野本圭

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野本 圭
中日ドラゴンズ #9
CD-Kei-Nomoto.jpg
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 岡山県岡山市南区
生年月日 1984年7月7日(27歳)
身長
体重
180cm
81kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 外野手
プロ入り 2008年 ドラフト1位
初出場 2009年4月3日
年俸 2,400万円(2012年)
経歴(括弧内は在籍年)

野本 圭(のもと けい、1984年7月7日 - )は、中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手外野手)。

目次

[編集] 経歴

[編集] プロ入り前

小学1年生でソフトボールを始め、岡山市立芳泉中学校では軟式野球部に所属。岡山南高校では、1年夏にレギュラーになると、2年春に県大会優勝、中国大会ベスト4。秋からは4番として定着するが、3年夏の県大会では2回戦で敗退し、甲子園の出場経験はない。同校から、駒澤大学に進学する。

東都大学リーグ通算66試合出場、222打数71安打、打率.320、7本塁打、36打点。1年春からリーグ戦に出場するが、股関節と腰を痛めた影響で、その後2年春までは出場機会がなく、レギュラーに定着したのは3年春から。3年の時には中日で同僚であった新井良太(現:阪神)と3番・4番のクリーンナップを担っていた。また、1年遅れで同僚となる大島洋平とは右中間を担っていた。大学4年時、世界大学野球選手権大会のリーグ戦4試合で首位打者を獲得したのを皮切りに、インターコンチネンタルカップアジア大会の2大会にも、日本代表として出場する。また、東都大学リーグでも、春季の1本塁打から、秋季は5本塁打を記録する成長を見せ、通算でも3度のベストナインを獲得するなど、ドラフト上位候補に値する活躍を見せた。しかし同年、野本は早くから日本通運への入社を内定させていたため、プロの球団は指名を見送るほかなかった。[1]

日本通運入社当初、野本は大学4年時に残した実績に恥じない活躍を社会人野球で残してプロ入りできるのか、という点で不安もあった。だが、入社1年目の2007年から外野のレギュラーの座を確保して活躍し、都市対抗野球大会日本選手権に出場。同年台湾で行なわれたIBAFワールドカップにも、日本代表として選出され、アマチュア日本代表の外野手の座を不動のものとする。2008年もチームの主力として、都市対抗野球、日本選手権の両大会に出場し、JABA北海道大会ではMVPに選出された。日本通運在籍中の2年間で体重が5kg増加し、トーナメント戦での一発勝負の厳しさを学んだことで精神面も成長。プロからは即戦力として高く評価された[1]。同年のドラフト会議で、中日ドラゴンズ東北楽天ゴールデンイーグルスの1位指名が競合。抽選の末に中日が交渉権を獲得した。その後、12月4日に中日と契約金1億円(出来高払い5000万円)、年俸1500万円(いずれも金額は推定)で仮契約し、入団。中日は落合博満監督(当時)が直々に1位指名を命じたと言われている。

[編集] プロ入り後

2009年の春季キャンプでは一軍メンバーに帯同。オープン戦では終盤に左脚を痛めて戦線離脱したが、開幕一軍入りを果たす。4月3日の開幕戦(横浜戦)で5回に井上一樹に代わって右翼手で公式戦初出場。翌4月4日にはスタメン出場し、初安打はライアン・グリンから放った本塁打であった。チームが勝利したため、プロ初のお立ち台、ヒーローインタビューを受けるデビューとなった。その後、6月9日に開幕時から一軍に帯同していたことによる疲れのリフレッシュなどを理由に一軍登録を抹消された。7月3日に一軍に復帰。クライマックスシリーズでは、第1ステージには同点を阻む好返球を見せたり、第2ステージには相手チームを突き放す3ラン本塁打を放ったりと、攻守にわたる活躍を見せた。11月5日、この年で現役を引退した井上がつけていた背番号9を継承。またシーズン終了後にはプロ2年目の選手としては異例の「選手会会計」にも任命された。

2010年は外野のレギュラー定着を狙ったものの、打率.218と打撃不振で安打52に対して三振53と三振が安打数を上回る結果となってしまった。しかし、一年間一度も登録抹消されることなく一軍に帯同し、本塁打は前年の倍になる4本とパンチ力は披露した。巨人東野峻と相性が良く、8月18日の巨人戦(ナゴヤドーム)に、絶不調だったにもかかわらず好調だった堂上剛裕を外してまでスタメン起用され、試合を決める2点タイムリーを放ち結果を出した。クライマックスシリーズファイナルステージ第3戦では、代打で登場し同点に追い付く3ラン本塁打を打っている。

