島田洋七
| 島田洋七 | |
|---|---|
| 本名 | 徳永 昭広(とくなが あきひろ) |
| 生年月日 | 1950年2月10日(62歳) |
| 出身地 | 広島市中区白島 |
| 血液型 | O型 |
| 身長 | 164cm |
| 方言 | 関西弁、佐賀弁 |
| 最終学歴 | 広島工業大学土木工学科中退 |
| 師匠 | 島田洋之介・今喜多代 |
| コンビ名 | B&B |
| 相方 | 島田洋八 |
| 芸風 | 漫才(ボケ) |
| 立ち位置 | 右 |
| 事務所 | 島田オフィス |
| 活動時期 | 1970年 - |
| 同期 | 間寛平 |
| 作品 | 著書 『佐賀のがばいばあちゃん』 |
| 配偶者 | 既婚 |
| 文学 |
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| ポータル |
| 各国の文学 記事総覧 出版社・文芸雑誌 文学賞 |
| 作家 |
| 詩人・小説家 その他作家 |
島田 洋七(しまだ ようしち、1950年2月10日 - )は、日本の漫才師、タレント、作家。漫才コンビB&Bのひとり。本名、徳永 昭広(とくなが あきひろ)。
広島市中区白島九軒町出身[1][2][3](基町生まれ[4])。島田オフィス所属。
目次 |
[編集] 人物
1980年代、漫才ブームのパイオニアとなり[3][5][6][7][8][9][10][11][12]、月収1億円の時代から、人気急降下、そして2000年代のベストセラー作家と、ジェットコースターの様な激動の人生を歩むお笑い芸人である[13]。ビートたけしの親友としても知られる[14]。なお、下の名前の読みは「ようひち」との表記説が多く言われているが、本人にいわく「どっちでもいいが分かりやすい『ようしち』が良い」との事(大阪では質や七を「ひち」と読むため)。
[編集] 来歴
[編集] 広島/佐賀
1950年広島市に生まれる。父親は原爆によって被爆して洋七が生まれた頃は病床にあり、洋七2歳のとき原爆症で亡くなる[2][3]。家族は母・兄・洋七の三人。
広島市立幟町小学校1年生6歳の頃[4]、佐賀の祖母に預けられ、中学を卒業するまでの8年間の体験が『佐賀のがばいばあちゃん』として後に出版されベストセラーとなり、映画化・ドラマ化された[15]。
佐賀市立赤松小学校、佐賀市立城南中学校と進むが、母親への思慕が募り、また野球がうまかったこともあり、1965年春、高校野球の名門・広島広陵高校に入学し、故郷・広島に戻る。洋七は新人のころ、島田紳助や明石家さんまら、芸人仲間に「広陵高校の野球部出身で、甲子園にセカンドで出た」と言いふらしていたため、皆これを信じていたが、後にウソが発覚した[16]。広陵入学から大阪に行くまでの経歴は、はっきり分からないが以下のようなものと考えられている。野球特待生として推薦入学したが、練習中に打球が左腕を直撃して肘を痛め野球をあきらめた。野球部には一年生の夏まで在籍した[17]。当時の野球部監督は森岡栄司である(名将といわれた三原新二郎監督の就任は1966年)。広島東洋カープの主力投手だった佐伯和司は3学年下となる。
広島工業大学土木工学科に進学するも中退。八百屋に1年半住み込みで働くなどした後[18]、19歳の頃、再び佐賀に戻り、当時デパートに勤めていた今の妻と知り合う[19]。20歳のとき、二人で東京へ駆け落ち[20]。間もなく妻の貯金も尽き高校の先輩に誘われ大阪に移る[6][20]。
[編集] 大阪
1970年、うめだ花月で笑福亭仁鶴の落語や、中田カウス・ボタンの漫才を観たのがきっかけで芸人になろうと決意[20]。仁鶴がベンツ(『メントレG』出演時の話ではロールス・ロイス[20])、中田カウスがポルシェで帰るのを見て「15分笑わせるだけでお金が稼げるなんて、こんないい商売があるのか」と、とても簡単そうに見えたのが決意した理由という[20][21][22]。先の先輩が吉本興業の関係者と知り合いで紹介してもらい、うめだ花月の進行係として採用される[20]。当初仁鶴に弟子入りを志願したが言葉の訛りを理由に断られ、次に美人の今喜多代、優しそうな島田洋之介に惚れ弟子入りを願う。しかし同様の理由で弟子入り志願者が多く、毎日師匠の元に通い1ヶ月と4日目に弟子入りを許された[23]。
弟子入りしてから一年二ヶ月後の1972年、現在放送作家として活動している団順一(萩原芳樹)と初代B&Bを結成、島田洋一名で漫才師としてデビュー[24]。コンビ名は「洋一・順一」をそのまま使う予定だったが、"今"という最新のネタをテーマに喋る仕事だからこそ、ネーミングも今風にしたいと「B&B」と命名した[24]。「B&B」というコンビ名は、洋七が昔アルバイトしていたディスコの店名を勝手に拝借したもので、言葉自体に意味はない[24]。師匠からはこっぴどく怒られたという。このコンビでは洋七はツッコミ担当だった。洋七の漫才スタイル・原型は、団の影響を強く受けたと言われている。初舞台となった名古屋・大須演芸場のお客は5人だった。
漫才の水にはすぐに馴染み、初舞台から11ヶ月で最優秀話術賞を受賞[25]。この初代B&Bは相方の団の失踪で消滅。1973年上方よしお(当時の芸名は上方真一)と二代目B&Bを結成[26]。よしおは松竹芸能から吉本に移籍した[27]。西川のりおとは犬猿の仲で知られるが、よしおはのりおの勧めだったという[27]。天性とも言えるスピード感溢れるしゃべりとセンスは、関係者の間で高い評価を受け、数々の賞を受賞[27][28][29]。この頃、当時18歳の島田紳助がTVで洋七を見て衝撃を受け「島田洋七を倒す事に俺の青春を賭けよう」と考え、同門入りした話は今や伝説となっている[30][31][32]。紳助は「結局何もしてないのに勝手に倒れた」と語るが、実際は二年間、金魚のふんのように洋七について回っていた[33]。
