宮古島

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宮古島
Miyakojima sky view.jpg
池間島(手前)方向から宮古島を望む
座標 北緯24度48分17秒
東経125度16分52秒
面積 159.22 km²
海岸線長 117.5 km
最高標高 115 m
所在海域 太平洋東シナ海
所属諸島 宮古諸島
所属国・地域 日本の旗 日本沖縄県宮古島市
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宮古島(みやこじま)は、沖縄本島から南西に約300km、東経125度、北緯24度に位置し、太平洋東シナ海の間にあるである。南西諸島西部の島嶼宮古諸島に属し、先島諸島の一部を成している。面積は159.22km²[1]で、沖縄県内では、沖縄本島、西表島石垣島に次いで4番目に広い。

または同島に加え、伊良部島下地島池間島来間島大神島を含めた宮古島市のことも指す。

目次

[編集] 名前の由来

池間大橋(池間島より宮古島方向を望む)

「宮古島」という名称は、方言名「ミャーク」もしくは「ミヤク」という音に当てられた言葉である。

ミヤコの名称が歴史上初めて登場するのは、中国時代(13世紀)の歴史書『元史』の『温州府誌』からであり、「婆羅公管下密牙古人(ブラコウカンカミヤコジン)」が温州に漂着したと記述されている。「婆羅公(ブラコウ)」とは、城辺字保良を統治していた豪族のことだといわれている。

600年以上の歴史を持つ池間島(字池間・字前里)・狩俣地区(字狩俣)に残されたアヤグ(宮古方言での詩歌のこと)によると、ミヤコ(ミャーク)とは「人(自分自身)の住んでいる所(地域・集落)」という意味である。この場合、言葉の由来は言葉の音によって「ミ(自分)」「ヤ(住んでいる)」「ク(場所・村)」の意味に分けられる。

16世紀頃から、宮古島に住んでいた人々は、自らの住んでいるところをミャークまたはピサラ(平良)と呼ぶようになり、一時期はピサラ島とも呼んだ。しかし、ピサラ(平良)が荷川取・西仲宗根・東仲宗根・西里・下里の5ヵ村(字)を指す名称として定着するようになると、再び島全体がミャークという名称で呼ばれるようになった。

ちなみに、ミャークの漢字表記は中国や琉球王国の史書に記録されたものゆえ、「密牙古」「麻姑」「宮古」と聞き様の変化で多彩な当て字がなされたと考えられる。

[編集] 地理

直角三角形のような形をした島で、北を上にした普段地図で見慣れた形だと分かりにくいが、旧下地町方(来間島方)を下にすると「猛禽類がはばたく姿」に見える。南東端に東平安名岬が、北西端に西平安名岬がある。島の北西には池間島があり、北には大神島がある。また、島の西には伊良部島下地島が、南西には来間島が浮かんでいる。池間島及び来間島とは、橋で結ばれている(池間大橋1,425m、来間大橋1,690m)。また、沖合5kmにある伊良部島への伊良部大橋も着工している(2012年(平成24年)度開通予定、本橋部分3,540m)。

主として石灰岩からなる台地の島で、全般に平坦。最高地点のンキャフス嶺(旧城辺町砂川小学校付近)とナカオ嶺(旧城辺町比嘉集落付近)でも標高115mである。古い文献等では島の中央部に聳える野原岳(標高108.6m)が最高地点とされていたが、後の精密な測量により最高地点ではないことがわかっている。川らしい川はないが地下水が豊富であり、上水道の水源として湧水や地下水が利用されている。地下水を堰き止める福里ダム砂川ダムなどの地下ダムが建設された。

島の北側の海域には、「八重干瀬(ヤビジ、ヤエビシ)」と呼ばれる、宮古島の面積の3分の1に及ぶ浅瀬が広がっており、珊瑚が群生する漁場・ダイビングスポットとなっている。大潮の干潮時には海面から露出し、広大な島のようになることがある。八重干瀬沖には、台風の影響でごく稀に、バラス島(珊瑚の死骸が寄せ集められ島になる)が出現する時がある。

