田中賢介

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田中 賢介
Kensuke Tanaka
テキサス・レンジャーズ(マイナー)
NF-Kensuke-Tanaka20120310.jpg
日本ハム時代(2012年、阪神甲子園球場)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福岡県筑紫野市
生年月日 1981年5月20日(32歳)
身長
体重
5' 9" =約175.3 cm
170 lb =約77.1 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 二塁手左翼手
プロ入り 1999年 ドラフト2位
初出場 NPB / 2000年9月12日
MLB / 2013年7月9日
年俸 $106,089(2014年)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

田中 賢介(たなか けんすけ、1981年5月20日 - )は、福岡県筑紫野市出身のプロ野球選手内野手外野手)。現在はテキサス・レンジャーズ傘下に所属。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

小学校2年で野球を始め、中学から硬式野球を始める。高校は東福岡高校に進学し、一学年上の村田修一大野隆治とチームメイトとなる。2年時の1998年第70回選抜高等学校野球大会に出場し、3回戦・横浜高校戦で松坂大輔に2安打完封され敗退するが、田中は試合の先頭打者として1安打を放った。第80回全国高等学校野球選手権大会第81回全国高等学校野球選手権大会にも出場したが初戦敗退に終わった。

1999年プロ野球ドラフト会議で、2位指名で日本ハム・中日西武の3球団で競合の末、ドラフト直前に就任した大島康徳監督が引き当て日本ハムに入団[1]

日本ハム時代[編集]

入団時から打撃センスは高く評価されていたものの、守備が課題で一軍に定着出来ずにいたが、1年目(2000年)から二軍で打率.313を記録し、9月に一軍に昇格しプロ初安打を記録。2001年は開幕一軍に入り、開幕戦である3月24日の対大阪近鉄バファローズ1回戦で9回に代打で出場してプロ初本塁打を打った。開幕戦での代打本塁打はパ・リーグでは9人目であるが、プロ初本塁打に限っては1989年の広永益隆以来3人目である[2]。当時の正三塁手だった片岡篤史が故障したため、翌日の開幕2戦目にプロ初先発起用され、3月31日~4月6日は6試合連続で三番打者を任されたが、打率を残せず、一軍定着は出来なかった。2002年2003年は一軍と二軍を行き来する状況が続く。

2004年に一軍で一時3割台の高打率を維持するも、6月に死球による右すね骨折で離脱。21試合の出場に終わる。2005年は一軍で22試合出場に留まるが、白井一幸の指導を受け、打撃理論の再構築と送球難の克服を果たした[1]。二軍で.307、16本塁打の好成績を残し、9月28日の一軍最終戦(対ロッテ戦)で延長11回に初のサヨナラ本塁打を放った。秋季キャンプ後にはトレイ・ヒルマン監督(当時)に「来季、最も飛躍を期待」として唯一名前を挙げられた。

2006年は開幕一軍に入り、課題だった守備が改善され、主に代走・守備固めで起用される。この年のチームは当初、新外国人のホセ・マシーアス二塁手として予定していたが結果を残せなかったため、マシーアスや木元邦之川島慶三らとのポジション争いを演じた後、田中が5月上旬から二塁手に、同月下旬から二番打者としてレギュラーに定着[1]。自身初の規定打席到達を果たし、打率3割、21盗塁、リーグ最多犠打(34個)を達成、日本シリーズでも最多記録に並ぶ6犠打(5試合制では史上最多)を記録して日本一に貢献した。二塁手としてゴールデングラブ賞ベストナインを受賞(以後、前者は2010年まで5年連続、後者は翌2007年2009年、2010年にも受賞)。またオフに2004年の骨折の際に右足に埋め込んだプレートの除去手術をした。

2007年は開幕から打撃不振に苦しみ、最終的に打率.255と前年から大きく率を落とすが、全144試合に出場、パシフィック・リーグ最多記録となる58犠打、盗塁も自己最多の27個を記録した。

