新しく竣工した横浜アリーナのこけら落とし公演の舞台に立つことに執念を見せ、「私は『横浜アリーナ』の舞台に立ちたい。ここでの公演だけは這いずってでもやりたい!」と譲らず、母の体調を案じて公演の中止を迫る和也との間で度々口論していたという。その口論の日々が書かれた直筆の日記が、今も特番で公開されることがある。

その頃知人の紹介で、近所の診療所の医師に診察を仰いだが、手の指先や顔色も青ざめたひばりが診療室に入ってきた姿を、目の当たりにしたその医師からひばりは肺の状態の説明も受け、専門医のいる病院への入院を強く勧められた。そして3月9日に数時間、静養中の自宅を訪れた診療所の医師からひばりは強い説得を受けた後、椅子に腰かけながら真正面を向いたまま涙を流し、何かを悟るかのように長い時間沈黙があったという。その沈黙後、ひばりはついに再入院の決断を下した。

3月中旬にひばりは再度検査入院した後で一時退院、3月21日にはラジオのニッポン放送で『美空ひばり感動この一曲』と題する、10時間ロングランの特集番組へ自宅から生出演した。番組終盤には自ら「ひばりに引退はありません。ずっと歌い続けて、いつの間にかいなくなるのよ」とコメント。これが結果的に歌以外では、このラジオ出演が美空ひばりにとって生涯最後のマスメディアの仕事となった。ラジオ生放送終了直後、体調が急変したため東京都文京区順天堂大学医学部附属順天堂医院に再入院となった。

52歳、無念の死[編集]

再入院から2日後の1989年3月23日、「アレルギー性気管支炎の悪化」「難治性の咳」など呼吸器系の療養専念により、横浜アリーナの柿落としコンサートを初めとするその他全国ツアーも全て中止、さらに歌手業を含めた芸能活動の年内休止を、息子の和也から発表された(再入院当時「突発性間質性肺炎」の病名は公表されなかった)。なお、和也は本当の病名をひばり本人には最期まで伏せるも、3月上旬に診察を受けた医師にひばりは、既に間質性肺炎の説明を受け自身の病状を分かっていた。しかし和也には知らないふりをして病室でずっと過ごしていたという。なお、闘病生活を書き記したひばりの付き人の記録に「コメカミの血管が破れそうにドキドキする」とあった。尚この間質性肺炎となった要因は「原因不明」とされ、又この病気の治療法は主にステロイドホルモンが有効とされるが、既にひばりは肝硬変の症状もあって、副作用の懸念からステロイド剤も殆ど使えなかったという。

その後も、はっきり報道されないひばりの容態から「もう歌えない」「復活は絶望的」などと大きく騒ぎ始めるマスコミに対し、入院中の同年5月27日にひばりは、再入院時の写真などと共に「麦畑 ひばりが一羽 飛び立ちて… その鳥撃つな 村人よ!」とのメッセージを発表。これがひばりからの、生涯最後のメッセージとなった。それから2日後の5月29日は病室で52歳の誕生日を迎えたが、同年6月13日にひばりは呼吸困難の重体に陥り、人工呼吸器がつけられた。なおひばりの生涯最後の言葉は、順天堂病院の医師団に対して「よろしくお願いします。頑張ります」だったという。また和也が死の数日前に「おふくろ、頑張れよ」と声を掛けると、ひばりは最期を覚悟したのか両目に涙を一杯溜めていたと、のちに和也自身が語っている。

そして1989年6月24日未明の午前0時28分、再度「奇跡の復活」は果たせぬまま、突発性間質性肺炎の症状悪化による呼吸不全の併発により逝去した。52歳没。

同年7月22日に青山葬儀所で行われた葬儀では4万2千人が訪れた。喪主は息子の和也が務め、葬儀では萬屋錦之介中村メイコ王貞治和田アキ子とんねるず石橋貴明が弔辞を読み上げ、北島三郎森昌子藤井フミヤ(当時チェッカーズ)・近藤真彦などひばりを慕った歌手仲間が『川の流れのように』を歌い、美空ひばりの霊前に捧げた。戒名は慈唱院美空日和清大姉。墓所は横浜市港南区横浜市営日野公園墓地にある。

美空ひばりの通算レコーディング曲数は1,500曲、オリジナル楽曲は517曲であった。

死後[編集]

福島県いわき市塩屋埼 美空ひばり遺影碑、コモンズ画像

1988年、福島県いわき市塩屋崎を舞台に作詞されたのが縁で、「みだれ髪」の歌碑が建立された。ひばりの死後ここを訪れるファンが増え続け、1990年に新たなひばり遺影碑が立てられ、周辺の道路420m区間もいわき市が整備を行い「ひばり街道」として1998年に完成した。さらに2002年には幼少期のひばり主演映画「悲しき口笛」のひばりをモデルにした銅像も建立になった。毎年約30万人のファン・観光客がひばりを偲んで訪れる。