宮古島を含め、池間島、大神島、伊良部島、下地島、来間島、多良間島水納島を合わせて、宮古列島と呼んでいる。1995年(平成7年)に不動産登記が行われた無人島フデ岩を含めると、宮古列島の島は9つになる。海を隔てた南西側250kmには八重山列島、さらには台湾がある。

天気予報では「宮古島地方」という場合と「宮古島」という場合とがあるが、「宮古島地方」は宮古列島全域のことを指し、「宮古島」は宮古島地方のうち多良間村(多良間島及び水納島)を除く地域を指す。

航空自衛隊の宮古島分屯基地がおかれ、レーダーサイトによる警戒を行っている。近年、南西諸島は尖閣諸島問題を初め、中国と緊張が高まっており、各島への警戒部隊の増強が検討されている。

[編集] 地質

宮古島の地質は、上から島尻マージ(赤土)、琉球石灰岩島尻層泥岩からなる。琉球石灰岩は海水準変動沈降により浅い海底となった時にサンゴ礁が発達してできたもので、厚い層をなしており、旧上野村付近で厚さ50メートル、島の北東部においては120メートルに達する。基盤となっている島尻層泥岩は島の北東部にわずかに露出する。琉球石灰岩は多くの空隙を含んでおり、水を通しやすいため、地表を流れる大きな川はない。宮古島周辺で海の透明度が高いのは、河川水を通じて泥などが流入しないためといわれる。島の北西から南東へ数条の活断層が延びており、断層に沿って幅約100メートル、高さ約30メートルの石灰岩からなる堤防状地形が見られる。この地形は断層によって露出した部分が浸食されにくいという琉球石灰岩の性質によってできたものであり、東側が急斜面、西側が緩斜面となっている[2][3][4]

[編集] 気候

宮古島市
気候表(説明
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気温(℃)
総降水量(mm)
出典:宮古島地方気象台平年値

熱帯雨林気候(Af)に属する。気象庁1971年(昭和46年) - 2000年(平成12年)の平年値では最寒月平均気温が17.7°Cで、18℃をやや下回り温帯湿潤気候に属していたが、1981年(昭和56年) - 2010年(平成22年)の平年値で最寒月平均気温が18.0℃となり熱帯雨林気候の条件を満たした。

  • 宮古島地方気象台宮古島市平良字下里 
    • 位置:北緯24度47.6分、東経125度16.6分、39.9メートル
    • 年平均気温23.6°C(1981 - 2010年累年平均)
    • 最寒月平均気温18.0°C(1月)
    • 乾燥限界612mm<年平均降水量2021.0mm
    • 最少雨月降水量130.8mm(1月、7月)

[編集] 生物

琉球諸島の面積の大きい島の中では、唯一のハブが生息しない島である。これは、標高が低いため、過去の海進の時に水没し、それ以来は他の島と陸続きになる機会がなかったためとされる。しかしながら、ミヤコカナヘビミヤコサワガニなどの固有の陸生・陸水動物が分布することや、絶滅した大型のシカ類であるミヤコノロジカの化石が発掘されることから、本当に水没したかどうか疑問が持たれている[5][6]

島全体が低い丘陵地で、森林は海岸性のものがわずかにある程度である。固有種は少ないが、カタツムリや植物がいくつか知られている。

宮古島の名を持つ生物に、以下のようなものがある。

[編集] 歴史

[編集] 有史以前

最終氷期には120mも海水面が低下していた為現在宮古島のある場所は、アジア大陸と陸続きであった。

1979年(昭和54年)、旧上野村字野原にあるピンザ・アブ(宮古方言で「山羊の穴」)と呼ばれる洞穴で、約2万6000年前の化石人骨が発見され、ピンザアブ洞人と命名された。沖縄本島の港川人よりも古く、後頭骨については港川人に共通するもので、更新世の後期には宮古島に人類がいた可能性が指摘されている。

おおよそ1万5千年に氷河期が終わると、現在宮古島がある場所の大半は海に沈んだと推測されている。 氷河期が終わった後の地層は、石灰岩が多く含まれている為、サンゴ礁が発達できるほど温暖な気候が続いたと思われる。 現在の宮古島は、地質学的に比較的新しい島であり、約1万5千年前から4千年前にでき上がった隆起珊瑚礁の島である。