2008年はグリップを肩より下でかまえる独自の打撃フォームを改造し、肩より少し上で構えるようにしたところ開幕4試合で前年に並ぶ3本塁打を打った。打率3割は逃したが、自身初の2桁本塁打を記録。更にはパ・リーグで唯一のフルイニング出場も果たした。88試合に三番打者として起用された。第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の一次候補に選ばれたが、代表には選出されなかった。

2009年に前任の金子誠から選手会長を引き継ぐ。WBC選考メンバーに入るも、日本代表のメンバー入りはできなかった。開幕から一番打者を任され[1]、打率3割には届かなかったがリーグ最多の79四球、自己最多の31盗塁を記録した。8月21日に右足首痛で2年ぶりに先発出場を外れた(全試合出場は2010年8月14日まで継続)。また、この年は680打席に立ち、リーグ記録を46年振りに塗り替える(翌年西岡剛によって更新(692打席)される)と共に、セ・パ両リーグの規定打席到達者で唯一併殺打0のままシーズンを終えた[1](後述)。

2010年はリーグトップの得点圏打率.419を記録した他、右投手に対して打率.356と得意とし、シーズンを通して高打率を維持。最後まで首位打者争いに絡んだ。シーズン打率.335と193安打は共に自己最高であり、パ・リーグ2位。8月15日の対福岡ソフトバンクホークス戦を欠場し、2006年6月3日の対横浜ベイスターズ戦より継続していた連続試合出場は、歴代29位の620試合で終了した。この年国内フリーエージェント(FA)権を獲得し、オフには翌年以降のメジャーリーグ挑戦も取り沙汰されたが[3]、総額7億5千万+出来高の3年契約を結んだ[4]。契約にはメジャー移籍を希望した場合は球団の許可を得た上で契約解除できる条項が含まれている[5]

2011年は春季キャンプ中の右手指骨折で出遅れた上、6月18日の対広島東洋カープ戦で6回に盗塁をした際に左足首を痛め、21日に受けた精密検査で「左距骨骨折で全治4~6ヶ月」と診断され、シーズン中の復帰はならなかったが[6]、フェニックスリーグで実戦復帰し、一軍の試合ではクライマックスシリーズのファーストステージの第1戦と第2戦に一番・二塁手で先発出場するも決勝点となる失策を犯してしまった。

2012年1月17日、札幌テレビアナウンサー西森千芳と結婚することを発表[7]。1月30日に婚姻届を提出した事が球団より発表された。6月まで打率.332と首位打者を争う活躍を見せるも、8月29日の西武戦の守備で中島裕之と交錯し左腕を骨折[8]。そのままシーズンを終え、ポストシーズンでの出場もなかった。11月6日には「今年はどんなことがあろうと挑戦しようと決めていた。けがをしても揺らぐことはなかった」[9]と、アラン・ニーロを代理人とし、海外FA権を行使してのメジャー挑戦を表明[10][11]。会見では「パワーは劣ると思うけど、守備や走塁、バットに当てる技術など、細かい部分でアピールしたい。ダルビッシュと対戦したら楽しいでしょうね。ファンに支えられて大きくなりました。球団は『いつでも帰ってきていいよ』と言ってくれた。その言葉だけでありがたいけど、帰ってくる選択肢はない。覚悟してます」とメジャーに骨を埋める覚悟もあることを語った[12][13]

ジャイアンツ時代[編集]

