小川直也

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小川 直也
小川 直也の画像
プロフィール
リングネーム 小川 直也
キャプテン・オー
ジュードー・オー
ハルク・オーガン
本名 小川 直也
ニックネーム 暴走王
暴走柔道王
キャプテン・ハッスル
オーちゃん
身長 193cm
体重 115kg
誕生日 1968年3月31日(46歳)
出身地 東京都杉並区
所属 小川道場
スポーツ歴 柔道
トレーナー アントニオ猪木
佐山聡
デビュー 1997年4月12日
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小川 直也(おがわ なおや、男性、1968年3月31日 - )は、日本プロレスラー総合格闘家。元柔道選手(五段)、バルセロナオリンピック銀メダリスト。

東京都杉並区出身。全日本柔道選手権優勝7回(5連覇、2連覇)は山下泰裕に次ぐ歴代2位。明治大学経営学部卒業。筑波大学大学院人間総合科学研究科博士前期課程コーチング学専攻修了。元JRA職員。血液型B型。

柔道[編集]

獲得メダル
日本の旗 日本
男子 柔道
オリンピック
1992 バルセロナ 95kg超級
世界柔道選手権
1987 エッセン 無差別
1989 ベオグラード 95kg超級
1989 ベオグラード 無差別
1991 バルセロナ 95kg超級
1991 バルセロナ 無差別
1993 ハミルトン 無差別
1995 千葉 95kg超級
アジア大会
1990 北京 95kg超級
アジア柔道選手権
1988 ダマスカス 無差別

高校まで[編集]

幼少の頃から剣道をはじめ、中学2年の時には多摩地区の道場対抗大会で優勝を果たしたこともあった。また、小学生の頃にはスイミングスクールで水泳(得意種目はバタフライ)、リトルリーグで野球にも取り組んでもいた。 私立八王子高校の面接試験の際には、体格のよさを後に恩師となる面接官の小野実に見込まれ、入学したら柔道をやってみないかと問われて、印象を良くするためにやってみたいと答えた。この一言がどう作用したか定かではないものの、無事合格を果たした[1]

八王子高校に入学後、柔道部部長である小野と監督である川野昭吾の指導によって力を付け始め、高校3年の時に金鷲旗ではベスト16、インターハイ重量級では優勝した天理高校中谷弘に敗れて入賞はならなかったが、国体では世田谷学園高校古賀稔彦とともに活躍して東京都の優勝に貢献した。 後の述懐では、高校3年の金鷲旗で何とか競り勝ってベスト16まで到着した時から、柔道に対する自信が付きはじめ、それまでとは何かが変わったと感じるようになったと回想していた[2]

大学時代[編集]

1986年4月には明治大学経営学部経営学科に進学した。柔道部監督の上村春樹と助監督である原吉実(当時の上村は全日本の監督も引き受けていたために忙しく、助監督である原が道場で小川に直接指導することが多かった)の指導の下で力を付けて、11月には全日本学生(無差別)において順調に勝ち上がり、決勝では東海大学関根英之との1年生対決を判定2-1の微妙な内容ながら制して、山下泰裕以来10年ぶりの1年生チャンピオンに輝いた(後の引退会見の時に、この試合での優勝が一番印象に残っていると述懐した)[3]。 続く全日本新人体重別選手権大会では準決勝で日本大学金野潤に判定負けして3位に終わった。 12月にはブラジルのサンパウロで開催された世界学生に出場して、初戦で韓国の金建秀に合技で敗れるも、その後の3位決定戦でポーランドのイェルジィ・コラノフスキ出足払で破り3位となった。また、団体戦では優勝を果たした。

1987年1月には正力国際の無差別に出場して、準決勝で当時の外国勢最強の選手と見なされていたソ連のグリゴリー・ベリチェフ払腰で破るものの、決勝では東ドイツのヘンリー・ストールに払腰で技ありを取られて2位に終わった。しかしながら、ベリチェフを豪快な一本で破ったことで一躍マスコミから斉藤仁正木嘉美に次ぐ重量級第三の男と書き立てられて注目を集めることになった[4]。 6月にはこの当時、全日本学生柔道連盟と対立関係にあった全日本大学柔道連盟が主催する大学体重別に出場して優勝を果たした。しかし、学生優勝大会ではベスト8で敗れることとなった。 7月には体重別決勝で、新日本製鐵滝吉直樹を判定で破り初優勝を果たしたことにより、世界選手権の代表候補に選ばれた。 10月の正力杯決勝では、高校の時から苦手にしていた金野を判定(3-0)ながらも6回目の対戦にして初めて破り優勝を飾った。 11月には西ドイツのエッセンで開催された世界選手権に補欠として出向いたが、当初2階級に出場する予定だった正木が初日の95kg超級初戦でベリチェフに敗れた際に持病の腰痛を悪化させたため無差別には出場できなくなり、代わって小川が出場することになった[5]。 2回戦は指導勝ち、3回戦は判定勝ちと予選ラウンドはややもたついたものの、準決勝ではソ連のハビル・ビクタシェフを合技で下すと、決勝ではイギリスのエルビス・ゴードンと対戦して開始すぐに払腰を返されるが場外でポイントにならず、その後小外刈で技ありを取って優勢勝ちして、史上最年少の19歳7ヶ月にして世界チャンピオンとなり、一躍ソウルオリンピック95kg超級代表の有力候補となった。 しかし、帰国直後に出場した選抜団体では愛知県警秀川豊大外返で一本負けを喫するが、チームは3位となった。 12月には史上最年少で世界チャンピオンになったことが評価されて、日本スポーツ賞大賞を受賞した。

