伊豆の踊子

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伊豆の踊子
The Izu Dancer
旧天城トンネル。主人公はこのトンネルの脇にあった峠の茶屋で、はじめて踊子と会話した。
旧天城トンネル。主人公はこのトンネルの脇にあった峠の茶屋で、はじめて踊子と会話した。
著者 川端康成
イラスト 装幀:吉田謙吉
発行日 1927年3月
発行元 金星堂
ジャンル 短編小説
日本の旗 日本
言語 日本語
形態 上製本
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伊豆の踊子』(いずのおどりこ)は、川端康成短編小説。川端の初期の代表的作品で、19歳の川端が伊豆に旅した時の実体験を元にしている[1][2]1926年(大正15年)、雑誌『文藝時代』1月号と2月号に分載された。単行本は翌年1927年(昭和2年)3月に金星堂より刊行された。なお、本作の校正作業は梶井基次郎がおこなった[3]

日本人に親しまれている名作でもあり[4]、今までに6回映画化され、ヒロインである踊子・薫は、田中絹代から吉永小百合山口百恵まで当時のアイドル的な女優が演じている。

概要[編集]

孤独に悩み、人生の汚濁から逃れようと伊豆へ一人旅に出た青年が、湯ヶ島天城峠を越えて下田に向かう旅芸人一座と道連れとなり、踊子の少女に淡い恋心を抱く旅情と哀歓の物語。青年の潔癖な感傷が踊子の清純無垢な心にあたたかく解きほぐされてゆく雪どけのような清冽さと、自力を超えるものとの格闘に真摯な若者だけが経験する人生初期のこの世との和解の切実さが描かれている[5]

作品の背景として、主人公の青年である川端康成には、幼少期に身内をほとんど失っており、2歳で父親、3歳で母親、7歳で祖母、10歳で姉、15歳で祖父が死去し孤児となるという生い立ちがあったため[2]、本作中に「孤児根性」という言葉が出てくる。また当時、旅芸人は河原乞食と蔑まれ、作中にも示されているように物乞いのような身分の賤しいものとみなされていた[4][6]

川端はこの伊豆の旅以来、湯ヶ島の「湯本館」に1927年(昭和2年)までの約10年間毎年のように滞在するようになり、1924年(大正13年)に大学を卒業してからの3、4年は滞在期間が、半年あるいは1年以上に長引くこともあった[7]。本作を執筆している頃は、湯ヶ島へ転地療養に来た梶井基次郎に旅館の紹介をし、一緒に囲碁に興じたり、本作の校正をやってもらっていたという[3]。また川端は、ほとんど宿賃を払わないまま湯ヶ島に滞在し続けたと言われ、川端の豪放磊落な一面が垣間見える[要出典]

あらすじ[編集]

20歳の一高生の私は、自分の性質が孤児根性で歪んでいると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂鬱に堪え切れず、一人伊豆への旅に出る。私は道中で出会った旅芸人一座の一人の踊子に惹かれ、彼らと一緒に下田まで旅することになった。一行を率いているのは踊子の兄で、大島から来た彼らは家族で旅芸人をしていた。私は彼らと素性の違いを気にすることなく生身の人間同士の交流をし、人の温かさを肌で感じた。そして踊子が私に寄せる無垢で純情な心からも、私は悩んでいた孤児根性から抜け出せると感じた。

下田へ着き、私は踊子やその兄嫁らを活動(映画)に連れて行こうとするが、踊子一人しか都合がつかなくなると、踊子は母親から活動行きを反対された。明日、東京へ帰らなければならない私は、夜一人だけで活動へ行った。暗い町で遠くから微かに踊子の叩く太鼓の音が聞えてくるようで、わけもなく涙がぽたぽた落ちた。

別れの旅立ちの日、昨晩遅く寝た女たちを置いて、踊子の兄だけが私を乗船場まで送りに来た。乗船場へ近づくと、海際に踊子がうずくまって私を待っていた。二人だけになった間、踊子はただ私の言葉にうなずくばかりで一言もなかった。私が船に乗り込もうと振り返った時、踊子はさよならを言おうしたが、止してもう一度うなずいて見せただけだった。船がずっと遠ざかってから踊子がで白いものを振り始めた。私は伊豆半島の南端がうしろに消えてゆくまで、沖の大島を一心に眺めていた。船室で横にいた少年の親切を私は自然に受け入れられるような気持になり、泣いているのを見られても平気だった。私は涙を出るに委せ、頭が澄んだ水になってしまって、それがぽろぽろ零れ、その後には何も残らないような甘い快さだった。

