落語立川流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
落語立川流(らくご たてかわりゅう)は、東京における落語家の団体のひとつである。宗教の立川流とは無関係である。
目次 |
[編集] 特徴
- 落語のいわゆる定席[1]へ出演できない(例外あり)。そのため、不定期にホールや市民会館などで独演会や一門会を開催している。
- 家元制をとっている。プロ落語家志願者を育てるための従来の師弟関係(Aコース)のほかに、一般人もお金を払うだけで弟子になれる制度がある(Cコース)。Cコースは落語家にはなれない。
- 直弟子なら家元へ、孫弟子ならその師匠への上納金制度がある(義務付け)。
- 立川談志の一門のみによって構成されるので、談志一門として認識される。例外はあるものの、ほぼ全員が立川の亭号を名乗る。
- Aコースは落語家のみで構成され、色物は存在しない(例外あり)
- 法人ではない。いわゆる協会のような意思決定機関はなく、すべては家元の独断によって決定する。
- 「落語界の東大」を自らもって任じるエリート意識を持っている。弟子の昇進基準が厳しいことがその裏づけとなっている。
- 家元を始め、構成員たちは筆が立つ者が多い。そのため単行本や、あるいは雑誌への連載など、文筆の世界で目にすることが多い。
- 厳しい実力主義を唱え、実際にそれを実践している為、特にAコースの真打ちの実力が確かである一面があるものの、団体自体は家元である談志のカリスマ性によって維持されている面がある事は少なからず否定できず、その為、談志が大病を患ったりすると、芸能マスコミなどでも立川流の今後について話題に上る事がある。実際、この『談志後』は立川流にとって一つの大きな課題といえるものであるが、当の本人たちはといえば『談志が死んだ―立川流はだれが継ぐ』という本を出してしっかりとネタにしている。
[編集] 沿革
[編集] 誕生以前の前史
落語立川流の誕生とは直接の関係はないが、落語協会分裂騒動は間接的に関わってくる重要なエピソードである。
1978年5月9日、落語協会に分裂騒動が勃発した。当時協会が推し進めていた大量真打昇進制度をめぐり、協会会長5代目柳家小さんと前会長6代目三遊亭圓生が対立、3代目古今亭志ん朝、7代目立川談志ら一部の幹部が圓生に同調し脱会の動きを見せた。
5月24日、圓生主導による新団体落語三遊協会設立には圓生一門、7代目橘家圓蔵と弟子の5代目月の家圓鏡(現:8代目橘家圓蔵)、志ん朝が参加。談志は最も強力な賛同者と目されていたものの、公式発表直前に突如として協会残留の意向を示し、この新団体に参加する事はなかった。
翌5月25日、上野鈴本演芸場・新宿末廣亭・浅草演芸ホール・池袋演芸場の各寄席達の席亭会議で、それまで新協会の出演を賛成していた席亭達は、当初は落語協会の半数が落語三遊協会に移籍する予定だったが、当初よりも規模が縮小された、落語三遊協会に落語協会と一本化しなければ寄席を使わせない事を通告。この為、末廣亭席亭・北村銀太郎の仲介で5月31日に圓蔵、圓鏡、志ん朝は協会に復帰。結局圓生一門のみ殆どが翌6月1日に協会を離脱し、落語三遊協会を結成する事になった。
なお、圓生没後、落語三遊協会は自然消滅し、分裂騒動は圓生派の事実上の総敗北に終わった。1980年2月1日総領弟子5代目三遊亭圓楽一門を除く全弟子は落語協会に復帰したが、圓楽一門は復帰せず、圓楽一門は大日本落語すみれ会結成。1990年に円楽一門会に改名し現存する。
落語協会ではこの騒動後、真打昇進に関して師匠推薦に代わり「真打昇進試験」制度を導入する。
なお、この騒動は圓楽と談志が黒幕になって圓生を動かし仕掛けたという説も存在している。目的は彼らのライバルであり、当時は将来の落語協会会長と目されていた志ん朝の香盤を落とす事であったとされている[2]。しかし、最終的に協会に戻った志ん朝は、会長小さんの温情という形[3]で香盤が下がらなかった。
この談志黒幕説の真偽の程はいずれにせよ、談志にとっては甚だ面白くない騒動の落着であった事は間違いが無い。