1988年4月には推薦で全日本選手権に初出場するが、準々決勝で86kg級の選手である旭化成大迫明伸に中盤以降何度も崩されたことによって判定で敗れて、斉藤、正木とのオリンピック代表争いから大きく後退した。 6月には体重別の準決勝で正木を判定で破るも、決勝で斉藤に小内巻込で効果を取られ敗れてオリンピック代表にはなれなかった。 続く学生優勝大会では3位に終わった。 8月のアジア選手権無差別では準決勝で北朝鮮のファン・ジェキル、決勝でも中国の徐国清を破ってオール一本勝ちで優勝を果たした。 10月の正力杯では決勝で関根から内股で技ありを取り2連覇を達成した。 さらに全日本学生に出場して、決勝では78kg級世界チャンピオンである筑波大学岡田弘隆がケガで棄権したため、不戦勝で2年ぶり2度目の優勝を果たした。 12月の選抜団体では3位に終わった。 続くグルジアのトビリシで開催された世界学生では、95kg超級に出場してオール一本勝ちで優勝したが、団体戦では2回戦で敗れた。

1989年3月には全日本選手権東京予選で優勝を果たすと、4月の全日本選手権では関根との史上初の大学生同士の決勝対決を横四方固で一本勝ちすることによって制して初優勝を果たした。 6月の学生優勝大会では東海大学に敗れて2位に終わった。 7月の体重別では決勝で関根を支釣込足で破って優勝を果たして、世界選手権では95kg超級と無差別両方の代表となった。 10月にはユーゴスラビアのベオグラードで開催された世界選手権に出場して、95kg超級の決勝ではキューバのフランク・モレノ横四方固、無差別の決勝ではソ連のアカキ・キボルジラゼ上四方固でそれぞれ破り、計8試合をオール一本勝ちして圧倒的な強さで2階級制覇を達成した。 翌年3月には明治大学を卒業した。

社会人時代[編集]

1990年4月からはJRAサービス推進部保安企画課所属となった。そして、社会人になって初めての大会となる全日本選手権では準決勝で金野を注意で破ると、決勝では71kg級世界チャンピオンである平成の三四郎こと古賀稔彦との夢の対決となったが、序盤から優勢に試合を進めて7分過ぎに足車で一本勝ちして大会2連覇を達成した。大会後のインタビューでは、古賀が決勝まで上がってくることは全く予想していなかったが、JRAの監督である関勝治に小さい相手ともよく練習しておけと言われたことで、大学の3年後輩で古賀と同じくらいの体格である秀島大介とは特によく練習したことで、決勝ではスムーズに勝つことが出来たと述べた[6]6月には実業団体2部に出場して、JRAの優勝に大きく貢献した。7月には体重別の準決勝で金野に苦戦するが辛くも注意で勝ち上がると、決勝では関根を朽木倒の有効で破って北京アジア大会代表に選ばれた。9月のアジア大会では日本オリンピック委員会から日本選手団全体の主将に選ばれるが、95kg超級の準決勝で北朝鮮のファンに合技で敗れる予想外の結果となった。実に2年3ヶ月ぶりの敗戦であった。3位決定戦ではイランのF・ファラヒを上四方固で破った。11月の嘉納杯95kg超級決勝では金野を判定で破ると、無差別決勝でもフランスのダビド・ドゥイエを小外刈の有効で破り、2階級制覇を達成した。

1991年4月の全日本選手権では決勝で金野を判定で破り3連覇を達成した。5月の体重別は欠場したが世界選手権95kg超級代表に選ばれた。7月にスペインのバルセロナで開催された世界選手権では95kg超級の準決勝でソ連のセルゲイ・コソロトフ崩袈裟固で敗れるも、3位決定戦ではフィンランドのユハ・サローネンに反則勝ちした。当初無差別は関根が出場する予定だったが、選手団長の神永昭夫に無差別にも出場する意思があるのか尋ねられると、「やらせてください」「無差別級で優勝できなければ、ボクは現役を辞めて責任をとります」と固い決意のほどを述べたことによって、全日本監督である上村春樹が小川を無差別にも出場させることを最終的に決定した[7][8]。その準決勝ではベルギーのハリー・ファンバルネベルトに小外刈を返されて先に技ありを取られるも横四方固で逆転勝ちすると、決勝ではソ連のダヴィド・ハハレイシヴィリ体落で破り、オール一本勝ちで無差別3連覇を果たした。

1992年4月の全日本選手権決勝では後輩である明治大学の大漉賢司を横四方固で破り4連覇を達成した。5月の体重別は欠場したが、バルセロナオリンピック代表に選ばれた。7月のバルセロナオリンピックでは準決勝でドゥイエを合技一本で下すが、決勝ではEUNのハハレイシヴィリに合技で敗れて2位に終わった。大会後のインタビューでは、オリンピックで勝ったら柔道を辞めようと思っていたと述べた[9]。 しかし現実にはオリンピックで敗れたことにより、その責任を感じて現役を退くことも考えたが、恩師である原吉実に説得されて現役を続行することにしたとも語った[10]。 11月には嘉納杯無差別に出場して、準決勝でコソロトフを警告で破るも、決勝ではバンバルネベルトから先に小外刈で有効を取るも裏投で技ありを取られて逆転負けを喫して2位に終わった。

