中島裕之
| 埼玉西武ライオンズ #3 | |
|---|---|
2011年8月30日、こまちスタジアムにて
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| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 兵庫県伊丹市 |
| 生年月日 | 1982年7月31日(29歳) |
| 身長 体重 |
180cm 84kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 遊撃手 |
| プロ入り | 2000年 ドラフト5位 |
| 初出場 | 2002年10月6日 |
| 年俸 | 2億8.000万円+出来高(2012年) |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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| 国際大会 | |
| 代表チーム | |
| 五輪 | 2008年 |
| WBC | 2009年 |
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この表について
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中島 裕之(なかじま ひろゆき、1982年7月31日 - )は、埼玉西武ライオンズに所属するプロ野球選手(内野手)。
愛称は「ナカジ」。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] プロ入り前
兵庫県伊丹市出身。伊丹市立桜台小学校時代は投手として幼馴染みの山崎勝己とバッテリーを組み、全国大会に出場。伊丹市立天王寺川中学校では宝塚シニアに所属し、高校進学時には県外の強豪校からもスカウトされ、地元の名門である報徳学園高校を受験。しかし不合格となり、野球では無名の伊丹北高校に進学[1]。シニアでの厳しい練習から野球に嫌気が差していたこともあり、強豪校とは違う練習環境の中で力を伸ばしていった。後に本人は「報徳に入学していたら野球を続けていなかったと思う」と発言している[1]。
高校では1年時からレギュラーとなり、1年夏は右翼手として兵庫大会に出場し、2年夏には1番打者として16強入りに貢献。以降は先発投手を務めるようになり、3年夏は1番・投手として出場し兵庫大会4回戦敗退。高校通算43本塁打。
2000年のドラフト会議において西武ライオンズから5位指名を受け入団。当時の西武に対しては「明るくて楽しそう」という印象を持っていた。無名校出身ながら高卒で指名された理由について、当時同校の監督だった後藤博雄は「真面目な性格が下積みにも耐えられるとスカウトが評価したのではないか」と語っている[2]。
[編集] プロ入り後
高校まで経験のなかった遊撃手にコンバートされ[3]、2001年はイースタン・リーグで30試合に出場して打率.105、2安打。守備でも7失策を記録するなどプロの洗礼を浴びた。
2002年は二軍のレギュラーとなり、リーグで唯一全試合に出場。安打、得点、犠飛、死球でリーグ最多。リーグ2位の打率.299、チーム2位の11本塁打、リーグ4位の47打点を記録しファームの優秀選手を受賞。一方でリーグワーストの10併殺打、25失策と粗さも目立った。シーズン終盤の10月に一軍初出場、初安打を記録。
2003年は前年の4試合から44試合と出場数を増やし、初打点、初本塁打、初盗塁を記録。二軍ではチームトップの打率.306、同2位の13本塁打を放った。チームの大先輩である清原和博の背番号3を引き継いだ。
2004年はFAでニューヨーク・メッツへ移籍した松井稼頭央の後釜として、7番遊撃手で初の開幕スタメンに抜擢された。
その後も「正遊撃手は荷が重過ぎる」との声もある中で伊東勤監督によりスタメン起用され、オールスターにも監督推薦で初出場した。同年のパシフィック・リーグでは唯一フルイニング出場し、打率.287、27本塁打、90打点、18盗塁を記録してリーグ優勝と日本一に貢献した。
2005年はイレギュラーバウンドした打球を顔面にうけ頬骨を骨折して戦線離脱。規定打席に到達して打率.274、チーム2位の11盗塁を記録したが、本塁打は半分以下に減少するなど全体的に前年を下回る成績で、リーグ3位の17併殺打、遊撃手としてリーグ最多の10失策を記録。