登場人物[編集]

年齢は数え年

20歳。一高の学生。学校の制帽で、紺飛白の着物のをはき、学生鞄を肩にかけた格好で伊豆の一人旅をしている。湯川橋の近くで旅芸人の一行に出会う。再び天城七里の山道で出会い下田まで一緒に旅する。湯ヶ野鳥打帽を買い、制帽は鞄にしまう。歯並びが悪い。東京では寄宿舎に住む。
踊子(薫)
14歳。当初「私」には17歳くらいに見える。旅芸人一座の一員。古風に結った髪に卵形の凛々しい小さい顔の初々しい乙女。若桐のように足のよく伸びた白い裸身で湯殿から無邪気に手をふる。五目並べが強い。美しい黒髪。美しく光る黒眼がちの大きい眼。花のように笑う。尋常小学校二年までは甲府にいたが、家族と大島に引っ越す。小犬を旅に同行させている。
男(栄吉)
24歳。踊子の兄で旅芸人。旅芸人たちは大島の波浮港からやって来た。栄吉は東京で、ある新派役者の群に加わっていたことがある。実家は甲府にあり、家の後目は栄吉の兄が継いでいる。幼い妹にまで旅芸人をさせなければならない事情があり、心を痛めている。大島には小さな家を二つ持っていて、山の方の家には爺さんが住んでいる。
上の娘(千代子)
19歳。栄吉の妻。流産早産で二度子供を亡くした。二度目の子は旅の空で早産し、子は一週間で死去。下田の地でその子の49日を迎える。
40女(おふくろ)
40代くらい。千代子の母。薫と栄吉の義母。薫に三味線を教えている。生娘の薫に、男が触るのを嫌がる。国の甲府市には民次という尋常五年生の息子もいる。
中の娘(百合子)
17歳。雇われている芸人。大島生れ。はにかみ盛り。
茶屋の婆
天城七里の山道の茶店の婆さん。爺さん(夫)は長年中風を患っている。一高の制帽の「私」を旦那さまと呼び、旅芸人を「あんな者」と軽蔑を含んだ口調で話す。
紙屋
宿で「私」とを打つ。紙類を卸して廻る行商人。60歳近い爺さん。
鳥屋
40歳前後の男。旅芸人一行が泊まっている木賃宿の間を借りて鳥屋をしている。踊子たちに鳥鍋を御馳走する。「水戸黄門漫遊記」の続きを読んでくれと踊子にせがまれるが立ち去り、「私」が代りにそれを読んで踊子に聞かせる。
土方風の男
鉱夫。帰りの霊岸島行きの船の乗船場で、「私」に声をかけ、水戸へ帰る老婆を上野駅まで連れてやってほしいと頼む。
老婆
蓮台寺銀山で働いていた倅とその嫁をスペイン風邪で亡くす。残された孫三人と故郷の水戸へ帰えるため、乗船場まで鉱夫たちに付添われている。
少年
河津の工場主の息子。東京へ帰る船で「私」と出会う。一高入学準備のために東京に向っていた。泣いている「私」に海苔巻きすしをくれ、着ている学生マントへもぐり込ませ温めてくれる。

作品評価・解説[編集]

川端康成は本作について、「『伊豆の踊子』はすべて書いた通りであつた。事実そのままで虚構はない。あるとすれば省略だけである」[8]と述べている。また、「私の旅の小説の幼い出発点である」[8]とも述べている。川端が伊豆に旅したのは、一高入学の翌年1918年(大正7年)の秋で、寮の誰にも告げずに出発した8日ほどの旅であったという[1]。このときの体験を『湯ヶ島の思ひ出』という素稿に書き、『伊豆の踊子』、『少年』、『ちよ』などの作品へ発展していった[1]。川端は旅に出た動機について、「私は高等学校の寮生活が、一、二年の間はひどく嫌だつた。中学五年の時の寄宿舎と勝手が違つたからである。そして、私の幼年時代が残した精神の病患ばかりが気になつて、自分を憐れむ念と自分を厭ふ念とに堪へられなかつた。それで伊豆へ行つた」[9]と述べている[1]