1993年4月の全日本選手権決勝では金野から足車で一本勝ちして5連覇を達成した。7月の体重別では決勝で関根を判定で破って優勝して世界選手権代表に選ばれた。10月にカナダのハミルトンで開催された世界選手権では無差別に出場したが、準決勝でポーランドのラファウ・クバツキ払釣込足で敗れるも、3位決定戦でハンガリーのチェース・イムレ掬投で破った。

1994年4月の全日本選手権準決勝では、大学の後輩である新日本製鐵の吉田秀彦と対戦して、前半は優勢に試合を進められるが中盤に支釣込足で大きく崩すも判定となり、1-2の微妙な内容ながら敗れて大会6連覇はならなかった。 12月には講道館杯に出場するも、決勝で天理大学の篠原信一に0-3の判定で敗れた。引退後には、自分の指導者人生は小川に始まり小川で終わるとまで述べた原吉実との師弟対談において、この時期の判定に関しては納得いかず、「正直言って、俺に引退されたら困らないのかなあ、それにしては乱暴な扱いだなあと思っていましたよ」と大きな不満を抱いていたことを率直に語っていた[11]

1995年の2月にはフランス国際に出場するが、準決勝でドゥイエに大内刈で敗れるも、3位決定戦ではアルゼンチンのオルランド・バッチーノを足車で破った。続いてオーストリア国際にも出場するが、準決勝でオーストリアのエリック・クリーゲルに指導を取られ敗れて3位決定戦は棄権した。3月には6年ぶりに全日本選手権の東京予選に出場して、出場権を確保したベスト8の段階で棄権した。4月の全日本選手権では決勝で篠原を横四方固で破り、2年ぶり6度目の優勝を果たした。5月の体重別準決勝では金野相手にお互いに牽制しあうあまり両者反則負けとなった。6月の実業団体1部決勝での新日本製鐵戦では吉田と対戦するが引き分けとなり、チームも2位に終わった。9月に幕張で開催された世界選手権では、準決勝でドイツのフランク・モラー一本背負投で有効を取られて敗れるが、3位決定戦ではトルコのセリム・タタログルに足車で一本勝ちした。12月の講道館杯決勝では金野に2-1の微妙な判定ながら勝利した。

1996年2月のフランス国際では準決勝でタタログルに体落で一本勝ちすると、決勝はクバツキの棄権により優勝を果たした。4月の体重別準決勝では篠原を注意で破るが、決勝で警視庁真喜志慶治に0-3の判定で敗れて2位に終わった。続く全日本選手権では準々決勝で金野に2-1の微妙な内容で判定勝ちすると(ちなみに、当時の全日本監督である山下泰裕はこの試合で主審を務めていたが、金野の方に旗を揚げた)、準決勝では会社の後輩であるJRAの賀持道明を横四方固で破り、決勝では日本道路公団三谷浩一郎から掬投で一本勝ちして2年連続7度目の優勝を飾るとともに、アトランタオリンピック代表に選ばれた[12]。7月のアトランタオリンピックでは、準々決勝でクバツキから先に体落で有効を取るが終了間際に双手刈で有効を取り返されるものの3-0で判定勝ちするが、準決勝でドゥイエ相手に先に内股で有効を取られるがその後はよく攻めたものの結局ポイントを取り返せず敗れ、3位決定戦ではモラーに払巻込で敗れて5位に終わった。9月には全柔連に国際試合強化選手の辞退届けを提出して、現役を引退することとなった。

1997年2月にはJRAを退職してフリー格闘家への転向を表明した。

柔道スタイル[編集]

柔道の特徴としては、左組み手から相手の奥襟を掴んで頭を下げさせながら、7500ccの肺活量にものを言わせてひたすら前に出て技を繰り出して相手のスタミナを消耗させ3分過ぎに仕留めることが少なくなかったことから、所謂3分間柔道と呼ばれることもあった[13][14]。本人によると、自分の技は一瞬のひらめきで出てくるので得意技は特にないとのことだが、内股、小外刈、小外掛、支釣込足、体落、足車などが試合ではよく使われていた。後期になると掬い投げも多用するようになった[6][12]。また、支釣込足で相手を崩して抑込技に移行するパターンもよく見られた。寝技は抑込技が中心で、絞め技関節技はあまり使わなかった[15][16]。学生時代に巻込技は使わないように指導されていたこともあって、巨体ながらそれを使うことはほとんどなかった[11]。相手を問わず一本勝ちで勝利することが多かった反面、外国選手との対戦で負けた場合は一本負けが少なくなかったので、受けの点ではやや不安定な面もあった[17][18]

戦績[編集]

(無差別以外は全て95kg超級での成績)

有力選手との対戦成績[編集]

