美空ひばり
| 美空ひばり | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 出生名 | 加藤和枝 |
| 出生 | 1937年5月29日 |
| 学歴 | 精華学園高等部卒業 |
| 出身地 | |
| 死没 | 1989年6月24日(満52歳没) |
| ジャンル | 歌謡曲 ジャズ 演歌 |
| 職業 | 歌手、女優 |
| 担当楽器 | 歌 |
| 活動期間 | 1949年 - 1989年 |
| レーベル | 日本コロムビア |
| 事務所 | ひばりプロダクション |
| 公式サイト | http://www.misorahibari.com/ |
美空 ひばり(みそら ひばり、1937年(昭和12年)5月29日 - 1989年(平成元年)6月24日)は、日本の歌手、女優。数々のヒット曲を歌い、銀幕スターとして多数の映画に出演した。昭和の歌謡界を代表する歌手、女優である。
横浜市磯子区滝頭出身。横浜市立滝頭小学校、精華学園高等部卒業。女性として初の国民栄誉賞を受賞した。本名は加藤 和枝(かとう かずえ)。愛称は御嬢(おじょう)。身長147cm。
目次 |
[編集] 略歴
[編集] 幼少期
神奈川県横浜市磯子区滝頭の魚屋「魚増」を営む父・加藤増吉、母・喜美枝の長女として生まれた。増吉は栃木県河内郡豊岡村(現在の日光市)、喜美枝は東京山谷の出身[1]。妹は佐藤勢津子、弟はかとう哲也・香山武彦。家にはレコードがあり、幼い頃より歌の好きな両親の影響を受けひばりは歌謡曲、流行歌を歌うことの楽しさを知る。
1943年6月、第二次世界大戦の戦時中に父・増吉が出征となり壮行会が開かれ、ひばりは父のために『九段の母』を歌った。壮行会に集まった者達がひばりの歌に感銘し、涙する姿を目の当たりとした母・喜美枝はひばりの歌唱力に人を引き付ける可能性を見出して、地元の横浜近郊からひばりの歌による慰問活動を始める。
[編集] デビュー
終戦間もない1945年、喜美枝がひばりを引き続き歌わせるために八方手を尽くし、私財を投じて自前の「青空楽団」を設立。近所の公民館・銭湯に舞台を作り、ひばり8歳のときに「美空」和枝(母の提案)の名で初舞台を踏む。
1946年、NHK「素人のど自慢」に出場し、予選で『リンゴの唄』を歌いひばり母子は合格を確信したが鐘が鳴らない。審査員は「うまいが子供らしくない」「非教育的だ」「真っ赤なドレスもよくない」という理由で悩んだ挙句、合格にできないと告げた。1946年9月、横浜市磯子のアテネ劇場で初舞台を踏む。翌年の春、横浜で行われたのど自慢大会終了後、審査員をしていた古賀政男のもとにひばり母子は駆けつけ、「どうか娘の歌を聴いてください!」と懇願する。ひばりはアカペラで古賀の「悲しき竹笛」を歌った。古賀はその子供とは思えない才能、度胸、理解力に感心し「きみはもうのど自慢の段階じゃない。もう立派にできあがっている」、「歌手になるなら頑張りなさい」とエールをもらった。
1947年、横浜の杉田劇場に漫談の井口静波、俗曲の音丸の前座歌手として出演。以来、この一行と地方巡業するようになる。高知県に巡業した際、現在の大豊町でひばり母子が乗っていたバスが前方からのトラックを避けようとした際に崖に転落。そのまま落ちれば穴内川で全員死亡だったが、運よくバンパーが一本の桜の木に引っかかりとまった。ひばりは左手首を切り、鼻血を流し気絶、瞳孔も開き仮死状態だったが、たまたま村に居合わせた医師に救命措置をしてもらい、その夜に意識を取り戻した。家に戻った後、父は母に「もう歌はやめさせろ!」と怒鳴ったが、ひばりは「歌をやめるなら死ぬ!」と言い切った。
[編集] 師・川田晴久との出会い
1948年2月、神戸松竹劇場への出演に際して、神戸での興行に影響力を持っていた暴力団・三代目山口組組長の田岡一雄に挨拶に出向き、気に入られた[2][3]。同年5月、まだ無名の存在であった11歳の少女・ひばりの才能を見込んだ当時人気絶頂のボードビリアン川田義雄(のちの川田晴久)に横浜国際劇場公演に抜擢され、その後、川田一座に参加。大スターへの道が拓かれた。川田はひばりをそばに置いてかわいがり、また、ひばりも川田を「アニキ」と呼びよく懐いていた。川田に大きな影響を受けたひばりは、節回しを川田節から学んでいる。専門家による声紋鑑定でも二人の節回し、歌い方が一致する結果が出ている。ひばりは師匠といえるのは父親と川田先生だけと後に語っている。川田一座では当時のスター歌手笠置シズ子の物真似(歌真似)が非常にうまくベビー笠置と言われ拍手を浴びる。純粋に「かわいい」と見る層と同時に、「子供が大人の恋愛の歌を歌うなんて」という違和感を持つ層も存在した。詩人で作詞家のサトウハチローは当時のひばりに対し「近頃、大人の真似をするゲテモノの少女歌手がいるようだ」と、批判的な論調の記事を書いている[4]。 同年9月、喜劇役者・伴淳三郎の劇団・新風ショウに参加し、同一座が舞台興行を行っていた横浜国際劇場と準専属契約を結ぶ。この時、演出していた宝塚の岡田恵吉に母親が芸名をつけてくれるように頼み、美空ひばりと命名してもらう。横浜国際劇場の支配人だった福島通人がその才能を認め、マネージャーとなり、舞台の仕事を取り、次々とひばり映画を企画することに成功する。
[編集] 全国的人気を獲得
1949年1月、日劇のレビュー『ラブ・パレード』(主役・灰田勝彦)で笠置の『セコハン娘』、『東京ブギウギ』を歌い踊る子供が面白がられ、同年3月には東横映画『喉自慢狂時代』(大映配給)でブギウギを歌う少女として映画初出演。8月には松竹『踊る竜宮城』に出演し、主題歌『河童ブギウギ』でコロムビアから歌手としてB面であるが11歳で正式にレコードデビュー(7月30日)を果たす。続いて12歳で映画主演を果たした『悲しき口笛』(松竹)が大ヒット、同主題歌も45万枚売れ(当時の最高記録)国民的認知度を得る。この時の「シルクハットに燕尾服」で歌う映像は小さいときのひばりを代表するものとしてよく取り上げられる。
