小坂誠

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小坂 誠
東北楽天ゴールデンイーグルス コーチ #86
Makoto Kosaka 2008.jpg
読売ジャイアンツ時代
2008年9月13日、横浜スタジアム
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 宮城県亘理郡山元町
生年月日 1973年7月2日(39歳)
身長
体重
167 cm
63 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 遊撃手二塁手三塁手
プロ入り 1996年 ドラフト5位
初出場 1997年4月5日
最終出場 2010年8月12日
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
コーチ歴
  • 東北楽天ゴールデンイーグルス (2011 - )

小坂 誠(こさか まこと、1973年7月2日 - )は宮城県亘理郡出身の元プロ野球選手内野手)、野球指導者。現役時代は千葉ロッテマリーンズ読売ジャイアンツ東北楽天ゴールデンイーグルスに在籍し、現在は楽天二軍内野守備走塁コーチを務める。

目次

経歴 [編集]

プロ入り前 [編集]

少年野球時代はチームの後輩に小野淳一宮城県柴田高等学校では甲子園出場はなく、卒業後は社会人野球JR東日本東北硬式野球部に在籍。

その後、1996年のドラフト会議千葉ロッテマリーンズからドラフト5位指名を受けて入団。背番号00

プロ入り後 [編集]

ロッテ時代 [編集]

プロ1年目の1997年、ルーキーながらショートのレギュラーを獲得。3.4月の月間MVPを獲得し、シーズン全試合出場を果たすなど活躍を見せて新人王に選ばれる。この年に記録した56盗塁はそれまでの新人最多記録である佐藤孝夫の45盗塁を遥かに凌ぐ記録であり、現在も破られていない。

1998年から背番号を1に変更。43盗塁で盗塁王に輝く(故意のボーク疑惑による盗塁阻止問題も発生。詳しくはそちらの項を参照)。

1999年にゴールデングラブ賞を初受賞し、以後2001年まで受賞し続ける。1998年に続き2年連続でリーグ最多犠打も記録し、プロ野球史上初の「40盗塁・40犠打」を達成した。2000年に33盗塁で自身2度目となる盗塁王を獲得。2001年にはプロ野球史上2人目の入団から5年連続30盗塁を記録。2002年は開幕早々に右足を骨折し長期離脱(後述)。入団から連続30盗塁と連続100安打の記録が5年で止まる。

2003年には通算50三塁打を達成する。2004年は腰痛などの故障が長く続き、出場試合数が大幅に減少した。この年からボビー・バレンタイン新監督の統計スタッフの分析により「ゴロヒットよりフライヒットが多い」との指摘を受け、転がす打撃から外野へ飛ばす打撃にスタイルを変える。シーズン途中から眼鏡を使い始め、2007年からコンタクトレンズを試みた時期もあったが、その後、眼鏡とチューインガムがトレードマークとして定着した。

2005年1月1日に入籍。4月22日 通算1000試合出場(401人目)を地元宮城県フルキャストスタジアム宮城で達成。6月5日 通算250盗塁達成。以後、西岡剛堀幸一らと共に二遊間を3人でローテーションするという独特のシステムの下(出場の試合は全て遊撃手)活躍し、チームの31年ぶりのリーグ優勝と日本一に貢献。ゴールデングラブ賞も受賞した。12月21日に金銭トレードで読売ジャイアンツへ移籍。ロッテで付けていた背番号1が巨人では永久欠番になっていたこともあり、同年に引退した元木大介2を引き継ぐことになった。

巨人時代 [編集]

2006年 監督に復帰した原辰徳の構想では三塁小久保裕紀、遊撃二岡智宏、二塁仁志敏久と内野のレギュラーが確定していたため、「新生原巨人」でのキャンプでは「内野守備・走塁のスペシャリスト」としてセカンドサードの守備にとりくんでいたが、正二塁手仁志の極度の打撃不振もあり開幕2番セカンドのスタメンを勝ち取り、この年は二塁での起用が殆どとなった(二岡の守備固めでない、ショートでの先発は二岡欠場時の2試合のみとなった)。4月15日の対横浜ベイスターズ5回戦(横浜)で、通算1000本安打達成。5月24日 巨人に移籍後、初めてお立ち台に立った。

ロッテ時代よりも小技などの進歩を見せるが、打率1割台と極度の不振となり、併用された仁志と共倒れとなってしまったことで後半は守備代走要員に回り、ルーキー脇谷亮太が優先起用された。チーム内にケガ人が続出するなかで李承燁や二岡と共にシーズンを通じて一軍に定着してチームを支え続けたが、シーズン終了後には大幅減俸を受け入れ、10月には若手と共にフェニックスリーグに参加した。10月27日 シーズン中に取得したFA権を行使せずに巨人に残留することを表明[1]

