松井秀喜5打席連続敬遠

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松井秀喜5打席連続敬遠(まついひできごだせきれんぞくけいえん)とは、1992年8月16日第74回全国高等学校野球選手権大会2回戦の明徳義塾高校高知)対星稜高校石川)戦において、明徳義塾が、星稜の4番打者・松井秀喜を5打席連続して敬遠する作戦を敢行し、この試合で松井が一度もバットを振らせてもらえないまま星稜が敗退した出来事である。

目次

[編集] 概要

この試合で明徳義塾の先発投手・河野和洋は、星稜の4番打者・松井秀喜に対して「全打席敬遠」作戦をとる。明徳のエース・岡村憲二は肘を故障しており、外野手登録の河野和洋(背番号8)が先発。松井に5打席全てストライクゾーンから大きく外れるボール球を投げ、四球を与えた。公式記録は、捕手が初めから立った状態で与えた四球ではなかったため、「故意四球」ではなく「四球」となっている。

松井が最初の打席は1回表、二死から3番の山口が三塁打で出塁し、星稜の先制点のチャンスで迎えた。しかし松井は四球を与えられ、一塁へ歩かされた。その後も3回表、5回表と松井が打席に入る度に、明徳はことごとく勝負を避け続けた。3回表の打席から河野が1球投げるごとにスタンドがざわめき始め、5回表の打席では完全にどよめきに変わった。

3-2と明徳1点リードの7回表、松井の第4打席では二死無走者からでも意図的な四球を与える。星稜の応援席からは「勝負、勝負!」の連呼と、明徳に対しての野次が飛ばされていた。さらに9回表の最終打席(二死三塁)でも松井に四球が与えられた時には、初球で明らかにこの打席も四球を与えると分かるや、堰を切ったように球場内は野次と怒号に包まれる異様な雰囲気となった。星稜の三塁側応援席や外野席からはメガホンやゴミなどの物が大量に投げ込まれ、さらに河野に対する「帰れ」コールやブーイングが起こり、試合は一時中断となり、ボールボーイや星稜の控え選手たちが投げ込まれた物を片付けに走った。この時一塁上にいた松井は、唖然とした表情でその光景を見つめていた。

その後、一塁走者の松井が二盗して二死二三塁となり一打逆転も見えたが、次打者の月岩信成は三塁ゴロを打ってアウトとなった。明徳はわずか1点差で逃げ切って勝利を収め、結果的に松井への全打席四球策は成功した格好となった。しかし試合自体は、この松井への敬遠で社会的にも大きな話題となった。

試合終了の挨拶の後、両チームで握手を交わした選手は4、5人程度であり、松井含め他の星稜の選手は明徳の選手と握手を交わさずにベンチ前へ急いだ。明徳の校歌演奏の際には、観客のブーイングや「帰れ」コールの大合唱が大きく鳴り響き、明徳の校歌が聞こえなくなるほどであった。校歌斉唱後、勝った明徳の選手に対してはブーイングが鳴り止まなかったが、一方で負けた星稜の選手に対しては沢山の拍手が送られていた。

この大会において松井は注目選手として群を抜いており、この試合がお盆の最中の第3試合という事もあってスタンドは超満員札止めの状況の中での試合だった。強豪同士の好カードだったことに加え、松井見たさに多くの観客が詰め掛けていた中での試合だったことも、この騒動が大きくなった要因とも言える。

[編集] 松井の5連続敬遠内訳

イニング 打席 スコア 走者 内容
1回 松井秀喜
(1打席目)
星0-0明

B○○○
S○○
O●●

0ボール-0ストライク
2アウト


 

二塁:-
三塁:走者 一塁:-
ストライクゾーンから大きく外れるボール球を4球投げて四球。
3回 松井秀喜
(2打席目)
星0-2明

B○○○
S○○
O●○

0ボール-0ストライク
1アウト


 

二塁:走者
三塁:走者 一塁:-
ストライクゾーンから大きく外れるボール球を4球投げて四球。
5回 松井秀喜
(3打席目)
星1-3明

B○○○
S○○
O●○

0ボール-0ストライク
1アウト


 