1975年、洋七は東京進出を考えるが、よしおが「怖い」と尻込み。また洋七がよしおに楽器を持てと強要し大ゲンカとなって解散した[27][34]。漫才は諦めようかと悩んだが、花月劇場の進行役をしていた洋八を、桂三枝が「あの人はどないや。」と薦めるので洋八を口説き、三代目B&Bを結成[21][35]。「七転び八起き」または「七転八倒」から、それぞれ洋七・洋八に改名。結成二年目の1977年には第6回上方お笑い大賞銀賞を受賞。翌1978年には第13回上方漫才大賞奨励賞を受賞するなど実力が認められた。しかし1979年、「ヤングおー!おー!」(MBS制作)のチンチラチンコーナーにレギュラー抜擢されなかった事が原因で大阪の活動に限界を感じる(詳細は後述)。この事が最終的に決断した理由だが、頑なに東京行きを決行した理由を洋七は幾つか異なる説明をしている。一つは当時の大阪の若手実力漫才コンビの中では、ほぼ唯一の"非関西圏"の出身でもあり、大阪にいるあいだは"ヨソもん意識"があって大阪に執着は無く、東京なら"ヨソもん"の集まりだからいいだろうと考えたこと[36]。他に星セント・ルイスが大阪のテレビ番組にやってきたが、笑いでは自分たちが勝っていた。セント・ルイスの人気をみて、東京に行った方が売れるんじゃないかと思ったこと[37]。また、大阪では結構売れっ子となっていたのに、郷里の広島や、祖母のいる佐賀では殆ど知られておらず、「いくら売れても大阪ローカルではダメ、東京発の全国ネットのTV番組に出演しなければ意味がない」と悟ったこと[21][38]。他にもWヤングの平川幸男に「お前らなら売れる。東京に行け」と勧められたという話もある[11]。これらの理由から東京で活躍したいという野望が沸く[39]。当時の吉本は東京に事務所がなかった[40]。
1979年9月、29歳で東京行きを決行した。吉本興業の幹部・芸人仲間からの反対を押し切って、強行で反旗を翻したため、吉本興業側から一方的にマネジメント契約の解除を言い渡される。
[編集] 東京
東京の漫才協団に加入し戸崎事務所に移籍[41]。東京の業界はB&Bを概ね好意的に受け入れた。このため吉本は円満退社だったという説がある[28][42]。東京の漫才協団にすんなり加入できたのはこのため[43]。浅草松竹演芸場など東京の寄席にノーギャラで出演。B&Bの名前は東京の関係者には轟いており、観客がまばらなのに偵察に来た東京の若手芸人達が立ち見に並んだ[44]。自身もこれを見たというラサール石井は「何より凄かったのは洋七さんのテンポ、速射砲のような喋りとパワーあふれるツッコミ」「しかも画期的なことは、出番でない他の芸人達がB&Bが出ると楽屋から出てきて客席の後ろの方で大笑いしていた」と話している[45]。同業者にはウケないのが普通なのである。まったく売れてなかったツービートのビートたけしもまた、洋七の“言葉の連射攻撃”“客を完全に飲み込んで唖然とさせる漫才”を見て衝撃を受け、スピードを早め、たけし一人が喋りまくるスタイルへ変更した、と著書『浅草キッド』に記している[46]。ツービートの看板ネタ「山形いじめ」は、B&Bの「広島vs岡山ネタ」を真似たもので[46]借用元のB&Bの上京以降「山形いじめ」ネタを封印せざるを得なくなり、それがツービートの過激度を一段と高めることになった[47]。こうして東京でも瞬く間に高い評価を得て、漫才協団幹部の内海桂子が「よくもこんな(凄い)人を吉本がくれたわね」と驚嘆した[48]。 1980年1月、澤田隆治プロデュースによる「花王名人劇場」(関西テレビ)「激突!漫才新幹線」に大抜擢され出演。この番組はゴールデンタイムの1時間枠をMC無しで、B&Bとやすしきよし、星セント・ルイスの三組が漫才のみをする、という当時としても画期的で、勿論現在のゴールデンでも見られない形態のものだった[49]。当時のテレビでの漫才は、お昼の演芸番組(『大正テレビ寄席』など)や、正月の寄席中継、タレントのかくし芸等で5分とか3分にコマ切れして見せるもので[50]、この頃はコントが非常に人気があり、特に東京では漫才はコントや落語に比べて影が薄い、古臭いイメージだったのである[51]。関西でも同様で、極端にいえば、漫才は年寄りの娯楽に過ぎないイメージで[52]、当時は演芸番組自体が激減していて、大阪でも漫才だけという番組はなく、テレビ局全体で週1~2本が細々と残っているだけという状況でゴールデンではほとんど漫才は無かった[53][54]。ましてや若手漫才師が全国ネットのゴールデンに出演することなど無かった[55]。また漫才と言えば、スーツや派手なタキシード、蝶ネクタイ等を着用し、年期の入った掛け合いを見せる、というものだったが、TシャツにGパン、長髪の今風の若者が、掛け合いを無視したボケの一方的なしゃべりで、広島や岡山など地方をネタにした郷土ギャグを、体を使ったオーバーアクション、一発芸を駆使してみせるという高速漫才は、従来の漫才とは違うとても新鮮なもので[56]やすきよにも一歩も引かない姿は大きな反響を巻き起こした[9][49][57]。こういったスタイルは多くがその元祖、草分けといえるものであり、現在もお笑いの基本となっている。元々、この企画はタイトル通り、東京代表の星セント・ルイスと、大阪代表のやすしきよしの激突で、広島vs岡山ネタをやっていた新人のB&Bは"つけ合わせ"としての出演だった[58]。この千載一遇のチャンスを洋七はモノにしたわけである。長らく司会に専念していたやすしきよしが、長い漫才をやるという話題性もあって「激突!漫才新幹線」は高視聴率を稼ぎ、これが各局とも漫才番組を製作する切っ掛けとなった[59]。また漫才番組はドラマと違って、企画を立てて1週間後に放送できるというお手軽さもあった[60]。同年4月から始まった「お笑いスター誕生!![61]」(日本テレビ)でも、ケタ違いの実力を見せ、ストレートで10週を勝ち抜き初代グランプリとなり大ブレイク、漫才ブームを引き起こす[62][7][63]。お笑い芸人で初めて化粧品洗剤業界のCM(花王シャンプー)に起用され[64]、お笑い芸人で初めて客席からテープが飛んだ。サイン色紙を手にした女子中・高校生が演芸場のロビーに列をつくり出待ちした[65][53]。最初に女性ファンを呼び込み、お笑い芸人をアイドル化させた功績は計り知れない[66]。漫才師で初めて全国ネットのレギュラー『笑ってる場合ですよ!』のMCを務めたのも、B&Bが一番人気があったからである[67]。B&Bは漫才ブームの最大のスターであった[68]。洋七は「あの時期、爆発的に売れてるアイドルがいなかったんです。それで、騒ぐ対象がないから漫才師に向けられたと思う」と解説している[69]。たのきんトリオがブレイクする直前のエアポケット状態の時期であったかもしれない。「お笑い」関係の多くの著書があり、漫才ブームにも係わった井上宏は、「B&Bが東京で大活躍しなければ、漫才ブームも起きなかったかもしれない」と述べている[70][10]。また「笑点」のチーフ作家・遠藤佳三も「B&Bの東京進出がなかったら、若手漫才ブームは、もっと小さなもので終わっていただろうと思う。B&Bは東京人に上方漫才の面白さを改めて吹き込み、関西弁に違和感をおぼえる人々にも、こと漫才だけは抵抗なく受け入れてもらえる素地を作ったのである。その素地がなければ、大阪のニューウェーブ漫才は、そう簡単に東京に進出できなかったはずだ」と論じている[71]。関西弁(近畿方言)の全国普及は漫才ブーム以降の関西お笑いタレントの東京進出の活発化によってより広まったものだが[72]、その嚆矢は非関西人のB&Bである。B&Bの漫才は、老若男女誰にもわかりやすく親しみやすかった。また非常に陽気で愛敬があり言葉の毒を中和して、若い視聴者を関西弁の笑いに馴染ませ素地作りに貢献したのである[73]。