1993年4月、京都市嵐山に「美空ひばり館」が開館、愛用品のコレクションなどが展示され、ファンや観光客が訪れていた。しかし来館者数の減少により、2006年11月30日に一旦閉館。その後運営主体を「ひばりプロダクション」に変更し、2008年4月26日に「京都嵐山美空ひばり座」と改名の上リニューアルオープンした。2013年4月26日、開館5周年イベントが催され、この場でひばりプロ社長・加藤和也から同年5月31日限りで閉館することが発表。同館は5月31日限りで閉館された。

しかし、「京都嵐山美空ひばり座」の閉館からおよそ半年が経った2013年10月12日には同じく京都市にある東映太秦映画村の映画文化館の1階に、「京都太秦美空ひばり座」が改めてオープンした。館内には舞台衣装、台本などのゆかりの品々が約500点並び、東京ドームでの「不死鳥コンサート」で着用したドレスや、初めて東映映画に出演した1949年の『のど自慢狂時代』以降の全93作品の復元ポスターなどが展示されている[19]。さらに、2014年5月には東京都目黒区のひばり邸の一部を改装し、『美空ひばり記念館』として改めてオープンさせることが発表された[20]

2005年公開の映画『オペレッタ狸御殿』(鈴木清順監督)では、デジタル技術でスクリーンに甦りオダギリジョーチャン・ツィイーと共演した。

日本を代表する伝説的ボーカリストとして、多くのアーティストやタレントに影響を及ぼし、企画盤や未発表曲が定期的に発表、ビデオ上映コンサートも開催されるなど、永遠の歌姫として根強い人気を獲得している。レコードの累計売上は8000万枚に達する。

2011年には、23回忌で「美空ひばり トレジャーズ」(1月19日)や「ひばり 千夜一夜」(8月3日)などを発売した。

『美空ひばり トレジャーズ』は、日本コロムビアの創立100周年の記念も兼ね発売されたトレジャーブックである。この商品には、ひばりのエピソード全69話からなる本や写真133枚(未公開を含む)、サインや手紙のレプリカが48点、未発表曲「月の砂漠」を含む計30曲が収録された2枚組のCDが収められている。1万セット限定で1万3800円で発売された。

『ひばり 千夜一夜』は、1,001曲の楽曲を収めたCD56枚&DVD2枚の12万円のセットである。構成は、1949年のデビュー曲「河童ブギウギ」から1989年のラストシングル「川の流れのように」・「あきれたね」までの「シングルコレクション」が32枚、580曲。ジャズや民謡の「カバー・コレクション」が17枚、304曲。ほかにも「オリジナル曲」が5枚、93曲。「カラオケDVD」が2枚、24曲で1001曲である。(ライブ音源CDを除く)ちなみに「河童ブギウギ」のA面の「楽しいささやき」は含まれていない。特典もついており、「森英恵デザイン 特製赤いコサージュ(不死鳥コンサート時の物のレプリカ)」や「特製写真立て(不死鳥コンサート時の赤い衣装のポートレート付)」、「特製CDキャリングケース(携帯ディスクケース)」、「カラー写真集(全96ページ)」、「別冊歌詞集(2冊)」、「三方背収納BOX」、「おしどり・イン・ザ・ナイト(12曲入りCD)」、「あの歌・この歌〜美空ひばり昭和を歌う〜(21曲入りCD)」がある。単一歌手が1000曲以上を収録したBOXを発売するのは初めてであり、最大収録数である。 日本コロムビアや加藤和也など関係者は、ギネス・ワールド・レコーズへの申請を検討している。申請すれば可能性は、高いといわれている。

2013年には、ひばりが芸能生活35周年として1981年に出演したテレビ番組『ザ・スター』を映像補正の上、編集した作品『ザ・スター美空ひばり』が公開された。フジテレビの倉庫で発見された、同番組の未放送部分を含むマスター収録テープをデジタル技術で復活させ、ひばりの代表曲や同番組でのみ披露された未発表曲「ウォーク・アウェイ 想い出は涙だけ」を歌いあげるひばりの姿がスクリーンで上映された。

評価[編集]

没後の1989年7月、長年の歌謡界に対する貢献を評価され、女性として初めてとなる国民栄誉賞を受賞(歌手としては藤山一郎と2人だけ)し、息子の加藤和也が授賞式に出席した。その後も和也はひばりプロダクションの社長として、ひばりの楽曲管理や様々な顕彰活動(下記)に関わることになった。

エピソード[編集]