二塁:-
三塁:- 一塁:走者
ストライクゾーンから大きく外れるボール球を4球投げて四球。
7回 松井秀喜
(4打席目)
星2-3明

B○○○
S○○
O●●

0ボール-0ストライク
2アウト


 

二塁:-
三塁:- 一塁:-
ストライクゾーンから大きく外れるボール球を4球投げて四球。
9回 松井秀喜
(5打席目)
星2-3明

B○○○
S○○
O●●

0ボール-0ストライク
2アウト


 

二塁:-
三塁:走者 一塁:-
ストライクゾーンから大きく外れるボール球を4球投げて四球。
9回 月岩信成 星2-3明

B○○○
S○○
O●●

0ボール-0ストライク
2アウト


 

二塁:-
三塁:走者 一塁:走者
ボール。一塁走者が盗塁を決めて、二三塁。
9回 月岩信成 星2-3明

B○○○
S●○
O●●

0ボール-1ストライク
2アウト


 

二塁:走者
三塁:走者 一塁:-
三ゴロ。試合終了。明徳勝利・星稜敗退。

[編集] スコア

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 R
星 稜 0 0 1 0 1 0 0 0 0 2
明徳義塾 0 2 1 0 0 0 0 0 X 3
  1. 審判:球審…田中、塁審…本郷・頼住・植村
  2. 観衆55000人

[編集] 出場選手

[明徳義塾]

  • 1[遊]筒井健一
  • 2[二]重兼和之
  • 3[投]河野和洋
  • 4[一]岡村憲二
  • 5[左]加用貴彦
  • 6[捕]青木貞敏
  • 7[三]久岡一茂
  • 8[中]橋本玲
  • 9[右]広畑国昭

[星稜]

  • 1[中]清水雄一
  • 2[遊]林和成
  • 3[投]山口哲治
  • 4[三]松井秀喜
  • 5[二]月岩信成
  • 6[一]福角元伸
  • 7[右]奥成悟
  • 8[左]竹森健策
  • 9[捕]北村宣能
  • 打 松本哲裕
  • 捕 東宏幸


[編集] 試合後の当事者のコメント

明徳義塾の馬淵史郎監督は試合後、「松井への全打席敬遠は私が指示した。生徒達には『オレが全て責任取るから心配するな』と伝えた。本当はためらったのだが、こちらも高知県代表として初戦で負けるわけにはいきませんから。負けるための作戦を立てる監督は誰もいない、私は全てを読んだ」「(星稜の練習を見て)高校生の中に一人だけプロの選手が混じっていた」とコメントした。投手の河野は「監督からは『全部敬遠で行け!』と言われたので指示通りに投げました」とコメントし、インタビュアーからの「一度くらいは勝負したかった?」との問いには「全然思っていないです」。そして「チームが勝つことが大事」と答えたが、球場を引き上げる際の河野は、松井の顔をまともに見られなかったという。主将の筒井健一は「スタンドから物が投げ込まれた時に嫌な思いはしたが、あくまで監督の指示に従っての行動だった」と、それぞれ硬い表情のまま述べた。

一方、星稜の山下智茂監督は「私の野球人生の中で最も悔いの残る試合となりました。明徳には高校生らしく、正々堂々と勝負して欲しかった。松井があまりにも可哀想でならない」と涙ながらに語った。その後松井には「よう我慢したな。5回も敬遠されたら一度くらいはバットを振りたかっただろうに」と労ったという。松井の次打者だった月岩は「自分に力が無かった」、投手の山口は「先に点を取られたのが悪かった」と、それぞれ悔し涙を流していた。