[編集] 誕生
1983年の落語協会真打昇進試験では、林家源平、柳家小里ん、林家種平、林家上蔵 (現:3代目桂藤兵衛)、蝶花楼花蝶(現:7代目蝶花楼馬楽)、林家正雀、古今亭八朝、林家らぶ平、立川談四樓、立川小談志(現:喜久亭寿楽)の10名が受験した。当時理事であった談志が不在中、談志の弟子2人(談四樓と小談志)が不合格となる一方、林家三平の弟子で、力量が明らかに劣ると思われた源平が合格した(他の合格者は小里ん、花蝶、正雀)。談志はこの試験の結果と考査基準に異を唱え、大半の弟子とともに脱会、立川流落語会を創設した。談志は家元制度を確立し、初代家元となる。
[編集] 結果
圓生一門脱会事件の結果、東京の常設寄席席亭は番組編成上、落語協会・落語芸術協会以外の出演は困難であるとした。その為立川流は、一門として寄席に出演する意志は当初から持たず、変わりにホールでの落語会を中心に活動している。「日本すみずみ出前寄席」という企画では99,800円で真打1人、二つ目2人、前座1人の計4人を全国各地に派遣した。また、「余一会」などの若手中心の寄席番組には立川流一門からも二つ目くらいまでの若手が参加する場合もある。
他方、落語協会ではこの事件により会長小さんの就任以来の懸案であった真打昇進制度改革は事実上の頓挫に追い込まれた。結果、真打昇進試験は撤廃され、旧来の師匠・会長・席亭の三者合意の制度に戻った[4]。以降、真打昇進制度は一部の抜擢を例外とすれば事実上の年功序列で機械的に運用されている。
[編集] 出演場所
トップの談志をはじめ、志の輔、談春、志らくという売れっ子たちは自分の独演会を積極的に開き、独演会の活動を主にしている。
他の者が出演する場は、立川流の一門会である。いわば彼らの定席である。
- 立川流日暮里寄席
- JR・京成日暮里駅前のホテル・ラングウッド内「日暮里サニーホール」で毎月開催されている一門の定期興行。前座から真打まで一門の噺家が複数出演する。一般2000円
- 立川流広小路寄席
- 地下鉄上野広小路、JR・地下鉄御徒町「お江戸上野広小路亭」で毎月開催されている一門の定期興行。前座から真打まで一門の噺家が複数出演する。一般2000円
- 荒川区防犯寄席
- 東京都荒川区が防犯イベントとして年数回開催する無料の寄席。立川流専門ではないが、立川流一門の出演が圧倒的に多く、真打クラスも多く出演している。
[編集] 立川流顧問
[編集] 組織構成
立川流にはA・B・Cの3コースがある。Aコースは落語家、Bコースはビートたけし他の芸能人を中心とする有名人、Cコースは一般人で構成され、それぞれ昇進基準が異なる。
[編集] 昇進基準
Aコースの職業落語家には噺のほか、舞踊などの修得が必修とされ、家元の面前での試験により昇進の可否が決定される。B・Cコースの基準はそれに比して緩やかである。Bコース初の真打は、1988年11月昇進の立川藤四楼こと高田文夫であった。
Aコースの弟子は、
の修得が求められる。家元である談志は一方で「持ちネタが2席でも、客を爆笑させることができればよい」としているが、その基準をクリアできる弟子はいないのが現状である。
2002年5月、「二つ目への昇進意欲が感じられない」として、一門の前座6名が破門を言い渡された。2003年5月、復帰試験が行われ、立川談修のみが合格。不合格となった立川志加吾と立川談号は2003年8月に雷門小福門下に移籍し、それぞれ雷門獅篭、雷門幸福となった。立川キウイと立川談大は2004年1月、一門の新年会席上で再度復帰試験が行われたが、判断に窮した談志は真打達に判断を一任。厳しい意見が相次いだが、二つ目では無くあくまでも前座としての復帰という条件を談志が提示、談志の意を汲んだ志の輔の音頭によって、ようやく一門復帰を許された。
[編集] Aコース=弟子
真打
二つ目(師匠別)
- 立川談志門下 - 立川志雲、立川志遊、立川談修、立川キウイ、立川談大、泉水亭錦魚(立川千弗改メ)、立川平林
- 立川左談次門下 - 立川談奈(立川フラ談次改メ)
