東国原英夫

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Flag of Japan.svg 日本の政治家
東国原英夫
ひがしこくばる ひでお
東国原英夫
2007年12月16日エフエム宮崎
公開録音のゲストとして出演
生年月日 1957年9月16日(52歳)
出生地 鹿児島県
出身校 専修大学経済学部経済学科卒業
早稲田大学第二文学部卒業
早稲田大学政治経済学部中途退学
所属政党 無所属
称号 経済学士(専修大学・1980年
学士(文学)(早稲田大学・2004年
公式サイト 東国原英夫オフィシャルサイト

当選回数 1回
任期 2007年1月23日 -
  
 そのまんま東
本名 東国原 英夫(ひがしこくばる ひでお)
生年月日 1957年9月16日(52歳)
出身地 宮崎県都城市
グループ名 たけし軍団
事務所 オフィス北野
活動時期 1982年 - 2006年
  

東国原 英夫(ひがしこくばる ひでお、1957年9月16日 - )は、日本政治家宮崎県知事(第52代[1])。

かつてお笑いタレントであり、ビートたけし率いる芸人集団・たけし軍団の一員でビートたけしの最初の弟子俳優作家としての活動歴がある。タレント時代は「そのまんま東」(そのまんま ひがし)や「東英夫」(ひがし ひでお)という芸名で活動していた。

目次

[編集] 人物

[編集] タレント“そのまんま東”として

1980年、フジテレビの『笑ってる場合ですよ!』のお笑いオーディションコーナー「お笑い君こそスターだ!」に「オスカル・メスカル」という漫才コンビで出場した際に、同番組に出演していたビートたけしの楽屋を訪ねて弟子入りを願い出て[2]、1982年3月に付き人となる。2009年現在までに数多くいるたけしの弟子の第一号である。デビュー当初の芸名は「東英夫」であった。

その直後、コンビの相棒が芸能界入りする目的であった当時の人気アイドル歌手河合奈保子を生で見たことで満足し、芸能界を辞めるということでコンビは解散、やむなく京都産業大学の学生だった丸山昭範と3か月だけという約束で、コンビを結成。師匠たけしのコンビ名「ツービート」の「ツー」をもらって「ツーツーレロレロ」と命名。3か月後、芸能界を辞める丸山に、たけしに黙って失踪したという事にしてもらい、東国原は当時テレビ局でADをしていた大森うたえもん(当時の芸名は大森クンタ)とコンビを組んで「ツーツーレロレロ」を続ける[3]。人気漫才師ビートたけしの弟子と言うことで注目され、関東の有名大学をコキおろすネタを主にやっていた。1983年にたけし軍団の一員となり、「ツーツーレロレロ」のコンビを解消。

1982年前後、たけしとたけしの弟子たち(後のたけし軍団)の宴会が開かれた。そのなかで弟子全員の芸名をたけしが命名した。しかし、東国原は新しい芸名が与えられなかったため、たけしに対して、「殿、私の名前はどうなるのでしょうか?」と聞いた。東国原はすでに「東英夫」という芸名を名乗っていたので、たけしは「お前はそのまんま、“東”だよ」と答えた。

これはもちろん「お前は従来の芸名『東英夫』を名乗り続けろ」という意味である。しかし、書記係のラッシャー板前はたけしの言葉の意を勘違いしてしまい、「東英夫」ではなく「そのまんま東」とメモしてしまった。半ばシャレで、東国原は「『そのまんま東』という芸名を与えられた」ということにしてしまった。

加賀まり子の頭に自分の局部をのせて「ちょんまげ」と言い放ったことがあるエピソードが、2003年の夏に放送された壮絶バトル花の芸能界せんだみつおに暴露される。加賀はまったく怒らずに呆れ顔で「はい、はい」といいながら頭から下ろしたらしい。