日付は全て現地時間

2013年1月9日にサンフランシスコ・ジャイアンツとマイナー契約で合意し10日に契約[14]。最低保証金額4万ドル[注釈 1]、マイナーで月2万ドル[15]、メジャー40人枠入りすることで年俸75万ドルとなる契約で、「通訳を付けると英語も上達しないと思うし、チームメートからも認めてもらえない」として通訳ではなく家庭教師がつく契約を自ら希望した[16][17]スプリングトレーニングに招待選手として参加するが、19試合の出場で打率.229、出塁率.275を喫し、守備でも二塁手の他、遊撃手や三塁手としても起用されるが計7失策を喫して、AAA級フレズノで開幕を迎える。フレズノでは78試合の出場で16失策(内55試合の二塁守備で15失策)を喫し左翼手にコンバートされる。一方で打撃は78試合の出場でリーグ6位の打率.330、出塁率.392、リーグ5位の20盗塁の成績を残し、7月9日にメジャー昇格。同日のニューヨーク・メッツ戦に二番・左翼手でスタメン出場し、日本人選手通算50人目となるメジャーデビューを果たす。同試合では2回に本塁打性の飛球をジャンピングキャッチする好守を見せ、5回にはメジャー初安打となる中堅前安打で出塁し、4万人の観衆からスタンディングオベーションを受けた[18]。以降も左翼手として起用され、4試合連続安打を記録[19]するなど、15試合の出場で打率.267、出塁率.353、2盗塁の成績を残すが、29日にフレズノに降格。降格後も左翼手として起用され、フレズノでは最終的にリーグ3位の打率.329、1本塁打、出塁率.400、22盗塁を記録。マイナーのシーズン終了後は「首位打者を取りたかったので残念。でも、いい締めくくりができました。パワーがない分、二塁か中堅でスピードで勝負するのが、メジャーで生き残る道かもしれない」と語った[20]。9月3日にDFAとなり、翌日に自由契約となる。

レンジャーズ時代[編集]

12月20日にテキサス・レンジャーズとマイナー契約を結んだことが発表された[21]

プレースタイル[編集]

打撃では広角に打球を打ち分け[22][23]、2007年にはリーグ最多記録となる58犠打を記録するなどバント技術やボールをカットする技術にも優れる[23][24]。選球眼に優れ[23]、8打席に1個近い確率で四球を選び、2009年には105三振を喫した一方でリーグ最多の79四球を記録した。右投手に対しては基準違反統一球が導入されていた2011年から2012年の通算で打率.305を残しているが、左投手に対しては同打率.280とやや弱く、ジャイアンツ移籍後の2013年も傘下のフレズノでは右投手に対しては打率.345、左投手に対しては打率.262とやや弱かった。

走塁面では一塁到達3.7秒、三塁到達11.35秒をマークするなど全力疾走を怠らず[25]、盗塁面では日本での通算盗塁成功率70%を記録している。

守備では日本ハム時代には主に二塁手として起用されたが、ジャイアンツ移籍後は左翼手として起用されている。二塁守備では打者の特徴や配球を考えてポジショニングすることが好きだと言い[23]、併殺参加数が非常に多い[23]。2006年から5年連続でゴールデングラブ賞を受賞しており、2010年まで得点換算でも球界トップクラスの数値を残していたが[26]、2012年にはイージーミスが多く見られ[23]、この年は守備イニング500以上の二塁手中両リーグワースト3位のUZR-3.0を喫した[27]。天然芝球場の帯広の森野球場で行われた2012年8月7日のソフトバンク戦では、平凡な内野ゴロを安打にしてしまうミスを犯して、二死から2人の走者を生還させてしまい逆転を許すことがあった。

人物[編集]

自身のイメージカラーがピンクであることから、守備でアウトを奪取した数に応じてマンモグラフィ検診をファンにプレゼントするピンクリボン活動に取り組んでおり[23]2008年オフにはチャリティーイベントも実施している。