対戦成績
国籍 選手名 内容
日本の旗 篠原信一 2勝1敗
フランスの旗 ダビド・ドゥイエ 2勝2敗
グルジアの旗 ダヴィド・ハハレイシヴィリ 3勝1敗
ポーランドの旗 ラファウ・クバツキ 2勝1敗
ロシアの旗 セルゲイ・コソロトフ 1勝1敗
ドイツの旗 フランク・モラー 2勝2敗
ベルギーの旗 ハリー・ファンバルネベルト 4勝1敗
ソビエト連邦の旗 グリゴリー・ベリチェフ 1勝
キューバの旗 フランク・モレノ 3勝

(参考資料:ベースボールマガジン社発行の近代柔道バックナンバー、JudoInside.com等)。

プロレス[編集]

UFO入団[編集]

柔道で世界の頂点に立った経歴から、その格闘家としてのポテンシャルの高さが期待され、アントニオ猪木佐山聡の設立したUFOに入団。1997年4月12日にプロ格闘家として必殺技STO(スペース・トルネード・オガワ)をひっさげて新日本プロレスマットに立ち、デビュー戦はノンタイトルながら当時のIWGPヘビー級王者であった橋本真也にSTOからの裸絞めで勝利したが、1か月後の5月3日新日初の大阪ドームでの同王座を賭けた再戦では、橋本から頭部へ蹴りを受け失神KO負けを喫した。この試合が唯一橋本に敗れた試合となった。以後、しばらくはスランプが続き、1997年8月10日の新日ナゴヤドーム大会でグレート・ムタに敗れ、1998年4月4日の猪木の引退試合の対戦相手を決めるトーナメントではドン・フライに敗れ、猪木との試合は叶わなかった。

橋本との抗争[編集]

1999年1月4日[編集]

1999年1月4日、東京ドーム大会(当初、大仁田厚が初の新日本参戦ということで注目を集めていた大会だった)における3度目の橋本戦において、自らをスランプに追い込んだ橋本に対して、ひそかに完全なセメントを小川は仕掛けた。小川は「橋本!死ぬ気があるならあがって来いっ!」と前代未聞の「相手の入場中にマイク挑発」を行い、試合前から不穏な雰囲気が漂った。

試合が始まって間もなく、橋本は小川に不可解なレッグダイブを繰り返した。それは小川をロープ、コーナーに単に押し付け続けるもので、ブレイクを命じられても橋本は意図的に膠着状態を続けた。間に入ったレフェリータイガー服部)を橋本が蹴りつけノーレフェリー状態になると、観客もその試合の異常を感じ始めた。そして小川が強引に橋本を倒しマウントポジションを取り頭部に明らかに「プロレス的」ではないパンチで殴り、後頭部を踏みつけ、逃れようと転がる橋本の無防備な顔面を蹴りつけるとその異様な展開に場内は騒然とした雰囲気となった。最初から橋本のセコンドについていた中西学らだけでなく、当時橋本と敵対していた小原道由までもが小川に詰め寄り、大混乱の中、試合はノーコンテスト(6分58秒)となった。

「プロレス」を行うつもりであったにもかかわらず、不意をつかれた橋本はまともな攻撃もほとんど行えなかった。1人リングを占拠した小川は両腕を水平に広げ走り回るパフォーマンスを見せ(当初飛行機ポーズと言われたが実際はUFOをイメージしたものであった)、「もう終わりかよ! おいおいおいおい、冗談じゃねーぞ、オラァ!」「新日本プロレスのファンの皆様、目を覚ましてください!」とマイクパフォーマンスを行った。ついにはセコンド同士の言い争いに端を発し乱闘が発生、終には当時引退していた長州力がリングサイドのカメラマンを蹴り倒して「これがお前のやり方か?」と小川に詰め寄り、リング内外に前代未聞の大混乱が発生した。こうして小川は「暴走王」として一気にステータスを上げることになる。

この時の乱闘騒ぎはいわゆるアングルではなく、プロレス史上最大級のガチンコの乱闘であったとされる(当時の新日本プロレスで発生していた軍団抗争において、橋本に対して敵対していた軍の人物でさえ、暴走する小川に詰め寄るシーンが記録されている)。また、この時の乱闘は両陣営が顔面を拳で殴打し合い、倒れた人間を集団で踏みつけるなど、通常のプロレスにおけるアングルに従った乱闘ではご法度の危険な行為の応酬となった。事実、村上和成はリング内の混乱の中で飯塚高史に顔面を踏みつけられ、一時昏睡状態に陥るほどの重傷を負い入院に追い込まれている。当時全日本プロレス三沢光晴全日本プロレス中継内で「あれじゃいくら何でもプロレスラーが弱くみられる。もっとプロレスラーは強いんだぞってところを見せてもらわないと困る」とコメント、当時の全日本プロレス中継で新日本プロレスについて語ることは異例中の異例であった。

1999年1月4日以降[編集]

1999年10月11日、社長に就任した藤波辰爾の意向もありNWA世界ヘビー級王座を賭けての試合が決定し橋本と4度目の対戦。橋本がキックで小川を追い込むシーンも見られたがSTOの連発で橋本をグロッキー状態に。何度も立ち上がろうとする橋本を見かね、リングサイドで試合を見守っていたアントニオ猪木がリングに駆け込み、小川を殴り試合を止め、TKO判定により完全に勝利。この試合結果が当日のニュースステーション内で放送されるなど注目された試合であった。 2000年1月4日タッグマッチで橋本・飯塚組と対決。(パートナーは村上和成)試合は橋本・飯塚組が勝利したが、事実上試合は小川VS橋本、村上VS飯塚の図式となって進んだ。翌日のスポーツ紙紙面は試合結果よりも橋本が小川を場外でV1アームロックに捉えたシーンを掲載した。