宮古島の南東側の海岸線にある新石器時代・約2500年前の砂丘遺跡からは、シャコ貝で作られた斧やイモガイで作られたアクセサリーなどが出土する。しかし、その当時どの様な人々が住んでいたかは、人骨等の直接人に関わる考古学上の発見がないため不明である。沖縄本島奄美大島からは、同時代の遺跡からは同様な貝製品は出土せず、台湾やフィリピン等の同時代の遺跡からは貝製品が出土するため、沖縄本島よりも台湾やフィリピン等の南方との関連があったと考えられている。

宮古島に関わるもっとも古い文献は、中国の元の時代の歴史書『元史』「温州府志」である。婆羅公管下密牙古人が温州に漂着したとある。婆羅とは、現在の城辺町字保良のことだと言われている。およそ12世紀頃から、農耕が盛んになり地域をまとめるリーダーが誕生し、積極的に海に乗り出し交易を行っていた。その当時の人々の多くは、丘陵地に集落を作り住んでいた。約2500年前の砂丘遺跡でシャコ貝製のを残した人々が、時代を経て丘陵地に移り住んだと考える説もある。

[編集] 古琉球時代

琉球王国の正史、『球陽』によれば、1388年に宮古島の豪族・与那覇勢頭豊見親真佐久(よなはせどとぅゆみゃまさく)という人物が中山国に上がり、1390年に中山王察度に八重山の使者と共に朝貢を行い臣下の礼をとるとある。このことから通常14~15世紀には、宮古八重山地域も琉球王国の支配下に入ったとする説もある。この15世紀ごろの宮古島の有力な豪族達は、琉球王国(中山国)の力を後ろ盾にして、八重山群島にまで勢力を伸ばそうとしていた。「豊見親(とぅゆみゃ)」とは名高き領主という意味で、宮古島群島の地域の豪族をまとめる人物に称号として与えられた。

1500年に、八重山の人々はオヤケアカハチをリーダーにしてオヤケアカハチの乱が起きる。その原因は、時の琉球国王・尚真王が、八重山で行われていた伊里機屋安真理(いりきやあまり)神への信仰と祭礼を禁止する命令を出したことにあるとする説もあるが、一方で、信仰禁止は1678年であったとの記録も残っている。この反乱の鎮圧に功績をあげた仲宗根豊見親(なかそねとぅゆみゃ)は、琉球国王より宮古島の頭職に任じられた。そして、その次男・祭金(まつりかね)は、八重山守護職に任じられたが、1504年に祭金は病死したので、三男の知利真良豊見親(ちりまらとぅゆみゃ)が、その後任となった。

1522年には、与那国島で鬼虎が乱を起こしたがこれもまた仲宗根豊見親に鎮圧された。琉球王国の力を背景にして仲宗根豊見親は、武力で宮古と八重山を支配下に納めた。

以後、19世紀・琉球処分までの約380年間、仲宗根豊見親の子孫・忠導氏(ちゅうどううじ)。知利真良豊見親の子孫・宮金氏(ンミャガーニうじ)。与那覇勢頭豊見親の子孫・白川氏(しらかわうじ)の3つの氏族が門閥を作り、宮古島の頭職をはじめ多くの官職をその子孫達が占めるようになった。

仲宗根豊見親の死後、宮古島の頭職を仲宗根豊見親の長男・仲屋金盛(なかやかなもり)豊見親が、継承した。しかし、人々の名声は現在の城辺町字友利の豪族で勇知に優れ、善政を行った金志川那喜太知(きんすかーなぎたつ)豊見親に集まった。1532年、金志川への誹謗中傷を信じた仲屋金盛は、金志川那喜太知をだまし討ちに掛け殺してしまう。この事件を「大嶽城の変」と呼んでいる。この事件がきっかけとなり「豊見親」の称号は琉球国王の命令で廃止され、仲屋金盛は自殺を命じられた。以後、宮古島は琉球王府より平良大首里大屋子(うぷしゅりうぷやぐ・琉球国王の代官)と下地大首里大屋子が二人の頭職として任命され統治に当たった。この時をもって、宮古群島と八重山群島は、実質的な琉球王国の支配下に入ったと見なしている。