2007年から背番号を6に変更(北海道日本ハムファイターズからFA権を行使して移籍してきた小笠原道大が日本ハム時代と同じ背番号2をもらったため)。3月30日セ・リーグ開幕戦の対横浜戦(横浜)で史上10人目の通算250犠打を達成。翌年初頭に、越年で契約更改。肩の故障の経過を見たうえでの契約となった。セ・リーグに合わせて打球を上げる打撃スタイルなどを修正し、シーズン当初は開幕スタメンショートで押し出し四球を記録するなど活躍したが、チームの貧打により二岡が1軍昇格するとスタメンは二岡で固定され、仁志が移籍したセカンドも木村拓也脇谷亮太が起用されることが多かった。出場機会は二岡と交代での守備固め、もしくは代走に限られ、1シーズンを通したヒット数はわずか3安打となった。下半身に不安を抱える二岡のバックアップ要員としてチーム優勝に貢献したものの、肩を痛めて8月3日の出場を最後に1軍登録を抹消された。

2008年2007年まで一度しか守ったことがなかった三塁を守ることも多くなった。故障の後遺症もなく、その三塁でも堅実な守備を見せた。若いが荒削りな坂本勇人が遊撃手として台頭し、二岡の本格三塁コンバートが決定。ひきつづき守備と走塁のスペシャリストとしての役割が期待されていたが、若手と中堅選手の台頭や、打撃不振もあり出場試合数は自己最少。プロ入り後初めて一軍で無安打に終わった。

11月、金銭トレードでの東北楽天ゴールデンイーグルス移籍を発表。背番号は32。巨人には二軍コーチを打診されていたが、現役にこだわりたいとの思いから自分で移籍を願い出たという。

楽天時代 [編集]

2009年、楽天初の地元(宮城県)出身選手として楽天入り。新たに作られた応援歌には「宮城の星」という節を含む。巨人時代と同じく代走や守備固めで起用されることがほとんどだったが、5月にレギュラーの2人が相次いで故障し、スタメンでも起用されるようになる。5月3日の対オリックス戦で代走として出場し、2塁ゴロでホームインし、決勝点となる。5月25日の対横浜戦でトム・マストニーから4年ぶりの本塁打を打つ。また、8月16日の対ロッテ戦の12回に、荻野忠寛からルーキーイヤー以来12年ぶりのサヨナラ安打を打つ。

2010年は1月の自主トレ中に腰を痛め、全治3週間の椎間板ヘルニアと診断され春季キャンプ合流が大幅に遅れた。シーズンではほとんど出番がなく出場はわずか7試合で、全て代走と守備固めでのもので打席に立つことは一度もなかった。10月1日付で戦力外通告を受けたのを機に現役を引退。

引退後 [編集]

2011年、楽天育成コーチ(野手担当)に就任。2011年5月15日、二軍内野守備走塁コーチへと異動。2012年は育成コーチ(野手担当)に復帰予定だったが、後任の種田仁が1月に退団したため、引き続き二軍内野守備走塁コーチを務める[1]

プレースタイル [編集]

プロ野球選手としてはかなり小柄な体格だが足が速く、守備と走塁の技術に非常に長けていた。バッターボックスに入るときに審判に軽く会釈することが多かった。

打撃・走塁 [編集]

打率自体は低いが、選球眼に優れ打率の割りに出塁率が高く、三振もやや少ない。バントがうまく、シーズン最多犠打を2度記録している。

通算本塁打数は19本と少ないが、2000年3月26日オープン戦の対横浜戦で1イニング2本塁打を記録している。この試合はロッテのかつての本拠地で、狭いことで有名だった川崎球場の取り壊し記念の最終戦で、両軍合わせて10本塁打が飛び出し、スコアも22-6(ロッテ勝利)という乱打戦だった。小柄な体格ゆえにパワーが無いと思われがちだが、広い福岡ドームで本塁打を放ったこともある。

俊足で走塁技術も高く、盗塁王を2度獲得し、リーグ最多三塁打を4度記録している。その俊足は右中間が狭い東京ドームで右中間に放った打球で楽々三塁に到達してしまうほどである。

守備 [編集]

