石原裕次郎

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いしはら ゆうじろう
石原 裕次郎
石原 裕次郎
石原 裕次郎
本名 石原 裕次郎
生年月日 1934年12月28日
没年月日 1987年7月17日(満52歳没)
出生地 日本の旗 兵庫県神戸市須磨区
民族 日本人
血液型 A型
ジャンル 俳優、歌手
活動期間 1956年 - 1987年
活動内容 1956年:デビュー作『太陽の季節
配偶者 石原まき子
家族 (父)石原潔

(母)石原光子 (兄)石原慎太郎東京都知事

公式サイト [1]
主な作品
映画
太陽の季節
狂った果実
嵐を呼ぶ男
テレビ
太陽にほえろ!
大都会」シリーズ
西部警察」シリーズ
備考
石原裕次郎賞(追悼創設)映画の殿堂(1990年)

石原 裕次郎(いしはら ゆうじろう、1934年12月28日 - 1987年7月17日)は、日本俳優歌手石原軍団初代総帥石原プロモーション創始者(元代表取締役社長兼会長)。永遠の大スター日本人(中)が最も愛した男)と称されることがある。担当マネージャーは関町進。担当のテーラー遠藤千寿日活ダイヤモンドラインのメンバー(彼、小林旭赤木圭一郎和田浩治、(宍戸錠))でもある。東京都知事石原慎太郎の実弟。

いしはら ゆうじろう
石原 裕次郎
プロフィール
別名 タフガイ
愛称 裕ちゃん
生年月日 1934年12月28日
没年月日 1987年7月17日
没年齢 52 歳(数え54)
出身地 兵庫県
血液型 A
民族 日本人
瞳の色
毛髪の色
公称サイズ(1978年時点)
身長 / 体重 182 cm / 75 kg
BMI 22.6(普通体重)
股下 / 身長比 90 cm / 49.5 %
備考 髪を七三分け
活動
デビュー 1956年
ジャンル 俳優
モデル内容 髪型(1956年)
備考 1956-87年
他の活動 歌手
その他の記録
製作者
モデル: テンプレート - カテゴリ

目次

[編集] 生涯

[編集] 生涯

山下汽船に勤める父・潔 母・光子の次男として生まれる。実兄は慎太郎。父の転勤により、兵庫県神戸市須磨区北海道小樽市神奈川県逗子市と港町に育つ。稲穂国民学校時代に水泳競泳)や天狗山スキーに親しむ。自宅から学校までスキーで通ったこともある。逗子中学校時代からはバスケットボールに熱中し、将来はオリンピック出場を夢見るスポーツ少年であった。近所の人と野球チームを結成し、レフトとして活躍したこともあった。彼の才能は絵画・彫刻・写真等に花開いていき、母親に東京芸術大学への進学を薦められた事がある。特にサルバドール・ダリの影響を受けたようで、特徴をみせた人物画自画像似顔絵を残している。

その後慶應高校を目指すが受験に失敗し、慶應農業高校に籍を置くが、悪友たちにそそのかされ酒と女とケンカ三昧の日々に入る。この頃はかなり裕福な生活を送っており、16歳の時に父より当時の日本では珍しかったヨットを与えられた。これをきっかけに、ヨットに情熱を傾けるようになった。父の影響と海への憧れから将来は世界を股に駆けるような船乗りになることを希望していた。学ランの中に赤色のセータートレンチコート)を着て、女子高生から注目されていたという。裕次郎カット等は誰もが真似をしたといわれている。

1951年に慶應高校に入学し再びバスケットボールに熱中するが、左足膝に大怪我をしたため選手生活を断念する。17歳の頃、父親の突然の死のショックにより再び酒と女、そして喧嘩麻雀三昧といった放蕩の日々に入る。

[編集] デビュー

その後慶應大学法学部政治学科に進学したが、俳優を目指し東宝大映日活のオーディションを受けるも全て不合格。しかし1956年に、映画プロデューサー水の江瀧子と兄・慎太郎の推薦もあり、兄の芥川賞受賞作である日活作品『太陽の季節』の映画版でデビューした。 裕次郎は遅刻が目立ったために、世田谷区の水の江の自宅に住むようになる。デビューして与えられた仕事は髪型モデルである。カメラマンの伊佐山三郎をして、「彼はとんでもない大物になる。阪妻の再来だ。」と言わしめたことがある。 ちなみに劇中での結婚シーンがないのは「映画を見た人に夢を与えるため」である日活の方針だったといわれている。