[編集] 琉球王府時代

  • 1609年 - 薩摩藩・島津氏が琉球王国を武力で侵略し征服する(慶長の役)。
  • 1611年 - 琉球王府それまで2人であった頭職を3人にし、八重山宮古郡を検地を行う。
  • 1628年 - 島内が平良、砂川、下地の3つの間切に分けられ、この行政区分は明治末期まで続いた。

明治以降については、平良市#歴史及び宮古島市#沿革参照。

[編集] 明治~昭和初期

[編集] 第二次世界大戦中(沖縄戦)

  • 1944年(昭和19年)後半より基地建設がはじまる。宮古島には3万人の兵力が派遣された。
  • 1945年(昭和20年)2月10日に大規模な艦砲射撃が行われる。
  • 1945年(昭和20年)2月28日に軍事物資を乗せた輸送船が米軍の攻撃により3隻沈められる。それ以後、制海権を米英軍が握っていたため軍事物資を運ぶ船の行き来が出来無いようになる。いわゆる兵糧攻めの形になる。終戦までにおおよそ3千人の餓死者が発生した。

[編集] 第二次世界大戦後

[編集] 平成時代

[編集] 島内の市町村

[編集] 交通

  • 空港
  • 港湾
    • 平良港 - 伊良部島、多良間島など周辺の島々や、那覇や石垣、そして本土に渡る港。
    • 島尻漁港 - 大神島に渡るための定期船がある。

[編集] 防衛

航空自衛隊のレーダーサイト基地である宮古島分屯基地が置かれ、南西諸島に接近する航空機を監視している。

南西諸島は尖閣諸島問題台湾有事のような近隣の有事に巻き込まれる蓋然性が高い。さらに中国海軍の外洋進出に対し、太平洋側への通過を制限しうる要衝である。 そのため、戦略的な重要性が高まっており、防衛大綱において南西諸島の防衛力を強化することが盛り込まれている。

[編集] 放送

[編集] 文化

パーントゥ(宮古島総合博物館の展示)

現在宮古島に住んでいる人々のルーツは、日本各地からやってきた人々、中国大陸東海岸からやってきた人々、太平洋方面からやってきた人々、東南アジア方面からやってきた人々がいると考えられている。その名残なのか宮古島には、日本本土や沖縄本島とも異なる独自の文化が多く残っている。

[編集] 神話

宮古島が島の形もなしていない太古、天帝(あめのてだ)が天の岩柱の端を折り、弥久美神(やぐみのかみ)に授け、「下界の風よからんところに島を造りなせ」と命じ、天の夜虹橋(あめのゆのづはず)から下界の大海原に岩柱を投げさせ、固まったのが今の宮古島となった。天帝は次いで赤土を下し、古意角(こいつの)神に「下界に降りて人の世を建てて守護神となれ」と命じたが、古意角が「我に足らざる片つからだを賜え」、天帝「汝六根五躰を備う、また何の不足かあらん」、古意角「すべてあればあり、陰あれば必ず陽あり」との問答を経て、天帝はようやく古意角の願いを入れ、女神の姑依玉(こいたま)の共を認めた。

古意角・姑依玉の両神は、豪勇の盛加神(もりかのかみ)を始めとした八十神百神(やそかむももかむ)を連れて天の夜虹橋を渡り、七色の綾雲に乗って地上に降った。彼らは漲水天久崎(ぴゃるみずあめくざき)の地(漲水御嶽の東側にあった岬、現在は埋め立てられている)に宮居を定め、宗達(むにだる)・嘉玉(かだま)の男女児が生まれた。また、島は赤土ばかりであったので、天帝が再度黒土を下し、宮古島は五穀が実るようになった。

