江利チエミ

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えり チエミ
江利 チエミ
江利 チエミ
1955年
本名 久保智惠美
生年月日 1937年1月11日
没年月日 1982年2月13日(満45歳没)
出生地 日本の旗 日本
東京市下谷区(現・東京都台東区下谷
国籍 日本
血液型 A型
職業 歌手女優タレント
ジャンル ジャズ歌謡曲
活動期間 1952年 - 1982年
配偶者 高倉健1959年 - 1971年
主な作品
サザエさん

江利 チエミ(えり チエミ、1937年1月11日 - 1982年2月13日)は、昭和期に活躍した日本歌手女優タレントである。本名、久保 智惠美(くぼ ちえみ)。

略歴[編集]

生い立ち[編集]

1937年昭和12年)1月11日、東京市下谷区(現・東京都台東区下谷)に3男1女の末娘として生まれる。血液型A型

父・久保益雄は福岡県田川郡添田町の出身。独学でクラリネット奏者になったが、軍事徴用での工場の作業で指の先を痛め、以降再び独学でピアノ弾きに転向したりと、ともかく「音楽センス」の素晴らしい人だったと言われており、智惠美が生まれた頃は船のバンドマスター、吉本興業に所属していた(デビュー当時のチエミも吉本に所属していた。デビュー当時の吉本は今のような規模になく花菱アチャコ・チエミくらいしか稼げるスターはいなかった)。バンドマスターを経て吉本所属(東京吉本)の大スター、柳家三亀松三味線漫談)の相三味線やピアノ伴奏を務める(三亀松の語りにあわせての効果音的なピアノ伴奏は絶妙で、三味線もコードを変えて音を重ねるなど巧みな腕を持っていた)。この三味線、ピアノも独学で習得したものだった。智惠美の音楽素養のなかの「順応性、適合性」はこの父親の遺伝子によるものと思われる。

母は、SKDが東京に出来る前の宝塚歌劇の前身のようなレビュー一座・東京少女歌劇出身の女優、谷崎歳子である。のちに浅草の軽演劇の舞台に立ち、吉本興業に所属する。名喜劇女優として、当時同じく吉本にいた笠置シヅ子と共演したり、榎本健一とも映画で共演したりしているが、智惠美を身ごもるころより身体を壊し、一線から退いた。

メジャーデビューまで[編集]

“少女歌手・江利チエミ”のルーツは「生活を支えるため」であり、この点は美空ひばりとの相違である。ひばりはひばりの母親のなし得なかった「歌手になる」という夢と、自身も歌が好きで非常に巧かったということが合致し、マメ歌手の人生をスタートするが、豊かではないまでも実家は父が「魚増」という鮮魚店を営み、家計に困窮していたわけでは無かった。

かたや智惠美は、師匠である柳家三亀松とのいわば喧嘩別れで失職した父、病床で寝たり起きたりの母、また3人の兄、これだけのものを背負っていた。

長兄も陸軍士官学校出身で英語も堪能なエリートだったが、戦後の価値観の変化などで順調とは行かず、結局、父がマネージャー、長兄が付き人という3人4脚での芸能活動が、1949年(昭和24年)、12歳のころからスタートすることになった。

進駐軍のキャンプまわりの仕事をこなしていくうちに智惠美はドリス・ディの「アゲイン」などを習得し、ジャズ歌手への志向を高めていく。進駐軍のアイドルとなり、愛称は「エリー」となる。芸名の江利チエミはこの「エリー」から母が名づけた(以下、「チエミ」と記述)。特にチエミをかわいがってくれた進駐軍兵士ケネス・ボイドからその後の「運命の曲」となる「テネシーワルツ」のレコードをプレゼントされる。

この曲を自分のデビュー曲と心に決めるも、レコード会社のオーディションにことごとく失敗する。なんとか最後の頼みの綱であるキングレコードにパスし、1952年(昭和27年)1月23日に自分の意志を貫き「テネシーワルツ/家へおいでよ」でレコードデビューを果たす。そのときチエミは15歳だった。しかし吹き込みは前年の11月だったため、キングレコードは「14歳の天才少女」というキャッチコピーを提案した。しかしこのとき「嘘をつくのは嫌だ!」と抗議。少女時代から自分の意志を通す一徹な部分を持った性格だった。なお、母はチエミのデビューを待たず1951年6月に他界している。

