田村正和

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田村 正和
たむら まさかず
生年月日 1943年8月1日(64歳)
出生地 日本, 京都府京都市右京区
血液型
ジャンル 俳優
活動期間 1961年 -
活動内容 1961年:デビュー
1994年:『古畑任三郎
主な作品
古畑任三郎』シリーズ
眠狂四郎
うちの子にかぎって…
パパはニュースキャスター
ニューヨーク恋物語

田村 正和(たむら まさかず、本名同じ。1943年8月1日 - )は、日本俳優である。京都府京都市右京区出身。身長174cm、体重59kg。血液型A型、成城大学経済学部卒業。新和事務所所属。

阪東妻三郎の三男で、長兄の田村高廣、弟の田村亮と共に、「田村三兄弟」と呼ばれる。次兄は田村俊磨、異母弟に俳優の水上保広。家族は妻と娘。

目次

[編集] 来歴・人物

1961年成城学園高校在学中に映画『永遠の人』で俳優デビュー。その後、多数の映画に出演。1980年頃からは主にテレビドラマを中心に出演している。時代劇『眠狂四郎』、コミカルな現代ドラマ『うちの子にかぎって…』や『パパはニュースキャスター』、そして刑事ドラマ『古畑任三郎』への主演で知られる。また、CM出演も多く、老若男女を問わず幅広い世代の人気を得ており、田村三兄弟の中でも特に知名度が高く、最も成功した、日本を代表する男優の一人である。

9歳で父・阪東妻三郎を失う。1960年、兄・高廣主演の映画『旗本愚連隊』の撮影現場を見学に行った際にスカウトされ、同映画の端役としてデビューした。その後、1961年に映画『永遠の人』で本格デビュー。松竹専属として多数の映画に出るが、ほとんどが脇役であった。体格も華奢で声もあまり通らないためか、映画では兄ほど成功しなかったが、線の細いナイーブな二枚目青年として、人気も実力も徐々に身につけ、日本屈指のスター俳優にまで登りつめた。(最終的には兄の人気は超えたといえる)主にテレビドラマに多く出演していた。70年代初頭までに出演したテレビドラマで代表的なものとしては、例えば『冬の旅(立原正秋原作・木下惠介脚本)』等がある。

70年代中頃まではテレビ時代劇『眠狂四郎(関西テレビ系列)』に代表されるようなニヒルでクールな、そして「憂愁の貴公子」とさえ呼ばれるような憂愁を帯びた役柄に限られていたが、1978年のテレビ時代劇『若さま侍捕物帖』あたりから、軽やかで明るい役柄にも徐々に芸域を広げていった。後年、その頃を顧みて、ある新聞の取材に対して「(若様侍を演ることに関して)それまでのクールなイメージとの段差があり、かなり熟慮した」と田村本人も語っている。そして40歳を過ぎた1984年、それまでの路線を完全に覆すようなコメディドラマの主役に抜擢された。TBS系列の『うちの子にかぎって…』である。ちょっと頼りなく優柔不断で生徒に振り回される小学校の先生役が見事にはまり大ヒット。続けて『子供が見てるでしょ!』『パパはニュースキャスター』など数々のコメディドラマに主演した。以降はトレンディドラマやホームコメディに多く出演し成功をおさめている。

恋愛ものでは元来のキャラクターである二枚目でダンディな男性を演じ、夫婦ものでは悩み多きコミカルな夫、55歳を過ぎてからは頑固で涙もろい父親役など、幅広い役柄で主演し、テレビドラマ界随一の主演スターとしての地位を築き、本人もある時期から自身を「テレビ俳優」と位置づけるようになった(他に桃井かおりも自身をそう位置づけている)。後年のインタビューでは待ち時間が多い映画の現場よりも、スピーディーに撮影が進むテレビドラマの現場の方が気持ちが乗ると語っている。

刑事ドラマ『古畑任三郎』役では和製刑事コロンボともいえる新境地を開き、10年以上にわたって演じる当たり役となった。

舞台では専ら時代劇でニヒルなヒーローを主演し活躍している。田村正和の殺陣は妖艶な美しささえ感じさせる独特の境地を見せ、多くの時代劇ファン・正和ファンを興奮させる。若くして映画に主演した当時には、その責任の大きさを理解できず、自身の役者としての力について考えることはあまりなかったという。テレビの世界に入り、有名劇団で鍛えられてきた俳優達に囲まれて初めて自分の力のなさに気づいたといい、それ以来の努力は相当なものであったと想像される。