[編集] 漫才ブーム
同年4月、フジテレビプロデューサー横沢彪が穴埋め企画として、失敗覚悟でゴールデンタイム1時間半という画期的なお笑い番組を敢行。「THE MANZAI」と題したこの番組は、B&Bをはじめとした若手芸人を中心に起用、笑い屋のおばさんを廃止し、客席には落研やプロレス研究会などの大学生だけを入れる、ディスコ調の派手なセット、ナレーションにアメリカナイズされた小林克也の起用、服装は自由、ネタを編集する、CMネタを認めるという、当時としてはタブーだった事をすべて許容した斬新なものだった[74]。これらの大半を提案したのは、何と洋七という[75][76] 。若手芸人といってもそれなりのキャリアを持った彼らは、大いにその実力を発揮し漫才は爆発的な人気を得て社会現象ともなる。中でもB&Bは若い女性に大人気となり[77]、ブロマイドの売り上げがアイドルと混じって男性部門第3位となる。漫才コンビの売れ行きが順位の上位をしめたのは、マルベニ堂の歴史で初めてのことだった[78]。この人気でピーク時で、週に実に26本、月100本以上もの番組に出演する殺人的スケジュールとなる[53]。同年10月、「笑ってる場合ですよ!」(フジテレビ)の総合MCに抜擢される。関西芸人が全国ネットのお昼の番組の司会というのも画期的だった[79]、当時は漫才が司会をやって当たったためしがない、といわれていたのである[80]。この年、時間が取れない中、深夜0時、2時、3時、と3回のクリスマスディナーショーをこなす。「所属事務所は社長が一人、タレントはB&Bだけで社長がマネージャーを兼務した。そのためギャラは3人で分けて紙袋や段ボール箱に入れて持って帰った[81]。女は常に八角関係、たけしと一千万で銀座のクラブを貸し切ったり、現金持参でベンツを買いに行ったりするなどの豪遊をした[82]。
[編集] 急降下
しかし、1981年から始まった「オレたちひょうきん族」(フジテレビ)ではたけしと明石家さんまがメインで洋七は完全に脇にまわる。また、1982年の「笑ってる場合ですよ!」終了と同時に人気が急降下、1983年にB&Bを解散。その後、国分健二(浮世亭ケンジ)と新コンビ「スティング」を結成したり、間寛平と「洋・寛」という漫才コンビを結成したりするも、いずれも長続きしなかった。間寛平の絡みで萩本欽一の欽ちゃんファミリー入りしたこともある。またかねてより事業欲も旺盛で、最盛期には当時都内に下北沢など数軒しかなかった広島風お好み焼き店“モミジハウス”を新宿・渋谷・原宿などの一等地に6店舗展開。しかし後に母親の要求に応じて全て閉店してしまう。この頃「たかじんnoばぁ~」のイレギュラー出演以外は仕事が無かったので、たけしの仕事場に付いて回る。また、竜雷太と土地がらみの問題で裁判になり、勝訴するも結局借金しか残らなかった。1995年第17回参議院議員通常選挙に当時居を置いた埼玉県選挙区から出馬[83]。洋八やぼんちおさむら昔の仲間が応援してくれたが、高速道路で演説したり他県で演説したりで落選。このため新潟県で2票入ったという逸話が残る。芸人引退を決意し、たけしに相談するが、「芸人をやめるなら友達づきあいをやめるぞ!」と一喝され、引退を思いとどまる。一度は契約を解除された吉本に頭を下げて復帰を許され、生涯一漫才師を誓い、洋八と再びB&Bを復活させ、こつこつと仕事をこなす[84]。
[編集] カムバック
たけしに「出ろよ」と言われ出演した『平成教育委員会』も、いつまでも頼ってはマズいと辞める[85]。この頃、レギュラーを持っていたラジオのゲストに学者や野球選手が来ると「これから講演に行く」と聞かされ興味を持ち講演をはじめる[86]。祖母との思い出は、恥ずかしい過去でもあり、あまり他人に話してなかった。しかし講演で祖母の話をすると非常に受け、またたけしと寿司屋で飲んだとき、たけしの母親自慢に対抗して、ばあちゃんの話をしたら涙を流してたけしが大笑いし「絶対に本にすべき」とアドバイスされたことから1987年、話をまとめて出版社に持ち込むフジテレビ[20][87]。しかし、「お笑いの人にしては話が地味」として請けてもらえず、40社まわったが出版できなかった。やむなくNGKの楽屋やNHKロビーにカンパ箱を置き、お笑い仲間、佐賀や広島の人達からもカンパを募り、東京の小出版社から1987年12月、自費出版で単行本にし、当初3000部を出版。この時のタイトルは、たけしに付けてもらった「振り向けば哀しくもなく」だった[88][89]。さほど評判になることもなく廃刊となっていたが、初出版から14年後の2002年に佐賀地域だけで売れたらいいと思い「佐賀のがばいばあちゃん」と改題し二度目の自費出版。この時は自費出版では珍しく2万部を売上げ少々話題となる。
徳間書店から出版させて欲しいと連絡があり三度目の出版で[90]文庫化されると口コミで評判が広がる。さらに2003年「徹子の部屋」(テレビ朝日)で祖母の話をしたところ、大きな反響を呼ぶ。
その後、増刷を重ね“がばいばあちゃん”シリーズ三部作はベストセラーとなり映画化・ドラマ化もされ、再び注目された。2007年に入って『スマステ』(テレビ朝日)など、テレビで特集が組まれ更に部数を伸ばした[21][91]。“がばいばあちゃん”シリーズ総計では2008年7月、670万部を越え韓国、台湾などでも出版されている[92]。
吉本在籍時は多数のテレビ出演ほか、「佐賀のがばいばあちゃん」を演目とした講演依頼が殺到、その回数は2009年4000回を越えたという(本人談)[93][8]。常人には決して経験することのない波瀾万丈の人生を歩むお笑い芸人と言える。
現在は妻の母親の介護のため、佐賀市東与賀町に居を構え活動中。
2007年8月末をもって吉本興業を再度離籍することが発表された(2007年4月10日)[83]。その原因としては、「がばい」関連の収益について吉本側と対立したためとされた[94]。なお、完全に吉本との契約関係が終了したのは2007年12月9日である[95]。『佐賀のがばいばあちゃん#映画』は、2006年に倉内均監督で映画化され、2009年に洋七自身が監督を務め再映画化。この際、追放同然で吉本を退社した洋七の映画に島田紳助が友情出演したことで紳助と吉本の関係も悪化したとされる[96]。洋七は現在は、個人事務所を立ち上げて、島田オフィス所属としているが、吉本退社後はマスメディアへの露出が減った[97]。