1950年、川田晴久と共に二世部隊記念碑建立基金募集公演のため渡米。帰国してすぐに二人の主演で『東京キッド』に出演。映画とともに同名の主題歌も前作同様の大ヒットとなり、ひばりは押しも押されもせぬ絶対的な存在となった。
1951年、松竹『あの丘超えて』で人気絶頂の鶴田浩二が扮する大学生を慕う役を演じる。実生活でも鶴田を慕い、ひばりは鶴田をお兄ちゃんと呼ぶようになった。同年5月新芸術プロダクション(新芸プロ)を設立。代表取締役社長が福島通人、役員にひばり、川田晴久、斎藤寅次郎がなる。同年、嵐寛寿郎主演の松竹『鞍馬天狗・角兵衛獅子』に杉作少年役で出演。以後これを持ち役とする。
1953年、『お嬢さん社長』に主演。喜美枝は、ひばりを「お嬢」と呼ぶようになり、その後、周りもそう呼ぶように。初代中村錦之助を歌舞伎界からスカウトして映画「ひよどり草紙」で共演。錦之助は翌年、東映時代劇の大スターになる。この後、新人男優はひばりの相手役となることで世間に認知され、大スターとなる、という言い伝えが生まれた。
[編集] 三人娘の時代
1954年、NHK紅白歌合戦に初出場。1955年には江利チエミ、雪村いづみとともに東宝映画『ジャンケン娘』に出演したことを契機に、「三人娘」として人気を博した。また、松竹・東映製作映画を中心に映画にも多数出演し、歌手であると同時に映画界の銀幕のスターとしての人気を得た。
1956年、ジャズバンド小野満とスイング・ビーバーズの小野満と婚約。その後、この婚約は破棄した。初の那覇[5]公演を沖縄東宝で行い、1週間で5万人を動員。離島からのファンで那覇港は大混雑した。
1957年1月13日、浅草国際劇場にて、ショーを観に来ていた少女から塩酸を顔にかけられ浅草寺病院に緊急搬送されて入院した。その後、歌舞伎座公演に復帰(奇跡的に顔に傷は残らなかった)。塩酸をかけた少女は山形県出身でひばりの熱烈なファンだったという。現場に居合わせたブロマイド業者らによって犯人の少女は取り押さえられ警察に突き出された。また紅白歌合戦に3年ぶりに出場し、渡辺はま子、二葉あき子らベテラン歌手を抑えて初めて紅組トリを務めあげ、当時のひばりは既に芸能界に置ける黄金期を迎えていた。
1958年4月1日、三代目山口組組長の田岡一雄が正式に神戸芸能社の看板を掲げた。同年4月、美空ひばりは神戸芸能社の専属となり、同年6月にはひばりプロダクションを設立して副社長に田岡一雄が就任した。同年7月、東映と映画出演の専属契約を結んだ。『ひばり捕物帳』シリーズや『べらんめえ芸者』シリーズ、『ひばりの佐渡情話』(1962年)など続々ヒット映画にも恵まれた。
1960年、『哀愁波止場』で第2回日本レコード大賞歌唱賞を受賞、「歌謡界の女王」の異名をとるようになった。
[編集] 小林旭との短い結婚・離婚後
1962年、日活の人気スターであった俳優・小林旭と結婚し、一時的に仕事をセーブするようになる。しかし、実母にしてマネージャーである喜美枝や周辺関係者が二人の間に絶え間なく介入し、結婚生活はままならなかった。またひばり自身も歌に対する未練を残したままだったため、仕事を少しずつ再開し小林が求めた家庭の妻として傍にいてほしい願いも叶わなかった(また小林も勝手に借金をするなどトラブルを起こしていた)。また結婚した翌1963年には、ひばりの実父・増吉が肺結核により50歳で亡くなっている。
別居後の1964年、わずか2年あまりで小林と離婚した。田岡が間に入り、ひばり母子の意思を小林に告げ、離婚会見を開かせた。小林はその場で「理解離婚」とした上で、「未練はいっぱいある。みんなの前で泣きたいくらいだ」と語った。その後、別に開いた会見でひばりは「私が芸を捨てきれないことに対する無理解です」「芸を捨て、母を捨てることはできなかった」と語り、今後は舞台を主に頑張ると語った。なお小林の著書によれば、実際には2人は入籍しておらず、戸籍上、ひばりは生涯独身であった(小林は入籍を希望していたが、母が不動産処分の問題があるからと断り続けたとのこと)。
離婚直後に発表した『柔』は翌1965年にかけて大ヒット、180万枚というひばりとしては最大のヒット曲となる。この曲で1965年、第7回日本レコード大賞を受賞。1966年には『悲しい酒』[6]、1967年には『芸道一代』、グループサウンズジャッキー吉川とブルーコメッツとの共演とミニスカートの衣装が大きな話題となった『真赤な太陽』と、彼女の代表作となる作品が次々と発表され、健在ぶりを示した。
[編集] 母・喜美枝との二人三脚時代
1964年、新宿コマ劇場で初の座長公演を行い、演技者としての活動の場を次第に映画から舞台に移し(初の座長公演は『ひばりのすべて』、『女の花道』)、同劇場のほか、名古屋の御園座、大阪の梅田コマ劇場にて長年にわたり座長を張り続けた。離婚後のひばりを常に影となり支え続けたのが、最大の理解者であり、ひばりを誰よりも一番うまくプロデュースする存在となっていた母・喜美枝だった。ひばりは傍らに喜美枝を従えて日本全国のコンサート会場・テレビ出演なども精力的に活動した。当時のマスコミからはステージママの域を越えた存在として、「一卵性親子」なるニックネームを付けられた。
1970年、NHK紅白歌合戦の紅組司会を担当。紅白史上初めて、大トリと司会者を兼任した。このときの歌唱曲は弟・かとう哲也作曲の『人生将棋』。
この時期も田岡一雄は父親代わりの存在としてひばりを庇護し、ひばりは1981年の田岡の葬儀にも出席している。この暴力団との関係が後の「ひばり・スキャンダル」に繋がることになる。
[編集] 兄弟とひばりのトラブル