同年、初主演映画の『猛獣使いの少女』に出演、「美空ひばり以来の天才少女」と呼ばれるようになる。

幅広いジャンルで活躍[編集]

チエミの「テネシーワルツ」の大ヒットは「日本語と英語のチャンポン」というスタイルを用いたこともあり、それまで都市部中心でのブームであった「ジャズ」(当時は洋楽を総称してこう呼んだ)を全国区にするにあたり、牽引役を果たした。また、後のペギー葉山、そしてカントリーの小坂一也、そしてロカビリーブームなど、日本における「カバー歌手」のメジャー化のさきがけともなった。

元々、チエミの興行権を握っていたのは吉本興業だった。若き日の永島達司はチエミの興行を打った会場で「山口組の三代目と吉本の林さんが怖そうな人と来てるから逃げてください」と忠告された。挨拶に行くと二人は「ウチのところでもやってくれ」と切り出してきた。後に『夢のワルツ』(講談社)の中で永島は、大物二人は文句を言おうと思ってきたが会場の客層を見て(キョードー東京の連中を)使った方が便利だと考えたんだろう、と語っている。

メジャーデビューの翌年、1953年(昭和28年)の春には、招かれてアメリカキャピトル・レコードで「ゴメンナサイ / プリティ・アイド・ベイビー」を録音、ヒットチャートにランキングされるという日本人初の快挙を達成。ロサンゼルスなどでステージにも立ち絶賛を浴びる。帰路のハワイでも公演を成功させ、そこで合流したジャズ・ボーカル・グループ「デルタ・リズム・ボーイズ」と共に凱旋帰朝、ジョイント・コンサートを各地で開き、ジャズ・ボーカリスト・ナンバー1の地位を獲得する。

なお、チエミが渡米している間にライバルとなる雪村いづみがデビュー。帰国第一声は「雪村いづみって、どんな子?」だったという。しかもデビュー曲が自らカバーしようと準備していたテレサ・ブリュワー「想い出のワルツ」(原題: Till I Waltz Again with You)だったので心中おだやかではなかったが、スカートの丈が合わずシミーズが少し出た背の高い痩せぎすな少女・いづみが空港で出迎え、その屈託の無い可憐な姿にチエミの心は和み、やがて二人は終生の親友となった。

美空ひばり・雪村いづみとともに「三人娘」と呼ばれ、一世を風靡。『ジャンケン娘』(1955年)などの一連の映画で共演。その頃からチエミは、日劇をホームグラウンドとして活躍、日劇の歴史で「歌手の名前がそのロングラン公演のタイトル」となったのは、1955年(昭和30年)4月26日 - 5月6日『チエミ海を渡る』がさきがけだった(チエミの日劇初出場はメジャーデビュー前の1951年(昭和26年)。1952年から1967年までリサイタルを開いた)。またTBSチエミ大いに歌う』は、ワンマンショウスタイルのさきがけともなった歌番組(1965年4月 - 11月)であった。

映画の『サザエさん』シリーズ(1956年から全10作が作られた)もヒット。後にテレビドラマ(1965年 - 1967年)、舞台化もされ生涯の当たり役となる。東映作品『ちいさこべ』では京都市民映画祭で優秀助演女優賞を獲得、『ふんどし医者』など、自身主演の音楽娯楽映画(『唄祭りロマンス道中』(渥美清・共演)、『ジャズ娘誕生』(石原裕次郎・共演)、『チエミの婦人靴』など)以外にも数多く助演した。

1959年(昭和34年)、ゲスト出演した東映映画での共演が縁で高倉健と結婚、家庭に入るものの、1960年(昭和35年)に本格的に復帰。高倉とは義姉(異父姉)による横領事件(後述)などがあって1971年(昭和46年)にチエミ側から離婚を申し入れることに。チエミは数年かけて数億に及んだ借財と抵当にとられた実家などを取り戻す。