  • 無名時代の牧伸二がひばりの地方巡業公演で前座を務めていた際、牧の漫談が会場を湧かせる場面をひばりとその母(加藤喜美枝)が見てこれを気に入り、ひばり母子は「牧さんはすぐにスターになりますよ。見ていてご覧なさいな」と関係者に後年のブレークを予見する発言をしていたという[21]
  • 大阪・北野劇場に「美空ひばりショー」で来演したひばりのお芝居の相手役(東京公演では津川雅彦が演じた役)を当時同劇場の専属コメディアンで売り出し中の大村崑が抜擢されたが、大村が登場する度に馴染みの観客が笑うので母・喜美枝の怒りに触れ大村は下ろされる(その後その役は堺駿二が務めた)。大村はその時の悔しさを忘れなかった。それから年月が経ち、1970年9月に新宿コマ劇場で香山武彦と共演した際に「弟がお世話になってます」と、ひばりから食事の招待を受ける。ここぞとばかりに当時のことを母・喜美枝に話すと「崑さん、お嬢も今まで沢山いじめられてきたのよ。あなたは私だけでしょ。」と慰められる。すると、ひばりが大村のためだけに耳元で「柔」を熱唱。それに感激した大村は全てのことを水に流したと言う。その時、ひばりから贈られたお守りは肌身離さず大切にしている。
  • ひばりは各界の大物スターたちとの交友が深かったが、特に王貞治プロ野球選手)とは『義姉弟』(王貞治本人談)というほど、肝胆相照らす仲であった。
  • 1984年の「第35回NHK紅白歌合戦」は、紅組トリおよび大トリの都はるみの引退ステージ(後に復帰)となったが、都の歌唱後に総合司会の生方恵一(当時NHKアナウンサー)が都の名前を「ミソラ」と言い間違える失態を演じた。ひばりは上記の通り、1973年以降紅白には出場依頼が来ても受けなくなるなど確執があったがこの時、親友の浅丘ルリ子らと自宅のテレビで紅白を観ており、「あっ! ウブさん、今変なこと言ったよ」と浅丘と思わず顔を見合わせた後、「ウブさんったら、私のことホント好きなんだから」と苦笑いしたという。この場面をテレビで見ていたひばりの関係者は、「お嬢、大変なことが起きた!」と叫んだとされる。その後ひばりは「あのアナウンサーの人(生方)があれでNHKをクビになるんだったら、私が一生食べさせてあげなきゃ」とも話していた。
  • 日本中央競馬会に馬主として登録したこともあり、「タケシコオー」という牝馬を走らせていた[22]
  • 在日韓国・朝鮮人の間では、「美空ひばりは在日韓国・朝鮮人である」という噂が長い間信じられていて、この噂を受けてひばりが死去した1989年に韓国週刊誌で在日韓国・朝鮮人であるかのような記述があったが、『週刊文春』1989年8月10日号や吉田司竹中労らは事実無根の都市伝説であると証明している。しかし、この噂は韓国本国に広まっておりその後も継続して美空ひばりは在日韓国人だとして報道されており[23]、これを元に一部の海外メディアでも韓国人として報道されたことがある。ニューシスは、2013年12月22日「美空ひばりなど演歌歌手の相当数が韓国系」であることを前提に、演歌の起源を韓国とする説を紹介した。
  • デビュー当初のサトウハチローや服部良一から、飯沢匡に至るまで批判的な言論も連綿と続き、逝去の直後には日本的慣例に関して小林信彦が批判を発表した。もっとも、才能を全面的に否定するものは少なく、小林の批判も没後の一億総服喪的な過剰報道に対する反発から書かれたものであり、ここではモダニズムの要素も多分に持っていたひばりの才能が日本的にウェットな演歌のカテゴリーに押し込められていったことへの疑問が呈されている。
  • 1981年、母・喜美枝が亡くなった際、火葬場にて最後の別れが終わった後、母の入った棺がかまどの中に入る際にひばりは叫び声をあげ、一緒にかまどの中に向かおうとし、参列していた高倉健と萬屋錦之介に止められた[24]
  • ひばりは基本的に芸人を相手にしていなかったが、唯一とんねるずは認めており2人のことをタカ、ノリと呼び、とんねるずはひばりをお嬢と呼んでいた。テレビでの共演は『とんねるずのみなさんのおかげです』に、VTRで会話をしたのと、ひばり50歳の時にとんねるずがお祝いに駆けつけ、ひばりは両頬にとんねるずのキスを受けている。ラジオでは『とんねるずのオールナイトニッポン』にひばりが乱入し2時間ジャックした。
  • 美空ひばりは長野市松代の部落出身説がある。長野市松代で「加藤」と言えば部落出身のひばりと言う説がある。

ひばりの作詞[編集]

ひばりが作詞し、生前に曲がついたものは22曲ある。そのうち18曲は自ら歌い、『木場の女』『ロマンチックなキューピット』『真珠の涙』などの作品はシングル発売された。

1966年に『夢見る乙女』を作詞し、弘田三枝子へ提供した。ペンネームで「加藤和枝」の名前を使用した。その際ひばりは敢えてシングルB面での発売を要請したという。また、『十五夜』『片瀬月』『ランプの宿で』の3曲は生涯に渡って実妹のように可愛がっていた島倉千代子に提供された。

『夢ひとり』をイルカが作曲し、ひばりの歌で1985年5月にシングルがリリースされている。後年イルカ盤も制作され、2002年5月にマキシシングルとしてリリースされた。

生前に書き残し没後リリースされた詩[編集]

草原の人」をつんくが作曲し松浦亜弥が歌った(2002年12月CD化)。筆名「加藤和枝」。またこの表題の松浦主演ミュージカル(2003年2月7日 - 2月23日)も演じられた(DVD化)。さらに派生してこの表題の美空ひばり評伝本(ISBN 4-7958-3952-2)も出版された。