1973年、実弟のかとう哲也が起こした不祥事により[7]、ひばり一家と暴力団山口組および田岡との関係も問題とされ、全国の公会堂や市民ホールから「暴力団組員の弟を出演させるなら出させない」と使用拒否されるなど、バッシングが起こりマスコミも大きく取り上げた。しかし、ひばり母子は家族の絆は大事だとし、哲也をはずさなかった。この結果、1973年末、17回出場し1963年から10年連続で紅組のトリを務めていた紅白歌合戦への出場を辞退した[8]。そのためこの年から数年間、大晦日は日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)の取り計らいで、同局『美空ひばりショー』に出演。以後、NHKからオファーが来ても断り続けた。1977年、当時の同局の人気番組であった『ビッグ・ショー』で4年ぶりにNHK番組に出演し、関係を修復。しかし紅白に正式な出場歌手として復帰することはなかった[9]。
1970年代以降、ヒット曲には恵まれなかったが、この時代に入ると演歌や歌謡曲のほかにも軽快なポップスやリズム歌謡、ジャズのスタンダードやオペラのアリアに至るまで自らのスタイルで数多くのテレビ番組やレコードなどで発表し、歌手としての再評価を受けることとなる。来生たかお(『笑ってよムーンライト』〈1983年〉)、小椋佳(『愛燦燦』〈1986年〉)、イルカ(『夢ひとり』〈1984年〉)など、時代の話題のアーティスト / クリエイターなどとのコラボレートもしばしば行われた。また、新曲のキャンペーン活動にもこの時代には活発に参加するようになり、1980年に発表した『おまえに惚れた』はこのキャンペーン活動が功を奏す形で久々のヒットとなった。
しかし1980年代に入り、1981年には実母・喜美枝が転移性脳腫瘍により68歳で死去、また父親の代わりを担っていた田岡一雄も相次いで亡くなった。1982年には「三人娘」以来の親友だった江利チエミが45歳で急死、さらには2人の実弟だったかとう哲也(1983年)と香山武彦(1986年)が、共に42歳の若さで次々と亡くすという悲運が続く。ひばりは哲也の実子である加藤和也を1977年に養子として迎えていたが、悲しみ・寂しさを癒やすために嗜んでいた酒とタバコの量は日に日に増し、徐々に体を蝕んでいった。
[編集] 晩年・病魔との闘い
1985年5月、ひばりの誕生日記念ゴルフコンペでプレー中に腰をひねり、両足内側にひきつるような痛みが走ったという。その頃からひばりは原因不明の腰痛を訴えるようになるが、徐々に腰の痛みが悪化していく中でも、ひばりは微塵も感じさせない熱唱を見せていた。だが2年後の1987年(昭和62年)、全国ツアーを四国を皮切りに各地で展開されていたものの、ひばりの足腰の激痛はついに耐えられない状態に陥った。そして同年4月22日、公演先の福岡市で極度の体調不良を訴え、同市中央区の福岡県済生会福岡総合病院に緊急入院。重度の慢性肝炎および両側大腿骨骨頭壊死と診断され、約3か月半にわたり同病院にて療養に専念となった(ただし、入院当時実際の病名は肝硬変であったが、それをマスコミには一切発表しなかった。ひばりの病状は深刻だったが隠し通して、公表する病名の程度を低くしていた)。またそれにともない同年5月に予定された、明治座の公演中止を発表。入院してから約1か月後の同年5月29日、ひばりは丁度50歳の誕生日を迎えていた。
入院中の1987年6月16日に鶴田浩二、7月17日には石原裕次郎と、ひばり自身とも親交が深かった昭和の大スターが相次いで亡くなる中、ひばりは8月3日に無事退院を果たし、病院の外で待っていた沢山のひばりファンに笑顔と投げキッスを見せていた。退院後の記者会見では「『もう一度歌いたい』という信念が、私の中にいつも消えないでおりました。ひばりは生きております」と感極まって涙を見せる場面もあったが、最後は「お酒は止めますが、歌は辞めません」と笑顔で締めくくった。10月9日に行われた、新曲『みだれ髪』のレコーディング(シングルレコード発売は12月10日)より完全復帰した。
しかし、ひばりの病は決して完治したわけではなかった。肝機能の数値は通常の6割程度しか回復しておらず、特発性大腿骨頭壊死の治癒も難しいとされていた。ある日、里見浩太朗が退院後のひばりを訪ねた際、階段の手すりに掴まりながら一歩一歩と下りてきたと後に語っている。それが里見自身ひばりとの最後の対面だったという。
1988年(昭和63年)初頭はハワイにて静養し、2月下旬に帰国。同年4月に開催予定の東京ドーム公演に向けて下見や衣装、また当日の演出など、準備段階は止められないところまで来ていたが、足腰の痛みは殆ど回復する事はなく、体調が思わしくないまま公演本番の日を迎える事となる。
1988年4月11日、東京ドームのこけら落し[10][11]となる「不死鳥コンサート」を実施。ひばり自身は、フィナーレの「人生一路」を歌い終えた際に、思い通りに歌えなかったのか首を傾げたのだという。この頃のひばりは既に体重も明らかに減り、痩せ始めていた。前年の退院会見の頃と比べると一目瞭然であったが、脚の激痛に耐えながら合計39曲を熱唱した。
なお、東京ドーム公演当日は会場に一番近い部屋を楽屋とし、簡易ベッドと共に医師が控えていた。また万一の事態に備え、裏手には救急車も控えていた。公演の際に楽屋を訪れた親友の浅丘ルリ子は、まるで病室のような楽屋とひばりの様子に衝撃を受けたと語る。ベッドに横になっていたひばり。浅丘がひばりに「大丈夫?」と問いかけると、ひばりは「大丈夫じゃないけど、頑張るわ」と答えたという。ドーム公演のエンディングで、約100mもの花道をゆっくりと歩を進めたひばりの顔は、まるで苦痛で歪んでいるかのようであった。とても歩ける状態ではなかったにもかかわらず、沢山のひばりファンに手を振り続けながら全快をアピール。そのゴール地点には息子・和也が控え、ひばりは倒れこむように和也のもとへ辿り着いたという。当時のマスコミ陣営はひばりの「完全復活」を報道したが、自身にとっては正に命を削って臨んだ舞台となる。それでも「昭和」の終焉に再び輝き羽ばたいた、伝説のステージとなった。