1963年(昭和38年)には日本におけるブロードウェイ・ミュージカル初演の東京宝塚劇場での『マイ・フェア・レディ』に主演しテアトロン賞(東京演劇記者会賞)[1]、毎日演劇賞、ゴールデン・アロー賞(第1回大賞)などを受賞、またこれに遡る1961年(昭和36年)には「歌手としてはじめて」の舞台の1か月座長公演も梅田コマ『チエミのスター誕生』で果たし、舞台女優としても活躍した(翌1962年の新宿コマ『スター誕生』公演で芸術祭奨励賞受賞)。代表作には、『アニーよ銃をとれ』、『お染久松』(芸術祭奨励賞)、『芸者春駒』、『白狐の恋』(芸術祭優秀賞)、『春香伝』、『花木蘭』などがある。

新宿コマの座長公演は1962年(昭和37年)の『スター誕生』から1978年(昭和53年)の『サザエさん』まで続いた。松竹系の舞台でも、1978年(昭和53年)京都南座で音楽劇二十四の瞳』に主演。助演した舞台にも東宝歌舞伎『沓掛時次郎』(長谷川一夫と共演)、コマ歌舞伎『春夏秋冬』(現:坂田藤十郎(4代目)、当時の中村扇雀と共演)があり、女優としても幅広い活躍を続けた。

テレビドラマも『チエミの瓦版太平記』、『咲子さんちょっと』、『あの妓ちゃん』、『黄色いトマト』、『ねぎぼうずの唄』、『はじめまして』、『赤帽かあちゃん』など多数の作品に主演。

その活動の範囲は、歌手・女優に留まらず、NHK連想ゲーム』の紅組キャプテン、TBS『みんなで歌おう73 - 75』のメインパーソナリティなど司会業でも活躍し、テレビ朝日象印クイズヒントでピント』では女性軍2代目キャプテンを務めていた。

「エリー」「チーちゃん」という愛称が定着しているほか、親しい友人の間では「ノニ」というあだ名で呼ばれていた。これはチエミ自身から「…のに」と口癖の様に言うことが多いことから使われていたと、チエミとの思い出を振り返っていた杉良太郎や、雪村いづみが歌番組で語っていた。

45歳、不慮の死[編集]

1982年(昭和57年)2月13日午後、港区高輪の自宅マンション寝室のベッド上で、うつ伏せの状態で吐いて倒れているのをマネージャーに発見されたが、既に呼吸・心音とも反応が無く死亡が確認された。45歳没。死因は脳卒中と、吐瀉物が気管に詰まっての窒息によるものだった。数日前から風邪を引き体調が悪かったところに、ウィスキーの牛乳割りを呷り、加えて暖房をつけたまま風邪薬を飲んで寝入った事が一因とも言われている。その前日は、一昨日に行われた熊本での和服商社主催のイベントから帰宅したばかりで、亡くなった当日の夜にも北海道でやはり和服関連のイベントが組まれていた。

あまりの突然の死に、チエミの親友だった「三人娘」の美空ひばりと雪村いづみ、他清川虹子中村メイコらもショックを隠しきれずに号泣、チエミの葬儀の席でも深い悲しみに暮れていた。また、親友・杉良太郎は死の前年9月、杉の主演ドラマ『大江戸桜吹雪、八千両の舞』にチエミがゲスト出演していたことから、驚きを隠せなかったという。チエミの柩が玄関を出た2月16日は奇しくも、最期まで愛し続けた高倉健との結婚の際、花嫁衣装を着て実家の玄関を出た日と同じだった。その高倉はチエミの葬儀に姿を現さなかったものの、葬式当日に本名の「小田剛一」で供花を贈り、また会場の前で車を停めて手を合わせていたという[2]。それから数週間後の3月3日、仕事関係者らによる音楽葬が行われた。

尚チエミの死の数日前に、2月8日ホテルニュージャパン火災と、翌2月9日には日航機羽田沖墜落事故という、二つの大事故が連日にわたり発生、当時の報道・マスコミはニュージャパン火災と日航機墜落事故で特別報道態勢を敷いていたため、テレビ各局は混乱に陥るなど、チエミ急逝のニュースは予想以上に小さな扱いとなった。その数日後に改めて、チエミの追悼番組や特集などが組まれることとなった。

