ホセ・コントレラス
| フィラデルフィア・フィリーズ #52 | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 国籍 | ( |
| 出身地 | |
| 生年月日 | 1971年12月6日(40歳) |
| 身長 体重 |
6' 4" =約193cm 255 lb =約115.7kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 投手 |
| プロ入り | 2003年 |
| 初出場 | 2003年3月31日 |
| 年俸 | $2,500,000(2011年)[1] |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
|
|
| 国際大会 | |
| 代表チーム | |
| 五輪 | 1996年・2000年 |
|
この表について
|
|
| オリンピック | ||
|---|---|---|
| 男子 野球 | ||
| 金 | 1996 | 野球 |
| 銀 | 2000 | 野球 |
ホセ・アリエル・コントレラス(José Ariel Contreras, 1971年12月6日 - )はMLBの投手。右投右打。キューバのピナール・デル・リオ州ラス・マルティナス出身。
目次 |
[編集] キューバ時代
キューバ代表としてプレーするとともに、国内リーグではピナール・デル・リオ・ベゲーロスで活躍。通算成績は117勝50敗であり、国内での最終シーズンとなった2001年 - 2002年には13勝4敗防御率1.76に149奪三振を記録。
1999年3月にはハバナのエスタディオ・ラティーノアメリカーノ球場で開催されたキューバ代表対ボルチモア・オリオールズとの試合に登板。8回を無失点に抑え、同時に10奪三振をマーク。この頃からメジャーのスカウトに注目されるようになった。
2002年10月にキューバ代表がメキシコでアメリカス・シリーズに出場している際に亡命。ヤンキースとボストン・レッドソックスとの間で激しい争奪戦が行われるが、結局はヤンキースが獲得。この競争に敗れたレッドソックス球団CEOラリー・ルキーノはヤンキースの事を「悪の帝国」と表現。以後、同チームのアンチからはこの表現が盛んに使われるようになる。
[編集] アメリカでの活躍
[編集] 2003年
2003年はコントレラスにとって厳しいシーズンとなった。7勝2敗防御率3.30の記録を挙げるものの、2ヶ月間を肩甲下筋の張りにより故障者リストの上で過ごす。マイナーリーグ行きも4回命じられ、リリーフ投手としての起用も目立った。先発投手としては6勝1敗防御率2.34をマークする一方、リリーフとしては1勝1敗防御率7.43であった。この年最良の登板は9月23日にUSセルラー・フィールドで行われたホワイトソックス戦であり、8回を無失点に抑え9奪三振を記録。また、8試合ものポストシーズン試合に登板するが、11投球回で防御率は5.73、0勝2敗に終わった。
[編集] 2004年
同年春のキャンプでは球団上層部は先発でコントレラスを投げさせる事を示唆。しかし、実際に開幕を迎えると安定した成績を残す事は出来なかった。5月5日から21日までの約1ヶ月間をマイナーで過ごす。結局この年で一番良かった登板は6月27日のニューヨーク・メッツ戦であり、10奪三振を記録。しかしこの試合でそれ以上に重要だった事は、亡命後初めて妻ミリアムと2人の娘(ネイランとネイレニー)の前で投げられた事だった。7月31日のトレード期限最終日にはエステバン・ロアイザとのトレードでホワイトソックスに移籍。移籍後も不安定な投球を続け、結局13勝と150奪三振を挙げるものの防御率は5.50であった。
[編集] 2005年
2005年のシーズン開幕から5登板連続で勝敗が付かず、オールスター休暇までは4勝3敗とパッとしない始まり方だった。しかし休暇後の7月14日にクリーブランド・インディアンスを1-0で破ると、波に乗り、チーム自体もプレイオフへの快進撃を続ける中チームで最も信頼できる投手へと成長していった。最後8回の登板では全て勝ち星を挙げ、時たま連敗をも止めチームに貢献。この急成長の理由として挙げられるのが、同じくキューバから亡命したチームメイトオーランド・ヘルナンデスの影響で投球フォームの中で腕を下げ始めたのが原因とされている。後半戦のみで挙げた11勝はアンディ・ペティットと並びメジャー記録。この2005年シーズンを15勝7敗防御率3.61の好成績で終える。