その東京ドーム公演後を境に、ひばりの体調は急速に悪化していく。段差を1人で上ることさえ困難であったひばりは、ウォークリフトを使い舞台上にあがるほどの状態であった。ドーム公演終了時点では全国13カ所での公演が決まっており、翌1989年2月7日小倉公演までの10カ月の間、全国公演を含めテレビ番組収録などで精力的に仕事を行った。1988年6月7日には極秘で一時入院しているが、すぐに仕事を再開。同年7月29日に「広島平和音楽祭」に加え、8月21日には「佐久音楽祭」に出演した。ひばりにしては珍しく「佐久音楽祭」では屋外ステージで歌った。映像は残されており、現在の特番でも放映されている。
昭和天皇が吐血・重体という報道が絶え間なかった1988年の秋頃から、奇しくもひばりにも命を奪う病の兆候が見え始め、辛そうに肩で息をする映像も残っている。そんな中同年10月28日には、前日神津はづきからのお友達紹介で、フジテレビの人気番組「笑っていいとも!」テレホンショッキングコーナーに最初で最後の出演を果たす(ひばりからのお友達紹介は岸本加世子)。また、その頃には作詞家・秋元康の企画による『不死鳥パートⅡ』との題名で、生前最後となるオリジナルアルバムのレコーディングも行い、秋元や作曲家・見岳章といった若い世代のクリエーターとの邂逅により、音楽活動を幅広く展開する意欲も見せた。そのアルバムの中には、奇しくも生涯最後にレコーディングしたシングル曲となる『川の流れのように』(作詞・秋元康、作曲・見岳章)が入っていた。そして、ひばり自ら同曲のシングル化を強く迫り、それは後に形となった。
同年12月中旬、翌1989年(昭和64年)1月4日にTBSテレビで放送された、生涯最後のワンマンショー「春一番! 熱唱美空ひばり」の収録に臨んだ。収録前に歓迎会が行われ、スタッフからひばりへ花束の手渡しなどがあり、ひばりもスタッフの熱意を肌で感じた。ひばりはまた、演出スタッフに向かって「この番組が最後になるのよ、これ」と話していたという。後に堺正章がひばりの追悼番組で話しているが、当時堺自身は「どういう意味の最後かは定かではないが…」と話している。かなり窶れ青ざめ透き通り、脚の激痛と息苦しさで歌うときは一歩も動けず、直立不動での歌唱であった。立っているだけで限界のひばりは、歌を歌い終わる度に椅子に腰掛け、息を整えていたという。それでも同番組のフィナーレでは、番組制作に携わったスタッフやゲストらに感謝の言葉を述べ、「これからもひばりは、出来る限り歌い続けてゆくことでしょう。それは、自分が選んだ道だから」という言葉で締め括っている。そして新曲『川の流れのように』の歌唱後、芸能界の大先輩でもある森繁久彌からの激励のメッセージを受けると、自身の最期も悟るかのように、ひばりは堪えきれずに涙を流し続けた。
1988年12月25日、26日と帝国ホテルにてクリスマスディナーショーが行われ、石井ふく子や王貞治らひばりの友人も足を運んだ。無理を押しての歌中の激しいツイストで観衆を沸かせたが、これが生涯最後のディナーショーとなった。
1989年1月7日に昭和天皇が崩御。その翌日の同年1月8日、元号が「昭和」から「平成」へ移り変わったその日、ひばりは「平成の我 新海に流れつき 命の歌よ 穏やかに…」という短歌を詠んだ。その3日後の1989年(平成元年)1月11日、『川の流れのように』のシングルレコードが発売される。しかしこの時のひばりの肺は、既に病に侵されていた。
1989年1月15日、テレビ東京放送「演歌の花道」・フジテレビ放送「ミュージックフェア」へ各VTRで出演し数曲を歌ったが、「ミュージックフェア」が放送時間上ひばりにとって、結果的に生前最後のテレビ出演となった。同番組の1989年第1回目の放送は『美空ひばり特集』だったが、元々同年1月8日放送予定だったものが、昭和天皇が崩御されたため特別編成が組まれ、1週間先送りとなった。また「演歌の花道」「ミュージックフェア」と各番組の最後で『川の流れのように』を歌ったひばりの姿は、まるでその場にぽつんと魂だけがいるかのように見え、歌い終えた際の表情もまるで最期を悟るかのようであった。この頃のひばりはドーム公演時から見てもさらに痩せ、肌の色や手の指先も青ざめ明らかに体調は悪化していた。なお1月中のひばりは熱海への家族旅行や両国国技館の大相撲見物のほか、自宅での静養が多かったとされる。体調が一時期平行線であっても、好転することはなかった。
1989年2月、ひばりにその運命の時が訪れる。この年の全国ツアー「歌は我が命」でスタートさせた同年2月6日の福岡サンパレス公演日、持病の肝硬変の悪化からくるチアノーゼ状態となる。公演中の足のふらつきなど、舞台袖から見ても明らかであった。それでもひばりは周囲の大反対を押し切り、翌日の小倉公演までという約束でコンサートを強行した。
1989年2月7日、福岡県北九州市小倉での公演がひばりの生涯最後のステージとなる。車や新幹線での移動に耐えられないほど衰えていたひばり。そこで急遽、ヘリコプターでの往復移動となり、会場の楽屋入り後すぐにひばりは横になった。酸素吸入器とともに医師が控え、ひばりは肝硬変の悪化からくる食道静脈瘤を抱え、いつ倒れて吐血してもおかしくない状態だったという。最悪死に至るリスクを背負ってのステージ。ひばりは命よりもファン、そして歌うことを選んだ。当時同行していた息子・和也も後に「ここの時ほど心細い時はなかった」と話している。開演時間になるとひばりは起き上がり、ステージへ向かう。廊下からステージに入る間の、わずか数センチの段差も1人では乗り越えられなかった。またコンサート中は、大半がいすに座りながらでの歌唱であった。息苦しさをMCでごまかすひばりだったが、翌3月に診断される「間質性肺炎」の病状は進行していた。それでも1100人の観衆を前に、ひばりは全20曲無事に歌い終わった。
翌日の1989年2月8日から、2年前と同じ済生会福岡総合病院に検査入院。いったんは退院し、マスコミから避けて福岡の知人宅に2月下旬まで滞在した。その後、飛行機で東京へ帰京。同年3月21日にはニッポン放送で「美空ひばり感動この一曲」と題する、10時間の特集番組へ自宅より生出演した。しかし結果的に歌以外では、このラジオ出演が美空ひばりにとって最後のマスメディアの仕事となった。ラジオ生放送終了直後、体調が急変したために東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院に再入院した。