テレビドラマに多く出演しているせいか、多少、過小評価される感もあるが、日本の2世俳優としては屈指の努力家であり、また、父の名声にすがることなく実力で這い上がってきた真の名優といえる。それは田村の眠狂四郎を見た原作者の柴田錬三郎が「最高の狂四郎役者」と絶賛したという事実が何よりも物語っている。いずれにしてもテレビドラマを主な活躍の舞台としている俳優としては別格の評価を得ている名優である。

[編集] 独自のスタイル

  • 1980年代田村正和の服装と言えば、薄ピンク等のパステルカラーのシャツや、キャメル色のタートルネックが定番であった。シャツは第2ボタンまでは外し、袖は必ずまくり上げるスタイルで着こなした。『古畑任三郎』以降からは黒系統を着ることが多いようだ。ロングコートは冬季シーンの定番。『協奏曲』(1996年)第1話では、珍しくTシャツ&Gパン姿を披露した。
  • パーマでボリュームを持たせ、襟足が長い独特の髪型は、1987年の『熱くなるまで待って!』で漫画家役を演じた以降から定着した。それまでは艶のあるサラサラヘアーだった。専属美容師を自宅に呼んでいるという。
  • 最も多く見られるのは、真ん中から分けるスタイルだが、70年代後半までは7:3分けのほうが多かった。1979年の映画『日本の黒幕』あたりから襟足まで長く伸びたボリュームのある髪型が登場している。余談ながら、この作品での役名は今泉であったため、劇中で後の古畑が「今泉君」と呼ばれているシーンを観る事ができる。その後80年代に入ると1983年の単発ドラマ『奥飛騨二重心中』で真ん中分けが登場。翌年の『松本清張・地の骨』では再び7:3分けに戻ったが85年の単発ドラマ『地底の殺意』以降は大半が真ん中分けとなっている。更に93年前後では肩近くまで伸びていた時期もあったが、同年末の連続ドラマ『カミさんの悪口』ではサッパリと整髪されていた。2000年以降は、分け目を真ん中にしながらも前髪をあまり垂らさないオールバックに近いスタイルが多く見られる。ただ、2002年の『明智小五郎対怪人二十面相』では、当時59歳の田村正和が明智の初老期と往時(回想シーンのみ)まで演じたが、その折は前髪を長く垂らして明智小五郎の若き日を強調。だが、周囲からは何の違和感もなかった、という。
  • ニューヨーク恋物語』(1988年)と『過ぎし日のセレナーデ』(1989-1990年)ではオールバックも披露した。当時46歳だった『過ぎし日のセレナーデ』では前髪を垂らし30代を演じ、カツラと老メイクで60代を演じた。60代を演じるにあたりロバート・デ・ニーロのように頭髪を剃ってもいいとまで言った。しかし30代から演じるためその案は却下された。
  • 時代劇での髪型は、月代(さかやき)のある中剃りのかつらは嫌い、総髪のかつらのみを着ける。若い頃の出演作品では中剃りのかつら姿も見られる。『子連れ狼 ―その小さき手に―』で拝一刀を演じた際には、『ニューヨーク恋物語』の時のような髪型にしたいと、部分かつら(エクステンション)を付けた。
  • 時代劇で見せる見得や様式美重視の殺陣には、小学生の頃から習っていた日本舞踊の下地もある。
  • 舞台『乾いて候』等では、時代劇の常識を覆すようなパステル調のポップな和服を身に着けた。
  • 撮影現場にはいつもデッキチェアを持ち込む。「田村チェア」と呼ばれ、足を組んで座りながら談笑する田村の周りにはいつも人が集まっている。