島田紳助は「漫才ブームで新しいことをやったのは、B&Bとツービート、紳助・竜介だけ。ほかは前からあったもの[98]」「漫才ブームは、B&Bとツービートと紳助・竜介が作ったんです。時代を作った3組、ルーツは一緒なんです。漫才ブームが興ったときに、今までの漫才と違う形の漫才が始まるんです。それまでの漫才はネタ振りがあって、一個のネタでちゃんと起こしていくんです。この3組に共通してるのは、全く違うシステムなんです。それまでの漫才の形と全く違うシステム、突っ込みボケという新しい分野であり、1人が完璧にネタの九割喋るんです。で、誰がこれを編み出したかというと、最初は松竹芸能のケンケン・てるてるという方が、それをちょっとやったんです。それを見た島田洋七がパクったんです。これが自分に合うと思ったんです。その洋七さんを見てたけしさんも"これや!"ってパクったんです。そして高校三年生の僕が洋七さんを見て『今までの漫才なんか全然おもろない。これからはこれや!』ってこの世界に入ったんです。僕もツービートも全然売れてない時、東京の漫才コンクールでたけしさんに会ったんですが、たけしさんの言葉未だに忘れられません。『B&Bに似てるね』って。そんとき『はい』って言いながら心の中で、おまえらもやないかい、と叫びました」と話している[99]。 初対面でビートたけしが、とっさに年をごまかした人物[100]、たけしに「漫才だけは洋七に勝てなかった」と言わせた人物でもある[101]。
1993年7月2日にテレビ朝日系で放送された、漫才ブームを振りかえる『驚きももの木20世紀』「漫才ブームの真実」という番組では、洋七とぼんちおさむの眼を通しての漫才ブーム、という構成が取られていたが、この中で洋七は「漫才ブームは去ったけど、その中にビートたけしや島田紳助みたいな、とてつもない天才がいた、発見できたことが嬉しい。それは誇りですよ。漫才ブームが無ければ二人は無かったわけだから」と話した。
[編集] 人物・逸話
- 親友のビートたけしをはじめ島田紳助や明石家さんまその他多くが、「あいつの話は9割以上がウソ」というぐらい、通常TVなどで喋っている事はほとんど作り話である。TVなどで話す内容と真実や本人の実像とは異なっており、自伝とされる「佐賀のがばいばあちゃん」も真実性は疑わしい。 洋七の話す内容はほとんどがまことしやかな作り話で矛盾がどんどん生じるのだが、騙し通す事が目的ではないので、まったくお構いなしに作り話を重ねていく。出演者が真実を答えると思われているインタビュー番組などでも、真顔で尤もらしい作り話を語る。事実を知る者には洋七が語るそのウソは腹を抱えるほど可笑しいものであり、真実を知らないほとんどの人は洋七の話を真に受け、次第に様々な矛盾に混乱するはめになる。 インタビュー番組が真面目なものであればあるほど、その可笑しさは倍増する。 これは「お笑い」芸の本質とは嘘を楽しむことであり、マスコミを通して伝える自分の言葉や表現はすべて「芸」であること。 芸人は虚像が実像であるかのように見せることが芸人のあるべき姿であり、正体を世間に晒すのは恥であるとする伝統的な芸能哲学によるものであること。 また「マスコミが流す情報とは疑わしいものである」という洋七のインテリジェンスの発露によるものでもある。 従ってそこには、「洋七の陽気な嘘に騙され、後でそれに気付くことを楽しむ」ことが「粋」であり、話を真に受けて「騙された」「嘘つき」と非難するのは「野暮な朴念仁の田舎者」であるという江戸前の概念が存在するのである。 古典的な芸人の価値観を愛し、江戸っ子の切り口を身上とするビートたけしが、しばしば洋七のこのスタイルを真似をするが、洋七のように徹底すると社会的信用を失う危険性があり、芸人であると同時に社会的信用度が重要な文化人北野武でもあるがゆえに中途半端な表現にならざるを得ず、いま自分が喋っている話はウソであると視聴者に悟らせるような後味が悪い表現になってしまっている。これが芸人ビートたけしは芸人島田洋七には敵わないと語る所以である。
- B&Bのギャグの代表格と言えば「漫才ブーム」を代表するギャグでもある「モミジまんじゅうー!」である[3][102]。
- 一発ギャグ「モミジまんじゅうー!」の誕生の経緯であるが、これはネタではなくアドリブで偶然生まれたものだという。お互いの出身地、広島と岡山を自慢し合い、けなし合うという、"元祖ご当地漫才[5]ともいわれる有名な「広島VS岡山漫才」[103]の中で使われるギャグだが、これも最初から台本はなく、岡山と広島の褒め合い、けなし合いをしようとだけ決めて舞台に出たのが始まり。洋八から岡山はマスカットや桃が有名だと言われ、その時広島には有名な食べ物は何があるだろうと考えて、何も思いつかず。ふと、全国的にはあまり知られてないが、そういえば「もみじまんじゅう」があったなと思い出して、その饅頭の形を思い出しながら、「もみじまんじゅう!」と言った。意味も何もなかったが、すると会場がどっとうけた。「これだ!」と思い、以降、一発ギャグとして使うようになったという[3]。看板ネタでもある「広島VS岡山漫才」は、数年間受けなかったが、これをやり通し、回りから「もうそのネタやめたら」との声も出たが、「売れた上でもマンネリならやめるが、今はこれで勝負したいんです」と譲らず、しつこく続けたものであった[28]。
- もみじ饅頭も(広島のお好み焼きも)1970年代当時は全国的にはほとんど知られてなかった。もみじ饅頭も、このギャグが流行るまでは、広島県民にとってもあまり馴染みのあるものでは無く「宮島に行きゃぁ売っとるよ」という程度の存在だったが、このギャグのブームでメーカーが15社から一気に300社にまで増えた。その中でも最大手のにしき堂は売上が10倍に跳ね上がったといわれ、最盛期には修学旅行のコースにもなって生産が追いつかず、深夜にまで工場を稼動させていた。ブームが終わった後も完全に広島名物として定着し、現在でもメーカーは200社ある。広島のおみやげ物屋では今でも1/3のスペースがもみじ饅頭で占められる。
- 広島県民にとってあまり馴染みが無かった「モミジまんじゅう」を、洋七が広島名物のギャグとして使った理由は、洋七が佐賀に預けられていた時代に、たまたま母親がにしき堂の近くの食堂で働いていて、毎月の仕送りと一緒にもみじ饅頭を入れて佐賀に送っていたため[6]。「もみじ饅頭」は、遠く離れた母親を思い出す味であり、洋七にとって故郷・広島の味として強烈に記憶に刷り込まれた物だった。洋七は今でも「もみじ饅頭」を見ると涙が出るという[104][105]。
- 洋七の功績に感謝したにしき堂の大谷照三会長は、お礼に現金5000万ほどを手渡そうとしたが、洋七は逆に「われわれももみじ饅頭のお陰で売れた」と受け取らなかった。しかし、大谷会長が感謝の気持ちを表すため、広島の飲食店に対して「B&Bの飲食代は当人から受け取らず、にしき堂へ請求書を回せ」と指示している説があり、洋七は今でも広島へ行くと、店がお金を受け取らないため飲食費は無料との事[106][107][108][109]。
