たけし軍団

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たけし軍団(たけしぐんだん)は、日本の芸人グループ。ビートたけし弟子及び弟子志願者の一群を指す総称。1983年に結成[1]太田プロダクションよりデビューした。ただし、『ビートたけしのスポーツ大将』(テレビ朝日)での助っ人をはじめ、番組でビートたけし側に関わったメンバーも含むケースがある。

目次

[編集] 概要

基本的にはビートたけしの許で芸人修行する者の集団。関わってはいつの間にか消える者も居るために総数は不定である。たけしは女性を弟子に取らないため、男性のみで構成されている。たけしは、たけし軍団を第2のドリフターズにしたいと考えていた(カンヌ国際映画祭で、コメントした)

そのまんま東(現:東国原英夫)からはじまり、大森うたえもん松尾伴内ダンカン柳ユーレイと弟子が増え、元相棒ビートきよしの代わりのような存在として何かとひとまとめで団体芸をやりたいとして、1983年3月から『アイドルパンチ』(テレビ朝日)などに出演したのが始まりである[2]。1983年に正式に結成[1][3]

なお、たけし軍団の名称は『アイドルパンチ』に出演した際にディレクターだった森昌行(現:オフィス北野社長)に付けられたもので、当初「たけしアーミー」とトレーナーに書かれていた[4]

『アイドルパンチ』では不評であったが、1984年2月からたけし司会の『スーパージョッキー』(日本テレビ)の企画「ガンバルマンズ」に出演し[3]、苦痛を伴うさまざまなゲームなどに身体を張って挑む姿が笑いを呼び人気を得た[5]。必死の体技で笑いを取る路線は、後の『お笑いウルトラクイズ』(日本テレビ)まで一貫している。また、当時の軍団員はほとんどが20代であったこともあり、「Duet」などの雑誌に取り上げられるなど一部でアイドル的な人気を持っていた。

当初は太田プロのスタンスで「たけし軍団は8人構成」と一度は区切ったが、その後も弟子志願者が増加したことから、グレート義太夫までの世代とを区別するために、当時人気の路上パフォーマンス集団一世風靡セピアをもじって、サード長嶋までの若手の一団を「たけし軍団セピア」、それ以降を「浅草キッドブラザース」と呼んでいた。現在は、そのような呼称を付けることはなくなっている。たけし軍団も最終形はグレート義太夫と井手らっきょを含む10構成となった。

1985年からスタートした『ビートたけしのスポーツ大将』(テレビ朝日)、1986年からスタートした『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』(TBS)に出演する中でたけし軍団の人気は最盛期を迎える。1986年1月には冠番組たけし軍団!ヒット&ビート』(テレビ朝日)を持つに至る。しかし、同年の12月の「フライデー襲撃事件」にたけし軍団のうち11人が参加したことにより打ち切りとなる。

フライデー襲撃事件では、たけし軍団は1987年3月に不起訴処分が決定し[6]、謹慎が解けて以降は、一時期の人気も無くなり、たけしも映画監督へ情熱を注ぐ中、たけし軍団としての活躍の場は『お笑いウルトラクイズ』『スーパージョッキー』『北野ファンクラブ』から続き現在は『たけしのコマ大数学科』へと続くフジテレビ深夜枠の番組ぐらいとなり、個々の活動が中心となった。たけし軍団のうちソロ活動を軌道に乗せて冠番組も持ったそのまんま東は不祥事で謹慎後早稲田大学に入学。さらに政治家転向を目指して芸能界引退、大森うたえもんは方向性の違いでたけしの元を離れ、柳ユーレイは俳優活動に専念し軍団を離脱(ただし現在もオフィス北野に在籍)。たけし軍団セピアは、水島新太郎が本格的な俳優を志向し太田プロへ復帰。サード長嶋は劇団活動、古田古(ふるたふる)・誰なんだ吉武は破門、大阪百万円キドカラー大道は別活動を志向し離脱。浅草キッドブラザースは、フランス座での修行で淘汰される中から浅草キッドが誕生した。

2004年10月の『朝までたけし軍団』(テレビ朝日)にて解散を発表。同時に「たけし後援会」にそのまま移行した。2005年1月には『朝まで元たけし軍団』(テレビ朝日)が放送された。

2006年1月、『朝まで元たけし軍団ファイナル』において、たけし軍団2代目リーダーをガダルカナル・タカが襲名(2006年5月19日放送のテレビ東京たけしの誰でもピカソ』では、たけし自ら「総裁になった」と話した)。

師匠であるビートたけしに対しては、「師匠」でなく「殿」と呼んでいる。師匠と呼ばれることに抵抗を感じていたたけしが、萩本欽一が大将と呼ばれていることも考えて[7]1984年5月から「師匠」と呼んだ場合に罰金を取るようになり、「殿」と呼ぶことをたけしが決めた[8]。当初はバカ殿と呼ばせていた[9]。実際たけしは元々志村けんバカ殿の大ファン(ガダルカナル・タカ大井競馬場のトークショーで発言)で、『神出鬼没タケシムケン』でお互い尊敬しあう仲になった。