- 立川談幸門下 - 立川吉幸
- 立川志の輔門下 - 立川志の吉、立川志の八
- 立川志らく門下 - 立川こしら(立川らく平改メ)、立川志らら、立川志ら乃、立川らく朝、立川らく里(立川らくB改メ)、立川らく次、立川志らべ
- 立川らく朝は現役の開業内科医でもあるが、Aコースに転じ、談志直々の二つ目試験にも合格した実力を持つ。現在真打昇進のトライアル中である。
前座(師匠別)
- 桂文字助門下 - 桂文字ら(元:快楽亭小ブラ)
- 立川談四楼門下 - 立川三四楼(元:快楽亭ブラッC)
- 立川談幸門下 - 立川松幸
- 立川志の輔門下 - 立川志の春、立川メンソーレ、立川志のぽん
- 立川談春門下 - 立川こはる、立川春太
- 立川志らく門下 - 立川らく八、立川らく太、立川らく兵
[編集] Bコース
- 立川毒まむ志(毒蝮三太夫)
- 立川錦之助(ビートたけし)
- 立川藤志楼(高田文夫、放送作家。真打)
- 立川文志(佐藤敦之、江戸文字作家。色物真打)
- 立川談遊(山本晋也、映画監督)
- 立川右太衛門(上岡龍太郎、漫才師・タレント)
- 立川藪医志(松岡悟、元警視庁警察学校理事官)
- 立川談七(生原正久、元金丸信秘書)
- ダンカン(タレント)※
- 立川鬼六(団鬼六、作家)
- 立川於春の方(内田春菊、漫画家)
- ミッキー亭カーチス(ミッキー・カーチス、ロカビリー歌手・俳優。真打)
- 立川侊志ん(奥山晄伸、放送作家)
- 立川雄之助(高井研一郎、漫画家)
- 立川不二身(赤塚不二夫、漫画家)
- 立川談デリー(マルカス。インド人。『インド流!』著者。インド料理レストラン(都バス麻布台・外務省飯倉公館向かい 「ブカラ」)と旅行会社を経営)
- 立川流野末陳平(野末陳平、タレント、元参議院議員)
※ダンカンはAコース「立川談かん」からビートたけし門下へ移籍、改名後、1986年2月にBコースへ再入門、そのまま「ダンカン」を名乗る。
[編集] Cコース
[編集] 上納金制度
[編集] 厳しい上納金制度
入門者には、落語立川流への上納金の納付が義務付けられている。
- Aコース
入会金10万円 前座・見習・二つ目は月2万円、真打は月4万円。(但し真打で会費総納入額270万円に達した者は満了となる)
- Bコース
入会金10万円 月々2万円
- Cコース
入会金2万円 月々5千円
※2001年6月より
[編集] 滞納者の弟子に対する厳しい毅然とした処遇
2000年8月、滞納者が多数いる事が発覚した。談志は滞納者に破門を申し付けたが、滞納分の同額から3倍の支払いを条件に復帰を承認する。支払い不能であった立川談々・國志館・志っ平は、そのまま破門。國志館は圓楽門下に移り三遊亭安楽、後に全楽を名乗り、志っ平は10代目桂文治門下に移籍し前助、文治没後柳家蝠丸門下となって二つ目に昇進、柳家小蝠となった。
[編集] 立川流に関する書籍
- 「談志が死んだ──立川流はだれが継ぐ──」(講談社、2003年) ISBN 4-06-212185-9
[編集] 脚注
- ^ 定席とは、年間ほぼ毎日、演芸を開催している寄席が、レギュラーで開催している興行のことである。東京で落語の定席といえば鈴本演芸場・末広亭・浅草演芸ホール・池袋演芸場である。国立演芸場を含む場合もある。立川流が定席に出た、例外的な例は末広亭2006年4月中席の立川藤志楼(主任)、国立演芸場2006年6月上席の立川談笑(落語協会の顔付けに加わる)のみ。
- ^ すなわち、それまでは志ん朝、圓楽、談志であった香盤順を、談志、圓楽、志ん朝に入れ換えようと目論んだ。
- ^ 実際には温情以外にも、騒動の黒幕と言われながらも協会残留を決め込んだ談志に対する、協会幹部の牽制や思惑も含まれていたとされる。実際、同じ出戻り組でも圓蔵・圓鏡などは香盤を落とされている。
- ^ 真打昇進を希望する者に関係者の前で一席やらせる『試験』は、その後も一部の一門で行なわれているが、事実上の通過儀礼であり、この試験結果次第で師匠たちが推薦をするかを決めるなどという重要なものではなくなった。