- 「モミジまんじゅうー!」のギャグが流行った時、広島の県菓に選ばれ宮島で表彰された。二千人位の参列者の前で、一枚板の3メートルもある巨大しゃもじを渡された。「このしゃもじは由緒あるなにがし寺に奉納されたもので…」と言われたため、「いらん」とは言えず、半分にして持って帰るわけにもいかず。結局梱包して宅急便で送ったら5万円かかった。しかし大きすぎて家に入らず、仕方なく物置を70万円かけて作って斜めに入れた。やはり使い道もないので処分することになり、高野山まで運んで奉納して拝んでもらって燃やしたら100万円かかったという[110][111]。
- 1982年10月17日にテレビ朝日系で放送された刑事ドラマ『西部警察 PART-II』第18話「広島市街パニック!!」は、広島市内を中心としたロケで終盤には広島電鉄の路面電車を爆破するなど、大がかりなアクションシーンで、同ドラマの傑作選として今でもよく再放送されて有名であるが、B&Bはこの回のゲストとして出演している。役柄は洋七がにしき堂の従業員で、広電の市内電車をジャックした犯人に狙われるという設定で、実際ににしき堂の本社・工場でロケが行われた。一方、洋八は洋七の友人役で同じく地元企業であるチチヤスヨーグルトの工場で働く従業員という設定であった。(詳細→広島電鉄#その他)
- 「モミジまんじゅうー!」以外のギャグとしては、洋八のアフロヘアーをジャングルに見立て髪を掴んで頭の中に「小野田さーん!」と叫ぶ、クイズ「リンゴとミカン、どっちがバナナ」などがある。B&Bは洋七が一人でしゃべって、洋八がタイミングよくツッコむという形態なので「練習・打ち合わせはしない。したのは消防署のネタだけ」(洋七談)と言う。消防署のネタというのは、セリフをアクションを交えて洋七が少しずつ見せて洋八に復唱させる、というもので、最初は短いので出来るが段々長くなり出来なくなるというネタである。正式題名は"消防士の生きざま"という[112]。
- ネタは全て洋七の自作[113]。ほとんど洋七が喋るためネタ合わせもしない[114]。ネタ合わせをしたのは上記の"消防士ネタ"だけという。こうしたB&Bら若手の漫才を古川嘉一郎は当時、「自作自演、台本なし。仲間うちのシャレをそのまま出してきた。わたしら、感性の漫才てなこというとるんですが」と嘆いた[115]。漫才ブーム以降の漫才師はネタは自作が多く、澤田隆治は「作家はいらん」と言ったという。漫才ブーム以降は芸は不要、キャラクターが売れる時代になったという見方がある[116]。
- 親友であるビートたけしは、洋七に対して、「いろいろばかはあるが漫才ばかである。洋七から漫才をとったらうそ付き、うらぎり者、サギ師、へんたい、などしか残らない。でもギセー者は皆んな笑ってゆるしてやる男です」[117]と評価している。また、『ビートたけしのオールナイトニッポン』や『北野ファンクラブ』などでも、頻繁に洋七のホラ話をネタにしていた。2010年のたけしの著作『1084(to-san-ya-yo)』でも、洋七の話を扱ったネタが使われている。一方、洋七からたけしに対する感謝は、『俺の彼-がばいばあちゃんスペシャル』(徳間書店)で著されている。
- 島田紳助は、「洋七はケンケン・てるてるをパクった」と話したが、洋七自身は「逆説的に聞こえるかもしれないが、人から『似てまんな』と言われない為に、そして自分たちの芸で客を笑わす為に、芸人諸兄、諸先輩方の芸を徹底的に見て、徹底的に盗んだ。それらの良さを貧欲にパクり、自分たちの中で消化吸収して、B&Bと言う新しい果実を実らせたと言っても過言でない。四コマ漫画のように漫才が絵としてイメージ出来る。テンポが速く、喋りは明快でキレがある。視線を吸い寄せる派手なアクションがあり、オチもドッカーンと決まる。だから、B&Bは当たった」と解説している[118]。また、喋りのスピードを上げたのは、横山やすしに「お前の声は聞きやすい。速く喋っても耳に届く。テンポを上げた方がお客は笑うで」とアドバイスを受けたのが切っ掛けであった[20]。「横山やすしさんから直接教わったのは自分くらいでないか」と話している[20]。それに頭の回転が速かった佐賀のばあちゃんからの影響もあったと思うという[119]。上岡龍太郎は「B&Bの相方をいじめるパターンのネタの元祖は、姿三平・浅草四郎」と述べている[120]。吉本興業前社長・吉野伊佐男は「衣装革命を起こしたのは中田カウス・ボタンで、その衣装革命を受けて出たのがB&B」と述べている[121]。
- 島田紳助は、洋七に近づくために島田洋之介・今喜多代に弟子入りした[30][31]。このため紳助は師匠・島田洋之介のことは全く知らなかった。島田洋之助と、師匠の名前を間違えて書いてバレてしまい「そんな奴は初めてや」とえらい怒られたという[122]。
- うめだ花月の進行係をしていた時、当時吉本新喜劇の新入りで同学年の間寛平と仲良くなり、程なく寛平が、新婚の洋七夫婦のアパートに転がり込み三人の共同生活が始まった。仕事から帰ると冷蔵庫にマヨネーズとケチャップしか無いので二人でそれを啜った[20]。うさぎに食べさせると八百屋からもらってきた野菜の芯、パン屋の食パンの耳、花月のお客様が置いていったお弁当などが貴重な食料となった。寛平は1989年に新喜劇を退団し東京進出を果たすが、この時東京で活動していた唯一の知り合いが洋七で、寛平は洋七にビートたけしを紹介してもらい、芸人として一から再出発と覚悟を決め「たけし軍団」入りを志願した。ところがたけしからは「若いヤツらばかりの軍団で本当にいいのなら」とOKをもらったが「たけし軍団」の関西出身の若手芸人から「寛平さんに憧れてたのに(自分の後輩になるので)絶対に入らないで下さい」と訴えられ、軍団入りは結局やめたという[123]。
- また、ビートたけしが関西の番組に初めて出演した『たかじんnoばぁ〜』(1993年5月8日、15日放送)も、やしきたかじんから頼まれてその仲介をしたもので、中田カウスに「たけしさんに会わせてや」と頼まれ、二人が親交を結ぶ切っ掛けをつくったのも洋七である[124][125]。
- 6年間に二度も相方に逃げられた失意の洋七に洋八を紹介したのは桂三枝とされる。その後洋七自身が「俺と一緒に漫才で勝負しよう」と役者志望の洋八を口説いた。三枝は舞台の袖で進行係をしていた洋八を「あいつ、どうや?」と指さしただけだが、「あいつ男前やんか。これからは漫才も男前が売れるぞ」と言ったという。