[編集] 芸名

たけし軍団の最大の特徴はユニークな芸名である(芸名はメンバー・元メンバーを参照。また、命名の経緯は軍団各メンバーの項目を参照)。

とりわけ『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』に出演していた谷隊長(谷隼人)にちなんだ谷体調や、勝新太郎の“勝”と“新”を反対語にした負古太郎鉄腕アトムに出てくる御茶ノ水博士にちなんだ水道橋博士御茶ノ水駅の隣駅が水道橋駅であり、その近くに彼がプロレスファンということでその聖地でもある後楽園ホールのあることから)など芸能人・有名人の名前をパロディ化した芸名が多い。

一方で玉袋筋太郎のようにNHKをはじめメディアに登場する名前としては不適切と思われるような芸名も少なくない。玉袋はNHKに出演する際「知恵袋賢太郎」や「玉ちゃん」または本名を名乗ることを余儀なくされたエピソードが有名である。

これらの珍妙な芸名は、芸人としてやっていく覚悟があるのか、というたけし流の踏み絵の意図であるという[10]

[編集] 野球

野球好きのたけしの発案により、たけしと軍団員で構成する草野球チームを結成。チーム名は同じく「たけし軍団」。当初、神宮草野球場での「茜リーグ」に所属して早朝野球に参加していた。『スポーツ大将』では、アマチュア最強とも噂される強豪でノンプロ選手が参加する「東京ファイターズ」や、業界最強と言われたアパレルブランドNICOLEのチームに勝利するなど強い相手ほど勝負強くなる特性を見せた。その反面決して「茜リーグ」で強豪とはいえない水島新司率いる「ボッツ」には相性が悪く負け越す事が多かった。スクウェア製作のゲーム「日米間プロ野球」では、たけしが監督として登場し、軍団員(井手らっきょ・つまみ枝豆など)も選手として登場する。特筆すべきは1991年シーズンオフ、阪神タイガースのファン感謝デーにて阪神の二軍と対戦して勝利したことである。「たけし軍団にも負けた阪神」と当時の阪神の弱さを象徴するエピソードになっている。また、翌1992年には千葉ロッテマリーンズのファン感謝デーにも招聘され2-1でたけし軍団が勝利を収めている。

[編集] 軍団内ユニット

1986年、そのまんま東・大森うたえもん・つまみ枝豆・ガダルカナル・タカの4人で「たけし軍団COUNTDOWN」というユニットを組みレコードを出していたこともある。デビュー曲のタイトルは「BON BON BON」である。なお、その他のメンバーは音源リリースは見送られたものの、松尾伴内・ダンカン・柳ユーレイ・ラッシャー板前井手らっきょで「たけし軍団IMAGEDOWN」が存在していた。

水島新太郎とサード長嶋は「おぼっちゃま」として思わしい結果ではないが本格的な歌手活動を行い、コンサート専用ユニットとして、キドカラー大道・誰なんだ吉武の「ザ・ボーヤ」、大阪百万円・古田古・グレート義太夫の「The KITANAI」があった。

[編集] 不祥事タレントのたけし軍団での再出発

タレントなど(特にお笑い系)による不祥事が起きると「“たけし軍団”入りで再出発か」というネタのような話がよく出てくるのも特徴である[11]

田代まさしが不祥事を起こした際も軍団入りの情報が出た。だが、田代が実刑判決を下された後に、たけしが「あんな野郎に関わりたくはない」とコメントとしたと報じられて、田代の軍団入りは実現していない。ただし、インタビューでは、車椅子の国会議員である八代英太をもじった田代英太という芸名で車椅子に乗せようとメールを送ったが、田代に断られたと話している[11]

山本圭一(元極楽とんぼ)が不祥事を起こした際には東京スポーツ紙にて「みそぎを済ませたらウチへ来い」とたけしが発言。芸名まで提案をしていた。タレントなべおさみの息子の明治大学替え玉入試発覚後、その息子がなべやかんとして軍団で再出発した。芸名の由来は「なべ=鍋」に「やかん」で替え玉入試は二部であったことから夜間(やかん)部にかけている。また、衆議院議員との不倫で騒がれた山本モナが、たけしの事務所であるオフィス北野に所属をしている縁で『お笑いウルトラクイズ』で芸能活動を再開した例があり、この時も「山本モナ、たけし軍団入りか?」などとマスコミを賑わせたことがある。軍団で大きな不祥事にはフライデー襲撃事件ラッシャー板前井手らっきょつまみ枝豆は不参加)がある。フライデー事件から21年後の2007年に当時の宮崎県知事で当時この事件の実行犯の1人である東国原英夫がこの事件の真相を国民や宮崎市民などの前で語った。