最後の対戦[編集]

同年4月7日、橋本との5度目の対戦では小川が優位に試合を進めた。橋本の場外からの水面張りの奇襲でペースを乱した小川がKO寸前まで追い込まれるが、突如村上が乱入し試合に水を差した。その後持ち直した小川はDDTで肩を脱臼するも[19]STO6連発で橋本をKOし、引退に追い込んだ。この試合はテレビ朝日でゴールデンタイムに生中継され、その際のコピー「橋本真也34歳小川直也に負けたら即引退スペシャル」という宣伝文句は大きな波紋を呼び、平均視聴率は15.7%、瞬間最高視聴率は24%を超える反響を呼んだ。橋本とのシングル戦は事実上4勝1敗で勝ち越した。橋本は引退したしばらく後、番組の企画で復帰を願う純真な少年ファン(兄弟)の声に応え、引退宣言を撤回し再デビューしている。なお、試合後小川も橋本に対して「引退するかしないかは彼自身が決めること、俺が決めることじゃない。あえて言わせてもらうとすれば、引退なんかするんじゃない」とエールを送っていた。

他団体への参戦[編集]

その後はPRIDEなどの総合格闘技戦にも参戦し、ゲーリー・グッドリッジ佐竹雅昭に勝利した。2000年12月31日、Millennium Fighting Arts INOKI BOM-BA-YE安田忠夫とプロレスルールで対戦し、1分38秒スリーパーホールドでレフェリーストップ勝ち。安田戦直後のインタビューで小川は「もう仲間同士でやりたくないよ」と発言している。

2001年4月に三沢光晴とタッグマッチで対戦(小川、村上vs三沢、力皇猛)。三沢が小川のタックルを切れば、小川は大腰で三沢を投げてマウントを奪うなど、双方がそれぞれの持ち味を生かした見せ場を作った。三沢は小川のマウントを自力で脱出できなかったがタッグマッチということを活かし力皇にカットさせるなど、プロレスラーとしての一日の長を見せた。しかし最後は村上が三沢のバックドロップ気味のジャーマン3連発からあっけなくピンフォールされ、一部の観客からブーイングを浴びた。 2001年5月、新日本のリングで長州力とタッグで対戦し、結果は敗れたものの、グラウンドでは長州を完全にコントロールした。

OH砲誕生へ[編集]

2002年頃から猪木との方向性の違い、元々総合ではなくプロレスラー志向が強かったこと(長州との確執は深刻だった)もあり、主戦場をZERO-ONEのリングに移し、かつての宿敵・橋本真也と「OH砲」を結成。「刈龍怒(かりゅうど)」(小川のSTOと橋本の水面蹴りを合わせた合体技)「オレごと刈れ」(ジャーマン・スープレックスをかける橋本に相手ごとSTOをかける技)といった合体技を開発した。

新日本プロレス時代には大大会のみのスポット参戦が中心だったことから、同時期にデビューしたレスラーに比べてプロレスのキャリア不足は否めなかったが、この頃からバックドロップランニング・ネックブリーカー・ドロップ足4の字固めなどの古典的なプロレス技を身につけ、マイクパフォーマンスが饒舌になり、プロレスラーとして成長した。

ハッスル参戦[編集]

2004年1月から、新しいプロレス大会「ハッスル」に登場。当時のZERO-ONEの掛け声であった「3、2、1、ゼロ、ワーン!」を流用した「3、2、1、ハッスル! ハッスル!」という掛け声とポーズが有名となり、親友で同い年の清原和博や当時自民党幹事長であった安倍晋三もこのポーズを行っている。ハッスル開催に先立つ2003年暮れ、翌1月から本格的にドリームステージエンターテインメントが立ち上げるエンターテインメントプロレス(後にファイティング・オペラ(=ガチンコでは無いショー的な)と称される)ハッスルの記者会見が行われ、ある記者の「ハッスル1開催(2004年1月4日)の直前にPRIDE(これもDSE主催)があるが、それが終了した直後にハッスルが開催されることに興業的に何か影響は無いか?」という質問に対して、DSE社長(当時)の榊原信行が「PRIDEは既に何度か開催しておりますし、ハッスルに関しては(DSEの主催する)プロレス(はガチンコでは無いショー)なんで…」とプロレスを格下扱いした回答をしたために、壇上に同席していた小川が「何がハッスル1だよ。ふざけたこと抜かしやがってプロレスなめてんだろ、お前!」とテーブルをひっくり返し、同じく同席していた橋本真也の制止が無ければ殴りかからんとする暴挙に出たため、記者会見が中止になるという騒ぎで幕を開けた。

ハッスルの普及を目的に、同年4月からのPRIDEグランプリに参戦。ステファン・レコと対戦し左フックでダウンを奪い肩固めによる一本勝ち。ジャイアント・シルバにはパウンドでTKO勝利する。準決勝ではエメリヤーエンコ・ヒョードルと対戦し、1R54秒腕ひしぎ十字固めで一本負け。勝っても負けても試合後はハッスルの宣伝に努め、観客と共にハッスルポーズの大合唱をした。ヒョードル戦は敗れたが、試合後に会場外で行われたハッスルPRイベントに集まったファンが、熱烈な小川コールを送った。