2006年は開幕から3番打者を務め、オールスターにも選出され、一時首位打者争いに加わるなどチームの首位争いに貢献した。7月30日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦で山村宏樹から死球を受け、左第4中手骨を骨折したが予定より早い9月12日に復帰した。初の打率3割となるリーグ4位の打率.306を記録。守備では2年連続で遊撃手部門リーグ最多の16失策を記録し、同年オフの契約更改では球団初となる守備での出来高払いが設定された。
2007年も開幕から3番で起用され、オールスターに3度目の出場を果たした。両リーグ通じて唯一の9試合連続打点を記録するなどリーグ5位の打率.300、同3位の160安打、チーム2位の74打点を記録したが、リーグ3位の134三振とレギュラー定着以降減少していた三振数が倍増した。守備でもリーグ2位、遊撃手としては3年連続リーグ最多の20失策を記録。
2008年は北京オリンピック野球日本代表に選出され、オールスターにも4度目の出場。共に同じ遊撃手の川崎宗則、西岡剛が選出されたこともあり、オールスターでは三塁手を務めたが、悪送球による失策を記録した。北京五輪では、川崎の故障によって主に遊撃手を務めた。4年ぶりに20本塁打を記録。前半戦終了時にリーグトップだった打率は後半戦に入って徐々に落ちていったが、楽天のリック・ショートと首位打者を争い、対楽天との最終戦までもつれ込んだ。結果は7毛差で及ばなかったが自己最高の打率.331を記録。最終戦後には敬遠されなかった事について「勝負してくれて嬉しかった」と語った[4]。シーズン成績はチームトップの55四球を選び、それぞれ自己最高を更新する出塁率.410、25盗塁で、初タイトルとなる最高出塁率を獲得した。遊撃守備ではリーグ2位の12失策を記録したものの、守備率は遊撃手部門2位を記録して送球ミスも減り、ゴールデングラブ賞とベストナインを初受賞した。同年、かつて背番号3を着けていた清原が引退を表明し、対オリックス・バファローズ最終戦の日にユニフォームの交換を行なった。
2009年は第2回WBC日本代表に選出された。1次選考選手発表の際にイチローは片岡易之・岸孝之らと共に「(選ばれれば)日本代表のキーマンになる3人」と語った。大会では2番遊撃手として出場、発熱で一部の試合を欠場したが、2度目のキューバ戦でスタメンに復帰した。チームトップの打率.364、出塁率.516、7打点を記録して日本代表の大会2連覇に貢献した。ペナントレースでは開幕から25試合本塁打がなかったが、6月21日の対東京ヤクルトスワローズ戦で通算100本塁打を達成。オールスターゲームに選手間投票によって選出され5度目の出場。第2戦でファウルボールを観客席に突っ込んで捕球するなどしてベストプレー賞を受賞し、「守備で賞を頂けたことがうれしい」とコメント。主に3番遊撃手としてリーグで唯一全試合フルイニング出場してシーズン後半には故障した中村剛也の代わりに4番打者も経験し、2年連続で3割20本塁打20盗塁、自己最多の92打点、173安打で自身初の最多安打、出塁率.398で2年連続となる最高出塁率のタイトルを獲得し、2年連続でベストナインも受賞した。遊撃守備はリーグワーストタイの12失策ながら、自己最高の守備率を記録した。
2010年も3番打者としてチームを牽引した。一時は打率が4割を越えたが、シーズン終盤はチャンスでの併殺打が増えた。同年オフにはポスティングシステムを利用したメジャーリーグ挑戦を球団側に訴えたが、交渉窓口となった球団本部長(当時)の前田康介が「話し合いの結果、残留で決まった」と報道陣に対して一方的に発表したことから[5]、中島は「勝手に発表された。『分かった』としか言われていない」と、事実と異なる説明をされたとして球団に対する不信感を露にした[6]。その後、渡辺久信監督の仲裁により球団側と再度話し合い、残留することが正式に発表された。
2011年はこの年から導入された統一球の影響もあり5月までは打率.266、3本塁打、OPS.771と調子が上向かなかったが、6月から調子を上げ、6月から9月まで打率.312、9本塁打、OPS.819と復調。チームが最下位に沈んでいた7月25日の対ロッテ戦では決勝本塁打を放ち、ヒーローインタビューではこの試合からキャプテンに任命されて右胸に「C」の文字が入ることになったことを報告した。しかし10月は打率.271、本塁打なし、OPS.612と再び調子を落とし、5年連続で記録していた打率3割が途絶えた。最終的に右投手に対しては打率.316と例年通りの成績を残したが、左投手に対しては打率.237と苦手とした。本塁打も16本と4年ぶりに20本を下回ったが、得点圏打率はリーグ2位の.351を記録し、遊撃手としては史上二人目となるシーズン100打点を達成。中村剛也とともに球団初の100打点コンビとなった。また、21個の盗塁を成功させ失敗はわずか2個で、盗塁成功率は.913であった。同年オフには球団よりポスティングシステムを利用したメジャー移籍を容認されたことを受け、11月22日にメジャー挑戦を正式表明した[7]。同月28日に申請書類を提出し[8]、12月8日には入札額250万ドルでニューヨーク・ヤンキースが交渉権を獲得したことが発表された[9][10]。その後グレグ・ゲンスキーを代理人として入団交渉を行ったが契約合意には至らず[11]、2012年1月10日に契約更改を行って来季も残留することが決定した[12][13]。