俊足とポジショニング、打球反応の速さ、打球勘などからくる広い守備範囲、教科書通りと形容される捕球と一体化した安定した送球、柔らかなグラブ捌きや併殺の処理、その全てがプロの最高水準であった。その驚異的な守備範囲の広さは「小坂ゾーン」とまで形容された。普通なら安打になる鋭い当たりや長打性の難しい打球をさも当たり前のように捌いてしまうため、派手さは無いが非常に堅実で、普通の野手とは違った意味で魅せるプレーが多かった。守備範囲の広さは数字にも現れており、アウト寄与率は遊撃手として入団以来2003年まで両リーグ1位を記録しており、うち1998年から2003年までの6年間はレンジファクターが5を超えている[2]城島健司は「小坂さんがいると、毎試合ヒットを1本損する」と語っている[3]ゴールデングラブ賞は4度受賞した。

千葉ロッテマリーンズに入団して以来、ロッテの1軍では2004年に一度だけ三塁手を守った(攻撃中にベンチ裏で味方選手の素振りしていたバットが、三塁を守っていた今江敏晃の頭部に当たるというアクシデントがあったため)以外は9年間遊撃手のレギュラーを守り続けた。2軍やオールスターでは二塁手なども経験しているが、移籍時に一部スポーツ紙で「2005年に二塁を守った」という記事が掲載されたのは誤りである。巨人に移籍後は、二塁・三塁守備を習得して「内野守備・走塁のスペシャリスト」(2006年前半は仁志の打撃不振から事実上の正二塁手として起用された)として期待され、3ポジションで持ち前の守備力を発揮したが、打撃不振や故障により実力を十分に発揮することができなかった。楽天では本職である遊撃手(主に相手の先発投手が右投げであった場合)の他にも、細かい怪我の多い高須洋介の守備負担を減らすために二塁手を務めることもあった。また、守備コーチとしての役割も期待されている[4]

人物 [編集]

好きな女優は伊藤かずえ。夫人は伊藤とはタイプが違う小柄な一般人女性である。

感情を顔に出さないタイプであり、特に笑顔は少ないと言われている。踊る!さんま御殿!!に出演した際には「小坂さんの笑った顔を初めて見た。今日はラッキーデーですよ」と他球団選手に言われたほど。2005年お立ち台の際、4安打目となる二塁打を放ったときに見せた笑顔について聞かれ、「まあ、たまには見せないといけないでしょう」と答えた。

「練習の虫」として知られ、趣味に練習を挙げるほど地道な努力を欠かさなかった。

ロッテのアイスモナカモナ王」のコマーシャルに、初芝清篠原ともえと共に出演した。

芸人に守備のうまさをネタにされることが多い。上田晋也リチャードホールのコントで、「なんであんたそんな拾いづらいとこ拾うんだよ!ロッテの小坂か!?」や、石橋貴明とんねるずのみなさんのおかげでした食わず嫌い王での、「ロッテ(巨人)の小坂並に守備範囲広いですね~」などがある。

2000年ナゴヤドームで行われた「オールスター大運動会」で俊足の小坂に対し、恰幅良く鈍足と思われる阪神中込伸と2人で100m徒競走を行うという企画が行われた。中込には半分の50m地点から同時に走るというアドバンテージがつけられ、差は縮まったものの、大方の予想に反し中込の圧勝だった。

2000年、2001年とオールスターに出場した際、日本テレビアナウンサー吉田填一郎が誤って小坂を「ロッテオリオンズの小坂」と紹介。その他の選手は「ロッテマリーンズの○○」と呼ばれていた中、1人だけオリオンズとされていた。

2002年2003年には千葉マリンスタジアムで、「小坂スチール弁当」が販売された。2002年にはホークスとの開幕カード3試合目で併殺を阻止しようとしたランナー・バークハートのタックルにより右足を骨折した。これは弁当の呪いの一例として数えられている。

2005年、巨人に金銭トレードで移籍した経緯として、報道によると、契約更改交渉予定だったが予定時間が二転三転し、交渉は行われたものの、その場で金銭トレード(推定1億円)での巨人移籍が通告され、その数時間後に巨人で入団会見をするという急な移籍となった。
ファンの感情的な憶測とは裏腹に『「バレンタイン流マネジメント」の逆襲(高橋徹・著、講談社・刊)』によれば、金銭トレードはボビー自身が主導したもので巨人1球団に対してというものでもなかったようである。不要な選手を放出して資金を捻出しただけとバレンタイン監督自身はMLB出身の監督らしく極めて冷静に振り返っている(小坂の守備力を高く評価していた一方、打撃力の低さを短所とみており、2005年に残したような成績を来季以降も残せると判断していなかったようである)。
一方、巨人清武代表は入団会見で小坂に関し「1年前から狙っていた選手のひとり」と相反するコメントを残している(伏線になる事実としては、2004年オフ、正二塁手仁志敏久がFA権行使しメジャーリーグ移籍を試みており、当時の巨人堀内恒夫監督もクラシカルな守りの野球を掲げ仁志流出を危惧していた。仁志の代替選手をリストアップしており、小坂がその数名のリストのなかに入っていたのではないかと思われる)。