TBS「ここがヘンだよ日本人」でレギュラーになったときは意外にも鋭い発言が多く、辛口コメンテーターとして発揮していた。特に、太っている出演者50人対して、「あなたたちは甘えている」「テレビで、デブで構わないというメッセージは危険」と痛烈に批判していた。一方で、過激な発言も少なくないため、たけしからのツッコミや外国人出演者からのブーイングをよく浴びていた。

テレビ番組で細木数子に「テレビに向いてない」と言われたことがある。

愛弟子に芸人早川伸吾がいる。

日本テレビのお笑いバラエティ番組『ビートたけしの全日本お笑い研究所』(1988年4月~1988年9月)で ニュースキャスター 「東国原英夫」として出演していた(出演者クレジットは「そのまんま東」)。

上岡龍太郎に誘われ、石田純一らとマラソンに打ち込んだ時期があり、それが現在にも生かされている。

[編集] 作家活動

不祥事で芸能活動を自粛していた1987年に書いた推理小説ビートたけし殺人事件』がベストセラーになり、翌1988年にはTBSでドラマ化され、東国原自身もたけし軍団の面々と共に出演。後に結婚することになる、かとうかずこもヒロイン役で出演した。

[編集] 不祥事

1986年12月9日、ビートたけしに率いられ、たけし軍団と共に講談社を襲撃し、暴行罪現行犯逮捕される。→詳細はフライデー襲撃事件を参照。

1998年10月13日、東京都内のイメージクラブ店が未成年の従業員を使っていたことで、児童福祉法違反並びに東京都の青少年健全育成条例 違反の容疑で経営者が逮捕された。その当時16歳であった少女が、性的なサービスをした客として東国原の名前を供述したことで、警察から任意の事情聴取を数回受けたが、「18歳未満とは知らなかった」と釈明した。 当時の妻のかとうもマスコミを通じ、謝罪の文書を発表した。以後芸能活動を5か月間自粛した。東国原自身は法的に罪を免れたが、倫理的な性質の問題からマスコミでは「淫行事件」として大々的に報道され、社会の激しい批判を浴びることとなった。

1997年に催されたオフィス北野の新年会において、たけし軍団の後輩タレントの側頭部を蹴り、頭部打撲等のけがを負わせたとして、1999年11月22日傷害容疑で書類送検された[4]。東国原は暴行の事実を認め、略式起訴罰金を払い、そのことで一時芸能活動を再度自粛した。東国原の公式ウェブサイトでの説明によると、先輩として規律を正す意味で蹴ったとし、自著の中で件の後輩が事務所の経費を無断で使い込んでいた疑惑に対して「先輩として」激昂してしまったと明かし、暴行傷害行為に至った事については全面的に認めており反省を表している。ただし、後輩タレントはブログで暴行事件について反論している[5]

[編集] 政治家として

かとうとの離婚後に「前々から政治家になりたいと思っていた」と言っていたことが明かされ、本人の発言やブログの記事からも政治への強い関心を見せるなど、タレント時代から政界への進出を考えていたという。謹慎中に入学した早稲田大学第二文学部では、卒業論文のテーマとして選挙活動を扱ったほか、卒業後も同学政治経済学部に再入学して地方自治を専攻している。同学部入試において出題された小論文の「入学後に学んだことをどのように社会に還元するか?」との課題に対して、「地方自治を学び、それを実践する」という主旨の論述を明確に展開しており、この頃までに地方自治への進出志向が確固たるものとなっていた。

2006年には本人を代表とする政治研究会「そのまんま会」を設立、同12月4日には故郷宮崎県の県選挙管理委員会政治団体としての届け出を行い、地元での事務所開きにおいて、支援者を前に自らの出馬にかける思いを語った際には過去の不祥事についても自ら切り出し語った。その数日後には所属していたオフィス北野を退社。官製談合事件で当時の現職知事安藤忠恕が逮捕されたことに伴う宮崎県知事選挙へ無所属で立候補。当初は過去の問題行動や言動などのイメージもあって出馬を疑問視する声も多かった。