[編集] 52歳で逝去
再入院から2日後の1989年3月23日、「アレルギー性気管支炎の悪化」「難治性の咳」など呼吸器系の療養専念により、同年4月17日に予定されていた横浜アリーナでのこけら落としコンサートや、その他の全国ツアーも全て中止、さらに歌手業を含めた芸能活動の年内休止を、息子の和也から発表された(再入院当時、間質性肺炎の病名は公表されなかった)。なお和也は、本当の病名をひばり本人には最期まで伏せたが、3月上旬に診療所で診察を受けた医師にひばりは、既に間質性肺炎の説明を受けていたため、自身の病状を分かっていたが、和也には知らないふりをして病室でずっと過ごしていたという。なお闘病生活が書き記されたひばりの付き人の記録では、「コメカミの血管が破れそうにドキドキする」など、壮絶なものであった。
その後も、はっきりと報道されないひばりの容態から「もう歌えない」「復活は絶望的」などと大きく騒ぎ始めるマスコミに対し、入院中の同年5月27日にひばりは、再入院時の写真などとともに「麦畑 ひばりが一羽 飛び立ちて… その鳥撃つな 村人よ!」というメッセージを発表する。しかしこれがひばりからの、生涯最後のメッセージとなった。それから2日後の5月29日は病室で52歳の誕生日を迎えたが、同年6月13日にひばりは意識不明の重体に陥り、人工呼吸器がつけられていた。なおひばりの生涯最後の言葉は、順天堂病院の医師団に対して「よろしくお願いします」だったという。
最後まで平和への祈念も絶えず、死の4カ月前まで命を削って歌った。たくさんのファンを最後の最後まで愛していた美空ひばり。再入院後から約3か月の間、壮絶な闘病生活を送り続けていたが、二度と復帰の夢を果たすことなく、ついに1989年6月24日、間質性肺炎による呼吸不全のため逝去した。52歳没。関係者によると手術室で全身麻酔をかけられたまま逝ったという。
同年7月22日に青山葬儀所で行われた葬儀では4万2千人が訪れた。喪主は息子の和也が務め、葬儀では萬屋錦之介・中村メイコ・王貞治らが弔辞を読み上げ、北島三郎・森昌子・藤井フミヤなどひばりを慕った歌手仲間が『川の流れのように』を歌い、美空ひばりの霊前に捧げた。戒名は慈唱院美空日和清大姉。墓所は横浜市港南区の横浜市営日野公園墓地にある。
美空ひばりの通算レコーディング曲数は1500曲、オリジナル楽曲は517曲であった。
[編集] 死後
1988年、福島県いわき市塩屋崎を舞台に作詞されたのが縁で、「みだれ髪」の(結果的にこれが最後のレコーディング曲となった)歌碑が建立された。ひばりの死後ここを訪れるファンが増え続け、1990年に新たなひばり遺影碑が立てられ、周辺の道路420m区間もいわき市が整備を行い「ひばり街道」として1998年に完成した。さらに2002年には幼少期のひばり主演映画「悲しき口笛」のひばりをモデルにした銅像も建立になった。現在は毎年約30万人のファン・観光客がひばりを偲んで訪れる。
1993年、京都市の嵐山に「美空ひばり館」が開館、愛用品のコレクションなどが展示され、ファンや観光客が訪れていた。しかし来館者数の減少により、2006年11月30日に一旦閉館となったが、運営主体を「ひばりプロダクション」に変更し、2008年4月26日に「京都嵐山美空ひばり座」と改名のうえリニューアルオープンした。
2005年公開の映画『オペレッタ狸御殿』(鈴木清順監督)では、デジタル技術でスクリーンに甦りオダギリジョーやチャン・ツィイーと共演した。
死後20数年を経た現在もなお、日本を代表する伝説的ボーカリストとして多くのアーティストやタレントに影響を及ぼし、企画盤や未発表曲が定期的に発表、ビデオ上映コンサートも開催されるなど、永遠の歌姫として根強い人気を獲得している。レコードの累計売上は8000万枚に達する。
2011年には、23回忌で「美空ひばり トレジャーズ」(1月19日)や「ひばり 千夜一夜」(8月3日)などを発売した。
「美空ひばり トレジャーズ」は、日本コロムビアの創立100周年の記念も兼ね発売されたトレジャーブックである。この商品には、ひばりのエピソード全69話からなる本や写真133枚(未公開を含む)、サインや手紙のレプリカが48点、未発表曲「月の砂漠」を含む計30曲が収録された2枚組のCDが収められている。1万セット限定で1万3800円で発売された。
「ひばり 千夜一夜」は、1001曲の楽曲を収めたCD56枚&DVD2枚の12万円のセットである。構成は、1949年のデビュー曲「河童ブギウギ」から1989年のラストシングル「川の流れのように」・「あきれたね」までの「シングルコレクション」が32枚、580曲。ジャズや民謡の「カバー・コレクション」が17枚、304曲。ほかにも「オリジナル曲」が5枚、93曲。「カラオケDVD」が2枚、24曲で1001曲である。(ライブ音源CDを除く)ちなみに「河童ブギウギ」のA面の「楽しいささやき」は含まれていない。特典もついており、「森英恵デザイン 特製赤いコサージュ(不死鳥コンサート時の物のレプリカ)」や「特製写真立て(不死鳥コンサート時の赤い衣装のポートレート付)」、「特製CDキャリングケース(携帯ディスクケース)」、「カラー写真集(全96ページ)」、「別冊歌詞集(2冊)」、「三方背収納BOX」、「おしどり・イン・ザ・ナイト(12曲入りCD)」、「あの歌・この歌~美空ひばり昭和を歌う~(21曲入りCD)」がある。単一歌手が1000曲以上を収録したBOXを発売するのは初めてであり、最大収録数である。
日本コロムビアや 加藤和也など関係者は、ギネス・ワールド・レコーズへの申請を検討している。申請すれば可能性は、高いといわれている。
[編集] 評価
没後の1989年7月、長年の歌謡界に対する貢献を評価され、女性として初めてとなる国民栄誉賞を受賞(現在歌手としては藤山一郎と二人だけ)し、息子の加藤和也が授賞式に出席した。その後も和也はひばりプロダクションの社長として、ひばりの楽曲管理や様々な顕彰活動(下記)に関わることになった。
