三遊亭圓生 (6代目)

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さんゆうてい えんしょう
三遊亭 圓生
三遊亭 圓生
三ツ組橘は6代目圓生一門の定紋である。破門された弟子以外はすべて引き継いでいる。
本名 山﨑松尾
生年月日 1900年9月3日
没年月日 1979年9月3日(満79歳没)
出生地 日本の旗 日本大阪市西区
死没地 日本の旗 日本千葉県習志野市
国籍 日本の旗 日本
民族 日本人
職業 落語家
ジャンル 落語
お笑い
活動期間 1905年 - 1979年

6代目三遊亭 圓生(さんゆうてい えんしょう、1900年9月3日 - 1979年9月3日)は、大阪市西区出身の落語家舞台俳優。本名:山﨑松尾(「﨑」は右上が「大」ではなく「立」)。出囃子は「正札付」[1]

5代目三遊亭圓生継父(母[2]が5代目圓生と結婚した)、5代目三遊亭圓窓は義理の叔父にあたる。また、橘家圓晃(本名:柴田啓三郎)は異父弟。

目次

[編集] 得意演目

100以上もの演目をすべてLP化するという驚異的な企画『圓生百席』(ソニーレコード、プロデューサー京須偕充 、ジャケット撮影篠山紀信)で知られる。落語家としてデビューしたのは子供のときであり、記憶力の良いその年頃に、他の落語家の高座を盗み聞きするだけで(稽古をつけられなくても)覚えていった噺も多いという。演目数は落語史上最も多かったのではないかと言われる。

大阪市西区生まれ。 落語家としての略歴は下段に記載。

NHK連続ドラマ『おはなはん』、『天下御免』等に出演した。志ん生1973年、落語家として2人目の御前公演を依頼され、香淳皇后の古希の祝いの御前で『お神酒徳利(おみきどっくり)』を上演。

1978年落語協会の真打大量昇進に抗議して同協会を脱退(落語協会分裂騒動)。多くの脱退者が落語協会に戻る中、一門で落語三遊協会を結成。

1979年9月3日、79歳の誕生日、千葉県「習志野文化ホール」で開催された 後援会の集いで小噺『桜鯛』を演じた直後、心筋梗塞を発症。同日夜半過ぎに急逝した。 79歳没。

奇しくも上野動物園のジャイアントパンダ(ランラン)が1979年9月4日に死んだため、翌朝の新聞のトップ記事は全てパンダであった。

後日、津田沼の習志野文化ホール入口近くに圓生を偲ぶ石碑が建立された(現存)。

演目の多さで知られる。得意とした演目に『一人酒盛』、『文七元結(ぶんしちもっとい)』、『淀五郎』、『五人廻し』、『真景累ヶ淵(しんけい かさねがふち)』、『死神』、『鰍沢』、『三十石』、『牡丹灯籠』、『百川』、『豊竹屋』、『らくだ』、『御神酒徳利』、『唐茄子屋政談』、『首提灯』、『一つ穴』、『大山詣り』、『お若伊之助』、『文違い』、『妾馬』、『またかのお関』、『梅若礼三郎』、『ちきり伊勢屋』、『無精床』、『盃の殿様』、『双蝶々』、『芝居風呂』、『てれすこ』、『小言幸兵衛』等。『開帳の雪隠』の主な演者でもある。三遊派ゆかりの人情噺から滑稽噺、芝居噺、さらには怪談まで非常に幅広いジャンルを演じ分けて見せた名人であった。

[編集] 経歴

  • 1905年 - 子供義太夫として初舞台。
  • 1909年6月ないし7月 - 落語家に転向。4代目橘家圓蔵に弟子入りし二つ目としてデビュー、高座名は橘家圓童。
  • 1916年 - 橘家小圓蔵と改名。
  • 1920年3月 - 真打昇進し5代目橘家圓好を襲名。
  • 1922年2月 - 師匠圓蔵の死去に伴い、義父圓窓が5代目橘家圓蔵襲名に伴い、4代目三遊亭圓窓を襲名。
  • 1925年1月 - 義父圓蔵が5代目三遊亭圓生を襲名したことにともない、6代目橘家圓蔵を襲名。5代目三遊亭圓窓は義理の叔父である三遊亭圓都が襲名した。
  • 1941年5月 - 6代目三遊亭圓生を襲名。
  • 1945年 - 3代目桂梅團治を東京に呼び寄せる。1952年客分格弟子となり2年後の3月に2代目三遊亭百生を襲名させる。
  • 1964年3月31日 - 2代目百生が死去。
  • 1964年 - 落語協会副会長就任。
  • 1965年 - 落語協会会長就任。
  • 1972年 - 落語協会会長辞任。同会顧問となる。
  • 1978年 - 落語協会分裂騒動で一門弟子を連れ、落語協会を脱退し落語三遊協会を設立し会長となるが、2番弟子さん生・3番弟子好生が協会に残留したため両名を破門、芸名を強制的に返却させる(さん生は川柳川柳、好生は春風亭一柳と改名)。
  • 1979年3月29日 - 歌舞伎座で落語家初の独演会。演目は『首屋』『怪談乳房榎』『掛取万歳
  • 1979年 - 79歳の誕生日に高座で小噺を演じた直後に心筋梗塞で倒れ急死。葬儀には破門された弟子も駆けつけた。