2011年はキャンプから二軍スタートでそのまま開幕を迎え初の開幕二軍スタートとなった。しかし、4月30日に一軍昇格。当初は中堅手としての出場が多かったが、ジョエル・グスマンの不振やトニ・ブランコの怪我などで右翼手としての出場が多くなる。シーズン後半は中堅手・大島洋平、右翼手・平田良介と固定される事が多く控えに回ることが多かったが、和田一浩が登録抹消された際は、左翼手でのスタメン起用が多くなった。最終的には大島や平田に水をあけられてしまい、打率.226、2本塁打、15打点と物足りない成績に終わった。また、前年同様三振数(40)が安打数(36)を上回った。

[編集] プレースタイル

[編集] 打撃

2009年に兼任コーチとして野本を指導した立浪和義は「打撃の際に腕が伸びてしまうことによって、速球に苦んでいる」と分析している。その反面半速球には強いという[2]

[編集] 守備・走塁

50m走6秒1の俊足。[3]守備面では強肩と言うほどではないが球際に強く、2011年5月26日の日本ハム戦(ナゴヤドーム)で、糸井嘉男の右中間への抜ければ二塁打もしくは三塁打という打球をダイビングキャッチ。勝利につながるプレーを見せた。落合博満監督からも「すべての流れを作ったのは、野本のダイビング。それに尽きる」と絶賛された。これ以外にも度々、球際の強さでファインプレーを披露している。

[編集] 人物

同学年であり同じ外野手である長野久義を、大学時代からの良きライバルとして挙げている。大学時代、長野は日本大学に所属しており、共に東都大学リーグでプレー。当時は、長野が4年時に、リーグで10年ぶりとなる2季連続首位打者を獲得しており、野本も前述の好成績を残していたとはいえ、長野の影に隠れる形となっていた。社会人時代も、長野はHondaに所属し、同じ埼玉県に加盟するチームで戦ってきた。一方、日本代表では長野と同じチームでプレー。2006年のアジア大会では、全員がプロ野球選手の韓国を相手に、野本が柳賢振からタイムリーヒットを打ち、長野が呉昇桓からサヨナラ本塁打を打つ活躍で勝利に貢献。チームメートとしてプレーして以来、グラウンドを離れれば親友のような関係である。[1]

プロ入り2年目の2010年からは個人応援歌が作られたが、比較的、曲の内容がオーソドックスな物が多い中日の選手では珍しいタイプである。更に2011年に入ってからは、外野スタンドでサッカーのように飛び跳ねて応援している一角も見受けられる。

チームメイトの浅尾拓也によると、いじられ役である。

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別打撃成績

















































O
P
S
2009 中日 64 191 175 17 44 6 1 2 58 13 1 0 6 0 6 1 4 34 3 .251 .292 .331 .623
2010 118 277 238 17 52 7 2 4 75 27 0 1 9 3 26 2 1 53 3 .218 .295 .315 .610
2011 78 174 159 18 36 8 2 2 54 15 0 0 2 1 6 0 6 40 3 .226 .279 .340 .619
通算:3年 260 642 572 52 132 21 5 8 187 55 1 1 17 4 38 3 11 127 9 .231 .290 .327 .617
  • 2011年度シーズン終了時

[編集] 記録

[編集] 背番号

  • 30 (2009年)
  • 9 (2010年 - )

[編集] 登場曲

『伝えたい事がこんなあるのに』INFINITY 16 welcomez 若旦那 from 湘南乃風 & JAY'ED (2010年~)

『Heavenly Star』元気ロケッツ(2011年~)

[編集] 脚注

  1. ^ a b c 「高校、大学、社会人の1巡目候補に注目 4」、『週刊ベースボール』11月3日号、ベースボール・マガジン社、2008年10月、pp.14-15。
  2. ^ 2010年6月19日の元気を日本に 日本プロ野球における解説より
  3. ^ 中日スポーツ:日本通運・野本が急浮上 きょう運命のドラフト:ドラニュース(CHUNICHI Web)

[編集] 関連項目

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