2010年には生前交流があった岡林信康が、美空が岡林に送った1通の手紙に書かれていた歌詞から、「レクイエム-麦畑のひばり-」(作詞:美空ひばり/補作詞・作曲:岡林信康)という楽曲を制作し、岡林のカバー・アルバム『レクイエム~我が心の美空ひばり~』に収録された。

息子・和也[編集]

1980年代、少年期の加藤和也ビートたけしの大ファンだったため、テレビでたけしと共演した際「息子が会いたがっているのよ」と強引に自宅へ連れ帰ったことがある。その一部始終もテレビで放送された。

同様に和也がとんねるずの大ファンだったことから、和也の誕生会にひばりがとんねるずの二人を呼んだというエピソードがある。さらに、前述のように『とんねるずのオールナイトニッポン』の生放送中にも急遽出演し、「お嬢」「タカ」「ノリ」と呼び合えるほどの親交を深めた関係であった。

現在(2014年時点)、ひばりプロダクションの代表取締役社長を加藤和也が務める。

主な代表的作品[編集]

下記に主な代表作を記述する。詳細は公式サイトの全映画出演作・ディスコグラフティーリストを参照。

ひばり代表曲・シングル売上[編集]

  1. 1964年) - 190万枚 ※第7回日本レコード大賞受賞曲
  2. 川の流れのように1989年) - 150万枚 ※第31回日本レコード大賞特別栄誉歌手賞受賞曲
  3. 悲しい酒1966年) - 145万枚
  4. 真赤な太陽1967年) - 140万枚
  5. リンゴ追分1952年) - 130万枚
  6. みだれ髪1987年
  7. 港町十三番地1957年
  8. 波止場だよ、お父つぁん1956年
  9. 東京キッド1950年
  10. 悲しき口笛1949年
(シングル売上は再発盤を含む。2000年5月現在、日本コロムビア調べによる)
順位・枚数の出典は、「あのころ番付 ひばり『柔』は190万枚」『日経プラスワン』2000年6月24日付、1頁。

主な出演映画[編集]

悲しき口笛』(1949)
憧れのハワイ航路』(1950) 左は岡晴夫
青空天使』(1950) 右は入江たか子
東京キッド』(1950)

など多数。

主なシングル作品[編集]

