日本航空123便墜落事故

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垂直尾翼破壊の様子(想像図)
垂直尾翼破壊の様子(想像図)
日本航空 123便
概要
日付   1985年8月12日
原因   不適切な圧力隔壁の修理(有力説)
全油圧系統の喪失
場所   日本群馬県高天原山
死者   520
負傷者   4
航空機
機体   ボーイング747SR-100
航空会社   日本航空(JAL)
機体記号   JA8119
乗客数   509
乗員数   15
生存者   4

日本航空123便墜落事故(にほんこうくう123びんついらくじこ)は、1985年8月12日午後6時56分、日本航空(当時)123便、東京(羽田)大阪(伊丹)行、ボーイング747SR-100(「ジャンボジェット」、機体記号JA8119)が群馬県多野郡上野村高天原山[1]に墜落した事故である。

事故調査は、「同機がしりもち着陸事故を起こした後のボーイング社の修理が不適切だったことによる圧力隔壁の破損が原因」とする航空事故調査報告書が1987年6月19日に公表され終了している。一部に再調査を求める声があるが、航空事故調査報告書を決定的に否定するような新たな証拠は発見されておらず、再調査は行われていない。

目次

[編集] 概要

運輸省航空事故調査委員会による事故調査報告書[2]によると、死亡者数は乗員乗客524名のうち520名、生存者は4名であった。死者数は日本国内で発生した航空機事故では最多[3]であり、単独機の航空事故では[4]世界最多[5]である。

乗客の中には著名人が多数含まれていた。また、夕方のラッシュ時とお盆の帰省ラッシュが重なったことなどにより乗客が多かったこともあり、企業の役員や外国人、家族連れの犠牲者も多かった。

社会全体に大きな衝撃を与えたため、一般的に『日航機墜落事故』『日航ジャンボ機墜落事故』と言う場合、この事故を指すことが多い。

[編集] 事故機

本事故により、同年8月19日に登録抹消される。日本航空会社が旅客機として運航しているボーイング747で、墜落事故によって登録を抹消されたのは、2008年4月現在に至るまで本機のみである。

  • 機体記号 JA8119
  • 型式 ボーイング747SR-100
  • 製造年月日 1974年1月30日
  • 製造番号 20783
  • 耐空証明 第48-028
  • 総飛行時間 25,030時間18分
  • 総着陸回数 18,835回
  • 新規登録年月日 1974年2月19日

[編集] 型式 747SR

ボーイング747-SR100型機
ボーイング747-SR100型機

世界でも、日本の航空会社である日本航空と全日本空輸の2社のみがボーイング社に発注している747の特別仕様である。SRとは「Short Range(短距離)」の略で、国土の狭い日本の国内線を運航する航空会社が幹線及び準幹線に投入する目的に特化している(1990年にボーイング社は747在来型の受注を打ち切るが、この仕様は747-400Dとして受け継がれている。これも世界で日本航空と全日本空輸の2社のみがボーイング社に発注している特別仕様の747である)。

空港へ乗り入れる便数を少なくする代わりに、一度に輸送できる旅客数(最大で550人)を多くするため、従来の747ベースに1~2時間程度の短距離飛行用に設計された。短距離便ではあまり必要のない機内のラバトリー(トイレ)やギャレー(調理室)を減らして座席数を増やしている。また、国際線仕様の747では備え付けられている長距離飛行用の燃料タンクを搭載していない。その他に離着陸が頻繁であるため降着装置を強化、重量が重い状態で短い滑走路へ着陸する際にブレーキの摩擦熱で発火するのを防ぐため強力な冷却装置を取り付ける等の変更がなされている。

また、頻度の多い離着陸によって、国際線よりはるかに多い高度変化による気圧の変化で機体に負担がかかるため、金属疲労が早く進行しないための特殊加工も施されているが、皮肉にも尻もち事故の際のボーイング社の修理ミスと、修理ミス箇所に対する金属疲労の検査の見落としによってJA8119は墜落した。

[編集] 事故の経過

本事故は、機体JA8119にとっては3度目の事故である。

[編集] 墜落前の事故

  • 1978年6月2日東京国際空港(羽田空港)から大阪国際空港へのフライトで着陸しようとした際、パイロット操縦桿の操作を誤ったため、機体が通常の着陸角度より上に上がりすぎ、滑走路に機体尾部を接触させるしりもち事故を起こし、機体尾部にある圧力隔壁を破損。機体のバウンドによりケガ人が3名発生。この事故での圧力隔壁のボーイング社における修理ミスが日本航空123便墜落事故の引き金になったとされている。
  • 1982年8月19日、羽田空港から千歳空港へ飛行し着陸の際、機体が右に逸れ誤って第4エンジンを地上に接触させたため、機長着陸をやり直した。原因は天候による視界不良である。

なお、後者の事故によるエンジン損傷は事故調査報告書によれば、本墜落事故の直接の原因にはなっていない。

[編集] 事故当日のJAL123便

当日の123便は18時00分羽田発、離陸後は南西に進んだ後、伊豆大島から西に巡航、串本上空で北西に進み、18時56分伊丹着のフライトプランであった。

フライトに使用されたJA8119は就航以来約18800回飛行し、当日は503・504便で羽田~千歳、363・366便で羽田~福岡を往復し、123便で5回目のフライト。伊丹到着後、130便として伊丹発羽田着の最終便を運航する予定であった。また、燃料は3時間15分程度の飛行が可能な量を搭載していた。

乗務員は、高濱雅巳機長(49歳)[6]、佐々木祐副操縦士(39歳)、福田博航空機関士(46歳)の男性3人のコックピット・クルーと、波多野純チーフパーサー(39歳)を筆頭とする客室乗務員(女性11人)12人の計15人。乗客は509人。コックピットでは、機長昇格訓練を受けていた副操縦士が機長席に座り操縦、クルーへの指示を担当。機長は副操縦士席で副操縦士の指導、無線交信などの副操縦士の業務を担当していた。当日、航空機関士は363便と366便でJA8119に、副操縦士は別の機にそれぞれ乗務し、機長は当日最初のフライトであった。

18時04分に乗員乗客524人を乗せた123便は定刻をやや遅れて[7]羽田空港18番スポットを離れ、18時12分に当時の滑走路15から離陸した。搭乗方式はボーディングブリッジではなく、沖止めで搭乗機連絡バスによる移動での搭乗であった。

