ヒラム・ボカチカ

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ヒラム・ボカチカ
Hiram Bocachica
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 プエルトリコの旗 プエルトリコ自治連邦区ポンセ
生年月日 1976年3月4日(38歳)
身長
体重
181 cm
88 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1994年 MLBドラフト1巡目
初出場 MLB / 2000年9月13日
NPB / 2008年3月20日
最終出場 MLB / 2007年7月17日
NPB / 2009年9月6日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
国際大会
代表チーム プエルトリコの旗 プエルトリコ
WBC 2009年

ヒラム・コロン・ボカチカHiram Colon Bocachica1976年3月4日 - )は、プエルトリコ出身のプロ野球選手外野手)。愛称は「ボカ」。

経歴[編集]

アメリカでの経歴[編集]

1994年6月2日に、モントリオール・エクスポズからドラフト1巡目(全体21番目)で指名を受け、同年6月6日に契約を結んだ。この年は、マイナーリーグのチームであるGCLエクスポズで43試合に出場し、打率.280・5本塁打・16打点・11盗塁という成績を残した。また、来日後は外野守備に就いていたが、この頃は外野手として試合に出場する事は無く、全ての試合に遊撃手として出場している。1995年は、アルバニー・ポールキャッツで96試合に出場し、リーグ3位となる47盗塁をマークした。続く1996年はエクスポズへの降格も経験したが、エクスポズでは9試合に出場したのみで、それ以外のシーズンはポールキャッツでのプレイとなった。成績面においては、盗塁が約半減となる23個まで減少したが、2チームトータルで.328という打率を記録した。1997年は、AA級のチームであるハリスバーグ・セネターズに昇格。打率.278・11本塁打・35打点・29盗塁という成績を残し、特に本塁打に関しては自身初の2ケタ到達となった。1998年は、ボカチカにとって多忙な1年となった。前年と同じセネターズで開幕を迎え、そこで80試合に出場。その後、オタワ・リンクス(AAA級)に昇格したが、7月31日ロサンゼルス・ドジャースとの大型トレードにより、ドジャースへと移籍する事になった。このトレードの交換要員には、ブラディミール・ゲレーロの兄であるウィルトン・ゲレーロと、現在カブスで先発投手として活躍しているテッド・リリーが含まれていた。しかし、いきなりメジャーリーグデビューのチャンスが訪れたわけではなく、移籍後はアルバカーキ・デュークス(AAA級)で試合に出場していた。ちなみに、実際に外野守備に就き始めたのはこの年からであり、この年は全ての試合で外野を守り、内野守備には就かなかった。

1999年は、AA級のチームであるサンアントニオ・ミッションズに降格したが、123試合に出場して打率.291・30盗塁をマーク。また、打撃面では二塁打、三塁打、本塁打の全てで2ケタ以上の数値を記録した。続く2000年9月13日の試合で、メジャーデビューを果たした。この年、メジャーリーグでは8試合にしか出場しなかったが、打率.300という数値をマークした。マイナーリーグでは、デュークスで124試合に出場して打率.322・23本塁打・84打点・10盗塁という成績をマークした。2001年になると、出場機会が大幅に増加。外野の両翼及び二塁、三塁を守り、75試合に出場した。2002年もドジャースで開幕を迎えたが、7月25日に自身2度目となるシーズン中のトレードにより、デトロイト・タイガースに移籍。2チームトータルでは83試合の出場で、打率.220・8本塁打・17打点・3盗塁という成績を残した。また、2001年と2002年の2年間は、マイナーリーグでの試合出場が1度も無いシーズンとなった。2003年は、タイガースでプレイするが、わずか6試合の出場に留まり、打率も.045という低水準だった。この年は、マイナーでも打率.242と、過去の成績と比較すると低調だった。同年シーズンオフに、自身初のフリーエージェントとなり、シアトル・マリナーズと契約を結んだ。