奥野健男は、次々と肉親を亡くした川端康成が幼い頃から死者に親しみ、あたたかい庇護を受けることのなかった生い立ちがその作風に及ぼした影響について、「孤児川端康成の心は、この世の中で虐げられ、差別され、卑しめられている人々、特にそういう少女へのいとおしみというか、殆んど同一化するような感情が、その文学の大きなモチーフになって行く」[4]と述べ、『伊豆の踊子』については、「温泉町のひなびた風土と、日本人の誰でもが心の底に抱いている(そこが日本人の不思議さであるのだが)世間からさげすまれている芸人、その中の美少女への殆んど判官びいきとも言える憧憬と同一化という魂の琴線に触れた名作である」[4]と評している。そして作中で踊子が茶屋の婆さんから蔑まれ、村々の入口に物乞い同然のように進入禁止の立札されていたことを挙げつつ、芸人が徳川時代、河原者などと卑賎視されたことと、その反面、白拍子を愛でた後白河法皇が『梁塵秘抄』を編纂したように、芸人と上流貴族とは「不思議な交歓」があり、狂言歌舞伎などが次々と上流階級にとりいられてきた芸能史を解説し、『伊豆の踊子』は、そういった芸人に対する特別のひいき・憧憬という古来から通底する日本人の心情を、新たに現代に生かした作品だと評している[4]。なお、この奥野の論は、数ある『伊豆の踊子』論の中でも、日本の芸能史、フォークロアをよく踏まえているものであると指摘され[10]、それを敷衍し、漂流者として芸人と定住者との関係性、マレビトである漂泊芸人の来訪が、「神あるいは乞食」の訪れとして定住民にとらえられ、芸能を演ずる彼らの姿に「神の面影」を認めながらも、「乞食」と呼ぶこともためらわない両者の関係性に発展させた『伊豆の踊子』論も北野昭彦によって展開されている[10]

また奥野は、主人公である「私」には、卑賎視されている者の中にある「美しいもの」、社会制度や格式の偽りの世界とは違う素朴なひなびた、「もっとも自然で美しいもの」に触れたいという思いがあるとし、「権力者や無知で暴力的、俗物的大衆からも犯されそうな危機にある美しさ」故に、「私」は踊子を、より可憐で、たまらなく心をひくものとしていると述べ、そのモチーフは、実は多くの日本人がひとしく心の底に抱いている「秘密の心情」であり、それが「日本の美の隠れた源泉」であると論じている[4]。そして、本作が何度も映画化される理由については、単に伊豆の旅情や青春のプラトニックな恋愛といった表層的なものでなく、「日本人の心情の底にある、おそらく古代からの農耕民が、放浪の遊芸人に抱く、縄文時代からの深層意識にある憧憬と贖罪の意識、つまり日本人の芸や美の根源にかかわるものを表現しているからであろう。日本人は吉永小百合山口百恵桃割れの踊子の姿にし、親しくつきあえ、恋することのできる少女に姿にせずにはいられないのだ」[4]と解説し、主人公の青年が雨の夜、踊子が旅客に犯されている妄想に悩んだ翌日の朝、踊子の裸身を見て安心する場面について触れながら、「若桐のごとき爽やかに幼い踊子の裸身を見てことことと笑うあたりは何度読みかえしてもたのしい。作者の青春と踊子の青春がまだ青さ故に、美しく結晶した稀有の作品と言えよう」[4]と述べている。