[編集] 異常事態発生

18時24分(離陸から12分後)、相模湾上空を巡航高度の24000ft(7200m)へ向け上昇中、23900ftを通過したところで異常事態が発生する。突然の衝撃音と共に123便の垂直尾翼は垂直安定板の下半分のみを残して破壊され、その際ハイドロプレッシャー(油圧操縦)システムの4系統全てに損傷が及んだ結果、油圧を使用したエレベーター(昇降舵)やエルロン(補助翼)の操舵が不可能になってしまう[8]フゴイドダッチロール[9]を起こした機体は迷走するとともに上昇、降下を繰り返すものの、クルーの操縦により17分間は20000ft(6000m)以上で飛行を続ける。18時40分頃、空気抵抗を利用する降下手段としてランディング・ギア(降着装置)を降ろした後、富士山東麓を北上し、山梨県大月市上空で急な右旋回をしながら、高度22000ftから6000ftへと一気に15400ft(4600m)も降下する。その後、機体は羽田方面に向かうものの埼玉上空で左へ旋回、群馬県南西部の山岳地帯へと向かい出す。

[編集] キャビン内の状況

機内では衝撃音が響いた直後に、各座席に酸素マスクが落下し、プリレコーデット・アナウンス[10]が流れた。乗客は客室乗務員の指示に従って酸素マスクを着用したほか、シートベルトを着用し、タバコを消すなど非常時の対応を行う。また一部座席では着水に備え、救命胴衣の着用なども行われた。男性チーフパーサーは全客室乗務員に対し、機内アナウンスで酸素ボトルの用意を指示している。なお、生存者の証言によれば、機内は異常発生直後から墜落までさほど混乱に陥ることはなく、全員落ち着いて行動していたという。その後、乗客は衝撃に備えるいわゆる「安全姿勢(前席に両手を重ね合わせて頭部を抱え込むようにし、全身を緊張させる)」をとって、衝撃に備えた。乗客の中には最期を覚悟し、不安定な機体の中で懸命に家族への遺書を書き残した者が複数いた。これらの遺書は、後に事故現場から発見され、犠牲者の悲痛な思いを伝えている。

なお、客室乗務員は終始乗客のサポートをしていたと生存者が語っており、機体後部に取り付けられていたコックピットボイスレコーダー(CVR)には幼児連れの親に子供の抱き方を指示する放送、身の回りを確認するよう求める放送、不時着を予想してか「予告無しで着陸する場合もある」との放送、「地上と交信できている」との放送が墜落直前まで記録されている。また墜落現場からは、不時着後に備えて乗客に出す指示をまとめた一人の客室乗務員によるメモや、異常発生後のキャビン内を撮影したカメラが見つかっている。

[編集] 地上との交信

  • 123便は18時24分47秒に緊急救難信号スコーク77(7700)」を発信、信号は東京航空交通管制部(ACC)に傍受される。直後に機長が無線でACCに対して緊急事態発生のため羽田へ戻りたいと告げ、ACCはそれを了承した。123便は伊豆大島へのレーダー誘導を要求した。ACCは右左どちらへの旋回をするか尋ねると、機長は遠回りとなる右旋回を希望した。羽田は緊急着陸を迎え入れる準備に入った。
  • 27分 ACCが123便に緊急事態を宣言するか確認し、123便から宣言が出された。続いて123便に対してどのような緊急事態かを尋ねたが、応答は無かった。またACCは、日航本社に123便が緊急信号を発信していることを知らせる。
  • 28分 ACCは123便に真東に向かうよう指示するが123便は操縦不能と返答。ACCはこの時初めて123便が操縦不能に陥っている事を知る。
  • 31分 ACCは羽田より近い名古屋に緊急着陸を提案するが123便は羽田を希望する。通常航空機と地上との交信は英語にて行われているが、123便のパイロットの負担を考え、日本語の使用を許可し、以後ACCと123便は一部日本語による交信が行われている。
  • 33分頃 日航はカンパニーラジオ(社内無線)で123便に交信を求め、35分、123便からドアが破損したとの連絡があった後、その時点で緊急降下しているので後ほど呼び出すまで無線をモニターするよう求められ、日航は了承した。
  • 40分 ACCは123便と他機との交信を分けるため、123便専用の周波数が準備され、123便にその周波数に変えるよう求めたが、応答は無かった。
  • 42分 逆に123便を除く全機に対してその周波数に変更するよう求め、交信は指示があるまで避けるように求めたが、一部航空機は通常周波数で交信を続けたため、ACCは交信をする機に個別で指示し続けた。
  • 45分 無線のやり取りを傍受していた在日アメリカ軍横田基地(RAPCON)が123便の支援に乗り出し、123便にアメリカ軍が用意した周波数に変更するよう求めたが、123便からは操縦不能との声が返ってきた。ACCが東京(羽田)アプローチ(APP)と交信するかと123便に提案するが、123便は拒んだ。
  • 47分 123便は千葉木更津へレーダー誘導するよう求め、ACCは真東へ進むよう指示し、操縦可能かと質問すると、123便から「アンコントローラブル」(操縦不能)と返答がきた。その後、APPの周波数へ変更するよう求め、123便は了承した。
  • 48分 無言で123便から機長の荒い呼吸音が記録されている。
  • 49分 日航がカンパニーラジオ(社内専用無線)で3分間呼び出しを行ったが応答は無かった。
  • 53分 ACCが123便を呼び出した。123便から「アンコントロール」と無線が入ってくる。ACCとRAPCONが返答、RAPCONは、横田基地が緊急着陸の受け入れ準備に入っていると返答。ACCもAPPの周波数へ変更するよう求め、123便が了承する。
  • 54分 日航も呼び出しを行ったが応答は無かった。123便から現在地を尋ねられ、APPが羽田から55マイル(100km)北西で、熊谷から25マイル(45km)西と告げる。
  • 55分 (この時だけ「日本語にて申し上げます」と前置きして)APPから羽田と横田が緊急着陸準備を行っておりいつでも最優先で着陸できると知らせ、航空機関士が「はい了解しました」と返答する。この言葉が123便からの最期の交信となった。その直後にAPPが123便に対し、今後の意向を尋ねたが応答は無かった。その後も56分前までAPPとRAPCONが123便に対して呼び出しを行ったが応答は無いままだった。
  • 57分 RAPCONが123便に対し、「貴機は横田の北西35マイル(65km)地点におり、横田基地に最優先で着陸できる」と呼びかけ、ACCも123便に対して横田基地に周波数を変更するよう求めたが、この時、既に123便は墜落していた。

[編集] コックピットと機体の状況

衝撃音がした直後、機長は航空管制官への無線交信で羽田空港への引き返しを要求している。

その際、管制官の「右と左のどちらへ旋回するか?」という問いに対し機長は、羽田空港へは遠回りになる「右旋回」を要求している。この事は「海山論争」として多くの議論を呼ぶ。