[編集] 古畑任三郎関連のエピソード

  • 刑事ドラマには出演しないと決めていたが(マネージャーが断っていたらしい)、『古畑任三郎』は送られてきた三谷幸喜の脚本(第1シリーズ第2話、犯人・中村右近の回)を読んで出演を決意した。
  • 古畑任三郎役で、ザテレビジョン主催のテレビアカデミー賞第1回主演男優賞を受賞したが、芝居に優劣をつけたくないという理由で辞退していた。その後、古畑任三郎第2シーズンと『さよなら、小津先生』の小津南兵役でも同賞を受賞している。
  • 『古畑任三郎番組宣伝&NG特集スペシャル』は、出演作品には珍しく、ドラマ仕立てのバラエティ番組であった。現場での撮影風景を編集したものであるが、バラエティ用のトークをしている場面もある。また、田村が、NGらしきものを出しているシーンも見られる。トークゲストとしてスタジオに出演したのは西村雅彦と石井正則のみであった。
  • 『古畑任三郎』第1シーズンは夢中で取り組み、第2シーズンでは円熟された磨きを見せ、第3シーズンではマンネリ回避からの古畑疲れが出ていると自身でも認めている。
  • 『新ニューヨーク恋物語』(2004年)撮影中、付き添っていた夫人と宿泊者専用のクラブで向かいあって座っていると、夫人が目で合図をするので振り返ると『刑事コロンボ』を演じる俳優のピーター・フォークがおり、古畑任三郎刑事コロンボが同じ場所に存在するという偶然が起こった。(「新ニューヨーク恋物語」サイトインタビューより)
  • 古畑任三郎役はセリフも多く複雑で、相当大変だったようだ。ファンの声に押され、三谷幸喜の脚本アイデアと自身のチャレンジ精神で10年以上続けたが、2006年1月3日~5日『古畑任三郎 FINAL』が放送され、完結となった。しかし続編を望むファンの声は絶えない。三谷幸喜は「アイデアが尽きた」と語っているが古畑放送終了後に出演した「スタ☆メン」(フジテレビ)において「打ち上げで田村さんと相談する」と語っていた。
  • 「しゃべりすぎた男」にゲスト出演した明石家さんまは、事前に台詞を覚えない主義のため、現場でミスを繰り返し、これを見た田村はさんまに「今度間違えたら自分が帰りますよ」と言ったという。結果的に仕上がった作品は、その撮影現場の雰囲気から緊張感あふれる優れた法廷劇になっており、シリーズ中傑作との評判が高い。
  • 一旦「古畑」が終了した際に、多くのファンからの続編を望まれた。その質問に対し番組で「(続編は)ないですね」とクールに返した。しかしその後もシリーズやスペシャルなどで度々続編は組まれることになり、まさにエンタテインメントの男らしくファンには何が起こるかわからない「期待」や「煽り」を送り続ける一面を持ち合わせている。

[編集] 交遊録

  • パパとなっちゃん』で共演した浜田雅功には、さり気なく出産祝いを渡したという。木村拓哉は『協奏曲』での共演を機に田村の自宅を訪問している。
  • 若い頃、共演者の中村晃子を同室の押入れで寝かせ、自分は広間で寝たという伝説がある。
  • 脚本家では鎌田敏夫遊川和彦三谷幸喜、プロデューサーでは関口静夫、石原隆八木康夫、監督では藤田明二河野圭太、清弘誠、役者では橋爪功津川雅彦浅野温子篠ひろ子らとの仕事が多い。
  • 太秦映画村の古くからのスタッフからは「若」と呼ばれる。
  • ビートたけしからは人間離れしたという意味で「プラモデルみたい」と表現され、西田敏行からは「年をとるのを忘れたような人」と表現されている。
  • 2003年に放送された阪東妻三郎没後50年を偲ぶ番組『駆けよ! バンツマ』では、一般人の次男・俊磨も含めた田村4兄弟が勢ぞろいし、父の思い出について対談する貴重な映像が見られた。囲炉裏端の打ち解けた談笑風景であったが、三男・正和は最も寡黙で、他の兄弟のように胡坐を組むこともなく、いつものニヒルさを崩さなかった。しかし「甲高い声と冒険心は親父と似ている」とも笑顔で語っている。
  • 『眠狂四郎』の作者・柴田錬三郎を、幼い日に亡くした実の父・阪妻の代父のように慕っていた。また柴田も、正和の端正な佇まいや役者としての姿勢を極めて高く評価し、『眠狂四郎(舞台版)』の主役として抜擢。続いて主演したテレビ版も絶賛していた。柴錬のエッセイによれば「田村正和は自宅で正座して台本を読んでいる」という。まさに「役者としての端正な姿勢」の一端を如実に物語るエピソードと言えよう。