  • 河童ブギウギ1949年
  • 悲しき口笛(1949年)
  • 涙の紅バラ/私のボーイフレンド(1950年
  • 青空天使/ひばりが唄えば(1950年)
  • 白百合の歌/橋のたもとで(1950年)
  • 東京キッド/浮世航路(1950年)
  • 裏町パラダイス/拳銃ブギー(1950年)
  • 夜霧ふたたび(1950年)
  • ちゃっかり節/誰か忘れん(1950年)
  • 越後獅子の唄/あきれたブギ(1950年)
  • 私は街の子/ひばりの花売り娘(1951年
  • 父に捧ぐる唄(1951年)
  • 銀ブラ娘(1951年)
  • 泥んこブギ/愛の明星(1951年)
  • 角兵衛獅子の唄/京の春雨(1951年)
  • 裏町のカナリヤ/街角の風船屋(1951年)
  • 母を慕いて(祇園人形)/京小唄(1951年)
  • 陽気なボンボン売り/私は街のメッセンジャー(1951年)
  • あの丘越えて(1951年)
  • リンゴ追分/リンゴ園の少女(1952年)
  • お祭りマンボ/月の幌馬車(1952年
  • 津軽のふるさと(1953年
  • ひばりのマドロスさん/さよなら波止場(1954年
  • 波止場だよ、お父つぁん/初恋小鳩(1956年
  • 港町十三番地/伊豆の乗合バス(1957年
  • 花笠道中(1958年
  • 哀愁波止場/ひばりの船長さん(1960年) ※第2回日本レコード大賞・歌唱賞受賞曲
  • 車屋さん(1961年
  • ひばりの渡り鳥だよ(1961年)
  • ひばりの佐渡情話/慕情の桟橋(1962年
  • 恋の曼珠沙華(1962年) ※第4回日本レコード大賞・編曲賞受賞曲
  • 哀愁出船(1963年
  • /ふり向かないで(1964年) ※第7回日本レコード大賞受賞曲
  • 娘道中伊達姿/大利根夜舟(1964年)
  • ひばり音頭/青春ひばり小唄(1965年
  • 手紙/赤い靴のタンゴ(1965年)
  • カタリ・カタリ/サンパ・ギータ(1965年)
  • お島千太郎/蛇姫様(1965年)
  • 島原を後に/東京新地図(1965年)
  • 影を慕いて/男の純情(1965年)
  • 博多夜船/明治一代女(1965年)
  • のれん一代/遊侠ながれ笠(1965年)
  • 柔の男/書生気質(1965年)
  • お役者仁義/恋慕かんざし(1965年)
  • 人生の並木路/並木の雨(1966年
  • 夾竹桃と咲く頃/いい子だから(1966年)
  • 悲しい酒/真実一路(1966年)
  • 雨にぬれても/二人だけの渚(1966年)
  • 花と剣(1966年)
  • 風雪三代/港のむせび泣き(1967年
  • 島の夕顔/喜びの日の涙(1967年)
  • 真赤な太陽/やさしい愛の歌(1967年)
  • 芸道一代/ひばりの子守唄(1967年)
  • チロリン節(1967年)
  • 思い出と一人ぼっち/むらさきの夜明け(1968年
  • 男の腕/女の並木路(1968年)
  • 銀座音頭/若い銀座(1968年)
  • 少しの間サヨウナラ/好きになってしまったわ(1968年)
  • 太陽と私/星空の微笑み(1968年)
  • 唇に花シャッポに雨/愛のボサノバ(1968年)
  • 熱祷/夜明けまで(1968年)
  • 魂/嗚呼舟がくし(1969年)
  • ひとり行く/無用ノ介(1969年)
  • 別れてもありがとう/星くずの港(1969年)
  • 恋のパープル・レイン/風の恋人たち(1969年)
  • 女飛車角/どっこい俺がいる(1969年)
  • 花と炎/人生一路1970年
  • 涙/今日の我に明日は勝つ(1970年)
  • 一匹道中/人生将棋(1970年)
  • 女の詩/恋のれん(1970年)
  • 愁い酒/人生ブルース(1970年)
  • それでも私は生きている/新宿波止場(1971年
  • 千姫/落葉の城(1971年)
  • 江戸ッ子佐七(1971年)
  • ふるさとはいつも/恋のわらべ唄(1971年)
  • おんな道/女の人生(1971年)
  • 旅人/北国の子守唄(1971年)
  • ひばり仁義/この道を行く(1972年
  • 浪曲渡り鳥/新しい笛(1972年)
  • 母/哀愁平野(1972年)
  • ある女の詩/思い出の鞄(1972年)
  • もしもこの世がお芝居ならば(1972年)
  • 花と龍/風の子守唄(1973年
  • さすらい東京/酔いどれ子守唄(1973年)
  • 黒い微笑/旅路(1973年)
  • ひばりのカンカン囃子/女ひとり(1973年)
  • かもめと女/むらさきの涙(1974年
  • 一本の鉛筆/八月五日の夜だった(1974年)
  • こころの町/あの子・誰の妻(1975年
  • 日本晴ればれ音頭(1975年)
  • ひとりぼっち/渚の足跡(1975年)
  • 月の夜汽車/風の流れに(1975年)
  • 白い勲章/坊やの終列車(1976年
  • ふるさと太鼓/ひばりづくし(1976年)
  • 雑草の歌/夜の雨(1976年)
  • さくらの唄/おんな酒(1976年)
  • あやとり/晩秋平野(1976年)
  • なつかしい場面/恋夜曲(1977年
  • 海にむかう母/ひとり旅~リンゴ追分入り~(1977年)
  • 昭和ながれ花/乗りかえ駅の夜は更けて(1978年
  • 男/おんな(1978年)
  • 三年目/昭和おんな唄(1978年)
  • 月下美人/涙のふきだまり(1978年)
  • 最後の一本/俺たちの歌今どこに(1979年
  • 風酒場/海鳥に向かう女(1979年)
  • 子ども会音頭/おかあさんありがとう(1979年)
  • 木更津づくし/清水次郎長(1979年)
  • おまえに惚れた/みれん酒(1980年
  • 別れの宿/浮き草ひとり(1980年)
  • 恋女房/昭和ひとり旅(1981年
  • 剣ひとすじ/花の恋姿(1981年)
  • 人恋酒/おんなの涙(1981年)
  • 裏町酒場/時雨の宿(1982年
  • 花のいのち/木場の女(1983年
  • 笑ってよムーンライト/まなざしの彼方(1983年)
  • 霧の東京/人生松竹梅(1983年)
  • 残侠子守唄/人生吹きだまり(1983年)
  • 冬のくちびる/女ながれ唄(1984年)
  • 夢ひとり/ビロードの夜(1985年
  • しのぶ/龍馬残影(1985年)
  • 愛燦燦/太鼓(1986年
  • 函館山から/風花便り(1986年)
  • 恋港/美幌峠(1986年)
  • 好きなのさ/酒は男の子守唄(1987年
  • みだれ髪/塩屋崎(1987年)
  • 川の流れのように/あきれたね(1989年
  • 流れ人/元禄港歌(1999年 1980年の舞台「元禄港歌」の音源)
  • 越前岬(2001年 1979年録音、川中美幸の楽曲とは別作)
  • 武蔵流転(2003年

※上記3作品は生前発売の予定が無く、コロムビアレコードに保管されたマスターテープから初商品化されたものである。

没後にレコードやCDのアルバム盤に収録された音源を新たにカップリング(選曲)したシングルの発売が継続的に行われている。

ドキュメンタリー[編集]

  • 映画『ひばりのすべて』 - 監督:井上梅次 芸能生活25周年を記念して製作されたドキュメンタリー。ステージの模様を中心に、彼女の華やかな舞台裏の日常の姿を赤裸々に描く。
  • NHKスペシャル『最期のひばり〜日記が明かす空白の4か月〜』(2003.10.19放映)-ディレクター:山登義明。最期の時を克明に記録した未公開日記が紹介された。

NHK紅白歌合戦出場歴[編集]