コックピットボイスレコーダー(CVR)の解析によると、異常発生から墜落まで、操作不能状態の操縦桿やペダルなど油圧系の操作は副操縦士、進路の巡視・計器類などの監視・パネルの操作・管制官との交信・クルーへの指示などは機長、エンジンの出力調整・緊急時の電動によるフラップとギアダウン、日航との社内無線交信、さらに副操縦士の補助は航空機関士がしていたと推測されている。異常発生直後から油圧操作の効果がほとんど無いにもかかわらず繰り返し操縦桿での操舵を試みるなど、クルーは操縦不能になった理由を最期まで把握できていなかった模様である(操縦席から尾翼部分は目視できないため、把握できなかったのは致し方ない)。また、油圧系統全滅を認識しながらもクルーは油圧での操縦を試みている。

CVRには18時24分12秒から18時56分28秒までの32分16秒間の音声が残っている。はじめに残っていた音声は「最初の衝撃音」直前の客室とコックピットとのやり取りだった。本来当時のCVRは30 分の 1/4 インチ・エンドレステープレコーダー (始点と終点の無い輪になったテープを巻いて用いるもの)であったが、30分を超える録音が残っているのは、たまたまテープに余分があったためである[11]

18時24分35秒頃、CVRに何らかの衝撃音[12]が録音されている(衝撃音直後に機長は「なんか爆発したぞ」と言っている)。直後にオートパイロットが解除され機体(エンジン、ギア等の表示)の点検が行われ、4つのエンジン、着陸ギア等に異常がなかったが、航空機関士が「ハイドロプレッシャー(油圧機器の作動油の圧力)をみませんか」と提案する。25分、機長はスコーク77を発信し、ACCに羽田へ引き返すことを要求した。無線交信の直後、機長が副操縦士に対し「バンクとるなそんなに」と怒鳴る声が記録されている。しかし、副操縦士は「(バンクが)戻らない」と返答した。その際、航空機関士がハイドロが異常に低下している事に気づいている。27分、異常発生から僅か3分足らずで圧力の喪失を示したとみられる「ハイドロプレッシャーオールロス」という航空機関士の音声が記録されている。(事故調査報告書では、異常発生後1分足らずで油圧喪失に陥ったとしている。)

同じ頃客室の気圧が減少している事を示す警報音が鳴っている為、とにかく低空へ降下しようとした。しかし、ほとんどコントロールが出来ない機体にはフゴイド運動やダッチロールが生じ、ピッチングヨーイングローリングを繰り返した。そのため、墜落の瞬間まで頻繁に「あたま(機首)下げろ」「上げろ」という言葉が記録されている。

31分頃、航空機関士に対し客室乗務員から客室の収納スペースが破損したと報告が入る。33分、航空機関士が緊急降下(エマージェンシー・ディセンド)と同時に酸素マスク着用を提案[13]、35分、羽田空港にある日航のオペレーションセンターとの交信では航空機関士が「R5のドア(機体右側最後部のドア)がブロークン(破損)しました」と連絡している[14]

37分、機長が降下(ディセンド)を指示するが機首は1000mあまりの上昇や降下を繰り返すなど、不安定な飛行を続けた。これを回避するために38分頃着陸ギアを降ろそうとするが油圧喪失のため降ろせなかった。40分、パイロットはギアの自重により着陸ギアを出すバックアップシステムを用いて着陸ギアを降ろした。この操作によって機体は右に大半径で旋回しながら降下し、同時にロール軸の振幅が縮小して多少安定した。

46分、機長の「これはだめかもわからんね」との発言が記録されている。47分頃から彼らの中でも会話が頻繁になり、焦りが見え始めていた。この頃から山岳地帯へと迷走していった。右、左との方向転換が繰り返し指示されている。その会話の中、機長が、操縦している副操縦士に対して「山にぶつかるぞ」と緊迫した会話が数回記録されている。この時機体は6000ft(1800m)前後をさまよっていた。48分頃には航空機関士が、操縦する副操縦士に「がんばれー」と励ますとともにたびたび副操縦士の補助をしていた様子が記録されている。この頃からエンジン出力(パワー)の強弱で高度を変化させる操縦を行いはじめたと思われる。機長の機首下げの指示に対して副操縦士は「今舵いっぱい」と返答している。

49分頃、機首が39度に上がり、速度は108kt(200km/h)まで落ちて失速警報装置が作動した。この頃から機体の安定感が崩れ何度も機首の上げ下げを繰り返し、そのたびに「パワー」と指示する声が残っている。50分、困惑する副操縦士に機長が「どーんといこうや」と励ます音声が残っている。機長が「頭下げろ、がんばれ」との励ましに対して副操縦士は「今舵いっぱいです」と叫んでいる。この頃速度が頻繁に変化し、不安定な飛行が続いていたためか、副操縦士が速度に関して頻繁に報告をしている。51分、依然続くフゴイド運動を抑えるために電動でフラップが出され、53分頃から機体が安定しだした。

54分、クルーは現在地を見失い、航空機関士が羽田に現在地を尋ね、埼玉県熊谷市から25マイル西の地点であると告げられる。その間、しばらく安定していた機体の機首が再び上がり、速度が180kt(330km/h)まで落ちた。パワーと操縦桿で機首下げを試みたが機首は下がらなかった。55分01秒、機長は副操縦士にフラップを下げられるか尋ね、副操縦士は「はいフラップー10(今10度下がっているという意味)」と返答し、フラップを出し機体を水平に戻そうとした。

しかし55分12秒、フラップを下げた途端、機体は右にそれながら急降下を始める。55分15秒から機長は機首上げを指示。43秒、機長が「フラップ止めな」と叫ぶまでフラップは最終的に25度まで下がり続けた。45秒、「アーッ」という叫び声が記録されている。50秒頃、副操縦士が「フラップアップフラップアップ」と連呼し、すぐさまフラップを引き上げたが更に降下率が上がった。この頃高度は10000ft(3000m)を切っていた。56分00秒頃、機長がパワーとフラップを上げるよう指示するが航空機関士が「あげてます」と返答する。07秒頃には機首は36度も下がり、ロール角も最大80度を超えた。機長は最期まで「あたま上げろー、パワー」と叫んだ。