東国原は、選挙活動において、タレント候補にありがちなタレントの選挙応援を一切受けないことで、「脱タレント」を印象付ける選挙活動を展開した。遊説や立会演説では宮崎弁を使い、早稲田大学出身をアピールし、選挙活動最終日にはマラソンをしながら活動した。宮崎再建・宮崎自立のための具体策を打ち出したそのまんまマニフェストや無所属であることの「しがらみのなさ」を強調しての県政批判などは、政治に無関心な無党派層の関心を呼び起こしただけではなく、現状に不満を持つ政党支持層へも支持を拡大していくこととなった。

東国原をサポートする政務秘書には元たけし軍団クロマニヨン吉川が就任して、多忙な東国原の生活面を助けている。

こうして、「しがらみのなさ」や「宮崎を変える」という期待感が県民に好印象を与えたことに加え、保守陣営の分裂という追い風も幸いして、得票のうち約45%を得て当選した。各マスコミによる出口調査では無党派層だけでなく各政党支持層からも一定の票を獲得したことが伺える。小学校の卒業文集に「夢は政治家とお笑い芸人」と書いていたが、図らずもその夢を2つとも叶えることとなった。

[編集] 知事「東国原英夫」として

選挙活動は芸名の「そのまんま東」で行ったが、県知事に就任してからは本名の東国原英夫(ひがしこくばる ひでお)で活動している。それに伴い、「そのまんま東」は2007年3月にたけしの付き人であるゾマホン・ルフィンが襲名した(2代目)。

作業服で初登庁したり、「椅子をパイプ椅子に変える」「こんな立派な机もいらない」「退職金は出来高払い。議会がいらないと言えばいらない」などの言動が地元では好意的に受け止められている。知事専用の公用車について、当初は「廃止する」と述べていたが、燃費や他の手段を使った場合のコストなどの問題を考え、車種をトヨタの「センチュリー」から、ハイブリッドカーである「クラウンセダン」へ乗り換え、これにより年60万円の公費削減となった。似たような理由で知事公舎にも住んでいない(置き換えられたセンチュリーは競売に掛けられ、255万円で落札(譲渡)された。また副知事車両、出納長車両も同様に競売に掛けられ落札された)。

報道番組やワイドショーに連日報道されたり多くの特集が組まれるようになったとともに、積極的にマスメディアに出演して宮崎県の宣伝を行っており、自らを「宮崎県のセールスマン」と呼んでいる。バラエティー番組への出演も多いことから、「テレビに出演しすぎだ」「知事になってもタレントのつもりでいる」などの批判が一部からも挙がっているものの[6]、本人は効果的な宮崎県の全国に対するPR活動として重点を置いている。就任後のテレビ番組出演はすべて宮崎県のPR目的であるため、スケジュール、時間的にどうしても不可能な場合を除き、極力出演依頼を断らないようにしている。また出演料もタレント時代では考えられないような低い条件でも出演を断ることはほぼない。仕事によっては、ほぼノーギャラで交通費など雑費のオファー側負担だけでもテレビ番組やイベントに出演することもあるとしている。

2007年1月23日の知事就任直前に清武町で、そして直後には日向市新富町鳥インフルエンザが発生した。この状況に素早く対処すべく、1月29日には中央省庁を訪れ、国からの財政支援などを要請した。また、県内の民放局で流す、県内産の鶏肉鶏卵の安全性を訴えるCMに自ら出演したり、宮崎県の巨人軍キャンプとソフトバンクの練習場を訪れ、宮崎県産地鶏などを贈呈するなど、風評被害対策のため、鶏肉の安全性を盛んにアピールしている。これらの努力の甲斐もあり、宮崎の地鶏の消費量は、発生前より4割も増加した(その他にも県内特産品のPRも積極的に行っている)。ソフトバンクのキャンプでは監督の王貞治と会って、「王監督の手は神のようだ」と言っていた。