2004年は、マリナーズで50試合に出場。イチローと共に右中間の守備に就いた事もあった。この年に記録した.244という打率は、メジャーリーグで50試合以上に出場したシーズンの中では最高の数値である。2004年のオフ、またしてもフリーエージェントとなるが、同地区内のチームであるオークランド・アスレティックスと契約を結ぶ。更に、2005年のオフにフリーエージェントとなった時は、アスレティックスと再契約を結んでいる。しかし、2005年と2006年の2年間は、17試合で打率.156という成績しか残せなかった。翌2007年もアスレティックスでプレイしていたが、ウェーバーに掛けられ、サンディエゴ・パドレスに移った。しかし、パドレス移籍後も成績は上昇しなかった。ちなみに、2007年にアスレティックスで放ったヒットは1本だけだが、そのヒットは本塁打である。

メジャーリーグでの8年間は、通算272試合の出場で、打率.215・15本塁打・37打点・16盗塁という成績しか残っていないが、マイナーリーグでは1000以上の試合に出場し、本塁打は100、盗塁は200を超える数字を残している。

西武時代[編集]

2007年12月3日埼玉西武ライオンズへの入団が発表された。入団会見で名前に引っかけて「ボカチカ打って、新聞の見出しにも使われて、人気のある選手になって欲しい」と球団社長からコメントされた。

2008年は、開幕直後の変化球攻めに苦しみ、まもなく2軍落ちとなった。その後、風邪をひいたおかげで体が絞られ、「変化球に対応するアイディアを得た[1]」ことにより、復帰後には主に9番打者を務め、10試合で打率4割と6本塁打を打ち、「恐怖の9番打者」として話題になった。8月のオリンピック期間中には代表選手として離脱した中島裕之に代わって3番に抜擢され、8月4日の対千葉ロッテマリーンズ戦で2本塁打・7打点を記録した。オリンピック後は出番も少なくなり、出場は78試合に留まったものの、シーズンが終わってみれば、わずか239打数で20本塁打という驚異的な数字をマークしている。

その一方で、守備面ではシーズン前に「守備の人」という評価もあったが[2]、目を見張る強肩はあるものの打球判断が決定的に悪く「打球が来る前にジャンプ」「間に合わない打球に飛び込んで後逸」「スライディングキャッチして処理が遅れる」などの雑なプレーで、相手の長打や得点をアシストしてしまう場面が目立った。

単年契約であったため、クレイグ・ブラゼルとともに、2009年の契約はクライマックスシリーズ、チームが勝ち進んだ場合は日本シリーズのそれぞれの成績次第、と予め球団から通告されていた。クライマックスシリーズでは7打数1安打と期待に応えることができず、日本シリーズでもなかなか調子が上がらなかった。しかし、第7戦では2点ビハインドの場面で代打で起用され、1点差に追いあげる本塁打を放った。この本塁打が最終的に3-2で逆転日本一となった起爆剤となったため、契約が更新された[3]

2009年は開幕スタメンで起用されるものの、監督・コーチとの確執もあり前年と同様に1軍と2軍を往復させられ、出場は75試合にとどまり、打率.215、本塁打13本と結果を出せなかった。10月13日、自由契約公示された。

西武退団後[編集]

2010年4月12日、アメリカ合衆国プロ野球独立リーグアトランティックリーグブリッジポート・ブルーフィッシュと契約した。 その後、メキシカン・リーグに在籍している。

プレースタイル・人物[編集]

打てる時と打てない時の調子のムラが激しい。打撃は積極的に振りに行かず、かなりホームベースに寄った打撃フォームであるため四死球が多く、打率に比べ出塁率は高め。2009年は打率.215に対して出塁率.342と打率を1割以上も上回っていた。一方で長打力もあるが三振も多い。

走力・肩力は平均以上だが、前述のとおり雑な守備が見受けられるため、難がある。

「ボカチカ(Bocachica)」という姓はプエルトリコでも珍しいらしく、本人も家族・親族以外では見かけたことがないという。

メジャーリーグで3度の乱闘経験があり、気性の荒い性格で有名という。ボカチカ曰く「2005年のオープン戦で死球を受けて1年を棒に振ったため、死球には過敏になっている」とのことで、2008年のキャンプ中での打撃練習中、松永浩典から死球を受けた際に松永を睨みつけて一触即発のムードを漂わせた。

