打撃投手

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打撃投手(だげきとうしゅ)は、打者の打撃練習のための球を投げる専門の投手バッティングピッチャー(B・P)とも呼ばれる。但し、英語圏ではbatting-practice pitcherである(野球用語一覧参照)。

[編集] 概説

打者にとってピッチングマシンを使うよりも実際の投手から投げられる球を打つ方が実践的な打撃練習になる。そのため、現役投手の代わりに打撃練習のためだけに打者へ投球する投手を「打撃投手」という。打撃投手は投球以外でも裏方として様々な仕事を行う。打撃投手は現役を退いた投手が務めることが多い。打たれない投球から打たれる投球へ、打球の飛ぶ先を確認しない、肩を作るウォームアップ時間の短さ等々、現役とは全く異なる環境に置かれる。現役選手と同様、この世界でも生き残れる者は少ない。中には水谷宏のように還暦を過ぎるまで打撃投手を務めた人もいる。

専門職としての打撃投手の元祖は佐藤玖光広島)で、佐藤は1975年から1998年まで打撃投手として広島と契約、1995年にはセ・リーグから特別表彰も受けている。それ以前は新人・若手の現役投手が打撃投手役を務めており、引退した人の場合は、西村省一郎南海)の様に、マネージャースコアラー等他の業務を兼ねる場合が多かった。また、打撃投手から現役選手に復帰する例もある。現中日の打撃投手・西清孝(但し横浜時代の1994年は選手兼任、翌年正式に現役復帰)や栗山聡オリックスで現役復帰、その後アマ復帰し松下電器に在籍していた)が代表的な例。また、チームのコーチになった者もいる。

また新人選手でも、特にドラフト下位あるいはドラフト外で入団した選手を実質上打撃投手扱いする場合がある。そういった選手の中からエースとして大成した西本聖のような例もある。専業の打撃投手が存在しなかったドラフト制度導入前に打撃投手からチームの大黒柱へと成長した例としては稲尾和久小山正明が有名である。またダイエー時代の下柳剛は「毎日中継ぎ登板、毎日打撃投手」という過酷な投げ込みで制球力を改善させた。

背番号は3桁(100番台)であることが多いが、2桁(80番台・90番台が多い)も存在する。また、西武の打撃投手は、01番や02番といった10の位が0番台の2桁の背番号を着用している(00番を除く)。尚、日本ハムでは打撃投手は2006年までは全員2桁の背番号であったが、2007年より打撃投手の背番号を廃止している。

特定の強打者とペアを組む「専属打撃投手」も存在する。広島でわずか2年の現役生活の後打撃投手となったサウスポー・多田昌弘は、当初左投手を苦手にしていた金本知憲の練習に協力するうちに、公私にわたっての相棒となった。金本が阪神FA移籍する際には多田も金本から同伴移籍を勧められ、打撃投手として阪神と契約した。

メジャーリーグでは打撃投手はコーチやマイナーリーグの選手の仕事である。その中でも古賀英彦はアメリカで長く打撃投手を務めた。また、近年では日本でもこの影響を受けて、コーチが打撃投手を行うことがある。

[編集] 参考文献

打撃投手がいつ始まったのか、その歴史を明らかにするとともに、王貞治長嶋茂雄の打撃投手を務めた人物の証言を収録。現在の打撃投手、石本貴昭(元近鉄セーブ王)元オリックスで還暦過ぎても投げ続けた水谷打撃投手などの、裏方にかける人生を描いたノンフィクション。陰に生きる男たちの葛藤と生きがいを描いている。
  • 岩田卓士 ほか『背番号三桁―「僕たちも胴上げに参加していいんですか?」』 (竹書房
打撃投手に限らず、阪神の裏方を中心とした人々に取材した本。背番号三桁とは打撃投手の背番号の意。
長嶋監督から直接請われて巨人に入団しながら、3年間のファーム生活を経て打撃投手へと転身した黒田真治にスポットを当てたノンフィクション。

[編集] 関連項目

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