[編集] 大スター

『太陽の季節』の映画化に際して、日活に原作使用を依頼された兄は弟の主演を条件に出していたが、すでに主演が長門裕之に決まっていたために、翌1957年に映画化された『狂った果実』に、人気が高くなっていた裕次郎が主演した。『狂った果実』はその衝撃的な内容と裕次郎の演技が話題を呼び、裕次郎の歌と共に大ヒットし、この作品以降裕次郎の人気は決定的なものとなった。川島雄三も「これからは彼の時代だ」と絶賛した。多忙のため1957年に大学を中退している。母は「大学を出るまでは学業に専念せよ」と望んでいたからである。

前年に裕次郎はテイチクと専属契約し、若者の“太陽”(カリスマ)であり歌う映画スターともなる。日本人として初めてLPレコードを出している。意外にも副業にも手を出していて四谷でステーキハウス「フランクス」を経営していたことがある。彼はあがり症だった為、車に乗ったとき自分の曲を音楽関係者が歌っているデモテープを聞き、彼なりの独特の歌唱方法を身に付けた。当日のうちに曲と詞を覚え、レコーディングスタジオをについたときには水の江の進言によりレコーディングの時は必ずビールを飲んだ。レコーディングの際ヘッドホンを生涯一度も付けなかった。またレコーディングは一回で成功したとも言われ、その後はすぐに忘れてしまうという。再度同じ曲に試みる場合は楽譜(詞入り)があれば思い出せるという[要出典]。吹込みでは数多くのバンドのセッションをレコーディングでこなしてきた。彼はペン字も達筆で(手紙において多い)、英語も読み書きが出来たそう(映画・曲で随時流暢なアメリカ英語を披露している)である。

これ以降立て続けに主演映画がヒットし、ブームが起こる。庶民性が大衆に支持されたからである。客が殺到して、草履や羽織まで落ちていたという逸話もある。常に彼はファンからの声援にこたえるため「歌手ではない。俳優だ。」と言った。1959年には成城に豪邸を完成させ話題となった。 人気が絶頂を迎えた1960年に女優の北原三枝と結婚。裕次郎はデビューする前から北原のファンで、いくつかの映画で共演もしていた。当時、映画スター同士の結婚はタブーであったが、北原とアメリカへ逃避行を遂げ、日活の堀久作社長が二人の交際を認めて帰国した。結婚後の記者会見で「独身最後の夜だと思って、ハシゴ酒をあおり、5:30に帰ってきた。」というエピソードがある。『銀座の恋の物語』(1961年)などヒット曲を連発した。

[編集] 事務所独立

1963年には五社協定を振り払って、株式会社石原プロモーション設立し活動を続けた(設立の理由は赤木圭一郎の急死と言われる)。役者が壁なく仕事ができるのは、五社協定があったからとされる。また、海外作品『素晴らしきヒコーキ野郎』へ出演するなど幅広い活動を行った。1968年 には三船プロとの合作で『黒部の太陽』を制作し大ヒットしたまた芸能人所得番付が5000万円(当時)→8000万円(当時)と別格であった。映画評論家渡辺武信をして「文芸ものからアクションに変えてしまった。」と言わしめた。

[編集] 交友関係

交友関係が広いことでも有名で、必ず挨拶のときは立ち上がり、握手をする。落語家の林家三平とは家族ぐるみの付き合いや六本木銀座での飲み仲間でもある(後に三平一家と石原軍団との付き合いに発展して、裕次郎・三平が共に亡くなった現在も兄弟の襲名公演の協賛を石原プロモーションにするなど深い関係は続いている。)司葉子、(同様な例に映画でジャニーズと共演したことをきっかけとして親密となっているジャニーズ事務所も挙げられる)歌手の美空ひばりや、俳優の勝新太郎とは義兄弟の契りをかわしていたと言われる(裕次郎の告別式の際には勝が弔辞(アドリブを読んでいる。高倉健は葬儀には参列せず静かに見守るだけであった。また安藤昇横井事件安藤組と揉めて歌謡ショーの興行の禁止通告されたことがある。)とは犬猿の仲である。