[編集] 墜落

クルーの努力も空しく123便は降下し続け、18時56分14秒に対地接近警報装置が作動。同17秒頃、機体はわずかに上昇しだしたが、18時56分23秒、機体後部と右主翼が樹木と接触した。このとき、機首を上げるためエンジン出力を上げたことと、急降下したことで、速度は346kt(640km/h)に達していた。接触後、水切りのように一旦上昇したものの、機体は大きく機首を下げ右に傾いた。26秒、右主翼が地面をえぐり、同時に機体の破壊が始まった(垂直・水平尾翼、右主翼の脱落)。28秒には機体後部が分離。機体は機首を下げながら右側に回転してゆき、18時56分30秒、高天原山の斜面に前のめりに反転するような形で衝突、墜落した。18時56分28秒まで録音され続けていたボイスレコーダーには23秒と26秒頃に衝撃音が残されていた。23秒の衝撃音の直前には、機長の「もうダメだ」とも聞き取れる叫び声も記録されていた(その後、ボイスレコーダーに録音されていた音声は活字の形で公表されたが、この叫び声は判読不能とされている)。

衝撃によって、機体前部から主翼付近の客室は原形をとどめないほどバラバラになり炎上した(後の調査によれば機体の大部分は数百Gの衝撃が加わったとされる)。両主翼も離断し炎上した。一方、28秒に分離した客室後部と尾翼は、山の稜線を超えて斜面を滑落していった。客室後部は尾根への激突を免れて、斜面に平行に近い角度で着地し、樹木をなぎ倒しながら尾根の斜面を滑落して時間をかけて減速した。このため最大の衝撃が小さく、それ以外の部位と比較して軽度の損傷にとどまった。また、火災も発生しなかった。これらの要因によって、客室後部の座席に座っていた女性4名が奇跡的に生還した。彼女らの証言によれば、墜落当初は生存者が他に多数いたものの、夜明けまでに息絶えたという。

[編集] 捜索・救難活動

123便の機影は墜落直前、18時56分02秒にレーダーから消失した。高度3000m以上は通常レーダーにより監視されていることから、レーダー[15]にも写らない低空飛行、地上への墜落、のいずれかの事態が考えられた。18時59分、救難調整本部が警視庁航空自衛隊海上保安庁に通報した。一部関係者は低空飛行をし続けている事を願い、日航、ACCなどが123便に対して呼び出しを続けていた。社内専用無線では同僚たちからクルー達への励ましの言葉も伝えられたと言われている。19時21分に自衛隊機が秩父市近郊[16]で山火事を発見、一部で123便の墜落地点かと推測も飛び交ったが、日航、ACCなどは諦めずに交信し続けた。だが19時半を過ぎても依然としてレーダーに123便の機影は写らず、どの空港や基地にも123便が着陸したとの情報もなく、墜落がほぼ確実なものとなった。たとえ低空飛行を続けていたとしても、燃料が枯渇する頃と推測されたため、各機関は捜索準備に取りかかる。レーダー消失地点などから捜索エリアは群馬県と長野県の県境付近と設定され、19時45分運輸省(当時)に捜索本部が設置され、捜索が開始された。そして20時30分、関係機関は山火事が確認された長野県南佐久郡近郊を123便の正式な墜落地点とした。

複雑な地形、険しい山地、日暮れの時間帯という悪条件が重なり、更に県境だったため管轄面のことから、一部の新聞社などのヘリコプターや自衛隊機では墜落現場を確認できたが、正確な場所の特定にはなお時間がかかった。救助も当時のヘリコプターの装備・仕様では、夜間における接近は困難であったために、地上からの救出に全力を挙げることとされたが、レスキュー隊が墜落現場に向けて動き出したのはあくる13日午前4時前だった。大半は徒歩で現場まで向かい、付近は険しい地形だったため墜落現場に到着したのは事故から14時間ほど経った13日午前8時半だった。捜索開始当初、墜落現場は長野県側ではないかという憶測が飛び交ったこと、防衛庁(現・防衛省)の発表やNHKによる「墜落現場」の報道が二転三転したうえ、悪戯や、誤報の情報に惑わされ、各機関が独自の憶測で行動し、連係がとれずおおよその位置しか掴めなかったことも現場の発見を遅らせた。また、123便が輸送していた医療用放射性同位体や、一部動翼のマスバランスに使われていた劣化ウランなどによる周辺への放射能汚染の警戒も、到着が遅れた一因となった。

結局、現場に一番早く到着したのは、日の出とともに登った地元の消防団であった。

[編集] 自衛隊の捜索協力

事故直後、123便が墜落したと判断した航空自衛隊レーダーサイト要員からの具申を受け、当時の中部航空方面隊司令官松永貞昭空将は捜索機の緊急発進を了承。百里基地スクランブル待機していた第305飛行隊F-4EJ戦闘機が現場へ向かったほか、百里救難隊(航空救難団)も待機状態に入ったが、災害派遣命令がなかなか出されなかったため、事故から1時間後に独自で出動。また、入間基地及び、陸上自衛隊立川基地のヘリコプターも夜間から朝方にかけて現場の詳細な位置を確認して報告した[17]

当時、公試中であった海上自衛隊護衛艦まつゆき」(艦番号DD-130)は、相模湾で事故機の垂直尾翼の一部を偶然発見,回収した。

正式な災害派遣命令が下された後に、陸上自衛隊の部隊などが現地入りして捜索救出活動を行った。現場は険しい山中であったために車輌の進入やヘリコプターの着陸は容易ではなかった。遺体収容に先立って生存者4名が陸上自衛隊の輸送ヘリコプターV-107によって現場から救出・搬送された。この際の、上空でホバリング中の機体への生存者の収容作業は、救出活動を象徴する映像となった。

当時の自衛隊には、夜間しかも山間部での救難活動が可能なヘリコプターがなく、事故発生直後、事故現場上空で捜索活動を行った航空自衛隊・百里救難隊所属の救難ヘリコプターV-107「バートル」に現場周辺を明るく照らす照明弾が装備されていたものの照明弾が地上に落下した後、「燃焼熱で山火事を誘発する危険性がある」として使用が出来なかった。

これを教訓として1990年より夜間捜索可能な赤外線暗視装置を装備した、UH-60 ブラックホーク救難ヘリコプターが順次調達されている。

事故発生翌日朝、報道のヘリコプターが多数、墜落事故現場上空に殺到した為、現場上空の航空管制の為、航空自衛隊入間基地航空総隊司令部飛行隊所属のYS-11FCが派遣された。

[編集] アメリカ軍の捜索協力

[編集] 墜落位置の特定

墜落機の飛行状況は、アメリカ軍在日米軍)も把握していた。テレビで放送されたACCの録音テープによれば、米空軍横田基地の管制官は迷走飛行中の123便に対して繰り返し呼びかけていた。

在日米空軍のC-130
在日米空軍のC-130

墜落場所も早い段階で把握していたとされており、墜落から約1時間後に近くを飛行していたアメリカ空軍C-130輸送機が墜落現場付近上空に到着、詳細な現場の位置を測定する。