[編集] エピソード
- 大阪・北野劇場に「美空ひばりショー」で来演したひばりのお芝居の相手役(東京公演では津川雅彦が演じた役)を当時同劇場の専属コメディアンで売り出し中の大村崑が抜擢されたが、大村が登場するたびに馴染みの観客が笑うので母・喜美枝の怒りに触れ大村は下ろされる。(その後その役は堺駿二が務めた)。大村はその時の悔しさを忘れなかった。それから年月が経ち、1970年9月に新宿コマ劇場で香山武彦と共演した際に「弟がお世話になってます」と、ひばりから食事の招待を受ける。ここぞとばかりに当時のことを母・喜美枝に話すと「崑さん、お嬢も今までたくさんいじめられてきたのよ。あなたは私だけでしょ。」と慰められる。すると、ひばりが大村の為だけに耳元で「柔」を熱唱。それに感激した大村は全てのことを水に流したと言う。その時、ひばりから贈られたお守りは今も肌身離さず大切にしている。
- ひばりは各界の大物スターたちとの交友が深かったが、特に王貞治(プロ野球選手)とは『義姉弟』(王貞治本人談)というほど、肝胆相照らす仲であった。
- 在日韓国・朝鮮人の間では、「美空ひばりは在日韓国・朝鮮人である」という噂が長い間信じられていて、この噂を受けてひばりが死去した89年に韓国の週刊誌で在日韓国・朝鮮人であるかのような記述があったが、週刊文春1989年8月10日号や吉田司や竹中労らは事実無根の都市伝説であると証明している。しかし、この噂は韓国本国に広まっており現在でも継続して美空ひばりは在日韓国人だとして報道されており[12]、これを元に一部の海外メディアでも韓国人として報道されたことがある。
詳細は「在日認定」を参照
- デビュー当初のサトウハチローや服部良一から、飯沢匡に至るまで批判的な言論も連綿と続き、逝去の直後には日本的慣例に関して小林信彦が批判を発表した。もっとも、才能を全面的に否定するものは少なく、小林の批判も没後の一億総服喪的な過剰報道に対する反発から書かれたものであり、ここではモダニズムの要素も多分に持っていたひばりの才能が日本的にウェットな演歌のカテゴリーに押し込められていったことへの疑問が呈されている。
[編集] ひばりの作詞
彼女が作詞し、生前に曲がついたものは22曲ある。そのうち18曲は自ら歌い、『木場の女』『ロマンチックなキューピット』『真珠の涙』などの作品はシングル発売された。
1966年に『夢見る乙女』を作詞し、弘田三枝子へ提供した。ペンネームで「加藤和枝」の名前を使用した。その際ひばりは敢えてシングルB面での発売を要請したという。また、『十五夜』『片瀬月』『ランプの宿で』の3曲は公私共に実の妹のように可愛がっていた島倉千代子に提供された。
[編集] 生前に書き残し没後リリースされた詩
『夢ひとり』をイルカが作曲し、ひばりの歌で1985年5月にシングルがリリースされている。後年イルカ盤も制作され、2002年5月にマキシシングルとしてリリースされた。
『草原の人』をつんくが作曲し松浦亜弥が歌った(2002年12月CD化)。筆名「加藤和枝」。またこの表題の松浦主演ミュージカル(2003年2月7日 - 2月23日)も演じられた(DVD化)。さらに派生してこの表題の美空ひばり評伝本(ISBN 4-7958-3952-2)も出版された。
[編集] 息子・和也
「加藤和也 (ひばりプロダクション)」を参照
1980年代、少年期の加藤和也がビートたけしの大ファンだったため、テレビでたけしと共演した際「息子が会いたがっているのよ」と強引に自宅へ連れ帰ったことがある。その一部始終もテレビで放送された。
同様に和也がとんねるずの大ファンだったことから、和也の誕生会にひばりがとんねるずの二人を呼んだというエピソードがある。さらに『とんねるずのオールナイトニッポン』の生放送中にも急遽出演し、「お嬢」「タカ」「ノリ」と呼び合えるほどの友人となった。
2011年現在、ひばりプロダクションの代表取締役社長を加藤和也が務める。
[編集] ひばり役を演じた女優
- 岸本加世子
- TBS系列特別ドラマ「美空ひばり物語」(1989年)…原作は上前淳一郎の著作「イカロスの翼」。ひばりの死去の時点で、生前にドラマ化を唯一許可した作品である。
- 浅茅陽子
- 舞台「不死鳥ふたたび・美空ひばり物語」(1999年)…不死鳥コンサートの場面において、本人と錯覚するほどの名演が話題となった。
- 上戸彩
- TBS系列特別ドラマ「美空ひばり誕生物語-おでことおでこがぶつかって」(2005年5月29日(日)21時~)…ひばり17回忌に放映された。石井ふく子プロデュース・宮川一郎脚本のオリジナル作品で、喜美枝(泉ピン子)との親子愛がテーマとなっている。
- 剣幸
- 舞台「テネシー・ワルツ ~江利チエミ物語~」(2006年)
- さくらまや、相武紗季
- フジテレビ開局50周年記念ドラマ「わが家の歴史」(2010年)
[編集] 主な代表的作品
下記に主な代表作を記述する。詳細は公式サイトの全映画出演作・ディスコグラフティーリストを参照。
[編集] ひばり代表曲・シングル売上
- 柔(1964年) - 190万枚 ※第7回 日本レコード大賞受賞曲
- 川の流れのように(1989年) - 150万枚 ※第31回 日本レコード大賞特別栄誉歌手賞受賞曲
- 悲しい酒(1966年) - 145万枚
- 真赤な太陽(1967年) - 140万枚
- リンゴ追分(1952年) - 130万枚
- みだれ髪(1987年)
- 港町十三番地(1957年)
- 波止場だよ、お父つぁん(1956年)
- 東京キッド(1950年)
- 悲しき口笛(1949年)
[編集] 主な出演映画
- びっくり5人男(ラッキー100万円)(1949年、新東宝・吉本映画)
- 踊る竜宮城(1949年、松竹)
- 悲しき口笛(1949年、松竹)
- 東京キッド(1950年、松竹)
- 左近捕物帖 鮮血の手型(1950年12月2日、松竹京都)みどり
- 鞍馬天狗 角兵衛獅子(1951年、松竹)