- 1970年代後半、吉本はやすしきよしやコメディNo.1、Wヤング等、実力者が揃って層が厚く、洋七らの喰い込む余地はなく、吉本に相談したら「ザ・ドリフターズみたいなんをやれ」と言われ1978年、リーダーが洋七でB&Bとザ・ぼんち、のりお・よしおに、明石家さんまを加えて『ビールス7』(後にチンチラチン)を結成した。「ヤングおー!おー!」(毎日放送)の林プロデューサーに、「番組でウケたらコーナーを持たせてやる」と言われたがコントの練習中、キャラの被る西川のりおと度々殴り合いの大ゲンカを繰り返し、当時まだ20歳そこそこだったさんまが仲裁に走った。二人の機嫌をとるため代わりに殴られ「初めて大人の汚い世界を見た」という。結局このグループからB&Bが外され、紳助・竜介が代わりに起用され大きな人気を得た。外された理由をプロデューサーに聞いたら「若い方がええ」と言われたというが、洋七は「ヤングおー!おー!」のレギュラーだった桂きん枝が以前、飲み屋で洋七と間寛平に引き摺り回されたことを恨み「あいつら若いのに生意気」とプロデューサーに口添えしたのが、外された本当の理由と話している。弟弟子にレギュラーの座を奪われた洋七の、吉本への不信は決定的となり、東京行きを決意するに至った[10][126][127][128][129][130][131]。
- 上記の件から、西川のりおとは犬猿の仲。B&B再結成時の劇場の前座でのりお・よしおが漫才をしたが、「客を温めて」おくのでなく客を「疲れさせ」たのでB&Bが登場してもウケず、洋七が激怒。のりおの泊まっているホテルへ乗り込むも不在で、鍵を開けさせ中に入り衣装を破き、薬を捨てた逸話がある。その後のりおから「請求書」が届いたというオチもある。しかし、松本竜介の葬儀・告別式には共に参列している。
- 正しくは、B&B再結成時ではなく、間寛平とコンビを結成した時の「花王名人劇場」でのひとコマであり、漫才で「疲れさせ」たのではなく、番組途中の、芸人仲間のトークコーナーでのりおが暴走して「疲れさせ」たのである。また、のりおがホテルに不在だったのは、寛平が「あいつは許さん!」と番組終了後の楽屋で言っていたのを聞いた某芸人がのりおに伝えたため、逃げた結果だった、と、名人劇場放送翌週のオールナイトニッポンでビートたけしが暴露していた。
- 初めてのゴールデン、1980年1月20日に放映された「花王名人劇場」“激突!漫才新幹線”に出たら、文字通り一夜明けたら大スターで、翌日には番組スポンサーだった花王石鹸からトニックシャンプーのCM出演依頼がきて、15万円だった給料が歩合制になって、いきなり500万円となり、その後は毎月倍々ゲームになっていったという[132][133][134]。
- この番組の出演にあたり、プロデューサーからキチッとしたスーツの着用を強要されたが、金が無い事もあり拒否。自らがデザインしたB&Bとロゴの入ったTシャツ着用で舞台に立った。このTシャツがよく売れて、これも数千万の利益が出た。ロゴのデザインは当時流行っていたABBAのロゴをパクったと言われている[135]。この手法はタカアンドトシが真似ている。
- 本人の語るところによると、最盛期、毎月数千万円が入った段ボールを妻に渡していたにもかかわらず「こんなに売れてるのに、何で給料がこんなに安いのか」と真顔で言われ、顔面蒼白となった。聞き返すと、段ボールの中はファンレターかと思い開けず、別に封筒で渡された端数の数十万円だけが給料と勘違いしたとのこと。段ボールは押入れの中に保管してあり約3億円の現金は無事だった[21]。その日は1月1日、銀行も休みで預ける事が出来ず、こういう時に限って来客も多く、夫婦揃って押入れの前から微動だにしなかった。1月4日になって銀行が開き電話をかけ金額が大きいから取りに来てくれと頼んでも「3億」と言うと、「イタズラ電話はやめて下さい」とどこも信用してくれなかった。仕方なく自ら銀行に出向き、自宅に支店長を連れてきて現金を見せると、「どうしたんだ貴様!!、この金!!」と言われた[136]。
- 洋七を可愛がっていた“ミスター赤ヘル”山本浩二とイベントで一緒に出演。1984年大活躍した山本は、王貞治を抜き年俸が球界一となった[137]。司会が「王選手を抜いて球界一の8500万円になりましたね!おめでとうございます!」と言ったあと、山本に「漫才師はどれくらいもらうんだ?」と聞かれた。あやうく「8億です」と言いそうになったが「いや、3000万くらいです」と答えると、「漫才師はもらい過ぎだな」と言われた。洋七は「そのとき8億と言っていたらバットでノックされてたろう」と語る[138]。
- やはり洋七を可愛がっていた横山やすしと東京での仕事が一緒になったとき、「東京で一番面白い若手」と紹介してもらったのが、ビートたけしとの最初の出会いである[139][140][141]。千葉の飯屋でやすしに置き去りにされ、所持金が数百円の二人はタクシーも拾えず、仕方なく浦安まで4時間かけて歩きながら、夜通し喋り合って夢を話し「成功して大金を掴んだら何が欲しいか」の質問に対して洋七は「鯖を腹一杯食べたい」と言ったが、同じ質問に対してたけしは「俺は芸が買いたい」と言ったという[142]。また親友になったのは1986年、たけしがフライデー事件を起こした時である。当時謹慎中で誰も面会に来なかった中、唯一洋七だけが会いに来たため、たけしは感謝で一日中泣いた、という[143]。沖縄で謹慎中のたけしの所に、当時ヒマだった洋七は週に3日くらい来て飲み歩いていたという[144]。
- 浅草キッドは、「漫才師」という一見愚にもつかない職業をあの80年代初頭の空前の“漫才ブーム”の到来とともに、キラ星の如くスターが輝く芸能界のなかで眩しいほどの光明を誇る一等星に押し上げたのは、紛れもなくビートたけしと島田洋七であると話し、「俺たちがこの世界に飛び込んだのも二人に魅入られて決めたようなもの」と述べている[145]。
- 洋七とビートたけしが“漫才ブーム”で儲けて、憧れの「銀座で飲む!」と初めて銀座に繰り出したが、どこの店に入ったらいいか分からないので、高橋慶彦に紹介してもらった店に行ったという[146]。銀座で一晩飲むと200万と噂で聞いていたので、お互い2000万ずつ紙袋に詰めて行った[20]。料金がいくらになるかが恐ろしくママに15分おきに「今帰るといくらか」と聞き続けたという[20]。その店の会計は14万円だった。200万という金額は銀座でナンバーワンのホステスの給料だった[20][146]。
- 横澤彪は、ビートたけしが超人気者になっても、絶えず自己啓発に時間を割くのは、横澤がプロデュースした「笑ってる場合ですよ!」で司会をしたB&Bが、連日のギャグの連発で、とうとう才能を枯渇させてしまったのを見ているから。人気が出て有頂天になっていると、アッという間に地獄に滑り落ちる怖さを知ったからだと思う、と述べている[147]。なお横澤は「笑ってる場合ですよ!」は「笑っていいとも!」のプロトタイプともいえる番組で、「THE MANZAI」が巻き起こした漫才ブームを「笑ってる場合ですよ!」が広げたと話している[148]。