  • 通算トリ回数は13回で五木ひろし北島三郎に並び史上最多(紅組歌手に限った場合はひばりが単独最多であり、紅組歌手に限った場合のひばりに次ぐ記録は和田アキ子の7回)。
  • 連続トリ回数は10年連続で史上最多(ひばりに次ぐ記録SMAPの4年連続。紅組歌手に限った場合は島倉千代子の3年連続)。
  • 通算大トリ回数は11回で史上最多(ひばりに次ぐ記録は北島三郎の10回であり、紅組歌手に限れば都はるみの3回)。
  • 1970年第21回は司会も担当(その年は大トリも務めており、史上唯一の組司会・大トリ兼任)。
  • 1979年第30回は紅白30回を記念して特別ゲストとして出演(正式な出場回数には含まれない。これが生涯最後の紅白出演となった)。
年度/放送回 曲目 出演順 対戦相手 備考
1954年(昭和29年)/第5回 ひばりのマドロスさん 13/15 小畑実
1957年(昭和32年)/第8回 2 長崎の蝶々さん 25/25 三橋美智也 大トリ(1)
1958年(昭和33年)/第9回 3 白いランチで十四ノット 25/25 三橋美智也(2) 大トリ(2)
1959年(昭和34年)/第10回 4 ご存知弁天小僧 25/25 春日八郎 大トリ(3)
1960年(昭和35年)/第11回 5 哀愁波止場 14/27 春日八郎(2)
1961年(昭和36年)/第12回 6 ひばりの渡り鳥だよ 14/25 橋幸夫
1962年(昭和37年)/第13回 7 ひばりの佐渡情話 06/25 春日八郎(3)
1963年(昭和38年)/第14回 8 哀愁出船 25/25 三波春夫 大トリ(4)
1964年(昭和39年)/第15回 9 25/25 三波春夫(2) トリ(5)
1965年(昭和40年)/第16回 10 柔(2回目) 25/25 橋幸夫(2) 大トリ(6)
1966年(昭和41年)/第17回 11 悲しい酒 25/25 三波春夫(3) トリ(7)
1967年(昭和42年)/第18回 12 芸道一代 23/23 三波春夫(4) 大トリ(8)
1968年(昭和43年)/第19回 13 熱祷 23/23 橋幸夫(3) 大トリ(9)
1969年(昭和44年)/第20回 14 別れてもありがとう 23/23 森進一 大トリ(10)
1970年(昭和45年)/第21回 15 人生将棋 24/24 森進一(2) 大トリ(11)
1971年(昭和46年)/第22回 16 この道をゆく 25/25 森進一(3) 大トリ(12)
1972年(昭和47年)/第23回 17 ある女の詩 23/23 北島三郎 大トリ(13)
1979年(昭和54年)/第30回 特別出演 ひばりのマドロスさん(2回目)〜リンゴ追分人生一路 藤山一郎
  • 1979年(第30回)は正式な出場歌手ではないため、出演順は数えられない。
  • 対戦相手の歌手名の()内の数字はその歌手との対戦回数、備考のトリ等の次にある()はトリ等を務めた回数を表す。
  • 曲名の後の(○回目)は紅白で披露された回数を表す。
  • 出演順は「(出演順)/(出場者数)」で表す。

紅白歌合戦でひばりの持ち歌が歌唱された例[編集]

  • ひばりの生前の功績の大きさから、その功績を称えるために、死後も他の歌手によって、ひばりの持ち歌が幾度となく紅白歌合戦で歌唱されている。
年度/放送回 歌手名 曲目 備考
1989年(平成元年)/第40回 雪村いづみ 愛燦燦 大親友だった雪村いづみが、ひばりの追悼として「愛燦燦」を歌唱。
1994年(平成6年)/第45回 キム・ヨンジャ 川の流れのように NHKが実施した「紅白で聴きたい歌アンケート」の1位であった同曲をキムが歌唱[25]
1999年(平成11年)/第50回 天童よしみ 川の流れのように NHKが実施した「21世紀に伝えたい歌」(アンケート)の1位であった同曲をひばりを慕っていた天童が歌唱。
2005年(平成17年)/第56回 天童よしみ 川の流れのように スキウタ〜紅白みんなでアンケート〜』で紅組8位にランクインした同曲を天童が自身3回目の紅組トリで歌唱。
2007年(平成19年)/第58回 小椋佳 愛燦燦 ひばりの生誕70周年を記念して、「愛燦燦」の楽曲プロデュースを担当した小椋佳が生前のひばりの映像とのデュエットを披露した。
2011年(平成23年)/第62回 天童よしみ 愛燦燦 2011年がひばりの23回忌であり、ひばりの写真も映し出された。

テレビ番組[編集]