- 鞍馬天狗 鞍馬の火祭(1951年10月12日、松竹京都)
- 陽気な渡り鳥(1952年1月1日、松竹大船)
- 鞍馬天狗 天狗廻状(1952年3月27日、松竹京都)
- リンゴ園の少女(1952年、松竹)
- ひばり姫初夢道中(1952年12月29日、松竹京都)
- お嬢さん社長(1953年12月29日、松竹大船)小原マドカ
- 伊豆の踊子(1954年3月31日、松竹大船)
- 七変化狸御殿(1954年12月29日、松竹京都)お花
- ジャンケン娘(1955年、東宝)
- たけくらべ(1955年、新東宝)美登利
- ロマンス娘(1956年、東宝)
- 銭形平次捕物控 まだら蛇(1957年1月3日、大映京都)お吉
- 大当り三色娘(1957年、東宝)
- 丹下左膳(1958年3月18日、東映京都)萩乃
- ひばり捕物帖 かんざし小判(1958年4月1日、東映京都)阿部川町のお七
- 花笠若衆(1958年、東映)
- 女ざむらい只今参上(1958年、東映)
- 忠臣蔵(1959年、東映)
- 水戸黄門 天下の副将軍(1959年、東映) 鞆江(松平頼常の世話役)
- 鞍馬天狗(1959年2月4日、東映京都)
- べらんめえ芸者(1959年、東映)
- ひばり十八番 弁天小僧(1960年1月3日、東映京都)
- ひばりの森の石松(1960年3月29日、東映京都)
- 天竜母恋い笠(1960年、東映)
- ひばり・チエミ・いづみ 三人よれば(1964年、東宝)
- 祇園祭(1968年、松竹)
- ひばりのすべて(1971年、東宝、日本コロムビア)
- 女の花道(1971年、東宝)
など多数。
[編集] 主なシングル作品
- 河童ブギウギ(1949年)
- 悲しき口笛(1949年)
- 東京キッド(1950年)
- 越後獅子の唄(1950年)
- 私は街の子(1950年)
- あの丘越えて(1951年)
- お祭りマンボ(1952年)
- 津軽のふるさと(1952年)
- リンゴ追分(1952年)
- 波止場だよ お父つぁん(1956年)
- 港町十三番地(1957年)
- 車屋さん(1958年)
- 哀愁波止場(1960年) ※第2回 日本レコード大賞歌唱賞受賞曲
- ひばりの佐渡情話(1962年)
- 恋の曼珠沙華(1962年) ※第4回 日本レコード大賞編曲賞受賞曲
- 哀愁出船(1963年)
- 柔(1964年)
- 悲しい酒(1966年)
- 真赤な太陽(1967年)
- 芸道一代(1967年)
- チロリン節(1967年)
- むらさきの夜明け(1968年)
- 花と炎/人生一路(1970年)
- ある女の詩(1972年)
- おまえに惚れた(1980年)
- 裏町酒場(1982年)
- しのぶ(1985年)
- 愛燦燦(1986年)
- 好きなのさ(1987年)
- みだれ髪(1987年)
- 川の流れのように(1989年)
- 流れ人/元禄港歌(1999年 1980年の舞台「元禄港歌」の音源)
- 越前岬(2001年 1979年録音、川中美幸の楽曲とは別作)
- 武蔵流転(2003年)
※上記3作品は生前発売の予定が無く、コロムビアレコードに保管されたマスターテープから初商品化されたものである。
没後にレコードやCDのアルバム盤に収録された音源を新たにカップリング(選曲)したシングルの発売が継続的に行われている。
[編集] ドキュメンタリー
- 映画『ひばりのすべて』 - 監督:井上梅次 芸能生活25周年を記念して製作されたドキュメンタリー。ステージの模様を中心に、彼女の華やかな舞台裏の日常の姿を赤裸々に描く。
- NHKスペシャル『最期のひばり~日記が明かす空白の4か月~』(2003.10.19放映)-ディレクター:山登義明。最期の時を克明に記録した未公開日記が紹介された。
[編集] テレビ番組
- NECサンデー劇場「かわだぶし物語」(1961年、NET) - 天才少女歌手 ※特別出演
- 東芝日曜劇場
- 第378回「女優シリーズ 下町の空」(1964年、TBS)※ドラマ初主演
- 第720回「花が実を結ぶとき」(1970年、TBS) - 嘉子
- 美空ひばり劇場(1964年 - 1965年、TBS)
- 第1回 - 第4回「おこま」
- 第5回 - 第7回「神楽師」
- 第8回、第9回「仇討ごよみ」
- 第10回 - 第13回「お白粉人形」
- 第14回 ミュージカルショー「髪」
- 第15回 - 第17回「女侠一代」
- 第18回、第19回「李朝残影」
- 第20回 - 第22回「振袖剣士」
- 第23回「寿初春歌姫七姿」
- 第24回 - 第26回「弁天小僧」 - 菊
- 第27回、第28回「七福神のなぞ」 - 老中阿部伊予守の姫君
- 第29回、第30回「兄・私・弟」前編・後編 - 節子
- 第31回 - 第33回「唐人お吉」(「花の巻」「蝶の巻」「風の巻」)
- 第34回、第35回「今日もまた蝉が鳴く」前編・後編
- 第36回 - 第39回「出雲のお国」- お国
- 美空ひばり劇場「風流深川唄」 - お小夜(1966年、TBS)
- ひばり・与一の花と剣(1966年、フジテレビ)
- 大奥(1968年、関西テレビ/東映) - 和宮(家茂正室)
- 第48話「嵐に立つ花」
- 第49話
- あゝ忠臣蔵(1969年、関西テレビ) - お軽
- 銭形平次 (フジテレビ)
- 第158話「獅子の舞」(1969年)
- 第231話「矢場へ来た用心棒」(1970年)
- スペシャル(第888話・最終回)「ああ十手ひとすじ!!八百八十八番大手柄 さらば我らの平次よ永遠に」(1984年)
- ザ・ガードマン 第285回「ひばりの愛の逃亡姉妹」(1970年、TBS)
- 柳生十兵衛第27話「殴り込み中仙道」 - お甲(1970年、フジテレビ)※特別出演
- 徳川おんな絵巻(1970年、関西テレビ) - お初
- 第5話「お転婆娘の御殿奉公」(出羽国本庄藩六郷家前編)
- 第6話「お初の仇討ち」(出羽国本庄藩六郷家後編)