プレイオフでは全てのシリーズの第1戦に登板。全体では3勝1敗防御率3.09をマーク。同年ホワイトソックスは悲願のワールドシリーズ制覇を成し遂げるが、コントレラスの名はキューバのテレビではフィデル・カストロ議長の命令により放送禁止となる。また、ホワイトソックスが出場したワールドシリーズもこの影響で放送禁止となり、国民は違法な衛星放送で見る他なかった。
[編集] 2006年
2006年シーズン開幕前にはホワイトソックスと3年間の契約延長を結ぶ。前年の好調をそのまま引き継ぎ、7月6日時点では9勝0敗防御率3.31を記録。6月17日にシンシナティ・レッズから勝ち星を挙げた事により、前年からの自身16連勝はチーム記録となる(それまでの記録はラマー・ホイトとウィルソン・アルバレスが保持していた15連勝)。コントレラスは数字を17にまで伸ばすものの、7月14日に古巣ヤンキースに敗れ記録はストップ。オールスターにも選ばれるが、前半戦最終戦で6回117球を投げてしまったため代役としてミネソタ・ツインズのルーキーフランシスコ・リリアーノが出場。後半戦の初戦で先発登板した事から、コントレラスは30年ぶりに(記録上)2試合連続先発登板した投手となった。
年間を通し神経痛に苦しみ、5月には15日間の故障者リストにも登録されていた。結局13勝9敗防御率4.27に終わる。
[編集] 2007年
なんとか4年連続の2桁勝利となる10勝を挙げたものの、リーグワーストの防御率5.57、リーグワースト2位の17敗をマーク。特に6月24日から7月末までの間に7連敗し、一時期、メジャー1年目の2003年以来となる中継ぎへ降格となるなど失意の1年となった。
[編集] 2008年
8月9日ボストン・レッドソックス戦で松坂大輔と投げ合うはずだったが、初回一塁ベースカバーに入った際アキレス腱断裂という重傷を負い降板した。最終的には7勝止まりとなり、それまで4年連続で2桁勝利をあげていたが、この年でストップした。
[編集] 2009年
シーズン序盤から不安定な投球が続き、8月31日にマイナー選手のブランドン・ハイニックとの交換トレードでコロラド・ロッキーズへ移籍した[2]。
トレードで放出された時点では5勝13敗と散々な成績であったが、ロッキーズでは主に中継ぎとして使われ、防御率1.59という安定感を示していた。
同年シーズンオフに、息子が日本の高校進学を望んだこともあり日本球界でのプレイを視野に入れ、阪神タイガースや福岡ソフトバンクホークスに売り込みを行ったが断られた[3]。
[編集] 2010年
1月28日にフィラデルフィア・フィリーズと1年150万ドル(約1億4000万円)で契約を結んだ。初めてフルタイムのリリーバーとしてプレーし、ほぼシーズンを通して防御率3点台を記録し、クローザーのブラッド・リッジの故障中には代役を務めるなど、安定した活躍を見せた。
[編集] 特徴
- かつては最速98mph(約158km/h)の球速を誇り[4]、サイドスロー気味とスリークォーター気味の2種類の投げ方を使い分ける。メジャーでは数少なくなったフォークボールの使い手でもある。
- ソフトボールでフォークボールの練習をする。[5]
[編集] 年度別投手成績
| 年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2003 | NYY | 18 | 9 | 0 | 0 | 0 | 7 | 2 | 0 | 1 | .778 | 293 | 71.0 | 52 | 4 | 30 | 1 | 5 | 72 | 2 | 0 | 27 | 26 | 3.30 | 1.15 |
| 2004 | 18 | 18 | 0 | 0 | 0 | 8 | 5 | 0 | 0 | .615 | 425 | 95.2 | 93 | 22 | 42 | 1 | 6 | 82 | 10 | 0 | 66 | 60 | 5.64 | 1.41 | |
| CWS | 13 | 13 | 0 | 0 | 0 | 5 | 4 | 0 | 0 | .556 | 333 | 74.2 | 73 | 9 | 42 | 0 | 2 | 68 | 7 | 0 | 48 | 44 | 5.30 | 1.54 | |
| '04計 | 31 | 31 | 0 | 0 | 0 | 13 | 9 | 0 | 0 | .591 | 758 | 170.1 | 166 | 31 | 84 | 1 | 8 | 150 | 17 | 0 | 114 | 104 | 5.50 | 1.47 | |