自主トレーニングでボクシングジムに通っている。

中島裕之と非常に仲が良く、よく食事を共にしていた。2008年5月6日にサヨナラ本塁打を記録してお立ち台に上がった際、中島に教えてもらった覚えたての日本語「オナカスイタネ!」を披露した。しかし、日本の野球のサインは覚えられず、ベルトの下にカンニングペーパーを入れていた。このことについて渡辺久信は「外国人とか関係なしに、9番打者は打つだけじゃ使えない」と語った。

2008年10月13日、南郷スタジアムで行われたフェニックスリーグ四国・九州アイランドリーグ選抜との試合中に、大久保博元と口論したことが新聞などに取り上げられた。

2008年に在籍したクレイグ・ブラゼルと一緒に、メジャーリーグでは一般的な松脂をヘルメットに付けて登場していたが、2008年の明るい水色ヘルメットではその存在は大変浮いていた。2009年のレジェンド・ブルーのヘルメットではあまり目立たなかった。

2009 ワールド・ベースボール・クラシックのプエルトリコ代表選手に選出される。本人は「選出を知ったときは涙が出た」と言う。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
2000 LAD 8 10 10 2 3 0 0 0 3 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .300 .300 .300 .600
2001 75 143 133 15 31 11 1 2 50 9 4 1 0 0 9 0 1 33 1 .233 .287 .376 .663
2002 49 70 65 12 14 3 0 4 29 9 1 1 0 0 5 0 0 19 1 .215 .271 .446 .718
DET 34 109 103 14 23 4 0 4 39 8 2 2 1 0 5 0 0 22 2 .223 .259 .379 .638
'02計 83 179 168 26 37 7 0 8 68 17 3 3 1 0 10 0 0 41 3 .220 .264 .405 .669
2003 6 22 22 1 1 1 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 7 0 .045 .045 .091 .136
2004 SEA 50 107 90 9 22 5 0 3 36 6 5 4 3 1 12 0 1 27 1 .244 .337 .400 .737
2005 OAK 9 19 19 2 2 0 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 7 0 .105 .105 .105 .211
2006 8 16 13 3 3 0 0 0 3 0 1 0 0 0 3 0 0 4 0 .231 .375 .231 .606
2007 6 20 17 2 1 0 0 1 4 3 0 0 0 1 2 0 0 5 1 .059 .150 .235 .385
SD 27 68 63 9 15 4 0 1 22 2 3 2 0 0 5 0 0 13 0 .238 .294 .349 .643
'07計 33 88 80 11 16 4 0 2 26 5 3 2 0 1 7 0 0 18 1 .200 .261 .325 .586
2008 西武 78 279 239 43 60 13 0 20 133 47 3 3 3 2 24 0 11 76 2 .251 .344 .556 .901
2009 75 236 195 29 42 8 1 13 91 32 2 2 2 1 32 0 6 77 3 .215 .342 .467 .809
MLB:8年 272 584 535 69 115 28 1 15 190 37 16 10 4 2 41 0 2 139 6 .215 .272 .355 .628
NPB:2年 153 515 434 72 102 21 1 33 224 79 5 5 5 3 56 0 17 153 5 .235 .343 .516 .859
  • 2011年度シーズン終了時

記録[編集]

NPB

背番号[編集]

  • 48 (2000年 - 2001年途中)
  • 33 (2001年途中 - 同年終了)
  • 26 (2002年 - 同年途中、2003年)
  • 22 (2002年途中 - 同年終了)
  • 44 (2004年、2006年 - 2007年途中)
  • 28 (2005年)
  • 7 (2007年途中 - 同年終了)
  • 55 (2008年 - 2009年)

出典[編集]

  1. ^ 週刊ベースボール 2008年5月19日号 オーロラビジョンより
  2. ^ Puerto Rican Baseball
  3. ^ 一方でブラゼルは、シーズン末期の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦で頭部死球を受け、目眩などの故障から両シリーズに出場できず、シーズンを通してボカチカより活躍したにも関わらず退団した。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]