2007年2月15日、「オール野党」とも評される県議会で所信表明演説を行った。その様子はMRT(宮崎放送)で午前9時55分から生中継(所信表明演説の中継は県議会史上初)され、普段は埋まることのない60の傍聴席を求めて93人の市民が訪れるなど、異例づくめの所信表明演説となった。その際に発した「宮崎をどげんかせんと(どうにかしないと)いかん」というフレーズは幾度となくマスコミに取り上げられ、注目を集めた。この言葉は流行語大賞にも選ばれた。なお、実際には「どげんかせんないかん」が正しく、本人もそう発声している。地元都城では、「どげんかせんといかん」と発声することはまずない。また、「どげんか」と発声するのは実際には鹿児島地方で、都城は旧薩摩藩領だったため同様に言うのであって、宮崎市などは「どんげか」と発声する。こういったことが間違った形で広まり、流行語大賞も間違った形でノミネート・受賞に至っている。

2003年に4億9600万円の公費を費やして建設された知事公舎を批判し、選挙前から住んでいるマンションに知事に当選後も住んでいたが、当選後は自宅マンションや近隣住民への悪戯が多く迷惑を掛けているとの理由で勤務先の県庁に歩いて行ける近場のマンションをローンで購入し、2007年3月29日から住んでいる。

知事選で争った、自民党推薦の持永哲志を副知事に迎えるという人事構想を抱く。自民党会派が勢力を占める県議会とのパイプ役や中央省庁とのパイプ役を模索していると報道されるが、「脱・官僚」を期待して東国原に投票した県民の反発を招き、起用を断念した。副知事には総務省出身で宮崎県に出向中の河野俊嗣を起用した。

2007年4月16日の定例記者会見において、「特に発表することがない場合は(会見を)カットしてもよいのではないか」、「毎日取材に答えているので、改めて話す内容はない。それでもやる意義はあるのか」などとして、各社の記者と20分間にわたり問答を繰り返した。

後に出演した『サンデープロジェクト』(テレビ朝日)4月29日放送分でも「特に発表することがない場合でも、わざわざ12時まで会見時間を設けるのは効率が悪く、浮いた時間を公務に回すべき」(通常の定例記者会見が11:00~12:00の1時間で行われるため)と発言したが、かつての長野県知事である田中康夫のように記者クラブを撤廃させようというものではなく、あくまでも県政の効率化のための提案であることを述べている。その際は一部保守系メディアから非難を受けた[7]

2007年4月に宮崎日日新聞社が行った世論調査は、支持86.7%、不支持1.1%であった。

2008年1月20日に、「新しい日本をつくる国民会議」(21世紀臨調)を母体とする「地域・生活者起点で日本を洗濯(選択)する国民連合」(通称:せんたく)の設立に発起人として参加。

道路特定財源問題では「暫定税率維持」の方針を明確に打ち出し、「暫定税率撤廃」を主張する政党(主に民主党)や議員に対して、連日テレビで批判を繰り返した。この為、東国原は新「道路族」と呼ばれる事もある[8]

2008年6月、宮崎県議会の一般質問に於いて、現在は予定額250万円以上の全ての工事を一般競争入札であるのに対して、「今の方法がベストではない。検証結果を踏まえ、その都度見直す」と指名競争入札の復活も検討する方針を示した。[9]

2007年1月から2008年9月30日までの間に政治資金パーティーを11回開き、約6000万円を集金した。東国原の前任者で、競売入札妨害容疑によって逮捕された安藤忠恕の政治団体(明日の宮崎を創る会)に寄付していた県建設業政治連盟(宮崎県内の建設業界による政治団体)も、東国原のパーティ券を購入していた[10]