[編集] 残された作品

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[編集] 俳優業

[編集] CM

[編集] 書籍

[編集] 本人著

  • 『寄席育ち』青蛙房、1965 
  • 明治の寄席芸人 青蛙房 1971
  • 私の履歴書 第50集 日本経済新聞社 1974
  • 寄席楽屋帳 青蛙房 1976 
  • 寄席切絵図 青蛙房 1977.11
  • 江戸散歩 集英社 1978.1 のち朝日文庫 
  • 噺家かたぎ PHP研究所 1979.12
  • 浮世に言い忘れたこと 講談社 1981.10 のち旺文社文庫 
  • 円生・噺のまくら 講談社 1981.11 「噺のまくら」朝日文庫 
  • 書きかけの自伝 旺文社文庫、1985
  • 古典落語 円生集 飯島友治編 1989-90 ちくま文庫
[編集] 口演集
  • 『圓生全集』全十巻、青蛙房、1960-62 
  • 『圓生全集 別巻』全3巻、青蛙房、1968 
  • 『圓生全集 追悼編』青蛙房、1980 
  • 『圓生古典落語』(集英社文庫、全5冊、1979-80)
  • 円生人情噺 中公文庫、1980(全3冊)
  • 円生好色ばなし 朝日文庫、1988 
  • 圓生の落語 1-4 河出文庫、2010 
[編集] DVD
  • 『落語研究会 六代目 三遊亭圓生 全集 上』 ソニー・ミュージックダイレクト(2009年9月2日発売)
    • Disc1:妾馬('66)、三十石('66)、芝居風呂('66)、浮世床('66)、首提灯('67)
    • Disc2:紀州('69)、五人廻し('69)、一文惜しみ('69)
    • Disc3:お祭佐七('69)、大名房五郎('69)(宇野信夫 作)、双蝶々('69)
    • Disc4:鰍沢('70)、中村仲蔵('70)
    • Disc5:引越しの夢('70)、木乃伊取り('71)
    • Disc6:小言幸兵衛('71)、火事息子('72)、髪結新三・上('73)
    • Disc7:らくだ('72)、唐茄子屋政談('72)、
    • Disc8:鼠穴('72)、百年目('73)
    • Disc9:猫定('73)、文違い('73)
    • Disc10:庖丁('73)、掛取万歳('73)
    • Disc11:なめる('74)、大山詣り('75)
    • Disc12:蛙茶番('75)、三年目('75)、一人酒盛('75)
  • 『落語研究会 六代目 三遊亭圓生 全集 下』 ソニー・ミュージックダイレクト(2010年3月3日発売)
    • 【DISC 01】文七元結(1975年)/淀五郎(1976年)
    • 【DISC 02】死神(1976年)/御神酒徳利(1976年)
    • 【DISC 03】浮世風呂(1976年)/雁風呂(1976年)/三十石(1977年)
    • 【DISC 04】盃の殿様(1977年)/猫忠(1977年)
    • 【DISC 05】寝床(1977年)/小言幸兵衛(1977年)
    • 【DISC 06】牡丹灯篭~栗橋宿(1977年)/百川(1978年)
    • 【DISC 07】三軒長屋 上(1977年)/三軒長屋 下(1978年)
    • 【DISC 08】居残り佐平次(1977年)/江戸の夢(1978年)
    • 【DISC 09】後家殺し(1978年)/品川心中(1978年)
    • 【DISC 10】佐々木政談(1979年)/能狂言(1979年)
    • 【DISC 11】お藤松五郎(1979年)/唐茄子屋政談(1979年)
    • 【DISC 12】水神(1978年)/豊竹屋(1978年)/蟇の油(1979年)