この試合、明徳に全く勝負させてもらえなかった当事者の松井秀喜は、試合後インタビュアーから「一度でもバットを振りたいとは思わなかった?」「今までに敬遠されて歩かされたことはあるの?」など何を聞かれても「覚えていません」「分かりません」と素直に自分の気持ちを言葉に出来なかった。そして、「勝負して欲しかった?」の問いに対して松井は軽くうなずき、「(応援してくださった全国の皆に)ありがとうございました」と言った(松井の帽子のひさしの裏には『冷静』の2文字が書かれていた)。この松井のインタビューを見た星稜高校OBで、松井の中学時代の野球指導者であった高桑充裕は「松井も成長したな」と語った。また、後日落ち着いた後に松井は「勝負してもらって自分が打てたかどうかはわかりませんけど、勝負してほしかったです。しかし、敬遠は相手の作戦なので、それに対して僕は何も言えません。打席では打てる球が来るのをずっと待っていたのですけど。終わった瞬間も、そして今も、まだ負けた気がしません」とコメントを残した。

[編集] 試合関係者・野球関係者等のコメント

  • 福島敦彦(当日NHKでこの試合を解説): 後の取材で「僕でも(敬遠を)やっていた。僕や馬淵君のように社会人野球を経験していると、勝ってなんぼや。負けてもいいって事ないもん。それが習性として身に付くんよ。(当日の)アナウンサーも、高校野球はこうあるべきだ、っていうタイプやった。野球を知らないから美化している。試合中もずっと憮然としとったからね。でも俺まで一緒に興奮するわけにはいかんやろ。NHKは僕で良かったと思うで。高校野球はこうあるべきだ、ってスタンスでいったら、明徳、悪者やもん。メガホン投げる事のほうが由々しき問題なんやから。まあ、興奮する理由もわかりますけどね」
  • 植草貞夫(この試合の実況を担当した朝日放送アナウンサー)松岡英孝(解説): (植草)「(明徳義塾が松井と)勝負はしません!」と怒り口調で実況し、解説をしていた元北陽高校監督の松岡英孝(高知県出身でもある)は「勝負してあげてほしい」「(全打席四球が与えられたときに)私、非常に残念です」と答えた。また、(植草)「あなたなら大勢の観衆の前でそういう度胸はありますか?」の問いに、(松岡)「私なら一度くらいは勝負する」、スタンドから物を投げ込まれたときは(松岡)「高校野球でこんなことは初めて」とコメントした。
  • 牧野直隆高野連会長(当時): この試合に関して異例の記者会見を開き「走者のいる時に作戦として敬遠するならともかく、何故ランナーがいない時にまで勝負しなかったのか?お互いこの日のために毎日苦しい練習を積んで来たのだから、その力を思い切りぶつけて欲しかっただけに大変遺憾。河野君も力のある投手なのだから、走者のいない場面では勝負してほしかった。勝とうとする気持ちだけが余りにも度が過ぎている」と発言した。このコメントに対しては「ルールを犯したわけでもないチームを会長の立場にある人間が糾弾するのは軽率だ」との反対意見も上がった。また、大会閉会式の際、牧野は大会講評にて印象に残った試合として星稜-明徳義塾戦を挙げたが、松井に対する敬遠策及びその後の騒動に関しては一切触れなかった。
  • 蔦文也(元池田高校野球部監督): 「監督の考え方にもよるのでしょう。野球にはこういう事もありますね。ルール違反では無いのですから」とコメントした。
  • 清原和博: 「(星稜が負けた理由は)松井の他に良い打者がいなかったからでしょう。例えば僕がPL学園高校時代に、ずっと僕を敬遠し続けても、多分勝っていたと思いますよ。桑田真澄を初め、素晴らしいバッターが沢山いましたから」と述べた。