交友の広さはスポーツ界にもおよび、栃錦若乃花朝潮力道山や往年の読売ジャイアンツのクリーンナップ2人と親交が深く、長嶋茂雄を「しげ」(ベースボールマガジンで対談経験も持つ)、王貞治を「さだはる」と呼んでいた。特に長嶋との親交は深く、1962年には夫人とともにアメリカに年始旅行にも行っていた。他に池田勇人青木功エルビス・プレスリー岡本太郎とも交遊している。

[編集] 趣味

口癖は「うん

なお自然を愛したこの頃も学生時代から続けていたヨットレースを続けていた。ヨットにかける情熱は俳優活動よりも強かったと言われ、例として初の太平洋単独横断を行った堀江謙一の実話をモデルとした『太平洋ひとりぼっち』に主演した(この作品が石原プロモーション設立後の最初の作品である)。

また映画の撮影やヨット活動のために度々訪れていたハワイが一番好きな場所であり、静養のためにハワイに別荘を所有していた。現在、正月をハワイで過ごす芸能人が多いが、そのハシリとなった人物である。ハワイで過ごすようになった原因は依頼人に断りを言い続けるのを気にしたからといわれている。

他にも、当時日本では力道山と三橋美智也と裕次郎の3人しか個人で所有していなかったと言われるメルセデス・ベンツ 300SL(ガルウイングシート深紅。ただし車体シルバー)を所有していた他、ロールスロイスシルバースピリット)<このときは後部座席に座っていた。>やキャディラックなど複数の高級車を所有するほどのカーマニアであった。

実はキャンピングカー(撮影用・特製車両)を所持している。ヨットをイメージしており内部は彼自身がデザイン(海とヨットをイメージし、白いボディーには赤と青のラインが描かれている)と設計(船体にある丸窓やキャプテンシート)を手掛けたという。3500万円で購入したが、その内の3000万円を内装などにかけたといわれる。彼の闘病中には大勢のファンが励ましのメッセージを車体に書き込んだ。

ラッキーカラーゴルフハンディキャップシングルバッグヘッドカバーも赤)の腕前。

[編集] 闘病の中での活躍

彼の変革は「恋の町札幌」が発売された1972年に始まる。また俳優としての仕事において同年には日本テレビ『太陽にほえろ!』に出演。これを期に映画を離れ、本人及び石原プロはテレビドラマに足場を移す。名実ともに“ボス”であった。プロデュースも同時に力を入れ始めた。

その後、同じく「大都会」シリーズを制作し、事実上続編の『西部警察』が大ヒットを飛ばす。1980年1月にはには成城の自宅において、古墳時代の遺跡、土器が発見されたこともある。発掘予算が足りなかったので、彼の私財100万円程を負担してくれたという。(上神明遺跡の中に自宅が有ったことになる。)


以降も俳優や歌手としての活動を続けたものの、1981年に解離性大動脈瘤で入院し、担当医も「危険な状態」と記者会見で述べるなど重篤な症状だったが、渡も「殉じたい。」と思うぐらい辛かったという。手術によって奇跡の復活を果たす。手術成功のあと、慶應義塾大学病院の屋上から、まき子夫人等と共に手を振るシーンがワイドショーで中継され、お茶の間に感動を与えた。この時の担当医の一人が、後に宇宙飛行士となる向井千秋である。この件を巡っては見舞い客は12000人、手紙5000通、花束2000束、千羽鶴1000束、さらには彼の車のボディーにも励ましのメッセージを書く人もあった。

[編集] そして奇跡の復活

アニメ映画『わが青春のアルカディア』で初代ハーロックの役で声優デビューしている。その出演時間が約5分間であったにも関わらず出演料が1000万円以上であったため話題となる。なお、大動脈瘤を患って以降は右耳に難聴を来たしていたが、歌や俳優の仕事に大きな影響はなかった。このあたりからポップス路線に完全に切り替わった。

その後肝細胞ガンに侵されるが、最後まで告知されないまま俳優および歌手活動を続けた。兄の慎太郎は「本人に癌であることを告知すべきだ」と主張したが、石原プロの小林正彦専務は「度重なる大病との闘いであの人(裕次郎)はもうへとへとになっている。そこでもし今回の病の正体を告げたら自ら命を絶ちかねない。つまり死刑宣告だ」と肯定。慎太郎は「裕次郎に考える時間を与えよ。彼はそんなに、やわいな男じゃないよ。」と反論したが、小林の考えを受け入れて告知しないことに決めたという。渡も同様の発言をしている。まき子夫人も病気と悟られないように演技をしていたと語っている。