波瀾万丈の人生[編集]

名古屋で家庭をもって暮らしていたY子は、さまざまな事情から母(チエミの実母・谷崎歳子)と幼くして生き別れになるが、ある日「スター歌手、江利チエミ」が自分の妹(異父妹)である事実を知った。

Y子は「離婚して経済的に困窮している」、と嘘を騙り、家政婦・付き人としてチエミに近づき家に入り込む。身の回りの世話を手伝いながら徐々に信頼を得ていき、最終的にはチエミの実印を預かり、経理を任されるまでになった。ここからY子の捻じ曲がった感情によるいわれのない「江利チエミへの復讐」が始まる。

Y子は高倉健、チエミにそれぞれの「でっちあげの誹謗中傷」を吹聴、別居に追い込み、離婚への足がかりを作ることとなる。また実印を使ってチエミ名義の銀行預金を使い込み、高利貸しから多額の借金、不動産までも抵当に入れた。事件発覚後も容疑を否定し、女性週刊誌や婦人誌などで反論するとともに、チエミへの誹謗中傷や家庭内の暴露を展開[3][4]、挙句は失踪、自殺未遂騒動まで引き起こす[5]。チエミは自己破産をせず「責任は自分でとる」と決意、断腸の思いで義父姉を告訴。義父姉には懲役3年の実刑判決が下っている。不遇な境遇の自分と「大スターの妹」との差に嫉妬した計画的な犯行だった。

2億とも4億とも言われた動産の被害、不動産担保を、チエミは一人、地方営業などをこなしながら完済した。

デビュー直前の母の死、3人の兄もチエミの存命中に2人が亡くなり、高倉健との間に授かった子供も重度の妊娠高血圧症候群から中絶を余儀なくされ、かわいがっていた甥の電車事故死、そして離婚と家庭運に恵まれなかった部分も多かった。さらに1968年にはポリープによる声帯の手術、また1970年1月21日には当時世田谷区瀬田(旧・玉川瀬田町)にあった邸宅を火災で焼失、1972年には日本航空351便ハイジャック事件に乗客として遭遇するなど、芸能生活の華やかな栄光の陰には何故か常に「不幸」がつきまとう、波瀾万丈の45年間の生涯だった。

NHK紅白歌合戦[編集]

年末恒例の『NHK紅白歌合戦』へは、「三人娘」の中ではチエミが一番早く、1953年第4回)に「ガイ・イズ・ア・ガイ」で初出場を果たす。1956年(第7回)では、雪村いづみが本番当日胃痙攣の為に出場辞退、急遽チエミがいづみの分も合わせて、出場者の印である赤い花を2つ胸に付けた。そして、自宅療養していたいづみからの「チー子がんばれ! テレビで観てる」との電報を読み上げたのち、「お転婆キキ」を熱唱した。

1963年1964年第14回第15回)は、現役歌手としてはじめて紅組司会も担当した。1968年第19回)には、当時の連続出場最多記録かつ史上最多出場記録となる16回目の紅白出場を達成したが、この1968年がチエミの生涯最後の紅白出演となった。

次の1969年第20回)は、「紅白に出場して欲しい歌手」上位三名に入っていたにもかかわらず落選し、大きな話題となる。チエミの落選の理由は、前年までチエミは後半トップバッターを、島倉千代子は前半トリを、美空ひばりは紅組トリをそれぞれ務め、ベテラン歌手のバランスを保っていたが、この年の紅白ではひばりをトリから外し紅組トリを新しい世代にバトンタッチする計画が浮上。その場合、それまでトリを務めていたひばりは前半トリで歌い、それまで前半トリで歌っていた島倉を後半トップの位置にするのが妥当だと製作側は考え、それまで後半トップだったチエミが押し出される形になったことである。しかし、実際にはひばりは例年通り大トリを務め、島倉も前年までと同様に前半トリを務めた[6]