PRIDEでの敗退後、高田総統に「54秒で負けたという理由で出場停止にしたらどうだ」という言い分により、小川は54日間のハッスルへの出場停止となった。しかし、ハッスル5では、小川直也ではなく、「キャプテン・オー(のちにジュードー・オー)」としてメインに出場した。

同年9月にシングルCD「ハッスル音頭」を発売し、テレビの歌番組にも出演する。なお、2005年6月には、同じシングルCD「勝手に侵略者」(テレビ東京系アニメ「ケロロ軍曹」の4代目エンディングテーマ曲)を岩佐真悠子とのデュエットで発売している。同年11月にはフォトエッセイ(写真集)「裸の選択」を発売。リング上だけでは分かり得ないプロレスラーの表情を伝えている。

2005年12月31日、「PRIDE 男祭り 2005」のメインイベントで吉田秀彦戦が行われた。この年の7月に突然の病気で亡くなった戦友・橋本真也の「爆勝宣言」の前奏が流れ、登場。その後は小川のオリジナルテーマが流れるが、エレベーターを降り花道に足を踏み入れた瞬間、「爆勝宣言」に曲が変わった。前奏が鳴ると共に観客の驚きの声、そして「爆勝宣言」が場内に鳴り響くと観客達は「爆勝宣言」に合わせてハシモト(またはオガワ)コールを叫んだ。曲が変わった直後、小川は一瞬こみ上げるものがあり表情が崩れている。

試合は吉田に腕ひしぎ十字固めでレフェリーストップ負けを喫してしまったが、試合後のリング上、マイクで、実は試合序盤の吉田のヒールホールドで「足(の骨が)、折れちまったよ」と告白した(試合中骨が折れる音をマイクが拾っている)。それを堪えながら、誰にも気付かれないように試合をしていたことを知った観客や視聴者は驚きの声を上げた。

最後には吉田自身の信念により拒否こそされたものの、まともに立てない状態ながらハッスルポーズを決め、「PRIDE 男祭り 2005」を締めた。このことに関しては吉田も後のインタビューで、自分ならばあのような状態では戦えないと語っており小川の力と根性に対しては一定の理解を示した。ちなみに吉田のインタビュー中に小川は退場する途中でもハッスルをしている。また小川は吉田に対しては後のインタビューで、あいつは勝ち負けが全てだが、頑張っているあいつの人生についても認めているよと理解していた。

なお、小川が橋本と「ハッスル」を立ち上げる際に、2人で2003年12月31日PRIDE 男祭り 2003でPRIDEに乗りこんでいる。

2007年6月、ハッスル軍に造反し、高田総統にハッスルを買収をさせ、裏切って、高田モンスター軍に移籍。高田総統から「ハッスルから休養させる」と命じられ、本人はそれを受理、一時的に離脱した。

IGF[編集]

2007年6月29日、アントニオ猪木のIGF旗揚げ戦「闘今 BOM-BA-YE」でプロレス復帰。マーク・コールマンに6分44秒スリーパーホールドで勝利。

2007年12月20日、IGF「GENOME2」のメインイベントで安田忠夫と対戦。レフェリーにまで暴行を加え、師匠のアントニオ猪木に造反するものの、裸絞めで失神させられた。

2008年2月16日、IGF「GENOME3」でジョシュ・バーネットと対戦、4分48秒腕ひしぎ十字固めで一本負けを喫するも、ロープに手がかかっていたと小川が抗議。すぐに再戦が行われ、5分13秒STOボンバーからの片エビ固めで勝利を収めたが、試合後は乱闘となり、また来場した田村潔司とも小競り合いとなり波紋を残した。同年3月5日、戦極開幕戦に来場しジョシュの試合を観戦したが大きなアクションは起さなかった。

2010年7月、筑波大学大学院人間総合科学研究科博士前期課程コーチング学専攻に合格。ジャンボ鶴田と全く同じ学科・専攻の後輩となる。2011年4月より同大学にて岡田弘隆の指導を受け、柔道指導者としての理論を学んだ[20]。なおプロレスラーとしての活動も継続しており、同年8月27日に行われた「INOKI GENOME 〜Super Stars Festival 2011〜」では澤田敦士との対戦で久々にリングに上った。

2012年12月31日INOKI BOM-BA-YE 2012藤田和之と対戦したが、レフェリーストップ負けを喫した。2013年3月、筑波大学大学院を修了[21]

総合格闘技[編集]

総合格闘技 戦績
9 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
7 2 5 0 0 0 0
2 0 2 0 0
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
× 吉田秀彦 1R 6:04 TKO(腕ひしぎ十字固め) PRIDE 男祭り 2005 頂-ITADAKI- 2005年12月31日
× エメリヤーエンコ・ヒョードル 1R 0:54 腕ひしぎ十字固め PRIDE GRANDPRIX 2004 決勝戦
【ヘビー級GP 準決勝】
2004年8月15日
ジャイアント・シルバ 1R 3:29 TKO(グラウンドでのパンチ) PRIDE GRANDPRIX 2004 2nd ROUND
【ヘビー級GP 準々決勝】
2004年6月20日
ステファン・レコ 1R 1:34 肩固め PRIDE GRANDPRIX 2004 開幕戦
【1回戦】
2004年4月25日
マット・ガファリ 1R 1:56 TKO(レフェリーストップ:左ストレート) UFO LEGEND 2002年8月8日
佐竹雅昭 2R 2:01 スリーパーホールド PRIDE.11 2000年10月31日
Rob Peters サブミッション UFO Europe - Free Fight Gala 1999年11月28日
ゲーリー・グッドリッジ 2R 0:36 V1アームロック PRIDE.6 1999年7月4日
Rens Vrolijk 1R チョークスリーパー Red Devil Free Fight 1 1999年9月27日