[編集] 衆院選出馬騒動

[編集] 2008年の騒動

2008年10月、地元宮崎県選出の代議士・中山成彬宮崎1区)が次期衆議院議員総選挙に出馬せず、引退を表明した際には宮崎県政界の中に東国原を後継候補者として擁立する動きがあった。しかし、東国原は10月6日、「現時点で(衆議院の)総選挙に出る意思はない。知事の任期を全うしたい」と衆議院総選挙出馬をしないことを表明した[11]。しかし、程なく変節し、11月20日夜に延岡市内で行われた講演で、「なるからには閣僚か、トップです。初当選、初入閣[12]」と述べた。

[編集] 2009年の騒動

2009年6月23日、当時自由民主党選挙対策委員長であった古賀誠と会談し、次期衆議院議員選挙への出馬を要請された。それに対して、全国知事会の改革案を一言一句違わずに受入れることや自身を「自民党総裁候補」とすることを条件として提示した。一方で、同日FNNスーパーニュースに出演し、「民主党で出馬する方が、早く改革できるのでは?」と問われたのに対し、「党としての経験が蓄積されていることを重視し、自民党が下野することになっても民主党で出馬することはない」と発言し、相対的に自民党を支持していることを示唆した。会談の仲介役となったのは、早大時代の友人である唯是一寿

2009年7月1日毎日新聞の朝刊において、地方分権担当大臣または無任所の大臣としての入閣との報道がされた。これを受けて、同日、宮崎県高千穂町で報道陣の問いかけに対し、「大臣であろうがなかろうが、自民党が変わるならお受けします」旨返答し、改めて次期衆議院議員選挙へ出馬する意向を示した。さらに、翌日付の朝日新聞において、民主党が自らを代表に選ぶことはないとの見込みを理由に、自民党から出馬することを改めて表明し、「自分が自民党から出馬すれば自民党は負けない、負けさせない」「(国会議員になった場合)次期県知事には自分の継承者を指名した上で口出しするから、事実上の県知事は自分であり、次期県知事は傀儡政権である」旨の発言をしたと報道された。

2009年7月16日、記者会見を開き、自民党からの出馬要請を受けないことを表明。理由は、出馬を要請した古賀誠選挙対策委員長からの書簡で、全国知事会がまとめた地方分権に関する方針を同党の政権公約(マニフェスト)に盛り込むことについて「100%のむことは厳しい」との返答があったためとした。