- 横澤彪には「笑ってる場合ですよ!」の総合MCに抜擢されたという恩義はあるが、冷たく打ち切られた恨みがあるのか[149] 、横澤が亡くなったとき、"横澤はたけし、さんま、タモリの育ての親"と評するマスメディアに対して「たけし、タモリさん、さんまの3人は、横澤さんの力ではなく、実力でのし上がったんですよ」と、故人の功績を批判する言及をおこなった[76]。
- 人気が急降下し、仕事が全くなくなった時期に睡眠薬自殺を図ったことがある。しかし薬を飲もうとしたそのとき、たけしから電話があり「一緒に飲もう」と誘われ、一晩中飲み明かしているうちに自殺のことなど忘れてしまったという。また、仕事がまったく無かった時期は、蓄えがあったのもあり、通訳付で海外旅行を何度かしたりしていたと本人は語る。
- 2007年8月19日、日本テレビ系『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』に出演したが、同番組のエンディング曲「サライ」が全く歌えなかったと番組終了後に引き続き同会場の日本武道館(ただし、別室)から生放送された『行列のできる法律相談所』に出演した際に語った。洋七はそれまで同曲を知らなかったとしたが、1回聞いただけで覚えたとも話した。さらに同曲を(非常に長い曲であるため)「しつこい歌」と評し、紳助に「ぼろくそ言うな」と怒られていた。
- 音痴である。
- 山本浩二らと付き合いがあり一時は広島東洋カープファンと言っていたが、西武ライオンズのエースだった東尾修に「空気がいいから」と勧められ、佐賀に転居するまで西武ライオンズ球場の近くに住んでいた。それが縁で、その後は長年にわたる西武ファンとなっている。ちなみに東尾とは1970年代前半に洋七のバイト先があった道頓堀の道端でバッタリ出会って以来の仲[150]。
- 『佐賀のがばいばあちゃん』が有名になるにつれて、ビートたけしや島田紳助から「がばいばあちゃんはいなかった」と言われる事がある(もちろんギャグとしての発言である)。「人生が変わる1分間の深イイ話」ではこれを逆手に取り、紳助との掛け合いで「嘘つき」キャラを定着させている。
- 紳助は「漫才に関してめっちゃ知ってる、今でも尊敬している」と発言している[151]。
[編集] 主な受賞歴
- お笑いスター誕生!!初代グランプリ
- NHK上方漫才コンテスト 第6回 優秀努力賞
- 上方お笑い大賞(よみうりテレビ) 第6回 銀賞
- 上方漫才大賞(ラジオ大阪) 第13回 奨励賞
- 日本放送演芸大賞 第8回 最優秀ホープ賞
- 日本放送演芸大賞 第9回 漫才大賞
[編集] 書籍
- 死にたくなったら、これを読め!/自著、2012年、潮出版社
- がばいばあちゃんの手紙/自著、2010年、幻冬舎
- 転起力。/自著、2009年、創英社
- 佐賀のがばいばあちゃん/自著、1993年、徳間書店、(2004年1月文庫化)
- がばいばあちゃん佐賀から広島へ めざせ甲子園/自著、徳間書店
- がばいばあちゃんの笑顔で生きんしゃい/自著、徳間書店
- がばいばあちゃんの幸せのトランク/自著、徳間書店
- がばいばあちゃんの贈る言葉/自著、徳間書店
- 佐賀のがばいばあちゃんのレシピ/ソニー・マガジンズ、2006年5月
- がばいばあちゃんの贈る言葉 POST CARD BOOK/自著、徳間書店、2006年4月
- 文句あっか!!/自著、文藝春秋、2005年11月
- 島田洋七とがばい芸人たち 笑魂伝承/自著、イースト・プレス、2006年7月
- かあちゃんに会いたい/自著、徳間書店
- 俺の彼 がばいばあちゃんスペシャル劇場/自著、徳間書店、2007年9月
- B&Bの仁義なき戦い 広島ヤクザと岡山ギャングの巻/KKベストセラーズ、1980年9月
- B&Bの愛しかた愛されかた/KKベストセラーズ、1980年12月
- B&Bと遊ぶ本 いたずらハイスクール<爆笑編>/KKベストセラーズ、1982年1月
- B&Bと遊ぶ本 いたずらハイスクール<爆笑編>/KKベストセラーズ、1982年1月
[編集] 脚注
- ^ 中国新聞、2008年10月5日、7面
- ^ a b ふるさと発スペシャル「あいたい」2010年4月9日NHK広島
- ^ a b c d e 広島市/第35回 インタビュー 漫才師 島田 洋七さん
- ^ a b 島田洋七『転起力。 人間「島田洋七」から何を学ぶのか』創英社/三省堂書店、2009年、p12、13
- ^ a b お笑いナタリー - 東京ダイナマイトがダウンタウンの漫才「誘拐」を完コピ
- ^ a b c グレートマザー物語 島田洋七の母 ~ 涙のもみじ饅頭 ~ 2005年12月11日放送
- ^ a b asahi.com(朝日新聞社):就職・転職ニュース
- ^ a b 東京で稼いで地方で暮らすのが最高:日経ビジネスオンライン
- ^ a b 『M-1』決勝者がダウンタウンらの“名作漫才”をカバー ニュース-ORICON
- ^ a b c .元吉本芸人の松稔が運営するSTART LINEのアメブロ
- ^ a b もくめレポート 第1回 平川さんの話(WヤングとB&B)
- ^ 『メントレG』2007年12月16日
西条昇著 『ニッポンの爆笑王100―エノケンから爆笑問題までニッポンを笑いころがした面々』 白泉社 2003年 459、460頁
「漫才ブームメモリアル」、澤田隆治、東阪企画、1982年、p83
遠藤佳三著『東京漫才うらばな史』青蛙房、2002年6月、p218-219、224
中田明成著『漫才ブームなのです』 作品社、1981年、p18、19
ぴいぷる:ZAKZAK
あっと九州/島田洋七インタビュー
『転起力。』、p90、97、98
出版物のご案内 | 書籍 編集 出版の創英社
週刊現代、2004年4月24日号、p192-195
「がばいばあちゃん」に教わった教育論……島田洋七さん - 学びの場.com - ^ 毎日新聞、2011年9月24日10面
- ^ 自著『俺の彼 がばいばあちゃんスペシャル劇場』、徳間書店、2007年
『クメピポ! 絶対あいたい1001人』(毎日放送)、2009年7月29日放送で、久米宏とビートたけしの対談があり、この中でたけしが「親友は洋七」と話した。 - ^ 生き方はがばいばあちゃんから学んだ
- ^ 洋七に「虚言癖」?? 紳助がテレビで暴露 (1/2) : J-CASTニュース
- ^ 『転起力。』、p64、65
- ^ 『転起力。』、p68、65
- ^ 島田洋七 - ルーフトップギャラクシーw
- ^ a b c d e f g h i j k l m 『メントレG』2007年12月16日
- ^ a b c d e トクベツキカク - SmaSTATION!!