人物[編集]

  • バルセロナオリンピックでは銀メダルに終わったことで、表彰台では終始俯き加減な態度だったために、マスコミや世間から激しいバッシングを受けたことがある[10][22]
  • 柔道家時代は寡黙で口数の少ない印象で知られた。プロレスラーとなってからは積極的なパフォーマンスでイメージ・チェンジに成功したが、普段は大変温厚で「クソ真面目」と言われるほどの人物らしくタレントに「メチャクチャ優しい人」と言われた。小川と同様に柔道家から格闘家に転向した吉田秀彦も、「派手なパフォーマンスとかギャグとか、あんなに話せる人だとは思わなかった」と柔道家時代とのギャップに驚いた旨を語っている。
  • 2004年にPRIDEに参戦して連勝した後、世間の注目が上がりCMの依頼も殺到した。同年、JRAゴールデンジュビリーキャンペーンのメインイベント・ジャパンカップ当日には東京競馬場に退職後初めてJRA主催のイベントに訪れてスピーチを行った。
  • 2005年2月11日、ハッスルでインリン様に敗戦した時は、「プロレスとはいえ元柔道世界チャンピオンの面汚しだ」等の批判も聞かれた。
  • 2007年現在、高額納税者番付のスポーツ選手部門に公示ランクインした最後のプロレスラーである。納税額からその年の小川の年収が億単位にも上っていたことが推定されたため、小川の(特にハッスルにおける)ギャラが当時のファンやプロレスマスコミの間で話題となった。
  • 大のディズニー好き・ディズニー通として知られており、東京ディズニーランド東京ディズニーシーの特集番組などにしばしば出演している。ディズニー・チャンネルの『ディズニーパラダイス』では番組の最終回に出演したが、正規のゲストとしてではなく、小川がプライベート[23]でロケ地の東京ディズニーランドにいたため、急遽のゲスト参加として登場した。
  • 巨人ファンである(特に清原和博のファン)。
  • また出身地ではないが、現在居住中の茅ヶ崎市を愛しており、2006年4月には市内に小川道場を開設したのを始め、市主催の成人式サザンオールスターズの茅ヶ崎凱旋ライブ(茅ヶ崎ライブ 〜あなただけの茅ヶ崎〜)にゲストとして参加している。2013年5月には全国少年柔道大会団体戦で優勝を勝ち取るまでになった[24]
  • 後に2008年北京オリンピックの柔道男子100キロ超級で金メダルを取ることになる石井慧が高校生時代、稽古をつけてもらいに小川の元を訪ねたことがある。小川は当初、石井に口もきかなかったが、そのうちに「ハートがいい」と認めた。以後石井とは親交が続いており、北京オリンピック直後には、石井に「『破壊なくして創造はなし』という橋本の精神を継いで欲しい」として「真・破壊王」の称号を与えたほど[25]。しかし、石井が総合格闘技に転向した際、「お前が石井をそそのかしたんだろうと周囲の人間に言われたが、俺が一番(石井の総合転向に)反対した」とコメントしている。
  • 2008年9月28日には石井慧が北京オリンピックで獲得した金メダルを小川道場に寄贈した。寄贈後に石井が大外刈りを披露すると、小川は石井の大外刈りを「STI(スペース・トルネード・イシイ)」と命名した[26]
  • 橋本真也が亡くなった原因はファースト・オン・ステージにあるという疑念を持っており、ZERO1とは二度と絡みたくないことをGENOME13に不参戦を表明した際ブログで明かしている。一方、FOS側は中村祥之がブログ上でGENOME13に参戦オファーはない表明しており、その上で「プロレスのことは忘れてもらって大学に通っててください」とコメントを返している。

得意技[編集]

STO
正式名称は『スペース・トルネード・オガワ』。柔道の大外刈りを発展させた技。相手の首に腕を回した状態で、足を思いきり刈り上げて後頭部から落とす技。これをさらに発展させた物としてSTOボンバー(ランニング式。アックスボンバーと組み合わせた物とも)がある。橋本真也との合体技でもこの技を基本としている物が多い。
裸絞め
いわゆるスリーパーホールド。小川が柔道出身のため、彼の場合はこの表記が主に用いられる。
GTO
正式名称は『グラント・トルネード・オガワ』。胴絞め式の片羽締め。
ハッスル投げ
正対して組んだ相手と「スリー、ツー、ワン」のカウントダウンに合わせてサイドステップを踏み、直後に足払いを仕掛けてハッスルポーズを決める。
払い腰
巴投げ
いずれも柔道をバックボーンとした技。
バックドロップ
ランニング・ネックブリーカー・ドロップ
足4の字固め
古典的なプロレス技だが、小川が「プロレスラー」としての幅を広げた技でもある。
スーパーセレブ
ハッスル軍から高田モンスター軍に鞍替えして以後の必殺技。カナディアン・バックブリーカーの体制で相手を担ぎ上げ、パワーボムの要領で一気にマットへ投げ落とす。