橋本治は、主人公の青年が最後に泣き続ける意味について、踊子とエリートの卵という「身分の差」の垣根や、冷静を装って踊子の姿をじっと観察していられる余裕もなくなってしまう恋という感情、ただその人にひれ伏すしかなくなってしまう感情を主人公が内心認めたくなく、冷静に別れたつもりだったはずが、「船から遠ざかって行く“はしけ”の上で白いハンカチを振っている踊子の姿を見て、プライドの高い“私”は、ついに恋という感情を認めた」[6]と解説している。そして、「ただ彼女といられて幸福だった」という感情を、何の身分の差のない少年をまるで踊子とつながる人間でもあるかのように、そのマントに包まれながら主人公は認めたとし、「『伊豆の踊子』は、恋という垣根を目の前にして、そして越えられるはずの垣根に足を取られ、自分というものを改めて見詰めなければどうにもならないのだという、苦い事実を突きつけられる」[6]と述べ、その「青春の自意識のつらさ」を描いて、『伊豆の踊子』は永遠の作品となっていると解説している[6]

三島由紀夫は、川端康成の全作品に重要な主題である「処女の主題」の端緒の姿が『伊豆の踊子』にあらわれているとし[11]、主人公が見る踊子の描写を引きながら、「これらの静的な、また動的なデッサンによって的確に組み立てられた処女の内面は、一切読者の想像に委ねられている」[11]と述べ、この「処女の主題」のおかげで川端は、同時代の作家が悉く陥ってしまった浅はかな似非近代的心理主義の感染を免かれていると解説している[11]。そして世間ではその川端の文章表現を、「抒情」などと呼ぶが、『伊豆の踊子』の終局に見られる「甘い快さ」は単に抒情といえるものではなく、むしろ反抒情的なものであると三島は述べ[11]、『伊豆の踊子』を「見事な若書の小説」と讃辞しながら、この作品は「甘い快さ」だけでは成立しないことの証明として書かれたようなものであると解説している[11]。そして、「若書」という言葉に善い意味をつけられるなら、と前置きし、『伊豆の踊子』は日本の作家が滅多にもたない若さそれ自体の未完成の美をもっているが故に、決して作品の未完成を意味しない真の若書ともいえるべき作品であると高い評価をしている[11]

また三島は、処女の内面は本来表現の対象たりうるものではなく、処女を犯した男は決して処女について知ることはできず、また処女を犯さない男も処女について十分に知ることはできないと述べ[11]、「しからば処女というものはそもそも存在しうるものであろうか。この不可知の苦い認識、人が川端氏の抒情というのは、実はこの苦い認識を不可知のものへ押しすすめようとする精神の或る純潔な焦燥なのである」と、川端の「抒情」を説明し、それは焦燥であるために一見あいまいな語法が必要とされるが、しかしそのあいまいさは正確なあいまいさであると、その表現方法を解説している[11]。さらに三島は、「ここにいたって、処女性の秘密は、芸術作品がこの世に存在することの秘密の形代(かたしろ)になるのである。表現そのものの不可知の作用に関する表現の努力がここから生れる」と、芸術論と関連させ川端の「処女の主題」の不可知論を展開させている[11]

北野昭彦は物語が進行するにつれ、主人公が、「娘芸人のペルソナを外した少女の<美>」自体を語るのが目的であるかのようになるとし、踊子の「私」に対するはにかみや羞らい、天真爛漫な幼さ、花のような笑顔、「私」の袴の裾を払ってくれたり、下駄を直してくれたりする甲斐甲斐しさなどを挙げ、踊子の何気ない言葉で、「私」が本来の自己を回復していたことに気づき、小説タイトルの通り、踊子像そのものを語る展開となっていると解説している[10]。そして北野は、その時々で多面的に変容する「私」の見る踊子像について、「彼女は、ユングが元型的形象の一つとしてあげた<コレー像>に似ている。コレーとは、少女花嫁の三重の相において現れる永遠の乙女である」[10]と述べ、ユングが説いているところの、「コレー像は未知の若い少女として登場」[12]し、「しばしば微妙なニュアンスを持つのが踊り子である」[12]という言説を紹介している[10]

別れの場面における主語の問題[編集]

主人公と踊子が乗船場で別れる場面で、さよならを言おうとして止めて、ただうなずいたのがどちらであるかが、主語が書かれていないため、川端の元へ読者からの質問が多数寄せられたという問題点があった。