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- ^ 『転起力。』、p87
- ^ 漫才を終えおじぎ「気持ちええ」(芸能) ― スポニチ Sponichi Annex
- ^ a b c d 2年2カ月だけ「B&B」でした
- ^ a b c 「漫才ブームなのです」、中田明成、作品社、1981年、p18、19
- ^ 新野新著『ぼくが書いてきたタレント全部(下)』青心社、1981年4月、p157
- ^ a b 洋七の舞台見て「この人倒そう」と…島田紳助(1)
- ^ a b 【紳助ツッパリ列伝】「打倒!島田洋七」が芸能界“天下取り”の原点
- ^ 島田紳助 松本人志著『哲学』幻冬舎、2003年3月、30-34頁
島田紳助著『自己プロデュース力』ワニブックス、2009年、p49-56 - ^ 島田紳助 松本人志著『哲学』、63、64、239―241頁
- ^ 元吉本芸人の松稔がプロデュースするSTART LINEのアメブロ【過去の日記】のりお・よしお秘話①
- ^ 「お笑いスター誕生!!」、日本テレビ放送網、1981年、p167
- ^ 「お笑いスター誕生!!」、日本テレビ放送網、p170
- ^ ラジオ黄金時代、JFN、1998年11月15日
遠藤佳三著『東京漫才うらばな史』、p221―222
浅草キッド著『お笑い 男の星座』 文藝春秋、2001年、p74-75、[1] - ^ 西条昇著 『ニッポンの爆笑王100―エノケンから爆笑問題までニッポンを笑いころがした面々』 白泉社 2003年 460頁
遠藤佳三著『東京漫才うらばな史』、p220-222 - ^ 『転起力。』、p99―107
- ^ 吉本が東京事務所を設置したのは1980年10月。かつては東京に演芸場を持っていたが撤退していた。(『吉本八十年の歩み』1992年、p159)。
- ^ ツカサネット新聞
- ^ 独力で所属先を決めることが出来ず、結局吉本に紹介してもらった戸崎事務所とマネジメント契約を結ぶ(『転起力。』、p110)。
- ^ 遠藤佳三著『東京漫才うらばな史』、p219
井上宏著『まんざいー大阪の笑いー』世界思想社、1981年、p19 - ^ 『俺の彼 がばいばあちゃんスペシャル劇場』 p39-40、徳間書店、2007年9月
- ^ ラサール石井著 『笑いの現場 ひょうきん族前夜からM―1まで』角川・エス・エス・コミュニケーションズ、2008年2月、p30―31
- ^ a b ビートたけし著『浅草キッド』太田出版、1988年、206頁
- ^ 遠藤佳三著『東京漫才うらばな史』、p227―228
- ^ 遠藤佳三著『東京漫才うらばな史』、p220
- ^ a b 『上方放送お笑い史』読売新聞大阪本社文化部編、読売新聞社、1999年、p333-369
- ^ 小林信彦著『定本 日本の喜劇人 エンターテイナー篇』新潮社、2008年4月、19頁
小林信彦著「笑学百科」、新潮社、1982年、p22 - ^ 山下武『大正テレビ寄席の芸人たち』東京堂出版、2001年6月、p116
「漫才ブームメモリアル」、澤田隆治、東阪企画、1982年、p252 - ^ 島田紳助 松本人志著『哲学』、29、242頁
- ^ a b c 古川嘉一郎他『上方笑芸の世界』、白水社、1984年、15-17頁
- ^ 「花王名人劇場 テレビ時代の名人芸グラフィティ」、澤田隆治、東阪企画、p44
新野新著『ぼくが書いてきたタレント全部(下)』、p157 - ^ 「漫才ブームメモリアル」、澤田隆治、東阪企画、1982年、p125、252
自著『島田洋七とがばい芸人たち 笑魂伝承』 イーストプレス、p2 - ^ 漫才ブームが爆発した1980年8月、週刊朝日は“MANZAIはどこかた来たか“というB&Bら当時の若手の漫才についての考察を載せている。要旨は以下のようなもの。やすしきよしが登場したとき、そのあふれるようなスピード感と生活実感にびっくりしたが(今の若手の漫才)は、スピードがさらに速い。ストーリーもない。会話すらなくて、一方的なギャグの連発。相棒は合いの手を入れるだけ。そのギャグにしても観客全体を相手にしてはいなくて、わかるヤツにはわかる、わからんヤツにはわからなくていい。むしろわからんでくれればウレシイ、といわんばかりのポーズである。少なくとも、いまの漫才ブームの先頭を走るコンビたちは、これまでの漫才から遠く隔たっているようにみえる。「ヤングおー!おー!」の浜本忠義は「いまの漫才を、これまでの漫才の流の中に位置づけるのは難しい」。読売テレビの有川寛は「かつて漫才は"庶民"を相手にしていた。漫才師がアホになって、客を満足させていたんです。しかし、いまや"庶民"はいない。みんな中産階級になってしまった。漫才は長くその変化に追いつけなかったけど、ここへ来て急激に変わったということでしょう」と話す。また、驚くべきは、昨今の漫才における「言論の自由」の拡大である。その成果は大変なものがある。それまで「差別」に対する批判コワさに、われわれはどれほどびくびくとモノを書いていたか。テレビ局はどれほど神経をとがらせていたか。若手漫才師たちがあっという間に成し遂げた偉業、無謀について深い感慨を持つ。それでも笑って済むのはなぜか。差別も罵倒も、極限までいくとむしろ抽象化されて、アッケラカンとしたホンネの笑いしか残らないのだろうか。古川嘉一郎は「芸といえば、それが一種の芸でしょうね。言葉が一種符丁化されて、ナマナマしい意味を持たなくなっている。きわどい芸です」と話す。今はギャグの時代。ジャリ文化はギャグ漬けになっている(週刊朝日、1980年8月22日号、29、30頁)。
- ^ ラジオ黄金時代、JFN、1998年11月15日
遠藤佳三著『東京漫才うらばな史』、p222
西条昇著 『ニッポンの爆笑王100―エノケンから爆笑問題までニッポンを笑いころがした面々』 白泉社 2003年、459-461頁
芸能界「一発屋」外伝、宝泉薫、2001年10月、彩流社、p16
「漫才ブームメモリアル」、澤田隆治、東阪企画、1982年、p125、161、368
ながいやんの「ファイト!」: 漫才ブームと甦る「やす・きよ漫才」
島田紳助 松本人志著『哲学』、256、257頁
紀伊國屋運営DVD/CD専門ショッピングサイト 「Forest Plus」
『M-1グランプリ』とは何を目的に、何を審査しているのか? - ^ 「漫才ブームメモリアル」、澤田隆治、東阪企画、1982年、p125
- ^ らくごくら::吉本興業、大崎洋新社長
「漫才ブームメモリアル」、澤田隆治、東阪企画、1982年、p34-37、54、55、60、61、96-98、125、370他
ラサール石井著 『笑いの現場 ひょうきん族前夜からM―1まで』、p32―35
遠藤佳三著『東京漫才うらばな史』、p230―233
「漫才ブームなのです」、中田明成、p16、17 - ^ 「花王名人劇場 テレビ時代の名人芸グラフィティ」、澤田隆治、東阪企画、p44
「花王名人大賞 にっぽんの芸人392」、澤田隆治、東阪企画、p82、258、388
小林信彦著『定本 日本の喜劇人 エンターテイナー篇』新潮社、2008年4月、162、198、199、201頁 - ^ 『お笑いスター誕生!!』の世界を漂う
- ^ 『メントレG』(2007年12月16日放送)は「ツービートとともに漫才ブームを引き起こす」と紹介。
- ^ 西条昇著 『ニッポンの爆笑王100―エノケンから爆笑問題までニッポンを笑いころがした面々』 白泉社 2003年 461、462頁
「漫才ブームメモリアル」、澤田隆治、東阪企画、1982年、p83-85、369
『昭和ヒーロー事典』講談社、1989年7月、p582-583
ツカサネット新聞
遠藤佳三著『東京漫才うらばな史』、p222―223
週刊現代、2004年4月24日号、p192-195 - ^ B&Bの抜擢は単なるお笑いのイメージとは違う、新しいタイプのタレントとして見た当時の花王副社長・佐川幸三郎によるもの(「漫才ブームメモリアル」p228-231)。
- ^ 『上方放送お笑い史』p343
- ^ 「漫才ブームメモリアル」、澤田隆治、東阪企画、1982年、p82、101-103
「昭和ヒーロー事典 芸能編」講談社、1989年7月、p582-583
「お笑いスター誕生!!」、日本テレビ放送網、p176 - ^ 「漫才ブームメモリアル」、澤田隆治、東阪企画、1982年、p104
- ^ 博士の悪童日記<2001年2月上旬~後編>
- ^ 『上方放送お笑い史』p339
- ^ 井上宏著『まんざいー大阪の笑いー』世界思想社、1981年、p19
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- ^ 『犬も歩けばプロデューサー』 p87-94
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- ^ フジテレビ系『ボクらの時代』2011年1月3日放送分より、洋七談。
- ^ Amazon.co.jp: 紳竜の研究 (DVD)
[編集] 関連項目
- 日本お笑い史
- 広島県出身の人物一覧
- 佐賀県出身の人物一覧
- 広島工業大学の人物一覧
- 池袋ウエストゲートパーク
- やかましトリオ(ひょうきん族にてのりお・おさむと結成)