[編集] エピソード

  • 「田村チェア」と呼ばれる、自前のデッキチェアを常にロケ現場に持参すると言われている。「田村チェア」の周囲には常に人がいなくなることなく、またそこに近付くことが許された人物もかなり限られる。
  • 『夏に恋する女たち』(1983年)で芸術肌のカメラマン倉橋光男役を演じた時、記者会見で津川雅彦に「最近の田村正和はいい役者になった」と言わしめた。
  • 『くれない族の反乱』(1984年)で、八木康夫プロデューサーと出会い、それ以降の三枚目コメディー路線が開拓されていった。
  • 田村曰く「自らこういう役がやりたいと要望するのではなく、スタッフにこういう役をやらせたいと言われる役者でいたい」。
  • うちの子にかぎってパート2』第2話で、横山やすし関口宏(両者とも田村と同学年)と共演をした。特に横山やすしとは最初で最後の共演であったが、二人の絶妙なやりとりが名シーンを生んだ。また、関口とも久しぶりの共演でもあり、関口とのやり取りも絶品。
  • ニューヨーク恋物語』(1988年)の田島雅之役をとても気に入っている。2004年のスペシャル版で、田島は両目が失明していく黄斑変性症という病気になる。難しい役どころを演じた田村は、自身の心中でようやく役にけりがついたと語っている。20年後田島雅之をモチーフにしたのが、2007年公開の映画「ラストラブ」である。
  • 過ぎし日のセレナーデ』(1989-1990年)の榊隆之役も気に入っている。少年期から死去するまでが描かれる一代記である。
  • インタビューは1年に1度、毎年違う媒体相手にしか受けないことにしている。
  • とんねるず石橋貴明や、モト冬樹栗田貫一木村拓哉小堺一機渡辺正行らにものまねされている。
  • 近年は古畑のイメージが強いため、別ドラマの撮影中にプロデューサーから「今、古畑入ってましたね」と突っ込まれたことがある。

[編集] プライベート

  • 全くといっていいほどプライベートを明らかにせず、撮影現場以外でも人前では常に「俳優の田村正和」としてふるまう。だがやはりストレスがたまるらしく、親しい人にこっそりと「疲れますよ」と漏らしたことがあったという。
  • うちの子にかぎってで共演した所ジョージによると、スペシャルのロケで飛行機に乗り、その飛行機がかなり揺れたときも平気な顔をしていたらしい。でも、あとでぼそっと田村流に、"恐かった"と言ったらしい。
  • プライベートで、他人の前では決して食事をしないというエピソードもある。(ドラマの中での食事シーンは多数ある)。仕事中も楽屋で食事を済ませるため、共演者が田村と食事する機会はない。そして極端に小食である。
  • ほとんどNGを出さない話は有名であるが、その理由は「同じセリフは2度言いたくない」からというものと、もう一つ個人的な理由があるがまさに田村ならでは、明らかではない。
  • 高校時代、女子から密かに光源氏とあだ名されていた。
  • 青年時代ロックバンドを組んでおり、リーダーだった。バンド名は、夜になると元気になることから "THE BATS"。
  • ロバート・デ・ニーロ作品を好み、その曲を挿入歌として使用した事がある。
  • 好きな俳優はアル・パチーノ。髪型も後年の彼を真似ていると思われる。
  • 1988年の舞台『乾いて候』のインタビューで、インタビューはとても気を使うと言い、余暇は自宅で焚き火をしていると言っている。
  • 休日は家で過ごし酒を飲んでいることが多い。好きな酒はビール。
  • インターネットはダメで、携帯電話も所有しているが家に置いてある。
  • 運動のために自転車に乗っている。
  • 時代小説を読むのが好きで、聖徳太子織田信長が好みのようである。
  • 戦後直後の子供の頃にラジコンヘリを家の庭で飛ばしていたほどのおぼっちゃんである。

[編集] 出演

[編集] テレビドラマ

[編集] 映画

[編集] 舞台

[編集] CM

[編集] その他テレビ

演技やCM以外でテレビやラジオに出演することは珍しい。

その他、ドラマの番宣インタビューなど。

[編集] 外部リンク

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