それ以前には水島新太郎(漫画家・水島新司の息子)が芸能界を志向した際に「軍団で修行したらどうか」と提案したのが始まりである。芸名の候補として「チーチーバエミズシマ」というのも上がったが、軍団に止められた。その後、『おぼ土山』、『おぼつちやま』という芸名でたけし軍団に所属。軍団を離れた後は、たけしの古巣である太田プロに移籍し、現在は水島プロに移籍している。

[編集] エピソード

  • 初期にはたけしに弟子入りしてまず任される仕事は、たけしの付き人兼運転手だとされる。この役目は大変な重労働だったといわれており、正式に軍団入りした人物のほとんどが経験した。特にたけしがピン芸人としてのピークを迎えていた1980年代は多忙さから過酷を極めたといい、当時の付き人たちから複数の関連証言がある。松尾伴内は2日間(一説には3日間)にわたり不眠不休でたけしの送迎を務めた際、帰宅後疲労のあまり「テレビや冷蔵庫などの家電製品から話しかけられ、慰められた」と語っている。そのまんま東(現・東国原英夫)は北野名義のポルシェの運転手を任された際、坂道発進で半クラッチをしてクラッチを焼いてしまった為「馬鹿野郎、手前がクラッチになれ」と路上で首根っこを抑えつけられ罵られた。その後はごく短期間、メンバーが順にボーヤを体験するが、一年以上の長期にわたるボーヤはそのまんま東、松尾伴内、ラッシャー板前までで、以降はボーヤがビートたけしの側近であることから知り得る秘密を口外するケースや預けられた金を着服するケースもが増え始め、警戒と不信感から、この制度は現在完全に形骸化している。
  • 軍団内の上下関係は厳しいと思われているが、初期はほとんど師匠以下は横並びの関係であった。ダンカンが加入後、落語界の上下関係を持ち込み、たけし軍団の正メンバー10人以下のメンバーだけに極端に上下関係を強いる事になった。師弟や軍団員の連帯感は強いように見えて弱く「フライデー襲撃事件」ではたけしと同行するも松尾伴内とそのまんま東は一切何もせず壁に寄りかかり乱闘を眺めていた。
  • 年に一回、事務所(軍団)内で行われる酒席において年功序列が逆転する宴が催される。これにより北野が最底辺の芸人となり軍団メンバーからは(下部から上部へ)顎でコキ使われ、雨あられの説教を受けるという逆転現象で盛り上がるという余興がある。[12]
  • それまでもたけし軍団は「弟子志願を装ったファンの集まり」然とする実態はありながらも、師匠からの緊急招集や食事の誘いは絶対命令であったが、次第に形骸化し、浅草キッド以降のメンバーは師匠の誘いも平気で断る若手も多くなった。師匠の権威感にも慣れ、もはやサラリーマン組織化しているとの声もある。

[編集] メンバー

[編集] 元メンバー

[編集] たけしに関する団体にいたメンバー

[編集] 松田秀士に関する組織にいたメンバー

[編集] 著書

  • ツノだせヤリだせ たけし軍団物語(太田出版・1986年7月)
  • 12月10日から3月27日まで僕たちが考えたこと 作品集(太田出版・1987年6月)- フライデー襲撃事件の謹慎期間中に軍団員が書いた作品集。ダンカンはバイク小説、義太夫はロック小説、東は幻想小説、参加しなかったラッシャーはその理由となった痔の手術の体験談を執筆した。

[編集] 出典

  1. ^ a b 「おいらの自分史」『新潮45別冊 コマネチ! ビートたけし全記録』新潮社、1998年、p.306.
  2. ^ 森昌行『天才をプロデュース?』新潮社、2007年、p.19。
  3. ^ a b 『たけし軍団物語』p.137。
  4. ^ たけし軍団「バカ殿言行録」『コマネチ』p.140。
  5. ^ 『たけし軍団物語』p.140。
  6. ^ 筑紫哲也編『たけし事件 怒りと響き』太田出版、p.36。
  7. ^ 北野武『孤独』ロッキング・オン、2002年、p.55。
  8. ^ オールナイトニッポン&高田文夫編『ビートたけしのニッチも幸も』ニッポン放送出版、1984年、p.115。
  9. ^ たけし軍団「バカ殿言行録」『コマネチ』p.140。
  10. ^ 北野武『異形』ロッキング・オン、2004年、p.106。
  11. ^ a b 『異形』p.105。
  12. ^ 北野の師匠にあたる深見千三郎(故人)は、弟子に酒を注がせるのは田舎の芸人がする事だとして見下しており、会食の際には自腹を切り、駆け出し芸人に悪態を吐きながら深見成りに最大限持て成して馳走を振舞っていた。

[編集] 関連項目

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