1985年倉本聡脚本でハワイを舞台にした父娘の物語を作ろうとしたことがある。

1986年の『太陽にほえろ』の最終回にて岡田から「1シーンだけ自分の言葉で語らせてほしい。」と言う彼のリクエストにより、10分間にわたり命の大切さを語っている場面がある。(内容は解離性大動脈瘤で手術したときの事を彼に照らし合わせたものである。)

1987年1月9日にテレビ朝日『ミュージックステーション』にてハワイからの衛星生中継に登場し、近況報告を行い「BEYOND THE REEF」を現地から熱唱した。これが最後のテレビ生出演となった。

その後、1987年2月に発表した『北の旅人』はオリコン1位を獲得した。当時52歳7か月であった裕次郎は、2007年に小田和正が『こころ』でその記録を更新するまで、歌手として最年長オリコン1位獲得者となっていた。このレコーディングには酸素マスクをしながらの録音を2月中に2日間行った。『我が人生に悔いなし』も同様である。『我が人生に悔いなし』は彼の人生その物を描いた作品である。『北の旅人』は療養のために滞在していたハワイでレコーディングされたが、裕次郎は絶え間ない微熱とたびたび大量の鼻血を出すような体調の中でレコーディングをしていたという。そのため、作曲家の弦哲也は見かねてハワイに飛び立ち気遣っていた。

ハワイ滞在中にも体調の悪化が見られた裕次郎は帰国して治療を受けることを嫌がっていたが、畏友であった宝酒造会長:大宮隆の進言により帰国を了承した。写真はその年の4月が最後であった。その後は外出許可を出されても拒み、幻覚症状が出た。

[編集] 死去

1987年7月17日金曜日16時26分に入院先の慶應義塾大学病院にて肝細胞癌で死去した。享年52歳没。実は幼少時代から肝臓は悪かったといわれている。

7月19日に関係者による密葬が行われ、8月11日に青山葬儀所で石原プロモーション&テイチクによる合同葬が行われた。その後海洋葬として海に散骨した。理由は慎太郎が湘南の海が好きだった裕次郎の遺骨を散骨したいと願い出たからである。その間の1990年に映画の殿堂入りを果たしている。

戒名は陽光院天真寛裕大居士。万成石神奈川県横浜市鶴見区にある總持寺に立てられている。墓碑には夫人が彼に対するイメージを詠った詩が刻印されている。

美しき者に微笑を、淋しき者に優しさを、逞しき者に更に力を、全ての友に思い出を、愛する者に永遠を。心の夢醒める事無く。

[編集] 彼の与えた影響

なお死去当日のミュージックステーション(テレビ朝日)は19:30から90分の緊急追悼特番を組み故人を偲んだ。

また、フジテレビジョンは21時00分からの金曜エンタテイメントシリーズ枠で『紅の翼』(日活映画)を追悼番組として急遽放送した。

日本放送協会は、NHK総合テレビジョンで『あじさいの歌』を追悼番組として放送している。

当日、有線放送には石原裕次郎の曲のリクエストが殺到、通常のルールでは同じアーティストの曲を連続してかけないというルールがあるが、この日は特例的に石原裕次郎の曲を連続してかけた。

死後にもテレビドラマや映画、楽曲は高い人気を誇り、川中美幸とのデュエットや兄の慎太郎によるベストセラーである『』をはじめとする関連図書・音楽も多く出版されている。近年もジョイサウンドダイドードリンコのCMにデジタル合成で出演した事があり、話題を呼んだ。

また、通信カラオケシステムには、彼の代表曲の多くに映画の背景映像等を流用したものが使用されている。代表例が石碑である「狂った果実・恋の街札幌・銀座の恋の物語」である。