入場曲[編集]

  • 「S.T.O」
  • 「ハッスルトレイン」(未発売)
  • 「Fighting Artists 〜Next One〜」(未発売)
  • 「ギャラクシー・エクスプレス」(国吉良一、オリジナルは子門真人のアルバムに収録)(NWA世界ヘビー級王者のテーマ。NWA世界ヘビー級王者&セレブ小川時に使用)
  • 「風の音(効果音)」(デビュー当時。入場曲が未完成だったため、風の音を入場時に流した)
格闘技番組『リングの魂』の中で「ノリが悪い入場曲」の一例として挙げられたことがある。同番組の司会者を務めていた南原清隆も「風の音じゃちょっとノレませんよね」とコメントした。
  • 「爆勝宣言」(橋本真也の代名詞とも言える曲で、橋本の死後、ここ一番の大試合にのみ使用。これまでにこの曲が使用されたのは吉田秀彦戦、IGF旗揚げ大会でのマーク・コールマン戦、オールスター感謝祭のぬるぬる大相撲など)

タイトル歴[編集]

柔道時代の戴冠歴は柔道の項を参照。プロ格闘家、プロレスラーでのタイトルを並べる。

NWA
2回(&橋本真也)

メディア出演[編集]

映画[編集]

  • 映画「40歳問題」出演。
  • 「ウルヴァリン: SAMURAI」(2013):やくざ1

テレビ[編集]

ドラマ[編集]

CM[編集]

声優[編集]

パチンコ[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 「SPECIAL CLOSE-UP 小川と古賀」近代柔道 ベースボールマガジン社、1990年7月号、3頁ー8項
  2. ^ 「The Turning Point 終わり、始まる。」近代柔道 ベースボールマガジン社、1990年4月号、3頁ー10項
  3. ^ 「全日本王者小川 現役引退」近代柔道 ベースボールマガジン社、1996年11月号、78頁
  4. ^ 「第5回正力松太郎杯国際学生柔道大会」近代柔道 ベースボールマガジン社、1987年3月号、34頁ー38項
  5. ^ 「特集 男女世界選手権大会 Part3」近代柔道 ベースボールマガジン社、1988年1月号、50頁ー55項
  6. ^ a b 「WINNER'S INTERVIEW 全日本2連覇・小川直也5段」近代柔道 ベースボールマガジン社、1990年6月号、52頁ー55項
  7. ^ 「特集 1991年男女世界選手権大会 Part5」近代柔道 ベースボールマガジン社、1991年9月号、50頁ー54項
  8. ^ 「男子柔道 小川直也」 特選外車情報 F-ROAD スターライトヒーロー マガジンボックス社、1992年7月号増刊、83頁ー85項
  9. ^ 「スペシャルインタビュー 小川直也」近代柔道 ベースボールマガジン社、1992年11月号、54頁ー58項
  10. ^ a b 「全日本選手権V5 小川直也 スペシャルインタビュー」近代柔道 ベースボールマガジン社、1993年6月号、38頁ー43項
  11. ^ a b 「小川直也 引退特集 ザ・師弟対談 小川直也&原吉実」近代柔道 ベースボールマガジン社、1996年12月号、54頁ー57項
  12. ^ a b 「平成8年全日本柔道選手権大会」 近代柔道 ベースボールマガジン社、1996年6月号、3頁ー40項
  13. ^ 「別冊付録 バルセロナ五輪テレビ観戦ガイド」近代柔道 ベースボールマガジン社、1992年8月号、8項
  14. ^ 完全保存版 テレビ観戦ガイド Sports Graphic Number 1992年7月6日 67項
  15. ^ 「徹底分析 日本VS世界の重量級」 近代柔道 ベースボールマガジン社、1995年6月号、24頁ー28項
  16. ^ なぜプロレスにこだわるのか 小川直也 拭えない総合格闘技への違和感 Sports Graphic Number 2004年7月1日
  17. ^ 「特集 第25回オリンピックバルセロナ大会柔道競技」近代柔道 ベースボールマガジン社、1992年9月号、61項
  18. ^ 「柔道時評 小川復活への道」近代柔道 ベースボールマガジン社、1993年1月号、48項
  19. ^ 脱臼した肩が橋本のDDTで再び入ったという幸運も味方した
  20. ^ 筑波大学大学院に合格!オレは“三足のわらじ”だ - 東京スポーツ・2010年7月16日
  21. ^ 小川が筑波大大学院を卒業 - 東京スポーツ・2013年3月26日
  22. ^ 小川 直也 NAOYA OGAWA IGFプロレスリング
  23. ^ この時、出演した小川と司会者の森公美子が「プライベートで〜」という言葉を番組中何回か言っていたため。この登場の出演は番組中初でもある。
  24. ^ 全国少年柔道、団体戦は神奈川の小川道場がV 読売新聞 2013年5月5日
  25. ^ 東京スポーツ・2008年8月30日付 1面
  26. ^ 柔道・石井慧、小川道場に金メダル贈る 産経新聞 2008年9月29日付

関連項目[編集]

外部リンク[編集]