| 2005 | 32 | 32 | 1 | 0 | 0 | 15 | 7 | 0 | 0 | .682 | 857 | 204.2 | 177 | 23 | 75 | 2 | 9 | 154 | 20 | 2 | 91 | 82 | 3.61 | 1.23 | |
| 2006 | 30 | 30 | 1 | 1 | 0 | 13 | 9 | 0 | 0 | .591 | 833 | 196.0 | 194 | 20 | 55 | 4 | 10 | 134 | 16 | 0 | 101 | 93 | 4.27 | 1.27 | |
| 2007 | 32 | 30 | 2 | 2 | 0 | 10 | 17 | 0 | 0 | .370 | 858 | 189.0 | 232 | 21 | 62 | 1 | 15 | 113 | 3 | 0 | 134 | 117 | 5.57 | 1.56 | |
| 2008 | 20 | 20 | 1 | 0 | 1 | 7 | 6 | 0 | 0 | .538 | 522 | 121.0 | 130 | 12 | 35 | 0 | 3 | 70 | 6 | 0 | 64 | 61 | 4.54 | 1.36 | |
| 2009 | 21 | 21 | 0 | 0 | 0 | 5 | 13 | 0 | 0 | .278 | 513 | 114.2 | 121 | 11 | 45 | 3 | 6 | 89 | 8 | 0 | 83 | 69 | 5.42 | 1.45 | |
| COL | 7 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 1.000 | 288 | 17.0 | 20 | 2 | 8 | 1 | 0 | 17 | 0 | 0 | 3 | 3 | 1.59 | 1.65 | |
| '09計 | 28 | 23 | 0 | 0 | 0 | 6 | 13 | 0 | 1 | .316 | 589 | 131.2 | 141 | 13 | 53 | 4 | 6 | 106 | 8 | 0 | 86 | 72 | 4.92 | 1.47 | |
| 2010 | PHI | 67 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 4 | 4 | 13 | .600 | 233 | 56.2 | 53 | 5 | 16 | 2 | 4 | 57 | 0 | 0 | 22 | 21 | 3.34 | 1.22 |
| 2011 | 17 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 4 | ---- | 60 | 14.0 | 11 | 0 | 8 | 0 | 1 | 13 | 0 | 0 | 6 | 6 | 3.86 | 1.36 | |
| 通算:9年 | 275 | 175 | 5 | 3 | 1 | 77 | 67 | 9 | 19 | .535 | 5003 | 1154.1 | 1156 | 129 | 418 | 15 | 61 | 869 | 72 | 2 | 645 | 582 | 4.54 | 1.36 | |
- 2011年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高
[編集] 脚注
- ^ “Jose Contreras Stats, News, Pictures, Bio, Videos” (英語). ESPN.com. 2012年1月8日閲覧。
- ^ “Rockies acquire veteran righty Contreras Team deals prospect Hynick for postseason veteran”. rockies (2009年9月1日). 2009年9月1日閲覧。
- ^ コントレラスが日本球界に“就活” 日刊スポーツ
- ^ 『月刊スラッガー』2002年12月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-12、74頁。
- ^ 鉄矢多美子 「鉄矢多美子「Field of Dreams」第120幕 17連勝を支えた五色のボール」 『nikkansports.com』、2006年7月22日。2008年10月11日閲覧。
[編集] 外部リンク
- 選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube
|
||||||||||||||||||||
|
|||||
|
||||||||||||||