  • 金田正一:(試合の翌日放送されたスーパータイムの取材の中で作戦には言及せず)「私が監督ならピッチャーに『(打たれてもいいから)勝負しろ』と言っただろう」とコメント。
  • 王貞治: 「松井がそれだけすごい打者だということでしょう。明徳としては何とか勝ちたいと思って取った措置で、作戦勝ちといっていい。ファンにしてみれば、松井の打つところを見たかったのでしょうが、勝敗を争う両校にとってはしょうのないことです」とコメントした。ちなみに、王貞治自身も敬遠四球の数では日本プロ野球記録に残る(通算427個で歴代1位であり、2位張本勲の228個に対して倍近い数を記録している)打者であり、「四球は打者の勲章」という信条の持ち主である。
  • 栗山英樹: 「あのシーン(5打席連続敬遠)に今(1990年代前半)の高校野球の全てが凝縮されている。ただ、あのシーンの一番の被害者が誰かと言われれば少なくとも松井ではない。打たせてもらえない悔しさはあったかも知れないが、打者としては最大限の評価をしてもらっていたのだから…。ただ次の(星稜の)5番打者(月岩)や相手(明徳義塾)の投手(河野)の心中は複雑だったと思う。」
  • 水島新司(漫画家): この試合以前に漫画「ドカベン」において、中二美夫山田太郎に対し5打席連続故意四球を与えた試合を描いているが、水島は「あの場面が実際起こるとは…高校野球ファンとしては見たくない光景だった。しかし、あの投手(明徳義塾・河野)はかわいそうだ。自分に自信がないという屈辱感が残り、そればかりか、松井という世紀の打者と勝負する機会を失ったのだから」と語った。後に、松井秀喜が水島新司と会ったときもこの話になったようで、松井本人が『ドカベン』秋田文庫第6巻の巻末解説(1994年インタビュー、巨人時代)でこの件に触れている。また、2007年の『週刊少年チャンピオン』34号(8月2日号)で、松井が水島新司漫画業50年への祝福コメントを寄せた時も5打席連続敬遠に触れている。
  • やくみつる(漫画家): 「試合後の松井のコメントも立派だが、正々堂々と勝負することが要求される高校野球において、ファンから非難されることを承知であえて全打席敬遠を指示した明徳の監督(馬淵)や忠実に監督の命令を遂行した選手も立派だ」と両者をかばうコメントを残した。一方で一こま漫画では、高校3年間の練習の成果は敬遠です、と敬遠策を揶揄する作品を書いた。
  • 楊順行(スポーツライター): 牧野高野連会長(当時)の「…ファンはプロ野球ではなく、高校野球を見に来ている…」のコメントに対し、「プロ野球じゃないというのなら、ファンの為にプレーする必要はさらさらないじゃないか。ファンは松井のホームランを見たいかもしれないが、明徳の選手はそんなものは見たくもないし、負けるために3年間練習してきたわけじゃない。勝つために最良と思われる選択をして、何故責められるのか。あの騒動が不快なのは、松井のホームランが見られない不満を、『高校野球らしさ』という響きはいいが正体のはっきりしない言葉に置き換えられているからだ。自分は匿名性を確保された上で、空気に迎合して非難や中傷をエスカレートさせ、高校野球のシンボルである甲子園に物を投げ入れ、試合を中断させた人間には『高校野球らしさ』に言及する資格はない」とコメントした。
  • 二宮清純(スポーツジャーナリスト): 「あの試合は、当時『北陸の怪物』だった松井を全国区にしたという事以外、特に意味は無かった。精神性を求める人にとっては事件だっただろうが、そもそも大きな問題にすべきでは無かった。敬遠自体、野球のルールに違反する訳ではないのだし…」