[編集] 略歴

[編集] エピソード

  • 東国原」姓は宮崎県都城地域や鹿児島県曽於地域において見られるである。また、原の字を「ハル」や「バル」と読ませるのはこの地域に限らず九州地方の地名等によく見られる(西諸県郡高原町古墳で名高い西都原長者原駅など)読み方である。但し、読み方にはいくつかあるようで、地域によっては「ひがしくにばる」「ひがしこくばら」といった読み方も存在する。
  • 宮崎県立都城泉ヶ丘高等学校時代はハンドボール部に所属。高校総体にも2年連続で出場した。
  • 実父は手広く不動産業を営んでいたが、商売上のトラブルから、自宅を放火されたことがある。晩年は事業に失敗し、変死している。自殺かどうかははっきりとは語られてはいない。
  • 継父は、つむぎ職人。
  • 18歳の時の大学入試では、専修大学だけでなく、早稲田大学にも合格していたが、親からもらった100万円の大半を東京見物の遊興費に使ってしまった為、残金で、先に合格した専修大学の入学金を払い、進学を決めたという。
  • 2008年9月にMBS/TBS系で放送された『芸能界特別授業! 私はこうして生き残りました!』の中で、早大時代の学生生活について、芸能界の感覚が抜けず、コンパや飲み会で割り勘の習慣に慣れるまで時間がかかったことを、友人の唯是一寿が明かしている。
  • 本人がナンバー2~1番になれなかった天才達の物語~出演時に語ったところによると、1999年度のNHK紅白歌合戦」で、野猿を率いていたとんねるずを見て、お笑いの世界からの引退を決意した。なお石橋貴明とはプライベートでも長きに渡る交流がある。
  • 私生活では2度の離婚歴がある。宮崎県知事就任後の2008年4月にも女性問題が広く報じられ、150万円の手切れ金を渡したことが報道された[13]
  • 元妻であるかとうかず子との離婚には複数の説があり。妻のかとうに「私と宮崎、どっちが大事なの?」と言われ、「宮崎!」と即答して離婚し知事選に出馬したとの説と、「政治活動するような人には激しい拒絶感があり、精神的に受け付けない」という理由で離婚したとの説がある。
  • 公式ブログでは「ワーキングプア」を自称しているが2007年度の推定所得は約4110万円(給与所得約1200万円、雑所得(テレビ出演料、講演費など)約2860万円、一時所得約50万円(2007年度))と高額所得者であり、ワーキングプアと呼ばれる低収入層には位置しない年収を得ている[14]。知事就任以降、自らの給与をカット(知事報酬を20%削減)している。
  • 人生が変わる1分間の深イイ話』に出演した際、自分の話が出たが本人は「う~ん」と判定した。内容は「選挙戦で大変だった時、たけし軍団でのキツい仕事を思い出して乗り越えた」だったが、本人は「(キツい仕事が)楽しかった」と、投稿者との考え方のズレを指摘した。
  • 2008年12月16日放送の「キミハブレイク」の「銀座の母SP」で占って貰った所「過去の手相は最悪だった為、生活は最悪だった」と言われたが、「未来の手相は良いからこれから運が良くなる。」と絶賛された。ただ女性問題には要注意と何度も釘を刺された。
  • 2008年アメリカ合衆国大統領選挙で勝利した民主党バラク・オバマについて、「演説が上手というような評価ですが、私から言わせると、その技量は普通[15]」と評した。
  • フライデー襲撃事件の際、最後まで嫌がったのは推理小説の江戸川乱歩賞の後援が講談社だった為作家活動として自身の推理作品の入賞を狙っていたので、師匠の北野武に当時文藝春秋に襲撃対象変更できないかと言ったことをテレビで明かしたことがある。
  • 上記の通り、マラソンに打ち込んでいることで有名である。TBSオールスター感謝祭赤坂5丁目ミニマラソンには出演する際には必ず参加したり、日本テレビ24時間テレビ 「愛は地球を救う」のチャリティーマラソンについて「誘いがあれば検討したい」と述べていた[16]。なお、政界で同じくマラソンに打ち込んでいる鈴木宗男をライバル視しており、2008年東京マラソンでは敗北したものの、2009年東京マラソンでは鈴木宗男よりも早くゴールインした。なお、東京マラソン後に政務をこなした[17]
  • 2008年3月31日、日本テレビで最初の『情報ライブ ミヤネ屋』の放送のときに全国放送開始記念(宮根の全国進出記念も兼ねて。)で司会者宮根誠司(みやね せいじ)と東国原英夫宮崎県知事との対談が放送されたが、知事はこの司会者を「ミヤネ屋さん」と言ってしまった。知事は「ミヤネ屋さんてお名前じゃないんですか?」と驚いていた。それに対して宮根は「ミヤネ屋は番組名で、オレは宮根だ!」と主張した。
  • NHKの『NHK紅白歌合戦』の審査員を狙っていると発言したことがある。