これについて川端康成は、主語は「踊子」であるとし、「はじめ、私はこの質問が思ひがけなかつた。踊子にきまつてゐるではないか。この港の別れの情感からも、踊子がうなづくのでなければならない。この場の『私』と踊子との様子からしても、踊子であるのは明らかではないか。『私』か踊子かと疑つたり迷つたりするのは、読みが足りないのではなからうか」[8]と答えている。そして川端は、「『もう一ぺんただうなづいて見せた』で、『もう一ぺん』とわざわざ書いたのは、その前に、踊子がうなづいたことを書いてゐるからである」と説明し、「『私が』の『が』は、『さよならを言はうとした』のが、私とは別人の踊子であること、踊子といふ主格が省略されてゐることを暗に感じさせないだらうか」[8]と述べている。なお、英訳ではこの部分の主語が、“I”(私)と誤訳されてしまっている[13]

そして川端はあえて新版でも、この主語を補足しなかった理由については、その部分が気をつけて読むと、不用意な粗悪な文章だからだとし、主格を補うだけではすまなくなり、そこを書き直さねばならないと思えたからだと述べ[8]、「『伊豆の踊子』はすべて『私』が見た風に書いてあつて、踊子の心理や感情も、私が見聞きした踊子のしぐさや表情や会話だけで書いてあつて、踊子の側からはなに一つ書いてない。したがつて、『(踊子は)さよならを言はうとしたが、それも止して』と、ここだけ踊子側から書いてあるのは、全体をやぶる表現である」[8]と説明し、「主格の一語を補ふだけですまなくて、旧作の三四行を書き直さねばならないとなると、私は重苦しい嫌悪にとらへられてしまふ。もし仔細にみれば、全編ががたがたして来さうである」[8]と述べている。

高本條治は、この踊子の主格問題に関する川端の、「全体をやぶる表現」という言及の意味について、「私」が見た風に書くという「語りの視点」を全篇を通して一貫させるべきであったというのが、小説家としての川端の反省的自覚であったと述べている[13]、そして高本は、読み手は、この作品の冒頭から末尾まで、主人公の「私」に同化し、「私」に感情移入し「私」になりきって解釈処理を続けているのであるから、それが、小説の最後近くになり、たった一箇所だけ、「語彙統語構造に表れた結束性の手がかりに従う限りにおいて、『私』以外の人物と同化した視点」で語られたと解釈できる部分が混入していると、ほんの時間つぶしに軽く流し読みをするような読み手以外の者にとっては、その労力を支払っただけの代償効果が追求され、川端がのちに自覚したように「語りの視点」の不整合性が問題となるとし[13]、川端が犯した不用意な視点転換は、そのことに注意を向けることができるだけの認知能力をもつ読み手にとっては、重大な解釈問題として顕在化されていると論じている[13]

これに対しやや違った論点から、この視点転換問題をみる三川智央は、川端は、この別れの場面を何の問題を感じることもなく執筆し、ほとんど無意識的に、「(踊子は)さよならを言はうとした」と表現しており、主人公の「私」は、言わば一種の〈狂気〉の状態で踊子との間に暴力的ともいえる一方的なコミュニケーションを夢想しているにほかならないとし、このことは同時に、物語世界内の「私」と、語り手である「私」の自己同一性の崩壊、「私」そのものの崩壊をも意味していると解説している[14]

そして三川は、「そこでは『私』と踊子の<離別>とともに、まるでそれを阻止するかのように『私』と踊子の心理的<一体化>が示される」[14]と述べ、それは、あくまで現実世界の解釈コードでは認識不能な<事実>として、「『私』の踊子に対する一方的な一体化の夢想」として呈示され[14]、「私」の意識の肥大化と<他者>である踊子の抹殺とを前提としているが、読者である私たちには、解釈コードの組み替えによってそのような「私」の<暴力性>が隠蔽され、<抒情的空間>とでもいうべきものとしての物語世界を辛うじて受け入れることになると解説している[14]。そして『伊豆の踊子』は、いわゆる一般的な一人称小説のように、「自己の<過去の事実>を先行する物語内容として「語り手」という人格的言表主体が物語行為を遂行するという構造」などには還元できないとし[14]、「むしろそのような主体を疎外する<語り>そのものの<力>によって支えられているのであり、多重的な<語り>の葛藤によって生じた軌跡として形を与えられているに過ぎない」[14]のであるから、物語内容の物語言説に対する優位性という従来的な仮構は、そこでは既に崩壊してしまっていると、三川は論じている[14]