[編集] その他

当日放送されたテレビ朝日の『熱闘甲子園』では、グラウンドに物を投げ込んだり明徳の校歌斉唱の際に「帰れ」コールをした星稜関係者をキャスターが厳しく非難した。(しかし「帰れ」コールをしたのは星稜高校の関係者に限らない)。

明徳義塾の地元・高知では、「勝負なら敬遠も当然」「あんなことをするのなら金銭的支援をするべきでない」と賛否両論が出た。全国的にも松井への敬遠作戦に対しては賛否両論があがって物議を醸し、社会問題に発展し、新聞紙上でも様々な読者投稿が掲載された。

大会の翌年、甲子園大会を前に雑誌『Number』が『敬遠の夏』と題し敬遠事件の特集を組んだ。特集の中では星稜、明徳両校の視点だけでなく観客からの視点もあり「(入場料を払ってまで)野球を見に来た観客の楽しみは勝敗以前に松井がこの試合で如何にして打つか、また相手投手が松井を如何にして抑えるかにあった。(中略)観客が(入場料を払ってまで)楽しみにしていた物を5打席敬遠という予期せぬ形で奪われたら(明徳へ)『帰れ!!』コールを行ってもその気持ちは十分理解できる」としている。[1]

また2010年には『Number』創刊30周年記念として甲子園特集号が組まれ、星稜高校監督山下智茂が5打席連続敬遠について試合後初めて口を開いた。[2]

[編集] 審判の対応の是非

ビーンボールを投げたわけではなく、ルールにはなんら抵触しない」という趣旨の発言がメディアで多く見られたが、これは必ずしも正確ではないと当時の週刊ベースボールで指摘された。野球には無気力プレーを禁じるルールがあり(何を無気力とするかは審判の判断)、走者のいないときなど必然性のない敬遠はこれに該当しえるものであり、高校野球では実際に必然性のない敬遠が行われそうになった際審判が注意しやめさせた例があり、この時も審判がそうすれば混乱は避けられた、との見解が示された。(プロ野球(MLBでも)では先述の王が通算で13回経験しているように、無走者敬遠を審判がやめさせることはまずない。)

[編集] その後

[編集] この試合後の明徳義塾

星稜戦に勝った明徳義塾の宿舎には、試合終了直後から「選手に危害を加える」などの抗議や嫌がらせの電話と投書が相次いだ。また宿舎の周りには、明徳の馬淵監督や選手達の身を守るために、警察パトカーが出動するという厳戒態勢がしかれた。マスコミ陣も大勢が殺到、その影響により明徳の関係者は、宿舎から自由に外出さえも出来ない状態となってしまい、馬淵監督自身も「タバコさえも買いに行けない」と言うほどであった。また、明徳の宿舎から練習グラウンドへ外出する際も、多くの警備員にガードされながらの移動となった。その後、3回戦の抽選会に訪れた明徳の筒井主将に対して、スタンドから野次を飛ばす者もいたが、選手たちはひたすら耐えるしかなかった。

1992年8月22日、明徳は3回戦で広島工業(広島)と対戦した。甲子園のスタンドには、あちこちに多くの警備員や警察官が配備された。広島工業の応援席では父母の会により「明徳義塾高校はルール違反をしたわけではなく、選手に何の罪もありません。(星稜と対戦することになった場合)我が県工(広島工業)野球部の場合でも同じ作戦を採用したかもわかりません」と記されたビラが配られた。この年、過去に明徳は広島工業と練習試合で2試合戦い、2試合とも明徳義塾が圧勝していた。しかしこの甲子園での明徳は、前試合からの騒動による精神的ダメージは拭えず、本来のプレーを殆ど発揮できないまま、広島工業に0-8と大敗を喫した。この試合では試合終了後の挨拶の後、両チームほぼ全員の選手が握手を交わしていた。

広島工業戦終了後、甲子園を去る明徳ナイン達に対して温かい声援や拍手もあった中、「さっさと高知へ帰れ」「卑怯者」などと心無い野次も多く飛んでいた。勝った広島工業の倍以上の報道員が駆けつけた。それでも、馬淵監督をはじめとする明徳関係者の殆どは「周りは気になりませんでした」と言い切り、投手・河野も「一度は勝てたので甲子園は良い思い出になりました。胸を張って帰ります。」とコメントする。捕手・青木貞敏のコメント「甲子園に来ない方が良かったかも…。」が大きく報道されたが、後に「言ってないもんは言ってないんですけどね。(試合後記者の取材に)はい、はい、って感じで聞き流していたんですよ。いい思い出ではないですかね?みたいに微妙な聞き方をされて、はい、って言ったのがそう書かれたんじゃないですかね」と語った。青木は「甲子園なんて来なければよかった」と書いた新聞社に抗議の電話をしている。また、武市部長は「全国から300を超える温かい励ましの手紙が届いた。あれがなかったらここまでやっていけなかったでしょうね。」と涙混じりにコメントした。