[編集] 怪我・病気の遍歴

彼は怪我や病気と多く闘っていた。そこで年譜にしてまとめる(1956年以降)。

  • 1956年:この頃まで、酒とたばこと女に溺れる無職の日々を送る(高校生の頃に黄疸が出る)。
  • 1957年:自由が丘で無免許運転し右足打撲(もう一つは映画ロケ中にデッキチェアーに手を挟み右手薬指負傷)。
  • 1961年:志賀高原スキー場でスキーヤーと衝突し右足首粉砕複雑骨折(後に右太股腫性膿瘍の手術で入院)。
  • 1964年:ハワイでヨット乗船中に右瞼を11針縫う。
  • 1965年:ヨット乗船中に腹痛のため大会を途中断念。
  • 1967年:右手親指骨折及び左足打撲で入院。
  • 1968年:右足打撲で全治1ヶ月入院。
  • 1971年:心労胸部疾患(後に急性肺炎肺結核)のため映画宣伝中に入院。
  • 1974年:階段から転倒し左肩打撲(後に左鎖骨骨折)
  • 1978年:舌下潰瘍(舌ガン)で入院し悪性と診断される(1983年再発)。
  • 1979年:舌下白板症と診断され術後部に潰瘍ができ再び手術。
  • 1981年:背中と胸に激痛が走り椎間板ヘルニアと疑われる。そしてついに生還率3%の解離性大動脈瘤と診断(後に右耳が難聴となる)→退院後首や腰に痛みが出るもお炊き上げで回復するが発熱。
  • 1984年:肝臓ガンと発覚し、倦怠感・腰痛の末原因不明の発熱にいたる(前の定期健診で肝細胞ガンと診断される)。
  • 1986年:慶應義塾大学病院に緊急入院。血圧降下剤の副作用による肝内胆管炎の為、療養先で静養。
  • 1987年:慶應義塾大学病院に入院、退院した(カテーテル治療)ものの容態悪化(高熱)、ついには幻覚症状を発する。そして肝細胞癌でこの世を去る。


[編集] 家族・親族

[編集] 系譜


      典子
       ┃
       ┣━━━━━━┳石原伸晃
       ┃      ┃
石原潔━┳石原慎太郎    ┣石原良純
    ┃         ┃
    ┃         ┣石原宏高
    ┃         ┃
    ┃         ┗石原延啓
    ┃
    ┗石原裕次郎
        ┃
            まき子

[編集] 主な代表映画

映画配給代表20作品(年代順・日活調べ)

  • 1957年:「嵐を呼ぶ男」-3.4億円
  • 1958年:「陽のあたる坂道」-4.0億円
  • 1958年:「明日は明日の風が吹く」-3.2億円
  • 1958年:「風速40米」-3.1億円
  • 1958年:「赤い波止場」-2.7億円
  • 1958年:「嵐の中を突っ走れ」-2.8億円
  • 1958年:「紅の翼」-3.6億円
  • 1959年:「若い川の流れ」-2.7億円
  • 1959年:「世界を賭ける恋」-2.7億円
  • 1960年:「天下を取る」-3.2億円
  • 1960年:「喧嘩太郎」-2.7億円
  • 1960年:「闘牛に賭ける男」-2.9億円
  • 1961年:「あいつと私」-4.0億円
  • 1961年:「堂々たる人生」-2.9億円
  • 1961年:「アラブの嵐」-2.8億円
  • 1962年:「銀座の恋の物語」-3.0億円
  • 1962年:「花と竜」-3.6億円
  • 1964年:「赤いハンカチ」-2.8億円
  • 1968年:「黒部の太陽」-7.9億円(観客動員734万人、興行収入16億円)
  • 1970年:「富士山頂」-2.8億円
  • 上記のほかにもすべての映画をあわせると、現在の物価で換算すると約1兆円にもなるという。

[編集] 出演映画

(1956年)

(1957年)

(1958年)

(1959年)

(1960年)

(1961年)

(1962年)

(1963年)

(1964年)

(1965年)

(1966年)

(1967年)

(1968年)

(1969年)

(1970年)

(1971年)

(1972年)

(1973年)

(1976年)

(1982年)

(1984年)


[編集] 出演ドラマ(テレビ)


[編集] 出演ドラマ(ラジオ)

[編集] レギュラー番組

[編集] ゲスト出演

[編集] 歌手活動

詳細はディスコグラフィーシングルアルバムを参照

[編集] 写真集

[編集] 出版

[編集] 連載

[編集] CM

[編集] 大会出場

  • 大島ヨットレース(1959年・1963年)このときに「コンテッサIII世号」がデビュー。
  • トランス・パシフィック・レース(1965年・1973年・1975年)
  • アドミラルズ・カップ・レース(1977年)
  • パンナム・クリッパーカップ・ヨットレース(1982年)
  • インビテーショナル・ゴルフ大会-途中ホールアウト(1986年)
  • 石原裕次郎メモリアルヨットレース(死後)