映画化[編集]

映画においては、一部の版で、おきみなどの原作にない登場人物が設定されるなど、原作との違いがある。

伊豆の踊子(1954年
美空ひばり石濱朗

テレビドラマ化[編集]

ラジオドラマ化[編集]

舞台化[編集]

観光資源としての『伊豆の踊子』[編集]

特急「踊り子」号。ヘッドマークにも注目。

踊子たちが通った道は、「踊子コース」として散策できるようになっており、文学碑や文学博物館ができている。伊豆市国道414号の水生地下バス停から旧街道に入り、しばらく行ったところに文学碑はある。碑には、「道がつづら折りになつて、いよいよ天城峠に近づいたと思ふころ…」という作品の冒頭部分が刻まれており、川端康成の銅版製のレリーフも設置されている。

1981年(昭和56年)10月1日より、国鉄(1987年4月1日以降JR東日本伊豆急線伊豆箱根鉄道線直通特急列車の名称に、「踊り子」号の名称が充てられた。また、東海自動車(1999年4月1日以降は中伊豆東海バス)のボンネットバスの愛称には、「伊豆の踊子号」が充てられるなど、「踊子」は伊豆の地で愛称化されている。

おもな刊行本[編集]

  • 『伊豆の踊子』(金星堂、1927年3月)
    装幀:吉田謙吉(湯本館の一室「山桜」の欄間の図柄)。
    収録作品:白い満月、招魂祭一景、孤児の感情、十六歳の日記、伊豆の踊子、ほか5編
  • 文庫版『伊豆の踊子』(新潮文庫、1950年8月20日。改版2003年)
    カバー装幀:宮本順子。付録・解説:竹西寛子「川端康成 人と作品」。三島由紀夫「『伊豆の踊子について』」。年譜。
    収録作品:伊豆の踊子、温泉宿、抒情歌禽獣
  • 文庫版『伊豆の踊子・禽獣』(角川文庫、1951年7月30日。改版1999年)
    装幀:杉浦康平。カバー装獲:蓬田やすひろ。付録・解説:進藤純孝「川端康成――人と文学」。古谷鋼武「作品解説」。川端康成「『伊豆の踊子について』」。年譜。
    収録作品:伊豆の踊子、青い海黒い海、驢馬の乗る妻、禽獣、慰霊歌、二十歳、むすめごころ、父母
  • 文庫版『伊豆の踊子・温泉宿 他四篇』(岩波文庫、1952年。改版2003年)
    装幀:精興社。付録:川端康成「あとがき」。略年譜。
    収録作品:十六歳の日記、招魂祭一景、伊豆の踊子、青い海 黒い海、春景色、温泉宿
  • 文庫版『伊豆の踊子・骨拾い』(講談社文芸文庫、1999年3月10日)
    装幀:菊地信義。付録・解説:羽鳥徹哉
    収録作品:骨拾い、日向、処女作の祟り、篝火、十六歳の日記、油、葬式の名人、孤児の感情、伊豆の踊子、父母への手紙、ちよ
  • 文庫版『伊豆の踊子』(集英社文庫、1977年5月30日。改版1993年)
    付録・解説:奥野健男「鮮やかな感覚表現」。橋本治「鑑賞――『恋の垣根』」。年譜。
    2008年新装版より、カバー装画:荒木飛呂彦
    収録作品:伊豆の踊子、招魂祭一景、十六歳の日記、死体紹介人、温泉宿
  • 英文版『The Izu Dancer』(訳:エドワード・G・サイデンステッカー、Leon Picon)(Tuttle classics、1964年、2004年)
    収録作品:川端康成「伊豆の踊子」(The Izu Dancer)、井上靖「ある偽作家の生涯」(The Counterfeiter)、井上靖「姨捨」(Obasute)、井上靖「満月」(The Full Moon)
  • 英文版『Oxford Book of Japanese Short Stories (Oxford Books of Prose & Verse) 』(編集:Theodore W. Goossen。訳:Jay Rubin)(Oxford and New York: Oxford University Press,、1997年)
    収録作品:森鴎外山椒大夫」(Sansho the Steward)、芥川龍之介藪の中」(In a Grove)、宮沢賢治なめとこ山の熊」(The Bears of Nametoko)、横光利一春は馬車に乗って」(Spring Riding in a Carriage)、川端康成「伊豆の踊子」(The Izu Dancer)、梶井基次郎檸檬」(Lemon)、坂口安吾桜の森の満開の下」(In the Forest, Under Cherries in Full Bloom)、中島敦名人伝」(The Expert)、安部公房」(The Bet)、三島由紀夫女方」(Onnagata,)、ほか
  • 英文版『The Dancing Girl of Izu and Other Stories』(訳:J. Martin Holman)(Counterpoint Press、1998年)
    収録作品:伊豆の踊子(The Dancing Girl of Izu)、十六歳の日記(Diary of My Sixteenth Year)、 油(Oil)、葬式の名人(The Master of Funerals)、骨拾い(Gathering Ashes)、ほか