[編集] 大会終了後

明徳義塾の馬淵監督は、世間を大きく騒がせ迷惑を掛けたお詫びにと、明徳の学校長に野球部監督の辞表を提出しようとした。しかし、学校長は「間違っていることをしたんじゃないんだから。あそこで監督を辞めさせたら、それこそ教育にならんでしょう」との考えから「もう過ぎた事。今日からまた頑張りなさい」と辞表を受け取らずに慰留、馬淵はそのまま野球部監督を続けた。

星稜は秋のべにばな国体に、2回戦敗退ながらも異例の選出となった(明徳義塾は選出漏れ)。松井は、国体決勝戦の尽誠学園戦、最後の打席で高校通算60号の本塁打を放つなどの活躍により、星稜高校の国体優勝に大きく貢献した。

松井は読売ジャイアンツ(巨人)に入団。入団2年目からスタメンに定着し、4年目の1996年にはタイトル争いをするまでに成長した。この年、巨人がリーグ優勝を決めた2日後の10月8日に行われた中日との東京ドームでの最終戦では、セントラル・リーグの本塁打王を松井と当時中日の山崎武司のどちらが獲得するかに注目が集まっていたが、この試合で中日の星野仙一監督は、投手陣に松井とは一打席も勝負しないよう命じた。松井の最終打席の4打席目の敬遠後にライトスタンドから大量のメガホンやゴミが投げ入れられ、試合が一時中断された。試合後、松井が甲子園での5連続敬遠の時と比較したインタビューに対して「そりゃあ、あの時の方が悔しかったですよ。今年は優勝できましたけど、あの時は優勝できませんでしたから」と語った。

5打席連続敬遠が起きた時に小学校6年生だった高橋一正は自分はプロに入って松井と勝負したいと思い、岡山より明徳へ野球留学をして3年時甲子園に控え投手として出場して、98年のドラフトに指名されヤクルトスワローズに投手として入団。プロ1年目の1999年10月5日対巨人戦の登板で松井が打席に立ち念願の勝負する時が来たが、当時はヤクルトのロベルト・ペタジーニと松井秀喜の本塁打王争いの渦中だったため、ベンチの指示により高橋は松井を敬遠する投球をすることになった。

明徳投手として5打席敬遠をした河野が1994年、専修大学2年時に松井特集のテレビ番組にインタビュー出演し、『あの時松井とまともに勝負していたら本塁打を2本は打たれていたでしょうね』とコメントしていた。専大卒業後はヤマハに入社するが、プロからの指名はなくヤマハを退社。野球を続けることを模索して国内プロ球団のプロテストを受けている最中の1999年の暮れにテレビ番組の企画で河野と松井が対面。その時二人は笑顔でガッチリと握手を交わし、松井は河野の前で「敬遠してもらったお陰で、僕は感謝していますよ。勝負していたら打てなかったかもしれないし。もちろん、打ったかもしれないですしね。まあ、それはわからないですけど…」と述べ、河野は松井のこの言葉に大きく頷いた。そして、級友同士のようにいろいろ語り合い、最後お互いにエールを交換し合った。その後、河野はアメリカの独立リーグに挑戦。日本に戻ってからは2008年に千葉熱血MAKINGの選手兼任監督に就任した。背番号は松井と同じ55番である。

星稜の5番打者月岩信成は『松井がゴジラなら俺はモスラになってやる』と奮起を起こして打席に立ったものの松井が敬遠された後の5打席0安打(スクイズの1点のみ)だったことで精神的に堪(こた)えてしまい、進学が決まっていた大学(大阪経済大学)もすぐに退学してしまった。しばらく野球から離れていたが、24歳から軟式野球という形で再開。少しずつ前打者が5連続敬遠された試合について振り返ることができるようになった。軟式野球では逆に敬遠される側になり、敬遠後に次の打者にアドバイスをするようになったという。月岩は2003年に松井がメジャー初年度の本拠地開幕戦において前打者のバーニー・ウィリアムスが敬遠された後の打席で松井がホームランを打ったのをテレビで見た時、「このあたりが違う」と思ったという。実際には、無条件で相手に1走者を与える敬遠作戦は、次の打者を封じることができなければ逆効果なのであり、馬淵監督が全力を挙げて対策を行ったのはこの5番打者封じであった。