[編集] プレースタイル
打撃では剣道の上段構えのようにバットを高く掲げた特徴的な構えからスイングする。相手の呼吸に合わせて間合いをとるため逆に自分の呼吸を読ませないように考えた結果、左腕が上がって口元を隠すフォームに行き着いたという[14]。
早いボールカウントから積極的に踏み込んで打ちに行く傾向があり、ファーストストライク時の打率が高く広角に長打を放つことができる[15]。これは高校時代に練習で打球が左翼後方のテニスコートやプールに飛び込むことが多く、他の部から苦情が頻出したことから監督に「危ないから右に打て」と指示されて取り組んだという[16]。本人曰く「ゴルフのピッチング・ウェッジを打つ感覚」で右手を押し込む強さを加減して打球の飛距離を調節できると言い、宮本慎也からは「天才」と評された[17]。2008年から2010年までの通算得点圏打率.326と勝負強さを備え、10打席に1つ近い割合で四球を選ぶ選球眼も兼ね備える一方でバントは苦手としており、犠牲バントのサインが出ると「(投手が)楽なところに投げてこないかなぁ」と毎回思うという[18]。また、狙った場面で犠牲フライを打つ技術も持ち合わせている[19]。
走塁では一塁到達タイムは5秒台が多く、良くて4.25秒と速くはないが[20]ベースランニングは上手く、三塁打時には12秒台前半を記録し[20]、盗塁成功率も通算77パーセントを誇る。このためメジャーリーグのスカウトからは「スピードのあるマイケル・ヤング」、「頭脳的なベースランニングのラン(得点)・プロデューサー」と評価された[21]。
守備では下半身と地肩を活かしたプレーを特徴とする[20][22]。レギュラーに定着した頃は失策数も多かったが、ゴールデングラブ賞を受賞した2008年からは徐々に堅実さが加わりつつあり[23]、2010年にはリーグ2位の守備率を記録するなど例年守備率を向上させている。一方で2010年の守備イニング1000以上の遊撃手中ワースト2位のレンジファクター4.33[24]や両リーグの遊撃手中ワーストのUZR-19.4を記録するなど守備範囲が狭い[25]。
[編集] 人物
中嶋聡が移籍して以来「NAKAJIMA」表記の姓はチームで1人だけだが、文字数が多いほうが格好良いという本人の希望で背中のネーム表記は"H.NAKAJIMA"のままである。
兵庫県伊丹市出身のスポーツ選手で構成されているNPO法人「伊丹アスリートクラブ」に所属しており、シーズンオフにはイベントを行っている。
2006年から2008年までラッキーカラーとしてピンクのバッティンググローブとリストバンドを着用していた。2008年5月11日(母の日)の対オリックス戦ではMLBの慣習にヒントを得て大量のピンクのリストバンドを購入し、裏方も含めてチーム全員に配った。
アンダーウェアはアンダーアーマー、グラブは久保田運動具店、バッティンググローブ、リストバンド、スパイクシューズ、エルボーガード、バットはアディダスの物をそれぞれ使用している。
出生時は右肩が母体内で引っかかるなどの難産で、担当医からは「右肩に何らかの障害が残る可能性がある」と指摘され、乳児の頃から柔らかいゴム製のボールを半ば握らされていた[26]。
西武の後輩野手たちからは「打撃のアドバイスを求めても、返答は擬音が多くてわかりにくい」「時々何を言っているのか理解できないことがある」と言われている[18]。球場に来た長嶋茂雄から打撃指導を受けた際、長嶋独特の擬音を交えた指導にほかの西武の選手が首をかしげる中、中島のみ「長嶋さんの理論がわかりました」と語ったという[27]。
女性人気が高く、2010年のバレンタインデーにはチームNo.1となる120個のチョコレートが届いた[28]。一方でファン感謝デーなどの際にいきなり女性に尻を揉まれるといったことも頻発しており、試合だけでなくこれらの行事などでもファウルカップを着用している[18]。
シーズンオフにはチームメイトの伝を頼って海外に一人旅に出ることが多く、2008年にはアレックス・カブレラの出身国であるベネズエラ、2009年は同じくヒラム・ボカチカのプエルトリコに旅に出ている。本人は特にスペイン語ができるわけでもないのに物怖じせずに旅に出る様子に対し、金村義明は「絶対メジャーリーグ向きだ」と評した[18]。