十幾年かが過ぎ、宗達・嘉玉が大きくなった頃、天帝は葉を身にまとった木装神(きそうのかみ)という男神、青草を身にまとった草装神(ふさそうのかみ)なる女神を下した。それぞれ宗達・嘉玉の夫婦となり、東地・西地に住んだ。彼らが住んだこの地は、現在の東仲宗根・西仲宗根という。宗達夫婦は世直真主(たよなおしのまぬす)なる男児を、嘉玉夫婦は素意麻娘(そいまらつかさ)なる女児を産んだ。のち、この二神が夫婦となり、子孫が栄え、宮古島民の祖となったと云う。

この伝説が初めて記述されたのは、18世紀の初めに書かれた『御嶽由来記』と言う宮古島の伝説をまとめた本である。

[編集] アヤグ(綾語)とクイチャー(声合)

アヤグ若しくはアーグとは、宮古方言を用いた詩歌のことである。宮古島だけのものではないので宮古列島#アヤゴ(アヤグ)も参照のこと。

クイチャーとは、クイチャーアーグの省略のことである。標準語に直訳すると、「アヤグの声に(クイ)合わせ(チャー)」という意味である。アーグ(歌)に合わせた踊りのことで、踊られる地域若しくは、歌の内容によって様々な振り付けがある。

[編集] 御嶽への信仰

御嶽は、「うたき」又は「おたけ」と発音する。宮古島では、各村々によって「う」の発音が違うため、両方の発音が存在する。

宮古群島には、約900近い御嶽が存在している。古くから信仰の対象として人々が祭祀を行う聖地は存在していた様であり、それらの聖地は様々な名称で呼ばれていたようである。しかし、15世紀から16世紀に琉球王国の支配が強固になり、琉球王国領内の土着の聖地を御嶽と名付け、体系化し、王家(尚氏)と関連づけ、神女制度を整えた。御嶽とは、琉球の聖地で、本土の神社に相当する。しかし、神社とは全く異なった祭祀儀礼を行う。祭祀集団は地縁血縁で組織され、御嶽の中へは、祭祀を行う時以外入ってはいけないとされている。一般の人々も、神社でそうするようには参拝を行わない。ただし、明治時代から昭和の初期に地域の文化を否定し、日本全国を均一化しようとした運動があり、その中で神社化された御嶽は例外となっている。

御嶽への信仰は、「生命が自然界と人間社会を循環している」との思想に基づくものである。そのため、御嶽の領域内に生えている植物を切ってはならないと言うタブーが存在し、そのため、広い領域を持った御嶽の周辺には、御嶽林(うたきりん)と呼ばれる植生が生育していることがある。各々の御嶽にはさまざまな神々が祀られている。島の創造神・精霊・村の守護神・歴史上の偉人・氏神などである。なお、「島尻のパーントゥ」で有名な「パーントゥ・プナハ」も、神々がパーントゥに姿を変えて、元(ムトゥ・氏神を祭る家)の祭礼に現れるというものである(下記#外部リンクのサイトも参照)。

御嶽への信仰が成り立っていた条件は、琉球王府時代に、その人物が所属する村(字)内での結婚しか認められなかったこと、及び、住居の移動が禁止されていたことによって、より強固な祭祀集団が結成できたことと、「御嶽の中には入ってはいけない」という強力なタブーが存在してきたことにある。近年は、社会的な状況が変わり、これらの条件が無くなってしまい、御嶽への信仰もかつてのようには盛んではない。

[編集] 芋の伝来

1594年に長眞氏旨屋(ちょうしんうじしや・琉球王国の官吏であり、後の役職は砂川親雲上)もしくは、ウプザ・ガーラ(標準語に直訳すれば・大座のカシラ)(字松原出身の船頭)という人物が、沖縄本島より宮古島への航海中、嵐に遭い、の福州(福建省)まで漂流し、1597年にそこから金藷という品種の甘藷(サツマイモ)を持ち帰ったという伝承がある。真実であれば、宮古島が現在の日本国の領域内(歴史上、宮古島が日本領となるのは、1609年薩摩藩の侵略以後)で最も早く甘藷が伝来した場所になる。

これは、沖縄本島読谷村に野国総監が甘藷を伝えたよりも、7年も早い。109年後の1706年に、宮古島・蔵元より琉球王府に報告された『御嶽由来記』という書物に記されている。しかし、『御嶽由来記』は、宮古島の神話伝説を記述した本であり、明国・福州にルソンより甘藷が伝来したのは、旨屋が福建省に漂着したのと同じ1594年のことであるから、その真実性を疑問視されている。またこの甘藷が、宮古島を経由して他の地域へ伝わったということは、伝わっていない。