[編集] 現場に急行

その後、米海軍厚木基地から暗視カメラを搭載している海兵隊の救助ヘリコプターが現場に急行。墜落から僅か2時間で救助態勢が整っていた。救助のためにヘリから隊員を降ろそうとしたとき、基地の当直将校からすぐ基地に帰還するよう命令された。

日本の事故に対する米軍の救出活動の参加には日本政府の許可が必要であったため、米軍は日本政府に支援を打診、政府は警察庁に連絡したが不要とされたと言われている。国内の事故に対する米軍の救出活動の参加と政府の迅速な判断に課題を残した。

なお、警察庁上層部が米軍の協力を拒んだ理由は明らかになっていないが、メンツが理由とも、国内の事故に指揮命令系統が違う米軍が介入することで現場に混乱をきたすことを避けたとも諸説ある。

[編集] 関係機関の連携体制

この在日米軍による現場特定・ヘリによる救出の申し出は、事故当日にニュース速報として流されたが、翌日未明には「アメリカ軍の現場特定及び救出活動の申し出はすべて誤報であった」として否定された。

佐藤守元航空自衛隊空将は後日、「在日アメリカ軍報道部長から確認したこと」として、「アメリカ軍から援助の申し出があったのは事実であるが、当時の在日アメリカ軍は特殊な機材を搭載したヘリコプターを装備しておらず、具体的な支援の内容は救出された怪我人の搬送等であり、さらにそれを日本側が拒否した事実もない」とし、「オーストラリアの新聞記事に無批判に追随した報道各社がデマを広げた」と批判した。[18]。これらの報道の流れは事故原因に関する憶測を生む一因ともなった。

なお、事故より10年後に、「在日アメリカ軍の現場特定・救助の申し出は事実であった」と改めて発表されている。この内容は後年に新潮社週刊誌に詳細記事として掲載されたり、上智大学文学部で英語の入試問題として採用されたりしている。

また、当時の東京消防庁航空隊には強力サーチライトを搭載したアエロスパシアル製ヘリコプターが2機配備されており、事故当夜は関係省庁からの要請に備えいつでも出動できるように待機していたが、東京消防庁に出動要請は来なかった。のちに運輸省・警察庁・防衛庁ともに、この東京消防庁所有の高性能ヘリコプターの存在を知らなかった事が明らかになった。東京消防庁も自ら出動を申し出なかった受身の状態だった事もあり、緊急時における縦割り行政の救難体制の問題点が浮き彫りになった。[19]

[編集] 事故調査委員会の資料廃棄

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2000年8月4日、毎日新聞は運輸省の航空事故調査委員会が、事故の調査資料の一部を「保管期間が過ぎた」ことを理由に破棄したと報道した。 2000年8月には、コクピットボイスレコーダー[20]に録音された一連の会話がテレビ局各局で公開された。

[編集] 遺体収容・検屍・身元確認作業

墜落時の猛烈な衝撃と火災によって、犠牲者の遺体の大半は激しく損傷していた。盛夏であったこともあり遺体の腐敗の進行も早かった。遺体は、機体から投げ出され樹木に突き刺さったもの、機体の残骸に挟まれたり切断されたもの、一部が落下の衝撃で地中深くに埋もれたもの、圧力によって2名の体が一つにめり込むように合体したようなものなどが発見された。遺体の部位によっては、挫砕され完全に識別困難となった部位や墜落の摩擦で完全に消失した部位もあった。また当時はDNA型鑑定の技術も確立されていなかったために、身元の特定は困難を極めた。例として、機長の遺体は顎の骨(前歯5本)のみであった。これは墜落時の体にかかる衝撃の凄まじさを物語っている(推算によるとこの墜落事故で一人にかかる衝撃は980tと言われている)。当便の乗客であった歌手の坂本九は、胴体しか残っておらず身に付けていた笠間神社のペンダントで判明した。

当初遺体は墜落現場から山道を自衛隊員・地元消防団・警察官等で人海戦術を使い、上野村検屍、身元確認作業を考えていたが、「遺体の損傷が酷く、山道で降ろす場合上野村まで時間も掛かり、気候・気温と時間経過により遺体の腐敗進行が早まっている為、人海戦術では無理」と判断され、「上野村ではあまりにも規模が大きく対処しきれない」と結論付けられた[21]。墜落現場に臨時のヘリコプター発着場が自衛隊によって突貫作業で造られ、8月14日午前から遺体搬出作業が始まった、直線距離で墜落現場から約45キロ離れた群馬県藤岡市へ自衛隊・警察のヘリコプターで運ばれた[22]

群馬県藤岡市にある「藤岡市民体育館」に遺体検視兼安置所が設置された[23]。地元群馬県警察医師会所属の医師のほか、群馬県内外の医師、群馬大学医学部の教授陣、法医学者、法歯学者、歯科医師看護師日赤などが全国から駆け付け[24]、猛暑・悪臭などの劣悪な環境の中で判別作業が進められた。事故現場から搬出され、検屍された遺体総数は2065体[25]に上り、520人の犠牲者のうち、ほぼ五体揃った遺体として発見されたのは177体(その殆どが機体後部からのものだった)。他は身体の一部[26]や遺留品のみで識別され、身元が判別できないままの、膨大な量の遺体片が約400体強残された。また、アメリカ人1名を含む2名の遺体は遂に確認できなかった。最終的な身元確認作業の終了までには、約4ヶ月の時間と膨大な人員を要した。また死体回収にかかわった大半の人が普段の生活において、肉類の食事を取る事が出来なかったという[27]。最終的に確認できなかった部位は、同年12月に群馬県前橋市の群馬県民会館で執り行われた合同慰霊祭で出棺式が行なわれ、荼毘にされた後、墜落現場に近い上野村の「慰霊の園」に納骨埋葬された。その後十数年を経た頃に、現場跡から遺骨片が発見されるケースもあった。

[編集] 日本航空123便墜落事故の報道態勢

(報道順)