- 銀河ドラマ「満開の時」(1971年、NHK) - 美人芸者
- 金曜スペシャル「初春はひばりとともに」(1972年、東京12チャンネル)
- 長谷川伸シリーズ道中女仁義(1973年、NET)- 女やくざ
- 大江戸捜査網(東京12チャンネル/三船プロ)
- 第213話「火花散る隠密七変化」(1975年)
- 第438話「女三味線わかれ唄」(1980年)
- 吉宗評判記 暴れん坊将軍 Iシリーズ(テレビ朝日、東映) - お奈津
- 第12話「紀州から来た凄い女」(1978年)
- 第13話「嵐を呼んだ江戸土産」(1978年)
- 第27話「柳生一族を斬る女」(1978年)
- 第38話「黒潮の渦を斬る女」(1978年)
- 幾山河は越えたけど-昭和のこころ・古賀政男第1部、第2部(1979年、NHK)
- 水曜ドラマスペシャル「女コロンボ危機一発!」(1985年、TBS) - 水木一枝
- 木曜ドラマストリート「熱血女先生!まるでセンチな乙女のように」(1986年、フジテレビ)
- 忠臣蔵・いのちの刻(1988年、TBS) - 照月尼
- パパはニュースキャスターお正月スペシャル(1989年、TBS) ※特別出演
[編集] その他
- 1967年10月に有田焼創業350周年を記念して、美空ひばり唯一のご当地音頭「チロリン節」が制作発表された。
- 2006年9月に京楽から「CRぱちんこ華王美空ひばり」を発売。ブロマイドは浅草の斉藤甲子郎写真館が専属で制作した。
- 2009年12月には同じく京楽から続編として「CRぱちんこ爽快美空ひばり不死鳥伝説」を発売。ひばりの小キャラクターが増え、さらに松竹・テレビ東京・日本テレビ・フジテレビ・マルベル堂からの映像・写真が多く使われている。
- 2011年1月19日に、日本コロムビアより数々の復刻品を封入した美空ひばりトレジャーズが発売。コロムビア通販サイトなどから入手できる。
- 1962年、ブルーリボン大衆賞を受賞。
- 1969年10月8日、日本赤十字社金色有効賞を受賞。
- 1969年12月17日、紺綬褒章を受章。
- 1971年、日本歌謡大賞放送音楽特別賞を受賞。
- 1973年、日本レコード大賞15周年記念特別賞を受賞。
- 1977年、森田たまパイオニア賞を受賞。
[編集] 脚注
- ^ 新藤謙『美空ひばりとニッポン人』晩聲社、1998年、16-17頁
- ^ 時事ドットコム
- ^ 戦後間もない当時は、警察の力が弱く、地回りへの挨拶は必要不可欠であった
- ^ ひばり母子はこの記事を長く保存しサトウに敵愾心を持っていたと言われるが、後にサトウと和解している
- ^ 当時、那覇を含む沖縄は日本本土から分離され、琉球政府を通じたアメリカ合衆国による沖縄統治が行われていた。
- ^ 元々はひばりのために書かれた曲ではなく、1960年に男性演歌歌手の北見沢淳が歌った曲であった
- ^ 哲也は、1957年、小野透の芸名でひばりの全盛期には歌手デビューし、多くの東映映画に出演、主演を務めたこともあったが1962年に引退。もともとひばりの弟という売り込みでひばり関連の興行などで役者や間つなぎの歌手もこなしていたが、三代目山口組益田(佳)組(組長は益田佳於)の舎弟頭となっていた。翌1963年には賭博幇助容疑、賭博開帳図利等、1964年には拳銃不法所持、1966年には傷害、暴行、拳銃密輸、1972年には暴行で逮捕と刑事事件が続いていた。
- ^ 事実上は落選。この頃NHKには「ひばりを出すな」という苦情も多く来ており、また数年ヒット曲に乏しかったこともあって理事会ではほぼ満場一致で決まったという
- ^ ただし、1979年の第30回には、紅白30年の歴史を代表する歌手として藤山一郎と特別出演、『ひばりのマドロスさん』、『リンゴ追分』、『人生一路』の3曲をメドレー形式で歌った
- ^ 不死鳥 in TOKYO DOME(DVD)コロムビアミュージックショップウェブサイト
- ^ プロジェクトX 挑戦者たち 美空ひばり 復活コンサート~伝説の東京ドーム・舞台裏の300人~NHKアーカイブス
- ^ 中国で人気の日本人気歌手、実は韓国系(中央日報 2006年8月14日)
[編集] 参考文献
- 飯干晃一『山口組三代目 1 野望篇』徳間書店<文庫>、1982年、ISBN 4-19-597344-9
- 竹中労『完本 美空ひばり』筑摩書房発行(文庫版) ISBN 4-480-42088-6
- 西部邁・佐高信「美空ひばり」『思想放談』所収、朝日新聞出版、2009年、ISBN 9784022506399 - 西部と佐高が、好きな美空ひばりの曲について語っている。
- 溝口敦『撃滅 山口組vs一和会』講談社<講談社+α文庫>、2000年、ISBN 4-06-256445-9
[編集] 関連項目
- 加藤和也
- 小林旭
- 古賀政男
- 国民栄誉賞
- 美空ひばり(初代) - 昭和戦前期の女優。1937年に松竹歌劇団団員、1940年に大都映画女優となる。大都の3本の映画(『大陸は微笑む』『時代の狼火』『大閤への使者』)に主演した後、1943年に引退。戦後の歌手・女優の美空ひばりと識別するため「初代」と呼ばれることが多いが、正式な呼称ではない。なお、「初代」美空ひばりの松竹歌劇団の先輩に類似した芸名の御空ひばりがいるが別人。戦後の美空ひばりが、同じ芸名の使用について、戦前の元女優に了解を求めたりはしていないようである。
[編集] 外部リンク
- 美空ひばり公式ウェブサイト 美空ひばりの全映画出演作・ディスコグラフティーリストはこちらを参照。
- 美空ひばり - Yahoo!百科事典
- 京都嵐山美空ひばり座 2006年11月30日に閉館した美空ひばり館がリニューアル。
- 福島県いわき市の美空ひばり「みだれ髪」歌碑、遺影碑、施設の紹介
- ぱちんこ華王美空ひばり
- ぱちんこ爽快美空ひばり不死鳥伝説
- MEG-CD 美空ひばり
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