ちなみに、長眞氏旨屋(字松原・字久貝では、ウプザ・ガーラ)に対して、宮古島の人々は、ンムヌシュウ(宮古方言)(芋の主・甘藷神)として、芋報礼(ンムプーリ)という感謝祭を昭和の中頃まで捧げていた。しかし、宮古島でのサツマイモの栽培が廃れると、次第にこのンムプーリも盛大には行われなくなった。

[編集] 観光

[編集] 名所・旧跡・観光スポット

砂山ビーチ

[編集] ドイツ商船遭難事件

1873年(明治6年)7月9日、宮古島南岸、上野村沖で、ドイツ商船「R・J・ロベルトソン号(エドヴァルド・ヘルンツハイム船長)」が、台風のため座礁した。この船は中国の福建でを積み、オーストラリアアデレードへ向かう途中だった。

船はマスト2本が折れ、船員2名が死亡、ボート2艘も流失し、干潟に乗り上げた状態で座礁。近海を航行していたイギリス船が座礁を目撃し、小船を出して救出しようとしたが、高波のため断念した。ほぼ同じ時期に島の役人も座礁を発見し、船を出そうとしたものの、夜間で高波のため断念、島民は沿岸に篝火を焚いて、座礁船に残る乗組員を励まし続けた。

翌朝、まだ高い波の中、小船2艘を出し、船に残っていた1艘と合わせた3艘のボートに生存者8名(ドイツ人6名、うち女性1名、中国人2名)を救出した。

役人は役場を宿泊所として提供、自らはその周りに仮小屋を立てて過ごした。当時の島民の主食はキビだったが、遭難者にはや鶏肉を与え、看護し続けた。

34日間を宮古島で過ごした後、彼らは台湾基隆へ渡り、イギリスの汽船で中国へ、中国から祖国ドイツに帰ることができた。船長がこの一連の遭難話を「ドイツ商船 R.Jロベルトソン号宮古島漂着記」と題して新聞に公表したところ、大反響を呼び、時の皇帝ヴィルヘルム1世が知るところとなった。その博愛精神に感動した皇帝は、3年後の1876年(明治9年)に、軍艦チクローブ号を派遣、皇帝の誕生日でもある3月22日に感謝の石碑を建立した。

日独間が同盟関係を結んでいた1936年(昭和11年)には、外務省や日独親善団体、宮古教育部会の協力のもと、遭難現場近くの宮国ンナト浜に「獨逸商船遭難の地」の碑が建てられた。また、翌1937年(昭和12年)には、文部省が全国から募集した「知らせたい美しい話」で、この史実が1等に選ばれ、小学校修身教科書に載り、「博愛」という題で全国の子供たちに紹介されることになった。

1996年(平成8年)に、遭難地近くに「うえのドイツ文化村」という施設が建設されて、2000年(平成12年)の主要国首脳会議沖縄で開催されたおり、ドイツのゲアハルト・シュレーダー首相が親善訪問した。

[編集] 脚注

  1. ^ 国土地理院 沖縄の島面積
  2. ^ 目崎茂和『南島の地形 沖縄の風景を読む』pp.106、沖縄出版、1988年
  3. ^ 町田洋他編『日本の地形 7 九州・南西諸島』pp.256、東京大学出版会、2001年、ISBN 4-13-064717-2
  4. ^ 平良市史編さん委員会編『平良市史第1巻通史編1先史-近代編』pp.9、平良市役所、1979年
  5. ^ 琉球新報 2001年12月12日
  6. ^ 太田英利・高橋亮雄「琉球列島及び周辺島嶼の陸生脊椎動物相 -特徴とその成り立ち-」『美ら島の自然史 サンゴ礁島嶼系の生物多様性』琉球大学21世紀COEプログラム編集委員会編、東海大学出版会発行、2006年、2-15頁、ISBN 4-486-01731-5

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク


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