NHK
NHK総合テレビにおいては午後7時の定時ニュースの終了直前(午後7時26分)に、松平定知アナウンサーから「羽田の空港事務所に入った連絡によると、午後6時に羽田を出発した大阪行き日航ジャンボ機の機影がレーダーから消えた」と短い原稿読み上げがあった。ミニ番組「テレマップ」を挟み、午後7時30分からはお盆の夏季編成としてNHK特集『人間のこえ・日独米ソ・兵士たちの遺稿』が予定通り始まったが、午後7時35分頃には「急遽番組を中止します」のアナウンスとともに画面はニューススタジオに切り替わった。このとき、専門家として『マッハの恐怖』などの航空事故解析の著書に実績のある柳田邦男(元NHK社会部記者でもある)が解説に入ったが、当日の午後9時40分からは柳田原作のドラマ『マリコ』が放送される予定で、ドラマの作者が航空専門家という偶然があった。ただし、事故発生当時、本人は自宅にいて、当時『ニュースセンター9時』のキャスターだった木村太郎からの出演要請により、多摩の自宅からタクシーで入局した。局に向かうタクシーの中で、テレビの1-3チャンネルが受信できる携帯ラジオを使ってNHKテレビのニュースを聴きながら事故の全貌を分析したという[28]。『死角 -巨大事故の現場- 』(新潮社文庫版)では、解説で倉嶋厚が当時のスタジオ内の状況を書いている。)。この後、日航本社、運輸省、帝国ホテル(乗客家族の対応拠点)、羽田東急ホテル(乗客家族の対応拠点)、羽田空港、大阪空港、当初墜落地点とされた長野県の長野放送局や長野県警などからの中継を交え、終夜放送となった[29]。翌13日朝からの通常番組は休止され、報道特番態勢が続けられ、墜落現場上空からヘリの生中継を伝えていた。
2005年に放送されたNHKテレビドラマ『クライマーズ・ハイ』のワンシーンに、ドラマ内映像として松平定知アナウンサーが速報で第一報を伝えるシーン、大阪空港日航対策室からの報告するシーン、NHK長野放送局からの報告するシーン、NHK社会部からの最新情報を伝えるシーン等、当時の映像が使われた。
TBS
TBSの第一報は『クイズ100人に聞きました』内で午後7時半頃流した「ニュース速報」だった、TBSは通常通りの放送態勢だったが、午後8時から『水戸黄門』、午後8時55分から5分間ニュースで速報を伝えた後、午後9時から『月曜ロードショー』映画『東京裁判・後編』を放送していたが、各番組内で逐一「ニュース速報」を流し続けた[29]。TBSは映画『東京裁判・後編』を最後まで放送した後、日付が変わった13日午前0時02分からの『JNNニュースデスク』は内容を大幅変更して放送し、 午前0時17分からの『JNNスポーツデスク』の通常通りの放送を経て、 午前0時32分から予定していた深夜番組を休止し、「JNN報道特別番組」に切り替え、『JNNニュースコープ』司会の田畑光永キャスターを、メイン・キャスターとして『JNN報道特別番組』を朝まで伝える終夜放送とした。翌13日朝の『森本ワイド モーニングEye』も報道特番態勢で、墜落現場上空からヘリの生中継を伝えていた。
フジテレビ
フジテレビの第一報は『月曜ドラマランド』「一休さん」(富田靖子主演)放送中の午後7時半頃に流した「ニュース速報」だった、その後ドラマを中断することなくドラマ内で逐一「ニュース速報」を流し続けた、午後10時より露木茂アナウンサーをメインにした『FNN報道特別番組』を放送を開始、約10時間に渡り放送した[29][30][31]。翌13日朝の『おはようナイスデイ』も報道特番態勢で、墜落現場上空からヘリの生中継を伝えていた。生中継に必要な機材を墜落現場に運び上げ、現場上空の同社ヘリが受信中継し『FNNニュースレポート11:30』において生存者救出の映像を事故現場から唯一生中継した(他局は生中継機材が間に合わず、録画取材となった)[32]。『笑っていいとも!』は放送開始後10分で途中中断され、生存者が陸上自衛隊ヘリに引き上げられる映像の生中継に変更された。
テレビ朝日
テレビ朝日の第一報は『月曜スペシャル90』内で午後7時半頃流した「ニュース速報」だった。午後9時から予定していた番組を変更し「ANN報道特別番組」に変更された。翌13日朝の『モーニングショー』も報道特番態勢で、墜落現場上空からヘリの生中継を伝えていた。
日本テレビ
日本テレビの第一報はバラエティー番組『大きなお世話だ』(当時:毎週月曜午後7時30分から放送)内で午後7時45分に流した「ニュース速報」だった。その後に放送されていた日本テレビの『ザ・トップテン』(当時:毎週月曜午後8時から放送)では番組冒頭に報道センターから小林完吾キャスターが速報で報道、その後時折番組を中断しては、繰り返し日本航空123便が行方不明になったこと(その時点では墜落は未確定)を報道していた。午後9時から予定していた通常番組を変更し『NNN報道スペシャル』の報道特番に変更され、久保晴生キャスターがメインキャスターで伝え、専門家として航空評論家中村浩美が解説した。その後午後11時からの『きょうの出来事』も大幅に内容を変更し報道特番態勢になり、後続番組『11PM』を休止し、小林完吾キャスターが『きょうの出来事』から引き続き『NNN報道特別番組』を朝まで伝える終夜放送とした[29]。翌13日朝の『ズームイン!!朝!』、『ルックルックこんにちは』も報道特番態勢で、墜落現場上空からヘリの生中継を伝えていた。
ニッポン放送
AMラジオ局のニッポン放送は、通常放送の生番組の中で随時速報を入れた。12日深夜1時(13日午前1時)からの生放送番組『中島みゆきのオールナイトニッポン』は、この日事前に録音されていた。このため同番組の中止を決定し、オールナイトニッポン第2部担当の上柳昌彦アナウンサーが早朝5時まで報道特番を担当した。
毎日放送ラジオ
大阪のラジオ局・毎日放送ラジオは、月曜22時からのレギュラー番組『MBSヤングタウン』のほとんどを関連のニュースに充てた。この日のパーソナリティー・明石家さんまも、123便に乗ってスタジオに入る予定だったが、急遽搭乗便を一本早め難を逃れた。このため、明石家さんま自身のショックも大きく、ニュース以外の部分では音楽が流された。
毎日放送テレビ
大阪のテレビ局、毎日放送テレビは、TBSと同じ編成だったが、翌13日のMBSナウでは関連ニュースを中心に伝えた。
新聞各紙
翌朝の新聞一面はこの事故がトップとなったが、夜間の為、墜落地点の情報が錯綜したまま朝刊締切時間となり印刷され、「長野で墜落」や「長野・群馬県境付近で墜落」などの見出しとなった[33]
写真週刊誌など
最初に現場へ到着したカメラマンは、FLASHが専属契約をしていた大学生アルバイトカメラマンだった。カメラマンの間では、今でも折に触れ日航機事故の話題がのぼる。カメラマンらの撮影した現場写真の多くが、写真週刊誌に無修正で掲載された。