[編集] 記念館

[編集] ファンが集まる店

[編集] パチンコ

[編集] エピソード

  • 愛称は Yujiro、タフガイ、裕ちゃん(ファンからはこのあだ名で知られている)、裕さん、ボス など。
  • 彼に子供ができなかったのはスキーで足を骨折した時に多くの放射線を受けた説と、彼の子供時代に患ったおたふく風邪にかかった説がある。これが原因で肥満化になったといわれている。(ストレスで過食に走ることはなかった。)
  • 食通としても知られ、懐石料理カレーライスビフテキ葉山コロッケ等を好み、和洋中食問わず好物が多かった。また、料理好きでもあり、自宅には彼の調理器具もあったほか、別荘やヨットハーバーでバーベキューや手弁当を楽しむ写真も数多く残されている。晩年には夫人の食事管理の下玄米パン野菜サラダのみの生活を送っていた。
  • 彼は毎日30錠の薬を規則正しく服用し、食事制限(特に塩分制限6g、小さじ1杯)も実行した。ある日「ソルティドッグ」を飲んだら金宇満司に怒られてしまったという。
  • 嫌いなものは、鶏肉だった。
  • 性格として体育会系の気質があり、車の中や外、店の隅(外)・店内で運転手を待たせることや、車の中に1人でも人が残ることを嫌っていたという。嫌いなものは、鶏肉だった。
  • 石原プロの炊き出しは小林ではなく彼が考案したものである。
  • チェーンスモーカーであり、大病を患う前は、休暇中には朝食にビールを飲むほど(事実撮影所には「ビールは水」という考えから冷蔵庫が置かれていた。)の酒豪であった。(喫煙・飲酒も大病後に一時禁煙・禁酒していた。)
  • 当初「身長182センチ・体重75キログラム・股下90センチ」と、日本人離れした大柄な体型であると宣伝された。(小樽駅の4番ホーム「裕次郎ホーム」には等身大の裕次郎が置かれている)
  • 台詞覚えが悪いことで知られ、挙句の果てには台本を開いた状態で机の中において演技をしたこともあるという。その代わりNGを出すことは殆どなかったともいわれる。
  • 別荘山中湖下部温泉(「裕林亭」に1961年滞在。散歩をし、当時あったプールで泳いだ。また石原裕次郎写真館が存在する)、石和温泉にもち、芦原温泉の定宿で寛ぐ事が晩年多くなった。
  • レコードが擦り切れるほどジャズ山中節を聞いていた。
  • ガッチャマン』は日活版(実際には作らなかった。※主役は裕次郎)を想定して作られたとされている。
  • 三枝との結婚の答えを探そうとして一度失踪した経験がある。ホテルでの打ち上げ中急行松廼家に宴会をするために滞在した。涙で感謝を表すも「わががまでやった」と失踪を否定している。10日間スタッフや関係者が松廼家を包囲したという。
  • 1965年ピストル密輸事件で家宅捜索され、拳銃不法所持問題で謝罪する(主犯格は百瀬博教)。
  • 1981年の手術後、「喉が渇いているので、ポカリスエットが飲みたい」と筆談で懇願し、売上が急増。大塚製薬からはトラック1台分のポカリスエットが病院に届けられたといわれている。
  • 1980年頃、裕次郎は視聴率の件でニールセンを肯定しビデオリサーチ電通が影響している理由で否定するスタンスをとっていたという[要出典]
  • 紅白歌合戦には「歌は素人」という理由で毎年辞退していたといわれている。
  • メキシコオリンピックビートルズ日本公演を観戦したといわれている。
  • 日活の堀久作社長は「赤い波止場」のラストシーンで手錠をかけられたことを受けて「彼に手錠をかけた馬鹿者がいる」と年頭の挨拶に出るほど激怒したことがある。
  • 最初ドラマの仕事は気乗りをしていなかった。映画が失敗し、金銭的に苦境だったからである。
  • 常に時代を先取りしたファッショナブルな人物で、10代のころから自身の普段着(革ジャン)や父親のスーツを自分の寸法に仕立て直した。自ら洋服のデザインを手掛け、ポケットの形、裏地まで的確に指示した。専属テーラーに発注した洋服は、5000着以上で、2000着以上仕立てた。大量の洋服が収納場所に収まりきれなかったため(ガウンセーター類)、自宅の屋根裏を改造した。

[編集] 関連項目

[編集] 関連する人物

[編集] 外部リンク