2011年7月11日に行われたオリックス戦では警告試合を引き起こしている。発端は、6回裏に高宮和也が放った2球目が中島の背中に直撃。これに中島が激昂してマウンドへ歩み寄ると、両チームがベンチに飛び出し、乱闘寸前の雰囲気となった。試合は9対1で勝ったものの中島の怒りは収まらず、「(オリックスは)しょうもないチーム」、「ことしのうちに、必ず試合中にやり返しますよ」と報復とも見れる発言まで行った[29]。事実このシーズンでの対オリックス戦は、打率.383、36安打の18打点と滅法強かった。
[編集] 詳細情報
[編集] 年度別打撃成績
| 年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2002 | 西武 | 4 | 7 | 7 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | .143 | .143 | .143 | .286 |
| 2003 | 44 | 98 | 89 | 12 | 23 | 3 | 1 | 4 | 40 | 11 | 1 | 2 | 0 | 0 | 5 | 0 | 4 | 22 | 0 | .258 | .327 | .449 | .776 | |
| 2004 | 133 | 559 | 502 | 70 | 144 | 22 | 3 | 27 | 253 | 90 | 18 | 2 | 3 | 4 | 39 | 7 | 11 | 108 | 7 | .287 | .349 | .504 | .853 | |
| 2005 | 118 | 444 | 405 | 56 | 111 | 21 | 2 | 11 | 169 | 60 | 11 | 3 | 3 | 3 | 22 | 3 | 11 | 67 | 17 | .274 | .327 | .417 | .744 | |
| 2006 | 105 | 459 | 412 | 76 | 126 | 22 | 1 | 16 | 198 | 63 | 14 | 4 | 0 | 4 | 30 | 3 | 13 | 66 | 12 | .306 | .368 | .481 | .849 | |
| 2007 | 143 | 593 | 533 | 68 | 160 | 28 | 5 | 12 | 234 | 74 | 9 | 4 | 1 | 5 | 41 | 0 | 13 | 134 | 15 | .300 | .361 | .439 | .801 | |
| 2008 | 124 | 556 | 486 | 75 | 161 | 32 | 0 | 21 | 256 | 81 | 25 | 5 | 0 | 3 | 55 | 3 | 12 | 96 | 15 | .331 | .410 | .527 | .937 | |
| 2009 | 144 | 648 | 560 | 100 | 173 | 31 | 3 | 22 | 276 | 92 | 20 | 12 | 0 | 3 | 75 | 4 | 10 | 113 | 17 | .309 | .398 | .493 | .891 | |
| 2010 | 130 | 579 | 503 | 80 | 158 | 33 | 3 | 20 | 257 | 93 | 15 | 5 | 0 | 11 | 52 | 2 | 13 | 97 | 20 | .314 | .385 | .511 | .896 | |
| 2011 | 144 | 633 | 566 | 82 | 168 | 27 | 1 | 16 | 245 | 100 | 21 | 2 | 0 | 11 | 44 | 0 | 12 | 93 | 11 | .297 | .354 | .433 | .787 | |
| 通算:10年 | 1089 | 4576 | 4063 | 619 | 1225 | 219 | 19 | 149 | 1929 | 664 | 134 | 39 | 7 | 44 | 363 | 22 | 99 | 798 | 115 | .302 | .369 | .475 | .844 | |
- 2011年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高
[編集] 年度別守備成績
| 年度 | 三塁 | 遊撃 | ||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | |
| 2002 | 1 | 1 | 1 | 0 | 0 | 1.000 | - | |||||
| 2003 | 20 | 8 | 20 | 3 | 2 | .903 | 2 | 2 | 2 | 0 | 0 | 1.000 |
| 2004 | - | 133 | 235 | 363 | 17 | 73 | .972 | |||||
| 2005 | - | 112 | 158 | 267 | 10 | 45 | .977 | |||||
| 2006 | - | 99 | 162 | 241 | 16 | 44 | .962 | |||||
| 2007 | - | 140 | 209 | 393 | 20 | 73 | .968 | |||||
| 2008 | 4 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1.000 | 122 | 204 | 359 | 12 | 79 | .979 |
| 2009 | - | 144 | 212 | 446 | 12 | 89 | .982 | |||||
| 2010 | - | 129 | 182 | 365 | 11 | 72 | .980 | |||||
| 2011 | - | 144 | 222 | 444 | 10 | 99 | .985 | |||||
| 通算 | 25 | 9 | 22 | 3 | 2 | .912 | 1025 | 1586 | 2880 | 108 | 574 | .976 |
- 2011年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高
[編集] タイトル
[編集] 表彰
- ベストナイン:3回(遊撃手部門・2008年 - 2009年、2011年)
- ゴールデングラブ賞:2回(遊撃手部門・2008年、2011年)
- オールスター新人賞:1回(2004年)
- オールスター優秀選手賞:1回(2004年第2戦)
- オールスターベストプレー賞:1回(2009年第2戦)
- 日本シリーズ優秀選手賞:1回 (2008年)
[編集] 記録
- 初記録
- 初出場・初先発出場:2002年10月6日、対日本ハムファイターズ28回戦(東京ドーム)、 5番・指名打者で先発出場
- 初打席・初安打:同上、2回表に金村曉から右前安打
- 初打点:2003年8月3日、対日本ハムファイターズ21回戦(西武ドーム)、4回裏に関根裕之から中前適時打
- 初本塁打:2003年8月5日、対福岡ダイエーホークス21回戦(福岡ドーム)、2回表に寺原隼人から左越ソロ
- 初盗塁:2003年8月12日、対大阪近鉄バファローズ22回戦(西武ドーム)、9回裏に二盗(投手:高村祐、捕手:藤井彰人)
- 節目の記録
- 100本塁打:2009年6月21日、対東京ヤクルトスワローズ4回戦(明治神宮野球場)、1回表に石川雅規から左越2ラン ※史上255人目
- 1000本安打:2010年7月20日、対福岡ソフトバンクホークス14回戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)、7回表に杉内俊哉から右前安打 ※史上259人目
- 1000試合出場:2011年6月30日、対オリックス・バファローズ6回戦(京セラドーム大阪)、3番・遊撃手として先発出場 ※史上444人目
- その他の記録
- 9試合連続打点:2007年
[編集] 背番号
- 56 (2001年 - 2003年)
- 3 (2004年 - )
- 6 (2009年WBC)
[編集] 登場曲
- ネリー「シェイク・ヤ・テイルフェザー」(2004年)
- DMX「Where Da Hood At」(2005年)
- ファット・ジョー「Get It Poppin (feat. Nelly)」(2005 - 2006年)
- KREVA「音色」
- DJ KAORI feat. Yinling of JOYTOY with DOBERMAN INC「Be My Lover」(2006年)
- 50セント「If I can't」(2006年)
- The Black Eyed Peas「My Humps」(2007年)
- HOMEMADE家族「EVERYBODY NEEDS MUSIC」(2008年)
- ショーン・キングストン「Beautiful Girls」(2008年)
- タッキー&翼「恋詩-コイウタ-/PROGRESS」(2008年)
- GReeeeN「キセキ」(2008年 - 2011年)
- GReeeeN「歩み」(2009年)
- 今井翼「BACKBORN」(2010年6月1日のみ)