[編集] 記者会見

  • 1985年8月13日午前8時、羽田空港オペレーションセンターで高木養根社長による5分間の記者会見。
    • 8時30分ごろ羽田空港21番スポット(VIP用〈当時〉)に到着した遺族搭乗の大阪発臨時便のタラップ下で高木養根社長が遺族に頭を下げた(機内で行なう予定が報道陣のため降りた)。その写真をAFPが配信、ニューヨーク・タイムスの8月14日の記事や8月17日の社説などに取り上げられた。
新藤健一『映像のトリック』講談社現代新書 昭和61年(1986年)による。

[編集] 事故の原因

ボーイング747型機の後部圧力隔壁(機内側より)
ボーイング747型機の後部圧力隔壁(機内側より)

航空事故調査委員会が結論付けた事故原因の要点は以下の通りである。

  1. 1978年6月2日伊丹空港で同機がしりもち事故を起こした。
  2. その後のボーイング社による修理が不適切であったため、飛行の度に客室へ与圧を繰り返す内に圧力隔壁金属疲労が蓄積した。
  3. 金属疲労が限界を超え、そのために、飛行中に圧力隔壁の破壊が発生した。
  4. 圧力隔壁から漏れ出した空気が後部の空洞を伝って垂直尾翼を破壊し、航空機後部の4系統ある油圧操縦システムの全てが失われて操縦不能に陥った。
  5. 油圧の無い状況でフラップを出しすぎたため、急激なダイブに陥り墜落した。

[編集] その他の仮説

航空事故調査委員会による結論以外に様々な仮説が出されているが、科学的検証が不十分な(もしくは全く無い)仮説が散見されており注意が必要である。

「航空事故調査委員会による結論」は、当時の乗員・乗客の行動や生存者の証言との矛盾点として、圧力隔壁破壊が発生した場合に起きる急減圧、室温低下などの現象が証言からは発生したことが窺えない点が指摘されている。それによれば、7000メートルを超す高空で圧力隔壁が破壊された場合、機内の気圧が急激に低下し、減圧症により乗員・乗客が意識を喪失してしまう可能性が高いにもかかわらず、同機では前述のように遺書を残したり、機内を撮影した乗客がいることを考えると急減圧が起きていなかったのではないかと推測されるのである(実際に、2005年8月14日にキプロス・ヘリオス航空のボーイング737型機がギリシャ北部の山中へ墜落したヘリオス航空522便墜落事故では、与圧装置のモード変更ミスによって同レベルの高高度で上記の「急減圧」が発生し、操縦士が意識を喪失したことが墜落の主原因とされている。救援に向かったギリシャ空軍戦闘機のパイロットが目撃。急減圧が発生すれば人体への影響が大きい事を示している)。

この矛盾のため、フラッター現象や機体の構造的欠陥(2002年に機体の老朽化によりチャイナエアラインのボーイング747型機が南シナ海海上で空中分解を起こしたチャイナエアライン611便空中分解事故がある)などの、他の事故原因を主張する専門家やジャーナリストも多い。また、垂直尾翼が破損した後に多くの部品が相模湾に落下したが、事故調査委員会が、事故原因の鍵を握っているはずのそれらの部品の捜索を早期に始めず、またすぐに打ち切ったことが、「航空事故調査委員会による結論」に疑問的見解を持つ者たちの一つの拠り所になっている。

また、当時ボーイング社が事故原因の結論を急いでいたとの指摘もある。これは同年6月に大西洋上でインド航空のボーイング747が墜落する事故(後に爆破テロと判明)が発生しており、ボーイング747シリーズ全体に重大な欠陥が存在していた可能性があると考えられたためである。結果的に事故機固有の欠陥が原因であるとされたが、400型では垂直尾翼の設計が変更になっている。このことから、ボーイング747型機の気密安全の構造上の問題(急激ではない、慢性的な圧力漏れがあった際には、圧力隔壁後部の機体側に存在する安全弁が働かない可能性など)を隠し、世界中で運行されていた747型機を飛行停止にしないために、事故原因を単なる修理ミスによる圧力隔壁の急激な破壊として事故の早期解決を図ったとの意見もあり、実際に、事故後に400型機へと改良された際に、上記の気密安全構造が改修されているという事実も存在する。

一部で、自衛隊の訓練用空対空ミサイル標的機や訓練用空対空ミサイルの衝突など、外部から受けた衝突などの説が囁かれているが、もし標的機やミサイルなどが衝突した場合、空中分解に至らずも尾翼周辺に何らかの痕跡が残るのは必至で、隠滅も困難だが、機体後部は垂直尾翼を除き大半が回収されており、痕跡も発見されていない。

このことから最も有力な事故原因の仮説として圧力隔壁ではなく垂直尾翼の不備が主因として考えられている。

なお、CVRは現在日本航空が管理していて、今後、再調査の必要が生じれば提供する用意があるとのことである。日本航空機長組合[34]、日本航空乗員組合[35]は2006年11月現在も事故調査結果に納得しない旨、再調査を求める意見をウェブサイト上に掲げている。しかし、事故から20年を迎えた2005年、航空・鉄道事故調査委員会は、「現在のところ事故の再調査をする予定はない」と公表している。

[編集] 乗客

この日は夏休み中で、翌日の「お盆の入り」を控えていたこともあり、休みに入っていた人が多かった。そのため、同機には出張帰りのサラリーマンのほか、帰省客や、翌日に行われる甲子園球場での高校野球選手権大会に出場する学校の関係者[36]茨城県筑波郡(現・つくば市)で開催されていた筑波科学万博[37]東京ディズニーランドなどからの帰宅者、海外からの観光客なども多くの搭乗者があり、ほぼ満席の状態だった。生存者は4名(全員女性)で、うち1名は日本航空の非番の客室乗務員であった。

歌手坂本九、元宝塚歌劇団娘役で女優北原遥子、21年ぶりのリーグ優勝を目前にした阪神タイガース球団社長の中埜肇ハウス食品社長の浦上郁夫大相撲伊勢ヶ濱親方(元大関清國)の妻子、タレント吹田明日香の母、大阪大学教授の塚原仲晃コピーライター中島らもの師匠でもあった藤島克彦など、著名人が多く乗り合わせていたことも大きな関心を引いた。

元・宝塚歌劇団雪組の麻実れいタレント明石家さんまは搭乗する予定だったが、いずれも急遽搭乗便を一本早めたため、また当時フジテレビのアナウンサーだった逸見政孝も夏期休暇で大阪への帰省で搭乗する予定だったが、妻・晴恵の勧めで直前に取り消し、新幹線に変更したことから難を逃れた(当時逸見が司会を務めていた「スーパータイム」は先輩の露木茂が代行を務め、事故発生後のFNN報道特番も露木が担当した)[38]。また、有名人と同姓同名の搭乗者がいたため、テレビ局にこの件について多くの問い合わせがあった[39]