1970年第21回)の紅白は当初2年ぶりの復帰出場が決まっていたが、チエミが自ら「ヒット曲がないから」「前年に比べて歌唱力は上達していません」などとの理由により、敢えて紅白への出場辞退を表明した(その後紅組の代替歌手として日吉ミミが初出場)。現役歌手で紅白出場が決まりながらも辞退したのはチエミが史上初めてのことであったが、この他越路吹雪らも同回以降紅白を辞退することになる。

その後も、1974年1975年第25回第26回)には『酒場にて』が久々にヒット曲となったが、チエミは「もう紅白は卒業したので、一切登場は致しません」と、やはりNHKからの出演要請を頑なに拒んでいた。

ディスコグラフィー(シングル)[編集]

ジャズポップスを皮切りに、東京キューバン・ボーイズとのコラボレーションによる「チエミの民謡」、ミュージカル、そしてオリジナルもポップス系から演歌と幅広い楽曲をこなすレパートリーの広さも特長だった。また『NHK紅白歌合戦』でも、数回民謡を披露している(八木節ソーラン節など)。

  1. テネシー・ワルツ/カモナマイハウス(家へおいでよ)(1952年1月発売)
  2. ツゥー・ヤング/ビビディ・ボビディ・ブー(1952年5月発売)
  3. サーカスの少女/情熱のトランペット(1952年6月発売)
  4. 涙の母子鶴/ワンダフル娘(1952年9月発売)
  5. サンパギタ/ふるさとのお母さん(1952年10月発売)
  6. チャタヌギ・シュー・シャイン・ボーイ/ブルー・ムーン(1952年10月発売)
  7. アゲイン/プリティー・アイド・ベイビー(可愛い瞳)(1952年12月発売)
  8. サイレント・ナイトジングル・ベル(1952年12月発売)
  9. チエミの花売り娘/東京ワルツ(1953年1月発売)
  10. ガイ・イズ・ア・ガイ/ティー・フォー・ツー(1953年2月発売)
  11. トランペット・ラグ/愉快なドラム(1953年3月発売)
  12. 鍛冶屋のブルース/シャンハイ(1953年4月発売)
  13. 歩いて帰ろう(Walkin' My Baby Back Home)/ユー・ビロング・ツー・ミー(1953年4月発売)
  14. 思い出のワルツ/サイド・バイ・サイド(1953年6月発売)
  15. 君呼ぶワルツ/ハウ・ハイ・ザ・ムーン(1953年9月発売)
  16. ジングル・ベル/ホワイト・クリスマス(1953年11月発売)
  17. ヴァイヤ・コン・ディオス/ペイパー・ムーン(1953年11月発売)
  18. 君慕うワルツ(チェンジング・パートナー)/サニー・サイド(On The Sunny Side Of The Street)(1954年1月発売)
  19. アンナ/ジャンバラヤ(1954年3月発売)
  20. 心のワルツ/40杯のコーヒー(1954年6月発売)
  21. ウェディング・ベルが盗まれた/ムーチョ・ムーチョ(1954年7月発売)
  22. ウスクダラ/夢みるあの人(1954年8月発売)
  23. スコキアン/セ・シ・ボン(1954年12月発売)
  24. 嘆きのワルツ/パパはマンボがお好き(1955年3月発売)
  25. 裏町のお転婆娘/インタンブール・マンボ(1955年6月発売)
  26. 恋人よわれに帰れ/踊ろよヘンリー(Dance with Me Henry)(1955年8月発売)
  27. ロック・アラウンド・ザ・クロック/スウィート・アンド・ジェントル(1955年11月発売)
  28. チャチャチャはすばらしい/旅情のボレロ(1955年11月発売)
  29. おてんばキキ/ババルー(1956年4月発売)
  30. ロック・アンド・ロール・ワルツ/ラヴ・ミー・オア・リーヴ・ミー(1956年8月発売)
  31. なつかしのリスボン/今日かぎり(1956年8月発売)
  32. テ・キェロ・ディヒステ/セプテンバー・ソング(1956年11月発売)
  33. グレンドーラ/誇り高き男(1956年11月発売)
  34. ママ、ダンスを教えてね/何時か何処かで(1957年1月発売)
  35. 雨降る町を(雨に歩けば)/やさしく愛して(1957年2月発売)
  36. バナナ・ボート・ソング/シンコ・ロブレス(1957年5月発売)
  37. 霧のロンドン・ブリッジ/マリアンヌ(1957年6月発売)
  38. 串かつソング(シシュ・カバブ)/バイ・バイ・ラヴ(1957年9月発売)
  39. ヤンミー・ヤンミー/キャリオカ(1958年1月発売)