[編集] 出演した番組など

[編集] タレント時代

ドラマ
  • 白い巨塔(1990年、テレビ朝日系)-安西医局長・役
  • 誰にも言えない(1993年、TBS系)-栗林俊治・役
  • ビートたけし殺人事件 失われた魔人の伝説(1989年10月、TBS系)
  • 誘惑(1990年4月-6月、TBS)-岸森博・役
  • 世にも奇妙な物語 『死後の苦労』(1990年、フジテレビ系)
  • 世にも奇妙な物語 『死神』(1991年、フジテレビ系)
  • 金田一少年の事件簿(2001年、日本テレビ系)
  • VICTORY! ~フットガールズの青春~ (2003年11月22日、フジテレビ系)
  • はぐれ刑事純情派第16シリーズ『誤解逮捕が悲劇を生んだ!2300万円の殺意!?』(2003年6月25日、テレビ朝日系)-松田・役
  • 救急救命士・牧田さおりシリーズ『緊急出動! 毒劇物災害の現場になぜ刺殺体?』(2005年11月12日、テレビ朝日系)-北村光男・役
バラエティ
ラジオ
情報
CM
PV
  • FUNKY MONKEY BABYS 「そのまんま東へ」 (CDジャケットにもそのまんま東のアップ写真が起用されている)

[編集] 知事就任後

テレビ
ラジオ
映画

[編集] 著書

[編集] 「そのまんま東」名義

[編集] 「東国原英夫」名義

※オフィシャルサイト(後述)で書かれていた日記をまとめたもの
  • 『ニッポンを繁盛させる方法』(角川書店、2007年11月) ISBN 9784047101210
※お笑い芸人の島田紳助との対談
※お笑い芸人の島田洋七との対談
  • 『芸人学生、知事になる』(実業之日本社、2008年5月) ISBN 9784408420059
※2004年刊『芸人学生』の増補改訂版
  1. ^ 公選の宮崎県知事としては第17代。
  2. ^ このとき桂三枝の弟子になる考えも持っていた
  3. ^ そのまんま東『60歳を人生ピークにもっていく法』KKベストセラーズ
  4. ^ 被害を訴え出たのは新年会から約1年が経過してから。
  5. ^ 北海ジャンジャンのジャジャジャン!:そのまんま東 刑事事件 - livedoor Blog(ブログ)
  6. ^ 「功績認められた」東国原知事、”出過ぎ”批判あるもPR活動に意欲、2008年5月30日、ニュース-ORICON STYLE-
  7. ^ 宮崎日日記事にキレる 東知事「テレビだけの会見でも」、2007年6月18日、J-CASTニュース
  8. ^ ■<寄稿> 一方を聞いて決めつけるな! -道路特定財源を例に政策論争を考える / 商学部教授 太田 和博、2008年7月号、ニュース専修 ウェブ版
  9. ^ [入札制度改革:「見直す」知事が見解、2008年6月24日、毎日新聞
  10. ^ 政治資金:東国原・宮崎県知事 パーティ券で6000万円集金/「脱談合」の建設業界からも、2008年9月30日、毎日新聞(オッショイ!九州)
  11. ^ 東国原知事が不出馬表明 次期衆院選産経新聞 2008年10月6日閲覧
  12. ^ 東国原知事:国政転身の条件は「初当選、初入閣」…講演で、2008年11月21日、毎日新聞
  13. ^ 弟子に芸人の早川伸吾がいる。東国原知事、手切れ金認めた「女性に心当たりある」、2008年4月25日、サンケイスポーツ
  14. ^ 東国原英夫知事、副収入は給与の2倍超、2008年4月8日、産経新聞(電子版)
  15. ^ 東国原知事「総選挙も影響があるのでは」、2008年11月5日、日テレNEWS24
  16. ^ 日刊スポーツ:東国原知事「24時間」マラソンに興味
  17. ^ 東国原知事お疲れ 東京マラソン完走→会議出席→宮崎へ戻り「足腰フラフラ」:社会:スポーツ報知

[編集] 演じた事のある人物

[編集] 関連項目

人物
たけし軍団関連
その他

[編集] 参考文献

  • 『東国原知事は宮崎をどう変えたか』(ミネルヴァ書房、2009年9月) ISBN 9784623055760

[編集] 外部リンク


16代:
安藤忠恕
Shadow picture of Miyazaki prefecture.png 宮崎県知事
17代:2007 - 現職
18代:
-
他の言語