[編集] 関連情報
[編集] CM
- アンダーアーマー(2009年)
[編集] DVD
- 中島裕之 進化する若獅子、背番号3(PCBE-53174 2010年4月21日発売、販売元:ポニーキャニオン、発売元:ジェイ・スポーツ・ブロードキャスティング)
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
- ^ a b 兵庫人 挑む
- ^ 第89回全国高等学校野球選手権 兵庫大会 - 感動アーカイブ
- ^ “プロフェッショナルの条件 中島裕之”. @type. 2011年12月8日閲覧。
- ^ “真っ向勝負の首位打者争い。”. Number Web (2008年10月24日). 2011年12月8日閲覧。
- ^ “中島メジャー希望伝える 球団は「残留」”. 日刊スポーツ (2010年10月30日). 2012年1月11日閲覧。
- ^ “中島裏切られた…西武「勝手に」残留発表”. 日刊スポーツ (2010年10月31日). 2012年1月11日閲覧。
- ^ “中島裕之選手のポスティングについて”. 埼玉西武ライオンズ (2011年11月22日). 2012年1月11日閲覧。
- ^ “ジャイアンツ本命 中島12月3日にも落札球団判明へ”. スポニチ Sponichi Annex (2011年11月29日). 2012年1月11日閲覧。
- ^ “中島裕之選手のポスティング入札について”. 埼玉西武ライオンズ (2011年12月8日). 2011年12月8日閲覧。
- ^ “ヤンキース落札額、約2億円=中島入札で西武が発表-プロ野球”. 時事通信 (2011年12月8日). 2011年12月8日閲覧。
- ^ “中島、ヤンキースとの交渉決裂=西武残留へ-米大リーグ”. 時事通信 (2012年1月6日). 2012年1月6日閲覧。
- ^ “中島選手の契約更改について”. 埼玉西武ライオンズ (2012年1月10日). 2012年1月11日閲覧。
- ^ “「西武の中島」現状維持で笑顔の契約更改”. 日刊スポーツ (2012年1月11日). 2012年1月11日閲覧。
- ^ 週刊文春2008年9月11日号
- ^ 選手分析 ~西武 #3 中島 裕之~ プロ野球 データスタジアム、2010年11月18日。
- ^ スポーツアルバムNo.21 中島裕之、ベースボール・マガジン社、2009年、雑誌67917-86、46項 他
- ^ 中島裕之の“飛ばさない技術”。~天才的打撃の神髄~(1/2) - Number Web : ナンバー
- ^ a b c d 『ガンバレ日本プロ野球!?』(J SPORTS)2010年シーズン・第5回
- ^ これぞ“名人芸”中島 2年連続11犠飛 スポニチ Sponichi Annex、2011年9月10日
- ^ a b c 小関順二、西尾典文、石川哲也、場野守泰 『プロ野球スカウティングレポート2011』 廣済堂出版、2011年、74-75頁。ISBN 978-4-331-51519-8。
- ^ 現役スカウト部長が見た日本チーム『月刊スラッガー』2009年6月号、日本スポーツ企画出版社、2009年、雑誌15509-6、52項
- ^ 小関順二、西尾典文、泉直樹 『プロ野球スカウティングレポート2009』 アスペクトムック、2009年、452-453頁。ISBN 978-4-7572-1628-0。
- ^ 小関順二、西尾典文、泉直樹 『プロ野球スカウティングレポート2010』 アスペクトムック、2010年、476-377頁。ISBN 978-4-7572-1744-7。
- ^ “守備「選手別」遊撃手データSMR Baseball Lab]”. 2012年1月7日閲覧。
- ^ 『月刊スラッガー』2011年5月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-5、45頁。
- ^ 2009年3月10日2時っチャオ「ニュースチャオ蔵」より
- ^ 将来はミスター!? “天然系強打者”中島裕之の素顔 (2/2) - 西武の先輩で交流のある大塚光二がインタビューに答えている。
- ^ 雄星チョコ70個も…フォーム固まらず息切れ状態に - ZAKZAK・2010年2月15日
- ^ レオVsオリ遺恨勃発!中島死球で大乱闘
[編集] 外部リンク
- 伊丹アスリートクラブ
- 中島裕之 埼玉西武ライオンズ公式プロフィール
- 個人年度別成績 【中島裕之 (埼玉西武ライオンズ)】 - 日本野球機構オフィシャルサイト
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