[編集] エピソード

[編集] 出自について

母親が5代目三遊亭圓生と再婚したため、5代目圓生を「親父」と呼んでいた(当人同士に養親子関係はないが、いわゆる“義理の親子”であった)。

子供義太夫から落語家に転向した理由は躓いて胸を打ち付け医者から「これ以上声を出し続けると早世する」と言われ転向を余儀なくされたため。

新宿に長年住み、当時の地名から「柏木(の師匠)」とも呼ばれた。

「あたしは20世紀の生れでげすから」が口癖だったが、上にもある通り4ヶ月ほどの差で19世紀の最後の年の生れである。「志ん生、文楽、正蔵よりは若い」というニュアンスで言っていた。「~げす」、「~がす」、「~やす」など、日常的に江戸言葉を使っていた最後の噺家とされる。8代目正蔵もほぼ同世代(正蔵は5歳上)であるが、彼は江戸言葉というよりは東京弁を主に使っていた。

[編集] メディアへの露出・利用について

当時の落語界にあって、メディアへの露出・利用については極めて先進的な考え方の持ち主で、テレビにもその黎明期から積極的に出演した。弟子の圓楽圓窓笑点メンバーを務めていた時代は『笑点』に不定期であるが出演。師弟大喜利で弟子と罵倒合戦をしたり、鶴亀大喜利に出演したり、演芸コーナーで落語を披露したり、笑点500回記念の際は、演芸コーナーで圓生、圓楽、圓窓の三人でリレー落語を行ったりと番組を盛り上げていた。

落語のレコード化にライフワークとして取り組み、『圓生百席』(当初『三遊亭圓生人情噺集成』として刊行されたものを含む)は延べ収録時間110時間をゆうに超え、のちにCD化されたものではCD126枚(他にセットには特典盤2枚付)に及ぶという、日本の演芸界でも他に類を見ない大作で、芸人圓生とプロデューサー圓生の真剣勝負だったともいわれている。 今でこそ珍しくないことだが、前例の乏しい当時、音源記録へ自身の落語を残そうと取り組んだ功績は大きい。

[編集] 落語観について

名手として極めて高い評価をほしいままにしていた圓生ではあるが、その一方で、落語観となると新作落語とこれを手がける落語家を徹底的に否定し、古典落語絶対至上主義ともいえるほどに守旧的に凝り固まった考え方の持ち主であった。 その姿勢が弟子の可能性の芽を摘んでいたことも否定できない面である。弟子の中でも圓丈は師匠の目を気にしながら古典落語の合間に新作落語を披露していたが、圓生の死を契機に新作だけを演じるようになり、現在では新作落語の旗手として認知されている。

[編集] 人間関係について

芸人仲間の好き嫌いが極端にはっきりしていたために、人間関係の悶着が少なくないことでも有名であった。圓生と同時代に落語の世界に身を置いていた者からの圓生に対する評価は、落語の話術などの評価では一様に掛け値なしの名人とされても、その人間性となると一転して批判も多い。

特に8代目林家正蔵(後の林家彦六)とは最後までそりが合わなかったことで知られ、その関係は正蔵が5代目蝶花楼馬楽を名乗っていた頃から悪く、6代目三遊亭圓生襲名当時、「あの人に(6代目が)務まる訳がない」と酷評された事に起因する(圓楽が雑誌取材で明かしていた)。なお、彦六は一時期師匠扇遊亭金三(後の3代目三遊亭圓遊)と共に4代目圓蔵一門に所属していた事もあった。 さらに悪化してしまったのは、圓生が落語協会会長を引退した時である。圓生の次は、歳と芸歴、落語協会副会長の順からすれば正蔵だったが、協会幹部達は圓生の次は5代目柳家小さんだと暗黙の了解を取っていた。会長の圓生は形だけでも作ろうと思い、圓生は「正蔵さん、会長をやって下さいよ」と正蔵に会長就任を要請したが、正蔵は「いやぁ、私はそんな柄じゃないよ」と一応断り、もう一度頼まれれば会長を引き受けるつもりだったが、圓生が「あぁ、そうですか」と言って帰ってしまったため、2人の対立関係は決定的になってしまったという、持ちネタの『紀州』さながらの挿話が伝えられている。なお、それまで笑点師弟大喜利で隣り合わせで座っていたのが、この一件以降は実現しなくなった(正蔵が再び師弟大喜利に出演するのは圓楽の弟子楽太郎がメンバーとなって以降。余談だがこの「楽太郎」という高座名を与えたのは圓生である)。