ワインが好きで、日本ハム時代にはダルビッシュ有建山義紀らとともに「ワイン部」を結成していた[23]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
2000 日本ハム 5 5 5 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .200 .200 .200 .400
2001 56 116 99 12 14 1 1 3 26 9 0 2 3 1 13 0 0 28 0 .141 .239 .263 .502
2002 60 177 158 18 40 7 4 0 55 10 3 2 9 0 9 0 1 36 2 .253 .298 .348 .646
2003 52 114 102 10 22 4 1 1 31 16 1 1 2 2 6 0 2 30 0 .216 .268 .304 .572
2004 21 45 40 4 13 3 2 1 23 7 1 0 2 0 2 0 1 7 1 .325 .372 .575 .947
2005 22 28 24 2 5 0 0 1 8 2 1 1 0 0 4 0 0 10 0 .208 .321 .333 .655
2006 125 450 376 68 113 10 6 7 156 42 21 7 34 4 30 0 6 60 3 .301 .358 .415 .773
2007 144 638 526 66 134 24 7 3 181 31 27 14 58 2 43 1 9 107 2 .255 .321 .344 .665
2008 144 638 536 89 159 32 9 11 242 63 21 7 26 3 62 2 11 80 4 .297 .379 .451 .831
2009 144 680 575 93 163 34 4 3 214 49 31 11 17 4 79 4 5 105 0 .283 .373 .372 .745
2010 143 662 576 88 193 24 4 5 240 54 34 10 7 5 72 4 2 66 6 .335 .408 .417 .825
2011 49 220 200 25 58 6 1 1 69 10 8 3 2 1 17 0 0 21 1 .290 .344 .345 .689
2012 114 505 457 49 137 14 3 3 166 32 13 9 8 3 35 2 2 36 2 .300 .350 .363 .713
2013 SF 15 34 30 4 8 0 0 0 8 2 2 0 0 0 4 0 0 3 0 .267 .353 .267 .620
NPB:13年 1079 4278 3674 524 1052 159 42 39 1412 325 161 67 168 25 372 13 39 588 21 .286 .356 .384 .742
MLB:1年 15 34 30 4 8 0 0 0 8 2 2 0 0 0 4 0 0 3 0 .267 .353 .267 .620
  • 2013年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績[編集]

年度 二塁 遊撃 外野
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
2005 2 2 6 0 0 1.000 1 0 3 0 1 1.000 3 6 0 0 0 1.000
2006 114 243 324 11 79 .981 1 0 0 0 0 .000 4 8 0 0 0 1.000
2007 144 309 434 10 97 .987 - -
2008 144 322 455 9 82 .989 - -
2009 144 325 467 9 87 .989 - -
2010 143 343 473 17 122 .980 - -
2011 49 127 150 5 23 .982 - -
2012 114 260 343 11 62 .982 - -
通算 854 1931 2652 72 552 .984 2 0 3 0 1 1.000 7 14 0 0 0 1.000
  • 2012年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
その他記録
  • オールスターゲーム出場:3回 (2008年、2010年、2012年)
  • 開幕戦代打本塁打:上記「初記録」の「初本塁打」の項目を参照 ※史上15人目(パ・リーグ史上9人目:同記録での初本塁打は史上3人目)
  • 連続打席無併殺打:862打席(729打数) ※ パ・リーグ歴代2位(何れも1961-1962年の毒島章一の900打席・795打数に次ぐ記録)
  • 規定打席以上で併殺打0:2009年 ※史上11人目(2000年の清水隆行以来、 パ・リーグ史上5人目:日本ハムの選手では初)
    • シーズン全試合出場者による同記録達成者は史上2人目、パ・リーグ選手初(1969年の藤田平以来)
  • シーズン犠打58:2007年 ※パ・リーグ史上最多(歴代記録は1990年の川相昌弘と並び5位)
  • シーズン打席680:2009年 ※パ・リーグ史上2位(歴代記録は2006年の青木宣親と並び4位)
  • 日本シリーズ最多犠打(6犠打):2006年(2012年現在) ※史上3人目(5試合制ではシリーズ最多、6試合以上の場合も含めると最多タイ)

背番号[編集]

  • 3 (2000年 - 2012年)
  • 37 (2013年)