  40. 月のなぎさ/スワニー(1958年3月発売)
  41. 恋のキッスは?/セントルイス・ブルース(1958年5月発売)
  42. 君は我が運命/虹のかなたに(1958年7月発売)
  43. さのさ/五木の子守唄(1958年11月発売)
  44. ハウスボートのラブ・ソング/ビン・バン・ボン(1959年2月発売)
  45. 黒田節/おてもやん(1959年3月発売)
  46. 花の江戸ッ子娘/わたしゃ大島油売り(1960年1月発売)
  47. 木遣くずし/八木節(1960年1月発売)
  48. マリーナ/ある恋の物語(1960年7月発売)
  49. 奴さん/花笠踊り(1960年12月発売)
  50. 深川くずし/しののめ節(1960年12月発売)
  51. ネヴァー・オン・サンディ/ヴァイア・コン・ディオス(1961年2月発売)
  52. あなたの自由に/君住む街角(1961年7月発売)
  53. ハワイのクリスマス/カリプソ・クリスマス(1961年10月発売)
  54. 東京さのさ娘/咲子さんちょっと(1962年10月発売)
  55. 都々逸/田原坂(1963年1月発売)
  56. 常磐炭鉱節/斎太郎節(1963年1月発売)
  57. アンチェイン・マイ・ハート/ダニー・ボーイ(1963年3月発売)
  58. 北九州音頭/北九州音頭(オーケストラ)(1963年5月発売)
  59. 涙のテネシー・ワルツ/スワニー(1963年5月発売)
  60. 思い出のサンフランシスコ/わたしはダディのもの(1963年12月発売)
  61. 大漁節/草津節(1964年1月発売)
  62. 踊りあかそう/すてきじゃない(1964年3月発売)
  63. 新妻に捧げる歌/空を帽子に(1964年3月発売)
  64. 母さんにさわってみたい/ないしょの話(1964年10月発売)
  65. おてもやん/三階節(1964年12月発売)
  66. ショウほど素敵な商売はない/月光の子守唄(1964年12月発売)
  67. チエミのドンパン節/佐渡おけさ(1965年4月発売)
  68. 夫と妻といとし子と/私たちの国(1965年6月発売)
  69. みれん/誰もいないとき(1965年9月発売)
  70. 飛んでみたい/泣きたい時に(1965年10月発売)
  71. 若者音頭/新さのさ(1966年1月発売)
  72. 雨女/はじめての街(1966年6月発売)
  73. しあわせすぎて/あゝ心にふるさとを(1966年9月発売)
  74. 私だけのあなた/指おり数えて(1967年2月発売)
  75. ゆきやまつむぎ/砂の城(1967年4月発売)
  76. ひとり泣く夜のワルツ/愛する人へ(1967年7月発売)
  77. 今宵このひととき/時計(エル・ロッホ)(1968年5月発売)
  78. 口づけをかえして/さよならは一度でいいの(1968年9月発売)
  79. ただひとすじのブルース/京の雨(1969年3月発売)
  80. この雨に濡れて/炎のブルース(1969年8月発売)
  81. 涙と幸せ/あなたの噂(1969年12月発売)
  82. この道を/さよならはあなたから(1970年9月発売)
  83. スワニー/テネシー・ワルツ(1971年2月発売)
  84. 旅立つ朝/明日に生きる女(1971年5月発売)
  85. 雪山つむぎ/朝を待つ私(1972年2月発売)
  86. チエミの河内音頭/さんさくずし(1972年6月発売)
  87. 夢のカナリー島/雨のビバリーヒルズ(1972年11月発売)
  88. 面影橋から/ひとり暮しの詩(1973年2月発売)
  89. 歩こうよ/愛はひそかに(1973年7月発売)
  90. 黒髪/デカンショ節(1974年1月発売)
  91. 酒場にて/陽気なスージー(1974年9月発売)
  92. 夜のカウンター/最後のダンス(1975年6月発売)
  93. はじめまして/いつか見た夕映(1975年7月発売)
  94. ノスタルジア/緑の谷(1977年1月発売)
  95. わたしの人生/悲しみの道づれ(1977年8月発売)
  96. 夜ふかし気分/悪いくせだね(1978年1月発売)
  97. お人好し/人間っていいな(1978年6月発売)
  98. バイバイ・ボーイ/私はピエロ(1979年6月発売)
  99. 恋の手ざわり/空中ぶらんこ(1980年9月発売)
  100. 満ち潮/目の中の海(1982年3月発売)