天敵とされ何かにつけて衝突を繰り返した圓生と8代目正蔵だが、芸の実力は認めており、正蔵の弟子・林家正雀は『落語百景』(別冊歴史読本/新人物往来社)の中で、「圓生師匠がお亡くなりになったときも、青山斎場に出向いたウチの師匠は、落語の祖・安楽庵策伝の研究で知られる名古屋在住の関山和夫先生に言ってました。「これほどの名人はもう二度と出ないんだから、関山先生、大いに圓生師匠のことを褒めてやって下さいよ」と。感動しましたね」と、語っている。また、二人の持ちネタが被っていた事もあり、正蔵は圓生の高座を気にしており、時にはステテコ姿のままスピーカー前に行き、じっと聞き入っていたとも語っている。同様に8代目桂文楽も圓生の高座の出来を気にしたと言われている。

正蔵の弟弟子で新作主体であった通称「鬼の馬風」こと4代目鈴々舎馬風を徹底的に否定し、「あの人のは落語ではない」とまで言っていた。遣られた馬風も売り言葉に買い言葉で、「何言ってやがる。落語はどうのと目やにとりやがって」と罵倒して応酬。一方、圓生はこれをクスグリに使って応酬と、まさに落語史に残る憎悪合戦であり、落語協会にとっては懸念材料でもあった。そのため、1963年12月15日に馬風が死去した際には、「馬風師匠が亡くなられてすぐに圓生師匠が落語協会会長に成られたのだから、馬風師匠にはかえって良かったかもしれない」と、馬風に同情しつつもその死に胸をなで下ろした者が多かった。

7代目橘家圓蔵には目を掛けていたものの、その弟子である初代林家三平については繰り返し芸風を酷評・痛罵しており、三平一門すらをも駄目扱いしていた。三平の方でも、表面上は知らん顔をしていたが罵られている事実はちゃんと掴んでおり、これが後述する落語協会分裂騒動が勃発した際の三平一門の身の振り方に繋がることとなる。

このほか、若手時代にともに子供落語家から成長した6代目春風亭柳橋の高座を見て、「この男はどこまで上手くなるのか」と危機感を持っていたが、戦後の落語研究会の高座で、圓生が『妾馬』で好評だったのに対して、柳橋が散々な出来だったので圓生は自信をつけたというエピソードや、東京落語会で『鼠穴』を演じた際にトチリが入り、しばらくしてようやく思い出し落語を続けたあと「あたくしもおいおいに桂文楽になる」と言い放った(これは8代目桂文楽がトチリを理由に引退したことを掛けたブラックジョークである)ことなども知られる。この様に、ライバルと目された落語家に対して複雑な感情を持ち、ゆえに対人関係も複雑であった。

人間関係の対立が目立って多い人物という一面があったため、圓生自身の死去の際にも、落語関係者にはその死は惜しみつつも、内輪の会話では「良かった」「ようやっと死んでくれた」と安堵を見せる者が続出したという。

特に圓生の偏狭さを示す逸話として語られるのが弟子の三遊亭好生との関係である。好生は「圓生の影法師」と呼ばれるほど芸風から立ち振る舞い、容姿までが圓生の若い頃(「下手な真打」だと揶揄されていた時期)に似ており、圓生は一種、近親憎悪のような感情を抱いていたとされる。圓生は8代目春風亭柳枝門下から移籍してきた弟弟子の圓窓と圓彌を先に真打昇進させ、好生の昇進時には改名を認めないなど、好生を冷たく扱い続けた。圓生を深く敬愛していた好生だったが、最後には敵視するほど関係が悪化。1978年の落語協会分裂騒動で、好生は圓生に従わずに落語協会に残って破門され、天敵正蔵の客分格弟子となり、名を春風亭一柳と改めた。一柳は圓生が亡くなると自宅に駆けつけ、亡骸の前で号泣したが、その後に自著で「圓生が死んで嬉しかった」と罵倒するなど、複雑な感情を抱いていたことが伺える。やがて一柳は精神的に不調をきたし、圓生死後の1981年、自宅のある葛飾区金町のアパート屋上から飛び降り自殺してしまった。圓生との対立による長年の心労が最大の原因になったと見ている者は多い。