2008年、楽天へ金銭トレードで移籍した経緯として、当初、巨人からコーチ就任の要請を受けていたが、現役続行にこだわりそれを固辞。また、かねてから地元球団でのプレーを熱望していた(イーグルス設立時からプレーを望んでいたという)こともあり、楽天への移籍が実現した。

詳細情報 [編集]

年度別打撃成績 [編集]

















































O
P
S
1997 ロッテ 135 595 499 66 130 14 7 1 161 30 56 16 38 5 49 0 4 49 4 .261 .329 .323 .651
1998 124 527 430 51 100 12 8 3 137 33 43 11 48 6 40 2 3 48 3 .233 .299 .319 .617
1999 130 586 482 64 135 18 10 3 182 40 31 15 42 2 57 4 3 59 2 .280 .358 .378 .736
2000 135 559 462 57 110 17 4 1 138 30 33 11 23 5 69 2 0 69 4 .238 .334 .299 .633
2001 140 657 550 79 144 16 8 1 179 35 32 9 22 7 77 0 1 70 8 .262 .350 .325 .675
2002 93 380 334 35 82 13 6 1 110 15 11 3 18 0 26 0 1 54 2 .246 .302 .329 .631
2003 134 592 516 67 133 21 7 3 177 40 27 7 19 3 53 1 1 84 5 .258 .326 .343 .669
2004 89 300 242 33 61 9 3 1 79 26 6 8 21 3 31 0 1 37 1 .252 .336 .326 .662
2005 118 367 321 64 91 14 6 4 129 31 26 11 10 1 29 0 6 47 3 .283 .353 .402 .755
2006 巨人 92 255 218 24 40 5 2 0 49 12 4 4 8 2 22 2 5 41 3 .183 .271 .225 .496
2007 56 31 24 13 3 1 1 0 6 3 2 0 1 1 4 0 1 8 0 .125 .267 .250 .517
2008 13 7 7 1 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 2 0 .000 .000 .000 .000
2009 楽天 105 213 176 19 40 3 1 1 48 8 7 4 17 1 18 0 0 31 1 .227 .297 .273 .570
2010 7 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
通算:14年 1371 5069 4261 574 1069 143 63 19 1395 303 279 99 267 36 475 11 26 599 36 .251 .327 .327 .655
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績 [編集]


二塁 三塁 遊撃
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
1997 - - 135 197 459 14 86 .979
1998 - - 123 236 417 16 106 .976
1999 - - 130 230 421 13 84 .980
2000 - - 135 226 489 11 98 .985
2001 - - 140 252 492 16 99 .979
2002 - - 93 175 298 3 57 .994
2003 - - 134 226 483 8 86 .989
2004 - 1 1 0 0 0 1.000 88 148 275 8 65 .981
2005 - - 112 142 290 3 64 .993
2006 76 114 196 4 34 .987 - 27 14 21 0 5 1.000
2007 2 0 2 0 0 1.000 - 51 22 41 1 10 .984
2008 7 1 2 0 0 1.000 5 1 2 0 0 1.000 -
2009 63 77 113 2 23 .990 12 2 4 0 1 1.000 34 33 69 0 15 1.000
2010 - 3 2 1 0 1 1.000 2 0 1 0 0 1.000
通算 148 192 313 6 57 .988 21 6 7 0 2 1.000 1204 1901 3756 93 775 .984
  • 2010年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル [編集]

表彰 [編集]

記録 [編集]

初記録
節目の記録
その他の記録
  • オールスターゲーム出場:5回 (1997年、1999年 - 2001年、2003年)
  • シーズン守備率:パ・リーグ遊撃手記録:.994(2002年)
  • シーズン補殺:パ・リーグ遊撃手記録:492(2001年)
  • 通算三塁打:63三塁打 ※歴代17位タイ(2011年終了時点)
  • 通算犠打:267犠打 ※歴代10位(同上)

背番号 [編集]

  • 00 (1997年)
  • 1 (1998年 - 2005年)
  • 2 (2006年)
  • 6 (2007年 - 2008年)
  • 32 (2009年 - 2010年)
  • 86 (2011年 - )

登場曲 [編集]

脚注 [編集]

  1. ^ コーチ契約・チームスタッフに関して”. 東北楽天ゴールデンイーグルス (2012年1月31日). 2012年1月31日閲覧。
  2. ^ http://number.bunshun.jp/articles/-/14336?page=2
  3. ^ http://number.bunshun.jp/articles/-/14336?page=3
  4. ^ 日刊スポーツ、野村監督の連載より

関連項目 [編集]