主な出演作品[編集]

映画[編集]

『猛獣使いの少女』より

ドラマ[編集]

その他の番組[編集]

声の出演[編集]

ロレッタ・リン(本人役で出演)の声でゲスト出演。

CM[編集]

NHK紅白歌合戦出場歴[編集]

年度/放送回 曲目 出演順 対戦相手 備考
1953年(昭和28年)/第4回 ガイ・イズ・ア・ガイ 04/17 近江俊郎
1954年(昭和29年)/第5回 2 ウスクダラ 03/15 浜口庫之助
1955年(昭和30年)/第6回 3 裏町のお転婆娘 13/16 芦野宏
1956年(昭和31年)/第7回 4 お転婆キキ 09/24 三橋美智也
1957年(昭和32年)/第8回 5 ヤムミー・ヤムミー 10/25 芦野宏(2)
1958年(昭和33年)/第9回 6 さのさ節 08/25 フランキー堺
1959年(昭和34年)/第10回 7 八木節 14/25 フランキー堺(2)
1960年(昭和35年)/第11回 8 ソーラン節 15/27 森繁久弥
1961年(昭和36年)/第12回 9 スワニー 13/25 三橋美智也(2)
1962年(昭和37年)/第13回 10 虹のかなたに 14/25 橋幸夫
1963年(昭和38年)/第14回 11 踊り明かそう 09/25 立川澄人
1964年(昭和39年)/第15回 12 木曽節 14/25 三橋美智也(3)
1965年(昭和40年)/第16回 13 芸者音頭 16/25 三波春夫
1966年(昭和41年)/第17回 14 私だけのあなた 13/25 橋幸夫(2)
1967年(昭和42年)/第18回 15 ひとり泣く夜のワルツ 13/23 西郷輝彦
1968年(昭和43年)/第19回 16 八木節(2回目) 13/23 北島三郎
  • 対戦相手の歌手名の()内の数字はその歌手との対戦回数、備考のトリ等の次にある()はトリ等を務めた回数を表す。
  • 曲名の後の(○回目)は紅白で披露された回数を表す。
  • 出演順は「(出演順)/(出場者数)」で表す。

再評価[編集]

CDアルバム[編集]

江利チエミ(歌)/土岐麻子(選曲)2006年(平成18年)発売 20曲収録

江利チエミ役を演じた女優[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 「テアトロン賞」とは?”. 江利チエミの世界. 2004年5月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年5月9日閲覧。
  2. ^ 以来、毎年の命日には人目を避けるように早朝に墓参し供花、本名を記した線香を贈り続けている。
  3. ^ 1972年2月刊行、「週刊平凡」第14巻第6号の目次 週刊平凡 14(6)”. Webcat Plus. 2014年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月30日閲覧。
  4. ^ 1975年10月刊行、「婦人倶楽部」11月号(第56巻第11号)の目次 婦人倶楽部 56(11)”. Webcat Plus. 2014年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月30日閲覧。
  5. ^ 1972年2月刊行、「週刊平凡」第14巻第7号の目次 週刊平凡 14(7)”. Webcat Plus. 2014年1月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月31日閲覧。
  6. ^ 『紅白歌合戦の真実』(合田道人著、幻冬舎、2005年)p55-56
  7. ^ 1979年3月から6月まで2枠レギュラーで1979年10月から1980年9月まで2代目女性軍キャプテンを務めた。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]