好生と同じく圓生から冷遇された弟子に三遊亭さん生がいた。新作落語や漫談を専ら演じ、また酒癖の悪さから圓生宅の玄関で脱糞するなどの騒動を起こし、師匠から疎んじられていた。客受けの良かったさん生には兄弟子の全生(後の5代目圓楽)よりも先に真打昇進の打診があった。周囲の推薦によるもので、圓生が同意すれば通る話であったが、圓生は「真打に値しない」として本人にも知らせずに辞退してしまった。さん生が真打昇進したのはずっと後年のことである。前述の好生の場合と同様、さん生は落語協会分裂騒動で師匠に従わずに破門された。その後は小さんの客分格弟子となり、川柳川柳と改名している。

真打大量昇進に端を発する落語協会分裂騒動が起きた時には、圓生が代表者となって立ち上げた落語三遊協会に思ったほど人が集まらないという事態が起き、やがては圓生の死と三遊協会の事実上の総敗北という形で騒動の終焉に至るが、これも圓生の人間性や守旧的な落語観が要因の一つになったとされる。当初の見込みでは、落語協会に不満を抱く落語家は多く、過半数の落語協会員が新協会側に移る胸算用であった。しかし林家三平を筆頭に、圓生を忌避して新協会への参加を見送ったと思しき者が続出し、圓生一門ですら折り合いが良くなかった好生とさん生が参加しない有様で、最終的は圓生一門だけが落語協会を飛び出す羽目になってしまった(圓丈は自著でこの騒動の真の仕掛け人を圓楽としているが、圓生の存在が逆に仇となったのは、圓楽にとっても大誤算であったといわれている)。

川柳家の坊野寿山を師匠にして、圓生が世話役で、文楽、志ん生らが会員の、川柳の勉強会「鹿連会」を長年やっていた。だが、圓生の死後に寿山が執筆した『粗忽長屋』(創拓社)で、「ケチで金に細かい」人物であったエピソードを多数、暴露されている。

  • 圓朝塚のある全生庵に、圓生が「圓生塚」を作るので、寿山に「塚の文を書いて欲しい」と頼んだが、その後、まったく礼もなく、新宿中村屋の一番安いパンを持ってきただけだった。しばらくして「圓生塚」で法事をしたので寿山は「香典」を出したが、「香典返し」もなかった。
  • 圓楽が売れだしたが、彼が病気のため、圓楽の仕事を圓生が代わりに行ったことがある。帰ってきた圓生は「圓楽はふざけた野郎ですよ。あたしより高いお給金をもらっているんですから。」と怒っていた。
  • 「圓生全集」を出版した時、本来、本を進呈すべき寿山などの「世話になっている人々」にも、圓生は本を売りつけた。
  • 落語協会を脱退後、歌舞伎座で独演会をやるというので、圓生からの年賀状に「切符を三百枚さばいてくれないか」と書いてあった。寿山ひとりでは、とても三百枚もさばけないと思っていると、同じ文面の年賀状が三通も届いた。
  • おしゃれであったが、服が汚れるのを嫌い、子供がすりよってくると身をよじってよけた。また、桐の下駄に穴をあけた時、「唾で直るんじゃないか」とその穴を懸命に舐めていたことがある。

力量のある者に対しては素直に認めていた面もあり、東宝名人会の楽屋では主任の席に座っていたところ後から入ってきた6代目柳橋に場所を譲っていた。また、名人と謳われた5代目古今亭志ん生について、「道場の試合では十のうち七太刀くらい打ち込む自信はあるが、野天の試合(真剣勝負)だと七太刀くらい斬られる」と評している。芸術協会の人気落語家・3代目春風亭柳好に対しては、序列は上でも構わないので落語協会の方に来て欲しいと思っていたという。

気難しさと茶目っ気が入り混じった性格で、機嫌のいい時には駄洒落を言って喜んでいた。1960年代に流行ったゴーゴーダンスの感想を聞かれ「へへ。ゴーゴー道断(言語道断)でげす」と答えた。弟子と東北に地方巡業で列車に乗っている時、「お前、これから寒くなるよ」「どうしてです」「ほれ、もう郡(氷)山だ」と言って、みんなを笑わせていた。しかし、その一方では、「師匠はよくセコい洒落を言ってみんなを喜ばせようとしなすったんだが、笑わないと機嫌が悪くなるんです」と弟子がこぼしている。また、弟子の生之助を連れて食事に行った時も、「あたしゃ、カレーライス。お前、なンにする」と聞いておいて「じゃあ。ビーフシチューでも」と言った生之助に「馬鹿野郎っ!師匠よりも高いもの食う奴があるか!」と一喝したり、その話を聞いていた圓彌が一緒に食事した時に「なんでもお頼み。ビフテキでもなんでも」と言われて「いえ師匠。あたしはカレーが好きでして。」「ウフフフ。お前、何でも注文おしよ。ビーフシチューでもビフテキでも」と優しげに尋ねたりという調子で、弟子が「自分の分」をわきまえているか否かには厳しかった。その時々の虫の居所次第という一面があるなど、常に周囲に神経を使わせる扱いの難しい人物であったことを窺わせるエピソードも散見される。