登場曲[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 一部スポーツ紙では誤って年俸と報じられたが、正しくは最低保証金額で、後述の通りマイナーでの月給やメジャーに昇格した場合の年俸は別となっていた。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e 一意専心 田中賢介『週刊ベースボール』2012年2月27日号、ベースボール・マガジン社、2012年、雑誌20444-2/26, 53-57頁。
  2. ^ 2002 ベースボール・レコード・ブック
  3. ^ ダル、建山に続き…来オフ、賢介もメジャースポーツニッポン、2010年10月09日。
  4. ^ ハム賢介3年7.5億更改1号日刊スポーツ、2010年11月5日。
  5. ^ 日本ハム 田中賢介 メジャー移籍急浮上Sponichi Annex、 2011年11月3日。
  6. ^ 日本ハム:田中賢介は左距骨骨折と判明 今季復帰は絶望的 - 毎日jp
  7. ^ 賢介、札幌テレビ・西森千芳アナと結婚…日本ハム - スポーツ報知2012年1月18日
  8. ^ 賢介が左腕骨折 今季絶望日刊スポーツ、2012年8月30日。
  9. ^ ハム・賢介 涙の大リーグ挑戦表明「北海道から巣立って行こうと」スポニチ、2012年11月6日。
  10. ^ 田中が米大リーグ挑戦表明日刊スポーツ、2012年11月6日。
  11. ^ 涙の田中「球団はどこでも」日刊スポーツ、2012年10月6日。
  12. ^ 涙メジャー表明!賢介「ダルと対戦」希望日刊スポーツ、2012年11月7日。
  13. ^ “賢介、涙のメジャー表明 不退転の覚悟「日本に帰ってくる選択肢ない」…日本ハム”. スポーツ報知 (報知新聞社). (2012年11月7日). オリジナル2013年9月4日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20121110084518/http://hochi.yomiuri.co.jp/baseball/npb/news/20121106-OHT1T00216.htm 2013年9月4日閲覧。 
  14. ^ Giants ink Japanese infielder to Minors dealMLB.com、2013年1月10日。
  15. ^ MLB戦略事情 第43回『週刊ベースボール』2013年8号、ベースボール・マガジン社、雑誌20446-2/20、87頁。
  16. ^ 賢介、通訳NO!家庭教師付ける契約でジ軍へスポーツ報知、2013年1月29日。
  17. ^ 「ジ軍は細かい、上手い、本当に強い」…賢介に聞くスポーツ報知、2013年1月29日。
  18. ^ 田中賢介50人目和製メジャー即先発初安打日刊スポーツ、2013年7月11日。
  19. ^ 田中賢介2安打 止まらん4戦連続ヒット日刊スポーツ、2013年7月13日。
  20. ^ 田中、首位打者残念も愛妻サポートに感謝日刊スポーツ、2013年9月4日。
  21. ^ Rangers agree to terms with INF Kensuke Tanaka and LHP Ryan Feierabend on minor league deals with invitations to Major League Spring Training MLB.com
  22. ^ 小関順二、西尾典文、泉直樹 『プロ野球スカウティングレポート2010』 アスペクトムック、2010年、262-263頁。ISBN 978-4-7572-1744-7
  23. ^ a b c d e f g h 『週刊プロ野球データファイル』2012年66号、ベースボール・マガジン社、雑誌27202-8/8、5-6頁。
  24. ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2010』 白夜書房、2010年、88頁。ISBN 978-4-86191-595-6
  25. ^ 小関順二、西尾典文、泉直樹 『プロ野球スカウティングレポート2008』 アスペクトムック、2008年、264-265頁。ISBN 978-4-7572-1439-2
  26. ^ Baseball Lab守備評価~Second BasemanSMR Baseball Lab
  27. ^ 岡田友輔、道作、三宅博人、morithy、蛭川皓平、高多薪吾、Student、水島仁 『プロ野球を統計学と客観分析で考える セイバーメトリクス・レポート2』 水曜社、2013年、69頁。ISBN 978-4-88065-319-8

関連項目[編集]

外部リンク[編集]