漫画化[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 『新潮日本文学アルバム16 川端康成』(新潮社、1984年)
  2. ^ a b 「年譜」(文庫版『伊豆の踊子』)(新潮文庫、1950年。改版2003年)
  3. ^ a b 『新潮日本文学アルバム27 梶井基次郎』(新潮社、1985年)
  4. ^ a b c d e f g h 奥野健男「鮮やかな感覚表現」(文庫版『伊豆の踊子』)(集英社文庫、1977年。改版1993年)
  5. ^ 竹西寛子「解説」(文庫版『伊豆の踊子』)(新潮文庫、1950年。改版2003年)
  6. ^ a b c d 橋本治「鑑賞――『恋の垣根』」(文庫版『伊豆の踊子』)(集英社文庫、1977年。改版1993年)
  7. ^ 川端康成「あとがき」(文庫版『伊豆の踊子・温泉宿 他四篇』)(岩波文庫、1952年。改版2003年)
  8. ^ a b c d e f g 川端康成『「伊豆の踊子」の作者』(風景 1967年5月 - 1968年11月号に掲載)
  9. ^ 川端康成『湯ヶ島の思ひ出』(未定草稿107枚、1922年7月)
  10. ^ a b c d e 北野昭彦『「伊豆の踊子」の<物乞ひ旅芸人>の背後――定住と遍歴、役者と演劇青年、娘芸人と学生』(日本言語文化研究、2007年3月)
  11. ^ a b c d e f g h i 三島由紀夫「『伊豆の踊子』について」(文庫版『伊豆の踊子』)(新潮文庫、1950年。改版2003年)
  12. ^ a b カール・グスタフ・ユング『コレー像の心理学的位相について』(『神話学入門』カール・ケレーニイとの共著・杉浦忠夫訳)(晶文社、1975年)
  13. ^ a b c d 高本條治『ただうなずいて見せたひと――川端康成「伊豆の踊子」の語用論的分析』(上越教育大学研究紀要、1997年3月)
  14. ^ a b c d e f g 三川智央『伊豆の踊子』再考――葛藤する<語り>と別れの場面における主語の問題』(金沢大学国語国文、1998年12月)
  15. ^ 「付録写真」(文庫版『伊豆の踊子』)(集英社文庫、1977年。改版1993年)

参考文献[編集]

  • 文庫版『伊豆の踊子』)(付録・解説 竹西寛子三島由紀夫)(新潮文庫、1950年。改版2003年)
  • 文庫版『伊豆の踊子』(付録・解説 奥野健男橋本治)(集英社文庫、1977年。改版1993年)
  • 『新潮日本文学アルバム16 川端康成』(新潮社、1984年)
  • 『新潮日本文学アルバム27 梶井基次郎』(新潮社、1985年)
  • 北野昭彦『「伊豆の踊子」の<物乞ひ旅芸人>の背後――定住と遍歴、役者と演劇青年、娘芸人と学生』(日本言語文化研究、2007年3月) [1]
  • 高本條治『ただうなずいて見せたひと――川端康成「伊豆の踊子」の語用論的分析』(上越教育大学研究紀要、1997年3月) [2]
  • 三川智央『伊豆の踊子』再考――葛藤する<語り>と別れの場面における主語の問題』(金沢大学国語国文、1998年12月) [3]

関連項目[編集]