事故当日のダイヤでは、18時羽田発、19時大阪着の同時刻・同区間で全日空機も飛んでおり、日航機に乗るか全日空機に乗るかで、事故に遭うか否かを分ける結果となった。またその日その時間帯に限って、羽田空港と浜松町を結ぶモノレールが10分程度遅れたために搭乗を逃し、バスやタクシーで羽田空港に向かっていたものの渋滞に巻き込まれ搭乗できず、結果的に難を逃れた客もいた[40]

また、新聞等のメディアで公表された搭乗者リストの中に名前があり、生存が絶望視されていたと思われた最中に自宅に帰宅していたり、実は乗っていなかったという人も複数(少なくとも3名以上)いた。これは、本人名義で既に購入していた事故機の航空券を直前に金券ショップに名義を変えずにそのまま売却したり、その場で第三者にその航空券を譲渡したりしたためである。

結果的に名義人は難を逃れたが、代わりに搭乗して犠牲になった第三者は当初搭乗者リストに載らなかったため、第三者の遺族への通達も大幅に遅れ、現場の遺体の識別作業に時間が掛かることとなった。尚、この件に関しては事故の数日後にマスコミにも知らされ、後日改めて新聞等に掲載された搭乗者リストでは名義人の名前は削除されている[41]

なお、阪神の中埜社長の不慮の死で阪神タイガースの選手一同は奮起して21年ぶりのリーグ優勝→日本一達成を果たしたと言われている[42]

[編集] その後

[編集] 事故後の便名

この事故以降、JAL123便は翌日は欠航[43]、その後8月14日~31日までは123便のままで運航していた。9月1日から1ヶ月間は同ダイヤで応急的に133便となり、同年10月以降は同ダイヤで125便として運航が継続されることとなった。以降、JAL123便は無期限の欠番となる[44]

1994年9月には関西国際空港が開港し、大阪便としての便数振り分けに伴って伊丹便は便数減となり、同ダイヤで107便となり、120番台便名は使われなくなった。2000年4月には昼間時間帯に増便されたため同ダイヤで109便となった。

1997年7月には羽田-高知便が開設され、再度120番台便名が使用されたが、2往復中、羽田発が121便と125便、高知発が122便と126便で、123便は使われていない。

2003年4月には日本エアシステムとの統合準備に伴い、羽田-高知便は日本エアシステムによる運航に統一されたため、再度120番台便名は使われなくなった。翌年の便名4桁化まで使われることはなかったため、この時点で日本航空の120番台便名は一旦消滅した。

2004年4月の日本航空と日本エアシステムの統合後は、便名4桁化に伴い同ダイヤで1525便として運航されていたが、2005年11月に運航ダイヤが調整され、1525便は18時30分発に変更された。

2007年4月より羽田発着の幹線を中心とした主要路線の一部便名を3桁に変更した。羽田-伊丹便では2004年3月までと同様に100から(149まで)が使用されることとなり、再々度120番台便名が使用されることとなったが、羽田発は121便の次は125便、伊丹発は120便の次は126便となっており、123便は使われていない。

123便の運航時刻上の流れを汲む1525便は、2007年4月より事故の翌月に応急的に使用された133便となり、18時25分発に変更された。

また、「123」は「任意の3桁の数字」として便宜的にしばしば用いられる数字である。そのため、航空に関する事項の説明を行う際、日本のフラッグ・キャリアである日本航空を冠して「日本航空123便」が航空便名の例として用いられることがある[45]

なお、JALに限らなければ現在ANAが羽田から那覇へ向かう国内路線に123便を使用している[46]

[編集] 事故の影響

事故直後に「原因」として航空機の知識に欠けるマスコミによって取りざたされていたものの一つに「操縦ミス説」があった。事故前当時、日本航空ではトラブルが多発していた上、事故の3年前に日本航空が起こした羽田沖墜落事故では機長の異常な操縦が原因で墜落し、大惨事を起こした直後ということもあって、世間は事故原因が特定していないにもかかわらず、感情的に日本航空関係者やクルー、さらにはその家族にまで怒りをぶつけた。

クルー遺族には連日、嫌がらせや抗議の電話や手紙などが相次いだ。また、遺体安置所では、日本航空社員が乗客遺族らから暴言、暴行を受ける被害が出ていたため、クルーの遺体確認の際は乗客遺族を一度全て退出させた後、裏側から入室、数十分間の限られた時間で確認させたり、乗客遺族が帰った深夜に行うなどの措置をとった。そのほか、旅客から地上係員や客室乗務員、空港関係者に対する嫌がらせも一時問題となっていた。なお調査の結果操作ミスではないことが直ちに判明している。

当時の日本航空の社長である高木養根は事故の責任を取って直後に辞任した。1982年の就任(この直後に羽田沖墜落事故が発生)以来わずか4年の社長在任だった。

また、事故当時、後楽園球場外野右中間フェンスにあった日本航空の広告看板が事故直後の宣伝活動自粛により一時的に消された。他にもテレビやラジオ雑誌新聞などの広告が一定期間出稿停止された。加えて、放送開始から優勝者のハワイ旅行の協賛スポンサーだった、毎日放送(MBS)制作・TBS系列の『アップダウンクイズ』は放送を休止した(プロ野球中継で穴を埋めた)後、同年10月6日の放送をもって22年の歴史に幕を閉じた。さらに、日本航空の客室乗務員をモデルにしたドラマ「スチュワーデス物語」の再放送も、事故以後しばらく行われなくなった。

この事故に関して日本航空が支払った賠償金の総額は、当時の額で約600億円である。以後数年間、特に帰省ラッシュシーズンには競合相手である全日本空輸東亜国内航空に利用者が流れ込み、日本航空の業績は一時的に大幅に傾く事態となった。また、同社だけでなく全日空や東亜国内航空の利用者も一時的に減ったが、もう一つの競合相手である東海道新幹線(およびその他の鉄道路線)の利用客は増加した。

この事故で日本航空は会社のイメージを一新させるため、CI(コーポレート・アイデンティティ)により塗装を、事故時の赤帯の鶴丸塗装から統合前までの実質最後の鶴丸塗装へ一新させた。

[編集] 現在

現在、墜落現場である「御巣鷹の尾根」には慰霊碑が建てられ、毎年8月12日には慰霊登山などが行われている。しかし、事故発生から約20年余り経過した2005年以降、遺族の高齢化が進み、慰霊登山を断念せざるを得ない遺族が増加する。そのため、2006年夏から墜落現場付近を通る