  • NECサンデー劇場「かわだぶし物語」(1961年、NET) - 天才少女歌手 ※特別出演
  • 東芝日曜劇場
    • 第378回「女優シリーズ 下町の空」(1964年、TBS)※ドラマ初主演
    • 第720回「花が実を結ぶとき」(1970年、TBS) - 嘉子
  • 美空ひばり劇場(1964年 - 1965年、TBS)
    • 第1回 - 第4回「おこま」
    • 第5回 - 第7回「神楽師」
    • 第8回、第9回「仇討ごよみ」
    • 第10回 - 第13回「お白粉人形」
    • 第14回 ミュージカルショー「髪」
    • 第15回 - 第17回「女侠一代」
    • 第18回、第19回「李朝残影」
    • 第20回 - 第22回「振袖剣士」
    • 第23回「寿初春歌姫七姿」
    • 第24回 - 第26回「弁天小僧」 - 菊
    • 第27回、第28回「七福神のなぞ」 - 老中阿部伊予守の姫君
    • 第29回、第30回「兄・私・弟」前編・後編 - 節子
    • 第31回 - 第33回「唐人お吉」(「花の巻」「蝶の巻」「風の巻」)
    • 第34回、第35回「今日もまた蝉が鳴く」前編・後編
    • 第36回 - 第39回「出雲のお国」- お国
  • 美空ひばり劇場「風流深川唄」 - お小夜(1966年、TBS)
  • ひばり・与一の花と剣(1966年、フジテレビ
  • 美空ひばりショー ひばりはひばり(1968年、NET)
  • 大奥(1968年、関西テレビ/東映) - 和宮(家茂正室)
    • 第48話「嵐に立つ花」
    • 第49話
  • あゝ忠臣蔵(1969年、関西テレビ) - お軽
  • 銭形平次 (フジテレビ)
    • 第158話「獅子の舞」(1969年)
    • 第231話「矢場へ来た用心棒」(1970年)
    • スペシャル(第888話・最終回)「ああ十手ひとすじ!!八百八十八番大手柄 さらば我らの平次よ永遠に」(1984年)
  • ザ・ガードマン 第285回「ひばりの愛の逃亡姉妹」(1970年、TBS)
  • 柳生十兵衛第27話「殴り込み中仙道」 - お甲(1970年、フジテレビ)※特別出演
  • 徳川おんな絵巻(1970年、関西テレビ) - お初
    • 第5話「お転婆娘の御殿奉公」(出羽国本庄藩六郷家前編)
    • 第6話「お初の仇討ち」(出羽国本庄藩六郷家後編)
  • 銀河ドラマ「満開の時」(1971年、NHK) - 美人芸者
  • 金曜スペシャル「初春はひばりとともに」(1972年、東京12チャンネル
  • 長谷川伸シリーズ道中女仁義(1973年、NET)- 女やくざ
  • 大江戸捜査網(東京12チャンネル/三船プロ
    • 第213話「火花散る隠密七変化」(1975年)
    • 第438話「女三味線わかれ唄」(1980年)
  • 吉宗評判記 暴れん坊将軍 Iシリーズ(テレビ朝日、東映) - お奈津
    • 第12話「紀州から来た凄い女」(1978年)
    • 第13話「嵐を呼んだ江戸土産」(1978年)
    • 第27話「柳生一族を斬る女」(1978年)
    • 第38話「黒潮の渦を斬る女」(1978年)
  • 幾山河は越えたけど-昭和のこころ・古賀政男第1部、第2部(1979年、NHK)
  • 今夜は最高!ゲスト・ひばりスペシャルと題して二週放送(1987年、NTV)
  • 水曜ドラマスペシャル「女コロンボ危機一髪!」(1985年、TBS) - 水木一枝
  • 木曜ドラマストリート「熱血女先生!まるでセンチな乙女のように」(1986年、フジテレビ)
  • 忠臣蔵・いのちの刻(1988年、TBS) - 照月尼
  • パパはニュースキャスターお正月スペシャル(1989年、TBS) ※特別出演

ひばりを描いたドラマ・舞台[編集]

  • 「美空ひばり物語」(1989年TBSドラマ) - 上前淳一郎「イカロスの翼」のドラマ化。ひばりが生前にドラマ化を唯一許可した作品。岸本加世子がひばりを演じた。
  • 舞台「不死鳥ふたたび・美空ひばり物語」(1999年) - 浅茅陽子がひばりを演じた。
  • 「美空ひばり誕生物語-おでことおでこがぶつかって」(2005年5月29日TBSドラマ) - 石井ふく子プロデュース・宮川一郎脚本のオリジナル作品で、ひばり(上戸彩)と母・喜美枝(泉ピン子)との親子愛がテーマとなっている。

受賞[編集]

1960年、第2回日本レコード大賞・歌唱賞を受賞。
1962年、ブルーリボン大衆賞を受賞。
1965年、第7回日本レコード大賞・大賞を受賞。
1969年10月8日、日本赤十字社金色有効賞を受賞。
1969年12月17日、紺綬褒章を受章。
1971年、第2回日本歌謡大賞・放送音楽特別賞を受賞。
1973年、第15回日本レコード大賞・15周年記念特別賞を受賞。
1976年、第18回日本レコード大賞・特別賞を受賞。
1977年、森田たまパイオニア賞を受賞。
1989年、第31回日本レコード大賞・特別栄誉歌手賞を受賞。
1989年、第20回日本歌謡大賞・特別栄誉賞を受賞。
1989年、第22回日本作詞大賞・特別賞を受賞。
1989年、第18回FNS歌謡祭・特別賞を受賞。