[編集] 芸に対する姿勢について

出囃子は『つくま祭』だったが、同じ曲を使う3代目桂三木助芸術協会から落語協会への移籍に前後して共演の機会が増えてきたため、『正札附(しょうふだつき)』に変えた。

高座では真剣そのもので、客の心ないヤジにも毅然とした態度をとっていた。ある日、高座に上がるや否や客席から「いよう!色男!」と掛け声が飛んだ。圓生は顔色一つ変えず、声のあったほうを睨みつけて「あなたほどではございません。」

大阪出身である所以からか、噺中に関西人の登場する場面のある場合、船場の商人は商人言葉(あきんどことば)で、大阪の長屋衆なら正しい大阪弁で、京都の人なら正しい京言葉で、しかも江戸時代の噺と明治以降の噺とではちゃんと言葉柄を使い分けるなど細かいニュアンスに至るまで、正しい関西弁を口演でき、それでいて江戸っ子の台詞が関西弁に引っ張られて怪しくなることもない、という稀有な異能の噺家であった(大概の場合、「上方噺家の使う江戸言葉、標準語」「江戸前落語家の使う関西弁」は、たとえどんなにうまく演じようとも、何れも夫々の地の者からすれば若干不自然に聞こえるものである)。なお、弟子の圓丈に金明竹を習得させる際、名古屋弁版への改作を助言し、名古屋で幇間の経験がある7代目圓蔵に稽古をつけさせている。

出身地大阪には特別な拘りがあり、度重なる誘いを受けても芸の未熟を理由に大阪で演じる事は拒み続けた。その代わり、桂梅團治が東京へ移駐した際には特別に身内として扱い、2代目三遊亭百生を名乗らせた上で、東京で上方落語を演じ続けさせた。3代目桂米朝とは米朝の師匠4代目桂米團治を通じて懇意にしていたようで、米朝の噺の枕に圓生のエピソードが屡々登場するとともに、噺の組み立てにも随所に影響が散見される。

非常に稽古熱心だったといわれている。弟子の中で可愛がられていた圓丈の体験談として、「寄席の帰りに一緒に車に乗って帰ると、車に乗り込みドアが閉まった瞬間にもう稽古をしていた。」「泊まりの旅でお供した時、ぐっすり眠って翌朝師匠に挨拶をしたら、『眠れなくて午前2時から今までずっと稽古をしていた』と言われた。」などがある。

「芸は、いつも動いてなくちゃいけやせん。それでないと噺が死にやす」という持論を持ち、完全に噺の仕方を固めてしまうのではなく、わざと固めない部分を残しておき、そこからまた噺の出来を伸ばす、という方法を取っていた。噺を教えるときも、主語と述語を意図的にあいまいにし、同じ噺でも人によってそれぞれ微妙に違うように教えた。

弟子に対して、前座のうちに他の噺家のところに稽古に行くことを禁止していた。「前座のうちによそのところへいくと変な癖がつきやすから」というのがその理由であった。しかし誰もがそれを守っていたわけではないようで、圓丈は師匠に隠れてこっそり稽古に行っていたことを述懐している。

[編集] 受賞

[編集] 弟子

現役落語家は川柳・圓窓・圓丈・圓龍のみ。

[編集] 脚注

  1. ^ 歌舞伎で単に6代目と言えば尾上菊五郎だが、落語界で6代目と言えば圓生を指すとされる(上方では6代目笑福亭松鶴を指す事もある)。
  2. ^ ただしこの母は実母ではない。戸籍上では母親は山崎さだとなっているが、圓生は実際は実父の松田万助と女中だった柴田セイの間の子供である。
  3. ^ 第8回民放大会賞(1960.4.21)入選・事績 - NAB LOCAL - ラジオの部・娯楽部門より

[編集] 関連項目

個人用ツール
名前空間
変種
操作
案内
ヘルプ
ツールボックス