この一件から10年後の2002年第84回全国高等学校野球選手権大会で、甲子園大会の常連校となった馬淵監督率いる明徳義塾が初優勝した。当時巨人の4番打者として活躍していた松井は「僕の5敬遠でこの10年間、監督さんもいろいろと大変なこともあったと思うけれど、こうして大きな喜びを得たことを素直に祝福したい」「今ではいい思い出です。負けたことは悔しいが5打席連続敬遠は打者としての誇りです」とコメントしている。また、当時のチームメイトであった宮崎一彰を介して馬淵に祝福を伝えた。山下も明徳優勝の翌日、馬淵に祝福の電話を入れた。
明徳優勝パーティで馬淵の周りの席は1992年代の選手で固められていた。そして、馬淵に「高校生の中に1人プロの選手がいる」と評された松井は、この2002年のシーズンオフに巨人からニューヨーク・ヤンキースに移籍し、その後はMLBでも活躍した。

明徳と星稜はその後何度か練習試合をおこなっている。

馬淵は現在でも当時を回想したインタビューで「あの作戦は今でも正当だと思っている。当時としては最善の策だった」と述べている。毎日新聞(2008年)のインタビューでも「彼と勝負するならインコースしかなかった。でも、詰まってもホームランの確率があるのだから…それだけ松井君が偉大だったということですよ。勝つ確率と負ける確率を考えて、勝っただけ。力のない者が勝つにはどうすればいいのか。野球は確率だと思っている」と当時を振り返った。2011年にも、週刊ポストのインタビューにおいて、「私は今でも間違った作戦だったとは思っていない。あの年の星稜は、高校球児の中に1人だけプロがいるようなものだった。あれ以前も、あれ以降も、松井くんほどの大打者と僕は出会っていません。甲子園で勝つための練習をやってきて、その甲子園で負けるための作戦を立てる監督なんておらんでしょ? 勝つためには松井くんを打たせてはいかんかった」と語った[1]

[編集] 高校野球全国大会での敬遠攻め

高校野球全国大会の試合で一打者に対して敬遠攻めを行った例はあった。この試合より前に行われた例もある。

  • 1955年第27回選抜野球大会決勝戦 - 桐生群馬県)監督の稲川東一郎は投手の今泉喜一郎に対し、浪華商大阪府)の四番打者坂崎一彦の全打席敬遠を指示。今泉は第1打席と第2打席には従ったが、第3打席に勝負に行って2ランホームランを打たれた。第4打席と第5打席には敬遠の指示を守ったが、ホームランが響いて延長11回3-4で敗れ、準優勝に終わった。なお、4つの敬遠のうち3つはランナーなしだった。
  • 1991年明治神宮大会決勝戦 - 帝京(東京)の投手の三澤興一は星稜(石川)の松井秀喜に対し4四球(内2つは敬遠)をした。この試合は松井以外の星稜打線が打ったため、帝京は8-13で敗れ、帝京は準優勝・星稜は優勝となった。なお、帝京は翌年春の選抜で全国制覇をしているほどのチームである。なお、松井と三澤は、後に、巨人でチームメイトになる。
  • 松井の5打席連続敬遠から2年後の1994年第76回全国高等学校野球選手権大会で、大会屈指のスラッガーとして注目されていた横浜高校紀田彰一が初戦の那覇商業戦で4打席連続敬遠気味の四球で歩かされ、チームも敗退した。試合後に紀田は「松井を思い出した」とコメントした。

[編集] 関連書籍/雑誌

書籍
雑誌

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

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  1. ^ Number熱闘! '93夏の甲子園号1993年7月28発売
  2. ^ Number 甲子園涙の名勝負 2010年7月29日発売
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