その他[編集]

1967年10月に有田焼創業350周年を記念して、美空ひばり唯一のご当地音頭「チロリン節」が制作発表された。
2006年9月に京楽から「CRぱちんこ華王美空ひばり」を発売。ブロマイド浅草の斉藤甲子郎写真館が専属で制作した。
2009年12月には同じく京楽から続編として「CRぱちんこ爽快美空ひばり不死鳥伝説」を発売。ひばりの小キャラクターが増え、さらに松竹テレビ東京日本テレビフジテレビマルベル堂からの映像・写真が多く使われている。
2011年1月19日に、日本コロムビアより数々の復刻品を封入した美空ひばりトレジャーズが発売。コロムビア通販サイトなどから入手できる。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 新藤謙『美空ひばりとニッポン人』晩聲社、1998年、16-17頁
  2. ^ 現在の同名劇場(2005年3月開館の区営ホール)とは別物。磯子区杉田四丁目の横須賀街道に面した劇場で、日本航空機の建物を改装したもの。建物の裏は海だった。
  3. ^ 時事ドットコム
  4. ^ 戦後間もない当時は、警察の力が弱く、地回りへの挨拶は必要不可欠であった
  5. ^ 横浜市中区宮川町にあった劇場。現在はウインズ横浜A館が立地している。
  6. ^ ひばり母子はこの記事を長く保存しハチローに敵愾心を持っていたと言われるが、後にハチローと和解している。
  7. ^ ただし、ひばりには既に1953年1月第3回の時点で、出演のオファーがかけられていたが、第3回は正月興行、その次の1953年12月第4回は年末の公演との兼ね合いから、ひばりサイドから出演を見送られた経緯があり、NHKにとっては3度目の「ラブコール」が実った形となった。
  8. ^ 当時、那覇を含む沖縄は日本本土から分離され、琉球政府を通じたアメリカ合衆国による沖縄統治が行われていた。
  9. ^ a b c 山平重樹 「第五章 落日の「栄光」」『実録 神戸芸能社 山口組・田岡一雄三代目と戦後芸能界』 取材・写真協力 田岡満双葉社(原著2009年11月22日)、第1刷、260-262頁(日本語)。ISBN 4575301728
  10. ^ a b c 小林旭 『さすらい』 新潮社
  11. ^ a b c d e 実録 神戸芸能社 山口組・田岡一雄三代目と戦後芸能界、第五章 落日の「栄光」、267-271ページ。
  12. ^ 元々はひばりのために書かれた曲ではなく、1960年に男性演歌歌手の北見沢淳が歌った曲であった。
  13. ^ BSジャパン「昭和は輝いていた~第1,2回美空ひばりがいた!」
  14. ^ 哲也は、1957年、小野透の芸名でひばりの全盛期には歌手デビューし、多くの東映映画に出演、主演を務めたこともあったが1962年に引退。元々ひばりの弟という売り込みでひばり関連の興行などで役者や間つなぎの歌手もこなしていたが、三代目山口組益田(佳)組(組長は益田佳於)の舎弟頭となっていた。翌1963年には賭博幇助容疑、賭博開帳図利等、1964年には拳銃不法所持、1966年には傷害、暴行、拳銃密輸、1972年には暴行で逮捕と刑事事件が続いていた。
  15. ^ 事実上は落選。この頃NHKには「ひばりを出すな」という苦情も多く来ており、また数年ヒット曲に乏しかったこともあって理事会ではほぼ満場一致で決まったという
  16. ^ ただし、1979年の第30回には、紅白30年の歴史を代表する歌手として藤山一郎と特別出演、『ひばりのマドロスさん』、『リンゴ追分』、『人生一路』の3曲をメドレー形式で歌った
  17. ^ 不死鳥 in TOKYO DOME(DVD)コロムビアミュージックショップウェブサイト
  18. ^ プロジェクトX 挑戦者たち 美空ひばり 復活コンサート~伝説の東京ドーム・舞台裏の300人~NHKアーカイブス
  19. ^ “「美空ひばり座」オープン!京都太秦に"引っ越し"”. SANSPO.COM(サンケイスポーツ. (2013年10月13日). http://www.sanspo.com/geino/news/20131013/oth13101305050016-n1.html 2013年10月13日閲覧。 
  20. ^ “美空ひばりさん記念館、目黒の自宅にオープン!”. SANSPO.COM(サンケイスポーツ. (2013年4月27日). http://www.sanspo.com/geino/news/20130427/oth13042705050009-n1.html 2013年5月30日閲覧。 
  21. ^ 『俺のどうにか人生 美空ひばり秘話』嘉山登一郎 近代映画社 1990年
  22. ^ タケシコオー KDB Home
  23. ^ 中国で人気の日本人気歌手、実は韓国系(中央日報 2006年8月14日)
  24. ^ ザ・スター リバイバル』 第4回(BSフジ 2013年11月9日)放送分 加藤和也コメントより
  25. ^ 合田道人『紅白歌合戦の舞台裏』、185頁。

外部リンク[編集]